南方熊楠 履歴書(その27) 土宜法龍を再訪
大正十年の冬、小生また高野に上りし。布子(ぬのこ)一枚きて酒を飲み行きて対面(法主は紫の袈裟にて対座)、小生寒さたまらず酔い出でて居眠りし洟(はな)をたらすを、法主「蜂の子が落ちる」と言って紙で拭いてくれたところを、楠本という東京美術学校出身の画師が実写して今に珍重せり。その時、東京か大阪のよほどの豪家の老妻六十歳ばかりなるが、警部に案内されて秀次関白切腹の室を覧るうち、遠く法主と小生が対座せるこの奇観の様子を見、あきれて数珠を取り出し膜拝(ぼはい)し去れり。
洟たれし(放たれし)次は関白自害の場
と口吟(くぎん)して走り帰り候。古人はアレキサンドル大王が、時としてきわめて質素に、時としてはまた至って豪奢なりしを評して、極端なる二面を兼ねた人と評せしが、小生も左様で、一方常に世を厭い笑うたことすら稀なると同時に、happy disposition が絶えず潜みおり、毎度人を笑わすこと多し。二者兼ね具(そな)えたゆえか、身心常に健勝にて大きな疾(やまい)にかかりしこと稀なり。
[やぶちゃん注:「大正十年の冬」大正一〇(一九二一)年十一月、後に出る楠本秀男を伴って再び高野山に赴いて菌類採集を行い、ここにあるように土宜法龍ともまた面談をしている。
「楠本」楠本秀男(明治二一(一八八八)年~昭和三六(一九六一)年)。サイト「南方熊楠顕彰館」のこちらによれば、西牟婁郡下秋津村(現在の田辺市)生まれで、田辺中学校卒業後、明治三九(一九〇六)年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科に入学、後に西洋画科に転じ、大正三(一九一四)年に卒業、暫くは東京で画業に専念したが、後、郷里に帰って家業である薬屋「壺屋」の商いに『従事するとともに、郷土に画材を求めて作画を続けた。南方熊楠とは帰郷後に親交を結び』、この大正一〇(一九二一)年、『熊楠が再度高野山での植物調査を行った折に同行し、菌類採集や彩画で協力した。戦後は田辺市展審査員などをつとめた。画号』は龍仙を称した、とある。
「警部」これは高野山金剛峯寺の警備担当の警邏部の者といった謂いであろう。
「秀次関白切腹の室」金剛峯寺の「柳の間」。同寺公式サイト内の「寺内のみどころ」の同間を参照されたい。なお、当時は「青巖寺」と称した。
「膜拝(ぼはい)」両手を挙げ、跪(ひざまず)いて拝むこと。通常は「もはい」と読む。
「happy disposition」快活で明るい性質(たち)。
「大きな疾(やまい)にかかりしこと稀なり」南方熊楠はその死を除いて、大きな病気や怪我はしていない。彼は昭和一六(一九四一)年十二月二十九日に満七十四歳で自宅で逝去したが、死因は萎縮腎であった。]
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