南方熊楠 履歴書(その25) 大正七(一九一八)年の米騒動
過ぐる大正七年、米一揆諸処に蜂起せしおり、和歌山の舎弟宅も襲われたるの新聞に接し、兄弟はかかる時の力となるものなればと妻がいうので、倉皇和歌山に趣きしに舎弟一人宅に止まり、その妻も子も子婦(よめ)もことごとくいずれへ逃走せしか分からず。かかる際に臨んでは兄弟の外に力となるものなしと悟り候。しかるにその米高の前後、小生は米に飽くこと能わず、自宅に維新のころの前住人が騎馬の師範で、そのころの風(ふう)とて士族はみな蓼(たで)を多く植えてもつぱら飯の飣(さい)としたり(松平伊豆守信綱も武士の宅には蓼を多く栽(う)ゆべしと訓えしという)。その種子が今も多くのこり、また莧(ひゆ)といいて七月の聖霊祭に仏前に供うる、うまくも何ともなき芽あり、この二物が小生宅の後園におびただしく生える。この二物を米に多く雑えて炊ぎ餓えを凌ぎ、腹がへるごとに柔術の稽古するごとく幾回ともなく帯をしめ直してこれを抑えたり。それに舎弟は、小生が父より譲り受けたる田地二町余を預かりながら(三十石は少なくもとれる)、ろくに満足な送金もせず。しかして、その子に妻を迎えしときの新婦の装束は、多額を費やしたものと見えて、三越の衣裳模様の新報告をする雑誌の巻頭に彩色写真が出でおりし由承る。戦国時代また外国の史籍に兄弟相殺害し、封土を奪い合いしとや、兄弟の子孫を全滅したことを多く読んで驚きしが、実は小生の同父母の兄弟も、配偶者の如何(いかん)によりては、かかる無残の者に変わりしということを、後日にようやく知るに及び候。
[やぶちゃん注:「大正七年」一九一八年。
「米一揆」同年七月中旬以降に米の価格急騰に伴って発生した全国規模の米騒動、暴動事件を指す。ウィキの「1918年米騒動」に詳しいが、それによれば、『米騒動には統一的な指導者は存在しなかったが、一部民衆を扇動したとして、和歌山県で』は『二名が死刑の判決を受けて』いるとある。また、この『米騒動での刑事処分者は』八千百八十五人に及んだが、その内の一割を超える処分者は『被差別部落』出身者で、その『和歌山県伊都郡岸上村(現・橋本市)の』二人の男性、『中西岩四郎(当時』十九『歳)ならびに同村の堂浦岩松(堂浦松吉とする資料もある。当時』四十五『歳)も被差別部落民であった』とある。「子婦(よめ)」は二字へのルビ。常楠の男子の嫁。
「米に飽くこと能わず」米を碌に食うことが出来なかった。
「蓼」ナデシコ目タデ科 Persicarieae 連イヌタデ属サナエタデ節ヤナギタデ(柳蓼)Persicaria
hydropiper。マタデ(真蓼)・ホンタデ(本蓼)とも言う。現行も薬味として利用され、所謂、「蓼食う虫も好きずき」の語源も本種。
「飣」音「テイ・チョウ」で、原義は「食物を蓄える」であるから、「蓄えとした食物」の謂いとなるが、蓼だけでは主食には到底ならぬから、ここで熊楠が振っている「さい」は「菜」の謂いで、乏しい主食の「おかず」の意味であろう。
「松平伊豆守信綱」(慶長元(一五九六)年~寛文二(一六六二)年)は安土桃山から江戸前期の大名で武蔵国忍藩主・同川越藩初代藩主。老中。俗に「知恵伊豆」と呼ばれ、第四代三将軍家光と次代の家綱に仕え、島原の乱・由井正雪の乱を鎮圧、明暦の大火を処理し、幕府体制の確立に功があった。「武士の宅には蓼を多く栽ゆべし」の出典は未詳。
「訓えし」「おしえし」。
「莧(ひゆ)」ナデシコ目ヒユ科 Amaranthaceae、或いは同科 Amaranthoideae亜科のヒユ類の総称で、同類は若芽や果実(種子)を食用とする種を多く含むが、私は恐らくはヒユ属イヌビユ Amaranthus blitum 辺りを指しているのではないかと思う。
「聖霊祭」「しょうりょうまつり」。精霊祭り。盂蘭盆のこと。
「二町」二十反(たん)=六千坪≒二ヘクタール。現在の通常の小学校の敷地規模の二倍ほど。
「三十石」八十六俵弱。
「衣裳模様の新報告をする雑誌の巻頭」「彩色写真」最新ファッション雑誌の巻頭グラビア。]
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