宿直草卷二 第九 建仁寺の餠屋、告をうる事
第九 建仁寺の餠屋、告(つげ)をうる事
寛永十四年の事なり。建仁寺の門前に住(すむ)、餠屋が所に、不思議の告(つげ)有(あり)。
六十(むそぢ)餘りの旅の僧、餠を食(く)いけるが、その事となふ咄(はなす)に、既にその日も暮れたり。僧のいふやう、
「我は關東(あづま)の者也。初めて京へ上りたれど、聊か知りたる人もなし。何方(いづく)へ行くも旅なれば、同じくはこれに宿貸し給へ。」
といふ。あるじ、聞(きい)て、
「法度(はつと)にて候へ共、桑門(よすてびと)の事、何かは苦しかるべき。」
と許す。僧も喜びて、宿る。夜も更けぬれば、
「おやすみ候へ。」
と、僧を奧に入れ、亭主は勝手にぞ臥す。
此餅屋、娘を持ちしが、その容姿(かたち)、人に優れて美しけれど、色(いろ)惡(あし)ふして、惡しき病(やまひ)あり。おこるときは、其聲、
「ひゐひゐ。」
といふ。脇にて聞くに、たゞ、板などにて押すが如し。一時ばかりもおこり、半時ばかりにて止み、又、かつて、おこらぬ夜もあり。然(しか)れども、娘は、かつて、これを知らず。たゞ、寢言と思へり。
その夜も一時ばかりおこりて止みぬ。
客僧、これを聞(きき)て、翌朝(あした)[やぶちゃん注:底本の漢字化で二字へのルビ。]とく起き、あるじの側(そば)にさし寄りて、
「扨(さて)さて、夫婦は情なくも寢(いね)られたり。過(すぎ)し夜、娘と覺しくて、苦しむ聲し侍りしを聞き給はずや。」
といふ。あるじのいはく、
「などか今夜の聲を聞かざるべき。珍しからず侍れば、聞き候へども起(おき)申さず候。あの者、今宵の如くする事、五歳(いつとせ)になる。はじめの程は大きに驚き、これを起すに、目も醒めず。また、働きもせず。病(やまひ)なるべしと思ひ、藥のみかは、鍼(はり)を立て、灸を据(す)ゆるに、さらに驗(しるし)もなし。洛中洛外の靈佛靈社へ參らぬ所もなく、名師高僧を賴み、巫(かんなぎ)祝(はうり)を訪(たづ)ね、いろいろ祈れども、これぞそれよ、と、思ふ事もなし。今ははや、詮方(せんかた)、淚にうち捨(すて)て置く。今年十六になり侍れども、誰(た)が情(なさけ)に見てくれんと思へば、中々、緣の沙汰にも及ばず。お僧さまは諸國御覽候はんが、彼(かれ)が樣(やう)なる因果なる者や、御座候べき。」
と、淚とともに語りけり。
僧、聞(きき)て、
「我(われ)、一夜の假寢を侘(わ)びしも、此物語りをせん爲(ため)也。我、關東(あづま)にて、身の有方(ありがた)も定めなく、明(あけ)暮れ、流離(さすら)へ侍りしに、ある時、道を行くに、俄(にはか)に日暮れたり。心得がたく有(あり)ながら、立ち寄るべき方やあると求めしに、森の陰に寺ありて、景色(けいしよく)、この建仁寺に似たり。如何なる佛とは知らねども、法施(ほつせ)しばしば參らせて、未だ夢も結ばざりしに、其さま、恐ろしき鬼、俎板(なないた)を持(も)て來(き)、庭上(ていしやう)に置く。又、跡より鬼、四、五頭(づ)、若き女一人、具(ぐ)し來(き)て、かの板にのせて、同じやうなる板にて、力を出だし、聲を揃へて押す。かの女、悲しむに堪えず叫ぶ聲、
「ひゐひゐ。」
といふ。身(み)より血流るゝを、ひとりの鬼、枡(ます)にて量(はか)る。しばしして云(いふ)やう、
「今宵は如何ほどぞ。」
と。友鬼(ともおに)のいはく、
「二合五杓(しやく)なり。」
と。
「しからば良きぞ、はや、置け。」
といふ。
上なる板を取るに、女、苦しげなる體(てい)にて起(おき)上がれり、鬼はいづくともなふ去るに、女は跡に殘り、我方(わがかた)へ步み來(き)ていふやう、
「さてさて、恥づかしき事、御目(おめ)にかけ候。さりながら、見(ま)みえ申すも、言傳(ことづて)申したき爲也。自(みづか)らは、都、建仁寺の門前に餠屋の何と申(まうす)者の娘なり。妾(しやう)、死(しゝ)て、此(この)苦を受くるにてはなし。生きながら苦しむこと、はや、五歳(とせ)になれり。わが父母(かぞいろ)の知らざれは、此(この)報ひ、止む事なし。それをいかにと申(まうす)に、建仁寺の兒喝食(ちごかつしき)、わが家(いへ)にして油を持つて餠を買(かふ)に、私欲のほだす所、あさましうして、廿錢が油には、十錢十五錢が餠をやり、卅文が油には、二十文廿五文の餠を送る。其代(しろ)足らざればとて、鬼、來たりて、我(わが)血を取る。昨日(きのふ)の商ひに油二合五勺の依怙(ゑこ)あるによりて、鬼、また、血を取るに、その考へ有(あり)。生きてさへ責めらるれば、死しての後(のち)、思ひやられ侍る。御慈悲にて侍へば、都へ御のぼりなされ、父母(ちゝはゝ)に此(この)物語りなされ、油に當(あた)る程、餠(かちん)を送り給へと細やかに語り給れ。」
といふ。
「やすき事なり。さりながら、何をしるべに語るべきぞ。」
といふに、
「げに尤(もつとも)なり、覺束(おぼつか)なきに思(おぼ)しめさば、これを證(しるし)に參らせん。」
と、着たる小袖の袂(たもと)を解いて、我に渡す。受け取り立たんとするうちに、若き女も失(うせ)行きて、ありし寺も野原となる。夢の醒めたる心地せしに、證(しるし)の片袖、そのままに、あり。
「扨は。たふとき御告ぞ。」
と思ひ、千里(ちさと)遠しともなく、はるばる上(のぼ)るに、はたして此所(このところ)も違(ちが)はず、御身の名も變らず、また、あの娘も、その時見たる女房に變る事なし。證(しるし)に越(こ)せし片袖はこれなり。『ひゐひゐ』と叫ぶ聲、さらに變る事なし。」
と語る。
夫婦、これを見て、疑ふ所もなく、今年正月に着せし片袖なり。不思議のあまり、長持(ながもち)を開けてみるに、片袖、なし。是(これ)を合せてみれば、一つ也。
「さては、娘の病は、わが科(とが)なり。」
と悲しめり。
旅の僧は右の言傳(ことづて)屆けて、教化(けうげ)して出(いで)給ひしが、何處(いづく)の人とも知らず。
此僧、直(ぢき)に佛にてもあらんか。
[やぶちゃん注:現世悪報譚であるが、瞬時にして日暮れる怪異、その僧の前に出現する寺、そこに展開する奇体な情景、しかもそこには血を計量するという異様なリアリズムがあり、それが餅屋のせこくおぞましい欲と呼応、しかも、最後にそれを告げ知らせた僧は実は示現した仏ででもあったかとする末尾は、なかなかの怪談結構と言える。
「建仁寺」現在の京都府京都市東山区大和大路四条下る四丁目小松町の臨済宗建仁寺派大本山東山(とうざん)建仁寺。本尊は釈迦如来。開基は鎌倉幕府第二代将軍源頼家、開山は栄西。寺名は創建年を建仁二(一二〇二)年とするのに因む。
「寛永十四年」一六三七年。徳川家光の治世。
の事なり。建仁寺の門前に住(すむ)、餠屋が所に、不思議の告(つげ)有(あり)。
六十(むそぢ)餘りの旅の僧、餠を食(く)いけるが、その事となふ咄(はなす)に、既にその日も暮れたり。僧のいふやう、
「法度(はつと)にて候へ」、江戸時代は宿場の正規に許可された旅籠以外での、旅人の宿泊は主に治安と、宿場及びそこの旅籠業者の権利保護の観点から禁じられていた。
「勝手」厨房。
「一時」二時間。
「かつて、おこらぬ夜もあり」ついぞ発作を起こさない夜もあった。この日は、かの寺の子どもらが餅を買いに来なかった日なのである。
「色(いろ)惡(あし)ふして」顔色がひどく悪く。後の話から、青白い貧血症状と推定される。
「おこるとき」この「おこる」は漢字を当てるならば「起こる」ではなく、「瘧(おこ)る」が正確であろう。狭義には所謂、「瘧り」は、一定の周期で発熱を繰り返し、悪寒や振顫(しんせん:全身性の震え)が発作的に生ずる病気。主疾患としては当時は本邦で猖獗していたマラリア性の熱病と同定される。「わらわやみ」と称して、光源氏も罹患しているように、古来からあった。ここはもっと広義な、顕著な身体反応を示すヒステリーなどをも含む睡眠時発作を言っている(彼女のそれは昼間に発作が起こらない点でマラリア起因ではない)。
「かつて、これを知らず」未だ一度たりとも、自分がそうした激しい発作を起こしていることを自覚していなかった。現実世界のこの娘は、苦しいはずの発作自体の認識さえないのである。即ち、以下に明らかにされるその現世での因果応報の由来も生身の彼女自身は何も知らぬのである。何か、夜分に自身が何事かを口にしているようだという程度の意識はあるけれども(それは父母が苦しがっているとして療治や祈禱・誓願などをすることで理解はしているが)、それを彼女は「たゞ、寢言と思」っていただけなのである。ここにこそ実は本話の救いの伏線がある。
「巫(かんなぎ)」「神和(かんな)ぎ」の意で「かむなぎ」とも読む。基本は神道系の呪術者(但し、そのルーツは神道成立以前の土着のシャーマン由来であろう)で、神に仕えて神楽を奏しなどして神意を慰め、神降ろしなどをする者。男を「おかんなぎ(覡)」、女を「めかんなぎ(巫)」と分けたりすることもある。
「祝(はうり)」狭義には神主・禰宜に従って祭祀を掌る下級神職を指すが、ここは前に巫(かんなぎ)を出しているから、寧ろ、正規の巫よりもさらに格下の民間の(時に怪しげな)祈禱師を言っていると考えてよかろう。
「詮方(せんかた)、淚に」岩波文庫版の高田氏の注に、『打つ手もなくただ手をこまぬいていること。「せんかた涙に伏し沈む」(謡曲『松風』)』とある。なお、これは単なる用例を示されただけで、本話と能「松風」との関係性があるわけではないので注意。
「誰(た)が情(なさけ)に見てくれん」反語。この彼女の原因不明の発作が知れ渡り(療治を求めれば瞬く間に事実は周囲に知られる)、「緣の沙汰にも及ばず」、誰一人として縁談を持ち込む者はないのである。
「杓(しやく)」後で出るように「勺」に同じ。
「父母(かぞいろ)」上代語で父母を指し、最も古くは「かそいろは」で、「かぞ」は父(実父)、「いろは」は母(生母)を指す。語源は不詳のようである。
「兒喝食(ちごかつしき)」岩波文庫版は「兒」と「喝食」の間に中黒(・)を打つが、ここは私は一語と見る。ウィキの「稚児」によれば、平安頃より真言宗・天台宗等の大規模寺院では、剃髪しない少年修行僧(現在の十二~十八歳ほど)が現れ始め、これを「稚児(ちご)」と呼んだ(皇族や上位貴族の子弟が行儀見習いなどで寺に預けられる「上稚児」、利発さが買われて世話係として僧侶に従う「中稚児」、芸道などの特殊な才能が見込まれて雇われたり、破戒僧である売僧(まいす)に売られてやって来た「下稚児」の区別があったらしいが、おしなべて彼らは男色の対象とされた性的奴隷であった)が、鎌倉以降、禅宗では彼ら「稚児」を「喝食」と呼んだからである(建仁寺は創建当時から臨済宗)。但し、ウィキの「喝食」によれば、「喝食」(「かつじき」とも読む)とは、本来は「喝食行者(あんじゃ)」のことで禅寺に於いて斎料(ときりょう:食事)を衆僧が摂る際、食事の順序などを大声で唱える者を指し、年齢とは無関係であった。『禅宗とともに中国から日本に伝わったが、日本に以前からあった稚児の慣習が取り込まれて、幼少で禅寺に入り、まだ剃髪をせず額面の前髪を左右の肩前に垂らし、袴を着用した小童が務めるものとされた。室町時代には本来の職掌から離れて稚児の別称となり、中には禅僧や公家・武家の衆道の相手を務めるようになった』とある。ただ、この台詞は餅屋の娘の台詞の中での語であるから、或いは彼女は「稚児」をより若いそれ、「喝食」を少し大きくなった少年として使用していないとは言えず、その場合は分離すべきかも知れぬ。
「わが家(いへ)にして油を持つて餠を買(かふ)」喝食は普通は定給与などは無論ない奴隷的使用人扱いであるから、寺で用いる灯明の油をかすめ取る形で、銭の代わりに持ち出し、餅を買いに来る(この辺りが如何にも少年らしい)のであろう。複数の彼らがそれをやっているところを見ると、彼らを若衆道の相手としていた成人僧らは、それを見て見ぬふりをして許していたものと見える。
「ほだす」「絆す」。繫ぎ止める。自由を束縛する。ここは使役的で「支配される」の意。
「依怙(ゑこ)」依怙贔屓(えこひいき)のそれで、これだけで「一方だけを贔屓にすること・不公平」の意が原義であるが、それ以外に「自分だけの利益・私利」の意があり、」岩波文庫版の高田氏の注では、『不正なもうけ』とする。
「餠(かちん)」「餅」を指す女房詞で「おかちん」とも言う。「搗(か)ち飯(いひ)」の音変化とされる。
「何をしるべに語るべきぞ」「しかし、そなたの言ったことが真実であることをその父母なる者に語り諭すに際し、それがまことであることを何を以って証拠とせんとするか?」。
「受け取り立たんとするうちに、若き女も失(うせ)行きて、ありし寺も野原となる。夢の醒めたる心地せしに、證(しるし)の片袖、そのままに、あり」非常に好きな無限的シークエンスである。
「扨は。たふとき御告ぞ。」
「越(こ)せし」寄越した。]