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2017/06/06

柴田宵曲 續妖異博物館 「金銀の精」

 

 金銀の精

 

 北齊の武成の時、安陽縣に黃といふ家があつた。代々の大金持であつたが、或時占者から、君の家の財物を占つて見るのに、皆外へ出ようとしてゐる、よくこれを守らなければならぬ、それが出てしまへば大貧になる、と注意された。それから每晩手分けをして、よく守るやうにしてゐたところ、或晩黃色の著物を著た人が馬に乘つて北門から出て行く。白衣の一隊は西門から、靑衣の一隊は東門から、いづれも馬に乘つて出るのに氣付いた。それが皆口々に、趙虞の家はどこか、こゝからどのくらゐの距離か、と尋ねる。その時はぼんやりしてゐて、あとになつて氣が付いたが、黃衣は金、白衣は銀、靑衣は鏡だつたので、一口に黃白靑餞といふ貨幣が、相率ゐて黃の家を去るところだつたのである。やゝしばらくして今度は跛を引いた男が、薪を背負つて出て來て、こいつまでが趙虞の家を尋ねてゐる。癇癪を起して下男に棒で撲らせたら、足の折れた鍋であつた。これ以來、黃の家は次第に貧乏になつた(靈怪錄)。

[やぶちゃん注:「北齊の武成の時」南北朝時代に高氏によって建国された北斉(ほくせい 五五〇年~五七七年)の第四代武成(ぶせい)帝の治世は五六一年から五六五年。

以上は「太平廣記」の「妖怪三」にある「廣古今五行記」を出典とする「安陽黃氏」と同じである。「靈怪錄」では確認出来なかった。

   *

北齊武成時、安陽縣有黃家者、住古城南。其先累世巨富、有巫師占君家財物欲出、好自防守。若去、家卽大貧。其家每夜使人分守。夜有一隊人。盡着黃衣。乘馬、從北門出。一隊白衣人、乘馬、從西門出。一隊青衣人、乘馬、從東園門出。悉借問趙虞家此去近遠。當時並忘、去後醒覺、撫心懊悔、不可復追。所出黃白靑者、皆金銀錢貨。良久。復見一人、跛脚負薪而來、亦問趙虞。家人忿極。命奴擊之。就視、乃家折脚鐺也。自此之後、漸貧、死亡都盡。

   *]

 

 一家の沒落する時は大體こんなものであらう。いくら嚴しく守るつもりでも、金銀錢が各自一隊を率ゐて出て行く形勢になつては、人力の防ぐ餘地はなささうである。

 

 建安の村に住む者が、常に一人の小僧を城中まで使ひに出してゐたところ、その家の南に大きな古塚があつて、城中へ出るにはどうしてもこゝを通らなければならぬ。小僧がこゝを通る每に、必ず黃色の著物を著た少年が現れて、角力を挑んで來る。筑後川の河童のやうなわけである。その相手になつて角力を取るから、往復の時間は每日おくれる。主人に叱られて、小僧はつゝまず白狀したが、主人は何か腑に落ちぬところがあつたらしく、今度は俺も一緒に行かうと云ひ出した。果して少年が現れて角力を挑むのを、草の中に隱れてゐた主人が不意に飛び出して、持つてゐた槌で打ち据ゑた。少年の姿は一擊して黃金製の小兒となり、それを持ち歸つた主人は急に金持になつた。

[やぶちゃん注:後に出るように、これは「稽神錄」の「第五卷」にある「建安村人」である。

   *

建安有人村居者、常使一小奴出字城市、經過舍南大塚、塚旁恒有一黃衣人與之較力爲戲、其主因歸遲將責之、奴以實告、往覘之、信然。一日挾撾而往、伏於草間。小奴至、黃衣兒復出、卽起擊之、應手而僕、乃金兒也。因持以歸、家遂殷富。

   *]

 

 これに似た話は廬州の軍吏蔡彦卿が柘皐の鎭將になつてゐた頃、夏の晩に鎭門の外に出て涼んでゐると、路の南にある桑林の中で、白衣の女が一人舞つてゐるのが見える。不思議に思つて近付いたら、女の姿はもう見えなかつた。翌晩、蔡が杖を携へて桑林の中に潛んでゐるとは知らず、白衣の女はまた現れて舞ひはじめた。蔡が飛びかゝつて打ち倒すと同時に、女は一枚の白銀に變つた。蔡は更にその邊の土を掘り返して、數千兩の銀を發見した。

[やぶちゃん注:これも「稽神錄」の同じ「第五卷」の「蔡彦卿」。

   *

廬州軍吏蔡彦卿爲拓皐鎭將、暑夜坐鎭門外納涼、忽見道南桑林中、有白衣婦人獨舞、就視卽滅。明夜、彦卿扶杖先往、伏於草間、久之、婦人復出而舞、卽擊之墜地、乃白金一餠。復掘地、獲銀數字千兩、遂致富裕雲。

   *]

 

 この二つの話は共に「稽神錄」に出てゐる。角力を挑む少年の變つたのは、一箇の黃金像であつたが、桑林に舞ふ白衣の女は、自身一片の白銀に化したのみならず、他に數千兩といふ同類を蔡に發見させてゐる。「靈怪錄」の黃氏の場合と違ひ、これは新たに獲得される話であるが、古塚の中や桑林の蔭に埋もれた金銀の側から云へば、やはり世に出でんとする心持があつて、わざわざ人の目に付く擧動に出たのかも知れぬ。「靈怪錄」及び「稽神錄」の記載により、金は人に化するに當つて黃衣を著、銀は白衣を著ることを知り得た。

 

 天寶中の長安永樂里に凶宅があつた。こゝに住む者は皆祟りを受けるので、後には誰一人としてとどまらず、家は荒れ放題、草木は茂り放題といふ狀態になつてゐた。たまたま蘇遏なる者が貧乏に苦しむところから、一つこの家でも借りて見ようかといふ氣になり、約束だけしてまだ一錢も拂はなかつたに拘らず、先づ寢を運んで一晩泊ることにした。凶宅の話はいろいろ聞かされてゐるので、容易に睡ることが出來ぬ。家の中をぶらぶらしてゐると、突然東の牆(かきね)の下から赤い物が現れた。人のやうな形をしてゐるけれど手足がなく、全身透き通つて一種の光りを放つ。この物が爛木と呼ぶと、西の牆の邊に答へる者がある。それから兩者の間に電信文のやうな、禪問答のやうな、簡單な言葉が交換されたが、やがて赤い物は見えなくなつた。遏はびくびくしながらも好奇心が動いて、中庭に立つて爛木と呼んで見た。爛木は先刻と同じ聲で何か云ふ。この家で人を殺害した者は今何處に在るかと問ふと、別にさういふ者がゐるわけではない、金の精なのであるが、福分の薄い者は一緒に居ることが出來ず、自分で死んでしまふのだ、殺傷した者などは一人もゐない、と答へた。一夜は無事に明けたので、遏は早速鋤鍬(すきくは)を持つて來て西の牆の下を掘る。地下三尺ばかりのところから出たのは、一本の古い柱で、石のやうに堅く、その心(しん)が血のやうな色をしてゐる。次いで東の牆の下を掘つたら、長さ一丈八寸、幅一丈四寸の石に、篆書で「夏天子紫金三十斤賜有德者」と記されたものが出て來た。遏は自ら省みて、何等德と稀すべきものを持ち合せてゐない。果してこの寶を得る資格があるかどうか、容易に決心が付かぬうちに夜になつた。その時爛木の聲で、君は何故名を改めぬのだ、有德といふ名にすればいゝぢやないか、といふのが聞えたので、やつと分別がきまつて有德と名乘ることにした。爛木は更に發言して、わたしを昆明池の中へ送つて貰へれば有難い、と云ふ。有德は直ちにこれを首肯し、翌朝更に一丈ほど掘り下げると、鐡の甕(かめ)が地中に在つた。石に記された通り、紫金三十斤がその中にあつたので、直ちにこの金で宅の價を拂つたのみならず、荒れた建物に修理を加へるに至つた。凶宅と稱したのは昨日までの夢で、有德は思ひがけぬ安住の地を得たのである。彼は約に從ひ爛木を昆明池に送つた後、閉戸して書を讀むこと三年、途に冀州刺史になつたが、その家は永く無事であつたと「博異志」に見えてゐる。この話では最初に赤い人のやうな形を現した金の精が主役で、爛木はワキのやうに思はれる。金の精が人の命を取るといふのは受け取りにくい話だから、これは爛木が説明したやうに、凶宅の名におびえた人が自ら死んだので、逆に云へば福分の乏しい者は同じ家に在りながら、その金を所有し得ぬといふことになるのであらう。遏の名を有德と改めて紫金を手に入れたのも、畢竟それだけの天分があつたからに外ならぬ。

[やぶちゃん注:「天寶中」唐の玄宗の治世後半に使用された元号。七四二年から七五六年。

「爛木」「ランボク」であろうが不詳。妖怪の名ではあるが、ムクロジ目ウルシ科カイノキ属カイノキ Pistacia chinensis は、「楷樹」以外にも「爛心木(らんしんぼく)」と呼び、又、「孔子の木(くしのき)。現代中国では「黃連木」とも呼ばれる。ウィキの「カイノキ」によれば、『カイノキは、直角に枝分かれすることや小葉がきれいに揃っていることから、楷書にちなんで名付けられたとされる。別名のクシノキは、山東省曲阜にある孔子の墓所「孔林」に弟子の子貢が植えたこの木が代々植え継がれていることに由来する。また、各地の孔子廟にも植えられている。このように孔子と縁が深く、科挙の進士に合格したものに楷の笏を送ったことから、学問の聖木とされる』とあり、中国では古代からそうした霊の宿る樹として認識されていた感じがする。

「長さ一丈八寸、幅一丈四寸」唐代であるから、長さ約三メートル三十六センチ、幅三メートル二十四センチほど。

「夏天子」中国の史書に記された最古の王朝夏(紀元前一九〇〇年頃或いは紀元前二〇〇〇年頃~紀元前一六〇〇年頃)の君主の謂いか。

「紫金」赤銅(しゃくどう)の異称。

「三十斤」約十八キログラム弱。

「昆明池」本来は雲南省昆明の南方にある湖、滇池(てんち)の別名であるが、後、漢の武帝がそれを真似て、長安城の西に掘らせた池の名でもある。ここは本来のそれか。

「冀州」「きしゅう」(現代的仮名遣)と読み、唐代のそれは河北省の一部。詳しくはウィキの「冀州」を参照されたい。

 これは「太平廣記」の「寶一金上」に「博異志」を出典として出る「蘇遏」(ソアツ)である。

   *

天寶中、長安永樂里有一凶宅、居者皆破、後無復人住。暫至、亦不過宿而卒、遂至廢破。其舍宇唯堂廳存、因生草樹甚多。有扶風蘇遏、悾悾遽苦貧窮、知之、乃以賤價、於本主質之。纔立契書、未有一錢歸主。至夕、乃自攜一榻、當堂鋪設而寢。一更已後。未寢、出於堂。徬徨而行。忽見東墻下有一赤物、如人形、無手足、表裏通徹光明。而叫曰、「咄。」。遏視之不動。良久、又按聲呼曰、「爛木、咄。」。西墻下有物應曰、「諾。」。問曰、「甚沒人」。曰、「不知。」。又曰、「大硬鏘。」。爛木對曰、「可畏。」。良久、乃失赤物所在。遏下階、中庭呼爛木曰、「金精合屬我、緣沒敢叫喚。」。對曰、「不知。」。遏又問、「承前殺害人者在何處。」。爛木曰、「更無別物、只是金精。人福自薄、不合居之、遂喪逝。亦不曾殺傷耳。」。至明、更無事。遏乃自假鍬鍤之具。先於西墻下掘。入地三尺、見一朽柱、當心木如血色、其堅如石。後又於東墻下掘兩日、近一丈、方見一方石、闊一丈四寸、長一丈八寸。上以篆書曰、夏天子紫金三十斤、賜有德者。遏乃自思、「我何以爲德。」。又自爲計曰、「我得此寶、然修德亦可禳之。」。沈吟未決、至夜、又歎息不定、其爛木忽語曰、「何不改名爲有德、卽可矣。」。遏曰善、遂稱有德。爛木曰、「君子儻能送某於昆明池中、自是不復撓吾人矣。」。有德許之。明辰更掘丈餘。得一鐵甕、開之、得紫金三十斤。有德乃還宅價修葺、送爛木於昆明池。遂閉讀書、三年、爲范陽請入幕、七年、獲冀州刺史。其宅更無事。

   *

なお、以上は高西成介の論文「『太平広記』訳注(稿)―巻四百 「宝」部金上(下)」(PDF。高知県立大学リポジトリ」のでダウンロード可能)で総ての書き下し文と訳注が読める。必見。]

 

「博異志」にはまだこんな話もある。岑文本といふ人が山亭に暑を避けて晝寢から覺めたところへ、忽然として門を敲く者があつた。上淸量子元寶と名乘つて、是非拜顏を得たいといふことだから、元來道を慕ふ文本としては等閑に附することは出來ない。座に通つたのを見れば、二十歳にはならぬと思はれる若い男で、冠り物も衣服も履も悉く淡靑色づくめである。衣服の地は何ともわからぬが、齊紈魯縞(さいぐわんろかう)より更に輕いものであつた。元寶は若僧(わかぞう)の癖になかなか雄辯で、自分の家系や著てゐる衣服に就いて、種々の引き事をして滔々と辯ずる。永い夏の日も夕方になつて漸く辭し去つたが、門を出たか出ぬのにもう姿は見えなくなつた。文本はひそかに彼を異人としたが、元寶はその後も屢々やつて來て、得意の談論に時を移して行く。彼の歸るあとを人につけさせて見たら、山亭を出て數步東へ行つたあたりの牆の下で、忽ち姿を消してしまつた。人を雇つてその邊を掘らせたところ、三尺ばかりにして一つの古い墓に掘り當てたが、墓の中には何もなく、たゞ一枚の古鏡があるきりであつた。文本は初めて彼が錢の精であることを悟り、元寶は鏡の面に鑄出された文字とわかつた。彼が談論の中で、「夫れ道は方圓の中に在り、僕外服は圓にして心は方正なり」などとむづかしいことを竝べてゐたのも、寶は孔のあいた鏡の形に外ならぬのである。靑衣の銅鏡であることは「靈怪錄」によつて立證せられる。文本はこの時の記念に古鏡を藏してゐたが、十餘年後にその鏡を見失ひ、それから間もなく東本自身も亡くなつた。

[やぶちゃん注:以上は「太平廣記」の「寶六錢」の中の「博異志」を出典とする「岑文本」(シンブンホン)で示す。

   *

唐貞觀中、岑文本下朝、多於山亭避暑。日午時、寤初覺、忽有扣山亭院門者。藥豎報云、上清童子元寶、故此參奉。文本性素慕道、束帶命入。乃年二十已下道士、儀質爽邁、衣服纖異。冠淺靑圓角冠、衣淺靑圓用帔、履靑圓頭履。衣服輕細如霧。非齊紈魯縞之比。文本與語。乃曰、「僕上淸童子、自漢朝而果成。本生於呉、已得不凝滯之道、遂爲呉王進入、見漢帝。漢帝有事、擁遏教化、不得者無不相問。僕嘗與方圓行下、皆得通暢。由是自著。文、武二帝、迄至哀帝、皆相眷。王莽作亂、方出外方、所至皆沐人憐愛。自漢成帝時、遂厭人間、乃尸解而去。或秦或楚、不常厥居。聞公好道、故此相謁耳。」。文本詰以漢魏齊梁間君王社稷之事。了了如目覩。因言史傳間、屈者虛者亦甚多。文本曰、「吾人冠帔、何制度之異。對曰、「夫道在於方圓之中、僕外服圓而心方正、相時之儀也。」。又問曰、「衣服皆輕細、何土所出。對曰、「此是上淸五銖服。」。又問曰、「比聞六銖者天人衣、何五銖之異。」。對曰、「尤細者則五銖也。」。談論不覺日晚、乃別去。纔出門而忽不見。文本知是異人。乃每下朝、卽令伺之、到則話論移時。後令人潛送、詣其所止。出山亭門、東行數步、於院墻下瞥然而沒。文本命工力掘之、三尺至一古墓。墓中無餘物。惟得古錢一枚。文本方悟、上青童子是靑銅、名元寶、錢之文也。外圓心方、錢之狀也。靑衣銅衣也。五銖服亦錢之文也。漢時生於呉。是漢朝鑄五銖錢於王也。文本雖知之、而錢帛日盛、至中書令。十年、忽失古錢所在、文本遂薨。

   *]

 

 「伽婢子」の作者はこの話を「和銅錢」と題して日本風に書き直した。文明年中に長柄(ながら)の僧都昌快が西院の里に引籠り、草庵を結んで靜かに暮してゐるところへ、秩父和通と名乘る五十ばかりの怪しき人が訪ねて來る。この人が僧都に向つて説く深遠玄妙の理の中に、例の外圓心方の説があるのは云ふまでもない。客の姿が庵の東方二十間ばかりの藪の前で見えなくなつたので、翌日里人を賴んで掘らせたら、一つの箱に入つた百文の古鏡が出て來た。秩父和通と名乘つたのは、元明天皇の御宇に武州秩父の郡より銅を貢することがあり、和通は卽ち和銅通寶の略である。この前後の説明はいさゝか馬琴(ばきん)流で、煩はしい感がないでもない。僧都はその百文を里人に分ち、自分は眞言陀羅尼を唱へて供養遂げたが、その後に應仁の亂が起つて里人は散り散りになり、僧都も行方不明、古鏡も皆とり失へりといふ、と結んでゐる。此較的原本に忠實な飜案と云へるであらう。

[やぶちゃん注:以上は「御婢子」の「第五巻」の冒頭にある「和銅錢(わどうのぜに)」、別題「長柄僧都が錢の精靈に逢(あふ)事」。明白な翻案であるので、内容の本邦の時制的事実や、例示故実などは五月蠅くなるだけなので、注さなかった。参考にした岩波の新古典文学大系版の挿絵を添えた。

   *

 

   和銅錢

 

Wdounozeni

 

 京都四條の北大宮の西に、いにしへ淳和天皇の離宮ありける。こゝを西院(さゐん)と名づく。後に橘の大后(おほいさき)の宮すみ給へりといふ。時世移りて宮殿は皆絶えてわづかに名のみ殘り、今は農民の住家(すみか)となれり。

 文明年中に長柄(ながら)の僧都(そうづ)昌快(しやうわい)とて學行(がくぎよう)すぐれたる僧あり。世を厭うて西院の里に引籠り、草庵を結びて靜かに行はれしに、或日怪しき人尋ねて入來(いりきた)る。年五十ばかり、其姿はなはだ世の常ならず、いたゞき圓(まろ)くして下に角(かど)ある帽子をかづき、直(なをし)衣の色、淺黃(あさぎ)にて其織りたる糸細く、かろらかに薄き事蝉のつばさに似たり。みづから秩父和通(ちゝぶかずみち)と名乘りて、僧都とさし向ひ坐してさまざま物語りす。

「我は元、これ、武州秩父郡(ちちぶのこほり)の者、中比(なかごろ)、都に上り、それより本朝諸國の内、ゆかざる所もなく見ざる所ものなし。」

といふ。僧都、心に思はれけるは、これまことの人にあらじと推量(おしはか)りながら、しばしば問答して時を移す。眞言三部、兩界(りやうかい)の曼茶羅、印明陀羅尼(いんみやうだらに)、潅頂(くはんぢやう)の事までも、其深き理(ことわり)を陳(の)ぶるに、僧都、未だ知らざる事、多し。それより世の移り行く有さま、昔今の事、親(まの)あたり見たるが如くに語りけり。僧都問ひけるは、

「君の帽子は本朝の制法に似ず、外(ほか)、圓(まろ)くして、内、方(けた)[やぶちゃん注:四角。]なるは何故ぞや。」

と。和通(かずみち)答へけるは、

「凡そ天地萬物のかたち、品々ありと雖(いへども)、つゞまる所は圓(まろ)き、方(けた)なる、二つの外なし。我、外を圓(まど)かに、心を方(けた)にす。天のかたちは方也。圓きは物のかたよらざる所、方(けた)なるは物の正しき所也。されば、我が道(たう)は萬物にかたよらずして、しかも萬物にはづれず、正しくして曲(まがり)ゆがまず。これをあらはして頭(かしら)に戴けり。」

といふ。僧都の曰、

「君の直衣(なほし)ははなはだ、かろく、細(ほそう)して、薄し。是、いづれの國より織り出だせる。」

と。和通、答へけるは、

「是、五銖(しゆ)[やぶちゃん注:「銖」は重量単位。一銖は〇・五九グラム。]の衣(きぬ)と名付く。天上の衣は三銖といへども、下天の衣は皆、重き五銖・六銖なり。」

といふ。僧都、さては、いよいよ人間にあらずと思ひて、重ねて問ひけるは、

「君、まことは如何成る人ぞ。名乘り給へ。」

と云ふに、此人、打笑ひ、

「僧都の道心深きによりてこそ來りて物語はすれ、わが名を名乘るには及ばず、やがて名乘らずとも知ろしめされむものを。今は日も暮がた也、いとま申さむ。」

とて座を立ちて出づる。其(その)行く跡を認(とめ)て見れば、庵(いほり)の東のかた二十間[やぶちゃん注:三十六メートル強。]ばかりにして、竹藪の前にて姿は見失へり。

 明日(あくるひ)、里人を賴みて、其(その)所を掘らせらるゝに、三尺ばかり下に一つの箱あり。其中に錢百文を得たり。其外には何もなし。僧都、是を取りて見るに和銅通寶の古錢なり。つらつら思うに、秩父和通は此錢の精なる事疑ひなしとて、地を堀ける里人をよびて、僧都、物語せられけるやう、

「此人の形、初めより恠しみ思へり。今、是を案ずるに、昔、本朝人王四十三代元明天皇の御宇、七月に武州秩父の郡より初めて銅(あかゞね)を貢(たてまつ)る。其時の都は津の國灘波(なには)の宮におはしませり。是によりて慶雲(けいうん)五年を改めて、和銅元年と改元あり。此年始めて貢(たてまつ)りし銅をもつて錢を鑄(い)させらる。されば今、この和銅通貨の古錢は、其時の錢なるべし。帽子の外圓(まろ)く内方(けた)なるも、これ錢の狀(かたち)也。靑き色のひたゝれは、これ銅の衣(さび)ならん。五銖の重さは、錢の重さをあらはし、和通と名のりしは、和銅通貨の略せる名也。秩父の者と云ひしは、もと銅(からかね)の出(いで)そめし所也。それより都に上り、諸國あまねく巡り見たるといひるも、錢となり諸國につかひわたされし事なるべし。それ、錢のかたち、外圓きは、天にかたどり、穴の方(けた)なるは地にかたどり、表裏(おもてうら)は陰陽なり。文字の數四つは四方にかたどり、其年號をあらはして、天下に賑はす寶とす。錢はこれ足なくして遠く走り、翅(つばさ)なくして高く揚(あが)る。容曲(かほくせ)わろきも、錢に向へば、笑ひを含み、詞(ことば)少なき人も、錢をみては、口を開く。杜預(とよ)に左傳(さでん)の癖あり。樂天に詩の癖あり。樊光(はんくわう)は錢の癖ありいといへ共、錢の曲癖(くせ)は人每(ごと)にあり。鬼をしたがへ兵(つはもの)をつかふも、みな錢に過ぎたる術(てだて)はなし。欲深き者、錢を見ては飢(うゑ)て食を求るが如く、貪り多き人、錢を得ては病人の醫師(くすし)に逢ふに似たり。まことに寶(たから)なり。」

とて打笑ひ、かの百文の錢を分ち、里人に與へ、みづから眞言佗羅尼となへて供養をとげらる。里人それより、家々賑はひゆたかになりて、僧都を敬ひかしづきしが、後に山名が亂に逢ふて、里人皆ちりぢりになり、僧都も行きがたなく、古錢(こせん)も皆、とり失なへりといふ。

   *]

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