北條九代記 卷第十一 准后貞子九十の賀
○准后貞子九十の賀
夫(それ)、人間世(にんげんせん)の有樣、古(いにしへ)今に亙(わたつ)て、上壽は百年、中壽は八十、下壽は六十歳、猶、是までも存(ながらへ)難く夭傷(えうしやう)する者、數知らず。人生七十古來稀なりとこそ云ふに、此、此世にめでたき御事とて、京、田舍、申し傳へ、いみじき事に持(もて)はやすは、鷲尾(わしのをの)大納言隆衡(たかひら)卿の娘貞子(さだこ)は、故西園寺相國實氏公の北の政所なり。御子(おんこ)、數多(あまた)設けらる。中にも御娘(おんむすめ)は本院、新院の御母后(おんぼこう)、大宮〔の〕女院とて、院號、蒙(かうぶ)らせ給へば、御母も外祖母にて、北山の准后(じゆごう)從一位の宣を蒙り、當今(たうぎん)、東宮の御爲には曾祖母なり。本朝、古來、御后(おんきさき)の珍圖(めづらし)き例(ためし)ありといへども、或は壽(ことぶき)短うして皇子(みこ)の御在位を見給はず、或は皇子の帝に後れて長き命を悔ゆるもあり。この大宮の女院は、帝三代の國母(こくも)にて、主上後宇多、東宮伏見院を御孫に持ち、我が御母の准后は、猶、存生(そんじやう)にて、一家の富榮(ふえい)なる事、申すも愚(おろか)なり。准后從一位貞子、今年、九十の賀、行はる。誠に以て例(ためし)少き果報なりとて、同八年二月上旬、主上、北山へ行幸(ぎやうかう)あり。新院、本院、東宮も行啓(ぎやうけい)にて、舞樂、歌の會、その下々(したじた)まで酒宴、遊興、程々に付けて賜(たまもの)あり。
[やぶちゃん注:「准后貞子」四条(藤原)貞子(さだこ 建久七(一一九六)年~正安四(一三〇二)年)は西園寺実氏(既に注しているが、親幕派の公家として知られ、第三代将軍源実朝が暗殺された鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の儀式にも参列しており、承久の乱の際には後鳥羽上皇の命令によって父公経とともに幽閉されている。寛喜三(一二三一)年に内大臣、嘉禄元(一二三五)年に右大臣、寛元四(一二四六)年には太政大臣まで登りつめ、関東申次・院評定衆も兼務した)の正室。父は権大納言四条隆衡(後に出る「鷲尾大納言」は彼の通称)、母は坊門信清(後鳥羽天皇の外叔父で娘で貞子の姉信子は源実朝の室)女である。父隆衡の母は平清盛の女(建礼門院の同母妹)であり、清盛の曾孫に当たる。西園寺実氏の室となり、嘉禄元(一二二五)年に姞子(きつし:後の後嵯峨天皇中宮・大宮院)を、貞永元(一二三二)年に公子(きんし:後の後深草天皇中宮・東二条院)を生んだ。逝去した時は数えで実に百七歳で、まさに現代から見ても正真正銘の長寿であった(以上は主にウィキの「四条貞子」に拠った)。ここに出る弘安八(一二八五)年二月三十日に催された彼女の九十の賀の華やかな様子は「増鏡」の「第十 老のなみ」の最後に異様に詳しく述べられてあり、本条もそれを参考に極度に圧縮したものと思われる。当初は原文を引くつもりであったが、あまりに長く、それをこれだけ切り詰めた筆者の気持ちを考えると、引用する気にならなくなった。悪しからず。但し、ご要望があれば示す。なお、何度も注しているが、再掲しておくと、「准后」(「じゅんこう」とも読む)は、朝廷に於いて太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた者を言い、准三后(じゅさんごう)・准三宮(じゅさんぐう)とも称した。ここは女性だが、「后」があるために勘違いされる方が多いので言っておくと、これは男女とは関係がない。
「人生七十古來稀なり」知られた杜甫の七律「曲江」中の一句。
「御娘(おんむすめ)」後嵯峨天皇中宮姞子。
「本院」後深草天皇。
「新院」亀山天皇。
「當今(たうぎん)」今上天皇である後宇多天皇。
「東宮」後の伏見天皇。この後の弘安十年十月即位。彼の「御爲には曾祖母なり」とあるのは、これは貞子の次女公子が後深草天皇の后となった関係から、後深草天皇の第二皇子であった彼(母は左大臣洞院実雄の娘愔子(いんし))が公子の義理の子となったことから、かく言っている。
「帝三代」誤り。「大宮〔の〕女院」姞子は後深草天皇と亀山天皇の母であるから「二代」が正しい。
「同八年二月上旬」おかしい。これは貞子の九十の慶賀の前日で二月二十九日である。]