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2017/06/05

飯塚酒場   梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年十月号『新潮』初出。後に作品集「侵入者」(昭和三二(一九五七)年四月刊)に収録された。

 「熱𤏐」の「𤏐」はママ。

 この飯塚酒場について、梅崎春生はエッセイにも記している。一つは「悪酒の時代――酒友列伝――」昭和三一(一九五六)年十二月号『小説新潮』)、今一つは金史良のこと(昭和三二(一九五七)年五月号『文芸首都』)であるが(リンク先は孰れも私の電子テクスト)、前者には、

   *

 飯塚酒場は、今でもある。元の場所で、ドプロクは製造していないが、こぢんまりと営業している。今でもこんな安い店は、東京でもざらにはなかろう。ここで五百円飲み食いするには骨が折れる。この間私は新潮に「飯塚酒場」という小説を書き、ここのおばあさんに見せたところ、ぷっとふくれた。飯塚のドブロクには焼酎が混ぜてあった、という箇所が気に入らなかったのである。

「焼酎なんか混ぜるもんですか。うちのは、つくり方がよかったから、よく利(き)いたんですよ」

 おばあさんはそう言って大いにむくれた。この飯塚のおばあさんとおじいさんの昔話は、いつ聞いても面白い。ここで昔話を聞こうと思ったら、まずおじいさんに話しかけるといい。おじいさんが話し出す。おばあさんは遠くでじっと聞き耳を立てている。おじいさんがちょっと間違ったことでも言うと、

「おじいさん。そりやあ違いますよ。そうじゃなくて、こうですよ」

 とおばあさんが割り込んでくる。そうなれば話はとめどもなくなって、そのとめどもない話を肴にして、六本か七本飲み、てんぷらだの山かけなどをいくつかおかわりをしても、五百円紙幣からおつりが来るのである。ここで腰を落ちつけると、梯子(はしご)がきかない。

 ここのドブロク時代に、私は一夜に四回行列に並んだことがある。一回に二本ずつ飲ませるから、計八本。あそこの徳利は大きくて一合二勺ぐらい入ったから、一升近く飲んだことになる。さすがにその夜は、まっすぐに歩いて帰れなかった。坂なんかは這って登った。

   *

とあるから、本作の『飯塚は戦災で焼けた』というのは小説結構中の虚構であろうかと思われる。] 

 

   飯塚酒場

 

 飯塚酒場の横丁の塀越しに、大きな柳の木が一本立っていた。夏の夕方などには、そこらに蝙蝠(こうもり)がひらひらと飛んだ。

 昭和十八年の初め、行列は大体そのへんまでであった。酒場の入口からその柳の木まで、一列にぎつしり並んで、せいぜい四十人か五十人ぐらいのものである。

 だから五時開店で、次々に入場し、飲み終ったら外に出て行列の末尾につき、また入場し、そんな風にして、飲もうと思えばいくらでも飲めた。いくらでも飲めるとなると、人間はそういくらでも飲まない。いい加減満足すると引上げるということになる。今日無理に飲まなくっても、明日もあれば明後日もあるからだ。つまりその頃は、飲酒は遊びであり楽しみであり喜びであって、反抗とか闘いとか自棄(やけ)の域には達していなかったのだ。明日という日があるのに、何を無理することがあろう。

 飯塚酒場はがっしりした建物で、染(はり)や柱も太い材木が使ってあり、総体にすすけて黒くなっていた。窓がすくないので、内はうす暗かった。入口にかかった『官許どぶろく』という看板も、黒くすすけて、文字の部分だけが風化しないで浮き上っている。店から更に奥の土間に踏みこむと、そこに大きな掘抜き井戸があって、その水でどぶろくがつくられていたのだ。

 その頃すでに、一人一回分の飲み量は制限されていた。一回入場すれば、どぶろくの徳利が二本、それに一皿のサカナ。サカナの種類は豊富で、その種類と値段が壁にずらずらと貼り出されてあり、どれもこれも質や量の割には安かった。戦時中の品不足の時代としては、もっとも良心的な飲み屋の一つと言えた。

 だから三月、四月の頃から、行列がしだいに伸び始めた。新顔が日に日に加わってくるからだ。伸び始めたなと思うと、行列ほばたばたっと伸びて行った。その伸び方の速度は驚嘆に価した。行列は伸びるだけでなく、それに比例して行列のつくられる時刻が、ぐんぐんせり上って行った。

 五時開店で、それまでは五時すこし前にかけつけると、最後尾の柳の木の位置に並べたのに、行列が伸長するにしたがい、柳は最前方にかすむようになってきた。柳はもう末尾の象徴でなく、ひとつの目標に変ってきていた。行列が徐々に動いて、やっと柳の位置に到達すると、人々はほっと肩をおとし、ポケットから金を数えて出したりして、入場の準備をととのえたりした。手早く券を買い、手早くどぶろくを飲みサカナを平らげねば、また表に出て走って行列の末尾につくことにおいて、他人におくれをとるのだ。

 のんびりと行列していた状態から、こんな状態に変るまで、ものの二箇月もかからなかったと思う。

 戦時日本のやりくりが苦しくなって、その昔しさがいきなり民需に皺(しわ)寄せになってきたのは、昭和十八年の春から夏にかけてだろうと、飯塚酒場の行列の具合から、私は今でも推定している。飲食業者への配給が手薄になったために、業者はその乏しい配給をもって生活するためには、高価なサカナなどを抱き合わせて売る他はなかったのだろう。もちろん品薄を利用する商人の商魂もあったわけで、そんな具合であちこちの店がいきなり値上げをしたり、居丈高(いたけだか)になってきたりしたから、伝手(つて)を持たない善良にして貧しい大衆は、安くて良心的な店をあちこち探し求めて歩き、探し当てるとそこに蝟集(いしゅう)するということになってきた。私は今でも眼を閉じると、その頃あちこちに残った僅かな良心的な店の名を、その店構えや雰囲気などを、次々に思い出すことが出来る。飯塚酒場の柳の木の枝ぶりなどもそのひとつで、それはありありと私の記憶の夕暮れの中で今でも揺れているのだ。 

 

 この飯塚酒場に貧しい飲み手が蝟集してきた理由のひとつは、他の店にくらべて品物が潤沢(じゅんたく)であったからである。何故潤沢であったかと言うと、この店は政府の配給にたよらず、自ら生産をしていたからだ。

 生産をしていたと言っても、原料の米は割当てにたよる他はないが、なにしろ生産の歴史が古いので、その実績を無視するわけには行かない。あの頃は、諸企業や事業の改廃統合は、おおむねその実績を第一としていた趣きがあって、実績というものがなければ、どうにもならなかった。実績は最大の強みであった。飯塚には徳川時代以来の実績がある。やすやすと配給を削減するわけには行かなかったわけだ。

 そこで彼等(つまりその頃権力を保持していた者ども)は、配給を削減しないかわりに、製品を自己の組織用に捲き上げることによって、実質的な削減をした。すなわち飯塚酒場は、毎日二石八斗乃至(ないし)三石のどぶろくを税務署、警察、消防署などに義務として納めなければならなかった。毎日のことだから、大変な分量にのぼるのだ。そして蝟集した善良な飲み手への配当は、日に一石から一石五斗、多くて二石ぐらいなものだったと推定される。一人当り二合として、二石では千人分ということになる。

 千人というとたいへんな数のようであるが、東京中からこの酒場を目指して集まってくるから、ものの数に入らない。

 そこで行列の意味が、柳が末尾の時代から柳が目標の時代へと変化し、また飲むことの意味も内容的に変化してきた。楽しみや疲労回復のために飲むのではなく、「飲むために飲む」という形になってきたのだ。自分の身体がどぶろくを欲するか欲さないか、「飲むために飲む」のであるから、そういうことは問題にも何にもなりやしない。

 戦時中あるいは戦後の配給制度が、酒をたしなまない人を酒飲みにさせ、煙草をのまない人に煙草の味を教えた。それにちょっと似たような関係がここに発生してきた。人人は飲むために行列し、そして一回でも余計に飲むために、大急ぎで飲み干して行列の末尾に奔(はし)った。どぶろくは味わうためにあるのではなくて、早く嚥下(えんげ)されるためにそこにあった。飯塚のどぶろくはたいへんな熱𤏐(あつかん)だったから、それを他人より早く飲むのは、さまざまの工夫と技術と、咽喉(のど)や舌などの訓練を必要とした。 

 

 妙な気取りというかダンディズムというか、そんなものがそういう具合にして行列の常連たちの間に、しだいに芽生えてきた。

 それは以前の楽に飲めた時分には絶対に見られなかったもので、つまり他人より早く飲むことを誇りにし、また走つて他人より早く末尾につくことを偉(えら)しとする。それが一種のダンディズムの形をとってあらわれてきた。

 酒飲みくらべではあるまいし、早く飲むことが誇りになるかどうか、ちょっと考えれば判る筈なのだが、それはまたたく間に常連の一般的風潮としてひろがるようになった。

 どぶろく一日分の絶対量に対して、需要者の行列がむやみに伸びたこと、そういう歪(ゆが)みの中において、そういう風潮は自然のものだったかも知れぬ。どうせ早く飲むからには酒の味はしない。酒の味がしないものなら、せめて早さにおいて競う以外に楽しみはないのである。一人だけゆっくりとどぶろくの味をたのしむということは、その頃はもう許されないシステムになっていた。

 何故かというと、定刻が来ると行列の先頭から、三十人なら三十人だけ入場させる。そしてそれらが全部飲み終って退場するまで、次の三十人は入ることが出来ないのだ。二十九人が退場したあと悠々と一人で飲んでおれば、次の三十人が入口から顔を出して罵声(ばせい)や怒声をあびせかける。気が立っているから、袋叩きにもあいかねない。

 すなわちこの酒場においては、早く飲める者でないと、どぶろくをビールみたいにあおれる者でないと、入場の資格はなかった。それが資格であるからこそ、その資格の最上を競おうという気持になるのも、ある程度はうなずける話だろう。

 日本記録や世界記録を競うように、短時間であけることを競争する。それは本当の常連、早くから馳(は)せ参じて先頭の方に並んでいる連中に、それはいちじるしかった。

 定刻が来る。先頭の何十人かが入場して、その分の合い間を詰める行列の動きが最後部まで波及しないうちに、先頭グループのトップはいちはやく店を飛び出して、末尾目指して疾走して行く。後尾の連中は、行列の動きではなく、トップが走ってくることによって、もう開店したことを知るわけだ。そして次々走ってくる。皆そろって傾いた恰好(かっこう)で走ってくる。均勢のとれた正常な走り方をする者はほとんどいない。たいてい右か左に傾いて、マラソンの最終コースの走者みたいに走ってくる。

「飯塚のどぶろくにはね」ある男が私に教えた。「焼酎がすこし混ぜてあるんだ。だから利きがいいし、長年飲んでいると、どうしてもあんな走り方になってしまうんだ。あの万ちゃんがいい例だよ」

 万ちゃんというのは飯塚酒場の長年の常連で、本来は俥夫(しゃふ)なのだが、本業にはあまりいそしまず、消防署下で八百屋をやっている弟の庇護(ひご)を受けながら、毎日飯塚に通っていた。アルコール中毒というより、どぶろく中毒というべき人物で、トップに立って走ってくるのは、たいていの場合この万ちゃんであった。万ちゃんの走り方は三十度ばかり左に傾いていた。

(万ちゃんは別として)万ちゃんやその他の連中の走り方を観察しながら、私は時々考えた。(皆そろって傾いて走るのは、自然にそうなるのではなくて、やはり一種のダンディズムじゃないのかな。気取り、あるいは、照れ)

 そして実際に自分の番になり、行列の視線を逆にしごいて走る時、傾いて走る方がやはり具合のいいような感じもあった。私の場合は、照れの気分もすくなからず混っていた。なにしろたくさんの視線を逆にしごくのに、胸を張って堂々と走るわけには行かない感じがたしかにあったのだ。やはり傾走がその場にふさわしかった。万ちゃんのはそんな気取りやポーズではなかった。長年のどぶろくが身体のどこかをむしばんでいて、運動神経の働きもすこしは鈍っていたらしい。彼は戦後のある日新宿で飲み、(飯塚は戦災で焼けたから)電車はタダ乗りして帰宅の途中、電俥から飛び降りたとたん、大型自動車に衝突して、彼らしい壮烈な最後をとげた。やはりどぶろくのために運動神経が弱まっていて、ついタイミングを誤ったのであろう。

 しかし神経はにぶっていても、彼のどぶろくの飲み方は、群を抜いて早かった。コツがあったのである。

 徳利から盃(さかずき)についで飲む、そんな正常の方法を彼はとらなかった。その方法はどぶろくが熱𤏐だから、かなり時間がかかるのだ。

 先ず器(うつわ)の大きいサカナを注文する。サカナの種類は問わない。器が大きければ大きいほどいいのだ。その器の中のサカナを指でぶら下げ、空いた器の中にどぶろくを注ぎ込む。それをあおるのである。器は盃より大きいから冷え方も早い。だからスピードが上るのだ。それであおって、サカナは指にぶら下げたまま飛び出し、走りながらそれを食べるのだ。

 空気の抵抗を極度に排除するために、航空機は非常に美しい流線形のかたちをとる。眺めるだけでもこころよい。万ちゃんのやり方もそれと同じく、その合理性において、ほとんど美しく壮烈であると言ってもよかった。

 では、万ちゃんはその飲み方の速さにおいて、衆人の畏敬の的になっていたかと言うと、それはそうでなかった。畏敬と正反対のものの的になっていた。

 皆もその速さを競い争っていたにもかかわらず、万ちゃんが畏敬されなかったのは、その極致の姿において、競い合いのバカバカしさがあらわに出ていたからだろう。極致というやつはどんな場合でも、奇怪でグロテスクなものである。人間という生身(なまみ)の場合においては特にそうだ。 

 

 行列が伸び、後尾は角を曲り、更に伸びてまた角を曲ってくるようになると、どうしてもそれを整理する人間が必要になる。つまり世話人だ。

 それらの世話人は、行列の伸長につれて自然的に発生し、やがてそれらは一種のボスとなって行った。

 その世話人の発生、ボス化は、実に典型的な過程を示していて、私は今でも思い出しては興味をそそられる。

 ボスの元締めと言うべきは「棒屋」という男で、何で棒屋というのか知らないが、棒か何かの製造に従事していたのだろう。

 その下にレンガ屋、赤鼻、なんて言うのがいて、その下に万ちゃんがいた。万ちゃんは小ボスというより、ボスの手下であり、手下であることによって行列に割り込んだり、あるいはタダで飲ませて貰ったりしていた。

 彼がそういう位置を占め得たのも、実力によるものでなく、この酒場に何年何十年と通った「実績」による方が大きかったのだ。

 実績という言葉は、判ったような判らないような、たいへん日本的言葉で、私はこの実績ならびにボスの形成の有様を、いつか別の形でくわしく書いてみたいと思う。

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