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2017/06/21

宿直草卷一 第三 武州淺草にばけ物ある事

 

  第三 武州淺草にばけ物ある事

 

Asakusakanondoubakemono

 

[やぶちゃん注:この図は底本「江戸文庫」版のもの。]

 

 元和(げんわ)の始めの頃、淺草の觀音堂に化物あるといひふれりしに、江府(こうふ)御鷹匠(たかじやう)の内、器量の士(ひと)ありて、

「我、行きて見ん。」

といふ。其むしろに侍る士士(ひとびと)、

「良かるまじき。」

など答へけれど、なまじゐの我(が)になりて、その日の暮に馬に乘り、少々つれし下人に、

「あくる卯(う)の一天に迎ひに來れ。」

と云ひふくめ、その身は堂に入(いり)て越夜(おつや)するに、亥のかしらとおもふ刻(きざみ)、夜まはりの者とうち見えて、鐵棒つきて二人來り、咎めていふやう、

「堂内へ俗人の入(い)る事、堅く禁制なり、とく、出で給へ。」

といふ。

 侍(さぶらひ)、聞きて、

「是は救世(くせ)に宿願ありて籠り居る者なり。免したまへ。」

といふ。

「是非とも。」

といふ。

「ひらに。」

と答へて出(いで)ざれば、力をよばぬ體(てい)に、出でさると見えしが、かき消ちてうせぬ。

「さては宿直(とのゐ)の者にてはなし。是こそ化物よ。」

と思ひしに、また夜半(よは)の比、僧徒五、六十人、十(と)あまりの提灯(ていとう)に火ともして、いかさまにも闍維(しやゆい)の規式(きしき)にて來(きた)る。殊勝(すせう)におぼえしに、さはなくて、堂内にきたり、

「俗人は法度(はつと)也。とく出でよ。」

と、いろいろに責め罵(のゝし)れども、『今宵はいかやうの事ありとも出まじき』と思ひ、後々は返事もせず、進退用心してこらへければ、是も、そのまゝ、うせけり。

 やうやう明かして、はや七鼓(しちこ)の時分とおぼしき比、十六、七ばかりの小僧、後門(ごもん)より内陣に入(いる)。輪灯(りんとう)に火とぼして禮拜(らいはい)す。また、その容(かたち)、色々に現ず。あるひは、面(おもて)長くなり、短かくなり、あるひは、㒵(かほ)、赤くなり、白くなり、その姿、高ふして天井も低(ひき)く、その顏面(かほばせ)、廣ふして堂内も狹(せば)し。しかれども、これに少(すこし)も臆せず、刀の柄(つか)を拳(こぶし)も碎けよと握り、かの化物の面(つら)を睨みつけて居(ゐ)ければ、せんかたなくて、是も、かき消して失せけり。此(この)うせし後、

「はつ。」

と思ひしかども、亂るゝ心を取り直しぬるうち、夕告鳥(ゆふつげどり)も鳴きつれて、鐘の音(ね)もそふ。しのゝめも明(あけ)ゆく空となりぬれば、迎ひや來ると、あい待ちしに、馬を引きて、たゞ一人、來たれり。

「殘りの者は。」

といへば、下人のいはく、

「皆、いまに參り申すべく候。某(それがし)は御身上(しんしやう)おぼつかなく、慮外(りよくはい)にも御馬に乘り參候。」

といふ。さて、まづ、馬に乘りしに、下人のいはく、

「去夜(きよや)、かはりたる事も御座なく候や。」

といふ。

「その事よ、變りしことこそあれ。以上、化物、三度、來たりしかども、はじめ二度は、さも思はず。三番目に小僧が來りて、面がまへ、いろいろに變(か)へにしこそ、興(きよう)がる恐ろしき事よ。」

といへば、馬取(とり)のいふやう、

「その顏は此やうに御座候べしや。」

といふを見れば、かの恐ろしき小僧が面(つら)に少しも違(ちが)ふ事なし。

「さて、これも化物よ。」

と、腰の刀に手をかけしに、馬も變化(へんげ)の物なれば、いたふ、跳(は)ねて、まつ逆樣に落ちける時、

「さて、たばかられけるよと思ふと心亂れし。」

と、後に語り侍りしと也。かくて、約束の下人、迎ひに行(ゆき)て見るに、絶入(たえいり)てありしかば、藥など與へ、介錯(かいしやく)して歸りしと也。

 後の評判、いろいろにして、始末よろしからざれば、無念にや思ひけん。お暇(いとま)申し、行方(ゆくゑ)知らず、出でけり。粗(ほぼ)、人人、知りたる事なり。

 『智者はまどはず、勇者は恐れず』といへど、恐るべきを恐れざるは、賞(ほ)むるにかいなし。凡そ、將(しやう)の勇(よう)と、兵(へい)の勇と、取捨、各別なるをや。これなん兵の勇にして、化物に向ふ、何の手柄(てがら)かあらんや。慕虎馮河(ぼこひようか)[やぶちゃん注:「慕」はママ。]して死すとも悔ゆる事なきものには與(く)みせじと、夫子(ふうし)のいましめも、ひとりこの人の爲(ため)にや。

 

[やぶちゃん注:この話は恐らくは「曾呂利物語」の「卷三」の「六 をんじやくの事」(温石の事)をインスパイアしたものではないかと思われ(これは湯浅佳子論文「曾呂里物語」の類話でもそう推定されてある)、また、本「宿直草」と全く同じ年に板行された諸國百物語の「卷之三 一 伊賀の國にて天狗座頭にばけたる事も同じくそれを素材としており(リンク先は私の電子化注)、しかも、限りなくどちらかがどちらかを真似をしたものと思われる。何故なら、リンク先の挿絵を見て戴けば判る通り、展開だけでなく、その主人公と変化の配置さえもよく似ているからである。

「元和(げんわ)の始め」「元和」は通常は「げんな」と読む。一六一五年から一六二四年まで。初めとあるから第二代将軍徳川秀忠の治世(彼は元和九(一六二三)年に嫡男家光に将軍職を譲っている)。

「淺草の觀音堂」現在の聖観音(しょうかんのん)宗総本山金龍山浅草寺。第二次世界大戦後の改宗までは天台宗。推古天皇の頃、宮戸川(現在の隅田川)から引き上げた観音像を土師真中知(はじのあたいなかとも)が祀ったのを始まりと伝え、大化元(六四五)年に勝海が堂宇を建立して開山となった。中興開山は円仁。江戸時代は幕府の祈願所であった。本尊は聖観音菩薩で秘仏。ウィキの「浅草寺」によれば、天正一八(一五九〇)年、『江戸に入府した徳川家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えた。浅草寺の伽藍は中世以前にもたびたび焼失し、近世に入ってからは』寛永八(一六三一)年・同一九(一六四二)年に『相次いで焼失したが』、第三代『将軍徳川家光の援助により』、慶安元(一六四八)年に五重塔が、同二年に『本堂が再建された。このように徳川将軍家に重んじられた浅草寺は観音霊場として多くの参詣者を集めた』とある。なお、この日秘仏本尊は『長期間にわたって見る者がなかったため、明治時代には実在が疑われるようにな』り、そこで明治二(一八六九)年に役人が『調査を行ったところ、本尊はたしかに存在していたことが明らかになったという。この時の調査によれば、奈良時代の様式の聖観音像で、高さ』約二十センチメートル程で、『焼けた跡が伺え、両手足がなかったという』。『現在、常時拝観可能な「裏観音」が秘仏本尊と同じ様式であるとされるが、高さは』八十九センチメートルと異なっている、とある。

「御鷹匠」家康が鷹狩を好み、慶長年間(一五九六年~一六一五年)に幕府の職制として位置づけられ、天和元(一六八一)年の時点では実に百十六名を数えた。その後、「生類憐みの令」の発布に伴い、漸次減少し、元禄九(一六九六)年十月に一旦、完全に廃職となったが、二十年後の享保元(一七一六)年八月、徳川吉宗による放鷹制復活によって鷹匠職も復活し、四十名余の定員で、幕末まで至った。

「むしろ」「蓆」。「その会合の席」の意。

「なまじゐの我(が)になりて」口に出して言ってしまったことから、却って強情を張ってしまい。

「卯(う)の一天」卯の刻の「一點(点)」が正しい。一時を四等分した最初の時間帯。午前五時から五時半頃。

「越夜(おつや)」徹夜。

「亥のかしら」「かしら」は「頭」。午後九時頃。

「刻(きざみ)」時刻。

「救世(くせ)」救世観世音菩薩(ぐぜかんぜおんぼさつ)のことであるが、聖観音菩薩は正式でも通称でも「救世観音」とは言わない。ウィキの「救世観世音菩薩」によれば、救世観音とその信仰は、平安時代、法華経信仰から広まった名称であるが、この名称は経典等には説かれておらず、そう呼称する観音像は仏像として正統的な尊像ではないとされる。但し、『救世は「人々を世の苦しみから救うこと」であり、救世だけで観音の別名ともされる。救世観音の名称の由来は「法華経」の観世音菩薩普門品の中の』「觀音妙智力 能救世間苦」という『表現にあると推測され、法華経信仰が平安時代に盛んになったこと、さらには聖徳太子の伝説が付帯されることで、この尊名が生まれ、民間で定着したと考えられている』とあるから、ここでの武士のこの謂いもイコール「觀音」のことと解してよい。

「是非とも。」夜回りの体(てい)の者の台詞。

「ひらに。」主人公の武士の台詞。

「宿直」原典は「とのゐ」。底本は「殿居」であるが、岩波文庫版の表記を採った。

の者にてはなし。是こそ化物よ。」

「提灯(ていとう)」ちょうちん。

「闍維(しやゆい)の規式(きしき)」「闍維」は火葬・荼毘(だび:パーリ語の漢訳音写)のこと。ここは広義の葬送・埋葬、死者を葬るための定式法を指す。

「殊勝(すせう)におぼえしに」実に厳粛な雰囲気が伝わってきたのだが。

「さはなくて」そうではなくて。本来の主体である葬儀の厳かさを破ってまで、まず真っ先に彼を堂内から排除しようとやっきになったことに対する謂いでろう。これは堂への祈願の籠り人(実際には主人公はそうでなく、肝試し目的の不届き者なのであるが)に対する措置としては確かに不審とは言える。

「七鼓(しちこ)」午前の七つ時。定時法では午前四時頃。

「後門(ごもん)」観音堂の後部の入口。岩波文庫版では『こうもん』とルビするが、原典に従った

「輪灯(りんとう)」仏前に灯を献ずるための灯明具の一つで、天井から吊るして油皿を載せて灯芯を立てる。

「㒵(かほ)」「顏面(かほばせ)」同義乍ら、異様なメタモルフォーゼをするこのシーンに別表現を使った筆者の意図はなかなかのものと言える。

「夕告鳥(ゆふつげどり)」鷄の別称。

「御身上(しんしやう)おぼつかなく」御主人様の御身の上が心配で心配でたまらず。

「慮外(りよくはい)にも」御無礼とは存じつつも、気がはやって、ただ一人先に。

「興(きよう)がる」岩波文庫版の高田氏の注に、『異常な。一風変わった』とある。

『「その顏は此やうに御座候べしや」/といふを見れば、かの恐ろしき小僧が面(つら)に少しも違(ちが)ふ事なし』このシークエンスはまさにかの小泉八雲の「貉」の遠い濫觴と言える(私の『柴田宵曲「續妖異博物館」「ノツペラポウ」附小泉八雲「貉」原文+戸田明三(正字正仮名訳)』を参照されたい)。

『「さて、たばかられけるよと思ふと心亂れし」/と、後に語り侍りしと也』ここに突如、後の時制の談話を挿入しているのは、怪談を事実らしく見せる手法として、すこぶる効果的で、筆者がただの怪奇談収集を宗とする好事家レベルではないことをよく示すものである。

「介錯(かいしやく)」介抱。傍に付き添って面倒を見ること。

「後の評判、いろいろにして、始末よろしからざれば、無念にや思ひけん。お暇(いとま)申し、行方(ゆくゑ)知らず、出でけり。粗(ほぼ)、人人、知りたる事なり」後日の主人公の顛末を添えるのも、真実味を添える上手い方法であるが、この手法はまた古くは、かの「竹取物語」で蓬莱の玉の枝の偽物で失敗し、行方知れずになった車持皇子に既に原形がある。

「智者はまどはず、勇者は恐れず」「論語」の「子罕篇第九」に『子曰。知者不惑。仁者不憂。勇者不懼。』(子、曰く、「知者は惑はず。仁者は憂へず。勇者は懼れず。)と出るのを指す。これは同じ「論語」「憲問第十四」にも『子曰。君子道者三。我無能焉。仁者不憂。知者不惑。勇者不懼。子貢曰。夫子自道也。』(子、曰く、「君子の道なる者、三(みつ)あり。我、能くする無し。仁者は憂へず、知者は惑はず、勇者は懼れず。」と。子貢、曰く、「夫子(ふうし)自(みずか)ら道(い)ふなり。」と。)と重出する。

「將(しやう)」真の軍師・軍略家。

「兵(へい)」実動する血気にはやるばかりの兵士。

「慕虎馮河」「暴虎馮河」が正しい。虎に素手で立ち向かおうとし、黄河を徒歩で渡らんとするで、血気にはやって無謀無益なことをすることの譬え。やはり、「論語」の「述而第七」に出る。私の好きな一節なので引いておく。

   *

子謂顏淵曰。用之則行。舍之則藏。唯我與爾有是夫。子路曰。子行三軍則誰與。子曰。暴虎馮河。死而無悔者。吾不與也。必也臨事而懼。好謀而成者也。

   *

子、顔淵に謂ひて曰く、「之れを用ふれば則(すなは)ち、行なひ、之れを舎(す)つれば、則ち、藏(かく)る。唯、我れと爾(なんぢ)とのみ、是れ、有るかな。」と。子路、曰く、「子、三軍を行(や)らば、則ち、誰(たれ)と與(とも)にせんか。」と。子、曰く、「暴虎馮河し、死して悔い無き者は、吾、與にせざるなり。必ずや、事に臨みて懼(おそ)れ、謀(はかりごと)を好(この)みて成さん者なり。」と。

   *

断わっておくが、私がこの条が好きなのは、これが孔子が徳行第一とした唯一の弟子にして、若くして死んで、孔子を激しく歎かさせた、かの顔回(=顔淵)への感懐を彼が素直に述べている点、そして、それ以上に、ここで蛮勇を揮う「暴虎馮河」な者と強く注意された子路が、実は誰よりも私は好きだからである。

「夫子(ふうし)」孔子の尊称。]

 

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