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2017/05/17

柴田宵曲 續妖異博物館 「朱雀の鬼」

 

 朱雀の鬼

 

「撰集抄」に鬼の話が二つある。一つは都良香が朱雀門のほとりで靑柳の風になびくのを見て、「氣霽風梳新柳髮」と詠じ、あとの句を考へてゐると、朱雀門の上から大きな聲で「氷消波沈舊苔鬚」と付けたといふ有名な話である。これは赤鬼で白いたふさきをしてゐたといふから、まだ虎の皮の褌は使用しなかつたらしい。もう一つは源經信が九月ばかりの月明の夜に、砧の音のほのかにするのを聞いて、「から衣うつ聲聞けば月きよみまだねぬ人をそらにしるかな」といふ四條大納言の歌を口ずさんだところ、前栽の方に當つて「北斗星前横旅雁。南樓月下擣寒衣」といふ詩を高らかに吟ずる者がある。何人かと驚いてその方を見やると、長(たけ)二丈もあらうと思はれる、髮の逆樣に生ひたる者であつた。思はず「八幡大菩薩たすけさせ給へ」と祈念したら、何の祟りをしようぞ、と云つてその者は搔き消すやうに見えなくなつた。目擊者の經信が「さだかにいかなるものゝ姿とは見えも覺えず」と云ふのだから、穿鑿のしやうもないが、「撰集抄」の作者は、朱雀門の鬼であつたらうかと推測してゐる。

[やぶちゃん注:「都良香」(みやこのよしか 承和元(八三四)年~元慶三(八七九)年)は平安前期の貴族文人。ウィキの「都良香」によれば、『姓は宿禰のち朝臣。初名は言道。主計頭・都貞継の子。官位は従五位下・文章博士』。『文章生から文章得業生を経』、貞観一二(八七〇)年に少内記(中務省直属官で詔勅・宣命・位記の起草・天皇の行動記録を職掌とした内記の次官級)に任官、翌貞観十三年には、『太皇太后・藤原順子の葬儀に際して、天皇が祖母である太皇太后の喪に服すべき期間について疑義が生じて決定できなかったために、儒者たちに議論させたが、良香は菅原道真とともに日本や中国の諸朝の法律や事例に基づき、心喪』五ヶ月で『服制不要の旨を述べ』ている。貞観一四(八七二)年には『式部少丞・平季長とともに掌渤海客使を務める一方、自ら解文を作成して言道(ことみち)から良香への改名を請い、許されている』。貞観一五(八七三)年、『従五位下・大内記に叙任され』、二年後の貞観十七年『以降は文章博士も兼ねた』。貞観十八年に、『大極殿が火災に遭った際、廃朝及び群臣が政に従うことの是非について、明経・紀伝博士らが問われた際、良香は同じ文章博士の巨勢文雄とともに、中国の諸朝において宮殿火災での変服・廃朝の例はないが、春秋戦国時代の諸侯では火災に対して変服・致哭の例があることから、両者を折衷して廃朝のみ実施し、天皇・群臣は平常の服を変えるべきでないことを奏し、採用されている』。『詩歌作品を作る傍らで、多くの詔勅・官符を起草し』、貞観一三(八七一)年より『より編纂が開始された『日本文徳天皇実録』にも関与したが、完成する前』に亡くなった。『漢詩に秀で歴史や伝記にも詳しく、平安京中に名声を博していた。加えて立派な体格をしており腕力も強かった。一方で貧しくて財産は全くなく、食事にも事を欠くほどであったという』。『各種伝承を記した『道場法師伝』『富士山記』『吉野山記』等の作品もある。『富士山記』には富士山頂上の実情に近い風景描写がある。これは、良香本人が登頂、または実際に登頂した者に取材しなければ知り得ない記述であり、富士登山の歴史的記録として重要である』。『漢詩にまつわる説話が複数伝えられており、後世においても、漢詩人として評価されていたことが窺われる』。『良香が晩夏に竹生島に遊んだ際に作ったという「三千世界は眼前に尽き。十二因縁は心裏に空し。」の下の句は竹生島の主である弁才天が良香に教えたものであるという(『江談抄』)。』『また、活躍時期がやや異なるにもかかわらず、良香と菅原道真が一緒に登場する説話・逸話が見られ』(道真の方が九歳歳下。若き日の道真の試験の際の問答博士を彼は勤めている)、『良香の家で門下生が弓遊びをしていた際、普段勉学に追われていることから、とうていうまく射ることはできないであろうと道真に弓を射させてみたところ、百発百中の勢いであった。良香はこれは対策及第の兆候であると予言し、実際に道真は及第したという(『北野天神縁起』)』。『菅原道真に昇進で先を越されたことから、良香は怒って官職を辞し、大峯山に入って消息を絶った』。百『年ほど後、ある人が山にある洞窟で良香に会ったところ、容貌は昔のままで、まるで壮年のようであったという(『本朝神仙伝』)』などである。

「たふさき」漢字表記「犢鼻褌」を見れば判る通り、後の褌(ふんどし)のような、男が下穿きとして着用したもの。下袴(したばかま)。「たふさぎ」とも表記する。

「源經信」(長和五(一〇一六)年~永長二(一〇九七)年)は平安後期の公家・歌人。官位は正二位・大納言で「桂大納言」と号した。「小倉百人一首」の第七十一番「夕されば門田の稻葉おとづれて蘆のまろやに秋風ぞ吹く」(「金葉和歌集」秋之部・第一八三番歌)の作者「大納言經信」として知られる。大納言から大宰権帥となって大宰府で没した。漢詩文・琵琶にも秀で、有職故実にも通じた多才多芸の人として、当代の歌壇に重きをなした。「祐子内親王家名所歌合」をはじめとして、多くの歌合に参加、「高陽院殿七番和歌合」などの歌合の判者も務めた。和歌のあり方として典雅な声調美と情趣ある趣向を求め、歌作は客観的叙景歌の観照によいものがある。藤原通俊の撰進した「後拾遺和歌集」を低く評価し、「後拾遺問答」「難後拾遺」を書いて強く論難している。家集に他撰になる「大納言経信集」、日記に漢文体の「帥記(そちき)」がある(平凡社「世界大百科事典」等に拠った)。

「四條大納言」藤原公任(康保三(九六六)年~長久二(一〇四一)年)の号であるが、誤りで、以下の歌は紀貫之(貞観八(八六六)年或いは貞観一四(八七二)年)頃?~天慶八(九四五)年?)の歌である。

「から衣うつ聲聞けば月きよみまだねぬ人をそらにしるかな」「新勅撰和歌集」の紀貫之の一首(第三二三番歌)、

  擣衣(たうい)の心をよみ侍りける

 唐衣(からころも)うつ聲きけば月きよみまだ寢(ね)ぬ人をそらに知るかな

である。

「二丈」六メートル六センチ。

「北斗星前横旅雁。南樓月下擣寒衣」劉元叔(生没年未詳/晩唐か?)の「妾薄命」(しょう はくめい)の賦の一節(彼の作品はこの一篇のみが伝わる)。「和漢朗詠集」の「卷上」の「擣衣(たうい)」にも載る、実は当時は知られた一節であった。

 以上は(以下の話柄番数と標題は所持する一九七〇年岩波文庫刊の西尾光一校注版のもの)「撰集抄」の「卷八」の第三話(第二話「都良香詩の事」の続きで岩波文庫版では「朱雀門鬼の詩の事」とする)と、同じ「卷八」の第三十一話「經信大納言の前に鬼神出現の事」である。上記岩波文庫版で示す。漢詩は孰れも底本には従わず、前後を行空けして白文で出し、次行に( )で訓読文を示した。読みは一部のみに附した。踊り字「〲」は正字化した。

   *

 延喜の初めつかた、都良香、如月の十日比(ごろ)、内へ參りけるに、朱雀門(すざくもん)のほとりにて、春風に靑柳のなびきけるをみて、

  氣霽風梳新柳髮

  (氣 霽(は)れては 風 新柳(しんりう)の髮を梳(けづ)り)

と詠じて、下の句をいはむとて、打案(あむ)ずるに、朱雀門の上より、赤鬼の白(しろ)たうさぎして、もの怖しげなる、大なる聲して、

  氷消波洗舊苔鬚

  (氷 消えては 波(なみ) 舊苔(きうたい)の鬚(ひげ)を洗ふ)

とつけて、かき消すごとくに失せにけりとなん。

 この詩、心ことば、たぐひなくぞ侍る。げに、風大虛(たいきよ)に吹けば、氣は四方に晴て、靑柳髮(かみ)と見えて風に梳(けづ)れり。はじめて氣はるる春にもあれば、新柳と云も心よろしかるべし。鬼のつくる下の句、又ありがたくぞ侍るべき。水は氷に閉(とぢ)られて、みぎはの舊苔すすがるゝ世もなきを、氣はれて新柳風に梳(けづ)る。春は氷(こほり)ひらけて、苔の根やゝ水に洗(あら)れ、柳を髮とすれば、苔、鬚とする。木草の本末(ほんまつ)なる心までこめたり。かへすがへすおもしろき詩也。

   *   *

 經信の帥大納言、八條わたりに住み給ひける比、九月ばかりに、月のあかゝりけるに、ながめしておはしける。砧(きぬた)の音の外に聞こえ侍れば、四條大納言の歌、

  からころも打つ聲聞けば月淸みまた寢ぬ人をそらに知るかな

と詠じ給ふに、前栽(せんざい)のかたに、

  北斗星前橫旅鴈 南樓月下擣寒衣

  (北斗の星前に旅鴈(りよがん)橫(よこた)ふ 南樓の月の下に寒衣を擣(う)つ)

といふ詩を、まことに恐しき聲して、高らかに詠ずる者あり。たればかりか、かくめでたき聲したらんと思ひおどろきて見やりたまふに、たけ一丈五六尺も侍らんとおぼゆるが、髮のさかさまにおひたる物にて侍り。「こはいかに。八幡大菩薩たすけさせ給へ」と、祈念し給へるに、この物、「何かはたゝりをなすべき」とて、かき消ち失せ侍りぬ。さだかに、いかなりし物のすがたとは覺えずと語り給へりけり。朱雀門の鬼なんどにや侍りけん。それこそ其比(ころ)、さやうのすき物にては侍りしか。

   *

「一丈五六尺」四メートル五十四センチから四メートル八十五センチほど。但し、慶安三年本では「一丈あまり」(一丈は三メートル三センチ)とさらに低い。]

 京都の鬼は羅生門の專賣になつた觀があるが、あれは渡邊綱の武勇傳が出た爲で、「今昔物語」あたりを管見しても鬼の事は見當らぬのみならず、羅生門に關する事柄は芥川龍之介の小説の題材になった一條の外にあまりない。もし當時に鬼の噂が多少でもあつたならば、いくら慾と二人連れにしろ、死人の髮を拔くだけの目的の下に、老婆の身で門の上層まで登る勇氣は出なかつたに相違ない。

[やぶちゃん注:「渡邊綱の武勇傳」「羅生門類話」に既出既注。

「芥川龍之介の小説の題材になった一條」芥川龍之介の「羅生門」は「今昔物語集」の「卷第二十九」の「羅城門登上層見死人盜人語第十八」(羅城門(らせいもん)の上層(うはこし)に登りて死人を見る盜人(ぬすびと)の語(こと)第十八)を種本とする。こことは関係ないが、「羅生門」は誰でも知っているが、実は原典は読まれることが意外に少ないように思う(私は教育実習を含め、高校教師時代で総計二十回近く「羅生門」を授業したのだが、唯の一度も原典をプリントして読ませた記憶がない。原話は圧倒的に面白くないからである)。短いので引いておく。

   *

 今は昔、攝津の國邊(ほと)りより、盜みせむが爲に京に上りける男(をのこ)の、日の未だ明かりければ、羅城門の下に立ち隱れて立てりけるに、朱雀(しゆじやく)の方に人重(しげ)く行(あり)きければ、

「人の靜まるまで。」

と思ひて、門の下(した)に待ち立てりけるに、山城の方より、人共の數(あまた)來たる音のしければ、

「其れに附見(み)えじ。」

と思ひて、門の上層に和(やは)ら搔(かか)つり登りたりけるに、見れば、火、髴(ほのか)に燃(とも)したり。

 盜人、

「怪し。」

と思ひて、連子(れんじ)より臨(のぞ)きければ、若き女の死にて臥したる有り。其の枕上(まくらがみ)に火を燃して、年極(いみ)じく老いたる嫗(おうな)の白髮(しらが)白きが、其の死人の枕上に居て、死人(しにん)の髮をかなぐり拔き取る也けり。

 盜人、此れを見るに、心も不得(え)ねば、

「此れは若(も)し、鬼にや有らむ。」

と思ひて、怖(おそろ)しけれども、

「若し、死人にてもぞ有る。恐(おど)して試む。」[やぶちゃん注:「鬼」(鬼神)と「死人」(死霊)が全く異なる階層と影響力を持つ別存在として無学な庶民レベルでも広く区別されて認識されていたことがここで見て取れる。]

と思ひて、和(やは)ら戸を開きて、刀を拔きて、

「己は。」

と云ひて走り寄りければ、嫗、手迷(てまど)ひをして、手を摺りて迷へば、盜人、

「此(こ)は何ぞの嫗の、此(かく)はし居(ゐ)たるぞ。」

と問ひければ、嫗、

「己(おのれ)が主(あるじ)にて御(おは)しましつる人の失せ給へるを、繚(あつか)ふ人の無ければ、此(かく)て置き奉りたる也。其の御髮(おほむかみ)の長(たけ)に餘りて長ければ、其れを拔き取りて鬘(かつら)[やぶちゃん注:かもじ。頭髪を豊かに見せるための添え髪。]にせむとて拔く也。助け給へ。」

と云ひければ、盜人、死人の着たる衣(きぬ)と、嫗の着たる衣と、拔き取てある髮とを奪(ば)ひ取りて、下(お)り走いて、逃げて去りにけり。

 然て、其の上(うへ)の層(こし)には、死人の骸(かばね)ぞ多かりける。死にたる人の葬(はうぶり)など否不爲(えせぬ)をば、此の門の上にぞ置きける。

 此の事は、其の盜人の人に語りけるを聞き繼ぎて、此く語り傳へたるとや。

   *]

 博雅三位と云へば、蟬丸が流泉啄木を彈ずるのを聞かんがために、夜々逢坂まで出かけて行つて、その庵の邊を徘徊すること三年に及んだといふ逸話で知られてゐるが、この人は單に琵琶だけに堪能だつたのではない。月明に乘じて朱雀門の前に遊び、夜もすがら笛を吹いたことがある。その時同じやうに直衣(なうし)を著て笛を吹く人があり、その笛の音が世にたぐひのないものであつたので、不思議に思つて近寄つて見たところ、一向に見識らぬ人であつた。此方から言葉もかけず、先方も何も云はず、月夜每に落ち合つて笛を吹くことが度重なつたが、その人の笛の音があまりにめでたいので、ためしに取り替へて吹いて見たら、その笛がまた世にあるまじき名管であつた。月夜に落ち合つて吹くことは猶續いたが、別に返してくれとも云はぬため、つい取り替へたまゝになつてしまつた。博雅の歿後、帝(みかど)がこの笛を笛吹きどもに吹かせられても、一人も博雅のやうな音を出す者がない。その後に淨藏といふ笛の名手が出て、この人は博雅に劣らぬくらゐであつたから、帝御感の餘り、この笛の主は朱雀門のほとりで得たと聞く、汝彼處に行きて吹け、と仰せられた。淨藏畏まつて月夜の朱雀門で吹いた時、門の樓上から聲高らかに、猶逸物かなと賞めた者がある。歸つてこの旨を奏し、はじめて鬼の笛であることが明かになつたと「十訓抄」に見えてゐる。

[やぶちゃん注:「博雅三位」源博雅(みなもとのひろまさ 延喜一八(九一八)年~天元三(九八〇)年)は平安中期の公卿で雅楽家。ウィキの「源博雅」によれば、『醍醐天皇の孫。兵部卿・克明親王の長男。官位は従三位・皇后宮権大夫。博雅三位(はくがのさんみ)、長秋卿と呼ばれる。管弦の名手』。『臣籍降下し、源姓を賜与され』、承平四(九三四)年に『従四位下に叙せられ』、その後、中務大輔・右兵衛督・左中将を経て、天延二(九七四)年に『従三位・皇太后宮権大夫に叙任』された。『雅楽に優れ、楽道の伝承は郢曲』(えいきょく:当時の日本の宮廷音楽の中で「歌いもの」に属するものの総称。語源は春秋戦国時代の楚の首都郢で歌われたという卑俗な歌謡に由来)『を敦実親王に、箏を醍醐天皇に、琵琶を源脩に、笛は大石峰吉、篳篥』(ひちりき)『は峰吉の子・富門と良峰行正に学んだ。大篳篥を得意とするが、舞や歌は好まなかった』。天暦五(九五一)年に『内宴で和琴を奏』し、康保三(九六六)年には『村上天皇の勅で『新撰楽譜(長秋卿竹譜)』(別名『博雅笛譜』)を撰する。現在でも演奏される『長慶子』の作曲者』である。天徳四(九六〇)年に行われた、所謂、「天徳四年内裏歌合」に『講師として参加、歌(和歌)を詠ずる役であったが、天皇の前で緊張し、出されていた歌題とは異なる歌を読んでしまうという失敗をしたという逸話もある』。『朱雀門の鬼から名笛「葉二(はふたつ)」を得、琵琶の名器「玄象(げんじょう)」を羅城門から探し出し、逢坂の蝉丸』(後注参照)のもとに三年間、通い続け、『遂に琵琶の秘曲「流泉(りゅうせん)」「啄木(たくぼく)」を伝授されるなど、今昔物語などの多くの説話に登場する。また、言い伝えによると酒に強く、酒豪であったともいわれている』。『性格について藤原実資はその日記『小右記』で「博雅の如きは文筆・管絃者なり。ただし、天下懈怠の白物(しれもの)なり」と評している』とある。

「蟬丸」(せみまる 生没年不詳)は歌人で音楽家とされ、「小倉百人一首」第十番歌として「後撰和歌集」の雑一の第一〇八九番歌を元とする「これやこの行くも歸るも別れては知るも知らぬも逢坂(あふさか)の關」(原歌は「これやこの行くも歸るも分かれつつ知るも知らぬも逢坂の關」)で人口に膾炙するが、事蹟不詳で、多分に伝説化された人物である。古くは「せみまろ」とも読まれた。ウィキの「蝉丸」によれば、出自については宇多天皇の皇子敦実親王の雑色(ぞうしき)であるとか、醍醐天皇の第四皇子であるとか諸伝があり、『後に皇室の御物となった琵琶の名器・無名を愛用していたと伝えられる。また、仁明天皇の時代の人という説もある』。『管弦の名人であった源博雅が逢坂の関に住む蝉丸が琵琶の名人であることを聞き、蝉丸の演奏を何としても聴きたいと思い、逢坂に』三年もの間、通い続けた末、遂に八月十五日の晩に『琵琶の秘曲『流泉』『啄木』を伝授されたという』(「今昔物語集」の「卷第二十四」の「源博雅朝臣行會坂盲許語第廿三」(源博雅朝臣、會坂(あふさか)の盲(めしひ)の許(もと)に行く語(こと)第二十三))。『他にも蝉丸に関する様々な伝承は『今昔物語集』や『平家物語』などにも登場している』。また、能にも四番目物の狂女物に「蝉丸」という『曲がある。逆髪という姉が逢坂の関まで尋ねてきて』、二『人の障害をもった身をなぐさめあい、悲しい別れの結末になる』。但し、『この出典は明らかでない』。『近松門左衛門作の人形浄瑠璃にも』「蝉丸」があり、そこでは『蝉丸は女人の怨念で盲目となるが、最後に開眼する』という展開になっている。

「直衣(なうし)」現代仮名遣「のうし」 は「直(ただ)の服」の意で、天皇以下貴族の平常時に着る服。束帯の袍(ほう)と同じ形ではあるが、位階による色目・文様の制限がなく、通常は烏帽子(えぼし)と指貫(さしぬき)の袴(はかま)〔幅をたっぷりと広く採った裾に括(くく)り緒のある袴。〕を用いる。勅許を得た者は、この直衣姿のままでも参内することが出来た。雑袍(ざっぽう)とも呼ぶ。

「淨藏」(寛平三(八九一)年~康保元(九六四)年)は天台僧で父はの公卿で漢学者でもあった三善清行。ウィキの「浄蔵」によれば、『宇多法皇に師事して出家。比叡山で玄昭に密教を、大慧に悉曇を学んだ』という。「扶桑略記」によれば、延喜九(九〇九)年のこと、怨霊となって藤原時平に祟っているとされた『菅原道真を調伏しに行くが、時平の両耳から青竜に化』した道真が現れて祈禱を制止したことから、『調伏を辞退した。その後、ほどなくして時平は死去したという』。承平五(九三五)年から天慶三(九四〇)年『にかけて平将門が関東で乱をおこすと、その調伏のため修法を行い霊験があり、その他にも験があたったという。美声の声明』(しょうみょう)『を行うことでも知られ、また天文・医薬にも通じていた』とされる。この笛の話も彼の霊験的エピソードとしてはかなり有名なものである。

 以上は「十訓抄」の「第十 才藝を庶幾(しよき)すべき事」(「庶幾」(しょき)とは「心から冀(こいへが)うこと」の意)にある以下。一九四二年岩波文庫刊の永積安明校注本で引用する。踊り字「〱」は正字化した。歴史的仮名遣の誤りはママ。

   *

 博雅三位、月のあかゝりける、夜なほしにて、朱雀門の前にあそびて、よもすがら笛をふかれけるに、おなじさまなる人きたり、笛を吹きけり。誰ならむとおもふほどに、その笛の音、このよにたぐひなくめでたくきこへければ、あやしくちかくよりて見れば、いまだ見ぬ人なりけり。われも物もいはず、かれ物もいふ事なし。かくのごとく、月のよごとに行あひて、ふく事、よごろに成ぬ。彼人の笛の音、ことにめでたかりければ、心みに、かれをとりかへて吹けるに、世になきほどの笛なり。その後、なをなを月比は行逢て吹けれど、本の笛をかへしとらんともいはざりければ、やがてながくかへへてやみにけり。三位うせて後、御門此笛をめして、時の笛吹どもにふかせられければ、其聲ふきあらはす人なかりけり。その後、淨藏といふめでたき笛吹有けり。めしてふかせられけるに、此三位にをとらざりければ、御門感じ給て、「この笛のぬし、朱雀門の邊にて得たりけるとこそ聞け。淨藏かの所に行きて吹。と仰せられければ、月のよかしこに行て、此笛を吹ければ、樓門の上に、高く大なる聲にて、「なを一物や」とほめけるを、かくとそうしければ、はじめて鬼の笛としろしめしてけり。葉二と名づけて、天下第一の笛なり。其後つたはりて、御堂入道殿の御物に成にけるを、宇治殿、平等院をつくらせ給ひける時、御經藏に納められにけり。この笛には葉二あり。一つはあかく、一つはあをし。朝每につゆををくといひ傳へたれば、京極殿、御覽じける時は、赤葉落ちて、露をかざりけると、富家入道殿、かたらせたまひけるとぞ。笛には、皇帝・圖亂旋・師子・荒序、是を四秘曲といふ。それにをとらず秘するは、萬秋樂の五六帖なり。笛の寳物には靑葉・葉二・大水龍・小水龍・頭燒・雲太丸、此等なり。名によりて、をのをの由緒ありといへども、ことながければ略す。

   *

笛の名「葉二」は「はふたつ」と読むようである。「御堂入道殿」は藤原道長、「宇治殿」は藤原頼通、「京極殿」は藤原師実、「富家入道殿」は藤原忠実である。]

 その頃宮中に玄象といふ琵琶の名器があつた。撥の面に黑い象が畫いてあるので、玄象と名付けられたのである。昔から靈物と云はれただけに、内裏燒亡の時も、人の取り出さぬ前に飛び出して、大庭の椋(むく)の木の末にかゝつて居つた。村上天皇の御代にこの琵琶が紛失したが、朱雀門の鬼が盜んだといふ評判で修法が行はれた。玄象は頭に緒を付けて、朱雀門の上から下ろされた、とこれも「十訓抄」にある。「古今著聞集」にも同じく祕法を二七日修し、修法の力によつて朱雀門の上から下ろされたと書いてある。最も委しいのが「今昔物語」で、例の博雅三位が淸涼殿に於て遙かに琵琶を彈ずるのを聞き、その音を慕つて行くことになつてゐる。但それによると、朱雀門まで行つてもまだ南に聞えるので、朱雀大路を南に向ひ、羅生門に達する。門の上に彈ずるのが玄象に相違ないのを慥かめて、博雅はこゝまで音を尋ねて來た次第を告げたところ、天井から琵琶が下つて來たといふのである。朱雀門にしろ、羅生門にしろ、前の笛の場合と同じく、結果から見て鬼の仕業と推定するまでで、鬼の盜むのを見た者は誰もない。いやしくも鬼である以上、見付けられるやうなへまはしないのが當然かも知れぬ。

[やぶちゃん注:「玄象」(げんじやう(げんじょう))は古い時代の御物とされる琵琶の名。「玄上」「絃上」と書く場合もあるが、「玄象」は仁明(にんみょう)天皇(弘仁元(八一〇)年~嘉祥三(八五〇)年)/在位:天長一〇(八三三)年~嘉祥三年)の御世の御物の琵琶であり、「弦上」と書く方はそれから凡そ百年後の村上天皇(延長四(九二六)年~康保四(九六七)年/在位:天慶九(九四六)年~康保四年)遺愛の御物の琵琶であったともされる。同名異物・同名同物、さて、孰れなのか? 少なくとも、後に掲げる「今昔物語集」のエピソードでは、「村上天皇の御代に、玄象と云ふ琵琶、俄かに失せにけり。此れは世の傳はり物にて、極(いみ)じき公けの財(たから)にて有るを、此(か)く失せぬれば、天皇、極めて歎かせ給ひて、此かる止事無(やんごとな)き傳はり物の我が代にして失せぬる事と思(おぼ)し歎かせ給ふ」とあるから、これは同じものととるべきである

「二七日」掛け算で十四日間。

 まず、「十訓抄」のそれは先と同じ「第十 才藝を庶幾すべき事」の以下である。底本は先に同じで、踊り字「〱」は「々」に変更した。激しい歴史的仮名遣の誤りは総てママである。

   *

 大宰大弐資通は、琵琶に名を得たりける上、これに心を入たること、人に勝れて、しばしもさしおく事なかりけり。殊なる念誦もせず、每日持佛堂に入て、佛前にて比巴を引て、人に數をとらせて、是を廻向し奉けり。能心にしめる也けり。然れども、みかどより玄象を給はりて、引けるに、いとしらべゑざりければ、濟政三位、これを聞て、「玄象こそ腹立ちにけれ。」と謂れけり。後に、かの資通の弟子、經信卿、調べ得ざりければ、「濟政言へることあり。今もその詞の如し。」とぞ、時のひと云ける。これは、此人々の未ㇾ至おりの事にや。覺束なし。かの玄象、もとは唐の琵琶の師、劉二郎が琵琶なり。深草の御門の御時、掃部頭貞敏が唐に渡りて、琵琶習ひける時の琵琶なり。紫檀の甲の繼ぎ目なきにてあるなり。されども、「唐人は信せず」とぞ、基綱の大貳はいわれける。ある人説に云、「玄象は、玄上宰相の琵琶なり。其主の名を付けたるによりて、玄上と書けり。」と云事もあり。猶唐人の琵琶と見えたり。撥面に黑き象をかけるによりて、玄象といふとぞ。むかしより靈物にて、内裡燒亡のときも、人のとり出ださぬ前に飛出て、大庭のむくの木の末にぞかゝれりける。あるときは、朱雀門の鬼に盜まれたりけり。これを求んために、修法おこなはれければ、門の上より、頸に緒を付て下せりなど、語り傳えたり。今の世には、此道に至らぬ人ひかんとすれば、必さわり出來と云り。琵琶の秘曲には、上玄・石上・流泉・白子・楊眞操・啄木也。是を名付て、胡渭州三曲とは云也。比巴の名物は、玄象・牧馬・井手・渭橋・木繪・元興寺・小琵琶・無名、是等也。名に付て皆子細あれども、事長ければ記さず。

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「大宰大弐資通」は源資通(寛弘二(一〇〇五)年~康平三(一〇六〇)年)で、後に出る「濟政三位」源済政の長男。従二位・参議。歌人である以上に管弦に秀で、琵琶を先に出た源経信に教授している。和歌の心得もあり、藤原彰子に仕えて和泉式部・紫式部などと親交した知られた伊勢(大輔)や菅原孝標女らと交流を持った。「濟政三位」は源済政(なりまさ 天延三(九七五)年~長久二(一〇四一)年)のこと。正四位上・播磨守。管絃の名手として知られ、宮中での御遊でもしばしば笛を担当している。「深草の御門」仁明天皇。前の「玄象」の注の下線部を参照。「掃部頭貞敏」(かもんのかみさだとし)は藤原貞敏(大同二(八〇七)年~貞観九(八六七)年)。従五位上・掃部頭。刑部卿藤原継彦の六男。ウィキの「藤原貞敏」によれば、承和二(八三五)年、『美作掾兼遣唐准判官に任ぜられ(この時の位階は従六位下)る。二度の渡航失敗を経て』、承和五(八三八)年、『入唐し長安に赴く。貞敏は劉二郎(一説に廉承武)という琵琶の名人に教えを請うために砂金』二百両『を贈った。劉二郎は「往来を行うのが貴い礼であり、請うなら、伝えよう」と言って、すぐに』三『調の琵琶を授けると、貞敏は』二、三ヶ月の『間に妙曲を習得してしまった。劉二郎はさらに数十曲の楽譜を贈って、「師匠は誰か、既に日本で妙曲を学んできたのか」と問うたところ、貞敏は「(音楽は)累代の家風で、特に師匠はいない」ことを答えた。劉二郎は感心して、自らの娘(劉娘)を貞敏に娶らせるが、劉娘は箏に優れ、貞敏はさらに新曲を数曲学んだという』。承和六(八三九)年の『貞敏の帰国にあたって、劉二郎は送別の宴を開き』、『紫檀と紫藤の琵琶各』一『面ずつを贈ったという。同年』、八月に『貞敏は琵琶の名器「玄象」「青山」(ともに仁明天皇の御物)及び琵琶曲の楽譜を携えて日本に帰国する。なお、一説では貞敏は唐で結婚した妻を連れて帰国し、妻は日本に箏を伝えたともいう』。翌九月には『渡唐の功労により正六位上に叙せられ』、その翌月には『仁明天皇臨席の元』、『紫宸殿で開催された宴において琵琶の演奏を披露している』。帰国後は三河介・雅楽助などを経て従五位下に叙せられ、承和一四(八四七)年に『雅楽頭に昇格すると、仁明朝末から文徳朝にかけてこれを務めた』。『若い頃から音楽を非常に愛好し、好んで琴を学んだが、琵琶が最も優れていた。他に才芸ははなかったが、琵琶の演奏をもって三代(仁明・文徳・清和)の天皇に仕えた。特別な寵遇を受けることはなかったが、その名声は高かった』。『また、多くの琵琶の秘曲を日本にもたらしたことから、琵琶の祖とされる』とある。中国人の妻を連れて帰国した辺り、いいね。「基綱の大貳」藤原基綱。「玄上宰相」公卿藤原玄上(はるうら/はるかみ/くろかみ 斉衡三(八五六)年~承平三(九三三)年)。藤原南家。中納言藤原諸葛の五男。従三位・参議で刑部卿兼帯。『管絃に優れ、琵琶の名手とされるとともに、和琴の名器「玄上(玄象)」は玄上の持物であったという』とウィキの「藤原玄上」にある。

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 次に「古今著聞集」であるがこれは至って短い。「卷第十七 變化」の「二七日の祕法に依りて琵琶玄象顯はるる事」である。但し、同書には玄象の記載が多く載る。

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昔、玄象(げんじやう)のうせたりけるに、公家おどろきおぼしめして、祕法を二七日修(しゆ)せられけるに、朱雀門のうへより、くびに繩をつけておろしたりける。鬼のぬすみたりけるにや。修法のちからによりておろしたりける。むかしはかく皇威も法驗(はうげん)も嚴重なりける、めでたき事也。

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 次に「今昔物語集」。「卷第二十四」の「玄象琵琶爲鬼被取語第廿四」(玄象といふ琵琶、鬼の爲に取らるる語(こと)第二十四)。□は欠字。

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 今は昔、村上天皇の御代に、玄象と云ふ琵琶、俄かに失せにけり。此れは世の傳はり物にて、極(いみ)じき公けの財(たから)にて有るを、此(か)く失せぬれば、天皇、極めて歎かせ給ひて、

「此かる止事無(やんごとな)き傳はり物の我が代にして失せぬる事。」

と思(おぼ)し歎かせ給ふも理(ことわり)也。

「此れは人の盜みたるにや有らむ。但し、人、盜み取りらば、可持(たもつべ)き樣無(やうな)き事なれば[やぶちゃん注:他の伝承が伝える、琵琶玄象は弾くに値しない者が触れるとその人物に災いが起こるとされたことを指しているように読め、最後の、玄象が下手な奏者に対しては人間のように腹を立てるということへの伏線ともなっている。]、天皇を不吉(よから)ず思し奉る者、世に有りて、取りて損じ失ひたるなんめり。」

とぞ疑はれける。

 而る間、源博雅と云ふ人、殿上人(てんじやうびと)にて有り。此の人、管絃の道極めたる人にて、此の玄象の失ひたる事を思ひ歎きける程に、人皆、靜かなる後(のち)に、博雅、淸涼殿にして聞きけるに、南の方に當りて、彼の玄象を彈く音、有り。極めて怪しく思へば、

「若し僻耳(ひがみみ)か。」[やぶちゃん注:「もしや、これはただの聴き違いだろうか?」。]

と思ひて、吉(よ)く聞くに、正(まさ)しく玄象の音也。博雅、此れを可聞誤(ききあやまるべ)き事に非ねば、返々(かへすがへす)驚き怪しむで、人にも不告(つげず)して襴姿(なほしすがた)にて、只一人、沓(くつ)許りを履きて、小舍人童(こどねりわらは)[やぶちゃん注:ここは殿上の間に対して奉仕する小童。]一人を具して、衞門(ゑもん)の陣を出でて南樣(ざま)に行くに、尚、南に此の音有り。

「近きにこそ有りけれ。」

と思ひて行くに、朱雀門(しゆじやくもん)に至りぬ。尚、同じ樣に南に聞ゆ。然(しか)れば、朱雀の大路を南に向きて行く。心に思はく、

「此れは、玄象を人の盜みて、□樓觀(らうくわん)にして蜜かに彈くにこそ有りぬれ。」

と思ひて、急ぎ行きて、樓觀に至り着き、聞くに、尚、南に糸(いと)近く聞ゆ。然れば、尚、南に行くに、既に羅城門(らせいもん)に至りぬ。

 門の下(した)に立ちて聞くに、門の上の層(こし)に玄象を彈く也けり。博雅、此れを聞くに、奇異(あさま)しく思ひて、

「此れは人の彈くには非らじ。定めて鬼(おに)などの彈くにこそは有らめ。」

と思ふ程に、彈き止みぬ。暫く有りて亦、彈く。其の時に、博雅の云く、

「此れ、誰(た)が彈き給ふぞ。玄象、日來(ひごろ)失せて、天皇、求め尋ねさせ給ふ間(あひだ)、今夜(こよひ)、淸涼殿にして聞くに、南の方に此の音、有り。仍(より)て尋ね來たれる也。」

と。

 其の時に彈き止みて、天井より下るる物、有り。怖しくて、立ち去(の)きて見れば、玄象に繩を付けて下(おろ)したり。然(しか)れば、博雅、恐れ乍ら、此れを取りて、内(うち)に返り參りて、此の由を奏して、玄象を奉りたりければ、天皇、極じく感ぜさせ給ひて、

「鬼の取りたりける也。」

となむ被仰(おほせられ)ける。此れを聞く人、皆、博雅をなむ讃(ほ)めける。

 其の玄象、于今(いまに)公けの財(たから)として、世の傳はり物にて内に有り。此の玄象は生きたる者の樣にぞ有る。弊(つたな)く彈きて不彈負(ひきおほせざ)れば、腹立(はらた)ちて不鳴(ならぬ)なり。亦、塵(ちり)居(ゐ)て不巾(のごはざ)る時にも、腹立て不鳴なり。其の氣色(けしき)、現(あら)はにぞ見ゆなり。或る時には、内裏に燒亡(ぜうまう)有るにも、人、不取出(とりいでず)と云へども、玄象、自然(おのづか)ら出でて庭に有り。

 此れ、奇異の事共也、となむ語り傳へたるとや。

   *

その昔、三十年前、私の好きなこの源博雅や琵琶「玄象」の話を古文の授業でしても、まず、誰一人として反応しなかった。それがかの「陰陽師」ブームで(安倍晴明のお友だち設定だったからね)、博雅の名が爆発的に知られるようになると、逆に話を聴きに来たり、押しかけで関連の漫画を貸してくれる女生徒(概ねそうだった)まで現われたのを懐かしく思い出す。それはそれで良いことだったと私はあの何だかな流行には感謝はしている。]

 以上列擧したところでわかるやうに、朱雀門の鬼は詩歌を解し、管絃を弄し、頗る風流心に富んでゐる。渡遽綱の兜の錣(しころ)を摑んで、片腕を斬り落される羅生門の鬼とは大分違ふ。「井華集」にある左の句はその風流心を認めたものであらうが、特に月を持ち出したのは、月夜の話がいくつもあるためと思はれる。

 

      月前懷古

   名月や朱雀の鬼神たえて出ず   几董

 

[やぶちゃん注:句の前後は一行空けた。前書は底本ではポイント落ちである。

「井華集」「せいくわしふ(せいかしゅう)」と読む。江戸後期の高井几董(きとう 寛保元(一七四一)年~寛政元(一七八九)年:京都の俳諧師高井几圭の次男。明和七(一七七〇)年、三十で与謝蕪村に入門、入門当初より頭角を現し、蕪村を補佐して一門を束ねるまでに至った。天明三(一七八四)年に蕪村が没すると、直ちに「蕪村句集」を編むなど、俳句の中興に尽力した)の自撰句集で全二巻。寛政元(一七八九)年刊。同句集はサイト「俳句の森」ので全部を読むことが出来る。]

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