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2017/06/24

宿直草卷一 第十二 弓法の德をおぼえし事

 

  第十二 弓法の德をおぼえし事

 

 むかし、弓をたしむ人あり、ひとり、夜みちゆく。己(をの)がわざなれば、祕(ひ)めにし弓に矢を十筋(すぢ)取(とり)添へて出でけるが、また、道にて小竹原に入つて、篠(しの)を一本切(きり)、矢のたけにくらべ、根をそぎ、筈(はず)をつけて、十筋の箭(や)にとりそへて持ちけり。

 さて行くに、みちの眞中(まんなか)に、その色(いろ)、黑きもの、あり。人よりは小さふして、さらに動かず。

「退(の)け。」

といへど、いらへず。

「いかさまに狐、貉(むじな)なるべし。」

と思ひ、矢をはなちて射るに、手ごたへして、あたると見しも、飛(とび)のく音、かねなど、射るがごとし。しかれども、やをら、はたらきもせず。また射るも始めのごとし。一筋一筋と射るほどに、十筋みな射て、たゞ一本、殘れり。

 このとき、かの物、動きて、上(へ)にかづきし物を、わきへのけて飛(とび)かゝるを、のこる一すぢにて射止(いと)めたり。さて、間(ま)ちかく見れば、狸にて、上にかづきしは鍋(なべ)也。おそろしきたくみにあらずや。その十の數(まず)、知りしにや。また、十は數の常(つね)にして、物每(ものごと)に是を用ゆ。狸すら、それをくりて、うかゞふ。まして、人なんどの智には考ふべきをや。きりそへて、十一にしてゆきしは、心憎く侍る。

 『祕事(ひじ)は、まつげのごとく、これ、弓法(きうぼう)の德なり』といへり。惣(すべ)て、人にぬきでて藝ある人は、つねづねの心がけも各別なりけらし。この事にかぎらず、氣をつけ、心をくばらば、物ごと、よくとゝのふべきものをや。三番のあどの外に、猶、物に心得たる人こそ、世中の寶なめれ。如夢僧都(によむそうづ)のゑぼしも、河風すさぶ折柄(をりから)には、ひとかど、晴(はれ)の用にたてりとあればとて、四明年(しみやうねん)にことくどき人も、我におゐて、うるさし。

 

[やぶちゃん注:弓で軽く連関。前話の一般論としての「見越し入道」が狸の変化(へんげ)であることを確定的なものするなら、狸の変化で直連関する。

「筈(はず)」矢筈(やはず)。弓矢の尻のV字形に加工した弓弦(ゆづる)を懸ける部分。

をつけて、十筋の箭(や)にとりそへて持ちけり。

「いかさまに」ここは副詞的用法で、「きっと・恐らくは」の意。

「貉」ここは前に狐を出して並列しているので狸のこと。

「やをら」元は対象生物などがゆっくりと動作を始めるさまを指す。ここは「おもむろに」。

「はたらきもせず」動こうともしない。

「十筋みな射て」その中で追加して作った即製の仮の箭(や)は既に交ぜ射ているのである。そうでないと、流石に篠竹の鏃なしのそれは、とどめを刺す一本にするには心もとないからである。

「かづきし」被っていた。

「その十の數(まず)、知りしにや」一応、疑問文であるが、この狸は、殆んど確述用法で十という数を認識していたのである。

「十は數の常(つね)にして、物每(ものごと)に是を用ゆ」十という数はありとあらゆる場面の中で常用される数で、種々の複数の対象物の一揃えにこの数を用いている。

「それをくりて」「くりて」「繰りて」。その放った矢の数を冷静に順に一つずつ数えて。

「まして、人なんどの智には考ふべきをや」畜生の狸でさえそうなのだから。まして、人間なぞの普通の者の持つ智恵などに於いては、これ、容易に考えつくことに決まってる。

「きりそへて、十一にしてゆきしは、心憎く侍る」そう考えると、この弓術師が敢えて即席の矢を作り添えて、総数を十プラス一にして夜道を行ったのは、まっこと、心憎い仕儀ではないか。

「祕事(ひじ)は、まつげのごとく」「祕事は睫(まつげ)の如し」容易くは理解出来ぬとされる奥義や秘密というものは学ばなければなかなか習得出来ないものの、実は睫毛は直ぐ眼の前にあるにも拘わらず、近過ぎて見えているという認識がないように、秘事・奥伝といったものは意想外に誰でも知っている常識のほんの近くにあるものであるといった意味の故事成句。「我が眼(まなこ)を以つて我が睫を見んとするが如し」或いはもっと短く単に「秘事は睫」とも言い、より知られた類義成句は「灯台下暗し」である。

「三番のあど」不詳。能狂言でシテに対する相手役を「アド」と称し、相手役が二人以上登場する場合は,主な相手役の「アド」を「主(おも)アド」または「一のアド」と称し、以下「次(じ)アド(二のアド)」、「三のアド」と言うが、その最後のものか? 端役であるが、能狂言の端役中の端役とも言えるが、彼が居なければ、芝居は成り立たないから、バイ・プレーヤー乍ら、芝居成立に必須な人物=知恵者の謂いか。そういう意味であるなら、ここはさらにその「三番のあどの外に、猶、物に心得たる人こそ、世中の寶なめれ」と常人の気づかぬ、この世の中には実は必須であり、同時に名もなき知恵者の存在が厳然としてあるのだと謂うのであろうか。大方の御叱正を俟つ。

「如夢僧都(によむそうづ)」これは恐らく、「如無僧都」の誤りであろう。「十訓抄」の「上」の「第一」の中に、平等院僧正行尊の気配りを讃えた一条の最後に、

   *

昔、宇多法皇、大井川に御幸の日、泉大將の、烏帽子(ゑぼし)、落したりけるに、如無僧都、三衣(さんえ)箱より烏帽子取り出でたりけんに、劣らずこそ聞ゆれ。

   *

と出る出来事を指すものと思われる。如無僧都は平安前期の公卿藤原山蔭の子で法相宗の僧。興福寺に住し、延喜六(九〇六)年に権律師に任ぜられて宇多天皇の覚え宜しく、承平元(九三八)年に大僧都となって、天慶元(九三八)年に遷化している。

「四明年(しみやうねん)にことくどき人」不詳乍ら、四年も先のあれこれのことを、くどくど言っては何やかやとそのときのためにあれをしろ、これをした方が良いなどとお節介をする人の謂いか? 大方の御叱正を俟つ。

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