芥川龍之介 手帳7 (1) 雍和宮
芥川龍之介 手帳7
[やぶちゃん注:実は私は既に「芥川龍之介中国旅行関連(『支那游記』関連)手帳(計2冊)」で本手帳の電子化を済ませている。しかし、今回は徹底的に注を附す形で、改めてゼロから作業に取り掛かる覚悟である。なお、現在、この資料は現存(藤沢市文書館蔵)するものの、破損の度合いが激しく判読不可能な箇所が多いことから、新全集は旧全集を底本としている。従ってここは旧全集を底本とした。であるからして、今までのような《7-1》のような表示はない。
本「手帳7」の原資料は新全集の「後記」によれば、発行年・発行元不詳で、上下十二・四センチメートル、左右六・五センチメートルの左開き手帳と推測される手帳とある。
但し、ここまでの新全集の原資料翻刻から推して、旧全集の句読点は編者に拠る追補である可能性すこぶる高いことが判明していることから、本電子化では句読点は除去することとし、概ね、そこは一字空けとした。但し、私の判断で字空けにするとおかしい(却って読み難くなる)箇所は詰めてある。逆に一部では連続性が疑われ、恣意的に字空けをした箇所もある。ともかくも、これは底本の旧全集のままではないということである。
適宜、当該箇所の直後に注を附したが、白兵戦の各個撃破型で叙述内容の確かさの自信はない。私の注釈の後は一行空けとした。
「○」は項目を区別するために旧全集編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。
本「手帳7」の記載推定時期は、新全集後記に『これらのメモの多くは中国旅行中に記された、と推測される』とある(芥川龍之介の大阪毎日新聞社中国特派員旅行は手帳の発行年と同じ大正十年の三月十九日東京発で、帰京は同年七月二十日である(但し、実際の中国及び朝鮮に滞在したのは三月三十日に上海着(一時、乾性肋膜炎で当地の病院に入院)、七月十二日に天津発で奉天・釜山を経た)。さらに、『この手帳に記されたメモと関わる作品は「手帳6」と重なるものが多い』とのみある。因みに、「手帳六」の構想メモのある決定稿作品を見ると、大正一〇(一九二一)年(「影」同年九月『改造』)が最も古い時期のもので、最も新しいのは「湖南の扇」(大正一五(一九二六)年一月『中央公論』)である。]
七
○赤壁 黃瓦 綠瓦壁(半分) 大理石階 ○黃 赤 紫のラマ 黃色の帽(bishop) ○惜字塔(靑銅)
[やぶちゃん注:「ラマ」既出既注のチベット仏教のラマ僧。
「黃色の帽(bishop)」「bishop」は本来はカトリックの「司教」や英国国教会の「主教」であるが、ここで芥川龍之介はラマ僧の最高位の者を指して言っているようである。とすると、この人物はラマ教の新教派である黄帽派のそれである可能性が強い。同派は十四世紀の高僧ツォンカパがラマ教の教風改革を図り、厳格な戒律実践を主張し、「ゲルー(徳行)派」を興したが、彼は法会に際し、僧帽を裏返しに被って黄色を表に出したことからこの派を「黄帽派」と呼ぶからである。次の条の頭で龍之介は「和合佛第六所東配殿」と記しており、ここ以下の描写は北京市東城区にある北京最大のチベット仏教寺院雍和宮(ようわきゅう)である。同宮殿は清の康熙三三(一六九四)年に皇子時代の雍正帝の居館として建築されたが、一七二二年に雍正帝が即位した後、皇帝の旧居を他人の住居とすることが憚られたことなどから寄進されて寺院となったものである。私の芥川龍之介「北京日記抄 一 雍和宮」の本文及び私の注も参照されたい。]
○和合佛第六所東配殿 繡幔 3靑面赤髮 綠皮 髑髏飾 火焰背 男數手 女兩手 人頭飾(白赤) 手に幡 孔雀羽 獨鈷戟 4女に牛臥せるあり 上に男 牛皮を着たる小男 男に對す 2象首の女をふむもの 1馬に人皮をかけ上にまたがる 人頭逆に垂れ舌を吐しこの神 口に小人を啣 ○大熊(半口怪物) 小熊 二武人(靑面 黑毛槍) ○銅鑼 太鼓 赤 金
[やぶちゃん注:「和合佛」芥川龍之介は「北京日記抄 一 雍和宮」の本文では「第六所東配殿に木彫りの歡喜佛四體あり」と、歓喜天として出し、非常に関心を持って描出しており、この条のメモ全体が非常に有効な素材とされていることが判る。リンク先の私の「第六所東配殿に木彫りの歡喜佛四體あり」注以下も参照されたい。
「繡幔」「しうまん(しゅうまん)」は刺繍を施したベール。「幔」は幕の意味であるが、縫い取りを施した綺麗な布・シーツであろうから、ベールとしておく。
「幡」「はた」。
「獨鈷戟」「どくこげき(どっこげき)」。先端に独鈷杵(とっこしょ)を装着した槍で本来はインドの実戦用の武器であるが、仏教では各種の菩薩が邪気を払う法具として持ち、精進努力を怠らず、菩提心を貫くことを象徴するという。
「逆に」「さかさに」。
「啣」「くはふ」。咥(くわ)えている。
「大熊(半口怪物) 小熊 二武人(靑面 黑毛槍)」「北京日記抄 一 雍和宮」の本文では、「歡喜佛第四號の隣には半ば口を開きたるやはり木彫りの大熊あり。この熊も因縁を聞いて見れば、定めし何かの象徴ならん。熊は前に武人二人(藍面にして黑毛をつけたる槍を持てり)、後(うしろ)に二匹の小熊を伴ふ」とある。]
○法輪殿 兩側ラマ席 黃綠の蒲團 中央に供米(boy 鯉 波)光背ニ鏡をはめた小像(金面) 正面に繡佛 前に白い法螺貝二つ 壁畫の下に山の如き經文あり 繡佛の後に五百羅漢あり 北淸事變の後本願寺大藏經を寄贈す
[やぶちゃん注:「法輪殿」永祐殿の背後にあり、法要・読経を行う祭殿。本来の御所の一部をチベット仏教形式に改築しているため、建物は十字型をし、屋上にはラマ教独特の小型の仏塔が立ち、殿内にはチベット仏教ゲルク派開祖ツォンカパの銅像が安置されている。雍和宮の建築群中、最も大きい。
「繡佛」「しうぶつ(しゅうぶつ)」。布地に刺繡で縫い現わした仏像。縫い仏(ぼとけ)。
「北淸事變」清朝末期の一八九九年から一九〇〇年に起こった義和団の乱の別称。日清戦争後、山東省の農民の間に起こった白蓮教の一派の武闘派秘密結社義和団が、生活に苦しむ農民を集めて起こした排外運動。各地で外国人やキリスト教会を襲い、北京の列国大公使館区域を包囲攻撃したため、日本を含む八ヶ国の連合軍が出動してこれを鎮圧、講和を定めた北京議定書によって中国の植民地化がさらに強まった。]
○照佛殿(地獄極樂圖アリ)○第十四所西配殿 十處綏成殿 九處萬福殿(三階) 第八照佛殿 第七處法輪殿 第六所東配殿 五永祐殿 雍和宮 ラマ説碑 寧阿殿(ラマラツパをふく) 天王殿(布袋(金) 現妙明心 乾隆 御碑 石獅 槐)
[やぶちゃん注:「照佛殿」観光された方の記載には現在の雍和宮には「照佛樓」なるものがあるらしいので、それか?
「西配殿」後の「東配殿」とともにこちら(個人サイト)で画像が見られる。
「綏成殿」「すゐせいでん」。建築群の最も北にある。現在の観光用地図には「綏成楼」とある。これは門を付随した建造物であろう。
「萬福殿」萬福閣が正しい。法輪殿と綏成殿(楼)の間中央にある。
「永祐殿」建築群(内裏相当の旧御所)のほぼ中央にあり、雍正帝が皇子であった時の居宅であった。雍正帝の死後、一時遺体が安置された。
「ラマ説碑」雍和門の左手前にある東八角碑亭と西八角碑亭のことか。一七四四年(乾隆八年)建立になる、雍和宮を喇嘛寺として喜捨した由来が白玉の石碑に、東に漢語と満州語、西に蒙古語とチベット語で記されているらしい。
「寧阿殿(ラマラツパをふく)」これは中央の狭義の雍和宮を囲むように東西の南北に建てられた四つの楼の内、西の北側に位置する扎寧阿殿(さつねいあでん)の誤りと思われる。「北京日記抄 一 雍和宮」の本文でも、「それから寧阿殿なりしと覺ゆ。ワンタン屋のチヤルメラに似たる音せしかば、ちよつと中を覗きて見しに、喇嘛僧二人、怪しげなる喇叭(らつぱ)を吹奏しゐたり。喇嘛僧と言ふもの、或は黄、或は赤、或は紫などの毛のつきたる三角帽を頂けるは多少の畫趣あるに違ひなけれど、どうも皆惡黨に思はれてならず。幾分にても好意を感じたるはこの二人の喇叭吹きだけなり」と喇叭を吹くラマ僧を描写している。
「天王殿」内部の正門昭泰門を入って最初に正面にある、雍和宮時代の主殿の一つ。通常のラマ教寺院と同じく、ここには未来仏たる弥勒及び韋駄天が祀られている。そのすぐ北に狭義の雍和宮があり、そこには過去仏(燃灯仏=定光仏:「阿含経」に現れる釈迦に将来成仏することを予言したとされる仏。)・現在仏(釈迦)・未来仏(弥勒)を表わす三世仏及び十八羅漢像が安置されている。
「現妙明心」不詳。経典類の総称か?]
○萬福 大栴檀木(ウンナン來) 七丈 片手に(右)嗒噠をかく 兩側に珊瑚樹(木製)あり 嗒噠をかく ○背後南海佛陀 龍 龍面人 鬼 鷗 鯉 海老 波 岩 陶佛大一小二
[やぶちゃん注:「大栴檀木」「だいせんぼく」であるが、私はビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン(白檀)Santalum
album のことではないかと思う。ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach があるが、中国ではビャクダン Santalum album のことを「栴檀」と称するからである。
「ウンナン」雲南省(地方)。
「七丈」約二十一・二一センチメートル。
「嗒噠」音なら「タウタツ(トウタツ)」であるが、ここでの意味が分からぬ。識者の御教授を乞う。
「南海佛陀」東南アジア経由で伝来したと思われる特徴を持った仏陀像のことか。]
○綏成殿 壁に千佛 三佛 賣不賣 首を切らると云ふ 萬福殿手前の樓上 馬面多頭の怪物(黃面 白面 靑面 赤面) 右足鳥 人をふみ左足、獸人をふむ 人頭飾 手に手 足 首 弓 鉞 坊主幕をとるにいくらかくれと云ふ 和合佛でないと云ふ あけてから 指爪があると云ふ ○關帝殿 (途中 石敷 コブシの大葉 赤壁)木像に衣をつくmogol 式 赤舌あり(左)
[やぶちゃん注:「北京日記抄 一 雍和宮」の本文では、「それから又中野君と石疊の上を歩いてゐたるに、萬福殿(ばんぷくでん)の手前の樓の上より堂守一人顏を出し、上つて來いと手招きをしたり。狹い梯子を上つて見れば、此處にも亦幕に蔽はれたる佛あれど、堂守容易に幕をとりてくれず。二十錢出せなどと手を出すのみ。やつと十錢に妥協し、幕をとつて拜し奉れば、藍面(らんめん)、白面(はくめん)、黃面(くわうめん)、馬面(ばめん)等(とう)を生やしたる怪物なり。おまけに又何本も腕を生やしたる上、(腕は斧や弓の外にも、人間の首や腕をふりかざしゐたり)右の脚(あし)は鳥の脚にして左の脚は獸(けもの)の脚なれば、頗る狂人の畫(ゑ)に類したりと言ふべし。されど豫期したる歡喜佛にはあらず。(尤もこの怪物は脚下に二人の人間を踏まへゐたり。)」と出る。「萬福殿」(正しくは萬福閣)は法輪殿と綏成殿(楼)の間中央にあるから誤りではない。
「木像に衣をつくmogol 式」仏像に実際の衣服を着せた着装像のことであるが、“mogol”は、インド古式の(モグール)ムガール式なのか、モンゴル式なのかは不明。もしかすると、ポルトガル語の“mogol”の意味で芥川は用いており、その衣服の素材を言っている可能性もあるかもしれない 所謂、金モールである ムガール帝国で好んで用いられた絹製紋織物の一種で、縦糸に絹糸を用い、横糸に金糸を使ったものが金モール、銀糸を使ったものが銀モールである。]
○ラマ畫師、西藏より來る (元明)七軒 30 or 40人 永豐號最もよし(恒豐號へ至る)一年に一萬二三千元賣れる 蒙古西藏に至る(佛□五萬)
[やぶちゃん注:「永豐號」「恒豐號」不詳。ラマ絵師の中で継承された名人雅号か? なお、ここまでが「雍和宮」。最後に中国の雍和宮公式サイト内の伽藍配置を示した図をリンクさせておく。]
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