柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その2)
この話はいつ頃日本に傳はつたものか知らぬが、全部が「太平記」のやうに書いてあると考へては間違ひを生ずる。平康賴の書いたといふ「寶物集」は大體同じやうな事だけれど、最後に三つの頭の鼎の中でぐるぐる巡る樣を、巴にかたどつたといふ一項が加へられてゐる。更に時代の古い「今昔物語」を見ると、眉間尺の頸を持參した者は干將の友人ではない。楚王の命を受けた使が山中で眉間尺に逢ひ、自分は君の頸と劍とを尋ねる者だと云つたら、眉間尺自ら頸を斬つて與へたことになつてゐる。この邊からして已にわからぬのに、楚王の頸は糊付けか何かのやうに、鼎の中を窺ふ時に自然と落ちるのである。二つの頸の食ひ合ふのを見て、頸を持參した使が眉間尺を弱らせんがために劍を鼎に投ずるのはいゝとして、使の頸もまた自然に落ちる。「三ノ頭交リ合テ何卜云フコトヲ知ラズ」といふのだから、勿論巴の由來などはない。かういふ場合はあまり諸書を參酌しない方がいゝかも知れぬ。
[やぶちゃん注:「寶物集」(ほうぶつしふ)は白河院の近臣で鹿ヶ谷 (ししがたに) の議に参加して俊寛らとともに鬼界ヶ島に流されたが、翌年には許されて帰り、仏門に入った平康頼著(生没年未詳 法名:性照)の著。治承年間(一一七七年~一一八一年)頃の成立か。嵯峨の釈迦堂に於ける会話の聞書の形式を採り、多くの説話を例に引きながら仏法を説いた仏教説話集。そうした構成のため、引用話は独立した章としては書かれていない。当該話柄は「卷五」の「楚王干將を殺す 付 介之推(かいしすい)が文公を恨みし事」の前半部。私は所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来た。当該箇所も短いので、当該部(前を少しだけ付随させた)を視認して以下に電子化しておく。
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楚王の干將が劔をせめし[やぶちゃん注:「責めし」。]終りに。眉間尺が恨を蒙り。夫差の伍員(ごうん)を失ふ末に越王勾踐に亡さる。周伯夷が首陽山に飢えし。武王の仁いつくしみ)の心がなきが故なり。介子推(かいしすい)が綿上山に燒けし。文公の政を恨みしなり。楚王干將といふ鍛治に劔を責め給ひて。干將が首を刎ねられしかぱ。その子の眉間尺といひし者。憤を舍みて父の怨を報ぜんとしけるに。干將が古の朋友の人憐みて。其に謀りていはく。汝その劔頭を三寸瞰ひ切り口中に含んで死すべし。我れ汝が首を持ちて楚王に獻せば。王心解けて汝が首を見給ふべし。その時口に含める劔の頭を楚王に吐懸けて。共に怨を謝すべしとぞ申しける。眉間尺是を聞き大に悦び。劔頭を口に含みて自ら己が首を撥(はね)落し。舊友の前にぞ置きたりける。朋友その首を楚王に獻すれば。王喜んで獄門に掛けらるゝに。三月までその首その目を怒らし齒を食ひしばり。常に齒がみを爲しける程に。楚王恐れて鼎に入れて七日七夜煎らる。楚王鼎の蓋を明けさせ見給ふに。彼の含める劔頭を潑(はつ)と吐懸けつれば。その劔あやまたず楚王の頭の骨を切り落し。鼎の中にて王の頭と眉間尺が頭と。上に成り下に成り喰合ひけるに。動もすれぱ眉間尺が頭喰ひ負けぬべう見えければ。朋友自ら己が首を撥(はね)落し鼎の中に入れ。諸共に楚王の頭を喰破りて。眉間尺が頭は死の後父の怨を報ずと呼(よば)はり。朋友の首は。泉下に朋友の恩を謝すと悦び聲して。後共に煎爛(にえくさ)りにけり。その三の頭の鼎の中にして巡る樣を。巴には形どれる共申し給ひるめれ。
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「今昔物語集」のそれは「巻第九」の「震旦莫耶造釼献王被殺子眉間尺語第四十四」(震旦(しんだん)の莫耶(まくや)、釼(つるぎ)を造りて王に献じたるに、子の眉間尺を殺されたる語(こと)第四十四)である。標題はママであるが、言葉が足らず、内容を充分に伝えるものとなっていない。□は欠字。
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今は昔、震旦の□□代に莫耶と云ふ人、有りけり。此れ、鐡(くろがね)の工(たくみ)也。
其の時に、國王の后、夏の暑さに不堪(たへ)ずして、常に鐡の柱を抱き給ふ。而る間、后、懐妊して産せり。見れば、鐡の精(たま)を生(しやう)じたり。国王、此の事を怪び給ひて、
「此れは何(いか)なる事ぞ。」
と問ひ給へば、后の云く、
「我れ、更に犯す事、無し。只、暑さに不堪ずして、鐡の柱をなむ、常に抱(いだ)きし。若(も)し、其の故に有る事にや。」
と。國王、
「其の故也けり。」と思ひ給て、彼の鐡の工、莫耶を召して、其の生じたる鐡を以て、寶の釼(つるぎ)を造らしめ給ふ。
莫耶、其の鐡を給はりて、釼を二つ造りて、一つをば國王に奉りつ。一つをば隱して置きつ。國王、其の莫耶が奉れる所の一つの釼を納めて置き給ひたるに、其の釼、常に鳴る。國王、此れを怪しび給ひて、大臣に問ひ給ふ。
「此の釼の鳴る、何(いか)なる事ぞ。」
と。大臣、申して云く、
「此の釼の鳴る事は、必ず樣(やう)有るべし。此の釼、定めて夫妻(めをと)二つ有るらむか。然れば、一を戀ひて鳴る也。」
と。
國王、此れを聞きて、大きに嗔(いか)りて、忽ちに莫耶を召して、罪を行はむと爲るに、未だ其の召使の莫耶が所に不至(いたらざ)る前に、莫耶、妻に語りて云く、
「我れ、今夜(こよひ)、惡しき相(さう)を見つ。必ず、國王の使ひ、來らむとす。我れ、死せむ事、疑ひ無し。汝が懷妊する所の子、若し、男子ならば、勢長(せいちやう)の時に、『南の山の松の中を見よ』と語るべし。」
と云ひて、北の門より出でて、南の山に入りて、大きなる木の中に隱れて、遂に死にけり。
其の後、妻、男子を生ぜり。其の子、十五歳に成る時に、眉間、一尺有り。然れば、名を「眉間尺」と付きたり。母、父の遺言を具さに語る。子、母が教への如く行きて見れば、一つの釼(つるぎ)、有り。此れを取りて、
「父の敵(かたき)を報ぜむ。」
と思ふ心、有り。
而る間に、國王、夢に見給ふ樣(やう)、眉間一尺有る者、世に有りて、謀叛(むほん)して、我れを殺害(せつがい)せむとすと。
夢覺めて、恐(お)ぢ怖れて、卽ち、四方に宣旨を下して、
「世に眉間一尺有る者、定めて有らむ。其れを捕へて奉れ。若(も)しは、其の頸を取りて奉らむ者には、千金を與へ、賞を給ふべし。」
と。
其の時に、眉間尺、此の事を自然(おのづか)らに聞きて、逃げ隱れて、深き山に入りぬ。宣旨を奉りたる輩(ともがら)は、足手を運びて、四方に伺ひ求むる間、眉間尺、山の中にして、此の使に會ひぬ。使、見るに、眉間一尺有る者有り。喜びて、問ひて云く、
「君は眉間尺と云ふ人か。」
と。答へて云く、
「我れ、然(しか)也。」
と。使の云く、
「我等、宣旨を奉(うけたま)はりて、君が頭(かしら)と、持ちたる所の釼とを尋(たづぬ)る也。」
と。其の時に、眉間尺、自ら釼を以つて、頭(かしら)を斬りて、使に與へつ。使、頭を得て、返りて、國王に奉る。国王、喜び給ひて、使に賞を給ふ。
其の後、眉間尺が頭を使に給へて、
「速かに此れを可煮失(にうしなふべ)き也。」
と仰せ給ふ。使、仰せの如くに、其の頭を鑊(かなへ)に入れて、七日、煮るに、全く不亂(みだれ)ず[やぶちゃん注:煮崩れない。]。其の由を奏すれば、國王、怪しび給ひて、自ら鑊の所に行きて、見給ふ間に、國王の頭(かしら)、自然(おのづか)ら落ちて、鑊の中に入りぬ。二つの頭、咋(く)ひ合ひ諍(あらそ)ふ事、限り無し。使、此れを見て、
「奇異也。」
と思ひて、眉間尺が頭(かしら)を弱らしめむが爲に、釼(つるぎ)を鑊(かなへ)の中に擲(な)げ入る。
其の時に、二の頭(かしら)、共に亂れぬ。使、亦、鑊(かなへ)の中を見る間に、亦、使の頭、自然(おのづか)ら落ちて、鑊の中に入りぬ。然れば、三(みつ)の頭、交はり合ひて、何と云ふ事を不知(しら)ず。此れに依りて、一つの墓を造りて、三の頭(かしら)を葬(はふ)りしてけり。
其の墓、于今(いまに)尚(なほ)、宜春縣と云ふ所に有るとなむ、語り傳へたるとや。
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