「想山著聞奇集 卷の參」 「天色火の如く成たる事」
天色火の如く成たる事
明和七年【庚寅】七月廿八日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一七七〇年九月十七日。]の事成(なる)が、我國名古屋は、其日は別(べつし)て暑氣つよくしのぎ兼しが、日暮(ひぎれ)て後、北の方の空赤く成たる故、初(はじめ)は犬山(いぬやま)出火なりとは【犬山は六里離れて城下也。】云罵(いひののし)りたれども、段々天(てん)色(いろ)赤く成ぬ。是はいか成事ぞと不審をなす内に、其赤色、間もなく名古屋の方へ蔽ひ懸りて、後には滿天殘る所もなく、平一面に火のごとく赤くなりて、其中に松魚(かつを)の腹のごとく薄白き長き條ありて、自然と太く成、細く成て、螢の光の如く息をなして、何とも分り兼たれども、甚だ不氣味なる氣色(けしき)也。此上、如何成行(いかになりゆく)事ぞと恐敷(おそろしく)、人々奇異の思ひをなしゝに、一二刻[やぶちゃん注:一刻は現在の約三十分。]過(すぎ)て漸々(やうやく)に薄く成、九つ頃[やぶちゃん注:午前零時頃。]に至りては皆消失(きえうせ)たりと。勿論、何の故ともわきまへず、唯、珍敷(めすらしく)氣味わるく、恐敷(おそろし)かりし事にて有(あり)しと每々(たびたび)父母の咄を聞置(ききおき)しが、又、此程、羽鳥松迻[やぶちゃん注:「はとりしやうい(しょうい)」と読んでおく。人物不詳。]翁にも能々(よくよく)聞正(ききただ)したるまゝ、書付置(かきつけおき)ぬ。其節、竹腰(たけのこし)某は、宵より臥し居(ゐ)たる故、天が一面に赤く成たり、出(いで)て見給へと、家内の者ども申せしに、何、天が赤くなりたるとや、又、重(かさね)て赤く成たる時に起(おき)て見るべしと云捨(いふすて)て臥居(ふしゐ)たり。扨(さて)、夫(それ)より能々聞(きく)に、前代未曾有(ぜんだいみぞう)の事にて、最早、其(その)如く再び赤く成事は、後代にも有まじ。まだ年若(としわか)のをりの事ながら、生涯の不覺と成たり。兎角、物每(ものごと)は、その時を失ふまじき事也と、右某の常々云出(いひいだ)して殘(ざん)ねんがりし事も、松迻翁の咄にて聞(きき)たり。心得置べき事也。此日、京地(きやうち)にては、戊の時頃[やぶちゃん注:午後八時前後。]より、北の方の空一面に赤く成て、村里の火事にはあらず、高山(かうざん)の樹木に火付(ひつき)て一時(いつとき)に燃登(もえのぼ)る勢ひに見えければ、山火事出來(いでき)たりと騷ぎ出し、所は何國(いづくに)ならん、鞍馬の山かと見ればすこし遠く、又、若狹路(ぢ)の山には近しと、とりどりに罵りて居(を)る内に、忽ち耀(かかや)く光りの幾條も立登(たちのぼ)り、天のあらん限り、南を差(さし)て靉靆(たなびき)渡りて、恐敷(おそろしく)、因(よつ)て人々も東西に馳せ違ひて騷ぎ立(たて)、又は如何成(いかなる)天變ぞと、辻々へ出(いで)て立(たち)湊(つど)ひ居(をり)て驚く族(やから)も多く、時移りても樣子分らざれば、寢る人とては壹人(いちにん)もなく、見居(みをり)たるほどに、赤氣(しやくき)は東の空に巡(めぐ)る樣(やう)に見えて、彼(かの)光りし條(すじ)[やぶちゃん注:「じ」はママ。]も段々に薄くなり、子の刻過(すぎ)[やぶちゃん注:午前零時前後。]には消失(きえうせ)しとなり。若狹の國にては、其日の暮合(くれあひ)より、薄紅(うすくれな)ひなる氣の北の方(かた)に見ゆるまゝ、夕日の名殘(なふごり)かと云居(いひをり)たる内に、段々赤く耀き出(いづ)る條(すぢ)も增りて海上は血を灌(そそ)ぎたる樣に成しと。又、加賀の國にては、其日の黃昏(たそがれ)に、黑き雲一(ひと)むら、海上に靉靆(たなびき)て、赤光(しやくくわう)ほのぼのと見えわたりければ、是も夕日の輝(かかや)きにやと、人々出(いで)て見る中に、日も暮(くれ)て、光り、彌(いよいよ)、盛(さかん)に出(いで)て、忽ち滿天、火のごとく成(なり)て、驚きたりとかや。又、或記には、此日、申の刻[やぶちゃん注:午後四時前後。]、北方の空より赤氣現れ出(いで)、次第に東へ巡り、夜に至りて、右の赤氣、甚敷(はなはだしく)、諸州を照(てら)すといふ。又、此日、海上に火柱(ひばしら)の如き氣、天を突出(つきだ)し、後に分れて、空中に遍滿(へんまん)せりとも云(いふ)。何にもせよ、氣は松前の人の語るも、西は長崎の人の語るも、同し趣にて、南都にては、初(はじめ)は大(おほ)かた京の大火ならん、其中に赤く立登(たちのぼ)るは、大佛の堂[やぶちゃん注:現在の京都府京都市東山区にある天台宗方広寺の大仏殿を指す。]の火炎也などゝ云たるよし。又、大和國には、土(つち)の室(むろ)とて、石にて圍み、出入の便(たよ)りよく、水など流入間敷(ながれいりまじき)やうに造りたる室穴(むろあな)、所々に有(あり)て、古へは人の住(すみ)ける所とみえたるよし。依(よつ)てそれを土俗の口碑に、昔、火の雨の降(ふり)たる時に、人皆、此穴にかくれて命を全(まつた)ふ[やぶちゃん注:「ふ」はママ。]せし由にて、日來(ひごろ)、恐敷事に云傳(いひつたは)る故、是ぞ誠(まこと)の火の雨の降來(ふりきた)りて、世の滅する期(ご)の来りし成べし、今こそ室穴に隱るゝぞよきとて、騷ぎ立(たつ)族(うから)も多かりしと也。格別珍敷(めづらしき)天變ながら、是ぞと思ふ程の凶兆もなくて濟(すみ)しとや。去(さり)ながら、此年は五月より八月迄、百有餘日、雨なく、諸國、大旱魃にて難儀せしとぞ。夫等の標示にや。吳々(くれぐれ)も未曾有の事と也。
[やぶちゃん注:以上で観察された天体現象は、まさにこの一七七〇年六月十四日にフランスの天文学者シャルル・メシエ(Charles Messier 一七三〇年~一八一七年:星雲・星団・銀河に番号を振り、「メシエ・カタログ」を作ったことで知られる)によって発見された大彗星「レクセル彗星」(Lexell's Comet:名称はこの彗星の軌道を計算したのスウェーデン系フィンランド人の天文学者アンダース・レクセル(Anders Johan Lexell 一七四〇年~一七八四年:後にロシア帝国に帰化してロシアで活躍した(ロシア語名:Андрей Иванович Лексель(Andrei Ivanovich Leksel)。このレクセル彗星や天王星の軌道計算をしたことで知られる)に因む)の記録である。ウィキの「レクセル彗星」によれば、『レクセル彗星は歴史上のどの彗星よりも地球の近くを通り過ぎたことで有名で』、この時、同彗星は地球から0.015 AU(AU:天文単位(astronomical unit)の略)=約二十四万キロメートル地点まで接近したとされる。但し、レクセル彗星はこの一七七一年以降は観察されておらず、『失われた彗星』と見なされている、とある。『メシエがレクセル彗星を発見したときの彗星の大きさは小さかったが、その後の数日間でレクセル彗星は急速に大きさを増していった』。『レクセル彗星はメシエ以外の天文学者にも観察され』、『レクセル彗星は日本でも観察されており、この天文的・歴史的現象の記録が残っている』(後に掲げた『柴田宵曲 妖異博物館 「赤氣」』のリンク先(私の電子テクスト注)などを参照されたい)。一七七〇年七月一日、『レクセル彗星は地球から0.015 AUの地点を通り過ぎ』ているが、『これは地球と月の距離の約』六倍しかない。メシエが測定した彗星のコマの直径数値から割り出すと、当時、地球上から見た場合の同彗星の大きさは『月の見かけの約』四倍のサイズに当たる。『当時のイギリスの天文学者は』、同彗星は二十四時間以内で四十二度『も空を移動したと指摘した。この天文学者は彗星の核が木星と同じ大きさに見えたと指摘し、「銀色に輝くコマに囲まれ、彗星の最も明るい部分は月の明るさと同じであった」と述べている』。その後、メシエは一七七〇年十月三日、『太陽から離れていくレクセル彗星を観測し』ているが、この時の『観測が、レクセル彗星の最後の観測となった』。『レクセル彗星は最も早くに発見された木星族の彗星かつ地球近傍天体でもある』が、『二度と観察されることはな』く、『レクセルはピエール=シモン・ラプラス』(Pierre-Simon Laplace 一七四九年~一八二七年:フランスの数学者・物理学者・天文学者)『と協力してその後の調査を行ったところ』、一七七九年に『木星との相互作用によって軌道が摂動し、地球から観測できないほど遠くに遠ざかったか、太陽系から完全に脱出したかのどちらかだと主張した。現在、レクセル彗星は失われた彗星であると考えられている』。『軌道計算におけるレクセルの研究は、近代的な軌道決定法』『の始まりだと考えられている』。一八四〇年代にはフランスの数学者で天文学者もあったユルバン・ルヴェリエ(Urbain Jean Joseph Le Verrier 一八一一年~一八七七年:彼は当時、未発見であった海王星の位置を計算によって予言した人物としてとみに知られる)は『彗星軌道のさらなる研究を行い、木星の中心から木星の半径の』三・五『倍の距離まで彗星が近づいたにもかかわらず、レクセル彗星は木星の衛星にはなったことがないことを示した』とある。
以下は底本では全体が二字下げ。]
或書に、能登の國珠洲(すず)郡珠洲の御崎(みさき)[やぶちゃん注:現在の石川県珠洲市三崎町(みさきまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]は、佐渡の國へ向ひて名高き湊なるが、享保十四年の十二月廿八日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一七三〇年二月十五日。]、海上十四五里四方、一面に赤く成(なり)、夜に入(いり)て、五時(いつつどき)よりは別(べつし)て强く、赤氣天に至り、國中、白晝のごとくに成、諸人の恐怖、大形(おほかた)ならず。同夜八時より赤氣薄く成懸(なりかか)り、翌廿九日の朝に至りて漸(やうやく)消失(きえうせ)たれども、海邊の砂赤く染り、加賀・越中邊も以(もつて)の外(ほか)騷ぎ、若狹・越前・近江・美濃・尾張・伊勢・其外、上方筋國々よりは、右赤氣、大火と見えたるよし記し有(あり)。先(まづ)、同樣の事と見えたり。天變地妖は別て量りがたきものなり。
[やぶちゃん注:幾つか調べて見たが、地球規模で観察された巨大彗星としてはないようである(私は実は天文学や星には興味があまりないので、自分持ちの資料自体が少なく素人調べでしかない)。或いは、本邦周辺域に落下した相応の大きさの隕石ででもあったものか。識者の御教授を乞う。
なお、前のレクセル彗星の記録も含め、『柴田宵曲 妖異博物館 「赤氣」』の本文(本「想山著聞奇集」の本章の紹介もある)及び私の注も是非、参照されたい。]
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