毛利梅園「梅園介譜」 榮螺(サヽヱ)
榮螺(サヽヱ)【源「和名抄」。佐左江(さざゑ)。】
「六々貝合和哥(ろくろくかひあはせわか)」
右九番 左(さ)たゑ
さたゑすむ瀬戸の岩つぼに水出て
いそしき海人(あま)のけしき成(なる)らん 讀人知らず
[やぶちゃん注:図の左下のキャプション。]
壬辰十一月十五日
眞寫
[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」のこの画像をトリミングした。腹足綱古腹足目リュウテン科リュウテン属 Turboサザエ亜属 Batillusサザエ Turbo sazae。螺層には非常に多くの節足動物門甲殻亜門顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚下綱完胸上目無柄目フジツボ亜目 Balanomorpha のフジツボが附着している。小さいので同定は絵からは困難だが、縦の白い縞が顕著に描かれている感じからは、フジツボ上科フジツボ科フジツボ属シロスジフジツボ Balanus albicostatus であろうかとも思われる。なお、本文中の「左(さ)たゑ」「さたゑ」の「た」は踊り字ではない。「さざえ」が転訛した「さだえ」という呼称が平安後期にはすでに存在したのである。知られたところでは「梁塵秘抄」に、
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備後の靹(とも)の島
その島 島にて 島にあらず 島ならず
螺(にし)なし 榮螺(さだえ)なし 石花(せい)もなし
海人(あま)の刈り乾す 若布(わかめ)なし
*
と読まれているのである。因みに「石花(せい)」は「勢」でカメノテ(節足動物門甲殻亜門顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目有柄目ミョウガガイ亜目ミョウガガイ科カメノテ属カメノテ Capitulum mitella)。これは男根に喩えた呼称と私は踏んでいる。
『源「和名抄」』源順(みなもとのしたごう)の字書「和名類聚抄」。以下のように載る。
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榮螺子 崔禹錫食經云榮螺子【和名佐左江】似蛤而圓者也(崔禹錫(さいうしやく)が「食經(しよくけい)」に云く、榮螺子【和名、「佐左江」。】蛤(がう)に似て圓(まろ)き者なり)
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この崔禹錫は唐代の博物学者で、食物本草書「崔禹錫食経」で知られる本草学者。「崔禹錫食経」は平安中期に源順によって編せられた辞書「倭名類聚鈔」に多く引用されるが、現在は散佚して見ることは出来ない。後代の引用から、時節の食の禁忌・食い合わせ・飲用水の選び方等を記した総論部と、一品ごとに味覚・毒の有無・主治や効能を記した各論部から構成されていたと推測されている。
「佐左江」「左」の漢字には濁点が附されているのに注意。
「六々貝合和哥」前の「梭尾螺」の私の注を参照。国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像で和歌を視認出来(右冒頭)、貝の図はこちらの左頁(貝合わせでは「右」)の「九 ささへ」。「梭尾螺」と同じく、「和泉屋 楓」氏のサイト「絵双紙屋」の「教訓注解 絵本 貝歌仙 中巻」の『(8)』にも、
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さたへ貝
さたへすむ
瀨戸の
いはつぼ
求出(もとめいで)て
いそしき
あまの
けしき
なる
かな
いそしきとは、いそがし
き
のことばなるべし。
あまは海辺のさもしき
人をいふ。これに付(つけ)ても、
下々(しもじも)は旦暮(あけくれ)、手あし
の労(ほねおり)のいとまなし、
たちゐにくるしきを、
うへつかたは、あはれと
しろしめさる
べきなり。
*
とある。
「さゝゑすむ瀬戸の岩つぼに水出て/いそしき海人(あま)のけしき成(なる)らん 讀人知らず」元歌は西行の「山家集」に出る(一三七六番歌)、
牛窓(うしまど)の瀨戸に海人(あま)の
出でいりて、さだえと申すものをとりて、
舟に入れ入れしけるをみて
さだえ棲む瀨戸の岩壺(いはつぼ)求(もと)め出でてて急ぎし海人の氣色(けしき)なるかな
である。「牛窓の瀨戸」は現在の岡山県瀬戸内市牛窓と同地区の沖に浮かぶ前島(まえじま)との海峡部及び海域を指す。ここ(グーグル・マップ・データ)。因みに、次の組歌である一三七七番歌はアワビを詠んでいる。参考までに挙げておく。
沖なる岩に着きて、海人どもの鮑(あはび)採りける所にて
いはの根にかたおもむきに並(な)み浮きて鮑を潛(かづ)くあまのむぎみ
「壬辰十一月十五日」天保三年。グレゴリオ暦一八三二年十二月六日。季節と、所謂、硬質の厚い石灰質の「蓋」(本来の厴(蒂:へた)は当該の「蓋」の裏側に附着して見える褐色を呈した緩やかな螺旋状形状を呈する薄いクチクラ質のものがそれ。我々が「蓋」と呼んでいる分厚い「ヘタ」と勘違いしているそれは二次的にその真正の「ヘタ」に炭酸カルシウムが沈着して肥厚したに過ぎない)の感じからは、生貝を写したものと私は踏む。]