南方熊楠 履歴書(その26) 土宜法龍との再会
そのころ小畔氏より三千円ばかり送りくれたり。それにて小生は妻子もろとも人間らしく飲食し、また学問をもつづけ得たるなり。大正九年に同氏と和歌山に会し、高野山に上り、土宜法主にロンドン以来二十八年めで面謁せり。この法主は伊勢辺のよほどの貧人の子にて僧侶となりしのち、慶応義塾に入り、洋学をのぞき、僧中の改進家たりし。小生とロンドン正金銀行支店長故中井芳楠氏の宅で初めて面会して、旧識のごとく一生文通を絶たざりし。弘法流の書をよくし、弘法以後の名筆といわれたり。小畔氏と同伴して金剛峰寺にこの法主を訪ねしとき、貴顕等の手蹟で満ちたる帖を出し、小生に何か書けといわれし。再三辞せしも聴(ゆる)さざれば、
爪の上の土ほど稀(まれ)七身を持ちて法(のり)の主にも廻りあひぬる
これは阿難が釈尊涅槃(ねはん)前に仏と問答せし故事によりし歌なり。また白紙を出して今一つと望まれたので、女が三味線を弾ずる体を走り書きして、
高野山仏法僧の声をこそ聞くべき空に響く三味線(この画かきし紙は小畔氏が持ち去れり)
これは金剛峰寺の直前の、もと新別所とか言いし所に曖昧女(あいまいおんな)の巣窟多く、毎夜そこで大さわぎの音がただちに耳を擘(つんざ)くばかり寺内に聞こえ渡る。いかにも不体裁な至りゆえの諷意なりし。後にその座にありて顔色変わりし高僧どもは、あるいは女に入れあげて山を逐電(ちくでん)し、あるいは女色から始まって住寺を破産しおわれりと承りぬ。年来この法主と問答せし、おびただしき小生の往復文書は、一まとめにして栂尾(とがのお)高山寺に什宝(じゅうほう)のごとくとりおかれし。そしていろいろの人物もあるもので、ひそかに借り出して利用せんとするものありときき、師にことわりて小生方へ送還しもらい、今も封のままにおきあり。今から見れば定めてつまらぬことばかりなるべきも、この往復文書の中には宗教学上欧米人に先立って気づきしことどもも多く載せあるなり。(大乗仏教が決して小乗仏教より後のものにあらざること、小生の説。南北仏教の名をもって小乗と大乗を談(かた)るの不都合、このことはダヴィズなど言い出せり。このことその前に土宜僧正が言いしことなり。その他いろいろとそのころに取っては嶄新なりし説多し。)小生次回に和歌山に上(のぼ)りて談判、事すまずば、多くの蔵書標品を挙げて人に渡しおわるはずなれば、その節この往復文書は封のまま貴下に差上ぐべし、どこかの大学にでも寄付されたく候。ただし小生死なぬうちは、他人をして開き見せしむることを憚(はばか)られたく候。この土宜師は遊んだ金が四万円ばかりありし。小生くれと言うたら、少なくも二万円はくれたるなれど、出家から物を貰うたことなき小生は申し出でざりし。出家の資産などは蟻の尸体(したい)同前で死んだら他の僧どもが寄ってたかって共食いにしおわる。実にはかなきところが出家のやや尊き余風に御座候。
[やぶちゃん注:「そのころ」前段を受けるので大正七(一九一八)年頃。
「大正九年に同氏と和歌山に会し、高野山に上り」大正九(一九二〇)年八月に小畔四郎らと高野山に赴き、菌類等を採集、この土宜法竜(こちらに既注)と「二十八年め」(「め」は「目」で「ぶり」)に再会した。より厳密に言うなら、南方熊楠の主目的は、「南方熊楠コレクション」の注にあるように、『高野山を今のように伐木しては三十年も立ぬ内に対岸の葛城山同様禿山となるから、其の永続法と、今一つは保護植物の事を書上て徳川侯に呈すべき為めと、今一つは菌類譜作製にゆく也」(上松蓊宛書簡)』という目論みであった。リンク先の注に記したが、土宜は明治二六(一八九三)年にシカゴで開催された「万国宗教会議」に日本の真言宗代表として渡米、ニュヨークを経て、ロンドンからパリへ向かい、仏教関係の資料の調査・研究を行ったが、この時にここに出る通り、ロンドンの横浜正金銀行ロンドン支店長中井芳楠の家に於いて、南方熊楠と初めて逢っている。
「もと新別所とか言いし所」別所とは、十一世紀以降、大きな寺院に於いて、一定の区画内に堂宇・僧坊などの施設と、そこに在住寄住する僧侶や聖とその宗教活動を包括した組織構造を指した。高野山の場合、現在の真別処円通律寺辺りがそれらしい。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「曖昧女」売春婦。
「栂尾(とがのお)高山寺」かの名僧明恵(私はブログで「栂尾明恵上人伝記」(電子化注・完結)及び「明恵上人夢記」(電子化訳注・進行中)を手掛けている)を中興の祖とする、京都市右京区梅ヶ畑栂尾町にある真言宗栂尾山高山寺(こうざんじ/こうさんじ)。当時、真言宗御室派(現在は真言宗単立寺院)であったここに何故、この頃、熊楠と法龍の往復書簡がそのような形で管理されていたのかは私は不詳である。識者の御教授を乞う。
「大乗仏教が決して小乗仏教より後のものにあらざること」「小乗仏教」は現在、「上座部仏教」と呼ばれるのが通例。紀元前三八三年頃に釈迦がなくなって、その弟子がその言葉を書き留めたものが仏教の原始経典とされるが、それから百年前後(経過年数には異説あり)過ぎた頃、その原始経典と奉じる守旧派の「上座部」と革新派の「大衆部」とに分裂、それぞれの中で多様な流派が生じたが、特に後者では、釈迦の教えを広めるべく、文学性に富んだ新教典を編纂が行われた。前者が上座部仏教(小乗仏教)の源流となり、後者が大乗仏教を形成するに至ったともされる。但し、「大衆部」を直接の大乗の濫觴とは考えない見方もあり、南方熊楠の大乗ありきというのは、原始仏教の核心にこそ大乗的法義があるとする立場であろうと思われる。
「南北仏教」不詳。現在も上座部仏教が、タイやミャンマーなどの東「南」アジアで厚く信仰されており、伝来の関係上、中国・朝鮮・日本といったそれらの国から「北」で圧倒的に信仰者を増やした大乗仏教を、単にその南北の地域性や環境ひいてはそこから生じた民族性・文化性等から考察分類することはおかしいと熊楠は主張するのであろう。
「ダヴィズ」イギリスの仏教学者で、上座部仏教の研究で知られるトーマス・ウィリアム・リス・デイヴィッズ(Thomas William Rhys Davids 一八四三年~一九二二年)。裁判官として、当時、イギリス領植民地であったセイロン(スリランカ)に赴任、そこでパーリ語(上座部仏教の経典(パーリ語経典)で主に使用される言語)と南伝(上座部)仏教の研究を重ね、一八八二年からロンドン大学教授としてパーリ語を講じ、一九〇四年~一九一五年にはマンチェスター大学で比較宗教学を講じ、また、パーリ語原典協会を一八八一年に設立して、パーリ語による南伝仏典のローマ字化出版を促進したりもした。
「嶄新」斬新に同じい。
「和歌山に上(のぼ)りて談判」「南方熊楠コレクション」の注によれば、『弟常楠の』南方植物研究所設立のための『寄付金(二万円)未済について話し合うこと』とある。既に募金広告では寄附金筆頭者は南方常楠が二万円と明示されていた。但し、これについて弟常楠は設立発起の際のメンバーの一人であった毛利清雅(『牟婁新報』社主で県会議員)から見せ金として毛利からそう書くように求めたに過ぎないと述べている(この辺りのことはサイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の「南方植物研究所」や、サイト「南方熊楠記念館」の「上京前後」も参照されたい)。
「事すまずば」常楠が寄付金を出し惜しんだら。実際に常楠の二万円の寄付はなされず、逆に他所から寄付金が三万円ほどの集まったことを理由に、今まで常楠から送られていた生活費の給付が停止され、二人は決定的に不仲となってしまった。
「ただし小生死なぬうちは、他人をして開き見せしむることを憚(はばか)られたく候」現在、この南方熊楠と土宜法竜往復書簡は総てが刊行され、抄出本も複数出ており、それをもとにした評論集も出ている。私も複数の抄録本と評論を読んだが、実に興味深く、面白いものである。
「くれたるなれど」この「なれ」は推定の助動詞「なり」で、法龍なら熊楠に快く半分の二万円を気軽に「呉れたであろうけれども」。]
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