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2017/06/15

「想山著聞奇集 卷の五」 「縣道玄、猪を截たる事」

  縣道玄(あがただうげん)、猪を截(きり)たる事

[やぶちゃん注:「縣道玄」「大蛇の事」で既に登場している。]

Agatadougeninosisiwokiru

 縣道玄は、信州小縣郡(ちいさがたごほり)小泉村[やぶちゃん注:現在の上田市小泉。同市の中心部の西方、千曲川左岸から国道百四十三号沿線にかけての地域内。ここ(グーグル・マップ・データ)。]郷士小泉宇右衞門の男(なん)なり。中年より江戸へ出(いで)て、專ら醫業を弘(ひろ)め、人に知られ、その頃より、、知己となれり。此人は、萬藝(ばんげい)とも、人に長出(ちやうしゆつ)して、なかんづく武藝を好み、劍術・柔術等(とう)、拔群にて、壯年の頃は國中所々を周遊し、其先々にて武藝の師と仰がれ、尊敬せられし人也。其頃、同國伊奈郡(いなこほり)高遠領[やぶちゃん注:現在の長野県伊那市高遠町東高遠。ここ(グーグル・マップ・データ)。]の内、駒が嶽[やぶちゃん注:木曽駒ヶ岳。現在の長野県上松町・木曽町・宮田村の境界に聳える。標高二千九百五十六メートルで木曽山脈(中央アルプス)の最高峰。高遠の西南西約二十四キロメートルの位置に当たる。前のグーグル・マップ・データで確認されたい。]の連なる山間(やまあひ)へも、追々行(ゆき)て師範せしに、此所は僅の平地(ひらち)にて、人家も漸(やうやう)二十軒計(ばかり)有(あり)て、田畑、更になく、皆、山獵を業(わざ)とし、其外、山稼(やまかせぎ)のみを以、渡世とする所なりしが、或時、道玄の云(いふ)には、各達(おのおの)の猪を獵する手際、我等も一度、見物仕度(したき)もの也と望みたるに、若きものどもゝ、先生をつれ行、あく迄、狩(かり)を致せ度(たし)など申せども、其長(をさ)たる者のいへるには、時節惡敷(あしき)まゝ、追て(おつ)てに成さるべしとて、追々延(のば)し居(ゐ)しに、或時、彼(かの)者云(いふ)、此程は仲春[やぶちゃん注:旧暦二月頃。]となり、猪もさかり出し、澤山に群れ居るまゝ、明日(みやうにち)は手勢にて山へ入込(いりこみ)、猪を追集(おひあつめ)、御覺に入(いれ)申べく候間(あひだ)、私共の手際よりは、御慰(おなぐさみ)に[やぶちゃん注:我ら生計(たつき)のそれとは違って、手業(てわざ)のお楽しみとして。]御仕留(おしとめ)あれかしとて、其用意をなし、未明に食事をしたゝめて、主從六、七人に犬二疋と共に家をいで、山路に分入(わけい)るに、まだ山は雪深く、下は氷り居(ゐ)、上はとけ居るまゝ、すべりて步行(ほかう)も自由ならず。よつて橇(かんじき)[やぶちゃん注:「樏」などとも書く。雪中に足を踏み込んだり、辷ったりせぬように雪靴や草鞋などの下に付ける、本邦古来からの北国の氷雪用歩行具。穿き物よりも一回り大きく木の枝や蔓などを輪に撓(た)めたものや、それらに滑り止めのアイゼン様の木爪(きづめ)を付けたもの等がある。挿絵にもちゃんと描かれてある。]の裏に釘の出(いで)しものをはきて山へ入込、其山の懷の少し谿間(たにま)なる所へ行て、先生は此所(このところ)に待居給ふべし、我々は四方へ分け入(いつ)て、此所へ猪を追出し申べきまゝ、澤山に御仕留有べし、後(のち)には又、此所へ皆々集り申べし、犬、猪を追出して、猪に吠懸(ほへかゝ)りたる時は、聲を合(あはせ)て遣(つかは)し下さるべし、左(さ)なき時は、猪に懸(かけ)られて斃(をち)申候、犬は我々の先達(せんだつ)にて、中々、大切に御座候と、懇(ねんごろ)に教へさとして、唯壹人、殘し置て、皆、ちりぢりに深山(しんざん)へ分入たり。扨、猪のさかり出したる時は、牝猪(めゐ)壹疋(ひき)に、牡猪(をすゐ)三十疋も四十疋も付纏ひ居て、嚙合(かみあひ)、互(たがひ)に血を流し、あけに成(なつ)て居ても、一向平氣の樣子にて、群あるくものにて、此時は、彼(かれ)も色情(しきじやう)に目くれて、人をも一向恐れず、甚だ不敵になり居るものとそ。程なく遠方の谷々に、ぽんぽんと錢砲の音響き出(いだ)す内に、谷一つ向(むかふ)の方(かた)にて、遙に犬の吠る音(こゑ)聞ゆるまゝ、是を見るに、猪十四、五、並び駈步行(かけあるく)に、唯犬一疋にて、しきりに吠懸り居、危き事と思ふ間もなく、暫く見て居(ゐ)る内に、豆腐にあんを懸(かけ)たる如く、雪中、忽(たちまち)にあけと成(なつ)て[やぶちゃん注:襲われた犬の血で朱(あけ)に染まって、の謂いであろう。]、夫切(それぎり)に犬の聲の止(やみ)たるは、猪に懸られたるに相違なく、僅、谷一つ向の事なれば、よく見ゆれども、其間(あい)は遙にて、猪は犬程に見え、犬は猫程に見ゆる所故、如何(いかん)とも仕方なく、哀れ成(なる)目に合(あひ)たる事、不便(ふびん)なりと思ふうちに、頻りに鐡砲の音、谷(たにだに)に響きわたりて、直傍(ぢきかたはら)の谷間(たにま)より、かなたの方へ、大猪(おほゐ)三疋、たけりてかけ來りたり。是はうろうろ、此姿にて、此所へ三疋來(きたら)れては凌ぎ難(かた)かるべしと、小高き所へ登りて、巖(いはほ)を小楯(こだて)に取(とつ)て、待懸(まちかけ)たれども、足場惡しく、其上、木下(こした)の難所(なんじよ)ゆゑ、刀(かたな)にてはあしかるべし、引付(ひくつけ)て脇差にて討留(うちとむ)べしと、刀は下緒(さげを)にて木の枝に結付置(むすびつけおき)、片手は木に取付居(とりつきゐ)、片手には拔身(ぬきみ)を持(もち)て待懸る間もなく、三疋の猪(ゐのしゝ)、今迄わが居し廣場へ來りて、くるひ?り居る故、ヲヽイと聲を懸(かく)ると、直(ぢき)に壹疋(いつぴき)飛揚(とびあが)り來りたる故、側(そば)へ引付、眞向(まつかう)を骨も微塵に碎けよと切割(きりわる)に、銕(てつ)石に打付(うちつく)ることく、刄(やいば)、飛(とん)で[やぶちゃん注:以下、たびたび出るが、これは刀剣が食い入ることなく、弾かれてしまうの謂い(当然のことながら、刃の一部が欠けもするではあろう)のようである。]、皮(かは)のみ少しそげ、薄手(うすで)故、猪は彌(いよいよ)たけりて、再び飛懸り來るまゝ、又、同じ所を、つゞけ打に二刀(ふたかたな)まで切割に、先のごとく、刄(やいば)飛(とん)で、皮のみ、そぎ落したれども、始より三太刀の疵に、急所の痛手故にや、猪は直下(ぢきした)の谷へ落(おち)て、くるひ?り居たり。この二度目の身の背(そむ)けかた[やぶちゃん注:二度目に脇差を揮った後、防禦のために体をかわした、その道玄のやり方が。]、惡鋪(あしく)、腹より胸へかけて牙にかけ破られ、衣類も懸割(かけわり)て、よほど手負(ておひ)、血、夥敷(おびたゝしく)流れ出れ共、中々、其疵を手當する有餘なく、是はけしからぬ事に逢(あひ)たり、賴み切たる覺(おのえ)の脇差さへ、骨、堅くして、刄(やいば)飛(とん)で切割(きりわる)事もならず、今、此所(このところ)にて命を落すべし、殘念至極なりと思ふ隙もなく、直(ぢき)に續ひて、二疋目の猪、かけ上り來りたるまゝ、今にこりて、今度は心せきこみ[やぶちゃん注:焦って。]、少し早く開(ひらき)て切(きり)たる[やぶちゃん注:切り払う際、先ほどよりも少し大きく広く手を開いて、ずん、と払ったであろう。その仕儀が効を奏することとなる。]まゝ、猪の鼻の先を切落(きりおと)したり。幸ひに、鼻は至ての急所なれば、少しの疵にても、屛風を倒す如く、ひつくり返りて、是も谷へ落て、先(せん)の手負と二疋、うめき?る。又、引續きて、今一疋の猪、猛り來りたり。所詮、眞向を切ては、又、先(せん)のごとく、刄(やいば)飛(とん)で切割兼(きりわれかぬ)べし、今度は足を薙(なぐ)べしと、身を背(そむ)けて[やぶちゃん注:体をかわして。]、前足を二本ともに切落(きりおと)せし故、是も直下(ぢきした)の谷間へ落行(おちゆき)て、三疋うめき居たる有さまは、まだ、すさまじき事なれども、中々、巖石(がんせき)へ飛揚(とびあが)り來る勢(いきほひ)もなき故、漸(やうや)く先(まづ)、ほつと息をもつぎたれども、何分、小高き山の腹にて、片手は木に取付(とりつき)居、片手にては拔身を持居(もちい)、進退も自由ならねば、先々(まづまづ)、平場(ひらば)へ下(お)りて疵口(きづぐち)も見ばやと、先(さき)の所へ下(お)り立つと、猪は三疋とも、直傍(ぢきかたはら)の谷間に、のたり居たれども、夫(それ)を見向(むき)もせず、先(まづ)、帶を解(とき)て、かけられたる所を見るに、木綿(もめん)の綿入(わたいれ)二枚に絹の胴着、すつかりと利劍(りけん)にて切裂(きりさき)たる如くに成(なり)、襦絆(じゆばん)もきれて、腹の眞中(まなか)よりあばらかけて、右の肩のかたへ、八、九寸の曳疵(ひきいづ)なり。淺ききづながら、牙にてかけ破りし故、(のり)[やぶちゃん注:血糊であろう。但し、この漢字にはそのような意味はないと思われる。]夥敷(おびたゝしく)、懷中(くわいちう)に滿(みち)て、手當(てあて)成難(なしがた)く、依(よつ)て下帶(したおび)にて能(よく)卷(まき)て、しつかりと結び、【、此疵の痕(あと)を見たり、餘程の大疵なり、其時の事、思ひ合さるゝなり。】漸く少し氣も落付(おちつき)て、つくづく思ふに、皆の者共、我等への馳走に、段々、猪を此所へ追集(おひあつむ)るとて、あのごとく、谷々にて鐡砲を打(うて)ば、今に又、此所へ猪多く集り來るべし、血氣にはやり、よしなき事を好み、遂に獸(けもの)と勇(ゆう)を爭(あらそ)ひ、半(なか)ばにもならぬ命を、けふ此所にて非業(ひがふ)に死果(しにはつ)る事と見えたり。扨々、殘念至極、うかうかと不了簡なる事せしと、頻りに後悔をなし、勇氣もたゆみ果(はて)たれども、此姿にて憂へ居ても仕方もなしと、氣分を引立直(ひきたてなほ)し、先(まづ)、三疋迄は仕留たる事故、申譯は有けれども[やぶちゃん注:それで体裁は一応はつくけれども。]、頭骨を割たるは切兼(きりかね)て、三刀(みかたな)迄、片(かた)はづりと成(なり)[やぶちゃん注:ただ一方の頭部の皮をはつっただけのこととなってしまい。]、其外、鼻を切(きり)、足を切などして、皆々、見せ苦敷(ぐるしき)切樣(きりやう)也[やぶちゃん注:とてものことに、見苦しい斬り刻みようで、武芸の弟子である猟師たちに見せられるような代物ではない。]。重(かさね)て來らば、せめて一疋は胴切(どうきり)か、又はから竹わりに致度(いたしたき)もの也。今度は足場よき此所にて、刀(かたな)にて切割べしと思ひて、脇差を木の枝にかけ置て待(まつ)内に、直傍(ぢきかたはら)の山を、又、大猪(おほゐ)十一疋迄、連立(つれだち)て駈行(かけゆく)故、如何(いかゞ)はせまじと思へども、所詮、けふは此所にて獸(けもの)の爲に落(おと)す命、何(なに)にかせん、一疋も澤山に切て、死後の笑ひを防(ふせ)がばや、と所存を極め、不敵にも又、右の猪へ、ヲヽイと聲を懸(かく)ると、忽ち、取(とつ)て返して來りたり。【猪は聲を懸ると必(かならず)返し來る物となり。】其十一疋、殘らずつれ立(だち)て、簑毛(みのげ)を逆(さか)にたて、がりがりと齒をならし、狂ひ來(きた)る勢ひ、荒らかに、尖(するど)きとも何とも譬へがたも、なし。先(まづ)、最初、飛懸り來るを、今度は能(よく)開きて、胴中を眞二(まふた)つに切割(きりわる)に、何のざうさもなく、二つに切放したり。續ひて來(きた)るをも、又、引はづして、その通りに切放すに、快く手もなく切(きれ)たり。是は妙成(めうなる)事也、是にては何十疋來(きた)るとも、一討(ひとうち)づゝにて切殺(きりころ)すべしと、忽ち心も勇み立(たち)、大ひに勢ひを增して、懸り來る每(ごと)に胴切にして、續けて八疋迄、切放したり。其内に、三疋は、何(いづ)れへそれしか、行方(ゆきがた)をしらざりしと。誠に十疋もむれ來りて、八方より飛付來(とびつききた)るを、左右へ身を背(そむ)け、おもふ存分に切割たるは、實(じつ)に勵敷(はげしき)[やぶちゃん注:「激しき」「劇しき」。]事ながら、甚だ心地能(こゝちよき)事にて、此切味(きれあぢ)を知(しつ)て後は、猪を切(きる)は何の造作(ざうさ)もなき事なり、心得置べし迚(とて)、よく教へ呉たり[やぶちゃん注:ここは聴き手である想山に、の意であろう。]。先(まづ)、猪の猛り來(きた)る時は、がりがりがりと牙を嚙(かみ)ならす音すさまじく、人に向ひて簑毛を逆(さか)に立(たて)て、怒り來(きた)る時の、其早く尖(するど)き事は矢の如く、其間(あひ)、六、七間[やぶちゃん注:約十一メートルから十三メートル弱。]に成(なる)と、いかにも小(ちひさ)き尾をヒヨイと立(たつ)る也。尾を立(たて)たりと思ふと、突付來(つきつけきた)ると同時也。仍(よつ)て、彼(かの)尾をヒヨイと立(たつ)ると見るより、直(ぢき)に傍(かたはら)へ披(ひら)きて切(きる)と、いつにても二つ切(ぎり)に成(なり)、一向、六(むる)か敷(しき)ものに非ず、若(もし)、誤りて頭(かしら)を討(うて)ば、匁物(はもの)、飛(とん)で、中々、切らるゝものにてはなし、能(よく)心得置べき事。又、引はづして通しやれば、十間も廿間も[やぶちゃん注:十八メートルから三十六メートル強までも。]一文字(もんじ)に行過(ゆきすぎ)て、夫より輪を懸(かけ)て?り來(きた)るゆゑ、假令(たとひ)、何度切損(きりそん)じても、二度目、懸り來(きた)るは急成(なる)ものに非ずと也。猪は巖石荊棘(がんせきけいきよく)の中(なか)はもとより、絶壁懸崖(ぜつぺきけんがい)の間を(あいだ)を駈步行(かけあるく)事、平地(ひらち)を步行(ある)く通りなれば、必(かならず)、平地の勝負がよき也とぞ。扨、切味、覺(おぼえ)たれば、何程(なにほど)も出來(いできた)れかしと思ふ内に、四方の鐡砲の音も止(やみ)たり。然(しか)れども、思ひ寄(よら)ず、數疋(すひき)、見事に切殺せし事故、恥敷(はぢかし)からぬ働(はたらき)ながら、扨々、危きことにて、呉々(くれぐれ)も恐ろ敷(しき)目(め)に遭(あひ)たりと、ほつと息をつぎ居たる所へ、主人、猪の皮を三枚と、犬程の猪を一疋背負(せおふ)て來り、此猪は好(よき)加減の故、今夜御振舞申すべし迚、持參りたりといふ。扨、此所の有樣を見て、さすが先生故、見事成(なる)御仕留なりと感心なし呉(くれ)、かれ是と危(あやう)かりし事ども咄し居る内に、外の者も、皆々、二、三疋づゝ、皮を持(もち)て揚り來たり。まだ初(はじめ)に討(うち)し三疋の猪は、其儘死せずに、傍に苦しみのたり居しを、歸り來りたる者共、乘懸(のりかゝ)りて、未だ死切(しにぎら)ざるを喉より截割(たちわり)、皮を剝(はぎ)、膽(きも)をとり、殘りの猪も、皆々懸りて、忽ち皮も取、膽もとり出(いだ)したり。其内に、十六、七歳成る童上(わらべあが)りの何とか云者、遲く戾り來り、此躰(てい)を見ていふ樣、是は先生とは、思ひの外、大馬鹿成(なる)事をなされしぞ、折角殺しても何の役に立(たつ)べき、夫(それ)をしたり顏(がほ)なるは、片腹痛(かたはらいた)き事也、見下(みさ)げ果(はて)たる先生成(なり)とつぶやく。是は胴切にせし故、皮の直段、半ばにもならぬ故也といへり。扨、能々(よくよく)聞訂(きゝたゞ)すに、皮に疵付ては、とりても値(ね)にならず、骨折ぞん故、駈來(かけきた)る猪に引組(ひきくん)で喉を突く、急所故、一突(つき)にて弱り、尤(もつとも)、夫(それ)なりに死(しに)きらぬを、直(すぐ)に先(まづ)、皮を剝取、夫より膽もとりて、素(もと)より肉と骨は其儘捨置(すておく)事なれば、道玄が祕術を盡して、立派に打留(うちとめ)たりと思ひの外、童等(わらべら)に笑はれて、初て、皮に疵を付(つけ)ぬ樣に取事を知たりと。又、かの向(むかふ)の山にて、犬が猪に吠懸りたる時に、遙(はるか)遠方(えんばう)ながら、オヽイオヽイと聲を懸遣(かけつか)はすと、直(ぢき)、犬に勢ひ付(つき)、猪は劣(おと)りて、怪我なきものゝ由なるに、餘り遠方故、聲懸たりとも詮なき事と思ひ、聲懸ざりしゆゑ、忽ち犬はかけ殺されたりと也。かの主人、此犬の死(しに)たるを、殊の外、殘念がり、甚だ歎きし由。犬は雌犬の白ならでは、用に立兼(たちかぬ)るもの也と。總て此邊(このへん)にては、猪のさかるときは、内中(うちぢう)の者、山へ入込、七、八疋づゝはとり來り、夫を渡世とする事とぞ。猪一疋とれば、皮が二百文計(ばかり)、膽が三百文計、まだ何か二百文計となりて、都合七百文程[やぶちゃん注:江戸後期では現在の一万二千六百円から一万六千百円ほどか。]にはなる事とぞ。此七百文を取(とる)とて、猛獸と勇を爭ひ、日々、命がけの勝負のみをなして、僅の生涯を送ると云も、此上もなき危き事也。北國にて熊を捕(とる)には、雪中に、熊の穴へ薪(たきゞ)をなげ入(いれ)て熊を怒(いか)らせ、遂に長さ壹間[やぶちゃん注:一メートル八十二センチメートルほど。]計の手槍を以、月の輪を突(つき)て仕留(しとむ)る事也。若し、突損じぬれは、熊の掌(てのひら)にて槍の穗先を握るに、丈夫なる槍の身、三ッ四ッにをれ、碎く。左有(さあ)れは、獵者(れふしや)も、忽(たちまち)に攫(つか)み殺さるゝとの事等、具(つぶさ)に南谿が東遊記に記し、又、作州(さくしう)[やぶちゃん注:美作(みまさか)国。現在の岡山県東北部。]にて鷲(わし)を打(うつ)には、猿を置餌(おきゑ)となして、鷲のほろ羽[やぶちゃん注:腋羽(わきばね)。鳥類、翼の付け根の下面(腹面)にある羽。]の下のあたりを、錢砲にて打事也。一打にていかぬ時は、早(はや)ご[やぶちゃん注:「早具(はやご)」 は「早合(はやがふ)」で、小銃の弾丸を発射させるのに用いた火薬を詰めた紙製の小さい筒、現在の薬莢をこう言う。そうすると、ここで言っているのは空砲を撃つことであろうか?  しかし、それでは以下のシチュエーションと齟齬するから、ここは私は二番の実弾を手早く込めて撃つことと解釈する。大方の御叱正を俟つ。]を込(こめ)て打也。それを打損ずれば、鷲、大に怒りて、滅相にてねらふ[やぶちゃん注:確信犯でただただ撃ち殺そうとする。]をしりて、猿は勿論、人をも曳裂(ひきさく)事、折にふれてはある事なれども、先(まづ)、打損ずる事は一向になきとの事、周遊奇談に見え、其外、越中富山滑(なめ)り川(かは)の大蛸は、牛馬を取喰(とりくら)ひ、漁舟(ぎよしう)を覆(くつが)へして人をとれり。漁人、是を捕ふに術(じゆつ)なし。故に船中に空寐(そらね)して待てば、蛸、窺ひ寄(よつ)て手を延(のべ)、舩(ふね)の上にうち懸(かゝ)るを、目早(めばや)く鉈(なた)を以て其足を切落し、速(すみやか)に漕歸(こぎかへ)る。其危き事、生死(しやうじ)一瞬の間(ま)に關(かゝは)る。誠に壯子の戰場に赴き、命を塵埃(じんあい)より輕んずるは、忠、又、義によりて人倫を明かにし、或は天下の暴惡(ばうあく)を除(のぞか)んが爲なり。されども、蛸の足一本にくらべては、紀信(きしん)義光(よしみつ)か義死といへども、あはれ物の數にはあらずかしとの事、山海名産圖會に見えたり。皆、同日の談にして、いづれも危き渡世也。武門の家に生れても、かく太平の御世に出合、弓は袋、太刀は鞘に納め、枕を高ふして、華車風流(くわしやふうりう)を事として生涯を終ると云は、恐ながら、皆、東照宮の神德、仰(あふぐ)も愚成(おろかなる)事也。心得違(ちが)ふべからず。

[やぶちゃん注:「南谿が東遊記に記し」「卷之一」の越中の熊捕りを述べた「熊突」。以下。例の東洋文庫版の気持ちの悪い新仮名新字体で示す。挿絵も添えた。

    *Kumatuki 加賀、越中は世に名高き熊多き所也。熊胆(ゆうたん)なども此辺より出ずるを極上の品と定む。余越中に在りし時、飛驒境(さかい)の山中の人に出会いて、熊を取ることを聞くに、其猟者(りょうしゃ)も亦勇猛なり。冬に到(いた)り雪降積(ゆきふりつも)もる時は、熊皆(みな)穴に入り住む。其時猟者ども薪木(たきぎ)を多く持行(もちゆき)きて、熊の住める穴の中に投入(なげい)るるに、熊怒りて其薪木をうしろの方へ押し(おし)やる程に、穴の奥の方次第につまりて、其熊段々に穴の口の方へ出(い)で、ついには穴皆つまりて、熊穴の外へ出ずる時、長さ一間斗りの手鎗(てやり)を持って、月輪(つきのわ)のあたりをねらいて突くなり。熊突かれながら其鎗をかなぐり捨てんとして引く程に、弥(いよいよ)鎗深く身を貫く。猟者は始終其鎗をはなさず取付き居て、加勢の猟者を待つ。加勢の猟者走りかかりて、まさかりを以て、熊の頭(かしら)を打ちて取ること也。もし鎗を突損(つきそん)じぬれば、熊の掌(たなごころ)にて鎗の穂先を振るに、丈夫なる鎗の身三つ四つに折れ砕く。左あれば、猟者もつかみ殺さるることなり。

 余是を聞きて、「かく手詰(てづめ)[やぶちゃん注:安易にして有利に進める望みのない状態。]の危き働(はたらき)をせんよりは、など鉄砲にてはうたざる」といえば、「鉄砲は猶あやうし」という。「いかに」というに、「もし月輪を打はずす時は、たとえ鉄砲の玉熊の身を貫くといえども、忽ち飛かかりてつかみ殺すなり。鎗は、猟者其鎗に取付き居る故に、飛かかる事あたわず、されば命を失うこと無し」と也。「只(ただ)手負(ておい)の熊には、中々近附きがたきもの也。手負わざる間はおだやかなるものゆえ、近附くこと甚だ自由なり」と語れり。

 誠に漁者(ぎょしゃ)は水に勇(ゆう)に、猟師は山に勇あり。盗賊は又利欲に勇ありと思わる。

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「周遊奇談」昌東舎真風(しょうとうしゃしんぷう)著の奇談集「諸国奇談漫遊記」か。同書の内題は「周遊奇談」。文化三(一八〇六)年刊と推定される橘南谿「東西遊記」の影響も窺われる作品らしい。所持しないので、当該部を示せない。

「紀信」(?~紀元前二〇四年)は漢の劉邦に仕えた秦末の武将。ウィキの「紀信」によれば、紀元前二〇七年の「鴻門の会」で劉邦が項羽から逃れた際、『樊噲・夏侯嬰・靳彊らとともに参軍として劉邦を護衛し』、紀元前二〇四年の夏六月、『項羽率いる十万の軍勢が滎陽』(けいよう)『城(河南省)の漢軍を包囲した。食糧が尽き落城寸前に陥った時に、陳平は劉邦に対して、紀信が劉邦に扮して楚に降服するふりをして、その隙に劉邦が逃亡する策(金蝉脱殻の計)を進言した。紀信はその献策を受け容れて、まもなく劉邦は陳平ら数十騎と共に成皋城に脱出した。囮となった紀信は項羽によって火刑に処された』。『宋代に忠佑安漢公、元代に輔徳顕忠済王、明代に忠烈侯の諡号などを贈られている』とある。

「義光」護良(もりなが)親王の忠臣として知られる村上義光(よしてる ?~元弘三/正慶二(一三三三)年)のことであろう。元弘の変(一三三一年)の攻防に際し、子義隆とともに護良親王に従い、笠置山が落ちた後に高野山に逃れる親王を助けた。後、親王の籠っていた吉野城に幕府軍の攻撃がかけられた際、親王の身代りになって自害し、親王を落ち延びさせた。

「山海名産圖會」に載るという「越中富山」滑川」「の大蛸」の話は、早稲田大学古典総合データベースのこちらで視認出来る。図はこちら

 以下は最後まで底本では全体が二字下げ、原典では一字下げ。]

因に云、三山六海一平地(ぺいち)とて、世界は山三分(ぶ)海六分にて、平地(ひらち)は僅成(わづかなる)事也。仍(よつ)て山國に生れて、山獵(やまれふ)を事とする人は、斯のごとき事は珍敷(めづらし)からざれども、平原・都會の地に住(すめ)る人は、斯の如く手詰(てづめ)の働きをしらず。少しは心得にも成べきかと書付置ぬ。其時、道玄が兩刀の作人[やぶちゃん注:刀と脇差の刀匠の名。]も聞置(きゝおき)、且、地名幷(ならび)に主(ぬし)の名、又、月日等も委敷(くはしく)聞置しに、一度忘れて後は、如何とも思ひ出(いで)ず。今は道玄も黃泉(わうせん)の客の數に入ぬれば、尋樣(たづねやう)もなし。まだ、猪を組留(くみとめ)たる咄等は色々有て、外集にも書載置たり。[やぶちゃん注:「外集」は既に述べた通り、第二次世界大戦の空襲で焼失して現存しない。]

右、縣道玄十六歳の時、只一人、信州高遠より遠州秋葉山(あきはさん)へ行迚、いづれの村やらんへ通り懸ると、此程は、此先の往來へ豺(やまいぬ)[やぶちゃん注:狼。]出(いで)、七つ過(すぎ)[やぶちゃん注:凡そ午後五時以降。]よりは通行成(なり)がたき故、此所に宿り申べしと云て、達(たつ)て留(とむ)るまゝ、左候はば、竹壹本(ぽん)もらひ度(たき)迚、切(きり)とり、卽座に竹槍を拵(こしらへ)て持行(もちゆき)たりしに、果して狼數疋(すひき)出(いで)たるを、勵敷(はげしき)働(はたらき)をなして、三疋迄、突殺せし事ありと、知り居(ゐ)しもの、道玄の死後にに咄たり。仍(よつ)て委敷(くはしき)事知れず。又、常陸の國の何(いづ)れにてか、細き野道にて、馬に乘來(のりきた)る浪人の理不盡に慮外せし儘、道玄、腹立(はらたち)て、馬と共に、一時(いちじ)に取(とつ)て、深田(ふかた)へ投込(なげこみ)たる甚敷(はなはだしき)事有(あり)。此咄は、、直(ぢき)に聞置たれども、猶、委敷(くはしく)聞訂置(きゝたゞしおか)ざる内に、忽ち、なき人となりぬれは、いかにも殘り多し。呉々も、物は時を失ふまゝ、緩滯(くわんたい)には成置間數(なしおくまじき)事也。

[やぶちゃん注:「緩滯」「緩帯」と同義であろう。急がずにのんびりとしていること。]

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