譚海 卷之二 朝士笹山吉之助母堂の事
朝士笹山吉之助母堂の事
○官家の士に笹山吉之介なるもの有(あり)、その祖母は栗島通有と云(いふ)人の女(むすめ)にて、天壽[やぶちゃん注:底本には「壽」の右に『(樹)』とする。]院殿の侍女也。此天壽院と申(まうし)奉るは、豐臣秀賴公政所にて東照宮の御孫也。此祖母ある夜(よ)更(ふけ)て目ざめたるに、盜人(ぬすびと)藏の屋尻(やじり)をきる音を聞(きき)つけ、折しも吉之介御番の留守にて、孫を抱きゐられしが、ふところに抱(かかへ)ながら帶刀し、竊(ひそか)に土藏に入(いり)伺ひゐられけり。盜人ほどなく屋尻をきりすまし、穴よりはひ入(いる)處を祖母刀をぬきて盜人の首を切落(きりおと)し、死骸を穴より引入(ひきいれ)脇に片よせ置(おき)たるに、又一人穴よりはひ入(いる)ものあるを、また首を打落(うちおと)し前の如くして待居(まちゐ)られたり。ややしばらく音もなければ、最早盜人はなきかと穴よりのぞかれし時、頸(くび)をさし入(いる)る盜人と見合(みあひ)たるに、盜人大(おほき)におどろきいづちともなくにげうせぬ。是は盜人の大將なるべし。大坂戰場をへたる婦人は、格別膽(きも)のふとき事也と申(まうし)あへり。
[やぶちゃん注:「朝士」(てうし(ちょうし))「官家」幕府御家人のことであろう。
「笹山吉之助」不詳。「笹山吉之介」との違いはママ。ブログ「『鬼平犯科帳』Who's Who」のこちらに、笹山吉之助光官(みつのり:七十二歳・五百石・裏四番町)という名が出るが、同一人物かどうかは判らぬ。
「栗島通有」不詳。「くりしまみちあり」と一応、読んでおく。
「天樹院」(補正注で示した)徳川秀忠と継室江(ごう)の間に生まれ、豊臣秀頼・本多忠刻の正室となった千姫(慶長二(一五九七)年~寛文六(一六六六)年)の院号。慶長二〇(一六一五)年の「大坂夏の陣」では祖父家康の命により、落城する大坂城から救出された。直後に秀頼と側室の間に生まれていた娘天秀尼(慶長一四(一六〇九)年~正保二(一六四五)年)が処刑されそうになった際には千姫は彼女を自らの養女にして命を助けている。姫は彼女を自ら元和二(一六一六)年に桑名藩主本多忠政の嫡男本多忠刻(ただとき)と結婚したが、寛永三(一六二六)年には夫忠刻・姑熊姫・母江が次々と没するなどの不幸が続き、結局、本多家を娘勝姫とともに出て江戸城に入って出家し、娘と一緒に竹橋御殿で暮らした。寛永二〇(一六四三)年には鎌倉の東慶寺の伽藍を再建している(「駆け込み寺」として知られる同寺には豊臣秀頼の娘の天秀尼が千姫の養女として東慶寺に入って後に二十世住持となっている)。正保元(一六四四)年には家光の厄年を避けるために江戸城から移った弟徳川家光の側室夏(後の順性院)と、その後に生まれた家光の三男綱重と暮らすようになり、このことで大奥で大きな権力を持つようになったとされている(以上はウィキの「千姫」に拠った)。
「屋尻」戸締りしてある戸や窓或いは壁の裾などを指す。ここは後のシークエンスから見て、連子窓と思われる。そうした場所を切破って忍び入る窃盗・強盗の類いを「屋尻切(やじりきり)」と称した。
「戰場」「いくさば」と訓じておく。]
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