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2017/05/04

南方熊楠 履歴書(その24) 小畔四郎との邂逅

 

 また那智にありし厳冬の一日、小生単衣(ひとえ)に繩の帯して一の滝の下に岩を砕き地衣(こけ)を集むるところへ、背広服をきたる船のボーイごときもの来たり、怪しみ何をするかと問う。それよりいろいろ話すに、この人は蘭を集めることを好み、外国通いの船にのり諸国に通うに、到る所下宿に蘭類を集めありという。奇なことに思い、小生の宿へつれゆき一時間ばかり話せり。それが小畔四郎氏にて、そのころようやく船の事務長になりしほどなり。同氏勝浦港へ去つてのち、小生面白き人と思い、せめて一、二日留めて話さんと、走り追うて井関という所より人力車にのり、勝浦に着せしときはちょうど出船後なりし。そのとき、小畔氏すでに立ちしか否を船会場へ小生のために見にゆきし中野才二郎(今年三十八歳)という和歌浦生れのものが、このごろ強盗となりて大阪辺を荒らし数日前捕われし由、昨日の『大毎』紙に見えるも奇事なり。それよりのち、時々中絶せしことなきにあらざるも、小畔氏が海外航路から内地駐在に落ち着いてのちは絶えず通信し、その同郷の友、上松蓊(うえまつしげる)氏も、小畔氏の紹介で文通の友となり、種々この二氏の芳情により学問を進め得たること多し。

[やぶちゃん注:「小畔四郎」南方熊楠の粘菌研究の高弟。既出既注。まさにこのシーンこそがその邂逅の瞬間。

「井関」現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町井関。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「船会場」読みも意味も不詳。「ふなかいば」か。現在の港湾管理事務所のようなものか。識者の御教授を乞う。

「中野才二郎」不詳。

「上松蓊」(明治八(一八七五)年~昭和三三(一九五八)年)については、サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の解説が詳しい、というか、他に事蹟資料が少ないので、こちらから大々的に引用させて戴く。彼の『経歴は、熊楠の手記によれば新潟県長岡出身で、初期の衆議院副議長を務めた安部井磐根の猶子で、立教大学卒業後、古河鉱業に入社、四十歳前で門司支店長で退職し、東京で製紙会社を経営していたが関東大震災で焼失したという』。『薬草や香道に詳しく、書を能くし、一九二六年、熊楠一門の摂政宮への粘菌標本献上にあたっては、その表啓文(邦字)を上松が浄書した』。『上松が熊楠の名を知ったのは、少年期に雑誌掲載の熊楠のものを読んだことにあるようで、没後間もなく紀伊新報社での座談会「南方先生を偲ぶ」では』、『南方先生が偉くなられたので人に知られるやうになりましたが、私はあまり偉くないころから知ってゐた。私が十三の時南方先生は二十一歳でしたろうか、その頃北隆館から少年苑(園?)といふ雑誌が出ていた。これを読んでいると南方先生が「紀州のある地方ではシャボテンを培養してゐるが、これに臙脂(えんじ)虫を養ふことが出来る。あれは国益になる。元来メキシコとかブラジルとかいふところでないと養へないとされてゐるのだが紀州でもやれる筈だ。大倉喜八郎はお上のお蔭で巨富を積むことが出来た。お上のためなら全財産を使ってもよいといってゐるので、これの国益になることを説明し、緋ラシャなどといふ高いものを買はずとも日本でも十分この虫から染料を取って染めることが出来るのだから、四、五万円出さぬか、と云ってやったところ、大倉はその金を出さない。あれはくちほどにないつまらぬ奴だ」といふ意味の事を書いていた。これを読んだ私は、何といふ素晴らしいことだ、と思ってゐた』。『と話している』。但し、実際には『直接の交流は同郷の友人である小畔四郎の紹介によるもので、現存の上松宛熊楠書簡の最初が一九一四年(大正三)十二月九日付であることから、上松四十歳、東京で会社の経営を始めた時期からであろう。この頃の上松宛熊楠書簡に「ラオーンは売れ行き如何に候や。薬剤にして奇効あるもの小生も心当り少なからぬが、ただ心当りのみでみずからこれを製出するひまなきには困り入り候」(大正六年十月二十七日付)と見えるので、本草を応用した薬品会社を経営した時期があったのかもしれぬ』。上松宛熊楠書簡を『読むと、交際のはじめから、上松は熊楠の手足となってよく尽くしている。筆記具、顕微鏡、書籍の購入、それに十二支に関する原稿の売り込み』にまで及んでおり、『こうした上松の世話に対し』、『熊楠は、「小生貴下と面識もなきに、多年いろいろと御世話下され候ことは感佩(かんぱい)に余りあり。何とも御礼の致し方なし」(大正八年九月十六日付)として、以後書簡のたびに一章一句でも思いついたことを書きつけて差し上げるから、小生生存中は秘翫し、死後はいかようにも利用しても結構だ、と認めている』とあり、『上松はまた、熊楠との交流を通じて植物学、ことに菌・粘菌に関心を深め、コッコデルマ・ウエマツイなど新種の粘菌を採集し、小畔四郎、平沼大三郎らと共に熊楠門の三羽烏と称せられた』とある。]

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