「想山著聞奇集 卷の四」 「美濃の國にて熊を捕事」
美濃の國にて熊を捕(とる)事
美濃の國郡上郡(ぐじやうごほり)の、きび嶋(しま)村と云は、僅(わづか)家數(かづ)三十軒計(ばかり)の村なれども、村(むら)内の山は、二三里に渡りて至て廣く、此山、南受(みなみうけ)にして暖(あたゝか)なる地なれば、冬は飛驒・加賀・越前・越中當りの熊、多く此山へ集り來りて、穴に住(すむ)もあり、古木(ふるき)に住も有、依(よつ)て、此邊(このへん)の狩人(かりうど)共の行て其熊を捕事也。【此邊の山は神代(じんだい)より斧いらずと云所ゆゑ、大木(たいぼく)のみ有ところなり。】先(まづ)、木に住(すむ)熊は、五圍(いつかこ)みより、七(なゝ)圍み八(や)圍み位(くらゐ)有(ある)古木(ふるき)の、中(なか)は朽(くち)てうつろに成(なり)たる木いくらも有て、其木の中に、熊五疋も六疋も、多きは七八疋位も有事もありと。狩人は四五人より十人位迄組合(くみあひ)て、獵犬を連て、正月より二月頃の、未(いまだ)、雪の消ざる内に山へ入て尋(たづぬ)ると、熊の居(ゐ)る木は犬しり居(ゐ)て、其木の根を𢌞りて、頻(しきり)に吠(ほゆ)る也。熊は犬の吠る聲を聞(きけ)ば、木のうろ深く潛(くゞ)り隱れて決(けつし)てうろ穴より出(いづ)る事なし。よつて、その邊(へん)の木を伐りて、穴の上より入(い)ると、熊は其木を己(おのれ)の穴へ段々引込(ひきこみ)て、己らは穴の底へ潛(ひそま)り込(こむ)ものゆゑ、彌(いよいよ)木を穴へ差入(さしいれ)て、如何しても出(いで)られぬ樣になして後(のち)、けふは暮に及べるまゝ、今宵は此所(このところ)に宿(やど)して、あすの事になすべしなどゝて、火を燒て夜(よ)を明(あか)し、夫(それ)より木の根のよきかげんの所に、五六寸位より七八寸位の穴を斧にて伐明(きりあく)ると、熊出(いで)んとして其口ヘ來(きた)るを待(かち)て、熊突(くまつき)といふ笹葉(さゝば)に似たる槍にて、手早く突(つく)と等しく、其槍を𢌞して直(ぢき)に拔取(ぬきとる)事と也。其槍の穗は
か樣の形にして、銵(み)の長さ七八寸有て、幅は三寸繰りもあり。至て薄き能(よく)切(きれ)る關打(せきうち)の槍也。全く出刄(でば)を背合(せあはせ)にしたる如きものにして、熊笹の葉のごときもの也。【依て笹槍と云。】小耳(こみゝ)と云(いひ)て、熊の耳の下と、又、月の輪とは、急所なれば、一突にて留(とま)るゆゑ、先(まづ)、其二か所をねらひて突(つく)事なれども、其所計りは突兼(かぬ)るゆゑ、見當り次第、突事なり。斃(をち)たる熊は中へ引込(ひきこみ)て、生(いき)て居(ゐ)る熊、入替(いりかは)りて、いつ迄も出來(いできた)る故、一向、世話なしに、七疋も八疋も殺す事にて、殺し盡して後(のち)は、木を伐倒(きりたほ)して取出(とりいだ)すゆゑ、危き働(はたらき)をせずして捕(とる)事と也。惣躰(さうたい)、木に居(ゐ)るは木熊(きぐま)とて小さく、穴に居るは穴熊とて、大なる樣に聞(きゝ)およびたれども、此邊にては、木に住(すむ)も穴に住も同じ事にて、木にも小牛(こうし)程なるもいくらも住居(住みゐ)て、木のうつろの中に、二所(ふたところ)三(み)所位(ぐらい)も住居る所、色々に作り有ものとぞ。又、穴に居るのは、巖(いはを)の下などの自然と窪(くぼ)める所に、穴を掘て居るものにて、是は、穴に丈夫なる杭を打ては掘崩(ほりくずし)、又、杭を打直しては掘崩して、遂に掘發(ほりあば)きて、前の如く突殺す事と也。山海名産圍繪、又、越後雪譜・東遊記等に記し有(ある)趣(おもむき)とは、大(おほひ)に捕(とり)かた、違ひたり。國々により、種々手段替り有事と知れたり。又、夏の内、木に居(ゐ)る熊を打(うつ)と、必(かんらず)、烟りの揚りたる所を目懸(めがけ)て飛來(とびきた)る故、傍(かたはら)へ退(の)きて二の玉を打(うち)、又、三の玉を打故、大躰(たいてい)は夫にて留(とま)る事となり。廣場などにて打て飛來る時は、蓑(みの)にても打付(うちつく)ると、腹立(はらたち)て、夫を懷き抱へて、いつまでもむしり居るゆゑ、二の玉、又三の玉迄、打事といへり。しかし、是等は一命を的(まと)とせし働きにて、生死(しやうし)一瞬の内を出(いで)ずして、生涯を送るといふも、實に危き渡世なり。
[やぶちゃん注:「美濃の國郡上郡(ぐじやうごほり)の、きび嶋(しま)村」不詳。但し、現在の岐阜県郡上市白鳥町(しらとりまち)歩岐島(ほきじま:旧郡上郡歩岐島村)は村名が近似し(他に「きびしまむら」に近い旧村名は見当たらなかった)、位置的にも納得出来る。ここ(グーグル・マップ・データ)。もし、違っていれば、御教授を乞うものである。
「五圍(いつかこ)みより、七(なゝ)圍み八(や)圍み」本邦の身体尺である両腕幅「比呂(ひろ)」は一比呂が一五一・五センチメートルであるから、七メートル五十八センチから十二メートル十二センチとなる。ちょっと異様な巨木の感があるが、ここに記されている通り、神代の時代から伐られることがなく、しかもその洞(うろ)にツキノワグマ(哺乳綱食肉目イヌ型亜目クマ下目クマ小目クマ科クマ属ツキノワグマ Ursus thibetanus)が五~八匹も棲むとなれば、これくらいないと逆におかしい。但し、ツキノワグマはこんな厖大な群れを作らぬから、これらの複数のそれは母熊と小熊であろうが、にしても、同種は産む子の数は二匹が普通でこの数自体が不審ではある。それでも後で「月の輪」と言っているからツキノワグマなのであろう(但し、この後の「又、穴に居るのは、巖(いはを)の下などの自然と窪(くぼ)める所に、穴を掘て居るものにて」というのはどうもアナグマ(クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma としか読めぬ。但し、ニホンアナグマもこのような八匹にも及ぶ群棲はしないと思われる)。ともかくもこの古木の周径もそこにいる「熊」の匹数も、孰れもかなりの誇張があると考えねばならない。
「銵(み)」読みは原典のもの。「み」は所謂、槍の穂先の金属の刀身部分の謂いと思われる。この「銵」という漢字自体は「金属や石などの堅いものが打ち当たる音の形容」或いは「鐘などを撞く」の意であるから、想山はこの漢字をただその意味に当てただけのように推測される。
「關打(せきうち)」美濃国関、現在の岐阜県関市一帯は鎌倉時代より刀鍛冶が盛んで、戦国時代には武将の間で愛用され、「関の孫六」で知られる名工二代目兼元でも知られる。ここで打ち鍛え作られた槍の刃先であることを指す。
「山海名産圍繪」「日本山海名産圖會」。主に海産生物の漁法並びに食品や酒の製造法を著した物産書。蒹葭堂(けんかどう)の号で知られた大坂の町人学者木村孔恭(こうきょう)が著者とされる(序は彼であるが、本文も彼が書いたかどうかは実は不詳)。寛政一一(一七九九)年板行。
「越後雪譜」後の段に出る通り、鈴木牧之の「北越雪譜」(既注)の誤り。天保八(一八三七)年、江戸にて板行。
「東遊記」既注。橘南谿が寛政七(一七九五)年八月に板行した北陸・東北の紀行。因みに本「想山著聞奇集」は嘉永三(一八五〇)年の板行。
「是等は一命を的(まと)とせし働きにて、生死(しやうし)一瞬の内を出(いで)ずして、生涯を送るといふも、實に危き渡世なり」老婆心乍ら、熊撃ちの狩人のことを言っている。
以下、底本では全体が二字下げ、原典では一字下げ。]
北越雪譜に、山家(さんか)の人の話に、熊を殺(ころす)事、二三疋、或は年歷(としへ)たる熊一疋を殺も、其山、必、荒(ある)る事有。山家の人、是を熊荒(くまあれ)と云。此故に、山村の農夫は、需(もとめ)て熊を捕事なしといへり。熊に靈(れい)有事、古書にも見えたり云々。然共(しかれども)、此美濃の郡上邊にては、斯(かく)の如く熊を捕事は、珍敷(めづらしき)事にあらざれども、さして荒る事を覺ずと云。尤(もつとも)、雪中の熊の膽(きも)は、惡しき分にても五六兩にはなり、好(よき)品なる分は、十五兩にも廿兩にもなり、時によりては、一疋の膽が三十兩位(ぐらゐ)と成(なる)分(ぶん)をも獲る事有て、纔(わづか)の窮民共の五七人組合(くみあひ)、一時に三十金・五十金をも獲る事有(あれ)ば、是が爲に身代をもよくし、生涯、父母(ふぼ)妻子をも安穩に養ふべき基(もとひ)ともなるはづなるに、矢張(やはり)、困窮して、漸(やうやく)飢渇に及ばざる迄の事なるは、熊を殺せし罰なるべしと、銘々云(いひ)ながらも、大金を得る事故、止兼(やみかね)て、深山幽谷をも厭はず、足には堅凍積雪(けんとうせきせつ)を踏分(ふみわけ)、頭(かしら)には星霜雨露を戴きて、實(げ)に命(いのち)を的(まと)となして危(あやうき)をなし、剩(あまつさへ)ものゝ命をとりて己(おのれ)の口腹(こうふく)を養ふと云(いふ)も、過去の宿緣とも申べき乎。
[やぶちゃん注:「熊の膽(きも)」ウィキの「熊胆」(ゆうたん)より引いておく。『熊の胆(くまのい)ともいう。古来より中国で用いられ、日本では飛鳥時代から利用されているとされ、材料は、クマの胆嚢(たんのう)であり、乾燥させて造られる。健胃効果や利胆作用など消化器系全般の薬として用いられる。苦みが強い。漢方薬の原料にもなる。「熊胆丸」(ゆうたんがん)、「熊胆圓」(ゆうたんえん:熊胆円、熊膽圓)がしられる』。『古くからアイヌ民族の間でも珍重され、胆嚢を挟んで干す専用の道具(ニンケティェプ)がある。東北のマタギにも同様の道具がある』。『熊胆の効能や用法は中国から日本に伝えられ、飛鳥時代から利用され始めたとされる熊の胆は、奈良時代には越中で「調」(税の一種)として収められてもいた。江戸時代になると処方薬として一般に広がり、東北の諸藩では熊胆の公定価格を定めたり、秋田藩では薬として販売することに力を入れていたという。熊胆は他の動物胆に比べ』て湿潤せず、『製薬(加工)しやすかったという』。『熊胆配合薬は、鎌倉時代から明治期までに、「奇応丸」、「反魂丹」、「救命丸」、「六神丸」などと色々と作られていた』。『また、富山では江戸時代から「富山の薬売り」が熊胆とその含有薬を売り歩いた』。『北海道先住民のアイヌにとってもヒグマから取れる熊胆や熊脂(ゆうし)などは欠かせない薬であった。倭人の支配下に置かれてからは、ヒグマが捕獲されると松前藩の役人が毛皮と熊胆に封印し、毛皮は武将の陣羽織となり、熊胆は内地に運ばれた。アイヌに残るのは肉だけであった。熊胆は、仲買人の手を経て薬種商に流れ、松前藩を大いに潤した。明治期になっても、アイヌが捕獲したヒグマの熊胆は貴重な製薬原料とされた』。『青森津軽地方でも、西目屋村の目屋マタギは「ユウタン」、鰺ヶ沢町赤石川流域の赤石マタギは「カケカラ」と呼んだ』。『熊胆に限らず、クマは体の部位の至る所が薬用とされ、頭骨や血液、腸内の糞までもが利用されていた』。『主成分は胆汁酸代謝物のタウロウルソデオキシコール酸』で、他にも『各種胆汁酸代謝物やコレステロールなどが含まれて』おり、現在も『漢方薬として熊胆』は『珍重されている』。]
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