宿直草卷一 第四 淺草の堂にて人を引さきし事
第四 淺草の堂にて人を引(ひき)さきし事
聖曆(せいれき)寛永七、八の年かとよ。都の人、江戸へ下りて、見世(みせ)借(か)る風情(ふぜい)のあきなひし侍るに、そのあたりに町人の娘、ゆふに優しきありけり。またなきものに戀そめて、人づてならで云ふ由もなかりければ、しかるべき袖を託(かこ)ち、淺からず思ふまでを艷書(えんじよ)につらね、せちに落ちよと言(こと)の葉(は)を、かきくどきつゝ云はせければ、情(なさけ)に弱るならひかは、こがれ流るゝ稻舟(いなぶね)の、いなまでもなく打(うち)なびけり。さなきだに親には問はぬ妹背(いもせ)のみち、殊になをざりなふ包みければ、親はかつて是をしらで、結ぶべき緣(えん)の事など定むべきに聞えければ、娘、いとかなしく思ひ、通ひぬる男に、かくと知らせ、
「年頃日頃(としごろひごろ)、むつまじき中をもわかれ、また云ひをきし約言(かねごと)も、いつしか僞(いつはり)になりやはせん。いつまでとてか信夫山(しのぶやま)、忍ぶ甲斐なきこゝにしも居(を)ればこそきけ、うき事をたゝ、蛟(みづち)の峒(ほら)・わに住む沖(おき)のなかなかに、君(きみ)もろともに出(いで)なば、なにか、悲しからん。今宵、とく連れ給へ、紛(まぎ)れ出でん。」
と口説(くど)きけれは、男(おのこ)も年來(としごろ)ぬすみ出(いだ)し、都べに率(ゐ)て行きたく思ひし事なれば、まふけ得たる事に思ひ、さ夜(よ)のさむしろきぬきぬに、手々(てで)取りくみて出でしかど、夜は、はや更(ふけ)ぬ、借(か)るべき宿もなし。
先(まづ)、淺草の堂に行(ゆき)、こよひを明(あか)して旅立(だ)たんと、かの堂の緣(えん)に袖かたしきて、たゞ二人寢ぬるともなく打ち傾(かた)ふきしに、つゐ、夜の明(あけ)しに驚きて、側(かたへ)を見るに女房なく、裝束(さうそく)・帶(おび)なんど引きちらせり。
「こは口惜しや。」
と、かなたこなた、尋ぬれども、見えず。途方なく呆(あき)れしに、眉(まゆ)、霜にまがふ翁(おきな)の來りて、
「汝は何を歎くぞ。」
といふ。泣く泣く、樣子、かたりければ、
「さては、汝が尋(たづぬ)るは、あれ、なるか。」
と指(ゆび)ざしするを見れば、十二、三間ばかりの大木の枝に、情なくも、二つに引き裂きて、かけたり。あるもむなしき骸(から)なれば、やる方もなふ悲しきに、教へたる翁も、あとかた失(うせ)てさりぬ。
いとゞ恐ろしく思ひ、江戸には住みもあへず、今ほどは紀州にあり。かの人、直(ぢき)に懺悔(さんげ)ものがたりせりと、さる座頭(ざとう)のはなし侍り。
[やぶちゃん注:この一章は鬼に人が食われてしまうところの、所謂、「鬼一口(おにひとくち)」伝承(ウィキの「鬼一口」などを参照のこと)の変形譚で、その中でもシチュエーションの類似から、「伊勢物語」の第六段の有名な通称「芥川」の段が直接のモチーフと推定される。本文中でも「伊勢物語」の中の別の章段の一首をインスパイアしている形跡がある(後注。しかし引用箇所が全然ひどくて話にならぬ)。また、前話の続きといった感じで浅草の観音堂がまた出るのであるが、実は浅草寺の東方一帯は浅茅ヶ原(あさじがはら)と呼ばれ、ここにはまさに「鬼婆」の一変形とも言うべき「浅茅ヶ原の鬼婆」の伝承があった場所であることもロケーションをここにした大きな一因があると私は思う(但し、この鬼婆は人食いはせず、金品を奪って殺すというものである。ウィキの「浅茅ヶ原の鬼婆」などを参照されたい)。しかし、どうにも描写が薄っぺらく、全体の分量が如何にも少ないのに修辞技巧をべたべたに重ねてしまった結果、リアリティも糞もなくなってしまい、最後の引き裂かれて高枝にぶら下がった女の遺体の肉感(肉は食われたから「皮膚感」と言うべきか)も伝わって来ず、つまらぬ一篇に堕してしまっているように思われる。
「聖曆(せいれき)」ここは元号のこと。
「寛永七、八の年」一六二九年末から一六三二年年初相当。徳川家光の治世。
「見世(みせ)」店。
「借(か)る」借りる。
「しかるべき袖を託(かこ)ち」しかるべき仲介者に密かに(親に知られぬようにするため)頼んで。
「艷書(えんじよ)」恋文。
「せちに落ちよ」何としても靡いてこよ。
「ならいかは」の「かは」は反語の係助詞に、「川」を掛けて以下の「漕がれ」「流る」「稻舟」という縁語群を引き出す。
「こがれ」「漕がれ」と恋「焦がれ」を掛ける。
「稻舟」稲を運ぶそれに「否(いな)」を掛けて以下の「いなまでもなく」を引き出す。以下のこうした「信夫山」等の修辞技巧の説明は、私には判り切っていて、しかも退屈なので(私は和歌が嫌いで、そのうざうざした痙攣的に増殖する修辞技巧が好きでないからである)、ここに限らず、原則的にこれ以降の章でも省略することとする。
「さなきだに」そうでなくてさえ。
「親には問はぬ」親から教えてもらおうとなどはしない。
「妹背(いもせ)のみち」夫婦になるための恋人同士の関係。
「なをざりなふ」いいかげんな綻びなど全くないように。
「包みければ」包み隠していたので。
「結ぶべき緣(えん)の事」親が決めた具体的な縁談話。
「わかれ」別々になって逢えなくなってしまい。
「約言(かねごと)」未来を「予」測して口に出した「言」葉、具体には夫婦として契る「約束」言(ごと)ではあるが、岩波文庫版は『予言(かねごと)』とし、この方が古語としても、言上げとしての民俗語としてもよりしっくりくる。
「忍ぶ甲斐なきこゝにしも居(を)ればこそきけ」「こそ」已然形の逆接用法であるが、謂いの中身に焦燥的な捩じれのある表現である。耐え忍んでみても最早、約束は成就されないことになりそうな今日只今、それでもこうしてここにこうして現に二人して逢っていられるからこそ、まだ、こんなことも申し上げられますけれども。
「蛟(みづち)の峒(ほら)」「わに住む沖(おき)」深い川淵の底の蛟龍の住む水中の穴、大海の底の鰐(=鮫)の棲む海底洞窟、「の中」を繫ぎ出す序詞的修辞であろう。その「中」から「なかなかに」(ここはこのまま二人が別れるのとは全く「反対に」の意の副詞的用法であろう)の語をさらに引き出しているのである。
「ぬすみ出(いだ)し」親の許しを得ずに密かに駆け落ちし。
「都べに」京の方(かた)に。
「まふけ得たる」歴史的仮名遣としては「まうけえたる」で「設(儲)け得たる」、自分がもともと望んでいた通りの状況を手に入れた。
「さ夜(よ)のさむしろきぬきぬに」岩波文庫版の高田氏の注に、『「さむしろに衣かなしき今宵もや恋しき人に逢はでのみ寝む」(『伊勢物語』)を踏むか。あわただしい情事のあとで、の意。「きぬきぬ」は普通、男女が共寝した翌朝のこと』とある。この一首は「伊勢物語」の第六十三段、通称「つくも髪」などと呼ばれる章段であるが、三人の子持ちの好色なとんでもないばあさんの大年増が、子の力で、在五中将と契りを結ぶも(というよりも在五中将がその子の健気さに哀れを感じたのであろう)、訪れは絶える。後に、彼女のことをいとしいとはこれっぽちも思っていない在五中将は、その老女のことを、これまた、哀れを感じて情けをかけるという、如何にも私にはいやな感じがする話で、ここに引く気も起こらない。挙げられた歌は、見限りとなった在五中将へ老女の思いを詠んだものである。
「淺草の堂」前章と同じく、浅草観音堂であろう。
「打ち傾(かた)ふき」岩波文庫版の高田氏の注に、『うとうととする』とある。
「つゐ、夜の明(あけ)しに驚きて」「つゐ」は「じきに・忽ち」の意の副詞であるが、歴史的仮名遣は「つい」でよい。この時間経過の圧縮感覚には、私はおぞましき妖怪変化の眩暈力が彼に作用したのだと感ずる。
「十二、三間」二十一・八二~二十三・六三メートル。]
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