柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その1)
名劍
支那の名劍として最も日本人に知られてゐるのは干將鏌耶(かんしやうばくや)の劍であらう。先づ雌雄の二劍を打出したのを、妻のすゝめに從ひ、雌劍をどこかへ隱して雄劍だけを楚主に獻ずる。雄劍が劍匣の中で悲啼の聲を發するため、群臣の意見を問はれたところ、雌雄あるものの一所にあらざる故であらうといふことになり、第一に干將が頸を刎ねられる。その子が眉間尺(みけんじやく)で、十五の時に父の遺書を讀んで雌劍の所在を知り、楚王に對し恨みを晴らさうとする。その時干將の友人なる者が來て、汝父の讎を報いんとならば、その劍の先三寸を食ひ切り、口中に含みて死すべし、我れ汝の頸を取つて楚王に獻ぜん、王悦んで汝の頸を見る時、劍の先を吹きかくべし、といふ助言を與へた。眉間尺その言に從ひ自ら頸を刎ね、計畫通り楚王に獻じたけれど、容易にその頸を近付けぬ。鼎(かなへ)に入れて七日七夜煮た上、楚王が鼎の蓋を取つて中を窺ふ時、あやまたず劍の先を吹きかけて、楚王の頸を打ち落した。それから鼎の中で頸同士の學びになつたが、眉間尺の方が形勢が惡い。干將の友人も自分の頸をかき落し、眉間尺に協力して楚王の頸を食ひ破つたとある。「太平記」あたりにも出てゐる有名な話であるが、一劍の故に四人まで頸を失ふのは尋常一樣の出來事ではない。劍の凶器である所以を證明すべき好材料であらうと思ふ。
[やぶちゃん注:「干將鏌耶」は現行では干將(干将)・莫耶と表記することが多い。伝承によってその内容に変化が大きい。現存するもので最も古いものは、後漢初期の趙曄(ちょうよう)の書いた歴史書「呉越春秋」のそれであるが、少なくとも現在の同書には後半部の圧巻の復讐譚は存在せず、「王」も楚王ではなく、かの「臥薪嘗胆」で有名な、後に越王勾践に滅ぼされてしまう呉王闔閭(こうりょ)という設定で、魯の使者がこの剣を見、呉の不吉な将来を予知するところで物語は終わっている。その辺りの違いはウィキの「干将・莫耶」が判り易くよく纏められてあるので参照されたいが、基本、名剣の名となる「干將」と「莫耶」は、もともとは刀鍛冶の男干將とその妻莫耶の名である。宵曲が梗概の原拠としたものが何であるかちょっと判然としないが、恐らくは本伝承の中でも最も人口に膾炙しているものは、東晋の干宝が著した志怪小説集「搜神記」に載る以下の話である。少なくとも、私が高校時代に最初に本話を現代語訳で読んだのはそれであったし、今でも放課後の誰もいない図書館で、読み終わって後、何かひどく心打たれたのを覚えているのである。
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楚干將莫邪爲楚王作劍、三年乃成、王怒、欲殺之。劍有雌雄、其妻重身、當産、夫語妻曰、「吾爲王作劍、三年乃成。王怒、往、必殺我。汝若生子、是男、大、告之曰、『出戸、望南山、松生石上、劍在其背。』。」。於是卽將雌劍往見楚王。王大怒、使相之、劍有二一雄、一雌、雌來、雄不來。王怒、卽殺之。莫邪子名赤、比後壯、乃問其母曰、「吾父所在。」。母曰、「汝父爲楚王作劍、三年乃成、王怒、殺之。去時囑我、『語汝子。出戸、往南山、松生石上、劍在其背。』。」。於是子出戸、南望、不見有山、但睹堂前松柱下石砥之上、卽以斧破其背、得劍。日夜思欲報楚王。王夢見一兒、眉間廣尺、言欲報讎。王卽購之千金。兒聞之、亡去、入山、行歌。客有逢者。謂、「子年少。何哭之甚悲耶。」。曰、「吾干將莫邪子也。楚王殺吾父、吾欲報之。」。客曰、「聞王購子頭千金、將子頭與劍來、爲子報之。」。兒曰、「幸甚。」。卽自刎、兩手捧頭及劍奉之、立僵。」。客曰、「不負子也。」。於是屍乃仆。客持頭往見楚王、王大喜。客曰、「此乃勇士頭也。當於湯鑊煮之。」。王如其言。煮頭三日、三夕、不爛。頭踔出湯中、躓目大怒。客曰、「此兒頭不爛、願王自往臨視之、是必爛也。」。王卽臨之。客以劍擬王、王頭隨墮湯中。客亦自擬己頭、頭復墮湯中。三首俱爛、不可識別。乃分其湯肉葬之。故通名三王墓。今在汝南北宜春縣界。
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思い出の作品なので、敢えて自然流で書き下してみる。東洋文庫版の竹田晃氏の現代語訳を訓読する際の参考にした。
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干將莫耶、楚王の爲に劍を作り、三年にして、乃(すなは)ち成る。王、怒りて、之れを殺さんと欲す。劍に雌雄有り。其の妻、重身にして、産に當る。夫、妻に語りて曰く、
「吾、王の爲に劍を作り、三年にして、乃ち、成る。王、怒りて、往かば、必ず、我を殺さん。汝、若し、子を生みて、是れ、男ならば、大なるときは、之れに告げて曰く、『戸を出でて、南山を望まば、松、石上(せきしやう)に生ず。劍、其の背に在り。』と。是(ここ)に於いて、卽ち、雌劍(ゆうけん)を將(も)ちて往き、楚王に見(まみ)ゆ。王、大いに怒りて、之れを相(しやう)[やぶちゃん注:占って調べる。]せしむるに、「劍、二つ有り、一(いつ)は雄(おす)、一は雌(めす)なり。雌、來たるも雄、來らず。」と。王、怒りて、卽ち、之れを殺す。莫邪の子、赤と名づく。壯たらん比後(ひご)[やぶちゃん注:青年となった頃おい。]、乃ち、其の母に問ひて曰く、
「吾が父の在る所はいづくぞ。」
と。母、曰く、
「汝の父、楚王の爲に劍を作り、三年にして、乃ち、成る。王、怒りて、之れを殺す。去る時、我に囑(しよく)すに[やぶちゃん注:頼んだことには。言伝てたことには。]、『汝の子に語れ。戸を出でて、南山に往かば、松、石上に生ず。劍、其の背に在り。』と。」
と。
是に於いて、子、戸を出でて、南を望む。山、有るを見ず、但だ、堂前の松、柱の石砥(せきと)[やぶちゃん注:柱を支えるための礎石。]の上に下(さが)れるを覩(み)る。卽ち、斧を以つて其の背を破り、劍を得(う)。
日夜、思ひて、楚王に報ひんと欲す。
楚王、夢に一兒を見たり。眉間(みけん)、廣きこと、尺[やぶちゃん注:東晋の一尺は二十四・四五センチメートル。]にして、
「讎(あだ)を報(むく)はんと欲す。」
と言ふ。
王、卽ち、之れを千金に購(あがな)ふ[やぶちゃん注:千金の報奨金を掲げて探させた。]。
兒、之れを聞きて、亡(に)げ去り、山に入りて行歌(かうか)す。
客[やぶちゃん注:旅人。]、逢ふ者、有り。謂(いは)く、
「子、年、少(わか)し。何ぞ哭(こく)すること、甚だ、悲しきや。」
と。曰く、
「吾は干將莫邪が子なり。楚王、吾が父を殺す。吾、之れに報はんと欲す。」
と。客、曰く、
「王、子が頭(かうべ)を千金に購ふと聞く。子が頭と劍とを將ちて來たり、子の爲に之れに報ひん。」
と。兒、曰く、
「幸甚なり。」
と。卽ち、自刎(じふん)し、兩手に頭及び劍を捧げて之れを奉じ、立ちながらにして僵(けう)す[やぶちゃん注:立ったままで硬直して死んだ。]。
客、曰く、
「子に負(そむ)かざるなり。」[やぶちゃん注:「そなたのその心意気、これ、決して、ないがしろには、せぬぞ。」。]
と。是に於いて、屍(かばね)、乃ち、仆(たふ)る。
客、頭を持ち、往きて、楚王に見(まみ)ゆるに、王、大いに喜ぶ。
客、曰く、
「此れ、乃(すなは)ち、勇士の頭なり。當に湯鑊(たうかく)[やぶちゃん注:沸騰した湯を入れた足のない大釜。]に於いて、之れを煮るべし。」
と。
王、其の言(げん)のごとくす。
頭を煮ること三日、三夕(せき)なるも爛(ただ)れず[やぶちゃん注:一向に爛れもせず、煮えもしない。]。頭、湯中より踔出(たくしゆつ)し[やぶちゃん注:撥ね上がって飛び出し。]、躓目(ちもく)して[やぶちゃん注:苦痛に目を歪めるの意か。訳す際は「目を怒らせて」でよかろう。]大いに怒る。
客、曰く、
「此の兒の頭、爛れず。願はくは、王、自ら、往きて、之れを臨視(りんし)せんことを。是れ、必らずや、爛るるなり。」
と。王、卽ち、之れに臨む。客、劍を以つて、王を擬(う)ち、王の頭、隨ひて[やぶちゃん注:それと同時に。]、湯中(たうちう)に墮(お)つ。
客、亦た、自(みづか)ら、己(おの)が頭を擬(う)ち、頭、復た、湯中に墮つ。
三首、倶に爛れ、識別すべからず。乃ち、其の湯の肉を分ちて[やぶちゃん注:残った肉を適当に三つに分けて。]、之れを葬れり。故に、通(つう)じて[やぶちゃん注:(誰が誰の首(の肉)であるか判らぬので)一纏めにして。]「三王が墓」と名づけり。今、汝南の北、宜春縣が界(さかひ)に在り。[やぶちゃん注:現在の江西省宜春市。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
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『「太平記」あたりにも出てゐる有名な話』「太平記」の「卷第十三」の「兵部卿(ひやうぶきやう)の宮薨御(こうぎよ)の事 付けたり 干將莫耶が事」である。所謂、中先代(なかせんだい)の乱(建武二(一三三五)年七月に故鎌倉幕府第十四代執権北条高時の遺児時行(ときゆき)が御内人の諏訪頼重らに擁立されて鎌倉幕府再興のために挙兵した反乱)によって、大塔の宮守良(もりなが)親王が鎌倉から落ちる足利直義の命により殺害されてしまうシークエンスに挿入されているものである。メイン・ストーリーは私の好きな話であり、全体はかなり長いが、「干將莫耶が事」自体が三分の二弱なので、敢えて全部を引く。その代り、細かな注は附さぬ。
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左馬頭(さまのかみ)、既に山の内を打過給ける時、淵邊(ふちべ)伊賀守を近付けて宣ひけるは、[やぶちゃん注:以下、直義の台詞。]
「御方(みかた)、無勢に依つて、一旦、鎌倉を引き退くと雖も、美濃・尾張・三河・遠江の勢を催して、頓(やが)て又、鎌倉へ寄せんずれば、相摸次郎時行を滅さん事は、不可踵(くびす)を囘(めぐ)らすべからず[やぶちゃん注:時を要することはあるまい。]。猶も只、當家の爲に、始終讎(あた)と成らるべきは、兵部卿親王(しんわう)なり。此御事(このおこと)、死刑に行なひ奉れと云ふ勅許はなけれども、此の次(つい)でに、只、失ひ奉らばやと思ふなり。御邊(ごへん)は急ぎ藥師堂が谷(やつ)へ馳せ歸つて、宮(みや)を刺し殺し進(まゐ)らせよ。」
と下知せられければ、淵邊(ふちべ)、畏(かしこま)つて、
「承はり候。」
とて、山の内(やまのうち)より、主從七騎、引き返して、宮の坐(ましま)しける牢(らう)の御所(ごしよ)へ參りたれば、宮は、いつとなく、闇の夜(よ)の如くなる牢の中に、朝(あした)に成りぬるをも知らせ給はず、猶、燈(ともしび)を挑(かか)げて御經あそばして御坐(ござ)有りけるが、淵邊が御迎ひに參りて候ふ由を申して、御輿(おんこし)を庭に舁(か)き居(す)ゑたりけるを御覽じて、
「汝は我を失はんとの使ひにてぞ有るらん。心得たり。」
仰せられて、淵邊が太刀を奪はんと、走り懸からせ給ひけるを、淵邊、持つたる太刀を取り直し、御膝(おんひざ)の邊りをしたゝかに打ち奉る。宮は半年許り牢の中に居屈(ゐかがま)らせ給ひたりければ、御足(おんあし)も快よく立たざりけるにや、御心(おんこころ)は、やたけに思召しけれども、覆(うつぶ)しに打ち倒され、起き上がらんとし給ひける處を、淵邊、御胸の上に乘り懸かり、腰の刀を拔いて御頸(おんくび)を搔かんとしければ、宮、御頸を縮めて、刀のさきを、しかと、呀(くは)へさせ給ふ。淵邊、したたかなる者なりければ、刀を奪はれ進(まゐ)らせじと、引き合ひける間(あひだ)、刀の鋒(きつさき)一寸餘り折れて失せにけり。淵邊、其刀を投げ捨て、脇差(わきざし)の刀を拔いて、先(まづ)、御心(おんむな)もとの邊(へん)を、二刀(ふたかたな)、刺す。刺されて、宮、少し弱らせ給ふ體(てい)に見へける處を、御髮を摑んで引き上げ、則ち、御頸を搔き落とす。牢の前に走り出でて、明(あか)き所にて御頸を見奉るに、噬(く)ひ切らせ給ひたりつる刀の鋒(きつさき)、未だ御口の中に留(とど)まつて、御眼(おんまなこ)、猶、生きたる人の如し。淵邊、是を見て、
「さる事あり。加樣(かやう)の頸をば、主(しゆ)には見せぬ事ぞ。」
とて、側(かたはら)なる藪の中へ、投げ捨ててぞ歸りける。
去る程に、御介錯(おんかいしやく)の爲に、御前に候はれける南(みなみ)の御方(おかた)、此の有樣を見奉(みたてまつ)て、餘りの恐しさと悲しさに、御身(おんみ)もすくみ、手足もたたで坐(ましま)しけるが、暫く肝(きも)を靜めて、人心(ひとごころ)付きければ、藪に捨てたる御頸を取り上げたるに、御膚(おんはだへ)も、猶、冷(ひ)えず、御目も塞(ふさ)がせ給はず、只、元(もと)の御氣色(ごきしよく)に見へさせ給へば、
「こは、若し、夢にてや有らん、夢ならば、さむるうつつのあれかし。」
と泣き悲しみ給ひけり。遙かに有(あつ)て理致光院(りちくわうゐん)の長老、
「斯(かか)る御事(おんこと)と承り及び候。」
とて葬禮の御事(おんこと)、取り營み給へり。南の御方は、軈(やが)て、御髮おろされて、泣く泣く、京(きやう)へ上(のぼ)り給ひけり。
抑(そもそも)淵邊が宮(みや)の御頸(おんくび)を取りながら、左馬頭殿に見せ奉らで、藪の傍らに捨てける事、聊か思へる所あり。昔、周の末(すゑ)の代(よ)に、楚王と云ひける王、武を以つて天下を取らん爲に、戰ひを習はし劍(けん)を好む事、年、久し。或る時、楚王の夫人、鐵(くろがね)の柱に倚傍(よりそ)ひてすゞみ給ひけるが、心地、ただならず覺えて忽ちに懷姙したまひけり。十月(とつき)を過ぎて後、産屋(うぶや)の席に苦しんで一つの鐵丸(てつぐわん)を産み給ふ。楚王、是を怪しとしたまはず、
「如何樣(いかさま)、是れ金鐵(きんてつ)の精靈(せいれい)なるべし。」
とて、干將と云ひける鍛冶(かぢ)を召され、此の鐵(くろがね)にて寶劍を作つて進(まゐ)らすべき由を仰せらる。干將、此の鐵を賜はつて、其の妻の莫耶と共に呉山(ござん)の中に行きて、龍泉の水に淬(にぶ)らして[やぶちゃん注:焼き入れをして。]、三年が内に雌雄(しゆう)の二劍(にけん)を打り出だせり。劍、成つて未だ奏せざる前(さき)に、莫耶、干將に向つて云ひけるは、
「此の二つの劍(けん)、精靈(せいれい)、暗(あん)に通じて、坐(ゐ)ながら、怨敵(をんでき)を滅ぼすべき劍也。我[やぶちゃん注:汝。]、今、懷姙せり。産む子は必ず猛(たけ)く勇(いさ)める男なるべし。然(しか)れば一つの劍をば、楚王に獻(たてまつ)るとも、今一つの劍をば、隱して我は子に與へたまふべし。」
と云ひければ、干將、莫耶が申すに付いて、其の雄劍一つを楚王に獻じて、一つの雌劍(しけん)をば、未だ胎内にある子の爲に、深く隱してぞ置きける。
楚王、雄劍を開いて見給ふに、誠(まこと)に精靈(せいれい)有りと見へければ、箱の中に收めて置かれたるに、此の劍、箱の中にして、常に悲泣(ひきふ)の聲あり。楚王、怪みて群臣に其の泣く故を問ひ給ふに、臣、皆、申(まう)さく、
「此の劍、必ず、雄(ゆう)と雌(し)と二つ有るべし。其の雌雄、一所(いつしよ)に在らざる間、是れを悲しんで泣く者也。」
とぞ奏しける。
楚王、大きに忿(いか)つて、則ち、干將を召し出され、典獄の官に仰(おほ)せて頸を刎ねられけり。
其の後(のち)、莫耶、子を生めり。面貌、尋常(よのつね)の人に變つて長(たけ)の高き事、一丈五尺[やぶちゃん注:本邦の換算なら四メートル五十四センチメートル。]、力は五百人が力を合はせたり。面(おもて)、三尺(さんじやく)有つて、眉間(みけん)一尺有りければ、世の人、其の名を眉間尺(みけんじやく)とぞ名付けける。
年十五に成りける時、父が書き置きける詞(ことば)を見るに、
日出二北戸一南山其松 松生二於石一劍在其中
(日 北戸(ほくこ)に出づ 南山に其の松あり 松 石に生ず 劍 其の中に在り)
と書けり。
「さては此の劍、北戸の柱の中に在り。」
と心得て、柱を割つて見るに、果たして一つの雌劍あり。眉間尺、是れを得て、
「哀れ、楚王を討ち奉つて、父の仇(あた)を報ぜばや。」
と思ふ事、骨髓に徹(とほ)れり。
楚王も眉間尺が憤りを聞き給ひて、彼、世にあらん程は、心安からず思はれければ、數萬(すまん)の官軍を差し遣はして、是れを責められけるに、眉間尺一人が勇力(ゆうりき)に摧かれ、又、其の雌劍の刃(やいば)に觸れて、死傷する者、幾千萬と云ふ數(かず)を知らず。斯(かか)る處に、父干將が古への知音(ちいん)なりける甑山人(そうさんじん)、來(きたつ)て、眉間尺に向つて云ひけるは、
「我れ、汝が父干將と交はりを結ぶ事、年久しかりき。然(しか)れば、其の朋友の恩を謝せん爲(ため)、汝と共に楚王を討ち奉るべき事を謀るべし。汝、若し、父の仇(あた)を報ぜんとならば、持つところの劍の鋒(きつさき)を三寸(さんずん)、嚼(く)ひ切つて口の中に含んで死すべし。我、汝が頸を取つて楚王に獻ぜば、楚王、悦んで、必ず、汝が頸を見給はん時、口に含める劍のさきを楚王に吹き懸けて、共に死すべし。」
と云ひければ、眉間尺、大きに悦んで、則ち、雌劍の鋒(きつさき)三寸、喫(く)ひ切つて、口の内に含み、自(みづか)ら己(おのれ)が頸をかき切つて、客(かく)の前にぞ指し置きける。
客、眉間尺が頸を取つて、則ち、楚王に奉る。楚王、大きに喜びて、是れを獄門に懸けられたるに、三月(みつき)まで其の頸、爛れず、目をみはり、齒をくひしばり、常に齒喫(が)みをしける間(あひだ)、楚王、是れを恐れて敢て近づき給はず。
是れを鼎(かなへ)の中(なか)に入れ、七日七夜までぞ、煮られける。
餘りにつよく煮られて、此の頸、少し爛れて、目を塞ぎたりけるを、
「今は子細、非じ。」[やぶちゃん注:「最早、大事あるまい。」。]
とて、楚王、自ら、鼎の蓋(ふた)を開けさせて、是れを見給ひける時、此の頸、口に含んだる劍(けん)の鋒(きつさき)を、楚王に、はつと、吹き懸け奉る。
劍の鋒、誤らず、楚王の頸の骨を切りければ、楚王の頸、忽まちに落ちて、鼎の中へ入りにけり。
楚王の頸と眉間尺が頸と、煎え揚(あ)がる湯の中(なか)にして、上になり、下に成り、喫ひ相(あ)ひけるが、ややもすれば、眉間尺が頸は下に成つて、喫ひ負けぬべく見へける間、客(かく)、自ら、己(おのれ)が頸を搔き落して鼎の中へ投げ入いれ、則ち、眉間尺が頸と相ひともに、楚王の頸を喫ひ破つて、眉間尺が頸は、
「死して後(のち)、父の仇(あた)を報じぬ。」
と呼ばはり、客(かく)の頸は、
「泉下(せんか)に朋友の恩を謝しぬ。」
と悦ぶ聲して、共に皆、煮え爛れて失せにけり。
此の口の中に含んだりし三寸の劍、燕の國に留まつて太子丹(たいしたん)が劍となる。太子丹、荊軻(けいか)・秦舞陽(しんぶやう)をして秦の始皇を伐たんとせし時、自(みづか)ら差圖の箱の中(なか)より飛び出でて、始皇帝を追ひ奉りしが、藥の袋を投げ懸けながら、口(くち)六尺の銅(あかがね)の柱の半(なか)ばを切つて、遂(つひ)に三つに折れて失せたりし匕首(ひしゆ)の劍(けん)、是れ也。
其の雌雄二つの劍は干將莫耶の劍と云はれて、代々の天子の寶(たから)たりしが、陳(ちん)の代(よ)に至つて[やぶちゃん注:この辺り以降、登場人物と歴史的時制は齟齬する。]、俄かに失せにけり。或る時、天に一つの惡星(あくせい)出でて、天下の妖(えう)を示す事あり。張華(ちやうくわ)・雷煥(らいくわん)と云ひける二人(ににん)の臣、樓臺に上(のぼ)つて此の星を見るに、舊(ふる)き獄門の邊(へん)より、劍(けん)の光り、天に上(のぼ)つて惡星と鬪かふ氣あり。張華、怪しんで、光の指(さ)す所を掘らせて見るに、件(くだん)の干將莫耶の劍、土(つち)五尺(ごしやく)が下に埋(うづ)もれてぞ殘りける。張華・雷煥、是れを取つて天子に奉らん爲に、自(みづか)ら是れを帶(たい)し、延平津(えんぺいしん)と云ふ澤(さわ)の邊(へん)を通りける時、劍、自(みづか)ら拔けて、水の中(なか)に入りけるが、雌雄二つの龍(りゆう)と成つて遙かの浪(なみ)にぞ沈みける。
淵邊、加樣(かやう)の前蹤(せんじよう)[やぶちゃん注:故事。]を思ひければ、兵部卿親王の刀の鋒(きつさき)を喫ひ切らせ給ひて、御口の中に含まれたりけるを見て、左馬頭に近か付け奉らじと、其の御頸をば藪の傍らに棄てけるとなり。
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