甲子夜話卷之四 13 松平乘邑、茶事の事
4-13 松平乘邑、茶事の事
松平乘邑は、茶事を好まれける。原田順阿彌と云し同朋頭、これも茶事に精くして氣に入、折々招かれしが、あるとき茶會にて順阿彌詰なりしとき、會席に柚みそ出たり。其後順阿彌申には、此間は御庭の柚とり立にて、格別の香氣なりと云。乘邑何ゆへ庭の柚と云ぞとありしかば、御路次へ入りたるときと、退去のときと、御庭の柚實の數違へりと答へぬ。油斷のならぬ坊主よと乘邑云れしとなり。それほど懇意なりしが、或時政府にて、何か茶事の咄ありしとき、乘邑の云はれし數奇事を、順阿彌感じ入て、扨々御手に入候と申けるを、乘邑怒られ、不禮なりとありければ、順阿彌恐れて、四五日病を稱して籠りける。その後同寮の者へ、順阿彌見へず、何如と、乘邑申されければ、病に候と答ける。最早病も快かるべし、出候へとありければ、翌日より出勤しけるとなり。その嚴剛も亦かくの如くなりしとぞ。
■やぶちゃんの呟き
「松平乘邑」既出既注。
「原田順阿彌」本名原田孝定。検索を懸けると、本話の訳が幾つか出る。
「同朋頭」「どうぼうがしら」。幕府の職名で、若年寄に属して同朋(将軍や大名に近侍し、雑務や諸芸能を掌った僧体の者。室町時代以降、一般に「阿弥」号を称し、一芸に秀でた者が多かった。江戸時代には幕府の江戸城内での役職の一つとして規定され、若年寄支配で大名の案内・着替えなどの雑事を勤めた)及び表坊主(城中で大名や諸役人の給仕を担当。同朋よりも格上)・奥坊主(特に江戸城奥向きにあって、茶室を管理し、将軍の茶や諸侯の接待・給仕などを担当した坊主。小納戸(こなんど)坊主とも称した。無論、表坊主よりも格上)の監督を掌った。
「詰」「つめ」。松平乗邑の屋敷で行われた茶会に呼ばれたことととる。茶事(ちゃじ)を「つめた」は茶会業務に従事したことの謂いでろうが、ホストの差配業務に徹していては茶菓子は食はれまい。
「柚みそ」底本では編者は「柚(ゆ)みそ」とルビする。柚子味噌。
「何ゆへ庭の柚と云ぞ」「何故、我が屋敷の庭の柚子と言えるのじゃ?」。
「路次」底本では「ろじ」とルビするが、私は「ろし」と清音で読みたい。なお、ここは茶室へ向かう路地であろう。
「油斷のならぬ坊主よと乘邑云れし」ここは鋭い観察眼を褒めた側面もあるものの、それ以上に寧ろ、風流の道を旨とする茶人のくせに、抜け目なく、庭の柚子の実の数なんぞを数える、謂わば、「徒然草」の柑子に囲いをするような俗僧に同じい、いやな一面をも感じとって、「油斷」「ならぬ」と言ったものと私は解する。
「數奇事」「すきごと」。茶事に関わる意見。
「扮々御手に入候」「さてさておんてにいりさふらふ」。「いやはや! お手の入ったご立派なる謂いで御座るな。」。
「同寮の者」順阿弥の同僚。
「快かるべし」「よかるべし」。乗邑は自身の怒り故の仮病と判っているから、「ああ。あれで発した病か。それならもう恢復したはずじゃ」と言って、暗に許すから「出て参れ」という意を含ませているのである。
「嚴剛も亦かくの如くなりしとぞ」「嚴剛」(げんがう)は格別に厳格なことであるが、「その厳格さもまたガチガチの一辺倒なのではなく、硬軟美事に使い分けるらるるさま、「かくの如」しであったとのことである、というのである。
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