宿直草卷一 第八 天狗つぶて附心にかゝらぬ怪異はわざはひなき弁の事
第八 天狗つぶて附心にかゝらぬ怪異(けい)はわざはひなき弁(べん)の事
寛永改元、予、いときなき比、大坂石(こく)町邊へ細々(さいさい)行きて泊りしに、その町のさる家へ、夜ごとに礫(つぶて)うつ。數(かず)もおほからず、七つ八つ、あるは戸を十四、五も打つ。打ちて音なきもあり、また、玉霰(たまあられ)のかれ野の篠(しの)を走るが如く、その音(をと)、ころころするもあり。されど、覆垂(おほたれ)、雨落(あまお)ちまで轉(こく)ることは、なし。かくする事、夏の最中(もなか)より秋の末かけて止まず。
合壁(がつへき)、これに怖れ、隣家(りんか)、眉をひそむ。露の玉ゆら訪(とふら)ふ袖も、
「ゆゝしき大事なり。天狗つぶて打つ家は、かならず燒亡(ぜうまう)の難あり。しかるべき祈りなんど、し給へかし。」
など、いさむれば、まして身ちかき人々は、猶、
「加持拂(かぢはら)へなど、し給へ。」
といふ。しかれ共、此(この)家主、一向宗(いつかうしゆ)なり。何と尊く聞きいれられしにや、
「我、もと、情(じやう)の強(こは)きにてもなし、萬行圓備(まんぎやうゑんび)の念佛より外、わが宗(しゆ)に別(べち)に祈り、なし。」
といひて、曾(かつ)て驚かざれば、いさむる袖も力なく、やめり。案の如く、そのけぢめもなく、家、つゝがなく住(すみ)侍り。
四十(よそぢ)の春秋を經て、去年なん、その門(かど)を過(よぎ)りしかば、むかしの事思はれて、すぎがてに、内もせ、見いれしにも、あへて古へにかはる事もなし。主(あるじ)はまかりて子の代と見えたり。されば心にかゝらぬ怪異(けい)は、更にその難なきものをや。なふ、お目のまけを取(とり)給へ。空(そら)に花はさき候まじ。「鳴子をばをのが羽かぜに動かして心と騷ぐむらすゞめかな」と、忌(いみ)の文字も己(を)のが心とは書けり。梅をおもへば口に酢(す)たまり、虱(しらみ)ときけば肌(はだ)かゆくなる。心(しん)生(しやう)ずれば種々の法(ほう)生ず。いはれぬ氣つかひに、色々を案じ、まちまちのわざはひを設(まふ)く。芥(あくた)の中に蚓(みゝず)をほり出すが如し。むさと、物事、機(き)にかけまじき事也。惣(そうじ)て小事は身のたしなみ、心のおさめやうにもよるべし。
身ほろび、家絶ゆるなどは因果なり。あへて觸(いら)ふべからず。
子路(しろ)、夫子(ふうし)のやまひを祈らんといふ。子の曰(のたふま)く、
「丘(きう)が祈る事、ひさし。」
と。
目蓮(もくれん)、釋氏(しやくし)をすくはむといふ。佛いはく、
「やみなん、やみなん、助くべからず。これ、因果なり。」
と。
夫子の仁にをよばす、佛の慈(じ)に及ばず、業(ごう)のなせる所、さらに手はつけられじ。明德眞如(めいとくしんによ)を尊(たと)ぶ人こそ、げに、やんごとなき祈りならまし。咎(とが)をなしても祈るべきを賴(たの)みにせん人、なじかは内證(ないせう)に違(たが)はざるべき。世の中の憂(う)さには神もおはしまさぬに、すゞしめ給ひしいにし人は、いと愚かにはおはしまさずや。士農工商ともに、身の程をしり、職(しよく)の常(つね)をわすれず、理(ことわり)のとをりに勤めば、いづれのところに害あらんや。祈らずとても神は守らずやはあらん。
また、易に遊ぶ人の外に、四條繩手(なはて)の風寒み、白川橋(しらかはばし)に踞(しりうた)ぎして、莚(むしろ)・屛風のところ狹(せ)きまで、仮名(かんな)まじりの八卦(け)の書を讀み、梅花心易(ばいくはしんゑき)なんど引きちらして、綴り侘(わ)びたる素紙子(すがみこ)や、垢(あか)につめたきひとへ物に、時ならぬ編笠の内、蓍(めど)など亂(みだ)しつゝも、人の吉凶(きつけう)直(なほ)すなんどひしめくこそ、嗚呼(おこ)がましくも受けとられね。
さりとて、祈禱なんど無益(むやく)と云(いふ)にはあらず。をよそ、現世の利益(りやく)は佛(ほとけ)の道の方便(てだて)にして、いと有難き操(みさほ)なりけり。むかしの才(ざえ)すぐれ德(とく)尊(たと)き世捨人は、雨をこひ、疫(えき)をやめて、造化の變をとゞめ、人民(にんみん)の助けとす。是、その德にあらずや。たゞ怨むらくは、愚(おろか)に迷ひ、祈りを賴みて、心をほしゐまゝにせん人、歎くにも猶あまりあり。わざはひは病(やまひ)なり。祈(いのり)は藥なり。藥、よく病をいやすとて、毒もおそれず用ひべくは、誰(た)があやまちぞや。平生(へいぜい)、此(この)理(ことわり)を以て、まどふべからず。理をたづねば、匹夫(ひつぷ)とても舜門(しゆんもん)の人ならん。あくまで道理をたづぬべきか。
しかるに、此(この)つぶてうたれし家主も、自然と機にもかけざるは、理の常(つね)をえし冥加(みやうが)ならんか。
[やぶちゃん注:第六の「天狗の礫」から「天狗の石切」に移り、再びここで「天狗礫」へ、しかも筆者自身の実体験として戻ってくるのは、まことに実録怪談の真骨頂と言うべ観があって素晴らしい。なお、再度示すが、「天狗礫」については、私の『柴田宵曲 妖異博物館 「そら礫」』の冒頭の私の注を参照されたい。
「弁(べん)」漢字は原典のママ。道理に従った主張・論説。
「寛永改元」元和十年二月三十日(グレゴリオ暦一六二四年四月十七日)に改元している。徳川家光の治世。この前年、家光は第二代将軍秀忠とともに上洛し、七月二十七日に征夷大将軍の宣下を受け、江戸帰着後に秀忠は隠居している。この時、筆者荻田安静は「いときなき比」(ころ)であったと言っている。安静は生年未詳であるが、没年は寛文九(一六六九)年である。引き算すると、寛永元年は四十五年前である。「いとけなき」というのは数え十代未満と考えてよく、しかもその折りの天狗礫に纏わるこのような話をここまで正確に細部まではっきりと記憶しているとなると、満年齢で八~九歳を推定し得るとすれば、荻田安静の生年は元和元(一六一五)年か翌二年が大きな候補とはなろうと思う。
「大坂石(こく)町」現在の大阪市中央区石町(こくまち)。大阪城の西直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「細々(さいさい)」漢字表記は原典のママであるが、これは「再々」で「たびたび」の意であろう。岩波文庫版でも「再々」と表記し直してある。
「覆垂(おほたれ)」「尾垂(おだ)れ」。屋根庇(やねびさし)の、主に関西での謂い。
「雨落ち」軒先から落ちる雨水が地面に当たっては跳ね返り、その跳ねた雨水で建物の壁等を汚してしまうことを避けるため、砂利を敷き詰め、雨水の跳ね防止を意図として考えられた軒下の人工部分。この当時、調べた限りでは、民屋で廂の先に雨樋(あまどい)を持っているというのは普通はなかったようである。
「轉(こく)る」転がる。
「夏の最中(もなか)より秋の末かけて止まず」ここでの天狗礫がこの期間限定で、しかも連続して発生し続けるものところが面白い。この特性は、これが全くの気象現象であるにしろ、人為であるにしろ、その真相を解明する一つの鍵となるやも知れぬ。
「合壁(がつへき)」壁一つ隔てた隣家。後の「隣家」それよりも離れたそれであろう。
「露の玉ゆら訪(とふら)ふ袖も」「露の玉ゆら」は「訪ふ」を引き出す序詞。「訪ふ袖」はこの家を「訪問する」(親しい)「人」の意。
「加持拂(かぢはら)へ」怪しげな修験者の山伏風の者などが民間で行った加持祈禱染みたお祓い。
「一向宗(いつかうしゆ)」岩波文庫版の高田氏の注に、『今の浄土真宗。専修念仏を重んじ、加持祈禱の類を嫌った宗旨』とある。だから、以下なのである。
「何と尊く聞きいれられしにや」反語。一向宗であればこそ、どうしてそんな慫慂を受け入れられようか、いや、断固として断った、というのである。
「情(じやう)の強(こは)き」人々の心配の思いに対して冷淡にして頑固な性質(たち)。
「萬行圓備(まんぎやうゑんび)」岩波文庫版の高田氏の注に、『仏教徒の修めるべき行が全て備わっていること』とある。
「けぢめ」岩波文庫版では『区別(けじめ)』とある。ある対象や状況が次第に移り変わってゆく、その前と後の違い。凶兆ならば禍いとなるような大きな変化があるはずであるが、そんなことは何も起こらなかったのである。
「去年」「こぞ」と訓じておきたい。
「すぎがてに」「過ぎがてに」無視して通り過ぎることが出来ずに。「がてに」は連語で、動詞の連用形に付いて「~することが出来ないで」の意を表す。これは元来は上代語「かてに」(可能の意の補助動詞「かつ」の未然形+打消の助動詞「ず」の上代の連用形)であったが、その語源認識が薄れてしまい、「難(がた)し」の語幹変形と解されて生じた語。但し、既に上代からその誤用例は見られる。
「内もせ」岩波文庫版の高田氏の注に、『家がまえ。「もせ」はおもて、の意』とある。
「見いれしにも」何か、その後によくないことでも起こってはおるまいかとよく家構えを外から観察してみたが。
「お目のまけ」「眚」「目氣」等と漢字表記し、眼病の一種を指す。岩波文庫版の高田氏の注には『眼に白いもやがかかるように見えるのを指す。目気とも。転じて膜』とあるから、白内障の類いであろう。
「空(そら)に花はさき候まじ」「そら」は原典のルビであるから、空中に忽然と花が咲くとは御座いますまい、であろうが、意義としては何もない虚「空」(こくう)に「花」が化生(けしょう)して咲き開くなどということはあり得ないでしょう? と言っているのであろう。
「鳴子をばをのが羽かぜに動かして心と騷ぐむらすゞめかな」「禅林世語集(ぜんりんせごしゅう)」(私のデータは昭和三二(一九五七)年に京都の其中堂が刊行した土屋悦堂編のそれであるが、これは近世に禅語の内容を判り易い俗謡にしたものを近代に蒐集して編したものと思われる)に「鳴子をば己が羽風に動かして心と騷ぐ群雀」とある。全くの自己責任に基づく疑心暗鬼という自業自得を意味していよう。
「忌(いみ)の文字も己(を)のが心とは書けり」確かに。「忌」という漢字は「己」と「心」から成る。解字としては「心」は音符。「己」も音符ではあるが、と同時に「畏れる」の意を持たせる。
「心(しん)生(しやう)ずれば種々の法(ほう)生ず」いい意味でも悪い意味でもある一つの心理状態が生成されると、それに対し、さまざまな見かけ上の「物の在り方」が生成される、但し、それは単なる仮りの現象に過ぎぬ、と言った意味合いであろうと私は解する。
「いはれぬ」はたの者どもが好き勝手に口にしてしまった。「ぬ」は完了。
「芥(あくた)の中に蚓(みゝず)をほり出す」そのままにしておけば、気持ちの悪いそれを見て不快な思いをすることもないものを、わざわざ必要もないのに、芥溜(ごみため)めをほじくりかえしては、蚯蚓を引っ張り出すような余計なことをする。
「むさと」「むざと」。むざむざと。無暗矢鱈に。
「機(き)」「氣」に同じい。誤字ではなく、禪機などのそれのように、心の働き方を表現する語。
「觸(いら)ふ」「弄(いら)ふ」。もてあそぶ。思いつきとして安易に口にすべきことではない。
「子路(しろ)、夫子(ふうし)のやまひを祈らんといふ。……」「論語」の「述而篇第七」に載る。
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子疾病。子路請禱。子曰。有諸。子路對曰。有之。誄曰。禱爾于上下神祇。子曰。丘之禱久矣。
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子の疾(やま)ひ、病(へい)す。子路、禱(いの)らんと請ふ。子、曰く、「諸(これ)、有りや。」。と。子路、對(こた)へて曰く、「之れ、有り。誄(るい)に曰く、『爾(なんぢ)を上下(しやうか)の神祇(しんぎ)に禱る』と。」と。子、曰く、「丘の禱ること、久し。」と。
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「諸(これ)、有りや。」「そのような病気平癒の祈禱などをし、それが治る、或いは、治ったとする先例などがあるのか?」。「誄」は本来は死者の生前の功績を讃える弔辞であるが、ここは祈禱を集めたものの篇名であろう。「丘の禱ること、久し。」「子路よ、そういった類いの祈禱ならば、私はもう久しい間、やってきたよ。――やってはきたが、思い通りになった試しはこれ、一度としてなかった。」と言うのである。但し、子路は孔子より先に細切れにされて塩漬けにされ死んでいるので、これは孔子の実際の死の直前のものではない。
「目蓮(もくれん)、釋氏(しやくし)をすくはむといふ。……」目蓮は通常は「目連」で仏陀十代弟子の一人で「神通第一」とされた人物。これは恐らく、「太平記」の「北野通夜(つや)物語の事付けたり靑砥(あをと)左衛門事」の中で、法師が南朝には期待し得る臣下がいないことを説明するために語る仏陀の摩訶陀(まかだ)国絡みの故事を元にしている。非常に長いのである程度のシークエンスと因果律の語りが判る部分までを引用する。
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……斯かる處に釋氏の中より、時の大臣なりける人一人、寄せ手の方へ返忠(かへりちゆう)[やぶちゃん注:裏切り。]をして申しけるは、
「釋氏の刹利種(せつりしゆ)[やぶちゃん注:古代インドの四姓の第二で釈迦もその出自である。]は五戒を持ちたる故に、かつて人を殺す事をせず。たとひ、弓強くして遠矢を射るとも、人に射當つる事は有るべからず。ただ寄せよ。」
とぞ教へける。寄せ手、大きに悦びて、今は楯をも突かず、鎧をも著ず、鬨(とき)の聲を作りかけて寄せけるに、げにも釋氏どもの射る矢、更に人に當らず、鉾(ほこ)を使ひ、劍(けん)を拔いても、人を斬る事無かりければ、摩竭陀國(まかだこく)の王宮、忽ちに責め落され、釋氏の刹利種、悉く一日が中に滅びんとす。この時、佛弟子目連尊者、釋氏の殘る所無く討たれなんとするを悲しみて、釋尊の御所(みもと)に參つて、
「釋氏、已に瑠璃王(るりわう)の爲に亡ぼされて、僅かに五百人殘れり。世尊、何ぞ大神通力を以つて五百人の刹利種を助け給はざるや。」
とされければ、釋尊、
「止みなん止みなん、因果の所感、佛力にも轉じ難し。」
とぞのたまひける。目連尊者、なほも悲しみに堪へず、
「たとひ定業(ぢやうごふ)なりとも、通力を以つてこれを隠弊(いんぺい)せんに、などか助けざらんや。」
と思し召して、鐡(くろがね)の鉢の中に、この五百人を隠し入れて、忉利天(たうりてん)に置かれける。
摩竭陀國の軍(いkさ)はてて、瑠璃王の兵ども、皆、本國に歸りければ、今は子細あらじとて、目連、神力の御手を暢(の)べて、忉利天に置かれたる鉢を仰(あふ)けて御覽ずるに、神通を以つて隱さるる五百人の刹利種、一人も殘らず、死ににけり。目連、悲しみて、其の故を佛に問ひ奉る。佛、答へて宣はく、
「皆、是れ、過去の因果なり。爭(いか)でか助かる事を得ん。……[やぶちゃん注:以下、略。]
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「明德眞如(めいとくしんによ)」仏教に於ける正しく公明な徳と、あるがままの絶対の真理。
「なじかは内證(ないせう)に違(たが)はざるべき」反語。「内證」は仏教に於いて自分の心の内で真理を悟ること。
「すゞしめ」「涼しめ」。清(きよ)め。祭事を行って神を慰めること。
「いにし人」「往にし人」「いにし」は連体詞で、元は動詞「往ぬ」の連用形に過去の助動詞「き」の連体形「し」が付いたもの。過ぎ去った過去の人々。
「いと愚かにはおはしまさずや」反語。後の「いづれのところに害あらんや」も「祈らずとても神は守らずやはあらん」も同じく反語。
「易に遊ぶ人」易学を趣味好事(こうず)とする人々。ここに出すのは取り敢えず、本来の「易經」をちゃんと読み、学ぼうとする人々を指すのであろう。そうした人々より低級で胡散臭い「外」の自称易者が以下にリアルに描写されるのである。
「四條繩手(なはて)」四条以北の鴨川の土手の呼称。祇園白川は直近。
「白川橋」現在の滋賀県大津市及び京都府京都市を流れる淀川水系鴨川支流の白川の、京都市東山区内に架かっていた橋。現行のそれはここ(グーグル・マップ・データ)であるが、ここで言っているのが、これと全く同一かどうかは知らぬ。
「踞(しりうた)ぎして」腰かけて。
「莚(むしろ)・屛風のところ狹(せ)きまで」川風や寒気の防ぎにもなりそうにもない莚や屏風で狭く囲ったところで。
「仮名(かんな)まじりの八卦(け)の書」「かんな」は「かな」に同じい。世俗に堕した怪しげな占い書。
「梅花心易(ばいくはしんゑき)」「先天易」と称する易学を樹立した北宋の思想家邵雍(しょうよう 一〇一一年~一〇七七年)の著わした占筮法(せんぜいほう)について書かれた書。岩波文庫版の高田氏の注には、『任意に一字の画数を取り、八を減じて余数から卦を得、易理に依って吉凶を断ずる。手引書が江戸初期に数種類』、出版されていた、とある。
「素紙子(すがみこ)」柿渋を引かない白地の紙子(かみこ:紙で仕立てた衣服)。安価で貧者が用いた。ここは見た目も妖しい、当時の売卜者・辻占い師などの着衣や被っていた笠の粗末さの描写であろう。
「蓍(めど)」占い師の用いる筮竹(ぜいちく)。
「ひしめく」野次馬のように群がっては言い立てて騒ぐ。
「嗚呼(おこ)がましく」分不相応にして差し出がましく、出過ぎたことだ、或いは、如何にも馬鹿げている、全くばかばかしいという謂い。文脈上は前者であるが、結局は後者の謂いで纏めていよう。
「疫(えき)をやめて」疫病の流行を収束させ。
「誰(た)があやまちぞや」「愚(おろか)に迷ひ、祈りを賴みて、心をほしゐまゝにせん人」自身の過ちであると喝破するのである。
「舜門(しゆんもん)」「舜」は中国古代の伝説上の聖王舜で、ここはその正統な流れを汲むところの儒教の真の理解者のことを言う。]