「想山著聞奇集 卷の五」 「蛇の執念、小蛇を吐出す事」
蛇の執念、小蛇を吐出(はきいだ)す事
讚州高松の内に林(はやし)といふ地(ところ)ありて、一圓の林山(はやしやま)とぞ。この林守(はやしもり)[やぶちゃん注:高松藩の占有林であったか。]の宅(いへ)に土藏あり。其土藏の窓の庇(ひさし)に、すゞめ巣を懸(かけ)て出入するなり。【四方は壁にて、羽なくてはゆかれぬ所なり。】其並びの方(かた)に、その間(あは)ひ三間(げん)[やぶちゃん注:五メートル四十五センチ程。]程隔たりて、同じ樣に土藏有。或時、太サ四寸𢌞(まは)り餘もあるべき蛇、此土藏の屋根より、かの土藏のまど庇(びさ)しに有(ある)雀の巣を見付、思ひ入居(いりゐ)て、こなたの屋根より、其巣をねらひて飛懸(とびかゝ)りたれども、其間(あは)ひ三間程も隔ち居(ゐ)るまゝ、飛移(とびうつ)り得ずして、半ばより下へどうと落(おち)たれども、又やがて樹を傳ひて、元の土藏の屋根へ上り來り、初めのごとく、かの巣をにらみ居て飛付たるに、又々及(およぶ)べくもなくて下へ落たり。斯(かく)のごとくする事、晝夜十日程に及べども、猶思ひ止(やま)ずして、飛付ては落る事、數(す)十度にしても、いよく精(せい)を凝(こら)し、身命(しめい)を抛(なげうつ)て飛付(とびつき)けるゆゑ、かくて後(のち)は、如何(いかゞ)はして思ひ止べきぞと、次第に見物の人も多く集ひて、目も離さず、終日(しうじつ)ながめ居たるに、其内にかの蛇、飛懸る勢ひに、口より小蛇を吐懸(はきかけ)て、その小蛇は窓のかたへ飛付、己(おの)れは又、飛付得ずして下へ落て、夫切(それぎり)に死(しし)たり。扨、かの小蛇は如何なすぞと見居たるに、巣の方へ這込(はひこみ)、暫時(しばし)の内に、忽ち二三尺の大(おほ)ひ成蛇と成(なり)、雀の玉子を存分に呑得(のみえ)て出來(いできた)りたり。立集(たちつど)ひたる人々、竹など持來(もちきた)りて、下へ落して、玉子を呑(のみ)たるにくしみもあれば、大勢の騷ぎ立(たつ)たるならひ、何の苦もなく殺して捨(すて)たりと。此事、安永年中[やぶちゃん注:一七七二年から一七八〇年。]の事にて、かの林守、畑氏(はたうじ)の隱居何某の若きとき、現に此奇を見居たりとて、廣野淸助(ひろのせいすけ)と云人へ度々咄したれども、餘り奇なる事にて、自身に見し事ならねば、染々(しみじみ)人にも得咄さで過(すぎ)しとかや。然るに文政十二年[やぶちゃん注:一八二九年。]の夏、右淸助の近隣、江戸小石川牛天神下(うしてんじんした)、或方の手𢌞(てまは)り陸尺(ろくしやく)共、右天神下の水道端(ばた)にて、四尺餘りの大蛇をとらへ、段々、翫(もてあそび)ものとして、後(のち)には燒火箸(やきひばし)にて、幾度も逆(さか)にこきたり[やぶちゃん注:鱗の生えている向きとは反対に尾の方から逆に焼けた火箸を強く押し当ててこそいだ。]。蛇は苦痛にたえずして、もはや死に至らんとする頃に及ひて、又、かの燒火箸にてこきのぼせらるゝ時に、口より小蛇を吐出(はきいだ)したり。さすがに、先刻より、久々せめなやましたる強氣(がうき)の陸尺も肝を潰し、思はずにげ出(いだ)せしに、此小蛇、かの者を追行(おひゆき)たり。傍(かたはら)に見物して居たる傍輩(はうはい)のもの、こやつ、いけ置(おき)ては、如何樣(いかやう)の事をするもしられずと云(いひ)さまに、踏潰(ふみつぶ)して捨(すて)、かの親蛇もよく殺して捨しを、わが妻なるものゝ現に見たる事にて、是を以(もつて)しるときは、以前、讚州にての奇も疑ふにあらずとて、具(つぶさ)に淸助の物語り也。蛇は胎生(たいしやう)するものにてはなく、卵生(らんしやう)するもの故、腹中(ふくちう)に小蛇の有(ある)道理なし。執念の深きもの故、凝(こ)りて忽ち形(かた)ちを成(なす)もの成歟(なるか)、奇成(きなる)事也。神仙の術には、氣を吐(はき)て體(かたち)を拔(うき)、又、他(た)の人の體(たい)をかりる事も有。或は鐡拐(てつかい)仙人のごとく、自身の躰(かたち)を吹出(ふきいだ)す類(るゐ)もありと聞及ぶ。似たる事ながら、蛇執(じやしふ)の甚敷(はなはだしき)事をおそるべし。
[やぶちゃん注:「讚州高松の内に林といふ地ありて、一圓の林山とぞ」旧香川県木田郡林村、現在は高松市東部の林(はやし)という一地区があるにはあるが、ここかどうかは不明。ここは起伏がない田園地区であるからである。
「小石川牛天神下」現在の東京都文京区春日にある牛天神北野神社の南の辺り。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「手𢌞(てまは)り」常に主人の身近に仕えて世話をしたり、警護をしたりする小者。
「陸尺(ろくしやく)」複数の意味があり、元は駕籠舁(かごか)きを指すが、下僕・下男や、賄い・掃除などをする雑役人夫。「六尺」とも書くが、これは天秤棒や六尺褌ではなく、「力者(りよくしや)」の転訛した語に当て字をしたものらしい。
「蛇は胎生するものにてはなく、卵生するもの故」誤り。本州の陸棲蛇類に限ってみても、かのマムシは卵胎生である。
「鐡拐仙人」中国の代表的な仙人である李鉄拐。ウィキの「李鉄拐」によれば、『鉄拐とは、彼の幼名であるとする説や、足が不自由で鉄の杖をついていたためという説がある』。『絵ではボロボロの服を着て』、『足の不自由な物乞いの姿をしていることが多いが、もとはがっしりとした体格の道士であった。二十歳の頃から仙道を志すようになり、ある日、太上老君に崋山で逢うことになり、魂を遊離させ、逢いに行くことにした。そこで、彼が帰ってくるまでの七日間の間、魂の抜けた身体を見守るよう弟子に言いつけ、もし七日経っても帰ってこなければ身体を焼くように言った。しかし、六日目に弟子の母が危篤との知らせを受けて、弟子は鉄拐の身体を焼き、母の元に行ってしまった。鉄拐が戻ってきてみると、自分の身体は既に焼かれていた。彼は近くに足の不自由な物乞いの死体を見つけ、その身体を借りて蘇った』。他にも、『岳寿という小役人が李屠という者の体を借りて李鉄拐になったという話もある。鄭州奉行所の都孔目(裁判官)である岳寿は、悪の限りを尽くし、私腹を肥やして地獄に落ちてしまったが、生前、一つだけいいことをしていたことから呂洞賓に地獄から助け出された。しかし、死体は既に焼かれており、仕方なく死んだばかりの鄭州東城門内の肉屋である李屠の息子の小李屠に乗り移ったところ、小李屠は足が悪かったところから、杖をつくようになった』という伝承である。想山が「自身の躰(かたち)を吹出(ふきいだ)す類(るゐ)もありと聞及ぶ」とあるのは、底本の注で『口から小人』(時に鉄拐の形をしており、彼の魂ともされる)『を吐き出す妖人のように、みなされている』とあるのを指す。神矢法子氏のサイト「儒教・志怪com」の「落語 鉄拐 (てっかい)」を読まれたい。
以下の段落は底本では全体が二字下げ、原典では一字下げ。]
我國名古屋【鶴重町(つるしげちやう)】の眞廣寺(しんくわうじ)の老僧、此記を閲していへるには、京三條の佛現寺の任(ぢう)賢師、越中の國ふるこの證興寺へ本願寺の御使僧に下られ、逗留して法話をなし居られし節(をり)、本堂の裏の方は塗籠(ぬりごめ)なるに、遙か高き其屋根の瓦の間に、雀、巣を懸居(かけゐ)て、雛鳥の巣立懸り居るを、下より蛇の風(ふ)と見込(みこみ)しにや、二、三日、巣をながめ詰居(つめゐ)て、段々、首を高く上(あぐ)れども、如何共(いかんとも)、登るべき事も叶ひがたく、遂に棹(さほ)のごとく、眞直(まつすぐ)に立上(たちあが)り居(ゐ)て、後、其儘、倒れ轉びて、蛇は夫切(それぎり)に死(しし)たり。其時に見込(みこま)れ居たる雛鳥も死(しし)て、三疋も四疋も上より落たり。是、何故と云事、更にわからず。扨、右の雀を一羽料理見るに、腹中(ふくちう)に、いかにも小き蛇數疋(すひき)居たる故、跡のも腹を裂見(さきみ)るに、いづれも小蛇數疋づゝ居たるを、現に見來りたり迚(とて)、文政年に名古屋の本願寺の懸所(かけしよ)へ來りて咄されしを聞置しが、其執(しふ)のふかき有(あり)さまは、先(まづ)同樣の事也とて、又、予に語られしゆゑ、記し添置ぬ。
[やぶちゃん注:「鶴重町」現在の愛知県名古屋市中区錦(三丁目)。「錦」はここ(グーグル・マップ・データ)。
「眞廣寺」旧鶴重町の、東のかなり近い位置の、中区新栄のここ(グーグル・マップ・データ)に浄土真宗本願寺派の真広寺がある。ここか。
「京三條の佛現寺」三条通りの南直近に当たる、京都府京都市中京区六角油小路町に浄土真宗本願寺派の佛現寺がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「任賢師」住職の御坊という謂いか。
「越中の國ふるこの證興寺」これは高い確率で私がよく知っている、富山県高岡市伏木古国府(ふるこふ)にある浄土真宗本願寺派雲龍山勝興寺であろう。私は中学・高校をこの伏木で過ごし、この寺は直近に数年間、住み、まさに私のテリトリーだった場所である。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「本願寺」「名古屋の本願寺」名古屋市中区門前町にある本願寺名古屋別院。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「文政年」文政は一八一八年から一八三〇年。
「懸所(かけしよ)」本来は錫杖を「掛けて」滞留する「所」という意味で、行脚巡礼の際の滞在所を指すが、特に浄土真宗で法主巡化の際などに駐留・休泊する所を指し、広義には地方の別院や説教場なども「懸所」と称したようである。]
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