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2017/06/06

柴田宵曲 續妖異博物館 「押手聖天」

 

 押手聖天

 

 相州鎌倉宿の下に押手聖天(おしでしやうでん)といふ歡喜天を祭るところがあつた。その緣起によれば、むかし官女を戀うた男があつて、叡山の聖天に祈り、神助によつて時々逢ふことが出來た。官女が黃昏時には行方不明になるのに不審を懷いた宮中の人々が本人に質(ただ)すと、自分の意思ではなしに夢の如く誘はれて行くのだといふ。然らば手に墨を濺いで、その家の門の戸に押して來たらよからうと勸め、教への通りにして見たが、翌日人を遣はして見させたところ、京中の戸には悉く手の形が押してあつたので、どれがどれだかわからなくなつた。

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之三」に(リンク先は私の全電子テクスト注)、

   *

靑梅聖天 靑梅聖天(あをむめのしやうでん)は、雪下(ゆきのした)より小袋坂(こふくろさか)へ登る左に小坂(こさか)あり。巖窟(いはや)の内に聖天の宮(みや)有。故に坂を聖天坂と云ふ。是を靑梅の聖天と云事は、俗に傳ふ、鎌倉の將軍、一日疾(やま)ひ劇(はなは)だしふして、時ならず靑梅を望まる。諸所を尋ぬるに、此宮の前に俄かに靑梅實(み)のる。是を將軍に奉て、終に疾ひ愈へぬ。故に名くと。

   *

とのみ出る。これは実は現存し、現在の雪ノ下二丁目、旧巨福呂坂切通(現在は民家で行き止まりになっていて通行は不能であるが、江戸末期まではこの旧切通)の傍らに立つが、あまり知られているとは言えない。南北朝期の作とされる双身歓喜天を祀る(私は残念ながら写真のみで実見したことはない。現在は七月十六日の例祭時以外は国宝館寄託か? アンドエム氏のブログ「恵比寿ゲイバーアンドエムのブログ」の「鎌倉×密教展」で後姿の写真が見られる。かなり人型に近いそれである(一般の歓喜天は人身象頭)ことは分かるものの、やはり鼻は象である)。ところが、実は同じ書の「卷之一」(同じく私の電子テクスト注)の鶴岡八幡宮の、かつて存在した僧坊「相承院」の条に、

   *

相承院 初は頓學坊・良嘉律師たり。平家の一門なり。寛喜三年十月七日に寂す。八十二。本尊は、正觀音也。【東鑑】に、治承四年八月廿四日。椙山(すぎやま)敗亡の時、賴朝髻(もとゞり)の中の正觀音の像を取て、或(ある)巖窟に安じ奉らる。土肥實平(とひのさねひら)、其の御意(をんこゝろ)を問(とひ)奉るに、仰(をほせ)に云、首(くび)を景親(かげちか)等(ら)に傳(つたふ)るの日(ひ)、此本尊を見ば、源氏の大將軍の所爲に非るの由、人定て誹(そしり)を貽(のこす)べし。件(くだん)の尊像は、賴朝三歳の時、乳母(めのと)淸水寺に參籠せしめ、嬰兒の將來を祈る事懇篤にして、二七箇日を歷ヘて靈夢の告を蒙り、忽然として、二寸の銀の正觀音の像を得て歸敬し奉る所也。同年十二月廿五日、巖窟に納らるゝ所の小像の正觀音、慧光坊の弟子閼伽桶(あかをけ)の中に安じ奉り、鎌倉に參著す。數日山中を搜し、彼巖窟に遇て希有にして尋ね出し奉るの由申す。武衞合手(てをあはせ)請取(うけとり)給ふとあり。今此の木像の頂に納(をさめ)てあり。又、押手(をして)の聖天(しやうてん)と云ふ。此(こゝ)にあり。是は本(もと)叡山にあり。後一條帝の時、左京の大夫道雅(みちまさ)、伊勢の齋宮(いつきのみや)を戀(こふ)て、「今は只(たゝ)思ひ絶(たへ)なんとばかりを、人つてならていふよしもかな」と詠じて、且つ此の聖天に祈る。其の利生により、齋宮、男の家に通ひ給ふ。此事宮中に顯はれて、其の由を糺し問(とふ)に、齋宮、我が心共なく夢の如(ごとく)にさそわれ行(ゆく)となん。羣臣謀(はかつ)て、齋宮の手に墨を付(つけ)て行(ゆき)、彼の門(もん)に押(をさ)しむ。歸(かへり)て後(のち)、人をして見せしむるに、路中の門々(もんもん)に皆手形(てがた)ありて、何れをそれと知(しり)がたし。是れ聖天の所爲也。佛力とは云ながら、齋宮をかくせし罪(つみ)なりとて、鎌倉に捨られしを、此(こゝ)に安ずとなり。故に押手の聖天と云。縁起に詳(つまびらか)なり。此の聖天は、慈覺大師異國より將來の像也と云ふ。

   *

とある後半部と完全に一致する話柄である。ここに出る「左京の大夫道雅」は公卿で歌人の藤原通雅(正暦三(九九二)年~天喜二(一〇五四)年)。儀同三司伊周長男で、一条天皇皇后定子の甥に当たる。幼児期は祖父中関白道隆に溺愛されて育ったが、道長の政権奪取、父伊周の花山院への不敬事件(長徳の変)などによる実家の中関白家の凋落する中で成長、世に「荒三位」「悪三位」と呼ばれ、殺人教唆を含む数々のスキャンダルに飾られた人生を送っているが、本件はその一つで、長和五(一〇一六)年九月に伊勢斎宮を退下し帰京した当子内親王(長保三(一〇〇一)年~治安二(一〇二二)年):三条天皇第一皇女。)と密通、これを知った内親王の父三条院の怒りに触れて勅勘を被った事件を指す。ウィキの「当子内親王」によれば、『二人の手引きをしていた乳母の中将内侍をも追放し、内親王は母娍子のもとに引き取られて道雅との仲を裂かれてしまう。世間では「伊勢物語の斎宮であればともかく、この内親王は既に斎宮を退下しているのだから」と同情する声もあったが、内親王は悲しみのうちに』翌寛仁元(一〇一七)年、病により出家している。その六年後に短い生涯を閉じた、とある。一方、通雅は和歌に巧みで、中古三十六歌仙の一人としても知られ、「小倉百人一首」には道雅がこの当子内親王に贈った歌が採られている。「後拾遺和歌集」の詞書を附して併詠された二首も加えて以下に掲げておく(底本は岩波新日本古典大系版を用いたが、恣意的に正字に直した)。

 

   伊勢の齋宮わたりよりのぼりて侍りける人に

   忍びて通ひけることをおほやけも聞しめして

   守り女など付けさせ給ひて、忍びにも通はず

   なりにければ、詠み侍りける 左京大夫通雅

 

 逢坂は東路とこそ聞くきしかど心づくしの關にぞありける

 

 さかき葉のゆふしでかけしその神にをしかへしても似たるころかな

 

 いまはたゞ思ひ絶えなんとばかりを人づてならでいふよしもがな

 

案外、この二首目当たりがこの「押手の聖天」のルーツかも知れない。但し、実は私は最終的に、この相承院にあったとする聖天像と、青梅聖天のそれは、残念ながら、全くの別物であったと判断している。それについては、私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  靑梅聖天」の私の注を参照されたい。

 

 天野信景はこの話を「鹽尻」に書いて、「唐の書に見え侍らぬにや」と云つてゐるが、これは二つに分けて考ふべき要素があるやうである。一つは例のアリ・ババの話にある女奴隷モルギアナの才覺で、アリ・ババの家を突き止めた盜賊が、扉の上に白墨で目じるしを付けて歸ると、モルギアナは直ちにそれを發見して、近所の家の扉に皆同じ目じるしを付けてしまふ。第二の盜賊は赤い白墨を用ゐたが、これもモルギアナの炯眼に看破されて、折角の目じるしが二度まで失敗に了る話である。かういふ目じるしを無數にする話は、世界お伽噺の中の「夢の三郎」にもあつた。楚の莊王が群臣に酒を賜うた時、燭の消えたのに乘じて美人の衣を引く者があり、美人がその冠の纓(えい)を絶つたと聞き、王が群臣に皆纓を絶たしめて、誰だかわからぬやうにした「説苑」の話なども、動機は少し違ふけれど、同じ範疇に入るべきものであらう。

[やぶちゃん注:「天野信景」(あまのさだかげ 寛文三(一六六三)年~享保一八(一七三三)年)は江戸中期の尾張藩士で国学者、「塩尻」は彼が元禄一〇(一六九七)年頃に起筆し、歿年まで書き継がれた、国史・地誌・文学など多岐に亙る全千巻とも伝えられる壮大な随筆集(現存するものは百七十巻に過ぎない)。私は所持しないので、そちらの原典は示せない。国立国会図書館デジタルコレクションにあるにはあるが、捜すのが頗る面倒なので諦めた。悪しからず。

「女奴隷モルギアナ」「アリババと四十人の盗賊」に登場する、アリババの兄で強欲なカシムの家に仕えていた若くて聡明な女奴隷。「モルジアナ」「マルジャーナ」などと音写する。カシムが盗賊らに殺された後はアリババを助け、ウィキの「アリババと40人の盗賊」によれば、結末で『盗賊たちは、聡明なモルジアナの機転により』、『全員返り討ちにされ』、『この功績によって、モルジアナは奴隷の身分から一躍カシムの息子の妻になり、洞穴の中に残っていた莫大な財宝は国中の貧しい人たちに分け与えられて、アリババの家は末永く栄えた』とある。なお、彼女のこの名は「小さな真珠」の意味があり、『かつてアラビアでは、奴隷を宝石・珊瑚・真珠・花などの名で呼ぶ風習があった』ことによる、とある。因みに、『「ババ」という言葉は、アラビア語・ペルシャ語で「お父さん」の意』であり、また、実は本物語は『『アラビアンナイト』(千夜一夜物語)の中の一編として認識されることが多いが、『アラビアンナイト』の原本には収録されていなかった』ともある。

『世界お伽噺の中の「夢の三郎」』巖谷小波編になる「世界お伽噺」(合本は明治四一(一九〇八)年博文館刊)に載る。原話はハンガリーのもの。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらから視認出来る。小波が元としたフランツ・オットー(Franz Otto)のDer Jugend Lieblings-Märchenschatz(「少年少女のためのメルヒェン集」)では「末子(すえこ)の夢」と題されているらしい。

「楚の莊王が群臣に酒を賜うた時、燭の消えたのに乘じて美人の衣を引く者があり、美人がその冠の纓(えい)を絶つたと聞き、王が群臣に皆纓を絶たしめて、誰だかわからぬやうにした」「纓」は冠を被った際に顎の下で結ぶ付属の紐のこと。これが載る「説苑」(ぜいえん)は前漢の学者で政治家の劉向(りゅうきょう 紀元前七七年~紀元前六年)の撰(或いは編)になる故事・説話集で、以上の話は以下の「復恩」の下線部。

   *

楚莊王賜群臣酒、日暮酒酣、燈燭滅、乃有人引美人之衣者、美人援其冠纓、告王曰、「今者燭滅、有引妾衣者、妾援得其冠纓持之、趣火來上、視絶纓者。」。王曰、「賜人酒、使醉失禮、奈何欲顯婦人之節而辱士乎。」。乃命左右曰、「今日與寡人飲、不絶冠纓者不懽。」。群臣百有餘人皆絶去其冠纓而上火、卒盡懽而罷。居三年、晉與楚戰、有一臣常在前、五合五奮、首卻敵、卒得勝之、莊王怪而問曰、「寡人德薄、又未嘗異子、子何故出死不疑如是。」。對曰、「臣當死、往者醉失禮、王隱忍不加誅也。臣終不敢以蔭蔽之德而不顯報王也。常願肝腦塗地、用頸血湔敵久矣、臣乃夜絶纓者。」。遂敗晉軍、楚得以強、此有陰德者必有陽報也。

   *

しかし、宵曲は肝心要の後日談をカットしている。即ち、

   *

 その三年後のこと、晋と楚が戦ったが、その場に荘王の覚えのない(彼にとっては見知らぬ)一人の臣下が、常に先頭に立って戦い続け、五戦する間、五回とも敵の首を落し、そのためにその戦闘に勝つことが出来た。王は不審に思い、その者に、

「私の不徳とするところであるが、これまでそなたには目をかけてこなかった。そなたは何故に、そうまで、死力を尽くさんとするのか。」

と。すると、男はそれに答えた。

「我らはこれ、既に一度死んだも当然の者にて御座います。以前、酔うて無礼を働いた折り、王御自身が、我らに隠徳を施して下さったお蔭で、誅さるることを免れました。我らはそのように、全く表立たぬ形で――王御自身、誰に恩を施したかも判らぬ形で、御恩恵を敢えて忝くもお受け申したわけで御座います。さればこそ、我が王への御報恩のため、常に戦さ場では腸や脳髄をぶちまけてでも、己(おの)が頸から吹き出る血を敵に浴びせ掛けんとする日のやって来ることを、ずっと心から願って参ったので御座います。――あの夜、冠の纓を切られたのは――我らなので御座います。」

と。かくて王は晋軍を敗走させ、楚はその強さを示し得たのであった。

 さすれば、隠れて施した恩恵にも、必ずや、目に見えた報恩があるものなのである。

   *

である。これをつけないと、この話、ピンときませんぜ、宵曲センセ!

 

 もう一つは官女喪失の件で、この方は明かに唐の「妖妄傳」にある。開元中に宮禁に美人あり、夜夢の如く人に邀(むか)へ去られ、歡を極めて歸る。この事を帝に奏したところ、それは衞士の所爲にきまつてゐる、もしまた同じ事があつたならば、何かにしるしを留め來れといふことであつた。その夕夢中に誘ひ去られたので、半醉の裡に石硯のあるを認め、ひそかに手の形を曲房の屛風に印した。よつて遍く(あまね)宮觀中を物色し、東明觀の屛風にその跡を發見したが、道士は已にいづれへか遁れ去つてゐた。

[やぶちゃん注:「妖妄傳」唐の朱希濟の撰になる伝奇小説集。

「邀(むか)へ」「迎へ」に同じい。

「曲房」家屋内の部屋の意。

「觀」道教の寺院・祭祀場。

 以上については「太平廣記」の「幻術二」に「開天傳信記」を出典として「東明觀道士」として載るのは見つけたので、それを示す。

   *

唐開元中、宮禁有美人、忽夜夢被人邀去、縱酒密會、極歡而歸、歸輒流汗倦怠。後因從容奏於帝、帝曰。此必術士所爲也。汝若復往、但隨宜以物識之。其夕熟寐、飄然又往。美人半醉、見石硯在前、乃密印手文於曲房屛風之上。寤而具。帝乃潛以物色、令於諸宮觀中求之。果於東明觀得其屛風、手文尚在、所居道士已遁矣。]

 

 夢中に誘ひ去られ、手の形を遺すまでは同じであるが、他の物に手の形を印して紛らはしくする一條はない。これは押手聖天のやうな神助がないためばかりでなく、時代が古いだけに話が單純なのであらう。

 

「通幽記」の記すところは「妖妄傳」に比べると大分長い。これは官女でなしに、蜀郡の呂誼なる者がその女を奪ひ去られ、崔簡といふ衞士に取り返し方を賴む。それから術くらべのやうな形になつて、結局女は呂の手に戾るが、冥然として睡るが如くである。醒めて後尋ねても、猪頭人身の一物來つて自分を取り去る、といふのみで遠近の如きは一切わからぬのであつた。この話は官女と違つて胡僧の手にとゞめ、こゝは天上だなどと稱してゐたのだから、女自ら手の跡を印するやうな才覺はないが、不思議な事にやはり僧房の門に脂粉を以て三指の跡を印すといふことが附帶して居り、それがどうやら猪頭の者の手印らしい。女を取り返し得た呂誼は、勿論厚い贈り物をして簡に酬いた。數箇月たつて東巖寺に遊んで曲房に入つた時、偶然門の右屛に指の跡を發見したが、胡僧は疾うの昔にどこかへ去つてゐた。寺と呂誼の住ひとは、十里ぐらゐの距離しかなかつたさうである。

[やぶちゃん注:「通幽記」陳劭(ちんしょう)の撰になる唐代伝奇。散佚。

 「太平廣記」の「卷第二百八十五」の「幻術二」にある「通幽記」を出典とする「東岩寺僧」から引く。

   *

博陵崔簡少敏惠、好異術。嘗遇道士張元肅曉以道要、使役神物、坐通變化。唐天寶二載如蜀郡。郡有呂誼者、遇簡而厚幣以遺、意有所爲。簡問所欲、乃曰、「繼代有女、未嘗見人、閨帷之中、一夕而失。意者明公蘊非常之術、願知所捕、瞑目無恨矣。」。簡曰、「易耳。」。卽於別室、夜設幾席、焚名香以降神靈。簡令呂生伏劍於戸、若胡僧來可執之求女、慎無傷也。簡書符呵之、符飛出。食頃間、風聲拔樹發屋。忽聞一甲卒進曰、「神兵備、願王所用。」。簡曰、「主人某日失女、可捕來。」。卒曰、「唯東山上人、每日以咒水取人、得非是乎。」。簡曰、「若然、可速捕來。」。卒去、須臾還曰、「東山上人聞之駭怒、將下金剛伐君、奈何。」。簡曰、「無苦。」。又書符飛之。倏忽有神兵萬計、皆奇形異狀、執劍戟列庭。俄而西北上見一金剛來、長數十丈、張目叱簡兵。簡兵俯伏不敢動。簡劍步於壇前、神兵忽隱、即見金剛駭矣。久之無所見。忽有一物、豬頭人形、著豹皮水褌、云、「上人願起居仙官。」。簡踞坐而命之。紫衣胡僧趨入。簡讓曰、「僧盜主人女、安敢妄有役使。」。初僧拒詐。呂生忽於戸間躍出、執而尤之。僧迫不隱、即曰、「伏矣。貧道行大力法、蓋聖者致耳、非僧所求。今卽歸之、無苦相逼。向非仙宮之命、君豈望乎。願令聖者取來。」。俄頃、見豬頭負女至、冥然如睡。簡曰、「宜取井花水爲桃湯、洗之卽醒。」。遂自陳云、「初睡中、夢一物豬頭人身攝去、不知行近遠、至一小房中、見胡僧相凌。問何處、乃云天上也、便禁閉無得出。是夜。有兵騎造門、豬頭又至、云、崔真人有命。方得歸。然某來時、私於僧房門上涂少脂粉、有三指跡、若以此尋可獲。」。呂生厚遺簡、而陰求僧門所記。餘數月、游東岩寺、入曲房、忽見指跡於門右扇、遽追之、僧宿昔已去、莫知所之。寺與呂生居處、可十里有餘耳。

   *

ネット開始以来、よくお世話になっている梅子(フアメイズ)氏のサイト「寄暢園」のに全訳が載るので参照されたい。]

 

 かういふ妖術の話は「子不語」の中にもあるが、特筆すべき點もないから、日本の話の風變りなのを擧げて置かう。

 

 尾張國犬山の酒屋に深夜異相の人が來て酒が飮みたいと云ふ。枡でいくら飮ませても、醉つた樣子が見えぬ。これは只者でないと知つて少しも惜しまず、飮み放題に飮ませたところ、このお禮に何でも望みを叶へてやらうと云つた。別に望みと云つてありませんが、近頃女房を亡くしてこれだけに弱つて居りますと答へると、異人は承知したと云つて去つた。その後また深夜に來て、懷ろから小さな人を出し、これが約束したお前の妻だと云ひ、そのまゝ置いてどこかへ行つてしまつた。小さな人は忽ちに大きくなり、一人前の女になつたが、びどく疲れてゐる樣子なので、何も云はずに寢かして置いたら、翌朝目が覺めて茫然としてゐる。いろいろ尋ねて江戸新川の酒屋の娘だとわかり、人を遣つて尋ねると、月初めにゐなくなつたといふことであつた。酒屋の女房だから酒屋の娘を連れて來たのかも知れぬ。天狗などの仕業であらうといふ噂もあつたが、神の結んだ緣として夫婦になつたと「事々錄」に出てゐる。懷ろに入つてゐた者が直ぐ風船玉のやうに膨らむのは妙だけれど、餘計な穿鑿はせぬことにする。

[やぶちゃん注:「事々錄」作者不詳の江戸末期の随筆。所持しないので原典は示せない。]

 

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