南方熊楠 履歴書(その33) 金と法律に冥い我 そんな我を買う旧知
[やぶちゃん注:以下の一段落は、底本では全体が二字下げ。]
催眠術などで御承知の通り、精神強固ならぬうちに尊長のいい聞かしたことは、後年までもその人の脳底に改革できざる印象を押し申し候。シベリアの土民間に、男にして女の心性なるもの多し。これは軍(いくさ)に勝った者が負けた者の命をとるべき処を宥しやり、その代りに以後きっと女になれと言い渡すなり。精神のたしかならざる土民のこととて、それより後は心性全く婦人に化し、一切男子相応の仕事はできず。庖厨(ほうちゅう)縫織(ほうしょく)等の業のみつとめ、はなはだしきは後庭を供して産門に代え、主人の慾を充たしめて平気なるに至る。小生は脳の堅固ならぬうちに、家が商売をするについて金のためにいろいろ人の苦しむを見、前状に申し上げしと思うが、自分の異母姉が博徒の妻となって、その博徒が金の無心に来て拘引されしなどを見、また父が常々、兄が裁判所にのみ出でて金を得て帰るを見て、法律法律というものは人情がなくなる、金を儲(もう)くることが上手でも必ず人望を失うてついには破滅すべしと誨(おし)えしを、幼き脳底に印したので、金銭と法律には至って迂遠(うえん)なるが一つの大玼(たいし)(?)に御座候。研究所を企てるに及んでより、止むを得ず金銭や法律のことをも多少懸念するに至りしも、ほんの用心を加うるというばかりで、このごろの金慾万能の舎弟その他より見れば、まるのおぼうさんたるは論なし。これがために一歎もすれば、また自分の幸福かとも悦び申し候。小生は口も筆も鋭く、ずいぶん人をこまらせたること多き男なれども、今に全く人に見棄てられず。一昨々年三十六年めで上京せし時も、旧知内田康哉伯(当時の外務大臣)、岡崎邦輔氏ら、みな多少以前に迷惑をしたことのある人々なれども、左様の顔をもせず紀州の名物男を保存すべしとてそれぞれ出資され、ことには郵船会社の中島滋太郎氏を始め、旧友という旧友斉(ひと)しく尽力して寄付金を募(つの)り贈られ申し候。(四十七円もち汽車中で牛乳二本のみしのみで上り、三万三千円ばかり持ち帰り申し候。)明智光秀というは主君を弑(しい)した不道の男なり。かつ最期の戟争のやり方ははなはだ拙(つた)なかりし。武勇の甥、明智左馬之介をして、あったところが何の役にも立たぬわずかの軍勢を分かち率いて空しく安土の城を守らせたるがごとし。しかるに山崎の一戦に、その将士はことごとく枕を並べて討死致し候。四方天、並河、内藤を始め、いずれも以前光秀とは敵たりしが止むを得ず降参せし人々なり。それにその人々が一人も背(そむ)かずまた遁れずに光秀のために討死致し候。小生は善悪ともにとても光秀の比較にならぬ男ながら、右申す通り、多くの人々が三十余年、二十余年の後も旧交を念じ、旧怨を捨てて尽力下されしは、小生が金銭と法律のことにあまり明るからざるよりの一得(いつとく)かと存じ申し候。その時集まりし金に本山彦一氏よりの五千円の寄付を合わせて、今も三万九千余円は少しも減らさず、預け有之候。小生の弟は多額納税者ながら三年立ちし四年めの今日まで約束の二万円を出さず、また親戚どもより集まったはずの五千円も寄せくれず。これはやはり小生が金銭と法律に明るからざるの損に御座候。一得一失は免れざるものにやと存じ候。西洋では親が子を罵ることを大いに忌み候。ドイツの昔話に、父が子供三人にみなろくなものなし、烏になれといいしに、たちまち烏と化し飛び去った話あり。笑談にはあらざるも、女になれと言われて女になることもあれば、よりどころなきにあらず。
[やぶちゃん注:「シベリアの土民間に、男にして女の心性なるもの多し」不詳。南方熊楠以外でこのことを記す書や記録或いは文書があれば、是非、御教授戴きたい。大変、興味がある。
「精神のたしかならざる土民のこととて」原本は「たしかならざる」が「たしかなる土民」となっている。底本の編者訂正挿入を正しいと判断して、以上に変更した。
「後庭」肛門。
「産門」膣。
「前状に申し上げしと思うが、自分の異母姉が博徒の妻となって、その博徒が金の無心に来て拘引されしなどを見」この「前状」とは、以前に矢吹に出した手紙を指すのであろう(私は全集を所持しないので確認は出来ない)。この書簡の前の部分には南方熊楠の「異母姉」の以下の事柄は書かれていない。というより、この「異母姉」の存在自体が判らない。私の所持するものにはその記載が全くないからである(熊楠には姉に南方(婚姻して垣内)くま(文久四・元治元(一八六四)年~大正一三(一九二四)年)がいるが、彼女はサイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の解説によれば、『熊楠より三歳年上で』『熊楠の同腹の姉』であるとあり(因みに熊楠は彼女の美貌であることを再三再四自慢している)、くまの夫は推定ながら、医師であり、二人の間に出来た倅(せがれ)も熊楠の書簡(大正一二(一九二三)年九月十六日附田村広恵宛書簡)によれば『東大出の医博』で『今は和歌山にて私立病院を営な』んでいる、とあるから、全然違う)。識者の御教授を乞う。
「大玼(たいし)」「玼」は「傷(きず)」。大きな瑕疵(かし)。
「まるの」まるっきりの。まるのまんまの。
「一昨々年三十六年めで上京せし時」本書簡は大正一四(一九二五)年二月の執筆で、南方熊楠が南方植物研究所設立のための資金集めのために上京したのは、大正一一(一九二二)年三月から八月(但し、その間の七月十七日から八月七日までは上松蓊を伴って日光に採集に行っている)である。この上京から三十六年前は明治一九(一八八六)年で、この年の二月に熊楠は体調不良(精神変調)により東京大学予備門を退学して和歌山に帰った年に当たる(熊楠は明治十六年に和歌山中学を卒業して上京、共立学校で高橋是清に英語を学び、翌年九月に東京大学予備門に合格して入学するも、翌明治十八年十二月の試験で落第していた)。因みに、その明治十九年の十月には父兄から外遊の許可を得、年末の十二月二十二日に横浜より渡米の途に就いている。
「内田康哉伯(当時の外務大臣)」外交官で政治家の伯爵内田康哉(こうさい/やすや 慶応元(一八六五)年~昭和一一(一九三六)年)は明治・大正・昭和の三代に亙って外務大臣を務めた唯一の人物で、外相在職期間は通算七年五ヶ月に及び、これは現在に至るまで最長の記録である。年次経歴は判らないが、ウィキの「内田康哉」によれば、『東京帝国大学法科卒業後に外務省に入省し、ロンドン公使館』に勤務していること、生年とウィキに書かれたその後の経歴及び南方熊楠が「旧知」と言っていること等から推すと、熊楠のロンドン滞在中に知り合ったものと考えてよいように思われる。
「岡崎邦輔」既注であるが、今回はサイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの長谷川興蔵氏の解説から熊楠との関連箇所を中心に引いておく。『岡崎邦輔(旧姓長坂)は和歌山県出身で、明治~昭和期の政党政治家である。陸奥宗光の子分かつ分身として出発し、星亨の懐刀、原敬の片腕として活躍し、立憲政友会の領袖として、衆議院議員当選十回、勅選貴族院議員の略歴をもつ。今日あまりその名が知られていないのは、表舞台に立つことを避け(大臣は、農林大臣に一度なっただけである)、もっぱら党務に専念したからであろう。そのため謀士・策士と呼ばれる一方、私欲のない高潔の士とも評された。もとより和歌山県選出議員であるから、その点で熊楠との関わりはある。しかし二人がもっとも緊密に交際したのは、アメリカのアンナーバー時代』(南方熊楠は一八八八(明治二一)年十一月にミシガン州立農科大学を自主退学(既に述べられた通り、学寮から遁走したのが事実)してアンナーバーに赴き、地衣類や菌類の採集などに専念しつつ、ミシガン大学の日本人留学生とも親しく交際した。但し、彼自身は大学等には入学していない)(『――それも喧嘩相手としてであった』。『岡崎邦輔は』『紀州藩士長坂角弥の次男として生まれた』。『邦輔の母は陸奥宗光の母の妹で、邦輔は十歳も年長の従兄を終生尊敬した。維新後、明治六年には陸奥を頼って上京し、陸奥邸の食客となり、いくつかの役所に出仕したが、明治十一年には郷里和歌山に帰り、警察関係の職務に就いた。十三年には和歌山警察署長になったが、博徒との付き合いが原因となって、翌年十一月免職となった。熊楠はアンナーバー時代、邦輔攻撃の武器としてこの「経歴」をさかんに使っている』。明治二一(一八八八)年に『陸奥が駐米全権公使として渡米した』が、この時、『邦輔も随行した。陸奥は秘書として使うことも考えたようであるが、当時三十六歳の邦輔は英語の読み書きも会話もできなかったので、日本人留学生の最も多かったアンナーバーのミシガン大学に留学することになった』(下線やぶちゃん)。陸奥は『邦輔の「才機」を相当高く買っていて、新しく開かれる議会に送り込む考えを持っていたこと、ミシガン大学の学資も陸奥が出し、川田甕江の娘婿の杉山令吉(熊楠と同船同室で渡米、当時ミシガン大学に留学)に世話を依頼する手紙を書いていることなど』が、『史料的に明らかにされている。ただ、まず小学校初年級に入り、ABCから勉強をはじめたというから、本当に大学に入学したのかどうかも定かではな』く、現在では、『ミシガン大学卒業とあるが、正規の大学課程ではなく、なんらかの特別コースで』で『もあったのであろう』と考えられている(どこかの総理大臣と全く以って同んなじ経歴詐称の臭いがするのは嗅覚を消失した私にさえ嗅げる)。『いずれにせよ、こうして熊楠と邦輔との接点が生じた』。『アンナーバーにおける熊楠と邦輔との対立と確執については『珍事評論』の項を参照されたい』(同じくサイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内の長谷川興蔵氏の『「珍事評論』の撃つもの― 第弐号をめぐって ―」の「V アナバーの対立と確執」の箇所に詳しい。なお、以下省略したミシガン大学を舞台にした日本人留学生の禁酒決議についても、その論文を参照されたい)。その後、岡崎も南方も帰国し、それぞれの道を歩んだが、大正一一(一九二二)年に『植物研究所資金募集のため上京した熊楠は、岡崎と三十年をこえる歳月をはさんで再会した。岡崎は快く寄付に応じ、熊楠も如才なく、色好みの岡崎のために処女を喜ばせる話などをしてサービスしている。以後若干の文通をのぞいて、両者の交遊には語るべきほどのことはない』とある。
「中島滋太郎」(安政七・万延元年(一八六〇)年~昭和一四(一九三九)年)は恐らくこの当時は日本郵船会社重役であったか。彼のことも「旧友」と述べており、中島は日本郵船会社のロンドン駐在員であったことがあるから、そこで或いは知り合っていたかも知れぬが、それ以前の、南方熊楠の外遊前の和歌山出身の友人として熊楠との同性愛的関係にあったと目される羽山繁太郎(はやましげたろう 慶応二(一八六六)年~明治二一(一八八八)年:熊楠より一つ年上)・蕃次郎(はんじろう 明治四(一八七一)年~明治二九(一八九六)年:熊楠より四つ歳下)なる兄弟(没年で判る通り、孰れも夭折している)がいるが、その弟羽山蕃次郎はこの中島と共立学校時代の友人であったとサイト「南方熊楠のキャラメル箱」のこちらの記載にあるが、この「共立学校」は熊楠が明治一六(一八八六)年に上京して英語を学んだ学校であるが、所持する「南方熊楠を知る事典」の羽山兄弟の記載中の南方自身の記述(昭和六(一九三一)年八月二十一日附岩田準一宛書簡)によれば、熊楠が弟蕃次郎と最後に別れた時、彼は十六歳であったとあり(この年齢から考えてこれは熊楠渡米の年明治一九(一八八六)年である)、熊楠が上京して共立学校に学んだ頃は、蕃次郎は未だ満十二歳であるから、同じ時期に蕃次郎がいたわけではなく、「南方熊楠のキャラメル箱」の記載を信ずるなら、中島は熊楠より三つ年上、蕃次郎に至っては十一も年上であるけれども、蕃次郎と共立学校で同窓であったということなのであろう(この時代、これだけの年齢差で同窓というのはそれほどおかしくはない)。
「甥、明智左馬之介」明智秀満(ひでみつ 天文五(一五三六)年?~天正一〇(一五八二)年)明智光秀の重臣。娘婿又は従弟(光秀の父光綱の弟で、幼き日の光秀の後見人であった明智光安の、子)とも言われるが、異説が多い。ウィキの「明智秀満」によれば(明智出自説及び娘婿説で事蹟は書かれてある)、『明智嫡流だった明智光秀の後見として、長山城にいた父・光安に従っていたが』、弘治二(一五五六)年に『斎藤道三と斎藤義龍の争いに敗北した道三方に加担したため、義龍方に攻められ落城。その際に父は自害したが、秀満は光秀らとともに城を脱出し浪人となったとする』。天正六(一五七八)年以降に『光秀の娘を妻に迎えている』。『彼女は荒木村重の嫡男・村次に嫁いでいたが、村重が織田信長に謀反を起こしたため』、『離縁されていた』。『その後、秀満は明智姓を名乗るが、それを文書的に確認できるのは』、天正一〇(一五八二)年四月である。天正九年、丹波福知山城代となっている。『光秀が織田信長を討った本能寺の変』(天正十年六月二日(グレゴリオ暦一五八二年六月二十一日/グレゴリオ暦はこの年の二月二十四日に改定された)『では先鋒となって京都の本能寺を襲撃した。その後、安土城の守備に就き、羽柴秀吉との山崎の戦いでは光秀の後詰めとして打ち出浜で堀秀政と戦うが敗れ、坂本城に入った』。『秀吉方の堀秀政軍に城を囲まれた秀満は、光秀が所有する天下の名物・財宝を城と運命を共にさせる事は忍びないと考え、それら名物をまとめて目録を添え、天守閣から敵勢のいる所に降ろした。そして「寄せ手の人々に申し上げる。堀監物殿にこれを渡されよ。この道具は私物化してはならない天下の道具である。ここで滅してしまえば、この弥平次を傍若無人と思うであろうから、お渡し申す」と叫んだ(『川角太閤記』)。しばらくの後、直政と秀政が現れ「目録の通り、確かに相違ござらぬ。しかし日頃、光秀殿が御秘蔵されていた倶利伽羅の吉広江の脇差がござらぬのは、如何いたしたのか」と返すと「その道具は信長公から光秀が拝領した道具でござる。吉広江の脇差は貴殿もご存じの如く、越前を落とした際に朝倉殿の御物奉行が身に差していたもので、後に光秀が密かに聞き出し、これを求めて置かれたもの。お渡ししたくはあるが、光秀が命もろともにと、内々に秘蔵されていたものなので、我が腰に差して、光秀に死出の山でお渡ししたく思う。この事は御心得あれ」と秀満は返事し、秀政・直政らも納得した』。六月十五日の夜、『秀満は光秀秘蔵の脇差を差したまま、光秀の妻子、並びに自らの正室を刺し殺し』或いは『介錯し、自ら城に火を放って自害したとされる』とある。出自の異説などはリンク先を見られたい。
「四方天」明智光秀の四天王の一人、四方天政孝(しほうてん/しほうでん ?~天正一〇(一五八二)年)。本能寺の変の後、同年六月山崎の戦いで加藤清正に討たれ、光秀に先んじて亡くなっている。
「並河」並河易家(なみかわやすいえ 生没年不詳)光秀家臣。ウィキの「並河易家」によれば、『丹波国亀岡の豪族で、並河城(在・京都府亀岡市大井町並河)の城主と』いわれ、当初は『丹波亀山城主内藤五郎兵衛忠行の家臣』であったが、元亀四(一五七三)年『頃より、信長の丹波侵攻へ協力し、光秀に丹波衆の一人として従うようになった』。天正四(一五七六)年一月、『丹波の赤鬼・赤井直正の策にかかり、波多野秀治が別心、光秀は大敗し、坂本を指して落ち』のびたが、『この時、易家は、松田太郎左衛門』らとともに『案内者を勤め』、『光秀は並河一族の案内でかろうじて丹波を脱出できた』。天正五(一五七七)年、『亀山城主内藤備前守定政が卒去。光秀・長岡忠興(細川忠興)が』、同年十月十六日から『三日三晩亀山城を攻めて降参させ、内藤の家人は光秀の旗下に属した。この時、易家も随ったという』。以後、光秀の腹心として働き、本能寺の変の後、『山崎の戦いでは明智軍右翼先陣として息子の八助と共に出陣した。山ノ手で、堀久太郎(堀秀政)、浅野弾正(浅野長政)父子等と激戦となり』、激戦を展開、五百余人を討ち取ったとされる。『其の後、討死にしたとも、生き延びて、秀吉より大坂で扶助を受け、摂津国で病死した』ともされる。
「内藤」不詳。本能寺の変を受けて、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉軍が天正十年六月十三日(一五八二年七月二日)に摂津国と山城国の境の山崎(現在の大阪府三島郡島本町(しまもとちょう)山崎及び京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町(おおやまざきちょう))に於いて光秀軍と激突した山崎の戦いの、調べた限りでは、明智方には内藤姓は見当たらない。或いは前の並河易家の仕えた内藤家を誤認したものか?
「本山彦一」当時の大阪毎日新聞社長本山彦一(もとやまひこいち 嘉永六(一八五三)年~昭和七(一九三二)年)。東京日日新聞を合併して現在の毎日新聞の祖を作った。後に貴族院勅選議員ともなっている。
「ドイツの昔話に、父が子供三人にみなろくなものなし、烏になれといいしに、たちまち烏と化し飛び去った話あり」グリム童話で知られる「七羽のカラス」。福娘氏のサイト「福娘童話集」の「きょうの世界昔話」の「七羽のカラス」及びドイツ語対訳になっているこちらをリンクさせておく。]