柴田宵曲 續妖異博物館 「佛と魔」(その3) 附小泉八雲“ Common Sense ”原文+田部隆次譯 / 「佛と魔」~了
佛徒が佛を奉ずるのはさる事ながら、信に徹せざる輩は往々にして魔に致される虞れがある。「宇治拾遺物語」にある伊吹山の念佛僧などはその適例であらう。この想は阿彌陀佛の外は何も知らず、多年念佛ばかり唱へて居つたが、或夜深く念佛の際、空に聲あつて「汝ねんごろに我をたのめり、今は念佛の數多く積りたれば、明日の未(ひつじ)の時に必ず必ず來りて迎ふべし、ゆめゆめ念佛怠るべからず」と告げた。僧は歡喜に堪へず、水を浴み香を焚き花を散らし、弟子どもにも念佛を唱へさせながら西に向つてゐると、佛像より金色の光りを放つさま、秋の月の雲間より現れ出づるが如くである。さまざまの花を降らし、白毫(びやくがう)の光りは僧の身を照らす。觀音が蓮臺を上げて僧の前に寄れば、紫雲厚くたなびき、僧は蓮臺に乘つて西の方に去る。坊に殘つた弟子達は、泣く泣く有難がつて居つたところ、七八日たつて奧山へ薪を探りに行つた下衆法師(げすほふし)が、遙かな瀧のところに差出た木の梢に何者か縛り付けられてゐるのを發見した。木登り上手の一人が登つて見たら、極樂へ迎へられた筈の師匠が裸のまま縛り付けてあつた。僧はこの期(ご)に及んでも佛に迎へられたことを信じ、縛を解くのを拒んだが、構はず坊に連れ歸つた。氣の毒な念佛僧は、人心地もなしに二三日を過して亡くなつた。「宇治拾遺物語」は「智慧なき聖はかく天狗にあざむかれけるなり」と評し、この最期を魔往生と稱へてゐる。
[やぶちゃん注:「伊吹山」現在の滋賀県米原市・岐阜県揖斐郡揖斐川町・不破郡関ケ原町に跨る伊吹山地の主峰。標高千三百七十七メートル。山頂は滋賀県米原市に属し、滋賀県の最高峰でもある。記紀に於いて倭建命がここの山の神との誤認の戦いによって致命的病態に陥って以来の古来の霊峰で、修験道の開祖役小角、白山開山の泰澄を始めとした連中によって山岳信仰のメッカとなり、九世紀に伝わった密教と結びついて修験の場として多くの寺院が山中に建立され隆盛を極めた(後の戦国時代の兵火で殆んどが焼失して残っていない。以上はウィキの「伊吹山」に拠る)。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「未(ひつじ)の時」午後二時前後。
これは「宇治拾遺物語」の第百六十九話「念佛僧、魔往生の事」。
*
昔、美濃國伊吹山に久く行ひたる聖(ひじり)有けり。阿彌陀佛よりほかの事しらず。他事なく念佛申(まうし)てぞ、年經(へ)にける。
夜深く、佛の御前に念佛申てゐたるに、空に聲ありて告げて云く、
「汝、念比(ねんごろ)に我れを賴めり。今は念佛の數(かず)、多く積りたれば、明日(あす)の未の時に、かならずかならず來たりて迎ふべし。ゆめゆめ、念佛おこたるべからず。」
と言ふ。その聲を聞きて、限りなく念比に念佛申して、水を浴(あ)み、香をたき、花を散らして、弟子どもに、念佛もろともに申させて、西にむかひてゐたり。
やうやう、ひらめくやうにする物あり。手を摺りて、念佛を申して見れば、佛の御身より、金色(こんじき)の光を放ちて、さし入りたり。秋の月の、雲間よりあらはれ出たるごとし。さまざまの花を降らし、白毫の光、聖の身を照らす。此時、聖、尻をさかさまになして拜み入る。數珠(ずず)の緖(を)も切れぬべし。觀音、蓮臺(れんだい)をさし上げて、聖の前に寄り給ふに、紫雲あつく棚引く。聖、はひ寄りて蓮臺に乘りぬ。さて、西の方(かた)へ去り給ひぬ。さて、坊に殘れる弟子共、なくなく貴(たうと)がりて、聖の後世(ごぜ)をとぶらひけり。
かくて、七日、八日、過ぎて後、坊の下種(げす)法師原(ばら)、
「念佛の僧に湯わかして、浴(あ)むせ奉らん。」
とて、木こりに、奧山に入りたりけるに、はるかなる瀧に、さし掩(おほ)ひたる杉の木あり。その木の梢に、さけぶ聲、しけり。怪しくて、見上げたれば、法師を裸になして、梢に縛りつけたり。木登りよくする法師、登りて見れば、極樂へ迎へられ給ひし我が師の聖を、葛(かづら)にて縛り付けて置きたり。此の法師、
「いかに我師は、かかる目をば、御覽ずるぞ。」
とて、寄りて、繩を解きければ、
「『今、迎へんずるぞ。その程、しばしかくてゐたれ』とて、佛のおはしまししをば、なにしに、かく解きゆるすぞ。」
といひけれども、寄りて解きければ、
「阿彌陀佛、我れを殺す人あり。をうをう。」
とぞ、叫びける。されども法師原、あまた登りて、解きおろして、坊へ具して行きたれば、弟子ども、
「心うき事なり。」
と歎き惑ひけり。聖は、人心もなくて、二、三日斗(ばか)りありて死にけり。
智惠なき聖は、かく天狗に欺かれけるなり。
*]
「十訓抄」にあるのは千手陀羅尼の持者となつてゐるけれど、ところも同じ伊吹山で、高い木の梢に縛り付けられるのだから、全く同じ話であらう。三善淸行なども噂を聞いて、この僧に逢つて話をしたことがあり、この人は行德あるやうに見えるが、無智であるから、終には魔界のためにたぶらかされるであらう、と云つたさうである。正にその言の通りであつた。
[やぶちゃん注:「千手陀羅尼」千手観音の徳について説いた梵語の呪文。これを唱えれば、千手観音の功力(くりき)によって救済されると信じられた。
「三善淸行」(きよゆき/きよつら 承和一四(八四七)年~延喜一八(九一九)年))は公卿・漢学者。ウィキの「三善清行」によれば、『淡路守三善氏吉の三男。正義感に溢れた経世家で権威に屈せず、そのために官位が停滞したと言われている』。『巨勢文雄に師事。大学寮に入って紀伝道』(大学寮に於ける歴史(主に中国史)を教授した学科)を修め、二十七歳で文章生(もんじょうしょう:漢文学学科有資格者)、翌年には文章得業生(とくごうしょう:同文章生中の優秀生二名に与えられる文章博士(大学寮紀伝道教官)の候補生)となり、三十七歳で方略式(大学寮の最難関の国家資格試験)に『合格した。一度官吏の登用試験に落ちたが、この時の試験官が菅原道真で、後にことあるごとに道真と対立することになる。また紀長谷雄等代々の文章博士との激しい論争でも知られる』。仁和三(八八七)年、大内記(中務省直属の官で詔勅・宣命・位記の起草・天皇の行動記録を職掌としていた内記の長官職)に属したに任ぜられ、同年の阿衡(あこう)事件(阿衡の紛議:宇多天皇が即位した際に藤原基経を関白とする勅書の中の「よろしく阿衡の任を以て、卿の任となすべし」の語について基経が阿衡は位のみで職掌を伴わないとして政務を放棄してしまい、遂に天皇が勅書を書き改めた事件)に『際しては藤原佐世・紀長谷雄とともに所見を述べ、橘広相の説を退けた』(最初の勅書(書き換えがあって二度出ている)は殷代の故事を橘広相が引用したものであった)。昌泰三(九〇〇)年に晴れて文章博士に就任、翌年には大学頭となった』。その頃、藤原時平と対立、『朝廷内で孤立を深めつつあった菅原道真に対して書簡を呈して引退を勧告したが、道真は長年の確執からこれを退けてしまう。ただし、書簡を受け取る』前、『道真は既に幾度も、政治家をやめ』、『学業に専念したいので辞退したい、と宇多天皇に上申していたが、悉く却下されている。やがて清行の危惧は』的中し、昌泰の変(昌泰四(九〇一)年一月に左大臣藤原時平の讒言によって醍醐天皇が右大臣菅原道真を大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善(みなもとのよし)らを左遷又は流罪にした事件)で失脚してしまう。なお、この時、『清行は時平に対して、道真の関係者全てを連座の対象とすると、道真の祖父清公以来の門人が全て処罰の対象となり』、『朝廷が機能停止に陥る事を指摘し、処分を道真の親族と宇多上皇の側近のみに留めたことや、清行が道真の嫡男高視の失脚で後任の大学頭に就いたことから、清行の政変への関与も指摘されている』。『陰陽天文に明るく』、昌泰四年は『讖緯説による辛酉革命の年に当たると指摘、「延喜」と改元することを提唱して革命勘文・辛酉改元の端緒を開』いている。その後、「延喜格式」の『編纂に参加。文章博士・大学頭・式部大輔の三儒職を兼任』、延喜一四(九一四)年には朝廷の求めに応じ、「意見封事十二箇条」を上奏した後、七十一歳で『参議に昇り、宮内卿を兼ねた』とある。
これは「十訓抄」の「第七 可專思慮事」(思慮を專らにすべき事)の中の以下の一条。
*
延喜年中頃、美濃國伊吹の山に、千手陀羅尼の持者、住みけり。二、三十日なれども、斷食にて、驗得(げんどく)[やぶちゃん注:加持や祈禱(きとう)によって霊験を得ること。]のかたがた、不思議多かりける間、遠近(をちこち)の貴賤、集まり拜みける時に、善宰相淸行卿、これを聞き亙りて、彼(か)の所へおはして、この僧に對面して物語し給ひけるが、かたはらの人々に語りて云く、
「この人は、かく行德あるやうなれども、無智の間、終(つひ)には魔界のためにたぶらかさるべし。」
と云ひて、歸り給ひにけり。
その後(のち)、ほど經て、或る時に、諸(もろもろ)の天女、紫雲に乘りて、妓樂をなし、玉の輿を飾り來て、この僧を迎へ取りて去りにけり。見る者、幾(いくば)く、皆、奇異の思ひをなしたりけるほどに、四、五日ありて、樵父(きこり)の、山へ入りたりければ、遙かに高き木の上に、蚊の鳴くやうにて、人のうめく聲、聞えけるを、怪しみて、人に告げたりければ、近邊の住人、集りて是れを見るに、人の樣(やう)には見なしたれども、たやすく昇るべき木ならねば、鷹の巢下(おろ)す者を、やとひて、のぼせたりければ、法師を木の末に結び付けたり。やうやうに支度をして、解き下(おろ)したるを見るに、この千手陀羅尼の持者なりけり。あさましとも愚かにて、具し歸り、さまざまあつかひければ、命ばかりは生きたりけれども、惚々(ほれぼれ)として[やぶちゃん注:ひどくぼんやりしていて。]、云ふかひなければ、行德施すにも及ばず。
これは、かの僧のすすめることにはあらず、天魔の所爲なれども、愚かなるより起れる上、先のこと[やぶちゃん注:「十訓抄」の、この話の直前の話。実は「續妖異博物館 「空を飛ぶ話」(3)」に梗概が出、私が注で原話を既に電子化してある。参照されたい。そっちの方がビジュアルに遙かに面白い。]に相ひ似たる間、註(しる)す。
これらは扨ておきつ。然(しか)るべき人の習ひとして、心をはかり見むために、何ごとをも、あらはに見せ知らせず、心を𢌞らして、つくりも出だし、云ひもせられたらむを、能々(よくよく)案じ𢌞らして、不覺せぬやうに振舞ふべし。萬(よろづ)に付けて用意深くして、人のあざむき、たばからむことなどをも、能々思慮すべし。その案に墜つまじきなり。
*]
「宇治拾遺物語」にあるもう一つの例は「獵師佛を射る事」である。愛宕山に年久しく住む聖が普賢菩薩を目のあたり拜むといふ話を懇意な獵師に聞かせ、そなたも今夜泊つて拜んだらよからう、と勸めた。聖に使はれてゐる童も已に五六度拜んだといふ。獵師は果して自分に拜めるだらうかと疑ひながら、その夜は寢ずに待つてゐると、九月二十日の月が東の山から出るらしく、坊の内が明るくなつて來た。その時白象に乘つた普賢菩薩が坊の前に現れたので、聖は淚を流して禮拜する。倂し獵師は合點が往かなかつた。多年修行を積み經を讀む聖の目に見えるのは不思議もないが、この童や自分にまで菩薩が見えるのはいぶかしい。一つ試して見ようと尖り矢を弓につがへ、禮拜しつゝある聖の上から差越すやうにひようと射た。矢は菩薩の胸に中(あた)つた樣子で、今までの光りは一時に消え失せた。何といふことをしてくれたのだ、と聖は泣き惑ふこと限りもなかつたが、獵師はしづかにかう云つた。あなた方なればこそ菩薩も拜まれませうが、私のやうな罪深い者にまで拜まれるのが不審なので、試しに矢を射て見たのです、まことの佛ならば矢は立ちますまい、立つた以上は怪しい者に相違ありません。――
[やぶちゃん注:「愛宕山」(あたごやま)は現在の京都府京都市右京区の北西部の嵯峨、山城国と丹波国の国境に跨る山で、山頂に愛宕神社があり、古来より火伏せの神として信仰を集め、全国各地に愛宕権現信仰として広がっている。
ここと次の段に続く以上のそれは、私が幼少時より、後に出る小泉八雲のそれを皮切りとしてひどく偏愛してきた話である。まず、ここの「宇治拾遺物語」のそれは、第百四話「獵師、佛を射る事」である。
*
昔、愛宕の山に久しく行ふ聖(ひじり)ありけり。年比(としごろ)行ひて、坊を出づる事なし。西の方(かた)に、獵師あり。この聖を貴(たうと)みて、常にはまうでて、物奉りなどしけり。久しく參らざりければ、餌袋(ゑぶくろ)[やぶちゃん注:元来は鷹狩の鷹の餌を入れて携帯する袋を指したが、後に人の食糧を入れて携行するものとなった。]に干飯(ほしいひ)など入れて、まうでたり。聖、悦びて、日比のおぼつかなさ[やぶちゃん注:遇わずにいた間の相互の消息や心配事。僧の生活の不如意の謂いとする訳もあるようだが、私は採らない。それでは初めっから、バカ坊主になるからである。]などの給ふ。その中にゐよりてのたまふやうは、
「この程、いみじく貴き事あり。此年來(としごろ)、他念なく經をたもち奉りてある驗(しるし)やらん、この夜比(よごろ)、普賢菩薩、象に乘りて見え給ふ。今宵、とどまりて拜給へ。」
といひければ、この獵師、
「よに貴きことにこそ候なれ。さらば、泊りて拜み奉らん。」
とて、とどまりぬ。
さて、聖の使ふ童(わらは)のあるに、問ふ、
「聖のたまふやう、いかなることぞや。おのれもこの佛をば、拜み參らせたるや。」
と問へば、
「童は、五、六度ぞ、見奉りて候ふ。」
と言ふに、獵師、
「われも見奉ることもやある。」
とて、聖の後(うしろ)に、いねもせずして起きゐたり。
九月二十日の事なれば、夜も長し、今や今やと待つに、夜半(よは)過ぎぬらんとおもふ程に、東の山の峰より、月の出づるやうに見えて、峰の嵐もすさまじきに、この坊の内、光さし入たるやうにて、明(あか)くなりぬ。見れば、普賢菩薩、白象(びやうざう)に乘りて、やうやう、おはしてはべり、坊の前に立ち給へり。
聖、泣く泣く拜みて、
「いかに、ぬし殿は拜み奉るや。」
と言ひければ、
「いかがは。この童も拜み奉る。をいをい、いみじう貴し。」
とて[やぶちゃん注:と狩人は申し上げながらも。]、獵師、思ふやう、
「聖は、年比、經をも、たもち、讀み給へばこそ、その目ばかりに見え給はめ、この童、我が身などは、經の向きたるかたもしらぬに、見え給へるは、心得られぬこと也。」
と心のうちに思ひて、
「このこと、試みてむ、これ、罪(つみ)得べきことにあらず。」
と思ひて、尖(とが)り矢を弓につがひて、聖の拜み入りたる上よりさし越して、弓を強く引きて、ひやう、と射たりければ、御胸の程にあたるやうにて、火をうち消(け)つごとくにて、光も失せぬ。谷へとどろめきて、逃げ行く音す。
聖、
「これはいかにし給へるぞ。」
と言ひて、泣き惑ふ事かぎりなし。
男、申しけるは、
「『聖の目にこそみえ給はめ、わが罪深き者の目に見え給へば、試み奉らむ』と思ひて射つるなり。まことの佛ならば、よも矢は立ち給はじ。されば、怪しき物なり。」
と言ひけり。
夜明けて、血をとめて[やぶちゃん注:血糊の跡を問い求めて。]、行きて見ければ、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかり行きて、谷の底に大きなる狸(たぬき)の、胸より尖り矢を射通されて、死して伏せりけり。
聖なれど、無智なれば、かやうに化(ば)かされけるなり。獵師なれども、慮(おもんぱかり)ありければ、狸を射害(いがいし)[やぶちゃん注:射殺(いころ)し。]、その化けをあらはしけるなり。
*]
夜が明けてから血の跡を辿つて行くと、一町ばかり行つた谷の底に、大きな狸が胸を射通されて死んでゐた。「聖なれど無智なればかやうにばかされけるなり、獵師なれども慮ありければ狸を射害、そのばけをあらはしけるなり」といふのが「宇治拾遺物語」の批評であるが、小泉八雲は「骨董」の中にこの話を書いて「常識」と題した。「慮」といふ言葉が常識に當るらしい。
[やぶちゃん注:「慮」「おもんぱかり」。考えをめぐらすこと。思慮。
『小泉八雲は「骨董」の中にこの話を書いて「常識」と題した』以下に見る通り、英文原題は。“Common Sense”(「常識」)である。柴田は「慮」の訳語としては不満がありそうな口吻であるが、しかし、私はこの題が与えられたことによって、この本邦の古い伝承は永劫に優れた名品として、多くの人に読み継がれることとなったのだと思う。八雲先生に快哉!!!
小泉八雲のそれは一九〇二年刊の“Kottō: Being Japanese Curios, with Sundry Cobwebs”(「骨董――ぞわぞわとした蜘蛛の巣に塗れた日本の骨董品」)の中の、“Common Sense”である。まず、原文を示す(普賢菩薩の注は我々には不要と考え、除去した)。
*
Common Sense
ONCE there lived upon the mountain called Atagoyama, near Kyōto, a certain learned priest who devoted all his time to meditation and the study of the sacred books. The little temple in which he dwelt was far from any village ; and he could not, in such a solitude, have obtained without help the common necessaries of life. But several devout country people regularly contributed to his maintenance, bringing him each month supplies of vegetables and of rice.
Among these good folk there was a certain hunter, who sometimes visited the mountain in search of game. One day, when this hunter had brought a bag of rice to the temple, the priest said to him : —
" Friend, I must tell you that wonderful things have happened here since the last time I saw you. I do not certainly know why such things should have happened in my unworthy presence. But you are aware that I have been meditating, and reciting the sutras daily, for many years ; and it is possible that what has been vouchsafed me is due to the merit obtained through these religious exercises. I am not sure of this. But I am sure that Fugen Bosatsu comes nightly to this temple, riding upon his elephant. . . . Stay here with me this night, friend ; then you will be able to see and to worship the Buddha."
" To witness so holy a vision," the hunter repHed, " were a privilege indeed ! Most gladly I shall stay, and worship with you."
So the hunter remained at the temple. But while the priest was engaged in his religious exercises, the hunter began to think about the promised miracle, and to doubt whether such a thing could be. And the more he thought, the more he doubted. There was a little boy in the temple, — an acolyte, — and the hunter found an opportunity to question the boy.
"The priest told me," said the hunter, "that Fugen Bosatsu comes to this temple every night. Have you also seen Fugen Bosatsu ? "
" Six times, already," the acolyte replied, " I have seen and reverently worshipped Fugen Bosatsu."
This declaration only served to increase the hunter's suspicions, though he did not in the least doubt the truthfulness of the boy. He reflected, however, that he would probably be able to see whatever the boy had seen ; and he waited with eagerness for the hour of the promised vision.
Shortly before midnight the priest announced that it was time to prepare for the coming of Fugen Bosatsu. The doors of the little temple were thrown open ; and the priest knelt down at the threshold, with his face to the east. The acolyte knelt at his left hand, and the hunter respectfully placed himself behind the priest.
It was the night of the twentieth of the ninth month, — a dreary, dark, and very windy night; and the three waited a long time for the coming of Fugen Bosatsu. But at last a point of white light appeared, like a star, in the direction of the east; and this light approached quickly, — growing larger and larger as it came, and illuminating all the slope of the mountain. Presently the light took shape — the shape of a being divine, riding upon a snow-white elephant with six tusks. And, in another moment, the elephant with its shining rider arrived before the temple, and there stood towering, like a mountain of moonlight, — wonderful and weird.
Then the priest and the boy, prostrating themselves, began with exceeding fervour to repeat the holy invocation to Fugen Bosatsu. But suddenly the hunter rose up behind them, bow in hand ; and, bending his bow to the full, he sent a long arrow whizzing straight at the luminous Buddha, into whose breast it sank up to the very feathers.
Immediately, with a sound like a thunder-clap, the white light vanished, and the vision disappeared. Before the temple there was nothing but windy darkness.
" O miserable man ! " cried out the priest, with tears of shame and despair, " O most wretched and wicked man ! what have you done ? — what have you done ? "
But the hunter received the reproaches of the priest without any sign of compunction or of anger. Then he said, very gently : —
"Reverend sir, please try to calm yourself, and listen to me. You thought that you were able to see Fugen Bosatsu because of some merit obtained through your constant meditations and your recitation of the sutras. But if that had been the case, the Buddha would have appeared to you only — not to me, nor even to the boy. I am an ignorant hunter, and my occupation is to kill ; — and the taking of life is hateful to the Buddhas. How then should I be able to see Fugen Bosatsu ? I have been taught that the Buddhas are everywhere about us, and that we remain unable to see them because of our ignorance and our imperfections. You — being a learned priest of pure life — might indeed acquire such enlightenment as would enable you to see the Buddhas ; but how should a man who kills animals for his livelihood find the power to see the divine ? Both I and this little boy could see all that you saw. And let me now assure you, reverend sir, that what you saw was not Fugen Bosatsu, but a goblinry intended to deceive you — perhaps even to destroy you. I beg that you will try to control your feelings until daybreak. Then I will prove to you the truth of what I have said."
At sunrise the hunter and the priest examined the spot where the vision had been standing, and they discovered a thin trail of blood. And after having followed this trail to a hollow some hundred paces away, they came upon the body of a great badger, transfixed by the hunter's arrow.
The priest, although a learned and pious person, had easily been deceived by a badger. But the hunter, an ignorant and irreligiousman was,gifted with strong common sense; and by mother-wit alone he was able at once to detect and to destroy a dangerous illusion.
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次にこちらにある、同作の田部隆次(パブリック・ドメイン)氏訳になる「常識」を電子化しておく。画像は新潮文庫昭和二五(一九五〇)年発行初版の古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」である。
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常 識
昔、京都に近い愛宕山に、默想と讀經に餘念のない高僧があつた。住んでゐた小さい寺は、どの村からも遠く離れてゐた、そんな淋しい處では誰かの世話がなくては日常の生活にも不自由するばかりであつたらうが、信心深い田舍の人々が代る代るきまつて每月米や野菜を持つて來て、この高僧の生活をささへてくれた。
この善男善女のうちに獵師が一人ゐた、この男はこの山へ獲物をあさりにも度々來た。或日のこと、この獵師がお寺ヘ一袋の米を持つて來た時、僧は云つた。
『一つお前に話したい事がある。この前會つてから、ここで不思議な事がある。どうして愚僧のやうなものの眼前に、こんな事が現れるのか分らない。しかし、お前の知つての通り、愚僧は年來每日讀經默想をして居るので、今度授かつた事は、その行ひの功德かとも思はれるが、それもたしかではない。しかし、たしかに每晩、普賢菩薩が白象に乘つてこのお寺へお見えになる。……今夜愚僧と一緒に、ここにゐて御覽。その佛樣を拜む事ができる』
『そんな尊い佛が拜めるとはどれほど有難いことか分りません。喜んで御一緒に拜みます』と獵師は答へた。
そこで獵師は寺にとどまつた。しかし僧が勤行にいそしんで居る間に、獵師はこれから實現されようと云ふ奇蹟について考へ出した。それからこんな事のあり得べきかどうかについて疑ひ出した。考へるにつれて疑は增すばかりであつた。寺に小僧がゐた、――そこで獵師は小僧に折を見て聞いた。
『聖人のお話では普賢菩薩は每晩この寺へお見えになるさうだが、あなたも拜んだのですか』獵師は云つた。
『はい、もう六度、私は恭しく普賢菩薩を拜みました』小僧は答へた。獵師は小僧の言を少しも疑はなかつたが、この答によつて疑は一層增すばかりであつた。小僧は一體何を見たのであらうか、それも今に分るであらう、かう思ひ直して約束の出現の時を熱心に待つてゐた。
眞夜中少し前に、僧は普賢菩薩の見えさせ給ふ用意の時なる事を知らせた。小さいお寺の戸はあけ放たれた。僧は顏を東の方に向けて入口に跪いた。小僧はその左に跪いた、獵師は恭しく僧のうしろに席を取つた。
九月二十日の夜であつた、――淋しい、暗い、それから風の烈しい夜であつた、三人は長い間普賢菩薩の出現の時を待つてゐた。やうやくのことで東の方に、星のやうな一點の白い光が見えた、それからこの光は素早く近づいて來た――段々大きくなつて來て、山の斜面を殘らず照した。やがてその光は或姿――六本の牙のある雪白の象に乘つた聖い菩薩の姿となつた。さうして光り輝ける乘手をのせた象は直ぐお寺の前に着いた、月光の山のやうに、――不可思議にも、ものすごくも、――高く聳えてそこに立つた。
その時僧と小僧は平伏して異常の熱心をもつて普賢菩薩への讀經を始めた。ところが不意に獵師は二人の背後に立ち上り、手に弓を取つて滿月の如く引きしぼり、光明の普賢菩薩に向つて長い矢をひゆつと射た、すると矢は菩薩の胸に深く、羽根のところまでもつきささつた。
突然、落雷のやうな音響とともに白い光は消えて、菩薩の姿も見えなくなつた。お寺の前はただ暗い風があるだけであつた。
『情けない男だ』僧は悔恨絶望の淚とともに叫んだ。『何と云ふお前は極惡非道の人だ。お前は何をしたのだ、何をしてくれたのだ』
しかし獵師は僧の非難を聞いても何等後悔憤怒の色を表はさなかつた。それから甚だ穩かに云つた。――
『聖人樣、どうか落ちついて、私の云ふ事を聞いて下さい。あなたは年來の修業と讀經の功德によつて、普賢菩薩を拜む事ができるのだと御考へになりました。それなら佛樣は私やこの小僧には見えず――聖人樣にだけお見えになる筈だと考へます。私は無學な獵師で、私の職業は殺生です、――ものの生命を取る事は、佛樣はお嫌ひです。それでどうして普賢菩薩が拜めませう。佛樣は四方八方どこにでもおいでになる、ただ凡夫は愚痴蒙昧のために拜む事ができないと聞いて居ります。聖人樣は――淨い生活をして居られる高僧でいらせられるから――佛を拜めるやうなさとりを開かれませう、しかし生計のために生物を殺すやうなものは、どうして佛樣を拜む力など得られませう。それに私もこの小僧も二人とも聖人樣の御覽になつたとほりのものを見ました。それで聖人樣に申し上げますが、御覽になつたものは普賢菩薩ではなくてあなたをだまして――事によれば、あなたを殺さうとする何か化物に相違ありません。どうか夜の明けるまで我慢して下さい。さうしたら私の云ふ事の間違でない證據を御覽に入れませう』
日出とともに獵師と僧は、その姿の立つてゐた處を調べて、うすい血の跡を發見した。それからその跡をたどつて數百步離れたうつろに着いた、そこで、獵師の矢に貫かれた大きな狸の死體を見た。
博學にして信心深い人であつたが僧は狸に容易にだまされてゐた。しかし獵師は無學無信心ではあつたが、強い常識を生れながらもつてゐた、この生れながらもつてゐた常識だけで直ちに危險な迷を看破し、かつそれを退治する事ができた。
(田部隆次譯)
Common Sense.(Kotto.)
*]
神通自在の天狗ならばまだしも、狸に致されるに至つては、その信に間隙ありと見倣さざるを得ぬ。伊吹山の聖の話は「今昔物語」には三修禪師といふ名が出てゐる。愛宕山で獵師に射られるのも「今昔物語」では猪である。猪が狸に化けるのは奇拔だが、異説として附け加へて置く。
[やぶちゃん注:『伊吹山の聖の話は「今昔物語」には三修禪師といふ名が出てゐる』「三修禪師」は実は実在した法相宗の碩学で、小学館「古典文学全集」版の「今昔物語集」(馬淵・国東・今野訳注/昭和五四(一九七九)年刊(第五版))の注によれば、『菅野氏。東大寺の僧』で『少年にして出家、霊山を巡礼修行し、仁寿年中』(八五一年~八五四年)、『伊吹山に登山止住。元慶二』(八七八)『年二月十三日、三修の奏請によって伊吹山護国寺が定額寺』(じょうがくじ:奈良・平安時代に官大寺・国分寺に次ぐ寺格を有した仏教寺院)『に列せられた。寛平六』(八九四)『年維摩会講師、同七年』には『任権律師』となり、『昌泰三』(九〇〇)『年五月十二日没。年七十二』。『湖東三山の一、西明寺』の草創者でもあり、『後代』には『身軽きこと三朱(約五グラム)の飛行自在の三朱沙門と称せられた』とある知られた高僧である(下線やぶちゃん)。何故、そんな彼がここで無能な僧とされて、ここに描かれているのか? これはどうも寺門間の法論に関わる対立が原因らしい。興味のある方は、田中徳定氏の論文「三修禅師魔往生譚の流伝をめぐって――『三国伝燈記』の記事を手掛りとして――」(PDF)を読まれたい。以上は、先の「宇治拾遺物語」に先行する酷似した同源の話。「今昔物語集」の「卷第二十」の「伊吹山三修禪師得天狗迎語第十二」(伊吹の山の三修(さむしゆ)禪師、天狗の迎へを得る語(こと)第十二)である。煩を厭わず示す。
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今は昔、美濃の國に伊吹の山と云ふ山有り。其の山に久しく行ふ聖人(しやうにん)有り。心に智り無くして、法文(ほふもん)を不學(まなば)ず。只、彌陀の念佛を唱ふるより外の事、不知(しらず)。名をば三修禪師とぞ云ひける。他念無く念佛を唱へて、多くの年を經にけり。
而る間、夜(よ)深く念佛を唱へて、佛の御前に居たるに、空に音(こゑ)有りて、聖人に告げて云く、
「汝、懃(ねむごろ)に我れを憑(たの)めり。念佛の員(かず)多く積りにたれば、明日の未(ひつじ)の時に、我れ來たりて、汝を迎ふべし。努々(ゆめゆめ)、念佛怠る事無かれ。」
と。聖人、此の音(こゑ)を聞て後、彌よ心を至して念佛を唱へて、怠る事無し。
既に明くる日に成りぬれば、聖人、沐浴し淸淨(しやうじやう)にして、香を燒き、花を散(ちら)して、弟子共に告げて、諸共(もろとも)に念佛を唱へて、西に向ひて居たり。
而る間、未の時下(さが)る程[やぶちゃん注:午後三時頃。]に、西の山の峰の松の木の隙(ひま)より、漸(やうや)く曜(かかや)き光る樣に見ゆ。聖人、此れを見て、彌(いよい)よ念佛を唱へて、掌(たなごころ)を合せて見れば、佛の綠の御頭(おほんかしら)、指し出で給へり。金色(こんじき)の光を至せり。御髮(みぐし)の際(きは)は金(こがね)の色を磨(みが)けり。眉間は秋の月の空に曜くが如くにて、御額(ひたひ)に白き光りを至せり。二つの眉は三日月の如し。二つの靑蓮(しやうれん)の御眼見(まみ)延びて[やぶちゃん注:離れたところから見えて。]、漸く月の出づるが如し。又、樣々の菩薩、微妙(みめう)の音樂を調べて、貴(たふと)き事限り無し。又、空より樣々の花降る事、雨の如し。佛、眉間の光りを差して、此の聖人の面(おもて)を照らし給ふ。聖人、他念無く禮(をが)み入りて、念珠の緒も可絶(たゆべ)し。
而る間、紫の雲厚く聳えきて、庵の上に立ち渡る。其の時に、觀音、紫金(しこん)[やぶちゃん注:紫磨金(しまごん)。紫色を帯びた純粋の黄金。]の臺を捧げて、聖人の前に寄り給ふ。聖人、這ひ寄りて、其の蓮華(れんぐゑ)に乘りぬ。佛、聖人を迎へ取りて、遙かに西を差して去り給ひぬ。弟子等(ら)、此れを見て、念佛を唱へて貴ぶ事、限り無し。其の後(のち)、弟子等、其の日の夕(ゆふべ)より、其の坊にして、念佛を始めて、彌よ聖人の後(あと)を訪(とぶら)ふ[やぶちゃん注:後世(ごぜ)・冥福を祈る。]。
其の後(のち)、七八日を經て、其の坊の下僧(げそう)等、念佛の僧共(ども)に沐浴せしめむが爲に、薪(たきぎ)を伐りに奧の山に入りたるに、遙かに谷に差し覆ひたる高き椙(すぎ)の木有り。其の木の末に、遙かに叫ぶ者の音(こゑ)有り。吉(よ)く見れば、法師を裸にして、縛りて、木の末(すゑ)に結(ゆ)ひ付けたり。此れを見て、木昇り爲(す)る法師、卽ち昇りて見れば、極樂に被迎(むかへら)れ給ひし我が師を、葛(かづら)を斷りて縛り付けたる也けり。法師、此れを見て、
「我が君は何(いか)で此(かか)る目は御覽ずるぞ。」
と云ひて、泣々(なくな)く寄りて解(と)きければ、聖人、
「佛の、『今、迎へに來たらむ。暫く、此(か)くて有れ』と宣ひつるに、何の故に解き下(おろ)すぞ。」
と云ひけれども、寄りて解きければ、
「阿彌陀佛、我れを殺す人有りや、をうをう。」
とぞ、音(こゑ)を擧げて叫びける。
然れども、法師原(ばら)、數(あま)た昇りて、解き下して、坊に將(ゐ)て行たりければ、坊の弟子共、心踈(う)がりて[やぶちゃん注:嘆き、悲しがって。]、泣き合へり。聖人、移し心[やぶちゃん注:正気。]も無く、狂心(わうしん)のみ有りて、二、三日許り有ける程に、死にけり。
心を發(おこ)して、貴き聖人也と云へども、智惠無ければ、此くぞ天宮(てんぐ)[やぶちゃん注:「天狗」に同じい。]に被謀(たばかられ)ける。
弟子共、又、云ふ甲斐無し。
如此(かくのごとき)の魔緣[やぶちゃん注:天魔の眷属。]と、三寶(さんぽう)の境界(きやうがい)とは、更に似ざりける事を、智(さと)り無きが故に不知(しら)ずして、被謀(たばからる)る也、となむ語り傳へたるとや。
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『愛宕山で獵師に射られるのも「今昔物語」では猪である』「今昔物語集」の「卷第二十」の「愛宕護山聖人被謀野猪語第十三」(愛宕護(あたご)の山(やま)の聖人、野猪(くさゐなぎ)に謀(たばか)らるる語(こと)第十三)。(この注の先の引用の直続きである)やはり、否、好きな話だから、煩を厭わず示す。なお、字面だけを見ると、宵曲のように「猪」(いのしし)であるが、この原典のルビ(但し、これは後人が附したものと推定されている)は不祥な読みで、今のイノシシではなく狸・貉(むじな/アナグマ)の古称かともされることは言い添えておく。
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今は昔、愛宕護の山に久しく行なふ持經者(ぢきやうしや)の聖人有りけり。年來(としごろ)、法花經を持(たも)ち奉りて、他(ほか)の念(おもひ)無くして、坊の外に出づる事、無かりけり。智惠無くして、法文(ほふもん)を學ばざりけり。
而るに、其の山の西の方に、一人の獵師、有りけり。鹿・猪(ゐのしし)を射殺すを以つて役(やく)とせり。然(しか)れども、此の獵師、此の聖人をなむ懃ろに貴びて、常に自らも來たり、折節には可然物(しかるべきもの)などを志(こころざし)ける。
而る間、獵師、久しく此の聖人の許(もと)に不詣(まうで)ざりければ、餌袋(ゑぶくろ)に可然(しかるべき)菓子(くだもの)など入れて、持て詣でたり。聖人、喜びて、日來の不審(いぶか)しき事共など云ふに[やぶちゃん注:こちらの方が良い。互いに遇わなかった間の安否・消息を問うたのである。]、聖人、居寄りて、獵師に云く、
「近來(このごろ)、極めて貴き事なむ侍る。我れ、年來(としごろ)、他(ほか)の念(おもひ)無く、法花經を持(た)もち奉りて有る驗(しるし)にや有らむ、近來、夜々、普賢なむ現じ給ふ。然(しか)れば、今夜(こよ)ひ留(とどま)りて、禮(をが)み奉り給へ。」
と。獵師、
「極めて貴き事にこそ候ふなれ。然(さ)らば、留りて、禮み奉らむ。」
と云ひて、留りぬ。
而る間、聖人の弟子に幼き童(わらは)有り。此の獵師、童に問ひて云く、
「聖人の『普賢の現じ給ふ』と宣ふは、汝もや、其の普賢をば、見奉る。」
と。童、
「然(し)か。五、六度許りは見奉たり。」
と答ふ。獵師の思はく、
「然らば、我も見奉る樣も有りなむ。」
と思ひて、獵師、聖人の後(しりへ)に、不寢(いね)ずして居たり。
九月(ながつき)廿日餘りの事なれば、夜(よ)、尤も長し。夕(ゆふべ)より、今や今やと待ちて居たるに、夜中は過ぎやしぬらむと思ふ程に、東の峰の方(かた)より、月の初めて出づるが如くて、白(しら)み明くる。峰の風、吹き掃ふ樣にして、此の坊の内も、月の光の指し入りたる樣に、明るく成りぬ。
見れば、白き色の菩薩、白象(びやくざう)に乘りて、漸(やうや)く下り御ます。其の有樣、實(まこと)に哀れに貴し。菩薩、來りて、房に向ひたる所に近く立ち給へり。
聖人、泣々(なくなく)禮拜恭敬(らいはいくぎやう)し、後(しりへ)に有る獵師に云く、
「何ぞ。主(ぬし)は禮(おが)み奉り給ふや。」
と。獵師、
「極めて貴く禮み奉る。」
と答へて、心の内に思はく、
「聖人の、年來(としごろ)、法花經を持(たも)ち奉り給はむ目に見え給はむは、尤(もつとも)可然(しかるべ)し。此の童・我が身などは、經をも知り不奉(たてまつら)ぬ目(め)に、此(か)く見え給ふは、極めて怪しき事也。此れを試み奉らむに、信(しん)を發(おこ)さむが爲(ため)なれば、更に罪(つみ)可得(うべき)事にも非じ。」
と思ひて、鋭鴈矢(とがりや)[やぶちゃん注:獣殺傷用の鋭く尖った征矢(そや)の鏃(やじり)に、箭(せん)に四枚の羽の附けてある矢。]を弓に番(つが)ひて、聖人の禮(おが)み入りて、低(ひ)れ臥したる上より差し越して、弓を強く引きて射たれば、菩薩の御胸(おほんむね)に當る樣にして、火を打ち消(け)つ樣に、光りも失せぬ。谷(たに)ざまに、動(どよ)みて、逃げぬる音(おと)す。
其の時に、聖人、
「此(こ)は何(いか)にし給ひつる事ぞ。」
と云ひて、呼ばひ泣き迷(まど)ふ事、限り無し。
獵師の云く、
「穴鎌(あなかま)給へ[やぶちゃん注:「穴」「鎌」ともに当て字。人声や物音をたてることをことを制止する際の発語で、ここは「どうか、お静かになさりませ!」の意。]。心も得ず怪しく思(おぼ)えつれば、『試みむ』と思ひて射つる也。更に罪(つみ)得給はじ。」
と懃ろに誘(こしら)へ云けれども[やぶちゃん注:宥めすかしたけれども。]、聖人の悲しび不止(やま)ず。
夜明けて後(のち)、菩薩の立ち給へる所を、行きて見れば、血、多く流れたり。其の血を尋ねて、行きて見れば、一町許り下(くだ)りて、谷底に大きなる野猪(くさゐなぎ)の、胸より鋭鴈矢(とがりや)を背に射通されて、死に臥せりけり。聖人、此れを見て、悲びの心、醒めにけり。
然(しか)れば、聖人也と云へども、智惠無き者は、此く被謀(たばからる)る也。役(やく)と[やぶちゃん注:副詞。専ら。]罪を造る獵師也と云へども、思慮(おもぱかり)有れば、此く野猪(くさゐなぎ)をも射(い)顯(あら)はす也けり[やぶちゃん注:その化けの皮を剝いで正体を暴露させることも出来るのである。]。此樣(かやう)の獸(けだもの)は、此く人を謀(たばか)らむと爲(す)る也。然(さ)る程に、此く命を亡ぼす、益(やく)無き事也、となむ語り傳へたるとや。
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倂し菩薩來迎の話は必ずしも日本の愛宕山にはじまるものではない。唐の代州に一女あり、兄は遠く征途に上つてゐるので、母と共に家を守つてゐると、忽然として雲に乘つた菩薩が現れ、母に向つて、汝の家甚だよろし、我れこゝに居らんと欲す、速かに修理すべし、と告げた。修理は忽ち村人の手によつて行はれ、菩薩は五色の雲と共にその室に下つた。「宇治拾遺」の普賢菩薩は聖と小僧とが禮拜しただけだから、廣く世間に知れ渡らなかつたが、この方は最初から村人を煩はしたので、彼等はそれからそれへと奇瑞を傳へ、信心の輩は次ぎ次ぎに集まつて來た。然るにその菩薩が女と私通するといふ事實があり、馬脚ではない狐脚をあらはしかけたところで、兄の歸還といふ段取りになつた。菩薩は男子を見るを欲せずと云ひ、母をしてこれを逐はしめた爲、兄は家に入ることが出來ない。そこで財を傾けて道士を求め、道士が祕法を修した結果、菩薩は一老狐に過ぎぬことが明かになつた。老狐は斬られて事が終るのである(廣異記)。
[やぶちゃん注:「代州」山西省北東部の古称。
以上は「廣異記」の「代州民」。
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唐代州民有一女、其兄遠戍不在、母與女獨居。忽見菩薩乘雲而至、謂母曰、「汝家甚善、吾欲居之、可速修理、尋當來也。」。村人競往。處置適畢、菩薩馭五色雲來下其室。村人供養甚眾。仍敕眾等不令有言、恐四方信心、往來不止。村人以是相戒、不説其事。菩薩與女私通有娠。經年、其兄還、菩薩云、「不欲見男子。」。令母逐之。兒不得至、因傾財求道士。久之、有道士爲作法、竊視菩薩、是一老狐、乃持刀入、砍殺之。
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この菩薩は愛宕山で普賢菩薩となつて現れた狸よりも更に程度が低い。村人の信仰を集め得たあたりで消え去れば、一時の榮華で身を全うすることが出來たのに、慾にからんで一所に執著したのが誤りであつた。娘との關係の暴露するのを恐れ、母親をして兄の入るを拒ましめるに至つては、この種の徒に屢々見る最後のあがきに外ならぬ。これだけの狂言を書く以上、年ふる狐だつたには相違ないが、その質は上等ではなかつたのであらう。早く身の破滅を招いたのは眞正の菩薩の祟りかも知れぬ。