柴田宵曲 續妖異博物館 「不思議な車」
不思議な車
崔彥章といふ人が客を送つて城東に宴を張つた時、どこからともなく小さな金色の車が現れた。高さ一尺餘り、席を一巡する樣子が何か求むるところあるものの如くであつたが、彥章の前まで來ると、ぴたりと止つて動かなくなつた。彥章の眼には何が見えたものか、その場に倒れ、輿に乘せられて饒州に歸つた。幾何もなく彼の訃が傳へられた。
[やぶちゃん注:「崔彥章」「さいびんしょう」(現代仮名遣)と読んでおく。
「饒州」(じょうしゅう)は現在の江西省上饒市鄱陽(はよう)県一帯に相当する。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
十朋といふ僧が弟子を連れて澄心僧院に宿ると、初夜(午後八時)の窓外が急に明るくなつた。一團の火の燃える中に金の車があつて、火と一緒にごろごろと音を立てて行く。十朋は初め頗る懼れて主人に話したが、主人は存外平氣で、これを見るのはもう何年にもなります、每晩必ず僧堂の西北隅の地中から出て、堂の周圍を幾度か𢌞つて、またもとのところへ消えてしまひます、別にこのために何事も起りませんから、土を掘り返して見る者もないのです、といふことであつた。
[やぶちゃん注:「十朋」「じっぽう」(現代仮名遣)と読んでおく。]
この二つの話は共に「稽神錄」に出てゐる。金色の車乃至金の車といふ點は似てゐるやうだが、崔彥章の場合は明かに凶兆であるし、十朋の方は每晩出ても遂に何事もないといふのだから、性質は全然違ふのであらう。ちよつと讀むと、火を伴ふ車の方が物騷に感ぜられるに拘らず、その方は無事で、何事もなささうな小車が凶を載せて來たものと見える。尤も彥章に關する記事は極めて簡單だから、こゝに記す以外の事は少しもわからない。
[やぶちゃん注:最初の話は「稽神錄」の「第四卷」の「崔彥章」。
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饒州刺史崔彥章、送客於城東、方燕、忽有一小車、其色如金、高尺餘、巡席而行、若有求覓、至彥章遂止不行。彥章無因卽絕倒、攜輿歸州而卒。
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後者は同じ「第四卷」の少し前にある「僧十朋」。
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劉建封寇豫章、僧十朋與其徒奔分寧、宿澄心僧院。初夜見窗外有光、視之見團火高廣數尺、中有金車子、與火俱行、嘔軋有聲。十朋始懼、其主人云、「見之數年矣。每夜必出於西堂西北隅地中、繞堂數周、復沒於此。以其不爲禍福、故無掘視之者。」。
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日本の話にはかういふ不思議な車は見當らぬが、「諸國里人談」は片輪車の話を載せてゐる。寬文年間、近江國甲賀郡に片輪車といふものがあつた。夜更けに車のきしる音がして通るだけで、どこからどこへ行くのかわからぬ。たまたまこれに逢ふ人は、氣絕して前後不覺に陷るので、夜更けては往來の人がなくなる。町中の家も戶を締めて、しんとしづまり返るのである。もしこれを嘲つたりすると、外より罵り、重ねてかやうな事があれば祟りをするといふので、皆恐れて聲も立てなかつた。或家の女房がこの事の正體を見屆けたくなつて、車のきしる音が聞える時、戶の節穴からそつと覗いて見た。曳く人もない片輪車に、美女がたゞ一人乘つてゐたが、その家の前に車をとゞめ、我れを見るよりも我が子を見よ、と云つた。驚いて閨(ねや)に戾つて見れば、二歲になる子の姿が見えぬ。悲歎に暮れても詮方なく、翌晩は「罪科(つみとが)は我にこそあれ小車のやるかたわかぬ子をばかくしそ」といふ一首の歌をしたゝめて、戶に貼り出して置いた。片輪車はその夜も同じやうに來て、闇の中でこの歌を高らかに讀んでゐたが、やさしの者かな、さらば子は返すぞ、我れ一たび人に姿を見られては、この地に居りがたい、と云ひ、それきり片輪車の音は聞えなくなつた。「諸國里人談」には何も書いてないが、子供はいつの間にか母の手に還つてゐたことと思はれる。
[やぶちゃん注:「寛文年間」一六六一年から一六七二年。
以上は「諸國里人談」の「卷之二」の掉尾にある。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。読点と読み(歴史的仮名遣)及び記号や改行をオリジナルに附した。
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近江國甲賀郡に、寬文のころ、片輪車といふもの、深更に車の碾音(ひきおと)して行くあり。いづれよりいづれへ行(ゆく)を知らず。適(たま)にこれに逢ふ人は、則(すなはち)、絕入(ぜつじゆ)して前後を覺えず。故に夜更ては、往來、人なし。市町も門戶を閉(とぢ)て靜(しづま)る。此事を嘲哢(てうらう)などすれば、外(そと)より、
「これを詈(ののし)りかさねて左(さ)あらば祟(たたり)あるべし。」
などゝいふに、怖恐(おそれ)て一向に聲も立(たて)ずしてけり。
或家の女房、これを見まくほしくおもひ、かの音の聞ゆる時、潛(ひそか)に戶のふしどより覗見(のぞきみ)れば、牽(ひく)人もなき車の片輪なるに、美女一人、乘(のり)たりけるが、此門にて車をとゞめ、
「我(われ)見るよりも汝が子を見よ。」
と云(いふ)におどろき、閨(ねや)に入(いり)て見れば、二歲ばかりの子、いづかたへ行(ゆき)たるか見えず。歎悲(なげきかな)しめども爲方(せんかた)なし。
明けの夜、一首を書(かき)て戶に張りて置けり。
罪科(つみとが)は
我にこそあれ
小車(おぐるま)の
やるかたわかぬ
子をばかくしそ
その夜、片輪車、闇にて、たからかによみて、
「やさしの者かな、さらば子を歸すなり。我、人に見えては所にありがたし。」
といひけるが、其後、來らずとなり。
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なお、この妖怪「片輪車」に就いては、私の「諸國百物語卷之一 九 京東洞院かたわ車の事」の本文及び注も参照されたい。そこでは覗いた女の子供は共時的に引き裂かれて殺されている。]
これは日本の近世の怪談としては、型の變つた物凄い話である。片輪車なればこそ、特にきしる音が耳につくのであらうが、深夜に美女一人、曳く人なしに行くことも、眞暗な中にその姿が見えることも、すべて普通の幽靈などと違つた凄みがある。歌を書いて罪を謝し、その歌に感じて子供を還すあたり、江戸時代よりもつと古い書物にありさうな氣がする。「譚海」にはこの話が信州某村の話として出てゐるが、二つの國に同じ話が傳へられたか、一方の話が後に移動したか、這間の消息は吾々にはわからない。
[やぶちゃん注:「譚海」のそれは「卷の七」の「信州某村かたわ車の神の事」。底本は一九六九年三一書房刊「日本庶民生活史料集成 第八巻」所収の竹内利美氏校訂版を用いた。読みは総て私のオリジナル推定で歴史的仮名遣で附した。因みに、私は「譚海」の電子化注も行っている(作業中で未だ「卷之二」)。
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○信州某村に片輪車と申(まうす)神まします。此神御出の日は一村門戶をとぢ、往來をとゞめて堅く見る事を禁ずれば、昔よりいかなる事とも物がたりするものなし。ある年御出の日その村の一人の女、ゆかしき事におもひて、ひそかに戶に穴をうがちうかゞひしに、遙なる所より車のきしる音きこへて、やうやうその門を過(すぐ)るほどなれば、此女穴よりうかゞひみしに、誠に車の輪ひとつにて、誰(たれ)挽(ひく)人もなきにめぐりて過る。そのうへにうつくしき女房一人乘(のり)たるやうにて有(あり)、車の過るまで見て此女閏へ歸りたれば、先までありしいとけなきむすめの、何方(いづかた)へ行(ゆき)たるにやみえず。しばしははひかくれしにやと、おぼつかなくまどひしが、所々さがしても見へず。さてはうせぬるにや、此神のあるきをみぬ事にいましめたるを、もどきて[やぶちゃん注:ママ。不詳。「のぞきて」の誤字か?]うかゞひしゆゑ、神のとり給ひし成(なる)べしといひ合(あひ)て、歎(なげく)事限(かぎり)なし。一二日(ひとふたひ)過(すぎ)けれど行方(ゆくゑ)しれねば、此女おもひわびて、その社(やしろ)にもふでて、あやまちをくひなげきて、扨(さて)一首の歌をよみける、「罪科は我にこそあれ小車のやるかたもなき子をなかくしそ」といひて、なくなくありて歸りなんとするときに、むすめの聲すればふりかへりて見るに、社頭に此むすめありしままにて泣居(なきゐ)たれば、いとうれしくかきいだきて歸り來りけるとぞ。和歌には神もなごみ給ふ事、かしこしといへり。
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火の車といふものは、日本では地獄の連想がある。「今昔物語」に放逸無慚の人が末期(まつご)に及んで火の車を見、地獄に墮ちること必定であると悔い悲しんだが、僧に勸められて一心に南無阿彌陀佛を唱へる。僧が火の車はまだ見えるかと尋ねたら、火の車はもう消えました、金色の大きな蓮の花が一つ目の前に見えます、と答へた。この火の車と金色の蓮華は「六の宮の姬君」(芥川龍之介)の中に用ゐられてゐる。六の宮の姫君の事は「今昔物語」にあるけれども、火の車も蓮華もそれには見えぬ。緣もゆかりもない人の話を應用したのである。
[やぶちゃん注:「六の宮の姬君」(大正一一(一九二二)年八月発行の雑誌『表現』に発表)は私の特に偏愛する一篇で、私は私の古い電子テクスト芥川龍之介「六の宮の姫君」で、その本文だけでなく、芥川が素材とした「今昔物語集」中の三つの話の本文「卷第十九 六宮姫君夫出家語第五」(六宮(ろくのみや)の姫君の夫(おうと)、出家する語(こと)第五)」(これがメイン・ストーリー)、「卷第十五 造惡業人最後唱念佛往生語第卌七(惡業(あくごう)を造る人、最後に念佛を唱へて往生する語第卌七)」(悲劇に変質させた形で姫君の末期に使用される)、「卷第二十六 東下者宿人家値産語第十九(東(あづま)に下る者、人の家に宿りて産(さん)に値(あ)ふ語第十九」(作中の男の話の中に現れる不吉な挿話)の原文を末尾に総て電子化してあるので参照されたい。]
平淸盛の病中、北の方の夢に見えた火の車は、牛頭馬頭(ごづめづ)が前後に立ち、車の前に「無」の一字が現れてゐた。おびたゞしい火の燃える車であつたので、北の方が夢の中で何處より何處へと尋ねると、入道殿の惡行超過し給ふにより、閻魔王宮より御迎への車である、無間(むげん)地獄に沈める筈で、「間」の字はまだ書かれぬのぢや、と答へた。「夢に見てさへよいとや申す」といふことがあるが、火の車などは夢に見ただけでもよくない。
[やぶちゃん注:以上は「平家物語」の「卷第六」の「入道逝去」の一節。講談社文庫版を参考に、漢字を正字化して示す。
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又、入道相國の北の方、二位殿の夢に見給ける事こそ恐ろしけれ。猛火(みやうくわ)の夥しく燃えたる車の、主(ぬし)もなきを、門の内へ遣り入れたるを見れば、車の前後に立つたる者は、或いは牛の面(おもて)の樣(やう)なるものもあり、或は馬(むま)の樣なる者もあり。車の前には、「無」といふ文字許り顯はれたる、鐵(くろがね)の札(ふだ)をぞ打つたりける。二位殿、夢の内に、
「これは何(いづ)くより何地(いづち)へ。」
と問ひ給へば、
「平家太政(だいじやうの)入道殿の惡行(あくぎやう)超過(てうくわ)し給へるに依つて、閻魔王宮(えんまわうぐう)よりの御迎(おんむか)ひの御車なり。」
と申す。
「さて。あの札は如何に。」
と問ひ給へば、
「南閻浮提(なんえんぶだい)金銅(こんどう)十六丈の盧遮那佛(るしやなぶつ)、燒き亡ぼし給へる罪に依つて、無間(むげん)の底に沈め給ふべき由、閻魔の廳(ちやう)に御沙汰(おんさた)ありしが、『無間』の『無』を書かれたれども、未だ『間』の字をば書かれぬなり。」
とぞ申しける。二位殿、夢覺めて後(のち)、汗水(あせみづ)になりつつ、これを人に語り給へば、聞く人、皆、身の毛よだちけり。靈佛靈社金銀(こんごん)七寶(しつぱう)を投げ、馬鞍(むまくら)・鎧甲(よろひかぶと)・弓箭(ゆみや)・太刀(たち)・刀(かたな)に至るまで、取り出(い)で、運び出(いだ)して、祈り申されけれども、叶(かな)ふべしとも見え給はず。只、男女(なんによ)の君達(きんだち)、跡・枕にさしつどひて、歎き悲しみ給ひけり。
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因みに、「無間」の「間」が書かれていないという不全性は恐らく、この時点では未だ清盛には救いようがあることを意味するように私には読める。]