「想山著聞奇集 卷の五」 「※蚯蚓(はねみみず)、蜈蚣と變ずる事 幷、蜊、蟹と化する事」
※蚯蚓(はねみゝず)、蜈蚣(むかで)と變ずる事
幷、蜊(あさり)、蟹(かに)と化(け)する事
[やぶちゃん字注:「※」=「虫」+「發」。本文のそれも同じ。]
[やぶちゃん注:以下、上段左右の、下段左右のそれぞれのキャプション。]
鳥居吉右衞門の見たるは、斯(かく)のごとく靑みゝずに、蜈蚣の足、生居(はえゐ)たりと也。
佐枝何(さえだ)某(なにがし)の見たるは、斯の如く頭(かしら)の方(かた)はむかでとなりて、尾のかたは未だみゝずにて、足も頭の方はよく生じ、尾の方は漸(やうや)く少し生(しやう)じ居たりとなり。
爵(すゞめ)、大水に入(いつ)て蛤(はまぐり)と成(なり)、雉(きじ)、又、蜃(おほはまぐり)と成、鷹(たか)、化(け)して鳩と成の類(るゐ)は、月令(がつれい)に載る所、螂蛆(うじ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]の蒼蠅と成、蠶(かひこ)の蝶と成の類は、衆人の見る所にして、珍敷(めづらし)からず。蟹蜷(がうな)の手長海老と成、田打蟹(たうちがに)の岡蝦虎魚(をかはぜ)[やぶちゃん注:四字へのルビ。]と成の類は、物産家の誰(たれ)やらんに聞置たれども、餘りの變化(へんくわ)、不審にも思ひ居(ゐ)しに、予が友、佐枝何某は、我(わが)尾張の國津嶋にて、はね蚯蚓の【尾張にては飛蚯蚓(とびみゝず)と云(いう)を蒼き色をおびて飛※(とびはね)る蚯蚓あり。水に投じても魚の食はざる蚯蚓なり。】蜈蚣と成懸(なりかゝ)りたるを見てより、はね蚯蚓がきらひに成たりとの咄し。又、鳥居吉右衞門も名古屋建中寺前にて、【津嶋とは六里及(および)も場所隔てり。】兩度迄見たりとて咄したり。予は名古屋にて人となりたれど、一度も變ずる所を見ざる故、か程に慥成(たしかなる)咄を聞(きゝ)ても、不審の事に思ふは、予のみにもかぎるまじきか。仍(よつ)て其變化(へんげ)の圖を乞(こひ)て載せ置(おく)也。國により所によりては、いくらも有(ある)事にや。猶、きかまほし。
[やぶちゃん注:「※蚯蚓(はねみゝず)」(「※」=「虫」+「發」)「靑みゝず」「飛蚯蚓」これはその独特の色、及び、高度な運動性能から見て、日本のミミズの中の最大種の一つとされ、日本固有種でもある、濃紺色を呈し、見方によってはかなり鮮やかな(というかエグい)青或いは青紫にも見える、
環形動物門貧毛綱ナガミミズ目フトミミズ科フトミミズ属シーボルトミミズ Pheretima sieboldi
と同定したい。但し、残念なことに私は自然界で同種を現認したことはないので、以下、ウィキの「シーボルトミミズ」より全面的に引く。『シーボルトミミズは、西日本の山林に生息するミミズで、体が大きく、青紫色の光沢を持つ。また地表にでてくることがよくあるため、人目を引くものである。名前はフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが持ち帰った標本によって記載されたことにちなむ。大きくて目立つため、各地で方言名も存在する。ウナギ釣りの餌に使われることもある』(下線はやぶちゃん。以下、同じ。ここは想山の「水に投じても魚の食はざる蚯蚓なり」という叙述とは齟齬する)。『日本におけるミミズの最大種の一つであり、体長は時に』四〇センチメートルにも達するが、標準的には体長二四・七~二四・八センチメートル、体幅一・四~一・五センチメートル、体節数は百三十五から百五十二節にも及ぶ。『生きている時は濃紺色をしており、ホルマリン固定すると鮮灰色になる。受精嚢は』第六節から第九節までの節間に三対あるが、『その開口は小さい。環帯は第』十四節から第十六節に当たり、第十四節の『腹面中央に雌性生殖孔があるが』、小さい。第十八節の『腹面両端がやや膨らんで、そこに雄性生殖孔が開く』。『本種は日本最大のミミズの一つとされ』、原記載では体長二七センチメートル、体周囲三センチメートルとあり、別な学術報告では体長三十センチメートル、太さ一・五センチメートル、重量は最大値で四十五グラムとある。但し、『本種を上回る大きさのミミズは知られており、奈良県十津川村などで』は体長四十五~五十センチメートル、体重五十九グラムに達するとする『ピンク色のミミズが採集記録され、ナラオオミミズとの呼称もあ』り、また、『ほかにも類似の報告があり、本種より大きいかもしれないものが』二種は存在するともされる。但し、これは『正式に記載されてはいない』模様である(因みに、長さだけならば、『本種より大きいものははっきりしており』、ハッタジュズイミミズ(貧毛綱ジュズイミミズ目ジュズイミミズ科ジュズイミミズ属ハッタジュズイミミズ Drawida hattamimizu:本種は石川県の河北潟周辺・滋賀県の琵琶湖周辺・福井県の三方五湖周辺に限定的に棲息すると考えられており、特に『河北潟周辺は古くから本種の産地として知られ』、石川県金沢市八田町(はつたまち)の地名が『この種に与えられているが、実際には八田町よりやや東の地域に多かったとされていた。現在の分布は河北潟の東部、北部からかほく市南部にかけて生息しているとされる』。『滋賀県においては琵琶湖周辺の広い地域で本種が発見されて』おり、『北端にある余呉湖周辺にも発見されるが、この湖は琵琶湖とやや立地や成立の経緯を異にし、独立の分布域との見方もある』。『福井県では三方五湖のうち一番南にあって淡水性の三方湖やその隣の汽水性の菅湖の周辺などに分布している』という。因みに本種の背面は濃い藍色(かなり暗く、青くは見えない)を呈する。以上はウィキの「ハッタジュズイミミズ」に拠った)は標本による記載では体長二十四・六センチメートルと本種より小さいものの、本種はぶら下げたり、引っ張ったりすると、非常によく伸び、見かけ上は六十センチメートル以上にもなる)。話をシーボルトミミズに戻すと、シーボルトミミズは『日本固有種で』、『日本南部の山間部』を棲息域として、『中部地方以西の太平洋側に分布し』、紀伊半島・四国・九州南部では『比較的普通に見られるが、屋久島や沖縄には見られない』。『産地の森林に生息する。地中に生息するが、地表に出てくることもよくある。地上での動きは意外に素早い』(ここに中部地方とあるから、本文の名古屋ならば分布域と認められる)。『生活史については、寿命は卵の時期を含めて』三年『とされる。産卵は夏期に行われ、卵の状態で』一『年目の冬を越え、翌年初夏に新しい個体が出現し、成長して』二『年目の冬を越え』、三『年目に成熟個体が産卵すると、そのまま死亡する』。『ここで興味深いのは、同一地域ではこれが全ての個体で同期しており、その地域の個体は全て同じ世代に属する。つまり産卵が行われるのは毎年でなく、しかもその年の冬から翌年の春には、わずかな例外を除いてはこの種の個体が見られない時期がある』。『これはあまり普通のことではなく』、例えば、アブラゼミ(有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目セミ上科セミ科セミ亜科アブラゼミ族アブラゼミ属アブラゼミGraptopsaltria nigrofuscata)は六『年の寿命があるが、実際には毎年出現する。これは寿命に若干の揺れがあることと、毎年別の世代が出現することによるとされる。他方』、ジュウシチネンゼミ(北米にのみ棲息するセミ科 Magicicada 属の一種で、毎世代、正確に十七年で成虫になって大量発生をする種群で、種としては Magicicada cassini・Magicicada septendecim・Magicicada septendecula を指す。他にこの十三年蟬もおり、これらを総称して「周期蟬」「素数蟬」と称する)は成虫が十七『年おきにしか出現しない。シーボルトミミズでは後者のような形になっているわけである』。『また、季節によって大きく移動することも知られている。夏場には尾根筋から斜面にかけて広く散らばって生活するのに対して、それらの個体全てが越冬時には谷底に集まる。つまり、春には谷から斜面に向けて、秋には斜面から谷底に向けて移動が行われる』。『これに関わってか、本種が身体の前半を持ち上げるようにして斜面を次々に滑り降りる様や、林道の側溝に多数がうじゃうじゃと集まっている様子などがしばしば目撃され、地元の話題になることなどがある』という(下線前半部は本文の〈はねみみず(撥ね蚯蚓)〉や〈とびみみず(飛び蚯蚓)〉という名を連想させるに足る)。『このような現象の理由や意義は明らかにされていないが、塚本は天敵であるだろう食虫類は常時多量の餌を求めることから、このような習性はこの種の現存量が一定しないだけでなく、大きな空白期間を作ることになるので、この種を主要な餌として頼れない状況を作ること、また』、『同じく天敵となるイノシシに対しては』、『その居場所が一定しないことになるので』、『餌採集の場所を学習することを困難にしているのではないかと』いう見解がある。また、研究者の論文には、『本種が粘液を噴射する能力のあること』が記されており、それによると、『本種を見つけた際に素手で』摑『んだところ、ミルクのような白い液が飛び出し、顔や眼鏡にかかったという。恐らくは背孔から発射されたものと思われ、タオルで拭った後には特に変化はなかったという。国外ではミミズにそのような能力がある例が幾つか知られ、例えばオーストラリア』産のある種のミミズは俗に「フンシャミミズ」「水鉄砲ミミズ」などと呼び、『時に粘液を』六十センチメートル『も飛ばすという』。但し、『本種では他に聞く話ではないので、本種にその能力はあるもののいつも使うわけではないのだと思われる』(或いは、本文の〈はねみみず〉や〈とびみみず〉の「はね」や「とび」とは本体の運動ではなく、この粘液噴射を「はねらかす」「とばす」の意味で異名として読み込んだ可能性がないとは言えないのではないか?)。和名及び『学名は江戸時代に来日して多くの資料を持ち帰ったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにちなむ。彼がこれをライデン博物館に持ち帰り、それを研究した』学者が『彼に献名したものである』。但し、『正確な採集地は記載されていない』。なお、『これは日本産のミミズに初めて学名が与えられたものである』。「山ミミズ」『などの異名も知られる。なお、目立つものであるためか』、『各地に方言名が多く残っている。四国ではカンタロウと言われることがあちこちに記されている。和歌山県でもカンタロウと呼ばれる他、カブラタとの呼称も知られる』とある。
なお、南方熊楠は「続南方随筆」所収の「紀州の民間療法」で、『山中に住む人に淋病多し。西牟婁郡兵生(ひょうぜ)などで、木挽輩(ども)がその薬とて、勘太郎という碧紫(るり)色の大蚯蚓(みみず)、長(たけ)七、八寸あるを採りて、裂きて土砂を去り、その肉まだ動きおるを食う。実に見るも胸悪い』と記している(下線太字はやぶちゃん)。これは明らかにシーボルトミミズであり、先の「カンタロウ」とは「勘太郎」であることが判る。。残念ながら、「ハネミミズ」や「トビミミズ」の異名は確認出来なかった(「日本国語大辞典」の見出しにもなし)ので、識者の御教授を是非とも乞うものである。
因みに言っておくと、シーボルトミミズに限らず、ミミズは、意想外にしばしば大きく跳ねるものである。これはちょっと観察すれば容易に見られる現象である。
「爵(すゞめ)、大水に入(いつ)て蛤(はまぐり)と成(なり)、雉(きじ)、又、蜃(おほはまぐり)と成、鷹(たか)、化(け)して鳩と成の類(るゐ)は、月令(がつれい)に載る」「爵(すゞめ)」漢字の「爵」と「雀」は音が「サク・シヤク(シャク)」(「雀」の「ジヤク(ジャク)」は慣用音)で音通であるから同義で用いる。トンデモ化生説としてよく知られるこれらは、古漢籍に於ける、月毎(ごと)の自然現象・古式行事・儀式及び種々の農事指針などを記した「月令」(げつれい/がつりょう:私は「がつりょう」で読んできた)類に記されてあるものである。特に知られたものは「禮記」(らいき)の「月令」で、それぞれ、ここもそれ。以下に原典を引いておく。
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鴻雁來賓、爵入大水爲蛤。鞠有黃華、豺乃祭獸戮禽。
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水始冰、地始凍。雉入大水爲蜃。虹藏不見。
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始雨水、桃始華、倉庚鳴、鷹化爲鳩。
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例えば、「爵入大水爲蛤」(爵(しやく)、大水(たいすゐ)に入りて蛤(がう)と爲(な)る)や「雉入大水爲蜃」(雉(ち)、大水に入りて蜃(しん)と爲る)の部分は、水が初めて氷り、雁が飛来し始める晩秋(現在の十月八日から同十二日頃に相当)になると、雀や雉がいなくなるが、彼らは大海にへと入って蛤(はまぐり)や蜃(おおはまぐり)となるという伝承で、これはハマグリや同類の二枚貝の殻の模様が、スズメやキジの体色や斑紋と類似する類感呪術的発想によるものであり、「鷹化爲鳩」(鷹(よう)、化して鳩(きう)と爲る)の箇所は、初めて雨が降って桃の花が咲き初むところの仲春の頃おいには、かの獰猛なタカがその麗らかな陽気によって可憐なハト(カッコウともされる)と化すというのである。
「蝶」蛾は当時は蝶と厳密には区別されていない。というより、現代の生物学上の分類でも「チョウ」も「ガ」も鱗粉を持つ翅のある生物群である鱗翅目 Lepidoptera に属するのであって、区別されておらず、しかも「ガ」の種類数は「チョウ」の二十倍から三十倍はおり、「ガ」の方が圧倒的に種数が多いから、私は「鱗翅目」を一般に「チョウ目」とすることに強い違和感を持っている。
「蟹蜷(がうな)」一般に「寄居蟲」と書いて「がうな(ごうな)」と読み、ヤドカリ(宿借:節足動物門甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目異尾(ヤドカリ)下目ヤドカリ上科 Paguroidea に属するヤドカリ類の総称である。
「手長海老」現行では淡水及び汽水域に棲息する大型の、十脚目テナガエビ科テナガエビ亜科テナガエビ属 Macrobrachium に属するテナガエビ類或いは同属テナガエビ Macrobrachium nipponense に与えられている和名であるが、ここは海産(汽水域にも棲息はする)のヤドカリ類の化生とする点を考えると、手が長い点ではテナガエビ類と似ているが、全くの別種である抱卵亜目ザリガニ下目アカザエビ上科アカザエビ科アカザエビ亜科アカザエビ属アカザエビ Metanephrops japonicus 或いはその近縁種を指していると考えたい。小さなヤドカリが、たまさか、宿を巻貝の殻に借りているだけで(或いは、当時は巻貝が寄生虫(やどかり)に化生したものと考えた一般人は多かったであろう)、それが成長すると、手長海老となると信じたのも、それほど不審ではない。
「田打蟹(たうちがに)」は♂が求愛行動として大きな鉗脚を振る「ウェービング(waving)」を行う、抱卵亜目短尾(カニ)下目スナガニ上科スナガニ科スナガニ亜科シオマネキ属 Uca のシオマネキ類のことである。「田打ち」とは春に田を掘り返す農作業であるが、その動作をウェービングに比喩した、本邦の異名である。
「岡蝦虎魚(をかはぜ)」「蝦虎魚」は条鰭綱スズキ目ハゼ亜目 Gobioidei の総称であるが、ここは敢えて「岡」を冠しており、干潟に多い鋏振りの目立つシオマネキの化生とする点を考慮するなら、同じ干潟でよく飛び跳ねて目立つところの、ハゼ科オキスデルシス亜科トビハゼ属トビハゼ Periophthalmus modestus 辺りや、その近縁種、或いは、干潟を闊歩するハゼ類を同定候補としてよかろう。
「物産家」江戸時代の本草学者や研究者の中でも、薬用のみでなく、純粋な食用を含めた、有用天産物に就いての研究・開発を目的として各地の天産物の実地調査等を行い、さらにはそうした植物の栽培や動物採集・養殖・飼育、鉱山開発等の研究を行った者たちを指す。
「佐枝何某」不詳。
「津嶋」現在の愛知県中西部にある津島市。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「蜈蚣と成懸(なりかゝ)りたる」私は当初、本章を読んだ際には、シーボルトミミズの青みがかった独特の色及び〈はねみみず(撥ね蚯蚓)〉や〈とびみみず(飛び蚯蚓)〉の「跳ねる」「飛ぶ」という運動様態から、本邦固有種の巨大な暗青色を呈する、節足動物門多足亜門ムカデ上綱唇脚(ムカデ)綱オオムカデ目オオムカデ科オオムカデ属アオズムカデ(青頭蜈蚣)Scolopendra subspinipes japonica 或いは青色を呈する個体も多いトビズムカデ Scolopendra subspinipes mutilans が、シーボルトミミズを捕食しているのを誤認したのではないかと考えた(因みに、孰れも顎肢の毒は激烈で激しく痛む。私はごく小さなそれに咬まれた経験があるが、咬んだその瞬間はかなり痛みを感じた。我が家には大型個体もよく侵入し、お馴染みではある。私が嘗て借りていた鎌倉市岩瀬の古アパートに出現したトビズムカデは鮮やかな青色で体長は二十センチメートルはあった。湯に漬けて殺したが(これが最も確かな駆除方法)、その湯が腕にかかったが、翌日、その部分が真っ赤に腫れ上がった。恐るべし!)。しかし、附図を見る限りでは、そのようには読めない。或いは、鳥居吉右衞門のそれ(上の方の図)は、ただ、それらのムカデ(或いは近縁種)の単体の誤認であったとも思われるが、佐枝のそれ(下の図)は、はっきりと頭と体の上半分が完全にムカデであって、体の後ろ半分が完全なミミズであるから、食っている最中ではあり得ない。一つの可能性としては大型の肉食性のヒルが上記のムカデ類を尾部から半分ほど飲み込んだ状態のものを誤認した可能性が挙げられるか(私は山登りで何度か非常に大きなヒルがミミズや他のヒル或いはコウガイビルの一種と思われるものを後ろから飲み込んでいるところを見かけたことがある。ただ、鮮やかな青いヒルというのはその中にはいなかった)。他の何らかの可能性を想定出来る方は、是非、御教授願いたい。
「名古屋建中寺」現在の愛知県名古屋市東区筒井にある浄土宗徳興山(とくこうさん)建中寺。江戸時代を通じ、代々の尾張藩主の廟が置かれていたから、この鳥居なる人物も藩士である可能性が高いと言えよう。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
又或人の、蜊の蟹に變(へん)し懸り(かゝ)りを所持するとの事を聞居(きゝゐ)しに、予が下男幸藏(かうざう)は、我國愛知郡(あいちごほり)戸田村のものなるが、右村にては、蜊は每々(まいまい)、蟹と成(なる)事にて、成懸(なりかゝり)も折々見當りて、珍敷(めづらし)からずと云故、篤(とく)と聞(きく)に蜊の𧊛(から)[やぶちゃん注:底本は「こら」と判読してルビするが、従えない。]を佩(おび)たるなりに、肉細長く出て、其出たる肉に、毛、生(はえ)て、足と成(なり)、やがて𧊛(から)を脱して、紫色をおびたる蟹と成(なる)よし。又、右幸藏の親なるものゝ云には、蟹蜷(がうな)、邂逅(たまさか)には手長海老(てながえび)と成(なる)ものぞ、心を付て見置(みおく)べしと示されたれども、幸藏は一度も見ざりしといへり。莊子(さうし)の逍遙遊(せうゑうゆう)に、鯤(こん)、化(け)して鵬(ぼう)と成(なる)との事も、偶言(ぐうげん)とも云がたきか。造化(ざうくわ)の妙は、人智の及ぶ事にあらず。是も幸藏の見たる變化懸(へんげかゝ)りの姿を、同人に聞訂(きゝたゞし)て圖し置(おき)ぬ。惣(さう)じて、虫鳥(ちうてう)の類(るゐ)の變化(へんくわ)の事は、本草綱目・三才圖繪等(とう)にも、種々の變化の事、見えたり。其内、或人の筆記に、下總(しもうさ)の國香取の浦の嶋々(しまじま)に、獺(をそ)、澤山に居(ゐ)て、鰡(ぼら)と云(いふ)魚の化(けし)たるのと、嶋(しま)人の云て、鰡の腹(はら)に、うすと云もの有(あり)、獺(をそ)にも有(あり)と云。又、蟹も此所(このところ)に多く、鳰(にほ)と云鳥(とり)に成(なり)て、半分は蟹、半分は鳰(にほ)なるも有(あり)といへり。此獺(をそ)と云は、海獺(かいだつ)の事にて、海獺は、とゞとも云て、鰡はとゞに成(なる)とは、土俗も云傳(いひつた)ふる事ながら、海獺は海獸(かいじう)にして、鰡とは大(おほひ)に違ひたるものなり。猶、其地にしばし住(じゆう)せし人に聞(きく)に、鰡の胡獱(とゞ)に變じ懸(かゝ)り成(なる)は、折々、漁人(ぎよじん)の網にも入(いる)事なれども、必ず放し遣はして、捕來(とりきた)らざる事也との答(こたへ)故、其變じ懸りは如何成(いかなる)ものぞと尋(たづぬ)るに、尋常(よのつね)の鰡の鱗の下に、毛、生出(はえいだ)して、鱗の間(あひだ)より、毛、顯(あらは)れ居(ゐ)る迄にて、手の生懸(はえかゝ)りたるや、頭(かしら)などの胡獱(とゞ)に變り居しは、絶(たえ)て見申さず。幷(ならび)に右の香取浦(かとりうら)の邊(へん)に、とゞは居申さず。鱗の下に毛生(しやう)してより後(のち)は、住(すみ)場所を改(かは)る事と見えたりと申せし。且、蟹の鳰(にほ)に成懸りも、一度も見受(みうけ)ざると申せし。猶、其(その)土の老漁(らうぎよ)に、出會(しゆつくわい)を待(まつ)て、委敷(くはしく)記し置(おく)べしと思ふ。うすと云(いふ)は、臍(へそ)の事かと思はる。呉々(くれぐれ)も、造化の妙も人智の及ぶ事に非ず。
[やぶちゃん注:「蜊」斧足綱マルスダレガイ科アサリ亜科アサリ属アサリ Ruditapes philippinarum。
「蟹に變(へん)し懸り(かゝ)り」「蜊の𧊛(から)を佩(おび)たるなりに、肉細長く出て、其出たる肉に、毛、生(はえ)て、足と成(なり)、やがて𧊛(から)を脱して、紫色をおびたる蟹と成(なる)よし」これはもう、節足動物門甲殻上綱軟甲綱(エビ綱)真軟綱亜綱(エビ亜綱)エビ上目十脚目短尾下目カイカムリ群カイカムリ上科カイカムリ科カイカムリ属ヒラコウカイカムリ Conchoecetes artificiosus などのように、自己防衛の擬態のために二枚貝の貝殻を背に背負っている蟹を誤認したものである(但し、ヒラコウカイカムリは、やや標準棲息深度が三十~百メートルと深い)。貝を背負う蟹は必ずしも稀でなく、例えば、短い歩脚で二枚貝の貝殻やカシパン類(棘皮動物門ウニ綱タコノマクラ目カシパン亜目スカシカシパン科Astriclypeidae 或いは Astriclypeus 属スカシカシパン Astriclypeus manni など)の生体及び死殼及び各種海綿類などを背負って身を隠す習性を持っている、水深一〇~三〇メートル程度の貝殻が多い砂泥底に棲息する甲幅・甲長とも二十ミリメートル程度の短尾下目ヘイケガニ科ヘイケガニ Heikeopsis japonica や、サメハダヘイケガニ Paradorippe granulata(甲幅は約二十五ミリメートル。ヘイケガニに似るが、大型で、和名通り、体がザラザラしている。また、♂の鉗脚上面に毛が生える。北海道から台湾までの東アジア沿岸域に分布し、水深二〇~一五〇メートル程度の砂泥底に棲息する。福島県いわき市周辺では貝殻を被った姿を股旅姿に見立てて「サンドガサ」と呼ぶ)・キメンガニ Dorippe sinica(甲幅約三十五ミリメートル。サメハダヘイケガニよりも更に大型で、甲羅には人面に似た凹凸に加え、毛や疣状突起があり、さらに「彫り」が深く、「目」の部分が大きく見開かれ、その外辺部に角のような棘もあって、鬼面に見えるとこから和名がついた。東北地方からオーストラリアまでの西太平洋とインド洋に広く分布し、水深七〇メートル程度まで棲息している)なども好んで貝殻を背負うことが知られている。
「戸田村」現在の愛知県名古屋市中川区戸田。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在は内陸であるが、この区内の殆んどが現在、海抜ゼロ・メートル地帯であり、海水面より低い地域も多いので、東に庄内川、西に日光川が流れており、汽水の河川敷や海浜や潟がこの辺りまであったことは想像に難くない。日光川側の現在の隣町の名はズバリ、「蟹江町」である。
「莊子(さうし)の逍遙遊(せうゑうゆう)に、鯤(こん)、化(け)して鵬(ぼう)と成(なる)との事」「莊子(そうじ)」の冒頭「逍遙遊」のそのまた冒頭。
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北冥有魚、其名爲鯤。鯤之大、不知其幾千里也。化而爲鳥、其名爲鵬。鵬之背、不知其幾千里也。怒而飛、其翼若垂天之雲。是鳥也、海運則將徙於南冥。南冥者、天池也。齊諧者、志怪者也。諧之言曰、「鵬之徙於南冥也、水擊三千里、摶扶搖而上者九萬里、去以六月息者也。」。[やぶちゃん注:以下、略。]
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書き下しておく。
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北冥に魚あり、其の名を鯤と爲(な)す。鯤の大いさ、其の幾千里なるかを知らず。化して鳥と爲るや、其の名を鵬と爲す。鵬の背(そびら)、其の幾千里なるかを知らず。怒(ど)して飛べば、其の翼、垂天(すいてん)の雲のごとし。是(こ)の鳥や、海、運(うご)くとき、則(すなは)ち將に南冥(なんめい)に徙(うつ)らんとす。南冥とは天池(てんち)なり。齊諧(せいかい)とは怪(かい)を志(し)れる者なり。諧の言(げん)に曰く、
「鵬の南冥に徙るや、水に擊つこと三千里、扶搖(ふえう)[やぶちゃん注:旋風(つむじかぜ)。]に摶(う)ちて上(のぼ)ること、九萬里、去(いんぬ)るに、六月の息(かぜ)を以てする者なり。」と。
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ここは「荘子」の言わんとする人智の及ばない宇宙の絶対原理の大きさではなく、巨大魚の「鯤」が化して巨鳥「鵬」となるというような化生のケースが存在し、その驚くべきギガなものの比喩例がそれ、とのみ読んでおけばよい。
「偶言(ぐうげん)」この場合の「偶」は「滅多にない・稀な」を特化したもので、あり得ないデッチアゲの噂の謂いであろう。
「本草綱目」明の李時珍の薬物書。五十二巻。一五九六年頃の刊行。巻頭の巻一及び二は序例(総論)、巻三及び四は百病主治として各病症に合わせた薬を示し、巻五以降が薬物各論で、それぞれの起源に基づいた分類がなされている。収録薬種千八百九十二種、図版千百九九枚、処方一万千九十六種にのぼる。
「三才圖繪」明の王圻(おうき)及び彼のの次男王思義によって編纂された類書(百科事典)。一六〇七年に完成し、一六〇九年に出版された。全百六巻。
「或人の筆記」これは旧幕臣であった岡村良通の随筆「寓意草」。私は所持しないが、しばしばお世話になっている「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらの記載から見て、間違いない。岡村の次男は、かの海防の必要性を解いた「海国兵談」(寛政三(一七九一)年)を書いた林子平(元文三(一七三八)年~寛政五(一七九三)年)である。良通は徳川氏の御書物奉行として仕えていたが、子平が三歳の頃に『故あって浪人の身となり、家族を弟の林従吾(林道明)に預け諸国放浪の旅に出た』とウィキの「林子平」にはある。
「下總(しもうさ)の國香取」現在の千葉県北東部にある香取市。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在は利根川を挟んで茨城県と対峙するが、かつてはこの境の部分は霞ケ浦に通ずる海が嵌入した場所で大小多くの島嶼や砂州あった。
「獺(をそ)」ネコ目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属ユーラシアカワウソニホンカワウソ Lutra nippon。全国に広く生息していたが、一九七九年以降、目撃例がなく、二〇一二年に絶滅種に指定された。
「鰡(ぼら)」条鰭綱ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus。
「魚の化(けし)たるの」私は、初読時、「がたいから見てもこれは逆で、ボラがカワウソになるのであろう」と誤読してしまった。ここはまさにその通りにカボラが年経て化生したものがワウソだと述べているのであるので注意されたい。「の」は名詞節や準体言を作る格助詞の用法で、「ボラという魚が化(か)した物」の意である。先に示した「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の記載にも『香取の浦の島々には獺がいるが、島人はぼら(鯔)という魚が化けたものであるという。これはぼらの腹にある「うす」というものが、獺にもあるからである』とある。
「うす」想山が最後に述べている通り、「うすと云(いふ)は、臍(へそ)の事かと思はる」で、さすれば、これは「臼」であろう。内臓の丸い出っ張りである。ウィキの「ボラ」から引くと、ボラは『雑食性で、水底に積もったデトリタスや付着藻類を主な餌とする。水底で摂食する際は細かい歯の生えた上顎を箒のように、平らな下顎をちりとりのように使い、餌を砂泥ごと口の中にかき集める。石や岩の表面で藻類などを削り取って摂食すると、藻類が削られた跡がアユの食み跡のように残る』。そうした『餌を砂泥ごと食べる食性に適応して、ボラの胃の幽門部』(胃の腸に向かう出口付近)『は丈夫な筋肉層が発達し、砂泥まじりの餌をうまく消化する』。その『厚い筋肉が発達した幽門』は『「ボラのへそ」「そろばん玉」などと呼ばれ、ニワトリの砂嚢(砂肝、スナズリ)を柔らかくしたような歯ごたえで珍重される』。カワウソは哺乳類であるから当然、臍があり、ボラの発達したそれが「ボラの臍」と呼ばれたことに由来する伝承であろう。
「蟹も此所(このところ)に多く、鳰(にほ)と云鳥(とり)に成(なり)て、半分は蟹、半分は鳰(にほ)なるも有(あり)といへり」「鳰」は鳥綱カイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ Tachybaptus ruficollis のこと。ウィキの「カイツブリ」によれば、普通は『流れの緩やかな河川、湖沼、湿原などに』棲息しているが、稀に冬季や『渡りの際には海上で見られることもあ』り、『主に水上で生活し』、動物食でカニなどの甲殻類も摂餌対象であること、『翼の色彩は一様に黒褐色』で、『嘴は短めでとがり、先端と嘴基部に淡黄色の斑がある』点はある種のカニの色彩と似ていなくもないように私には思われる。なお、この叙述も岡村良通の随筆「寓意草」からである。やはり「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらの記載を見られたい。なお、この部分までを「寓意草」からの引用と、一応、とっておく。
「海獺(かいだつ)」「海獺は、とゞとも云て」この場合の「海獺」(訓では「うみうそ」「うみおそ」)はロケーショから見ても、巨大海獣のトド(ネコ目アシカ亜目アシカ科トド属トド Eumetopias jubatus )ではなく、本邦の沿岸にしばしば現われる、アシカ科アシカ亜科アシカ属ニホンアシカ Zalophus japonicus のことであろう。
「鰡はとゞに成(なる)」これは出生魚としての実際のボラの経年変化による大型化の途中の呼称変化の誤認である(恐らくは岡村の誤認)。現行では(ウィキの「ボラ」に拠った)、
●東北 コツブラ→ ツボ → ミョウゲチ → ボラ
●関東 オボコ → イナッコ → スバシリ → イナ → ボラ → トド
●関西 ハク → オボコ → スバシリ → イナ → ボラ → トド
●高知 イキナゴ→ コボラ → イナ → ボラ → オオボラ
と呼称が変わり、老成したがっしりした大型個体を指す「トド」は、「これ以上大きくならない」ことから、後に「結局」「行きつくところ」などを意味する「とどのつまり」の語源となったことはよく知られるところである。孰れにせよ、「ボラ」が老成して「トド」になるというのは化生なんぞではなく、実際の真実なのである。
「海獺は海獸(かいじう)にして、鰡とは大(おほひ)に違ひたるものなり」ここに関しては、漁師が真実(ニホンアシカ Zalophus japonicus のこと)を語っているのである。
「尋常(よのつね)の鰡の鱗の下に、毛、生出(はえいだ)して、鱗の間(あひだ)より、毛、顯(あらは)れ居(ゐ)る」ここの部分は、恐らくは想山が話者に一杯食わされたんではなかろうか?]