譚海 卷之二 京極家士正木太郎太夫事
京極家士正木太郎太夫事
○戸田采女正(うねめのしやう)家の士に、正木太郎太夫と云(いふ)者あり。力量人にこへ劍術鍛錬なりしが、道の奧儀を祈請して遠州秋葉山に千日こもり、權現より鐡のくさりを授りえて歸る。此くさり魅魅魍魎盜賊の難等を避(さく)る事神(しん)有(あり)、因て諸人正木氏に懇望して、くさりを鑄(い)てもらひ、戸内(こない)にかけ災難を遁(のがる)るまじなひとするなり。此太郎太夫安永年中まで現在せし人也。
[やぶちゃん注:「京極家」「戸田采女正」この目次の「京極家」と「戸田」氏の関係性が私にはよく判らぬ。後者は「正木太郎太夫」の絡みで美濃国大垣藩藩主の戸田家であることは間違いない(十一代に及ぶ藩主は二人を除いて総て「采女正」である)のだが。識者の御教授を乞う。
「正木太郎太夫」名前及び事蹟と没年から見て、剣客として知られた正木俊光(元禄三(一六九〇)年~安永五(一七七六)年)である。ウィキの「正木俊光」によれば、『剣術では正木一刀流、薙刀術・鎖鎌術・分銅鎖術(万力鎖)では正木流または変離流を称した。俊充、利充の表記もある。通称、庄左衛門 - 団之進 - 段之進 - 太郎太夫』。『大垣藩士、正木利品(太郎太夫)の養子で』七歳で『居合(伝系は不明)を父親に学』び、十八歳で『古藤田俊定(弥兵衛。古藤田一刀流』三『代目)に学び、後に俊定の門人、杉浦正景(平左衛門。唯心一刀流)を師とした』。正徳三(一七一三)年二十三歳の時、『三河国鳥居刑部左衛門宅を訪問した際に香取時雄(金兵衛)に会い、先意流薙刀術を学ぶ。後に先意流の祖、信田重次(一円斎。重治とも)に入門して免許を受けた』。『俊光は、これらの諸流に槍術や遠当の術(目潰し袋を投げつける術)を合わせ、「変離流」と称した』。本話に彼が鋳造した鎖が出るが、まさに彼は自身で、宝暦年間(一七五〇年代)に「万力鎖」を発案している。これは長さ二尺三寸(六十九・六九センチメートル)の『鎖の両端に分銅を付けた捕縛用具で、正木流玉鎖、あるいは分銅鎖、正木鎖などともいう。分銅にはさまざまな形状があり、軽量で袖に入れて持ち歩ける。俊光はこの鎖の用法を研究して「守慎流」と称した。また、この鎖は秋葉権現から賜った秘器で、掛けておくだけで盗難・剣難除けの御利益があるとして、鎖を求所望する者のためにひとつひとつ祈祷して渡したという』(下線やぶちゃん)。『俊光は生まれつき大力で』、未だ十二歳の時に、『病気中にもかかわらず』八千五百斤(約二十五貫=約九十四キログラム)の『庭石を動かし』たと伝え、長じては七十斤二貫目(約七・五キログラム)以上の鉞(まさかり)を毎朝八百回振っても、顔色一つ変えなかった、とある。『あるとき、綾川という肥満体の力士と力比べをした。まず、俊光が腰を落としてふんばる綾川を抱き上げた。次に綾川が右手一本で俊光の帯を持ってつり上げた。俊光は「いまのは拙者の目方を見せたまで。今度は両腕でこい」といった。今度は綾川がどんなに腰を入れても』、『俊光の足は地面から離れなかった』といい、『これを「身体軽重自在の術」という』のだそうである。
「秋葉山」現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家の赤石山脈の南端に位置する標高八百六十六メートルの山。この山頂付近に三尺坊大天狗を祀った秋葉寺があった。これは現在、秋葉山本宮秋葉(あきはさんほんぐうあきは)神社となっている。古くから山岳信仰の対象であり、中世以降は修験道の霊場となった。現代では専ら火伏せの神として知られるが、秋葉権現の眷属は天狗であり、義経伝説で彼が天狗から剣術の鍛錬を受けたとするように、人型で超人的な能力を持つ天狗と武術は密接な紐帯があった。
「權現」秋葉山に伝説を残す修験者の神格化された「秋葉三尺坊権現」のこと。白狐に乗り、不動明王と同じく剣と羂索を持った、烏天狗の姿で描かれることが多い。
「神(しん)」神妙なる効験(こうげん)。
「安永年中」一七七二年から一七八〇年。]
« 甲子夜話卷之四 13 松平乘邑、茶事の事 | トップページ | 南方熊楠 履歴書(その32) 熊野習俗 / 隣家との攻防戦 »