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2017/06/01

柴田宵曲 續妖異博物館 「佛と魔」(その2)

 

「十訓抄」の天狗は自分の命を救はれた恩に報ゆるため、靈山大會の幻術を見せたのであるが、天狗が佛に現ずる話は先例がないでもない。醍醐天皇の御代といふから、今の話より少くとも百年以上前である。五條の道祖神のあるところに、成らぬ柿の木といふ大木があつた。大和から瓜を馬に載せて運ぶ者が、不思議な老人に出過つて、持つて來た瓜を全部失ふ話も、慥か成らぬ柿の木の下であつたから、かういふ奇譚に緣のある木なのかも知れぬ。この柿の木の上に佛の現じ給ふ事があつて、微妙の光りを放ち、樣々の花を降らせ、極めて貴く見えたので、京中の人の集まること引きも切らず、車も立たぬ有樣であつた。その時、光の大臣だけはこれを信ぜず、まことの佛が木の上などに俄かに現じ給ふ筈がない、天狗などの所爲であらう、外術は七日を過ぎるものでないから、今日行つて見ようと思ひ立ち、裝束を整へ、枇榔毛(びらうげ)の車に乘つて出かけられた。その日もやはり人が集まつてゐたのを立ち退かせ、車をとどめ榻(しぢ)を立て、簾を卷き上げて見ると、柿の梢に佛の姿が見える。金色の光りを放ち、虛空より花を降らす有樣、噂の通りであつたが、大臣頗るこれを怪しみ、一時ばかり見守つてゐたら、なほ暫くは光りを放ち、花を降らせたものの、忽ち大きな屎鵄(くそとび)が翼も折れたやうになつて落ちて來た。鵄は地に落ちても死んだわけではなかつたのを、子供達が打ち殺してしまつた。

[やぶちゃん注:「醍醐天皇の御代」在位は寛平九(八九七)年~延長八(九三〇)年。

「大和から瓜を馬に載せて運ぶ者が、不思議な老人に出過つて、持つて來た瓜を全部失ふ話」は「今昔物語集」の「卷第二十八」の「以外術被盜食瓜語第四十」(外術(ぐゑずつ)を以つて瓜を盜み食はるる語(こと)第四十(しじふ))。既に先行する本書の「大和の瓜で語られ、そこで私が原話も電子化済みである。

「光の大臣」「ひかるのおとど」と読む。仁明天皇の第十一皇子で公卿の源光(みなもとのひかる 承和一二(八四五)年~延喜一三(九一三)年)のこと。正二位・右大臣。なお、彼が右大臣に叙任されたのは昌泰四(九〇一)年正月で、これは前職菅原道真失脚(光もその謀略の張本人の一人とされる)の後人事であった。その十二年後、光は鷹狩に出、不意に塹壕の泥沼の中に転落、溺死した上、遺体が上がらなかった。世人はこれを道真の怨霊の仕業として畏れ慄いたと伝えられる(後半部はウィキの「源光(公卿)」に拠った)。言わずもがなであるが、「源氏物語」の主人公光とは無関係で、モデルでもない。話者自体はずっと後代になってこの話を語っているのであるから、当時は大臣ではなかった彼を「光の大臣」と呼んでも何ら誤りではない。

「外術」(げじゆつ(げじゅつ))はここでは仏教や朝廷の認めた公的な陰陽道を外れた妖しくまがまがしい目くらましの幻術・魔術の意。

「七日には過ぎず」この幻術の有効期間の根拠は不詳。

「檳榔毛(びろうげ)の車」白く晒した檳榔(単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビロウ Livistona chinensis のことで、ヤシ目ヤシ科ビンロウ Areca catechu とは全くの別種なので注意が必要である(諸注はこれらを混同しているか或いは逆にした誤った記載が思いの外、多いように私には感じられる)。ウィキの「ビロウ」によれば、ビロウ Livistona chinensis は『東アジアの亜熱帯(中国南部、台湾、南西諸島、九州と四国南部)の海岸付近に自生し、北限は福岡県宗像市の沖ノ島』とある(ビンロウ
Areca catechu の方は本来は本邦には自生していないと思われる)の葉を細かく裂いて屋根及び側面を覆った牛車で、よく知れる牛車の側面にある物見(窓)はないのが普通らしい。前後は赤い蘇芳簾(すおうすだれ)で、その内側の下簾(したすだれ:前後の簾の下から外部に長く垂らした絹布。多くは生絹(すずし)を用い、端が前後の簾の下から車外に出るように垂らし、女性や貴人が乗る場合に内部が見えないように用いた。)は赤裾濃(あかすそご:裾に向かって徐々に糸の色が赤く濃くなる染め技法をいう。)。上皇以下・四位以上の上級貴族が乗用したが、入内する女房や高僧なども用いた。檳榔がない場合は菅(単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属 Carex )の類を用いたようである。

「榻(しぢ)」牛車(ぎつしや)の道具の一種。牛車を牛から外したとき、前方に左右に突き出た「轅(ながえ)」の前方先端でその二本を繫げて牛を止める「軛(くびき)」を載せる台。これはまた、牛車から乗り降りする際の踏み台としても用いた。なお、これは車添いの者が持ち運んだ。

「屎鵄(くそとび)」鳥綱タカ目タカ科ノスリ属ノスリ Buteo japonicusトビ(タカ科トビ属トビ Milvus migrans:全長は約六〇~六五、翼開長は約一五〇~一六〇センチメートル)よりも一回り小さく、全長五〇~六〇、翼開長一〇〇~一四〇センチメートルの鷹類の一種。上面は褐色で、下面は黄色味もある灰褐色で模様があり、その色彩から「糞鳶」「馬糞鷹」などの有り難くない呼称も持つていた。地上の餌を探す際に空中の一点でホバリングする特徴的な飛び方をすることがしばしばある。

 以上で梗概が語られるそれは同じ「今昔物語集」の「卷第二十」の「天狗現佛坐木末語第三」(天狗、佛に現じて木末(こずゑ)に坐(ま)す語(こと)第三)である。以下に示す。表記は参考底本とした小学館「古典文学全集」版のそれ(馬淵・国東・今野訳注/昭和五四(一九七九)年刊(第五版))を基本、使用した。されば「ぐゑじつ」等はママ。

   *

 今は昔、延喜の天皇の御代に、五條の道祖神(さへのかみ)の在(まし)ます所に、大きなる成らぬ柿の木、有けり。

 其の柿の木の上に、俄かに佛(ほとけ)、現はれ給ふ事、有りけり。微妙(めでた)き光を放ち、樣々の花などを令降(ふらし)めなどして、極めて貴(たふと)かりければ、京中の上中下(かみなかしも)の人、詣で集まる事、限り無し。車も不立敢(たてあへ)ず、步人(かちびと)、はたら[やぶちゃん注:副詞。まして。況や。]云ひ不可盡(つくすべから)ず。此くの如き、禮(をが)み喤(ののし)る間、既に六、七日に成りぬ。

 其の時に、光の大臣(おとど)と云ふ人、有り。深草の天皇の御子(みこ)也。身の才(ざい)賢く、智(さと)り明らか也ける人にて、此の佛の現じ給ふ事を、頗る心得ず思ひ給ひけり。

「實(まこと)の佛の、此く俄かに木の末(すゑ)に可出給(いでたまふべ)き樣(やう)無し。此れは、天狗などの所爲にこそ有るめれ。外術(ぐゑずつ)は七日には過ぎず。今日、我れ、行きて見む。」

と思ひ給ひて、出で立ち給ふ。日の裝束、直(うるは)しくして、檳榔毛(びんろうげ)の車に乘りて、前驅(ぜんくう)など直しく具して、其の所に行き給ひぬ。

 若干(そこばく)の諸(もろもろ)集まれる人を掃ひ去(の)けさせて、車を搔き下(おろ)して、榻(しぢ)を立てて、車の簾を卷き上げて見給へば、實(まこと)に木の末に佛、在(まし)ます。金色(こんじき)の光を放ちて、空より樣々の花を降らす事、雨の如し。見るに、實に貴き事、限り無し。

 而るに、大臣(おとど)、頗る怪しく思(おぼ)え給ひければ、佛に向ひて、目をも不瞬(まじろが)ずして、一時(ひととき)[やぶちゃん注:現在の二時間相当。]許り守り給ひければ、此の佛、暫くこそ、光を放ち花を降しなど有りけれ、強(あなが)ちに守る時に、侘(わ)びて、忽ちに、大きなる屎鵄(くそとび)の翼(つばさ)折れたるに成りて、木の上より土に落ちてふためくを、多の人、此れを見て、

「奇異也。」

と思ひけり。小童部(こわはべ)、寄りて、彼の屎鵄をば、打ち殺してけり。

 大臣は、

「然(さ)ればこそ、實の佛は、何の故に、俄かに木の末には現はれ給ふべきぞ。人の此れを悟らずして、日來(ひごろ)、禮(をが)み喤(ののし)るが愚なる也。」

と云ひて、返り給ひにけり。

 然(しか)れば、其の庭(には)[やぶちゃん注:場。]の若干の人、大臣をなむ讚(ほ)め申しける。世の人も、此れを聞きて、

「大臣は賢かりける人かな。」

と云ひて、讚め申しけりとなむ、語り傳へたるとや。

   *

 少し語注しておく。

・「延喜の天皇」醍醐天皇。この時期、形式的ながら、天皇親政が行われ、後にこれをその在位中の主たる時期の元号延喜(九〇一年~九二三年)を用いて「延喜の治」と称したことによる。なお、小学館「古典文学全集」の注によれば、以下は「帝王編年記」に昌泰三(九〇〇)年正月二十五日の事実として載る。

・「深草の天皇」仁明天皇。死後の陵墓の在所地名による異称。

・「前驅」「せんく」「ぜえん」「ぜんぐ」等とも読む。貴人の行列の先頭に立ち、馬に乗って先導する役。

・「目をも不瞬(まじろが)ずして」瞬きもせずに凝っと。] 

 

 この話は「今昔物語」の傳ふるところであるが、天狗が死んで屎鵄になる話は同じ書物に見えてゐる。讚岐國の萬能の池に棲む龍が、小蛇となつて堤の日向に居つたのを、比良の山の天狗に攫み去られた。龍は小蛇になつてはゐても、天狗には攫み殺し得ず、比良に歸つて狹い洞の中に押し込めて置いた。河童の皿の話ではないが、さすがの龍も一滴の水なくしては威力を發揮するわけに往かぬ。そのまゝ洞に閉ぢ込められて居つた。たまたま天狗が叡山から一人の僧を攫(さら)つて來て、その僧の持つ水瓶に殘つた一滴の水が、逐に龍を救ひ、僧をもとの寺へ還すことになる。龍はこの怨みを報ぜんがために天狗の所在を求め、荒法師の姿になつてゐるところを蹴殺してしまつた。「翼折れたる屎鵄にてなむ大路に踏まれける」とある。以上の天狗が鳶として人の手に捕へられるのは、かういふ場合であるかどうかわからぬが、とにかく佛の樣相を學ぶのは、天狗に取つて朝飯前の仕事だつたのであらう。叡山の老僧が靈山の大會の有樣を拜みたいと云つた時、容易にこれを引き受けてゐるのでもわかる。あの天狗は頻りに信を發してはならぬと戒めてゐたが、さうかと云つて最初から全然これを信ぜぬ光の大臣のやうな人やまた困るので、その人に一時も見詰められた結果、通力を失ひ、幻術が破れたものらしい。

[やぶちゃん注:「萬能の池」現在の香川県仲多度(なかたど)郡まんのう町にある日本最大の灌漑用溜池である満濃池(まんのういけ)。大宝年間(七〇一年~七〇四年)の頃に讃岐国の国守道守朝臣が創築したが、洪水による決壊を繰り返し、復旧に難航、弘仁一二(八二一)年に弘法大師空海が築池別当として公的に派遣されて改修したことで知られる。現在の周囲は約二十キロメートル、貯水量は千五百四十万トンに及ぶ。「満濃太郎」とも呼される。

「比良の山」広義には滋賀県中西部の琵琶湖西岸一帯の比良(ひら)山地の高峰群を指し、最高峰は武奈(ぶな)ヶ岳で標高千二百十四メートルであるが、狭義にはその南部にある修験者の霊山であった蓬莱山を指し、こちらは標高千百七十四メートル。天狗が常住する山としても古来より知られた。

「水瓶」「すいびやう(すいびょう)」と読む。修行僧が水を入れる容器。飲料水を入れる「淨瓶」と用便の後に手洗するための「觸瓶」の二種があるが、ここは以下の原典から後者である。

 以上は「今昔物語集」「卷第二十」の「龍王爲天狗被取語第十一」(龍王、天狗の爲に取らるる語(こと)第十一)。□は欠字。

   *

 今は昔、讃岐の國□□の郡(こほり)に、万能(まの)の池と言ふ、極めて大きなる池有り。其の池は、弘法(こうぼふ)大師の、其の國の衆生(しゆじやう)を哀はれがり、爲に、築(きづ)き給へる池也。池の𢌞り遙かに廣くして、堤を高く築き𢌞したり。池などとは不見(みえ)ずして、海とぞ見えける。池の内、底(そこひ)無く深ければ、大小の魚共、量り無し。亦、龍の栖(すみか)としてぞ有りける。

 而る間、其の池に住ける龍、

「日に當らむ。」

と思けるにや、池より出て、人離れたる堤(つつみ)の邊(ほとり)に、小さき蛇(へみ)の形にて蟠(わだかま)り居(ゐ)たりけり。

 其の時に、近江の國比良(ひら)の山に住ける天狗、鵄(とび)の形として、其の池の上を飛び𢌞るに、堤に小蛇の蟠て有るを見て、□鵄、反(そ)り下つて、俄かに搔き抓(つか)みて、遙かに空に昇りぬ。龍、力強き者也と云へども、思不懸(おもひかけ)ぬ程に俄かに抓まれぬれば、更に術(ずつ)盡きて、只、抓まれて行くに、天狗、小さき蛇(へみ)を抓み碎きて食(じき)せむとすと云へども、龍の用力(ようりよく)[やぶちゃん注:「膂力(りよりよく)」の借字。体筋力。]強きに依りて、心に任せて抓み碎き噉(つら)はむ事不能(あたは)ずして、繚(あつか)ひて[やぶちゃん注:扱い兼ねて。持て余して。]、遙かに本(もと)の栖(すみか)の比良の山に持て行きぬ。

 狹き峒(ほら)の可動(うごくべ)くも非ぬ所に打ち籠め置きつれば、龍、狹(せば)く□破(わ)り無くして居(ゐ)たり。一渧(ひとしづく)の水も無ければ、空を翔ける事も無し。只。死なむ事を待ちて、四、五日有り。

 而る間、此の天狗、比叡(ひえ)の山に行きて、短(ひま)を伺ひて、

「貴き僧を取らむ。」

と思ひて、夜(よ)る、東塔の北谷に有りける高き木に居て伺ふ程に、其の向ひに造り懸けたる房(ばう)有り。其の坊に有る僧、緣に出づるに、小便をして、手を洗はむが爲、水瓶(すいびやう)を持ちて手を洗ひて入(い)るを、此の天狗、木より飛び來たりて、僧を搔き抓(つか)みて、遙かに比良の山の峒(ほら)に將(ゐ)行きて、龍の有る所に打ち置きつ。僧、水瓶を持ち乍ら、我れにも非で[やぶちゃん注:呆然として。]居(ゐ)たり。

「我れ、今は限りぞ。」

と思ふ程に、天狗は僧を置くままに去りぬ。

 其の時に、暗き所に音有りて、僧に問ひて云く、

「汝(なむぢ)は此れ、誰人(たれひと)ぞ。何(いづ)くより來たるぞ。」

と。僧、答へて云く、

「我れは比叡の山の僧也。手を洗はむが爲に、坊の緣に出たりつるを、天狗の俄かに抓(つか)み取りて、將(ゐ)て來たれる也。然(さ)れば、水瓶(すいびやう)を持ち乍ら來れる也。抑(そもそ)も、此く云ふは誰(たれ)ぞ。」

と。龍、答へて云く、

「我れは讚岐の國万能(まの)の池に住む龍也。堤に這ひ出でたりしを、此の天狗、空より飛び來りて、俄かに我を抓(つか)みて此の峒(ほら)に將(ゐ)て來たれり。狹(せば)く□て、爲(せ)む方(かた)無しと云へども、一渧(しづく)の水も無ければ、空をも不翔(かけら)ず。」

と。僧の云く、

「此の持たる水瓶に、若し、一渧(しづく)の水や殘りたらむ。」

と。龍、此れを聞きて、喜びて云く、

「我れ、此の所にして、日來(ひごろ)經て、既に命、終りなむと爲(す)るに、幸ひに來たり會ひ給ひて、互ひに命を助くる事を得べし。若し、一渧(しづく)の水有らば、必ず、汝を本(もと)の栖(すみか)に將(ゐ)て至たるべし。」

と。僧、又、喜びて、水瓶を傾けて龍に授くるに、一渧(しづく)許りの水を受けつ。

 龍、喜びて、僧に教へて云く、

「努々(ゆめゆめ)、怖る事無くして、目、塞ぎて、我れに負(お)はれ可給(たまふべ)し。此の恩、更に世々(せせ)にも忘れ難し。」

と云ひて、龍、忽ちに小童(こわらは)の形と現じて、僧を負ひて、峒(ほら)を蹴破りて出づる間、雷電霹靂(へきれき)して、空陰(くも)り、雨降る事、甚だ怪し。僧、身、振ひ、肝、迷(まど)ひて、

「怖ろし。」

と思ふと云へども、龍を睦(むつ)び思ふ[やぶちゃん注:心より信頼している。]が故に、念じて負はれて行く程に、須臾(しゆゆ))に比叡の山の本の坊に至りぬ。僧を緣に置きて、龍は去りぬ。

 彼の房の人、

「雷電霹靂して、房に落ち懸かる。」

と思ふ程に、俄かに坊の邊(ほとり)、暗(やみ)の夜(よる)の如く成りぬ。暫し許り有りて晴れたるに、見れば、一夜(いちや)、俄かに失せにし僧、緣に有り。坊の人々、奇異(あさま)しく思ひて問ふに、事の有樣を委しく語る。人皆、此れを聞きて、驚き、奇異しがりけり。

 其の後(のち)、龍、彼の天狗の怨(あた)を報ぜむが爲に、天狗を求むるに、天狗、京に知識を催す[やぶちゃん注:勧進を催す。]荒法師(ああらはふし)の形と成りて行きけるを、龍、降(お)りて蹴殺してけり。然(しか)れば、翼(つばさ)折れたる屎鵄(くそとび)にてなむ、大路に踏まれける。彼(か)の比叡山(ひえのやま)の僧は、彼の龍の恩を報ぜむが爲に、常に經を誦(じゆ)し、善を修(しゆ)しけり。

 實(まこと)に此れ、龍は僧の德に依りて命を存(そん)し、僧は龍の力に依りて山に返る。此れも皆、前生(ぜんしやう)の機緣なるべし。此の事は、彼の僧の語り傳ふるを、聞き繼ぎて、語り傳へたるとや。

   *] 

 

「十訓抄」は古鳶になつた天狗の話に續けて、天竺の似た話を掲げてゐる。優婆崛多(うばくつた)といふ羅漢は天魔に恩を施したことがあり、報恩のため何にても命じられたいと申し出た時、叡山の僧と同じく、佛の有樣を學んで見せよと云つた。易き事なれども、見て拜まれるやうなことがあると、自分のために甚だよくない、ゆめ拜み給ふなといふ天魔の註文も天狗と同じ事であつた。暫くして林中より步み出るのを見れば、長(たけ)は一丈六尺、頂は紺靑、身からは金色の光りを放つてゐる。崛多これを見て不覺の淚を流し、聲を揚げたので、天魔は忽ち本の形をあらはしてしまつた。日本の天狗はこの後塵を拜したわけであるが、單なる話としては靈山の大會の方が面白い。優婆崛多の話は「今昔物語」にもほゞ同じやうに出てゐる。佛典に原話のあることは疑ふべくもない。

[やぶちゃん注:「婆崛多(うばくつた)」ウパグプタ。釈迦が涅槃に入って百年後に出たともされる、仏法を守護したアショーカ王(阿育王)の師僧ともされる、上座部仏教の尊者。

「證果」修行の結果として確かな悟りを得た状態で、しかも衆生を教化する資格「阿羅漢果」を釈迦によって認められることを指す。

「學んで見せよ」似せて演じて見せよ。後掲する「十訓抄」や「今昔物語集」の「學び」の読みは「まなび」ではなく、「まねび」である。

「一丈六尺」本邦では四・八五メートルになるが、これは中国経由の経典を原典とするから、中国の周尺換算で、三メートル六十五センチメートル

 これは宵曲の言う通り、先の「第一 可定心操振舞事」(心の操(きさを)を定むべき振舞(ふるまひ)の事」の中の「後冷泉院御位(みくらゐ)の時、天狗あれて……」の次に載る話。以下。注は附さぬ。

   *

 昔、中天竺(てんぢく)に、佛滅後百歳ばかり過ぎて、優婆崛多と申す證果の羅漢おはしけり。天魔のために、芳恩をほどこし給ふことあるによりて、何事にても、命によりて、其恩をゝくべきよしを請ひ申すに、崛多いはく、

「われ、仏の有樣、きはめて戀ひしく思ひ奉る。學び奉て見すべし。」

とのたまふ。

「やすき事なれとも、見て拜み給はば、をのれがため、きわめて惡(あ)しかるべし。」

と云ふ。

「更に禮(おが)むまじ。」

とのたまへば、

「努々(ゆめゆめ)。」

と口がためて、林中に隱れぬ。しばしありて、步み出でたるを見れば、たけは丈六、紫金(しこん)の色也。頂上の肉髮、烏瑟(うしつ)のみぐしに耀き、靑蓮の眸、丹菓(たんくわ)の唇、萬字胸、千輻輪(せんぷくりん)の趺(あなうら)、三十二相八十種好、一もかけたることなし。光明赫奕(かくやく)として春の日のはじめていづるがごとし。金山の動くがごとくして、不覺のなみだをおとし、こゑを上げて哭す。其時、天魔、本形に現はれ、頂にもろもろの骨角をかけて、瓔珞(ようらく)としたりけり。今の天狗の所變にかはらず。人倫のためにしはうちまかせたる習(ならひ)なれば、敢てしるすべからず。

   *

 「今昔物語集」のほぼ同じような話というのは、「卷第四」の「優婆崛多降天魔語第八」(優婆崛多(うばくつた)、天魔を降(くだ)せる語(こと)第八)のこと。というより、「十訓抄」より遙かに理が通っていて達意である。

   *

 今は昔、天竺に優婆崛多と申す證果の羅漢、在(まし)ます。人を利益(りやく)し給ふ事、佛の如し。亦、法を説きて、諸(もろもろ)の人を教化し給ふ。世の人、來たりて法を聞くに、皆、利益を蒙(かうぶ)りて、罪を滅す。然(しか)れば、世擧(こぞ)りて指し合へる事[やぶちゃん注:互いにぶつかり合うほどに群がり集まること。]、限り無し。

 而る間、其の庭に一人の女出で來たりたり。形㒵(ぎやうめう)端正(たんじやう)にして、有樣美麗なる事、並無(ならびな)し。其の時に、此の法を聞くの人、皆、此の女の美麗なるを見て、忽ちに愛欲の心を發して、法を聞く妨(さまた)げと成りぬ。

 優婆崛多、此の女を見、

「此れは天魔の、『法を聞きて益(やく)を得る人を妨げむ』とて、美しの女と變化(へんぐゑ)して來れる也。」

と見給ひて、女を呼び寄せへば、女、詣(いた)りたるに、優婆崛多、花鬘(くわまん)[やぶちゃん注:生け花を紐に通した首飾り。]を以ちて、女の頸に打ち懸け給ひつ。女、

「花鬘ぞ。」

と思ひて、立ち去りてと見るに、諸(もろもろ)の不浄の人・馬・牛等の骨を貫きて、頸に懸けたり。臭く、むつかしき[やぶちゃん注:気味が悪い。]事、限り無し。

 其の時に、女、本(もと)の天魔の形に成りて、取り棄てむと爲るに、更に棄うる事を不得(え)ず。東西南北に走り𢌞(めぐ)ると云へども、力、及ばず。法を聞く人、此れを見て、

「奇異也。」

と思ふ。

 天魔、繚(あつか)ひて[やぶちゃん注:困惑して。]、大自在天[やぶちゃん注:この場合は天魔の首魁天魔波旬。即ち、ここでこう言って甚だ困っている「天魔」は「波旬」の配下の天魔ということになる。しかし、これは普通の使い方ではない、「天魔波旬」は人の生命や善根を絶つ悪魔。他化自在天(第六天)の魔王のこと。「波旬」は、サンスクリット語の「パーピーヤス」の漢音写で、「パーパ」(「悪意」の意)ある者の意。仏典では、仏や仏弟子を悩ます悪魔・魔王として登場し、しばしば魔波旬(マーラ・パーピマント)と呼ばれる。「マーラ」(「魔」)は「殺す者」の意で、個人の心理的な意味合いでは、「悟り」(絶対の安定)に対する「煩悩」(不安定な状態)の、集団心理的には新勢力たる「仏教」に対する、旧勢力たる「バラモン教」の象徴と考えられているからである。]と云ふは、魔の首(かしら)也。其の所に昇りて、此の事を愁ひて、

「此れ、取り去(の)けよ。」

と乞ふ。大自在天、此れを見て云く、

「此れは、佛弟子の所爲にこそ有るめれ。我れ、更に取り去け難し。只、此の懸けむ者に、『取り去けよ』」と乞ひ請けよ。」

と云へば、云ふに隨ひて、亦、優婆崛多の許に來り下りて、手を摺りて云く、

「我れ、愚かにして、『法を聞く人を妨げむ』と思ひて、女と成りて來たる事を悔ひ悲しむで、此(これ)より後、更に此の心を發さず。願はくは、聖人、此れを取り去け給へ。」

と云へば、優婆崛多、

「汝(なん)ぢ、此れより後、法を妨ぐる心、無かれ。速かに取り去くべし。」

と宣ひて、取り去けつ。

 天魔、喜びて、

「何(いか)でか、此の事をば報じ申さむと爲(す)。」

と云へば、優婆崛多の宣はく、

「汝は佛の御有樣は見奉きや。」

と。天魔、

「見奉りき。」

と云ふ。優婆崛多の宣はく、

「我れ、佛の有樣(ありさ)ま、極めて戀し。然(さ)れば、佛の有樣を學(まね)び奉りて、我れに見せてむや。」

と。天魔の云はく、

「學(まね)び奉らむ事は安き事なれども、見て禮(をが)み給はば、己(おのれ)が爲に極めて堪へ難かりなむ。」

と。優婆崛多の云く、

「我れ、更に禮み奉るべからず。猶、學び奉りて見せよ。」

と責め給へば、天魔、

「努々(ゆめゆ)め禮み給ふな。」

と云ひて、林の中に步み隱れぬ。

 暫く有りて、林の中より步み出たるを見れば、長(たけ)は丈六、頂は紺靑の色也。身の色は金の色也。光は日の始めて出づるが如し。優婆崛多、此れを見奉るに、兼ては、

「禮まじ。」

と思ひつれども、不覺に淚落ちて、臥して音(こゑ)を擧げて哭(な)く。

 其の時に、天魔、本(もと)の形ちに顯はれぬ。頸に者の骨共を懸けて、瓔珞と爲(し)たり。

「然ればこそ。」[やぶちゃん注:天魔の台詞。「あのように申し上げましたにも拘らず、やはり恐れた通りだった……」。]

と云ひて侘びけり[やぶちゃん注:天魔は歎いた。]。

 然れば、優婆崛多、天魔を降伏(がうぶく)し、衆生を利益し給ふ事、佛に不異(ことなら)ずとなむ、語り傳へたるとや。

   *]

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