「想山著聞奇集 卷の五」 「萬木柊と化する神社の事」/「想山著聞奇集」~本文終了
萬木(ばんぼく)柊(ひゝらぎ)と化(くわ)する神社の事
[やぶちゃん注:左右のキャプション。]
南天は木振(きぶり)葉振(はぶり)とも早速(さつそく)に變じ兼(かね)、圖の如く、南天の儘にして、葉には角(かど)を生じて柊(ひゝらき)となり居(ゐ)たり。
何ぞ譯有(わけある)事にや、兎角(とかく)、人々、南天を多く納(おさむ)る事にて、纔(わづか)貮三寸より、四、五寸斗(ばかり)の納(おさめ)たての變ぜざる南天も多かれども、其中(そのなか)にも、納(おさめ)て年經(としへ)たるのにや、此(かく)のごとき小(ちひさ)きまゝ、能(よく)柊(ひゝらぎ)の葉と變じ居(ゐ)たるも數珠(すちゆう)あり。
京師(けいし)下加茂(しもがも)の攝社に、土俗、比良木大明神(ひらきだいみやうじん)と稱する社(やしろ)有。疱瘡(はうさう)の事を願ひて、願望成就の後(のち)は、先(まづ)は柊の木を上(あぐ)れども、外の木を奉るものも少からず。然(しか)るに、その木、皆、柊と變化(へんくわ)すると聞及(きゝおよ)び居(ゐ)たり。予、天保九年【戊戌】[やぶちゃん注:一八三八年。]彼(かの)地に至りし時、追々、此社(やしろ)へも參詣なし、能々(よくよく)見侍るに、神垣(かみがき)の内、方(はう)五、六間[やぶちゃん注:九メートル強から十一メートル弱。]もありつらん。種々(しゆじゆ)の木有(あれ)ども、皆、柊の葉を生じ、大躰(たいてい)、全木(ぜんぼく)、柊と成(なり)たる多し。其(その)木、椿・玉椿(たまつばき)・木穀(きこく)・山梔子(くちなし)・樫(かし)・柘(つげ)・南天・木犀・白榊(しらしやけ)・正木(まさき)等、過半、柊と變化(へんくわ)なしかけたる分(ぶん)、或は未だ捧(ささげ)たるまゝにて、僅(わづか)に變じ懸(かゝ)りたる分も有。又、植(うえ)たてにて、未だ少しも變じ懸らざる南天・正木抔(など)もありたり。右神垣の内は植(うえ)る場もなく、且、締(しま)りも有(あつ)て入難(いりがた)き故、垣(かき)の外にも、やたらに植行(うえゆく)者も有に、悉く變ぜし也。其内、右神垣の内に、接骨木(にはとこ)の木、三、四株(かぶ)もあり。何れも接骨木の葉を生じて、柊にならざる樣に見請(みうけ)たれども、押合(おしあひ)て植込(うえこみ)たる中なれば、下枝(したえだ)等は、柊と成懸り居しにや、聢(しかと)とは分り兼たり。玉椿・木犀抔は、木振葉振とも柊に似寄(により)たるもの故、變化(へんげ)懸(かゝ)りより見分けがたき程に、よき柊と成居(なりゐ)つれども、山梔子抔は、幹より小枝に至る迄、さつぱりと木振も替り居(お)れ共(ども)、夫(それ)なりに薄き葉も厚めになり、其薄き葉に角(かど)も生(しやう)し居(ゐ)て、段々、柊の葉に變化(へんげ)懸り居れども、幹などの振合(ふりあひ)は其まゝにして、木肌も未だ其儘なるも多し。中にも小(ちひさ)き南天は、別(べつし)て澤山に納め有(あり)て、未だ少しも變じ懸らざる木も多かりしが、元來、南天は木振葉振も大ひに違ひ居(ゐ)けれども、夫成(それなり)に葉に角を生じて、柊の葉となり居たり。其樣子、畫解(かきほど)き難きまゝ、形計りなれども、圖となして顯し置たり。【近世、一種、南天にして、葉形(はかた)は全く柊の如きもの舶來せり、俗に柊南天(ひゝらぎなんてん)と云、また、阿蘭陀南天(おらんだなんてん)共(とも)云いふ。尤(もつとも)、夫(それ)とは別なり。此(この)御社(おやしろ)に參らぬ人、疑ひを生(しやうず)る事なかれ。】隣家(りんか)の鈴木某(それがし)、予が上京せしより僅二年及びも早く、彼地へ參詣して見來(みきた)るには、柘榴(ざくろ)有(あつ)て花も盛に咲居(さきゐ)たれども、葉は過半、角(かど)生出(はえいで)、柊と成居たるは、別(べつし)て不思議成(なり)とて、能々(よくよく)慥(たしか)に見來り、驚(おどろき)て咄したるを、聢(しか)と聞留置し故、其木は有(ある)かと、心を留(とめ)て尋ね索(もとむ)れども、柘榴の變じたるは一株(ひとかふ)もなし。最早、悉く變化(へんくわ)して常の柊と成し事と見えたり。呉々(くれぐれ)も、神佛の利益(りやく)は、怪敷(あやしき)迄に量り難きもの也。【伊豆の國小瀨明神(こせみやうじん)の社木(しやぼく)と同談なり、此事は追(おつ)て委敷(くはしく)記す積り。】扨、此神の事は、都名所圖繪等(とう)にも見えず、何の神におはしませしにや、人に尋(たづね)ても、唯、比良木大明神と申事のみ知居(しりゐ)て、近來(きんらい)、京地(きやうち)にては、十社參り抔云(いふ)事、流行(りうかう)なし出(いだ)して、此神も、其内にて、參詣人多く、衆人のしる社(やしろ)なれども、神躰は分り兼たり。仍(よつて)猶、社説の趣を懇(ねんごろ)に聞探(きゝさぐ)るに、祭神(さいじん)は素盞烏尊(すさのをのみこと)にして、延喜式内の御神(おんかみ)にて、則(すなはち)、出雲井於神社(いづもゐお)しんしや)也といへり。大嘗會(だいじやうゑ)・新嘗祭(しんじやうさい)の御神事(ごしんじ)、みあへの祭(まつり)に關(あづか)りおはします御神(おんかみ)にて、地主(ぢしゆ)の神にして、此(この)御社(おやしろ)より西、今の京に至りて、出雲大路(いづもおほぢ)、又は出雲の郷(さと)など申地名も、此社より出(いで)し舊號(きうがう)の由。文德(ふんとく)天皇仁壽(じんじゆ)三年[やぶちゃん注:八五三年。]の夏四月、疱瘡流行、人民疫死(えきし)多く、此時、敕使、此社(やしろ)に參向の砌(みぎり)、神人(しんじん)に神かゝりおはしまし、疱瘡の疫神(えきじん)祓ひ除くべき詫宣(たくせん)おはしまして、比良木大明神と仰ぎ奉るべきよし。比良木は比々良木(ひゝらぎ)、比禮矛(ひれほこ)等(とう)の緣語(えんご)におはしますと、右社(やしろ)の舊記にも見え、又、除夜(じよや)に、人家の門戸(もんこ)の上に柊の枝を差(さし)、疫神(えきじん)を避(さけ)しも、比良木大明神の詫宣なりと申傳へし由。今の世に至りても、小兒(せうに)の疱瘡の憂(うれひ)を除(のぞか)んと、人々、此神に祈願すれば、必(かならず)、其驗(げん)有(あつ)て、疱瘡、輕(かろ)しと也。兎も角も、眼(ま)の當り、萬木(ばんぼく)、柊と變化(へんくわ)するを拜し奉る上は、神慮(しんりよ)の空(むな)しからざる事は申も愚(おろか)にて、いとも尊(たふと)き御事也。
想山著聞奇集(しやうざんちよもんきしふ)卷(まき)の五終
[やぶちゃん注:「柊」シソ目モクセイ科オリーブ Oleeae 連モクセイ属ヒイラギ変種ヒイラギ Osmanthus heterophyllus var. bibracteatus。。卵状の長楕円形をした葉の縁には先が鋭い刺となっている(老樹では消失する)。和名はこの刺に触ると「ヒリヒリと痛む」ことから、古語の当該の意の動詞である「疼(ひひら)く・疼(ひいら)ぐ」の連用形「疼(ひひら)き・疼(ひいら)ぎ」が名詞化したものである。柊は「延喜式」で邪気を祓う道具の一つである「卯杖(うづえ)」の材料の一つとして挙げられているように(但し、この起源は中国)、古えから、強靱な生命力と、それに付随する邪気や魔除けの呪力を保持する常緑樹として信じられた経緯がある。柊に餅花をつけて神饌としたり、節分に柊の葉の燃え方で一年の気象を占う風習もあり、民間療法でも柊は病気除けとして使われてきた。家居の庭には鬼門除けとして表鬼門(北東)に柊を、裏鬼門(南西)に南天の木を植えると良いとされ、また、本文に「除夜に、人家の門戸の上に柊の枝を差、疫神を避」けたと出るように、節分の夜に柊の枝と大豆の枝に鰯の頭を挿して門戸に飾る邪気払いの風習「柊鰯(ひいらぎいわし)」として今に続く(節分は古くは「追儺(ついな)」「鬼やらい」「儺(な)やらい」などと称しして大晦日に行われた)。ウィキの「柊鰯」によれば、『西日本では、やいかがし(焼嗅)、やっかがし、やいくさし、やきさし、とも』称し、『柊の葉の棘が鬼の目を刺すので門口から鬼が入れず、また塩鰯を焼く臭気と煙で鬼が近寄らないと言う(逆に、鰯の臭いで鬼を誘い、柊の葉の棘が鬼の目をさすとも説明される)。日本各地に広く見られる』。『平安時代には、正月の門口に飾った注連縄(しめなわ)に、柊の枝と「なよし」(ボラ)の頭を刺していたことが、土佐日記から確認できる』(やぶちゃん注:これは「土左日記」の最初の方の大湊の泊まりの元日の条で、船中の人々が都の元旦の様子をあれこれと想像する部分。そこに『今日(けふ)はみやこのみぞ思ひやらるる。小家(こへ)の門(かど)の端出之繩(しりくべなは[やぶちゃん注:注連繩。])の鯔(なよし)の頭(かしら)、柊(ひひらぎ)ら、いかにぞ。」とぞいひあへなる』とある)。『現在でも、伊勢神宮で正月に売っている注連縄には、柊の小枝が挿してある。江戸時代にもこの風習は普及していたらしく、浮世絵や、黄表紙などに現れている。西日本一円では節分にいわしを食べる「節分いわし」の習慣が広く残る。奈良県奈良市内では、多くの家々が柊鰯の風習を今でも受け継いでいて、ごく普通に柊鰯が見られる。福島県から関東一円にかけても、今でもこの風習が見られる。東京近郊では、柊と鰯の頭にさらに豆柄(まめがら。種子を取り去った大豆の枝。)が加わる』とある。但し、ここに書かれているような、ある一定区域内に植えた他の樹種が、総てヒイラギに変ずるという現象は、「木犀」(後の「木犀」の注を参照されたい)を除いては、私はあり得ないと思う。これは「比良木大明神」の当時の神官らが、社名にあやかって、こっそりと少しずつ、神垣内の植物(木犀を除く)を柊に巧妙に(あたかも変じたかのように見えるように)植え替えたものであろうと疑っている。
「下加茂(しもがも)」京都市左京区にある、通称、下鴨神社、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)。
「攝社に、土俗、比良木大明神(ひらきだいみやうじん)と稱する社(やしろ)有」後にも出るが、下鴨神社の境内摂社の一つである「出雲井於神社」(いずもいのへじんじゃ:現行の表記呼称。「井於(いのへ)」とは「鴨川の畔(ほと)り」の意と伝える)で、式内社(しきないしゃ:延喜式内社或いは式社とも称し、「延喜式」の「神名帳」(じんみょうちょう))に記載されている神社のこと。全三千百三十二座・二千八百六十一社の記載を数える)としては「愛宕郡出雲井於神社」と呼ぶ。ここ(グーグル・マップ・データ)。岡戸事務所のサイト内にある本神社のこちらの記載によれば、本社が通称で比良木神社(ひらきじんじゃ)と呼ばれているのは、『本宮の御陰祭(御生(みあれ)神事)が行われていた犬柴社』(御蔭祭と書く。葵祭の前祭で、比叡山山麓にある八瀬御蔭神社より神霊を迎える神事)『と愛宕郡栗田郷藪里総社柊社が同神で、この社に合祀されたため』、『この名がある』とし、『厄年に神社の周りに献木すると、ことごとく「柊」(ひいらぎ)となって願い事が叶うことから「何でも柊」と呼ばれ、「京の七不思議」に数えられている』。『現在の社殿は』、寛永六(一六二九)年の『式年遷宮のときに賀茂御祖神社(下鴨神社)本殿が移築されたもので、下鴨神社の中では最も古い社殿』(天正九(一五六一)年の造り替えで現在の重要文化財)とある。祭神は本文に出る通り、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)=素戔嗚命である。
「疱瘡(はうさう)」天然痘。私の「耳囊 卷之三 高利を借すもの殘忍なる事」の注を参照されたい。
「椿」ツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属ヤブツバキ(ツバキ)Camellia
japonica。日本原産で万葉時代から美しい花卉として好まれたが、特に近世には茶道の飾り花として「茶花の女王」の異名を持ち、早くから多くの園芸品種が作られた。但し、ツバキ類の多くの花は離弁花であるにも拘わらず、花弁が一枚一枚に時間差で散ることが少なく、花弁が基部の萼を残したまま、一気に丸ごと落ちる(「落椿」と称する)ものが多く、それが首が落ちることを連想させることから武家では嫌われた経緯があり、現在でも死や急死に繋がるイメージから見舞いの花としては禁忌とされる一面もある。
「玉椿(たまつばき)」椿の美称であるが、ここは前の椿と後に続く樹木名の並列関係から考えて、椿の多様な品種群のあれこれを指すものであろうと思われる。なお、ゴマノハグサ目モクセイ科イボタノキ属ネズミモチ Ligustrum japonicum の別称でもあり、これは葉が確かに椿に似るが、同種は花が全く椿とは異なり、この場面の叙述で、それをわざわざ「椿」と併置して出すかどうかという点で、私はそれに同定するのは留保したい。
「木穀(きこく)」これは恐らく「枳殻」で、ムクロジ目ミカン科カラタチ属カラタチ Poncirus trifoliata のことと思う。本種は枝に稜角があり、三センチメートルにも達する非常に鋭い刺が互生する点で、柊の葉の棘との親和性があるからである。
「山梔子(くちなし)」リンドウ目アカネ科サンタンカ亜科クチナシ連クチナシ属クチナシ Gardenia jasminoides。強い芳香は邪気を除けるとも考えられるし、庭の鬼門方向に植えるとよいともされ、「くちなし」は「祟りなし」の語呂を連想をさせるからとも言う。真言密教系の修法では供物として捧げる「五木」(梔子・木犀・松・梅花・榧(かや:裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera)の五種の一つ。
「樫(かし)」ブナ目ブナ科 Fagaceae の常緑高木の一群の総称。民家の垣根として植えられる主要な樹の一群。常緑樹であることから防風林として、また、燃え難い性質から防火対策ともなったから、霊的樹木としての歴史は古いものと思われる。細かな種群は参照したウィキの「カシ」などを参照されたい。
「柘(つげ)」ツゲ目ツゲ科ツゲ属変種ツゲ Buxus microphylla var. japonica。言わずもがな、神代から霊的呪物たる櫛の主原材とされた。
「南天」キンポウゲ目メギ科ナンテン亜科ナンテン属ナンテン Nandina domestica。ウィキの「ナンテン」によれば、中国原産であるが、古くに輸入されたものと思われ(現在は西日本や四国・九州に自生しており、これは渡来した栽培種が野生化したものとされている)、庭木として好まれた。江戸時代には『様々な葉変わり品種が選び出され、盛んに栽培された』。また、「なんてん」という発音が「難転」と同音であることから、語呂で「難を転ずる」に通ずるとして縁起の良い木とされて、『鬼門または裏鬼門に植えると良いなどという俗信がある。福寿草とセットで、「災い転じて福となす」ともいわれる。また、江戸の百科事典「和漢三才図会」には「南天を庭に植えれば火災を避けられる」とあり、江戸時代はどの家も「火災除け」として玄関前に植えられた』。『赤い色にも縁起が良く厄除けの力があると信じられ、江戸後期から慶事に用いるようになった』。厠の『前にも「南天手水」と称し、葉で手を清めるためなどの目的で植えられた』とある(下線やぶちゃん)。
「木犀」シソ目モクセイ科オリーブ連モクセイ属モクセイ(ギンモクセイ(銀木犀))Osmanthus
fragrans。花が強い芳香を持ち、前に掲げた真言密教の修法の供物「五木」の一つである。しかも、本種はヒイラギとは同属であり、また、実際にヒイラギとギンモクセイの雑種といわれるヒイラギモクセイ(柊木犀)Osmanthus × fortunei なる種が実在する。同種は生垣などによく利用されており、葉は大形で縁に鋸歯を多く持っていて、私のような素人が葉見る限りでは、ヒイラギの葉にしか見えない。
「白榊(しらしやけ)」この呼称は不詳であるが、取り敢えずは、日本で古くから神事に用いられているツツジ目モッコク科サカキ属サカキ Cleyera japonica を指しているとしておきたい。同種は本州では茨城県・石川県以西・四国・九州に分布する。ウィキの「サカキ」によれば、『古来から植物には神が宿り、特に先端がとがった枝先は神が降りるヨリシロとして若松やオガタマノキ』(モクレン亜綱モクレン目モクレン科オガタマノキ属オガタマノキMichelia
compressa:和名は神霊を招聘する神木の意の「招霊木(おぎたまのき)」由来)『など様々な常緑植物が用いられたが、近年は』、最も『身近な植物で』、『枝先が尖っており、神のヨリシロにふさわしいサカキやヒサカキ』(モッコク科ヒサカキ属ヒサカキ Eurya japonica:サカキが自生しない関東地方以北での代用品)『が定着している』。『サカキの語源は、神と人との境であることから「境木(さかき)」の意であるとされる』とある(下線やぶちゃん)。
「正木(まさき)」ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マサキ Euonymus japonicus。榊(さかき)がない場合の代用品の一つが本種、柾(まさき)である。
「締(しま)り」神域へは入口が閉められてあって安易に立ち入りが出来ないようになっているのである。
「接骨木(にはとこ)」マツムシソウ目レンプクソウ科ニワトコ属ニワトコ亜種ニワトコSambucus
sieboldiana var. pinnatisecta。アイヌの神を祀る聖具イナウ(御幣様の呪具)の材料とされ、神道の御幣の現在の白い紙の部分は、古くは本種(他にヤナギ・ヌルデ・クルミ・マツなど)の樹皮の一部を薄く削って用いたりし、小正月の飾りにも用いた。魔除けにする習俗は日本以外でも見られる。
「柊南天(ひゝらぎなんてん)」「阿蘭陀南天(おらんだなんてん)」キンポウゲ目メギ科メギ亜科メギ連 Berberidinae 亜連メギ属ヒイラギナンテン Berberis japonica。中国南部・台湾・ヒマラヤ原産。小葉は硬く、ヒイラギの葉に似て、鋸歯は棘状となる。
「柘榴(ざくろ)」フトモモ目ミソハギ科ザクロ属ザクロ Punica granatum。
「伊豆の國小瀨明神(こせみやうじん)」不詳。お手上げ。識者の御教授を乞う。
「此事は追(おつ)て委敷(くはしく)記す積り」現存する「想山著聞奇集」は本条を以って終わっている。我々は永遠にそれを読むことは出来ないのである。
「都名所圖繪」確認したが、名すら載らない。
「十社參り」この時代の京都のそれは不詳。識者の御教授を乞う。
「大嘗會(だいじやうゑ)」大嘗祭。天皇が即位後に初めて行う新嘗(にいなめ/しんじょう)祭(新穀を神に捧げて収穫を感謝し、同時に来るべき年の豊穣を祈る祭儀)。その年の新穀を天皇が天照大神及び天神地祇に供えて自らも食する(神人共食)、天皇個人としては一代一度の大祭。
「みあへの祭(まつり)」底本の注には『飲食物によるもてなし。したがって、みあへの祭は、大嘗・神嘗』(かんなめ:毎年秋に天皇が新穀で作った神酒と神饌 を伊勢神宮に奉納する祭儀)『など、飲食に関係ある祭りをいう』とあるから、前に私の注した広義の神人共食の供儀を指すように書かれてある。確かに、ここまでの文脈からはそうさらっと読めてしまうのだが、しかし、どうもこれは私には、先に注した、この神社の原形の一つである犬柴社の、葵祭の前祭に於いて比叡山山麓にある八瀬御蔭神社より神霊を迎えるための神事本宮の御蔭祭=御生(みあれ)神事のことをも同時に指すと考えることも大切なのではなかろうかと思われる。
「地主(ぢしゆ)の神」その土地を本来、支配して守っていた神。
「出雲大路(いづもおほぢ)、又は出雲の郷(さと)など申地名も、此社より出(いで)し舊號(きうがう)の由」『「月の光」成田亨』氏のサイト「出雲井於神社」が地図もあって非常に判り易い。必見! それによれば、「出雲」は『玉依姫が子を産んで、隠れ住むようになった森に五色の雲が起こったため出雲路森(いづもじもり)と名付けられたという』。『御蔭神社があるあたりが、高野の森だろうか』とあり、『この出雲路森(いづもじもり)と出雲井於神社(いずもいのへ)の関連があるかもしれない』と述べておられる(但し、神代の話をそのまま現在の地図で理解しようとすると(少なくとも私には)無理が感じられる。しかし、リンク先の考察は面白い。『玉依姫命が、出雲の御子(御毛入命)を生み育てたことによって、御蔭山は、御生山(みあれやま)と呼ぶようになったのかもしれない』という一節は、先の注で私が述べた「御生(みあれ)神事」との絡みでもすこぶる興味深いからである)。
「文德天皇仁壽三年の夏四月、疱瘡流行、人民疫死多く、此時、敕使、此社に參向の砌(みぎり)、神人に神かゝりおはしまし、疱瘡の疫神祓ひ除くべき詫宣おはしまして、比良木大明神と仰ぎ奉るべきよし」この社の記載はないが、「日本文德天皇實錄」(六国史の第五。文徳天皇の治世である嘉祥三(八五〇)年から天安二(八五八)年までの八年間を扱った歴史書。文徳帝の第四皇子で次代の帝となった清和天皇が貞観一三(八七一)年に藤原基経らに編纂を命じ、元慶三(八七九)年に完成)の「卷五」には『仁壽三年四月乙酉【廿五】○乙酉。以頗皰瘡染行。人民疫死故。停賀茂祭』とある。
「比良木は比々良木(ひゝらぎ)、比禮矛(ひれほこ)等の緣語におはします」前者は柊の邪気を払う棘を、後者は恐らく「領巾(ひれ)矛」で、儀式用の矛に附けた小さな旗であろう。この旗は元来は呪力を持ったものとして装着されたものであるらしいから、そうした意味での縁語性があると、想山は謂いたいのであろう。]