柴田宵曲 續妖異博物館 「信仰異聞」
信仰異聞
泉城といふところの民は、毎年中秋の夜に八十になる老翁の一人を推薦して、橋の上に設けた高座に据ゑ、しづかに夜の更けるのを待つてゐる。夜半になつて紅い燈火が二つ現れて、空中に昇降すると、そこに集まつた人々は、神が迎ひに來たと云つて騷ぎ、老翁の子孫親戚の者はおびたゞしい酒饌を設け、群集に饗するといふ風習があつた。推薦された老翁はいつの間にか見えなくなるが、これを昇天するものと信じ、その高座に上るのを名譽として、遂にその橋を登仙橋と呼ぶに至つた。然るにたまたまそこを通りかゝつた斐老人は、物怪(もののけ)の所爲であると悟つたから、劍を拔いて高座に上るや否や、近寄つて來た燈火に一擊を食はせた。燈火は忽ち消滅し、高座の上に血が流れる。老人は驚き騷ぐ群集を制し、翌日血の痕を辿つて行くと、淸原山の麓にある大磐石のところで盡きてゐた。そこでその石を掘り起し、大蛇の死骸を發見した。傍の洞穴の白骨は從來食はれた人のものであつた。
[やぶちゃん注:「泉城」現在の山東省済南市(さいなんし)の別称か。
「斐」は音「ヒ」。]
斐老人といふのは「列仙全傳」に出て來る仙人の名である。支那の人身御供(ひとみごくう)であるが、どうしてそんな老翁を擇むのか、その邊の消息はよくわからない。倂しかういふ例は他にないことはないので、「博異志」にある仙鶴觀では、道士が七十人以上も集まつて常に修行して居り、こゝでは毎年九月三日の夜に道士の一人が仙人になつて昇天すると云はれた。從つてこの夜に限り、仙鶴觀では戸を締めず、仙人になる機會を待つわけである。張竭忠がこの邊の令となつた時、彼はこの事を信ぜず、ひそかに二人の勇士に命じて樣子を窺はしめた。初めは何事もなかつたが、三更の後に至り、一疋の黑い虎が入つて來て、忽ちに一人の道士を銜(くわ)へ出した。二人の勇士は用意の矢を射かけたので、虎には中(あた)らなかつたけれど、道士を棄てて走り去つた。果して當夜は登仙の道士がない。勇士の復命を聞いた竭忠は、官に申請して一隊を組織し、この邊を狩り立てて石穴中の數虎を討ち取つた。白骨その他の殘留物を見出したことは、登仙橋の場合と同じである。この事あつて後、登仙の噂は跡を絶ち、仙鶴觀にも道士の影が見られなくなつた。
[やぶちゃん注:以前に述べた通り、「列仙全傳」は所持せず、ネットでも電子化されていない模様で、原典を示し得ない。
「張竭忠」「チョウケツチュウ」(現代仮名遣)と読んでおく。
以上の「博異記」のそれは、「太平廣記」にも「虎三」に「張竭忠」として引かれる以下。
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天寶中、河南緱氏縣東太子陵仙鶴觀。常有道士七十餘人皆精專。修習法籙。齋戒咸備。有不專者、不之住矣。常每年九月三日夜有一道士得仙、已有舊例。至旦、則具姓名申報、以爲常。其中道士每年到其夜、皆不扃戶。各自獨寢、以求上昇之應。後張竭忠攝緱氏令、不信。至時、乃令二勇士持兵器潛覘之。初無所覩。至三更後、見一黑虎入觀來。須臾、銜出一道士。二人射之、不中。虎棄道士而去。至明、無人得仙者。具以此物白竭忠。申府請弓矢、大獵於太子陵東石穴中、格殺數虎。有金簡玉籙洎冠帔及人之髮骨甚多。斯皆謂每年得仙道士也。自後仙鶴觀中、即漸無道士。今並休廢、爲陵使所居。
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なお、この話は南方熊楠が、かの「十二支考」の「虎に関する史話と伝説民俗」で、
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支那には虎に食われたのを知らずに天に上ったと思っていた話がある。『類函』に『伝異志』を引いて唐の天宝中河南緱氏(こうし)県仙鶴観毎年九月二日の夜道士一人天に登るといって戸を締む、県令張竭忠これを疑いその日二勇者に兵器を以て潜み窺わしむ、三更後一黒虎観に入り一道士を銜(ふく)み出づるを射しが中(あた)らず、翌日竭忠大いに太子陵東の石穴中に猟し数虎を格殺(うちころ)した、その穴に道士の冠服遺髪甚だ多かったと見ゆ。後漢の張道陵が蟒(うわばみ)に呑まれたのをその徒が天に上ったと信じたのにちょっと似て居る。
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と述べている(同作は大正三(一九一四)年の発表だから、本書(昭和三八(一九六三)年刊)より遙かに早い)。]
「幻異志」にあるのは雲母谷といふので、これも奇蹟の現れさうな土地であつた。谷を五里ばかり入つたところに惠炬寺といふ寺があり、西南に面した庭が澗(たに)に臨んで居り、崖緣づたひに峯に至つたところを靈應臺と稱へる。こゝに塔があつて、觀世音菩薩の鐡像が安置してある。嘗てこの臺上に觀世音菩薩が現れたといふ傳説があるので、長安の市人は爭つて參詣する。大齋日には參詣者千人、少くとも數百人を下らぬと云はれて居つた。近頃は夜になると聖燈が拜まれるといふ評判が高い。その燈は或は山腹に現れ、或は平地に在り、その位置が更に定まらぬ。大歷十四年四月八日の夜、大衆が聲を合せて禮拜してゐると、西南の近い空の上に忽然として二つの聖燈が現れた。群集の中に在つた一人の兵卒の如きは殆ど夢中になつて、一歩一歩聖燈に近付いて行つたが、あツといふ間に虎に銜へ去られてしまつた。二つ竝んだ聖燈と見えたのは、實は虎の目の光りだつたのである。
[やぶちゃん注:「惠炬寺」一読、深山幽谷にあるような書き振りであるが、「長安の市人は爭つて參詣する」とあり、原文も「長安城南四十里」プラス、谷に入ること、「五里」にその寺はあるので、長安城からそう遠くない(唐代の一里は五百五十九・八メートルしかないから、凡そ二十五キロメートルの位置である。Harumachigusa氏のブログ「にゃんころりん猫守のつぶやき」に、本話の邦訳「聖なる二つの燈(ともしび)」が載り、語注が厳密で素晴らしい(必見!)。彼女の注によれば、この寺は長安の南方の名山終南山の神禾原(しんかげん)にあったが、元代には荒廃してしまったとある。終南山ならば、前記の距離ともよく一致する。
「大歷十四年」後の原典の引用から、唐の代宗の治世最後に使用された元号「大曆」と判るので、その十四年は同元号の末年であり、ユリウス暦七七九年に相当する。
これ、中文サイトの「幻異志」に見出したが、完全なベタの白文で読み難いため、「太平廣記」の「妖妄二」の「雙聖燈」にあるものを引く。但し、そこでは出典を「辯疑志」(陸長源撰の散佚した唐代伝奇集)とし、「幻異志」でも「雲母谷」ではなく、「靈母谷」である。
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長安城南四十里、有靈母谷、呼爲炭谷。入谷五里、有惠炬寺。寺西南渡渡原作庭。據明鈔本改。澗、水緣崖側。一十八里至峯。謂之靈應臺。臺上置塔。塔中觀世音菩薩鐵像。像是六軍散將安太淸置造。衆傳觀世音菩薩曾見身於此臺。又說塔鐵像常見身光。長安市人流俗之輩。爭往禮謁。去者皆背負米麯油醬之屬。臺下幷側近蘭若四十餘所。僧及行童。衣服飮食有餘。每至大齋日送供、士女僅至千人、少不減數百、同宿于臺上、至於禮念、求見光。兼云、常見聖燈出、其燈或在半山、或在平地、高下無定。大曆十四年、四月八日夜。大衆合聲禮念。西南近臺、見雙聖燈。又有一六軍健卒、遂自撲、叫喚觀世音菩薩、步步趨聖燈向前、忽然被虎拽去。其見者乃是虎目光也。
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いづれも夜の話であるが、仙鶴觀には聖燈の事はなかつた。登仙橋の大蛇は斐老人に斬り付けられ、仙鶴觀の虎は張竭忠の討伐を免れなかつたのに、靈應臺の虎だけは無事だつたのであらうか。前の二者が登仙を逆用して年々人命を奪つてゐたのに比べれば、雙聖燈の評判の下に一兵卒を銜へ去つたなどは、まだ罪が輕い方だと云へるかも知れぬ。靈應臺は流俗の信仰を集め得たにせよ、登仙の一事はなかつたやうだから、いさゝか性質を異にするとも云へるであらう。
田原藤太秀郷が龍神に賴まれて三上山の百足(むかで)を射た時には、かういふ雙燈のことはなく、松明(たいまつ)二三千餘り焚き上げて、三上山の動くが如く動搖して來るとあるが、眉間の眞中とおぼしきところを覘つて矢を放つ以上、爛々たる雙眼の光りは秀郷の目に入つたに相違ない。かういふ巨大な妖物の前に出れば靈應臺の雙聖燈の如きは月前の螢火に等しいものである。
[やぶちゃん注:藤原秀郷の百足退治伝説は先行する「百足と蛇」で既注。
「三上山」(みかみやま)は現在の滋賀県野洲(やす)市三上にある標高四百三十二メートルの山。一般には「近江富士」の名で知られる。この俵藤太大蜈蚣退治から「ムカデ山」の異名も持つ。
「覘つて」「うかがつて」。]
以上の話とは少し達ふけれども、「諾皐記」に見えた蜘蛛の話なども、やはりこゝに倂記して置いた方がよからう。元和年間に蘇湛なる者、蓬鵲山に進んで高い崖に鏡の如き光りを見、あれは靈境と思はれるから、明日彼處に投ずるつもりだ、と云ひ出した。妻子等が泣いて止めても、云ふことを聞かぬ。翌日遂に出發したので、妻子等はひそかに奴婢(ぬひ)を率ゐて、あとからついて行つた。山に入ること數十里、成程遙かな岩に、直徑一丈もある白い光りが見える。蘇は次第に近付いて、殆ど側まで行つたかと思ふ時、忽ち恐ろしい叫び聲を擧げた。妻子が救はうとして駈け寄つたら、蘇の身體は繭のやうに絲にからまれ、眞黑な大蜘蛛が爪を立ててゐた。一同巖の下に集まり、奴は刀を揮つてその網を切つたけれど、蘇は已に頭をやられて死んで居つた。乃ち蜘蛛を斃し、薪を積んで燒く。臭、一山中に滿つとある。
[やぶちゃん注:「元和」この場合は唐の憲宗の代の元号で、八〇六年から八二〇年まで。
「蘇湛」「ソタン」。
「蓬鵲山」「ほうじゃくさん」(現代仮名遣)。
「投ずる」飛び込む。身を投じる。或いは崖であるから、上からぶら下がって降りる、の謂いかも知れぬ。
「奴婢(ぬひ)」下男下女。
「一丈」唐代の一丈は少しだけ現在の日本のそれ(三・〇三メートル)より長く、三・一一メートルである。
本話は「酉陽雜俎」「卷十四 諾皋記上」に載る以下。
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元和中、蘇湛游蓬鵲山、裹糧鉆火、境無遺跬。忽謂妻曰、「我行山中、睹倒崖有光鏡、必靈境也。明日將投之、今與卿訣。」。妻子號泣、止之不得。及明遂行、妻子領奴婢潛隨之。入山數十里、遙望巖有白光、圓明徑丈、蘇遂逼之。纔及其光、長叫一聲、妻兒遽前救之、身如爾蟲矣。有蜘蛛黑色、大如鈷金莽、走集巖下。奴以利刀決其網、方斷、蘇已腦陷而死。妻乃積柴燒其崖、臭滿一山中。
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「鈷金莽」今村与志薄雄氏の東洋文庫版訳注では「金莽」は「金(へん)+莽(つくり)」で一字であり、「こぼく」と読んでおり、意味を小さな釜とする。]
この話は「蛛の鏡」といふ題で「伽婢子」に取り入れられてゐる。永正年中、越中國礪竝山の話になつてゐるが、「諾皐記」の借り物であることは云ふまでもない。二頁見開きの插繪があつて、「その蜘蛛の大さ、足を伸べたるかたち車の輪の如し」と書いてゐるのは、「諾皐記」の條から採用したのである。かういふ聖燈、靈光の類は滅多にあるまいが、似たやうな奇蹟に惑はされる例は、現代にも絶對にないとは云はれぬ。支那の昔話とのみ看過することは出來ない。
[やぶちゃん注:「永正年中」一五〇四年から一五二〇年。室町時代。
「礪竝山」富山県小矢部市と石川県津幡町の境にある砺波山。かの木曾の義仲の戦さで知られる倶利伽羅山と同義ともされるが、広義には一山の総名であって最高所国見山(二百七十八・八メートル)や倶利伽羅山・源氏ヶ峰・矢立山などの支脈を含むともされる。
宵曲の言っているのは、「伽婢子」の「第六卷」にある「蛛(くも)のかゞみ」。注は一部、新古典文学大系の脚注を参考にした。
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蛛(くも)の鏡(かゞみ)
永正年中の事にや、越中の國砺竝(となみ)山のあたりにすむ者あり。常に柴をこり、山畑を作り、春は蠶(かひこ)を養うて、世を渡る業(わざ)とす。蠶する比(ころ)は猶、山深く入(いり)て、桑の葉を買(かひ)もとめ、夏に至れば、又、山中の村里を尋ねめぐり、糸帛(いとわた)を買あつめ、諸方に出し、あきなうて利分(りぶん)を求む。山より山をつたひて深く分入(わけいる)ところ、谷深く、水みなぎりて、渡りがたき所多し。或は藤葛(ふじかづら)の大綱(おほづな)を引渡し、苔の兩岸の岩根・大木につなぎ置く。道行(ゆく)人この綱に取つき、水を渡る所もあり。然らざれば、みなぎる水、矢よりはやくして押流され、岩角(いはかど)に當りて、くだけ死す。或は東の岸より西の岸まで葡萄蔓(ぶだうずる)の大綱を引張り、竹の籠を懸け、道行人を是に乘せ、向ひより籠を引寄する。その乘(のる)人もみづから綱(つな)をたぐりて傳ひ渡る。もし籠の緒(を)きれおつれば、谷の逆卷(さかま)く水に流れ、岩に當りて死する所もあり。
五月の中比(なかごろ)、砺竝(となみ)の商(あき)人、糸帛を買ために山中深く赴きしに、さしも險しき谷に向ひ、岸は屛風をたてたるが如く、水は藍(あゐ)をもむに似て、大木はえ茂り、日影もさだかならぬに、谷のかたはらに徑(わたり)三尺ばかりの鏡一面(おもて)あり。其光り輝きて水にうつりて見えたり。
「かのもろこしに聞えし、楊貴妃帳中(ちやうちう)の明王鏡(みやうわうきやう)[やぶちゃん注:鍾馗の精霊が楊貴妃の病魔を退治するため、玄宗に枕元の几帳に立て添えさせたとする鏡。本邦の謡曲「皇帝」が出典か。]、汴州(べんしう)張琦(ちやうき)が神恠鏡(しんくわいきやう)[やぶちゃん注:「汴州」は河南省開封県であるが、以下の神鏡は不詳。]といふとも、これにはまさらじ。百練(れん)の鏡こゝに現れしや、天上の鏡のおちくだれるや。いかさまにも靈鏡なるべし。岩間を傳ひて取りて歸り德つかばや[やぶちゃん注:金儲けをしようぞ。]。」
と思ひ、其あり所をよく見おほせて家に歸り、妻に物語りければ、妻のいふやう、
「いかでか其谷かげにさやうの鏡あるべきや。たとひありとても身に替へて寶を求め、跡に殘して何にかせむ。もし、足をあやまち、水に落入らば、悔むとも甲斐なからん。只(ただ)思ひとまり給へ。」
といふ。商人いふやう、
「更にあやまちすべからず。未だ人の見ざるあひだに早くとりをさめて、徳つかばや。」
とて、夜の明くるを遲しと、刀を橫たへ出(いで)て行(ゆく)。妻、こゝろもとながりて、召し使ふ男一人、我が子と共に三人、鐵垢鑓(さびやり)・鉞(まさかり)なんどもちて、跡より追て行。山深く入て谷に向へば、白き光り輝き、まろく明らかなる大鏡あり。商人、谷の岩かどを傳ひ、其光のあたり近く行(ゆく)かと見れば、大音(だいをん)あげてさけび呼ぶ事、只、一聲にて、音もせず。妻と子と驚きて谷にくだりければ、商人は蠶の繭の如く糸にまとひ包れて、大なる蜘蛛の黑色なるが取り付きてあり。三人のもの立かゝりて鑓にてつきおとし、鉞にて切倒し、刀を以て糸を割(さき)破りしかば、商人は頭(かしら)の腦(なう)おちいり、血流れて死す。その蜘蛛の大さ、足を伸べたるかたち、車の輪の如し。妻子、なくなく、柴をつみ、火を鑽(きり)て蜘蛛を燒ければ、臭き事、山谷に滿ちたり。夫(をつと)の尸(かばね)をばとりて歸り、葬(さう)しけり。其かみより鏡に化(け)して、をりをり人をたぶろかしとりけるとぞ。
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併し支那にある聖燈なるものは、悉く動物の眼を誤認したものかといふと、決してさういふわけでほない。もう少し神韻縹渺たる話もある。廬山の天池峯は曼殊室利菩薩の道場であるが、ここにも夜夜聖燈が現れた。一燈が准山の方から飛んで來たかと思ふと、忽ち七つになり、七つはまた變じて四十九となり、遂に百千萬億の算ふべからざるに達する。その燈が山谷に滿ち、自ら相集まつて毬の如く、珠數の如く、華蓋の如く、香煙の如き觀を呈するのである。これを見た役人の中に頑固な男があつて、これは妖である、然らずんば木石の光焰に過ぎぬ、もしあの火が自分の手に飛び集まるならば、その神を信じよう、と云つた。然るにその言葉がまだ了らぬうちに、一燈飛來して役人の左の肱にとどまつた。あかあかと燃えてはゐるが、一向熱くない。これを手に取つて香奩の中にしまつて置き、翌日あけて見たら、一片の木の葉であつた。この木の葉は無限の詩の詩趣を藏してゐるやうな氣がする。
[やぶちゃん注:「廬山の天池峯」江西省九江市南部の名山廬山の大天池ならば、ここ(グーグル・マップ・データ)。
「曼殊室利菩薩」文殊菩薩(サンスクリット語カタカナ音写:マンジュシュリー)。そもそも「文殊」は「文殊師利(もんじゅしゅり)」の略称で、漢訳では「「曼殊室利」とも書く。
「香奩」は「かうれん(こうれん)」と読む。化粧道具を収める箱のこと。
宵曲は出典を明らかにしていないが、調べて見たところ、春秋時代の晋の董狐(紀元前六五一年~紀元前五七五年)の撰になる志怪小説集「鬼董」(一名「鬼董狐」・全五巻)に載る以下である。
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廬山天池峰絶高、曼殊室利菩薩道場也、夜夜有聖燈來供之。楷禪登山、夜見一燈自淮山飛來、須臾變而爲七、七變而爲四十九、又爲百千萬億不可説、彌山偏穀、已乃聯比相屬有、如繡□者、數珠者、華蓋者、香爐者。一官人號木強詆之曰、「此妖耳。不然則木石光焰能飛集吾手、乃信其神言。」。未脱口、一燈飛來左肱上、紅焰赫然而不熱。摘取之、封寘香奩中。明日啟視、止木葉一片耳。淮山蓋四祖、五祖道場、亦夜有燈垂塔前鬆楸上。天池燈間亦飛渡江供之。予叩之友禪人、其説不異。
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