宿直草卷一 第二 七命ほろびし因果の事
第二 七命(みやう)ほろびし因果の事
むかし、行脚の僧、山路を步むに、をりしも初秋(はつあき)の頃、殘る暑さも眞夏にこえ、さわたる雁(かり)もいと珍しく、凉しき木陰(こかげ)にいこふ所へ、なめくじりなんいふ虫、はらばひ出でたりしに、ひとつの蛙(かはづ)有て、飛びきたりて、これを呑む、かゝりしを又、蛇(へび)、見つけて蛙(かはづ)をのむ。猪(ゐのこ)、見て、又、蛇をくらふ。僧、みて、
「あゝ、鳩(はと)のはかりに身を隱る術(じゆつ)も、我におゐてなき事よ。」
と恨むに、猪(ゐ)は喜びて去るに、どこより狙ひけん、この猪(しし)も矢にいられて、忽(たちまち)、目(ま)のまへに死す。かかるところへ、腰に靫(うつぼ)つけたる狩人(かりうど)きて、此猪(しし)をとり、嬉しげにかへる。
「さてさて、强者伏弱(がうじやぶくにやく)のことはり[やぶちゃん注:ママ。]なるかな。なめくじりより次第に殺されて、猪(しし)、今、狩人の手に入る。しらず、此狩人も行方(ゆくゑ)、いかがあらん。」
末(すゑ)おぼつかなく思ひければ、跡につきて、狩人の家に行き、宿(やど)かりたき由いへば、情(なさけ)ある者にてゆるし侍り。内に入(いり)、見れば、四面(しめん)あれたる柴の戶の、嶺(みね)の松風(まつかぜ)、らうがはし。隣るべき家もなふ、起臥(おきふし)ともにたゞ淋(さむ)しき住居(すまひ)なめれど、かれが心に百敷(もゝしき)の、軒(のき)の並ぶも知らなくには、たんぬして住(すみ)つらめと、あさまし。似あはし飼糧(かれゐひ)とゝのへて、洗足(せんそく)など迄いたはり、狩人夫婦(ふうふ)、たゞ三吟(きん)に話せしにぞ、夜(よ)もはや、いたふ更(ふけ)ける。明(あ)けてこそ語らめとて、あるじも寢(いね)ければ、僧も臥し侍りしに、なにとやら、胸(むな)さはがしく、つやつや、目も閉ぢでより居しに、外(そと)より鼠鳴(ねずな)きして、をとづるゝものあり。獵師の妻(つま)、得たり顏に、ひそかに立て、戶をひらく。物蔭より見れば、刀・脇差に、長刀(なぎなた)もちたる男、入ぬ。とかくすると見る程に、かの獵師を刺し殺す。
僧、さればこそと、恐ろしく、身をひそめて見る。古き皮籠(かはご)を取りいだし、死骸を入れ、繩、十文字にかけて、
「年ごろの本望(ほんまう)、達しぬ。」
と、よろこぶ。
「さて何とすべきぞ。」
といへば、女のいはく、
「上(うへ)の山に埋(うづ)み給へ。」
といふ。
「いかゞして持ち行かん。」
といへば、
「さいはひ、旅人の候。これに持たせて御行き候へ。」
といふ。
「然(しか)るべし。」
とて、僧をあらけなく起し、
「皮籠(かはご)を荷なひ、きたれ。」
といふ。いつならはじの事なれば斟酌(しんしやく)なれど、否(いな)といはゞ、殺すべき氣色(けしき)に見えければ、力をよばず、これを荷なふ。件(くだん)の男、片手に鍬(くは)、かた手に長刀にて、おそろしき出立(いでたち)なり。
かくて、山へゆき、埋(う)むべき所を見たて、をのれは奉行して、穴を僧に掘らするに、ぶん取、殊の外、ひろし。僧、心に思ふやう、
『我も埋(う)むべき巧(たく)みなるべし。我、ながらへば、女房も、密夫(まおとこ)も、事あらはれんなれば、一定(いちぢやう)、我をも殺すにこそ。扨(さて)さて、前業(ぜんごふ)のかんずる所とはいひながら、無用(むよう)の所へ尋ねきて、非法(ひはう)の死(しに)をする事かな。ねがはくは、佛陀の加護、神明(しんめい)の靈驗ありて、助け給へ。』
と祈誓(きせい)して、彼(かれ)に先(せん)を越されじと思ひ、
「いかに、聞(きき)給へ、我ならはぬ事ながら、きめて掘れとのたまふゆへ、かほどまでは掘りたり。ゆるし給へ、まづ、少し休まん。」
といへば、男、聞(きき)て、
「今休みなば、やうやう、夜(よ)も明(あけ)なん。無下(むげ)に弱き法師かな。いで、退(の)きたまへ、我、掘らん。」
とて、鍬と長刀、取りかへて、よほどふかき穴に入(いり)、精をいだして掘りけるぞ、しかるべき運の盡きなる。
僧、屠所(としよ)の羊の惜しむべき間(ひま)なり、
『穴、出來(でき)たらば、命あらじ。逃(のが)るべきは、こゝなり。』
と、
『汝是怨敵發菩提心(によぜをんてきほつぼだいしん)。』
と、心の内に弔(とふら)ひ、持ちたる長刀、取り直し、多聞(たもん)の鉾(ほこ)となぞらへて、かの男の首、うち落とし、さて山傳(やまづた)ひに迯(にげ)やはせんとおもひしが、
「いやいや、かの女、跡にて、わが過(とが)のやうに云ひなしなば、いかばかりの難義(なんぎ)かあらなん。たゞ正直(しやうぢき)に云はんには、しかじ。」
と、かの所の地頭(ぢとう)に、いちいちに斷りければ、
「沙門(しやもん)は神妙。」
とて褒美にあづかり、女房は定めの如く、刑(けい)に仰せつけられけるとかや。
むべ、尊(たつと)きも賤しきも、なれては秋の色好(いろごの)み、よその袂(たもと)の香をとめて、誘ふ水に心をみだし、義理にはなれて名に殘るは、いとも口惜しからずや。狹衣(さごろも)の大將は、聞きつゝも淚にくもるとながめ、光(ひかる)君は、いかゞ岩根(いはね)の松はこたへんと詠ぜしも、膽(きも)にしみて淺ましくこそ侍れ。かの高麗人(こまうど)の、色(いろ)ある婦(をんな)の姿の雅びやかなると、家の富めるとに、よすがを定めかねたるも、道理は一往(わう)あれど、思ふに別れ、思はぬに添ふも、不祥(ふしやう)の常(つね)なれば、何とも、しがたし。さればこそ、重きが上の小夜衣(さよころも)といひ、貞女は二夫(じふ)に見(まみ)えずとも、王燭(わうしよく)はいましめ、和漢ともに五の常(つね)を守りて、我人のたしなみとす。
然るに、この女、振分髮(ふりわけがみ)の馴(な)じみを忘れ、あらぬ方に心を移し、あまさへ、その夫(おつと)を殺す。まことに、天網恢々(てんまうくはいくはい)、罪(つみ)をいづこに贖(あが)なはんや。因果歷然、こゝを以て知るべし。目(め)のまへに七命(みやう)、ほろび侍り。をのれに入る者は、をのれに出づ。科(とが)を天に得ては、祈るにところなしと、此はなしに知られてぞ侍る。
[やぶちゃん注:「七命」(しちみょう)という特定の名数は仏語にはない。これは本話に於いて命を滅ぼすことになる因果を持った七つの生きとし生けるもの、①「なめくじり」(蛞蝓)に始まって、②蛙・③蛇・④猪・⑤狩人・⑥「密夫(まおとこ)」と、⑦女房(本文ではただ「定めの如く、刑に仰せつけられけるとかや」としかないが、不義密通を働き、しかも間男を手引きして夫を殺させ、その死骸を埋めるように指示した彼女は江戸時代の判例に従うなら死罪である。但し、この話柄の時制は後で法刑事権を握っている者としての「地頭」が出ることから、筆者(話者)の時代想定は鎌倉・室町時代のこととしているのかも知れぬ。にしてもこの女は本話中の最悪の悪人で何よりも死ぬべき存在であり、読者も七人目を彼女ととったことはまず間違いない)を指していると採る。なお、湯浅佳子氏の論文『「曾呂里物語」の類話』では、本話を「曾呂里物語」の巻五の五「因果さんげの事」の中間部をインスパイアしたもの(事実、よく似ている)、冒頭の因果律の箇所は、やはり「曾呂里物語」の五の六「よろつうへうへの有事」の類話(これも実際によく似ている)とされている。湯浅氏は同論文の結語で、「垣根草」には都合、「曾呂里物語」の十二の話との類話がみられるとされつつ、但し、『『宿直草』のそれらの話は、『諸国百物語』に比べると『曾呂里物語』との類似性はそれほど緊密ではない。しかし、『曾呂里物語』巻五の五のやや冗漫な長話が『宿直草』で三話に分けられるように記されていること等を考えると、『宿直草』は『曾呂里物語』に拠ったか、もしくは『曾呂里物語』と話材を共有しつつ、創作的姿勢をもって話を描きなおしたといえるだろう』と述べておられる。大変、首肯出来る見解である。リンク先(PDF)の論文を是非、読まれたい。
「さわたる」沢山飛び行く。雁の類は冬鳥の渡り鳥で、やや設定が早い気もするが、風雅の景として詠み込んだものであろう。「いと珍しく」があるのでそうした確信犯である。或いは、ロケーションを特定していないものの、これによって未だ真夏の暑さのぶり返すような初秋でありながら、雁の渡りあるというのは、暗にそれを東北地方に設定していることを暗示しさせているのかも知れぬ。
「はらばひ」這い。
「鳩(はと)のはかりに身を隱る術(じゆつ)も、我におゐてなき事よ」「はかり」「謀り」であろう。「鳩が持つ防衛戦略のような羽根の保護色などで身を隠す術」である。野生のハト類は周囲の色に合わせて羽根色を変え、天敵がいる場合は、叢や木蔭に凝っとして姿を隠す防禦姿勢をとることがある。それを言っているものと思われる。この「我」はそうした食うか食われるかの因果、食物連鎖を傍観した僧自身がそうした弱肉強食の因果の輪から遁れるための術(すべ)を全く持っていないことの感慨であると同時に、この後の危機一髪の展開への不吉な伏線のモノローグとなっている。
「靫(うつぼ)」前話に出たが、再注しておくと、「空穗」とも書き、弓の射手が弓矢を納めるために腰につける細長い筒状の入れ物。
「强者伏弱(がうじやぶくにやく)」「強き者は弱きを伏す」で「大無量寿経」の下巻の一節。人間が行うところの五つの悪である「五惡段」を釈迦が説く、その最初に第一の悪として出すものである。基本、これは「殺生」に収斂され、後の四悪は「偸盗」・「邪淫」・「妄語」・「飲酒(おんじゅ)」である。
「かれが心に百敷(もゝしき)の、軒(のき)の並ぶも知らなくには」「百敷」はこの鄙に対する狩人の見たこともない京の素晴らしい「皇居」の甍に、「ももしき」の「も」を係助詞「も」の不定の用法で――その彼の心でさえ「も全く以って」、繁華な軒の居並ぶ今日の都の壮大な景観さえも知らず、想像だに出来ぬのは――の謂いであろう。
「たんぬ」「足んぬ」。「たりぬ」の転訛で「堪能」に同じく、「十分に満ち足りて満足していること」という意の名詞である。賤しい生計(たつき)乍ら、狩人の心の平穏と最愛の妻との生活への満足を描いて後の展開の残酷さをより高めて上手い。
「あさまし」ここは「呆れた」の謂いであるが、直下の「似あはしき」(その貧しさを感じさせるに足るいかにもみすぼらしい)「飼糧(かれゐひ)」(現代仮名遣「かれいい」であるが、正しい歴史的仮名遣は「かれいひ」。ここは狭義の旅行などに携帯した炊いた米を乾燥させた「乾飯/餉」ではなく、ごく粗末な糧食の謂い)にも影響を与えて、如何にも貧しい雰囲気を伝える効果がある。
「洗足」順序が逆(普通は訪れた最初にされねばならぬ)なのは、狩人の家がみすぼらしく、別に足を洗って上がるようなものでなかったことを伝え、夜話するうち、夫(妻ではあるまい)が僧の足の汚れているのに気づき、その労りのために、妻に命じて足洗いの水を用意させたものであろう。さりげなく狩人の質朴さを読者の印象づける気遣いが作者には感じられる。
「三吟(きん)に話せし」三人で話し合った。この貧家の楽しげな団欒の描きも、この直後でカタストロフへと暗転していく最後として非常に上手いと私は思う。
「つやつや」少しも。いかにしても。
「鼠鳴(ねずな)き」無論、「鼠の鳴くような声を出すこと」であるが、狭義には、この語自体に「女のもとに忍んできた男などが出す鼠の鳴きまね」の意がある。
「皮籠(かはご)」皮を張った籠(かご)。後世には紙や竹で編んだ行李(こうり)をも言った。ここは猟師ではあるが、後者の竹行李でとっておく。
「いつならはじの事」不詳。殺された人の死体を入れた行李を背負うなどということは、今までもどんな時にでも習ったことない仕儀であることを指すか。
「斟酌」「条件などを考え合わせて適当に処置すること」か。ここは、以上のような「特殊な条件下の作業」の謂いか。或いは、(とてものことに殺人者である)「相手の事情や心情を汲み取って答えること」の謂いか。後の「否」を考えると、後者が適切かも知れぬ。
「ぶん取」「ぶんどり」で地面を掘らせている、その指定面積の区画分。それが人一人分を埋めるだけとは到底思えぬほどに広いのである。
「一定(いちぢやう)」副詞で「きっと・必ず」。
「前業(ぜんごふ)のかんずる所」自身の知らぬ前世(ぜんせ)の業(ごう)に感応した報い。
「きめて」ここは「責めて」の謂いであろう。
「運の盡き」間男の「運(うん)の尽(つ)き」。
「屠所(としよ)の羊の惜しむべき間(ひま)なり」「屠所の羊」は屠殺場に牽かれて行く羊で、刻々と死に近づいていることの譬えで、「大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)」の北本(ほくほん)を出典とする。ここは「死に向かわんとする者が手を拱いている余裕など最早ない」という反語的心内表現である。
「汝是怨敵發菩提心(によぜをんてきほつぼだいしん)」これは「大藏經」等に見られる一節、「汝是畜生發菩提心(によぜちくしやうほつぼだいしん)」(たとえ犬畜生のような動物や虫であっても仏を信じ求める心を起したならば必ず救われる)のパロディである。というより「怨敵を殺生してもそれが即菩提となる」という刑法に於ける殺人罪の不適応となる「緊急避難」や「正当防衛」的な方便としての言上げであろう。
「弔(とふら)ひ」これから殺そうとする間男の命を事前に供養するという、滅多に見かけない驚天動地の僧の仕儀である。
「多聞(たもん)の鉾(ほこ)」多聞天は天部の武神毘沙門天のこと。持国天・増長天・広目天とと合わせて「四天王」の一尊として数える場合は多聞天となる。ウィキの「毘沙門天」によれば、本邦では『一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表される。また、邪鬼と呼ばれる鬼形の者の上に乗ることが多い。例えば密教の両界曼荼羅では甲冑に身を固めて右手は宝棒、左手は宝塔を捧げ持つ姿で描かれる。ただし、東大寺戒壇堂の四天王像では右手に宝塔を捧げ持ち、左手で宝棒を握る姿で造像されている。奈良當麻寺でも同様に右手で宝塔を捧げ持っている。ほかに三叉戟を持つ造形例もあり、例えば京都・三室戸寺像などは宝塔を持たず片手を腰に当て片手に三叉戟を持つ姿である』(下線やぶちゃん)とある。リンク先に兵庫県高砂市時光寺の多聞天像の写真がある。この僧はまさに間男を殺害する際に自らを仏法の正法(しょうぼう)を守護堅持する多聞天に自らを擬えることで敢えて斬首殺人という惨たらしい最大級の殺生行為の正当化を自らに賦与させたというわけである。
「過(とが)」「咎(とが)」。犯行。
「なれては」馴れては。「秋」は「飽き」を掛け、相手に馴れて飽きてしまうと。
「名」ここは「芳しくない噂」「ゴシップ」の謂いか。
「狹衣(さごろも)の大將」平安中期、禖子(ばいし)内親王の女房であった宣旨(せんじ:女房名)の作とされ、延久・承保(一〇六九年~一〇七七年)頃に成立した「狹衣物語」の主人公。堀川関白の子で、総てに於いて人に優れた男であったが、同じ邸内に養われた従妹の源氏宮(げんじのみや)に恋しながら、報われず、心ならずも飛鳥井姫・嵯峨院の女二宮・一品宮(いっぽんのみや)・宰相の中将の妹などと関係を重ね、彼女らの不幸を招き、狭衣自身も帝位に上るという異例の幸運を得ながらも、遂に悶々たる思いは晴れることがなかったといった悲恋物語。その筋書きは殆どが「源氏物語」の換骨奪胎に過ぎないものの、緊密な構成・巧みな和歌・洗練された文章などによって鎌倉時代には「源氏物語」と並称されるほど好んで読まれた(私は同作を所持するが、全く読んだことがないので、以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「光(ひかる)君は、いかゞ岩根(いはね)の松はこたへんと詠ぜし」「源氏物語」の「柏木」の中に出る光の詠んだ、
誰が世にか種は蒔きしと人問はばいかが岩根の松は答へむ
を指す。光の親友頭中将の子柏木と妻女三の宮の間に出来た不義の子である薫の生誕の五十日目の祝いが過ぎ、三の宮を見舞った際、光が妻の不倫をあからさまに詠んだ嫌味な一首である。
「不祥」不運。
「さればこそ、重きが上の小夜衣」「新古今和歌集」の「卷第二十 釋教歌」の中の寂然法師(じゃくせん/じゃくねん 元永年間(一一一八年~一一一九年)?~?:平安末期の官人・歌人。俗名は藤原頼業(よりなり)。藤原北家長良流で丹後守藤原為忠の四男。近衛天皇の下で六位蔵人を務め、康治元(一一四一)年に従五位下に叙されて翌年には壱岐守に任ぜられたが、遅くとも久寿年間(一一五四年~一一五五年)に出家し、大原に隠棲した。参照したウィキの「寂然」によれば、『西行とは親友の間柄であったと言われている。また、各地を旅行して讃岐国に流された崇徳院を訪問したこともある。寿永年間』(一一八二年~一一八三年)『には健在であったとみられるが』、『晩年は不詳』。『和歌に優れ』、『強い隠逸志向と信仰に裏付けられた閑寂な境地を切り開』き、『今様にも深く通じていた』とある)の一首(一九六三番歌)、
不邪淫戒(ふじやいんかい)
さらぬだにおもきがうへの小夜衣(さよごろも)わがつまならぬつまな重ねそ
に基づく。「不邪淫戒」は十戒(不殺生・不偸盗・不淫・不妄語・不飲酒(ふおんじゅ)・不塗飾香鬘(ふずじきこうまん:香水や貴金属の装飾を身に帯してはならない)・不歌舞観聴(ふかぶかんちょう・歌舞音曲を遠ざけるねばならない)・不坐高広大牀(ふざこうこうだいしょう:膝よりも高い高級な寝具や装飾を施した閨(ねや)に寝てはいけない)・不非時食(ふひじじき:食事は一日二回(午前中の正式な斎(とき:時)と午後の非時食)としてそれ以外に間食をしてならない)・不蓄金銀宝(ふちくこんごんほう:金(かね)や金銀・宝石類を含めて個人の財産となるような物を所有してはならない))の一つである女犯罪(にょぼん)を禁じた不淫戒(現実的には不道徳な性的行為の禁止、或いは、妻又は夫以外の者と性交を禁ずること)を指す。「小夜衣」夜具の雅語。なお、この語は後、この歌を語源として「浮気女」を指す隠語となった。「つま」配偶者の意に「衣」の縁語である「褄(つま)」(着物の裾の左右両端の部分或いは襟下)の意の掛詞。歌意は、
――ただでさえ、夜具とする衣は重いもの。その上に自分のものではない衣の褄(つま)を重ねるな。ただでさえ、女犯は罪深いことであるのに、その上に我が妻でない人妻と関係を結んで邪淫を重ねてはならぬ。――
といった謂い。ネット上には事実に基づく背景を憶測する解説もあるが、採れない。
「貞女は二夫(じふ)に見(まみ)えずとも、王燭(わうしよく)はいましめ」「史記」の「田單列傳第二十二」に出る。「王燭」は「王蠋」が正しい。王燭は斉王の忠臣で王によく諫言したが、王は聞き入れず、彼は身の不徳を嘆いて辞任して隠居した。そこに隣国の燕王が楽毅を総大将として斉に攻め入り、斉は亡んでしまう。その直後、かねてより王燭の人徳を聞き知っていた楽毅は、王燭を燕の高官として迎えたい旨、何度も礼を尽くして慫慂したが、王燭は頑として応じなかった。それでも楽毅がそれを諦めず、王燭を脅迫しつつ招聘した際、その使者に向かって言ったのが、「忠臣不事二君。貞女不更二夫。」(忠臣は二君に事(つか)へず、貞女は二夫(にふ)を更(か)へず。)で、その喝破した直後、王燭は自邸の庭先の木に繩を懸け、自ら縊れて死んだという。これは「忠臣不事二君」への譬えであって、ここに出すに相応しい引用とは、私には思われない。
「五の常(つね)」儒教で説く五つの徳目である五常(五徳)。仁・義・礼・智・信。
「我人」自己と総ての他者。
「あまさへ」「剩(あまつさ)へ」の近世以前の表記。副詞で「あまりさへ」の転。好ましくない状態が重なるという条件下での「そればかりか・その上に・おまけに」、或いは「こともあろうに・あろうことか」の意。ここは後者。
「天網恢々(てんまうくはいくはい)」「天網恢恢、疎(そ)にして漏らさず」の略。「天の神仏のめぐらした衆人を守るための網は広大で、それは一見、目が粗いようにも思えるけれども、悪事については決して僅かなりとも逃すことはない」の意で、「悪事はいずれ必ず報いを受けるものである」という成句。
「をのれに入る者は、をのれに出づ」この「をのれに」は自発の意か。ある対象に自然に内在するようになったものは、同じように自然に穏やかにその対象から出て行くものである。それが自然である。しかし、自己の内省や罪障感とは無縁に、その「科(とが)」が「天に」よって指弾され、決定(けつじょう)し、断罪されてしまった上は、天に「祈」って最早、何の赦免も与えられるものではない、という意味であろうか。大方の御叱正を俟つ。]
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