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2017/06/07

毛利梅園「梅園介譜」 鬼蟹(ヘイケガニ)

 

Heikegani

「蟹譜」に出(いづ)。

鬼蟹(おにがに) 武文蟹(たけぶんがに)

           しまむらがに【摂刕

           平家がに  【長門】

           きよつねがに【豊前】

           幽霊かに  【紀州】

[やぶちゃん注:以下、以上の下段部分。]

          「祝允明野記」

           鬼面蟹(きめんがに)

戎蟹(ゑびすかに)【備前】 治部少輔蟹(ぢぶしやうすけがに)【伊勢】 

 

「大和本草」

 嶋村蟹

享祿四年、備前の浦上、掃部助村雲、細川右京太夫晴元と摂州に於いて、合戰し、尼ヶ﨑に於いて、打ち負けて自殺す。浦上の臣島村彈正左エ門貴則、敵の強兵、兩人(ふたり)を、左右の腿(もも)にはさみ、水に入りて、共に死す。尼ケ﨑のあたり、野里(のさと)川と云ふ所なり。其霊、蟹となりしと云。故に「島村蟹」と云ふ。怒る人面のごとし。

「摂津名所記」

嶋村蟹は東生(ひがしなり)郡野田川より出だす。此の邉りの蟹、美味なりと云ひ、多く食料にす。

「後太平記」

享祿の頃、嶋村左馬助は、主君細川髙國を援(すく)はんと、尼ケ﨑より打ちだせしに、早(はや)、髙國は、討死したり。「死出の供せん。」と、四方、欠𢌞(かけまは)り、敵、多く打ち取り、入水(じゆすゐ)しける。其の霊、鬼面の蟹となる、と云ふ。又、俗に「秦(はた)の武文(たけぶん)、海中に没死(ぼつし)して、其の怨(ゑんこん)の化する處。」と云々。

 

[やぶちゃん注:以下、右頁の左上部のキャプション。漢詩は直後に( )で推定で書き下した。]

「續脩臺灣府志(ぞくしうたいわんふし)」に「使槎録(しさろく)」を引きて曰はく、鬼蟹は、狀(かたち)、傀儡(くぐつ)のごとし、孫元衡(そんげんこう)、詩に云ふ有り、

 

  家在蠔山蜃氣聞

  鯨潮初起鱟帆來

  乕鯊鬼蠏紾無數

  就裏難求蛤蚪胎

  (家は蠔山(がうざん)に在りて 蜃氣を聞き

   鯨潮(げいてう) 初めて起きて鱟帆(がくほ)來たり

   乕鯊(こさ)鬼蠏(きけい) 紾(しん)として無數

   裏(うち)に就きて求め難し 蛤蚪(がふと)の胎(たい))

是に曰ふ、鬼蟹も亦、同物なり。 

 

[やぶちゃん注:以下、その下部のキャプション。「環」は毛利梅園の号の一つ。]

環(くわん)曰はく、

此蟹、背殻、鬼形(きぎやう)のごとし。眉・目・口・鼻、分布、明白なり。常に寶として、之れを翫(もてあそ)ぶ者なり。異物なり。細川髙国が臣、島村左馬助が蟹となりしとは、誤りなり。中夏、傅肱(ふこう)が蟹の書に出せる鬼蟹なり。近世の俗、長州壇ノ浦、源平合戰の時、平家、打ち負け、入水せし者、蟹となる。故に「平家蟹」と云ふ。「矢嶋には此の蟹なく、壇ノ浦には、悉く、鬼蟹なり。」と。壇ノ浦は赤間関(あかまがせき)にあり。島村・平家の説、盲談ならん。俗、傳ふ、秦の文武、大海に没死し、其の怨魂、化する所と云ふ。甚だ怪異(あやし)きなり。

壇ノ浦、平家、入水して、蟹と霊の化したること、「源平盛衰記」に載らず。此の蟹、長州下ノ関、森氏、旅行の節、之れを、求め帰る。同刕にては、此の蟹、湯引きて、之れを賣る由。故に生色を知らず。只、其の形狀を寫すのみ。 

 

[やぶちゃん注:左頁キャプション。]

 甲の圖

 腹甲の圖 

 

[やぶちゃん注:左頁の左下方のキャプション。]

乙未(きのとひつじ)秋七月廿八日、森氏所藏の之れを乞ひて、眞寫す。

[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」のこの画像からトリミングした。本個体は下関で採取されたものであることと、表裏の図から同属の近縁の他種の特徴を殊更には見出せないことから、節足動物門甲殻亜門軟甲綱十脚目短尾下目ヘイケガニ科ヘイケガニ属ヘイケガニ Heikeopsis japonica を、まずは、最大可能性同定候補して問題ないように思われる(但し、あくまで絵で一部の細部の検証が不能であることから、他の近縁種でないと断定は出来ない)。しかも、腹面部の腹節が有意にスマートであるから、これは間違いなくの固体である。なお、ヘイケガニ Heikeopsis japonica は意外と知られていないが、本邦では北海道南部から相模湾・紀伊半島・瀬戸内海・有明海まで広く分布し、近隣諸国では朝鮮半島・中国北部やベトナムまで東アジア沿岸域に広く分布している。私は既に栗本丹洲「栗氏千蟲譜 巻十(全)」でヘイケガニ属或いはその近縁種と思われる図を考証しているが、こちらの方が遙かに博物学的にはより正確に描出されているように思われる。

「武文蟹(たけぶんがに)」摂津の大物(だいもつ)の浦(現在の大阪湾に近い兵庫県尼崎市大物町(ちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在は大阪湾に流れ込む神崎川河口から少し入った内陸にあるが、かつては直近に浜があった)を発祥元とする怪異伝承に基づくヘイケガニ類の別名(辞書その他殆んどが「ヘイケガニの別名」とするが、これは必ずしもヘイケガニ Heikeopsis japonica 一種を指すものではなく、正しい謂いとは言えない)。元徳三(一三三一)年の「元弘の乱」の際、摂津国兵庫の海で、死を賭して主君尊良(たかなが)親王(延慶三(一三一〇)年?~延元二/建武四(一三三七)年):後醍醐天皇の皇子。斯波高経率いる北朝方との金ヶ崎の戦いで新田義貞の子義顕とともに戦ったが、力尽きて義顕とともに自害した)の妻を守って入水したとされる忠臣秦武文(はたのたけぶん)の生まれ変わりとされる。「元弘の乱」の初期、秦武文は主君(尊良親王は元弘の乱勃発直後に父後醍醐天皇と笠置山に赴いたものの、敗れ、父とともに幕府軍に捕らえられて土佐に配流されていた)の妻一宮御息所を配流地土佐に連れ行こうと尼崎から船出しようとするが、そこで彼女を垣間見て一目惚れした土地の海賊武士松浦(まつら)五郎に御息所を奪われてしまう。私の非常に好きな怪異のシークエンスであり、こちらの話は壇ノ浦平家蟹伝承に比して、マイナーな印象があるので、ここで以下、「太平記」巻十八「春宮還御の事 付けたり 一宮御息所の事」から引いて「武文蟹」を顕彰しておきたい(底本は新潮日本古典集成版を用いたが、恣意的に正字化し、一部に読点と改行を追加してある)。但し、荒俣宏「世界大博物図鑑 1 蟲類」の「カニ」項の「平家蟹」によれば、人見必大の「本朝食鑑」では、これは平家蟹ではなくカブトガニ(鋏角亜門節口綱カブトガニ目カブトガニ科カブトガニ Tachypleus tridentatus )のこととして載せ、『土地の人は武文を憐れんでこれを捕らない』と記している、とある。

   *   *

武文、渚に歸り來たつて、

「その御船、寄せられ候へ。先に屋形の内に置きまいらせつる上﨟を、陸(くが)へ上げまゐらせん。」

と呼ばはりけれども、

「耳にな聞き入そ。」

とて、順風に帆を上げたれば、船は次第に隔たりぬ。また、手繰(てぐり)する海士の小船にうち乘つて、みづから櫓を押しつつ、

「なにともして、御船に追ひ著かん。」

と、しけれども、順風をえたる大船(たいせん)に、押し手の小舟、追ひ付くべくもあらず、遙かの沖に向つて、扇を擧げ招きけるを、松浦が舟に、

「どつ」

と笑ふ聲を聞きて、

「やすからぬものかな。その儀ならば、ただ今の程に、海底の龍神と成つて、その船をば、やるまじきものを。」

と怒つて、腹、十文字に搔き切つて、蒼海(さうかい)の底にぞ沈(しづみ)ける。

   *

その後、海は荒れに荒れ、しかも自分に靡かぬに業を煮やした松浦は、水主(かこ)らの合議もあって、御息所を鳴門の龍神に生贄として捧げようとするが、同船の僧に制止される。

   *

「さらば、僧の儀につけて、祈りをせよや。」

とて、船中の上下、異口同音に觀音の名號を唱へたてまつりける時、不思議の者ども、波の上に浮かび出でて、見えたり。

 まづ、一番に、濃き紅くれなゐ著(き)たる仕丁(じちやう)[やぶちゃん注:貴族の家などで雑役に従事した下男。「しちやう」と清音にも読む。]が、長持(ながもち)を舁(かき)て通ると見へて、うち失せぬ。

 その次に、白葦毛(しらあしげ)の馬に白鞍(しろくら)置いたるを、舍人(とねり)[やぶちゃん注:貴人の牛馬などを扱う従者。]八人して、引きて通る、と、見えて、うち失せぬ。

 その次に、大物の浦にて、腹切つて死んだりし右衞門府生秦武文(うゑもんのふしやうはだのたけぶん)、赤糸威(あかいとおどし)の鎧、同毛の五枚冑(ごまいかぶと)の緖をしめ、黃月毛(きつきげ)なる馬に乘つて、弓杖(ゆんづゑ)にすがり、皆紅(みなくれなゐ)の扇を擧げ、松浦が舟に向つて、『その船、留まれ。』と、招くやうに見へて、浪の底にぞ入りにける。

 梶取(かんどり)、これを見て、

「灘(なだ)を走る船に、不思議の見ゆる事は常の事にて候へども、これは、いかさま、武文が怨靈(をんりやう)と覺え候ふ。その驗(しるし)を御覽ぜんために、小船を、一艘、下(おろ)して、この上﨟を乘せまゐらせ、波の上に突き流して、龍神の心をいかんと御覽候へかし。」

と申せば、

「この儀、げにも。」

とて、小舟を、一艘、引き下して、水手(すいしゆ)一人と、御息所とを、乘せたてまつて、渦の波に、みなぎつて、卷きかへる波の上にぞ浮かべける。

   *

その後、曲折を経た後、遂に目出度く、親王と御息所は再会を果たすのである。

「しまむらがに」戦国武将島村貴則(?~享禄四(一五三一)年)は戦国大名で第三十一代室町幕府管領細川高国(文明一六(一四八四)年~享禄四年:摂津・丹波・山城・讃岐・土佐守護。細川氏一門野州家の細川政春の子に生まれ、細川氏嫡流(京兆家)当主で管領の細川政元の養子となった。養父政元が暗殺された後の混乱を経て、同じく政元の養子であった阿波守護家出身の細川澄元を排除、京兆家の家督を手中にしたが内紛が昂じ、大内氏を頼ったものの、澄元の嫡男晴元に敗れて自害に追い込まれた)の家臣。摂津尼崎で細川晴元方(がた)の三好元長らに敗れ、ここに記されたように、敵兵二人を抱えて海中に身を投じて自死した。後、この近辺で獲れるヘイケガニ類(前注参照)を「島村蟹」と呼ぶようになったという。弾正は通称。

「きよつねがに」清経蟹。能の「淸経」で知られる、ナーバスになって入水自殺した平家一門の武将で笛の名手であった平清経の怨念伝承に基づく大分の宇佐地方のヘイケガニ類(前注参照)の別名。平清経(長寛元(一一六三)年~寿永二(一一八三)年四月四日)は寿永二(一一八三)年に平家一門が都落ちした後は、次第に悲観的な考えに憑りつかれ、大宰府を元家人(けにん)である緒方惟義に追い落とされたことを契機として、豊前国柳浦(現在の大分県宇佐市江須賀の沖合とされる。この附近(グーグル・マップ・データ))にて入水自殺した。享年二十一。「平家物語」の「六道之沙汰」の段の建礼門院による述懐によれば、この清経の死が平家一門の『心憂きことのはじめ』として語られてある。

「祝允明野記」蛸島直氏の論文「蟹に化した人間たち(2) 平家蟹の記録を中心に」(PDF)によれば、明代の書家で文人の祝允明(しゅくいんめい 一四六〇年~一五二七年)の一一五一年成立の著であるが、蛸島氏が当該論文で述べておられるように、後の小野蘭山の「本草網目啓蒙」(享和三(一八〇三)年刊)や岡林清達(きよたつ)稿・水谷豊文補編の本草書「物品識名」(文化六(一八〇九)年跋)なども、一様にこの「祝允明野記」を典拠としているが、はたして、中国の「鬼面蟹」を、本邦の「平家蟹」と安易に相同同定してよいかどうかは甚だ疑問と言わざるを得ない。私は大陸のそれは、或いは全く異なった別種である可能性も充分にあり得ると考えている

「治部少輔蟹」石田三成の通名として知られているが、六条河原で斬首された彼が、何故に伊勢で鬼面の蟹と変ずるのか、私は全く伝承を知らぬ。或いは石田三成のことではないのか。識者の御教授を乞う。

「大和本草」本草学者貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)が編纂した本草書。宝永七(一七〇九)年刊。明治になって西洋のそれらが本格的に輸入される以前、日本の博物学史に於ける最高峰と言える生物学書・農学書。【2022年㋁1日追記】私の大和本草附錄巻之二 介類 島村蟹 (ヘイケガニ(類))」を参照されたい。

「野里(のさと)川」不詳。現在の尼崎市内にはこのような川の名は見当たらない。次注参照。

「摂津名所記」京都の町人吉野屋為八が計画し、寛政八(一七九六)年から寛政十年にかけて刊行された、摂津国の通俗地誌で観光案内書でもあった「攝津名所圖會」のことか。先程、ネット上で原本を発見、それに当たって確認したところ、「野田川」が「野里川」であったり、やや、省略が過ぎるものの、同書から引いたものらしい。次注参照。

「東生(ひがしなり)郡野田川」摂津国(現在の大阪府)東成郡であろうが、野田川という河川名は現在の旧東成郡域には見当たらない。現在の福島区野田地区は古くは「野田川万乗」と称され、『野田川域・地先海域は摂津・浪花浦第一の好漁場であり、魚族が豊富で「魚稼第一」として繁盛していたが』、寛永元(一六二四)年の『九条島・四貫島の新田開発で野田川の魚』稼ぎは『悪化するようにな』り、貞享元(一六八四)年の『安治川新堀の建替でそれまでの野田川の名も途絶している』(不動産会社「野田庄株式会社」公式サイト内の)とあるのだが、この福島区野田は少なくとも近代の東成郡域には含まれない。識者の御教授を乞う。前注の通り、これは「野里川」の誤りであろう。それでもやはり不明ではあるが。【2021年5月3日追記】この「野里川」は恐らく、淀川の分流か支流の名であろう。消滅したその名残が判る「今昔マップ」の当該地をリンクしておいた。現在の淀川(旧地図では「新淀川」とある)の左岸の、封じられて、片方が新淀川に開いた不全な三日月湖のようなその岸辺に「野里」の地名が認められ、現行も地名の「野里」は残っている。

「後太平記」江戸前期に成立した、「太平記」の後を引き継いだ形をとった南北朝後期から室町・戦国時代を扱った軍記物語。信頼度は低い。

「欠𢌞り」駆け回り。

「怨(ゑんこん)」「」は「魂」の異体字。

「續脩臺灣府志」(ぞくしゅうたいわんふし)は一七六四年に清(乾隆帝期)の余文儀の著になる台湾地方の地誌。

「使槎(しさ)録」「臺海使槎錄」。一七三六年に清(乾隆帝期)の黄叔璥(こうしゅくけい)の著になる台湾地誌。

「孫元衡」清の官人。台湾府の副知事を務め、文人としてここに出るような詩篇など多くの著作を残している。

「蠔山(がうざん)」一般には海中に暗礁のように積み上がった牡蠣の塊りを指す。

「鯨潮(げいてう)」鯨の潮吹きか?

「鱟帆(がくほ)」かのカブトガニの背の骨。風があると、帆のようにあがると信ぜられたらしい。

「乕鯊(こさ)」カサゴのことか?

「鬼蠏(きけい)」「蠏」は「蟹」。

「紾(しん)として」「捩じれる」「縺れつく」の謂いか?

「蛤蚪(がふと)」「蛤」は二枚貝の総称であるが、「蚪」は蝌蚪で「おたまじゃくし」で意味不明。「胎」とあるからには孰れも食用にするその身であろうとは思う。この詩、私には何となく判ったような、結局、判らん詩である。識者の御教授を切に乞う中文サイトに「漁家口號」という題で載っており、「虎鯊鬼蟹紛無數」の箇所には「虎鯊背有斑文,鬼蟹狀如傀儡」とある。またまた半可通である。

「中夏」「中華」の誤記ではあるまいか? 中国の史書に記された最古の王朝として「夏」があるが、中国を指すのに、こうは言わない。

「傅肱が蟹の書」北宋の傅肱(ふこう)の著した「蟹譜」の中に「恠狀」があり、そこに「呉沈氏子食蟹、得背殻若鬼狀者、眉目口鼻分布明白、常寶玩之。」と出る。

「矢嶋」壇ノ浦の前哨戦があった矢島。

「赤間関」現在の山口県下関市の鎌倉時代に成立した呼称(「下関」はもっと古く平安前期からある)。これは広く『付属する港湾や関門海峡の長門国側を指す広域地名、更には対岸の豊前国門司関を含めた関門海峡全体の別名としても用いられた』とウィキの「下関にある。

「秦の文武」ママ。「武文」の錯字。

「乙未七月廿八日」天保六年。グレゴリオ暦一八三五年八月二十二日。

「森氏」毛利梅園の友人らしい。

「生色を知らず」生個体は暗い褐色。しかも、生時は通常、第三及び第五胸脚で貝殻や塵芥などを背に固定して負っており、そうでなくても汚れて見える。

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