フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 僕の愛する「にゃん」
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第六章 動植物の增加(2) 二 アメリカの牛馬 | トップページ | 進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第六章 動植物の增加(4) 四 植物の急に增加した例 »

2017/06/11

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第六章 動植物の增加(3) 三 オーストラリヤの兎

 

    三 オーストラリヤの兎

 

 ヨーロッパからオーストラリヤに輸入した兎が暫くの間に非常に殖えて、今では始末に困るやうになつたことは、殆ど知らぬもののない位に有名な話である。何時頃移殖したか詳しいことは解らぬが、ヨーロッパ人がオーストラリヤに移住したのが、今より僅に二百二十九年前、タスマニアには二百二十四年前、ニュージーランドには百八十九年前であるから、兎の輸入せられたのは、無論之より餘程後のことに違ひない。然るに今日の兎の夥しいことは實に非常なもので、汽車の窓から見ても、そこにもこゝにも野兎の跳んで居るのが見える程である。元來オーストラリヤといふ處は、獸類といへば皆カンガルーの如き腹に袋を有する類ばかりで、普通我々の見るやうなものは一疋も産せず、またニュージーランドの如きは一種の蝙蝠を除く外は、獸類といふものは全く居なかつた。斯かる所へ何疋かの兎が入り來つたこと故、食物は素より澤山にあり、敵は皆無といふ有樣で、兎の繁殖を妨げるものが何もなかつたので、忽ちに增加して終に今日の姿になつたのである。

[やぶちゃん注:「兎」哺乳綱ウサギ目ウサギ科ウサギ亜科 Leporinae のウサギ類。ウィキの「ウサギ」によれば、『南極大陸や一部の離島を除く世界中の陸地に分布している。ペットとして持ち込まれたものも多く、オーストラリア大陸やマダガスカル島には元々は生息していなかった』とある。

「今より僅に二百二十九年前」本書は東京開成館から大正一四(一九二五)年九月に刊行された新補改版(正確には「第十三版」)であるから、そこを起点とするなら、一六九六年になるが、どうも数字が具体過ぎるのが気になるのだが、どうもピンとくるエポックではない(幾つかの版に於いて丘先生は律儀に数字を刊行時に合わせて修正していることが窺えるのだが。例えば、明治三七(一九〇四)年刊の初版は「二百十五年前」となっている)。ウィキの「オーストラリアによれば、一六〇六年に『当大陸に最初に到来した白人はオランダ人』地理学者(地図製作者)Willem Janz(ウィレム・ヤンスゾーン 一五七一年~一六三八年)『であった。だが、赤道付近の熱帯の北部地域に上陸し、その周辺のみしか探索しなかったため、植民地には向かないと判断し、オランダ人は入植しなかった』。一七七〇年に『スコットランド人のジェームズ・クックが温帯のシドニーのボタニー湾に上陸して領有を宣言し、入植が始まった。東海岸をニュー・サウス・ウェールズと名付けた。アメリカの独立により』、一七八八年から『アメリカに代わり』、『流罪植民地としてイギリス人の移民が始まった。初期移民団』千三十人のうち、七百三十六人が囚人(男五百八十六人・女二百四十二人という説がある)で、『その他はほとんどが貧困層の人間であった。また、当時は軽犯罪でも当地に流刑されたという』。一七九一年の第二回囚人護送は千十七人で、航海中に二百八十一人が死んだが、『植民地での食糧難を加速させたため、政府は』一年を待たずして自由移民を募り、『農地を拡大させた』。一八二八年に『全土がイギリスの植民地となり、開拓が進んだ。内陸を探検し、農牧地を開拓した。その段階で先住民のアボリジニから土地を取り上げて放逐、殺害した』とある(下線やぶちゃん)。或いは初版時の経過記載自体が誤りだったのを気づかずに、小手先で修正を施した気になっておられた可能性もある。ウィキの記載を信ずるなら、本底本から一七七〇年は百五十五年前となる(初版時なら百三十四年前)。どうも何か一致点のない数字で甚だ注するに困る。

「タスマニアには二百二十四年前」ウィキの「タスマニアによれば、一八〇三年に『シドニーから最初の植民が行われた。初期の植民者は流刑囚とその看守であり、南東部のポート・アーサーと西海岸のマッカリー・ハーバーが流刑植民地となった』。一八二六年十二月三日に『ニューサウスウェールズ植民地から分離した。オーストラリアの植民地政府としては』二『番目の古さである。島の原住民タスマニア・アボリジニ』とは一八三〇年代まで「ブラック・ウォー」と『呼ばれる戦争を起こしたが、タスマニア・アボリジニたちはフリンダーズ島へ強制移住させられるなど激減し、純血のタスマニア・アボリジニは、ハンティングの獲物とされたといった悲劇を経て』、一八七六年に純粋なアボリジニは『絶滅している』。本底本から「二百二十四年前」は一七〇一年で百年も前にずれてしまっている(初版は「二百年前」となっている)。やはり、丘先生の思い違いのままだだったものが、初版からずっとただ数値を変えるだけで温存されてしまったもののように思われる

「ニュージーランドには百八十九年前」初版は「百六十五年前」。ウィキの「ニュージーランドによれば、ヨーロッパ人で初めて現在のニュージーランド諸島を「発見」した(マオリ族が先住していた)のはオランダ人探検家アベル・ヤンスゾーン・タスマン(Abel Janszoon Tasman 一六〇三年~一六五九年)で、一六四二年十二月のことであった。彼が訪れてから百年以上の後に、イギリスの海軍士官で探検家のジェームズ・クック(James Cook 一七二八年~一七七九年)が一七六九年から翌年にかけて訪れ、島全体及び『周辺の調査を行った。この調査の結果、ヨーロッパ人の捕鯨遠征が始まった。その後、イギリスを始めヨーロッパ各地からの移民流入が始まった』。一八三〇年代『前半に、ロンドンに植民地会社が組織されると、移民はさらに増加した』。一八四〇年の二月、『イギリスは、先住民族マオリとの間にワイタンギ条約を締結し、イギリス直轄植民地とした』。一八六〇年代には『入植者とマオリ族との間で土地所有をめぐり緊張が高まり』、一八四三年と一八七二年、二度に渡って、戦争が勃発したが、鎮圧されたとある。本底本から「百八十九年前」は一七三六年。前ほどではないにしても、やはり前にずれ過ぎている。]

 

 一寸考へるとかやうに兎が多く居れば、之を捕へてその肉を食ひ、その毛を織つたならば、最も利益がありさうであるが、實際は大反對で、政府が兎退治のために費した金だけでもなかなか莫大なものである。全體オーストラリヤは世界の牧羊場ともいふべき處で、盛に羊を飼つて居るが、兎の餌とするものは卽ち羊の食物なる牧草故、兎と羊とは到底兩立することが出來ず、兎が殖えて牧草を食へば、羊を飼ふことが困難になり、牧場の地價も百圓したものが五十圓に下るとか、處によつては全く牧羊の見込がなくなり、隨つて地所も無代價になつた場合がある。また野菜も兎が好んで食ふ故、畑を造ることも出來ぬ。それ故、オーストラリヤではむづかしい法律を設けて兎の撲滅を計り、時々聯合の兎狩を催したり、また年に幾度か日を定めて毒を煉り交ぜた團子を地面に撒くことを勵行したりして、恰もペスト流行の際の鼠狩と同樣な騷をして居る。斯くすれば、兎は何萬とも數えられぬ程に取れるが、餘り多過ぎるので如何ともし難く、たゞ山に積んで腐らすばかりであつた。今では之を冷藏して輪出し、每年數百萬疋もヨーロッパヘ送るが、この位なことでは兎の數はまだなかなか減らぬやうである。

[やぶちゃん注:「煉り交ぜた」「練り混ぜた」に同じい。]

 ニュージーランドでは近來豚も非常に殖えて、農業に著しい害を及ぼす程になつた。ネルソンといふ一縣だけでも、二十箇月間に二萬五干疋の野豚を狩り取つたとのことである。

[やぶちゃん注:「ネルソン」ニュージーランドの南島北端部に位置するネルソン地方(Nelson Region)。現在はワインの産地として知られる。]

 

« 進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第六章 動植物の增加(2) 二 アメリカの牛馬 | トップページ | 進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第六章 動植物の增加(4) 四 植物の急に增加した例 »