ブログ960000アクセス突破記念 火野葦平 梅林の宴
[やぶちゃん注:これは本来は底本の「皿」の後に入る(意図はなく、ただ単にうっかり電子化を落してしまっただけである)。
ネタバレを避けるために、注は本文の当該段落の後に附した。
本電子化は、昨日、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが960000アクセスを突破した記念として公開する。【2017年6月17日 藪野直史】]
梅林の宴
野から、村から、山から、そのどよめきはおこつた。そして、とめどがなく、あまりにもけたたましすぎて、はじめはなんのことやらまつたく意味がわからなかつたほどである。革命がおこつたのかと考へた者もあつた。或ひは女のための出入りかと思つた者もある。一人の美しい女のために國が傾いたり、國と國とが戰爭したりする例はこれまでたくさんあつたし、その騷擾(さうぜう)のなかからはしばしば女の金切聲がきこえて來たからである。さうでないとわかると、ヤクザどもの出入りかと想像された。無知な博徒たちが繩張といふ勝手な勢力圈をこしらへて、一宿一飯の奇妙な仁義(じんぎ)をふりまはし、無意味に命のやりとりをする事件も、これまでうんざりするほどくりかへされたからであつた。しかし、そのどよめきは以上のどれでもなかつた。以上の三つのどれとも異つた悲壯で悽慘な趣を呈してゐた。
ときに春がおとづれる季節であつたため、すでに雪のとけた大地からはきまざまの花が咲きいで、雲にも、村にも、山にも、鳥は樂しげにさへづつてゐた。まだ櫻は咲かなかつたが、梅はいたるところに紅く白くその高雅な花をひらき、馥郁(ふくいく)とした香をはるか遠くにまで放つて、これまで寒さにふるへてゐた人里に陶然(たうぜん)の風を吹き入れはじめたころなのである。每年の例からすれば、貧しい農家からもゆつたりとした歌聲がきこえ、梅林(ばいりん)に集まつた人間たちが一升德利から酒くみかはして、おどけた踊りで日の暮れるのを忘れるときなのである。ところが、今年は樣相が一變してゐた。筑豐(ちくほう)の野におとづれた春の姿は毎年と少しも變らなかつたのに、これを迎へる人間たちの方がまつたく變つてゐたのである。
香春岳(かはらだけ)のふもとにある梅林に、紅白の花は撩亂(れうらん)と咲きいでても誰一人おとづれる者はなく、まして酒盛りなどの氣配もなかつた。このため河童たちが梅林で宴をひらく宿望を達することができたのである。先祖代々、蓮根畑といつた方がよい泥水の宮下池に棲みなれてゐた河童たちは、いつか一度は香春(かはら)の梅林で一杯やりたいと念願してゐた。しかし、毎年蕾(つぼみ)が咲きはじめてから散つてしまふまで、人間たらに占領されづくめで、その希望がはたされたことがなかつた。今年は大いばりでそれができた。蕾のときは無論のこと、どんなに紅白の花が咲きみだれても人間どもの姿はまつたくあらはれず、まるでこの美しい梅林を突然忘れ去つてしまつたやうな觀さへあつた。
[やぶちゃん注:「香春岳」(現代仮名遣では「かわらだけ」)は現在の福岡県田川郡香春町にある三連山で構成された山塊を指す。ウィキの「香春岳」によれば、地元では「香春岳」とは呼ばず、「一ノ岳」・「二ノ岳」・「三ノ岳」それぞれを分けて呼ぶことが多いという。最高峰は三ノ岳で標高五〇八・七メートルである。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
「どうも變てこだね」
と、一匹の河童がおいしさうに、蓮根酒の盃をかたむけながら、小首をひねつた。
「たしかに變てこだ」と他の一匹が答へた。
「人間どもの考へてゐることはさつばりわからん。しかし、おかげでおれたちは幸(しあは)せした」
「さうだ。いつかはこんな日を迎へたいと、寢言にまで話してゐたからな」
「命がのぴるよ」
「うん、來年もこんな風だとええな」
「だけど、どうして今年は人間どもが梅の花なんか見向きもせんのぢやらうか」
「そんなこた、どうでもええぢやないか。どうせ人間世界なんて、おれたちと無關係なのだ。無關係なことに神經を使ふのは馬鹿げとる。おれたちは河童世界のことだけを考へとればええんぢや」
「わかつた。わかつた。人間のことなんか相手にせずに、大いにやらう」
河童たちの梅林の饗宴はいつ果てるとも知れなかつた。連日これをつづけても人間からさまたげられることがなかつた。
ところが、事態は急變した。人間どもと無關係だと超然としてゐたのに、はからずも河童たちはその人間の騷擾のなかに卷きこまれ、傳説の掟を破つて、人間とたたかはねばならぬ羽目におちいつたのである。
二
河童たちをおどろかせたけたたましいどよめきは農民と武士とのたたかひなのであつた。蓆旗(むしろばた)をおしたて、槍、鍬(くは)、竹槍などを持つた農民たちの一隊が、代官所を襲つて非道の代官をやつつけたところまでは景氣がよかつたのだが、城主のゐる町から討伐隊がかけつけて來ると、百姓たちは總くづれになつた。武士たちは刀劍をふりまはし、槍をしごき、鐡砲まで射ちかけたので、武藝の心得のない百姓たちはひとたまりもない。それでも必死になつて抵抗した。
今年は梅林に人間があらはれなかつた理由を、河童たちもすこしづつ理解するやうになつた。それはすでに長い間、香春岳のふもとに棲んで、すこしは人間世界の事情を知つてゐたからである。騷擾が野にも村にも山にもひろがると、河童たちも梅林へなど行けなくなつた。しきりに流彈が梅林にまで飛んで來て、幹につきささり、花を散らしてゐた。のみならず、梅林が戰場になつて、はげしい戰鬪の後、南軍が去つた後には、農民たちの屍骸が散りしいた梅の花のなかにころがつてゐたこともある。
蓮根池のなかで首だけ出して、河童たらはこの騷ぎをあきれた顏でながめてゐた。ときどき、ヒユーンと蜂のつぶやきのやうな音を立てて彈丸が頭上をすぎた。びつくりして水にもぐつた。しかし好奇心はおさへられず、またそつと頭を出す。ときどき、兩軍が池のほとりの道をあわただしげに走りすぎることもあつた。
「これは百姓一揆(き)といふもんぢやよ」
と一匹の河童がいつた。
「おれもさう考へる」と、他の一匹が答へた。「百姓たらは去年の暮ごろから蹶起(けつき)する下心ぢやつたらしいぞ。いま思ひ當る節がある。それで春になつて梅が咲いても、酒盛りどころぢやなかつたんぢやよ」
「代官所でもうすうすそのことを氣づいとつたにちがはん。さうでなかつたら、梅林から百姓を追つぱらつて、武士たちが遊び步くはずだ。今年は武士も梅林にあらはれなかつたのは、酒盛りの途中、女とたはむれるところを百姓に襲はれることを恐れてゐたのだとおれは思ふ」
「だが、百姓も一揆をおこすまでにはずゐぶん我慢をしたものよ。あんなに武士からいぢめられ、重い税金をとりたてられ、米をつくる百姓のくせに米は食へず、粟(あわ)、稗(ひえ)、豆、それに水を飮むやうな暮しだつたからな。梅林の酒盛りだつて、ヤケ酒みたいなところがあつたからな」
「さうとも、きうとも。どうせ武藝のたしなみのない百姓がどんなに武士に刀向かつたつて勝ち目はない。なんぼ徒黨を組んだところでタカが知れとる。それがわかつてゐながら立ちあがらずに居られなんだところが可哀さうだよ」
「見ろ。あんなに、武士からひどい目に合はされとる」
河童たちはおほむね農民へ同情的であつた。無論、河童たちに人間世界のからくりはわかるはずもなく、なぜ汗水たらして働く農民が一番みじめであるかといふ理由がさつぱりのみこめなかつた。城主の權力が絶對であつて、支配者が思ふままに農民を搾取(さくしゆ)できること、それに抵抗すれば重い罪になるといふことも容易に理解できなかつた。また、一揆を鎭壓に來た武士たちが同じ人間であるのに、まるで蟲けらでもひねりつぶすやうに、無造作に農民たちを殺し、多く殺すほど手柄になるといふことも不可解至極に思はれた。けれども、河童たちは農民の應援にまで出て行く氣はない。義憤は感じても、人間世界にかかはりを持たぬことが傳説の掟であつたし、好んで傷を求める愚もしたくなかつたのである。これまで人間と關係を生じて得になつたためしがなかつた。ヒユーマニズムは爆發させずに垣のこちら側においておく方が無難であると同時に、こころよい自己陶醉も感じる。蓮根池のなかで河童たちは橫暴な支配者へ怒りを燃やしながらも、池から出て行かうとはしなかつた。そして、やはり梅の散らぬ前に騷亂が終結することが河童たらのなによりの望みであつた。
三
「一揆ヲ退治スル功名」を武士たちは誰も狙(ねら)つてゐた。鎭定後の恩賞にあづかれば昇進の道もひらける。そこでできるだけ多く百姓どもを殺さうとし、その首領を捕へようとした。けれども文字どほり必死の農民たらは、正常な武藝は知らないが、命がけの奮鬪をして、あべこべに武士をたふすことが多かつた。武士のなかにも腰拔けはゐて、百姓の竹槍に芋刺しにされた。
討伐隊のなかに河童たちを瞠目(だうもく)させた一人の武士があつた。有馬藩中でも劍豪として知られた戸塚八左衞門である。そんなに身體は大きくなく、むしろ小柄といへるほどだが、その動作の敏捷で、太刀のひらめきの鋭さはおどろくばかりだつた。八左衞門が動きまはると、一揆はまるで大根か胡瓜のやうになで斬りにきれ、彼の周圍にはたちまち百姓たらの屍骸が山と積まれた。河童たちは百姓たらを哀れみ、百姓たちの勝利を祈つてゐたが、一週間ほどの後、一揆は鎭壓された。靜かになつた村の廣場で、一揆の首謀者十數人が磔(はりつけ)の刑に處せられた。その指揮をしてゐたのも戸塚八左衞門である。
[やぶちゃん注:「有馬藩」久留米藩は元和六(一六二〇)年から幕末まで摂津有馬氏が藩主を務めていたから、それを指しているとしか読めないが、香春は久留米からはあまりに距離があり、実際、同所は小倉藩の藩領であったと思われるので不審である。もし、私の理解(不審)に誤りがある場合は御教授戴けると嬉しい。
「戸塚八左衞門」不詳。彼が実在すれば、前の記載の不審も明らかとあるのだが。]
十數本の十字架が立てられ、百姓たちはそれにしばりつけられた。
「お上に刃向かふ不屆者ども、以後の見せしめに命の根をとめてくれる。誰でも彼でも政府の方針にしたがはぬ奴はこのとほりだぞ」
八左衞門はさういつて、十字架上の百姓から、竹矢來の外に押しよせて、歎きかなしんでゐる百姓の家族たちに視線をうつした。彼は城主への忠誠の念にあふれ、任務達成の快感にひたつてゐた。今回の一揆鎭壓における戸塚八左衞門の勳功は拔群である。彼は得意の絶頂にあつた。
八左衞門のするどい三角眼がぐるッと一巡して、その視線が蓮根池に向いたとき、河童たちはびつくりして、水中に沈んだ。自分たちを睨んだやうな氣がしたのである。
[やぶちゃん注:「三角眼」「さんかくめ」と読んでおく。
まぶたの外側がつり上がり、三角形の形になっている目¥のこと。]
「なにがなんでも、恐しい人間どもとは關係を結ばない方が得策だ」
誰もがさう思つてゐた。
それから數日後、大勢の人夫たちがどこからか莫大な土砂を運んで、宮下池のほとりにやつて來た。赤や黒の土を積みあげた車力や馬車が陸續としてつづいた。
「いつたい、なにことがはじまるのだらう」
「人間どものすることはわからない」
「なにをしても相手になるな」
河童たちは不安の面持でさきやきかはした。
土砂運搬隊を指揮してゐるのも戸塚八左衞門だつた。彼は藩主からその手腕を買はれ、新しい任務をさづけられたのである。
「ようし、早く池を埋めろ」
と、八左衞門は號令をくだした。
人夫たちはいつせいに運んで來た土砂を蓮根池に投げこみはじめた。土と人數とが多いので、あまりひろくもない池は見る見るうちに埋めたてられて行つた。
河童たちは仰天した。先祖代々からの棲家がうしなはれようとしてゐる。だんだん狹められて行く池の水の殘りの部分へ、右往左往して逃げて行きながら、河童たちはあまりのことに淚も出なかつた。まつたく人間どもの心はわからない。人夫となつて働いてゐるのはみんなこの村の百姓たちだ。ついこの間まで蓆旗を立て、鎌、鍬、竹槍をふるつて武士に反抗した百姓たちが、その敵の武士の手先になつて、唯々諾々(ゐゐだくだく)と命令にしたがつてゐる。河童たちは一揆の間、終始百姓たちに同情し、實際上の鷹援はしなかつたとしても、百姓たちの味方のつもりでゐた。それなのに、その百姓たちは河童のもつとも大切な住居を埋めたてて、追放しようとしてゐるのだ。
「こんな馬鹿なことがあるか」
河童たちはあきれ顏でブツブツと呟(つぶや)きあつたが、そんな河童の思惑などどこ吹く風かと、池は急速に野と化して行つた。
「よし、おれが交渉して來る」
つひに我慢しきれなくなつて、一郎坊が眉をあげた。
「賴む」
と、他の河童たちも異口同音にいつた。
人間どもの理不盡に對して、河童たちは團結してたたかふ勇氣はなかつた。梅林で酒盛りするときにはすぐ團結するが、人間とたたかふことは生命にかかはるので、おいそれと團結ができなかつたのである。それに、百姓一揆鎭壓における武士どものすさまじい暴力、刀、槍、鐡砲などの武器の恐しさを見たばかりだつたので、河童たちも躊躇せずには居られなかつたのであつた。誰も好んで危險に近よりたくはない。それで、一郎坊が交渉方を買つて出ると、ほつとした面持で、これに望みを托した。
一郎坊は思慮と勇氣に富む若者であつた。宮下池には大頭目は居らず、もと筑後川九千坊の二十七騎の一人であつた三百坊が、その昔の閲歷(えつれき)によつて、名目上の頭領となつてゐたが、元來が愚圖で、お人よしなので、統率力などはない。九千坊から破門同樣になつて、たわいもない蓮根池に左遷されるくらゐだから、その器(うつは)も知れてゐる。そこで、仲間うちには三百坊をしりぞけて、一郎坊を首領にいただかうと考へてゐる者もあつたほどである。その一郎坊なので、河童たちも大いに期待をかけた。
大きな石に腰をかけ、銀煙管でスパスパ煙草をくゆらしながら、人夫たちを監督してゐる戸塚八左衞門の前に、一郎坊は姿をあらはした。うやうやしく膝をつき、頭の皿の水がこぼれないやうに用心しながら、頭を下げた。
八左衞門は、突然、奇妙な動物が眼前に出現したので、三角眼をパチクリさせ、
「その方は何者だ?」
「河童でございます」
「なに、河童?」
「わたくしどもは、いま、埋めたてられて居ります宮下池に、先祖代々棲みなれて居ります河童です。お役人樣、お願ひでございます。わたくしどもの命から二番目の家をとりあげないで下さい。この池を埋めたてることを思ひとどまつて下さい」
「馬鹿なことを申すな。われわれにはこの土地が必要なのだ。殿の命(めい)によつてここに大馬場(だいばば)を作ることになつたのだが、この池が邪魔になる。よつて埋めたてるのになんの異存があるか」
「異存がございます。この池がなくなればわたくしどもは放浪しなくてはなりません。われわれ河童にとりましては一大事でござ小ます」
「ワッハッハッハッ、河童なんどのために、國家が決定した工事の中止ができるものか。いくらいつても駄目だ。歸れ、歸れ」
「歸りません。埋めたてを中止していただくまでは、ここを動きません。なにとぞ、お情を持ちまして、わたくしどもの大切な池を……」
「うるさい奴だなあ。政府の方針に楯(たて)をつくと容赦はせぬぞ」
「戸塚八左衞門樣、このとほり、頭を地につけまして、一同のため御歎願申しあげます」
「くどい」
その言葉と同時に、河童はあふむけにひつくりかへつた。背の甲羅にはげしい痛みをおぼえ、頭の皿から水が流れ出て氣が遠くなつた。さらに足や肩に火でも投げつけられたやうな疼(うづ)きをおぼえたが、そのあとは意識が朦朧となつた。
太い木劍をにぎつて立ちあがつた八左衞門は、
「馬鹿なやつ奴」
といつて、高らかに哄笑した。
人夫たらは八左衞門の不思議な擧動を、眼を皿にして凝視した。袖をひきあつてささやきあつた。突然、氣がちがつたのではないかと思ふ者もあつた。なぜなら、彼等の眼には河童の姿は見えなかつたからである。
四
二年ほどが經つた。
或る夜、月下の梅林で、河童の宴がひらかれてゐた。
香春岳(かはらだけ)はくつきりと夜空に浮きあがり、空には滿月とともにきらめく星の數も多かつた。梅林には相かはらず春にさきがけて梅の花が吹きみだれたが、晝間は武士か百姓かに占領されてゐるので、河童たちは深夜をえらばねば仕方がなかつた。今年は天地開闢(かいびやく)以來の大豐作とかで百姓はホクホクだつた。しかし、苛斂誅求(かれんちゆうきゆう)は一層はげしくなつてゐて、いくら豐作であつてもその大部分は藩主からとりあげられる。しかし、その搾取のはげしさに對しても、二年前の失敗にこりた百姓たちは泣き寢入りをしてゐた。ただ、ものが豐富にあるといふことはなんといつても氣持のゆとりを作るので、百姓たちの鼻息も荒く、梅林での宴會も度かさなるといふわけだつた。
[やぶちゃん注:「度かさなる」「たびかさなる」。]
月は夜ふけとともにすこしづつ西にかたむいて、地上にうつる梅の木の影もしだいに東へ向かつて長くなつて行つた。宮下池を埋めたてられたため、その狹かつた蓮根池よりもつと狹くて水のきたない、泥沼といつた方が早い夜宮池(よみやいけ)に引つこさざるを得なくなつた河童たちは、やはり環境の影響で氣力も減退してゐた。ひとり元氣溌刺として、この二年間變らなかつたのは一郎妨だけである。
「きつと、思ひをとげて見せる」
その願望のはげしさによつて、彼はつねに内部を充足させ、この二年間で仲間を瞠目させる生長を遂げた。頭目三百坊がノイローゼでいよいよ器量を下げたので、一郎坊は仲間のホープとなつたのである。しかし、彼にはたかが夜宮池の小頭領になつていばらうといふやうなケチな考へはなかつた。彼の唯一の宿念は人間に打ち克つことである。全精神はそのことで燃え、この二年間、孜々(しし)として鍛錬に倦むところがなかつた。
[やぶちゃん注:「孜孜として」熱心に努め励むさま。]
戸塚八左衞門から太い木劍で打擲(ちやうちやく)された傷は、一カ月ほどで癒へた。それから一郎坊は猛然として、武藝修業をはじめた。彦山川(ひこさんがは)にゐる阿修羅坊(あしゆらばう)は性格が粗暴のため、武藝の點では河童界にならぶ者がなかつたのに、つねに孤立してゐた。人德がないので、子分が寄りつかないのである。劍豪だといつておだてておいて敬遠してゐた。その阿修羅坊を師と仰いで、一郎坊は苦しい二年間の精進をした。戸塚八左衞門の腕前のほどは自分の眼でたしかめてゐるので、彼をたふすためには彼以上の力を必要とする道理である。
[やぶちゃん注:「彦山川」現在の福岡県田川郡添田町の英彦山(ひこさん)を源流とする全長約三十六キロメートルの川。同県の直方(のうがた)市で遠賀川に合流する。]
「一郎坊、みごとな上達ぢや。それならもう八左衞門に負ける心配はない」
二年の後、師の阿修羅坊は滿足げにいつた。
「ありがたう存じます。これまでの御指導によつて彦山流奧義をきはめることができました以上は、ただちに大月に參上し、憎みてもあまりまる戸塚八左衞門を打ち負かして歸ります」
[やぶちゃん注:「大月」不詳。小倉藩にも久留米藩にもこのような地名はない模様で、現在の福岡県内にも現認出来ない。]
「まだ彦山流の免許皆傳といふわけぢやない。祕傳はなほある。ぢやが、今くらゐ上達すれば、戸塚八左衞門を負かすには事缺くまい。行け」
「きつと勝つてみせます」
かういふ次第で、いよいよ宿望の仇討行を決行することになつた一郎坊のため、今宵は梅林で壯行の宴が張られてゐるのであつた。師の阿修羅坊も特にはるばるやつて來て出席してゐた。性粗暴な者が劍術の師範であることは警戒を要するので、河童たらはビクビクしてゐたが、噂とはちがつて、阿修羅坊は豪快な飮みぶりではあるが、格別、あばれたりからんだりする樣子はなかつた。それどころか、弟子のために、壯行の歌をうたひ、梅の木の枝を折つて手ごろな木劍をこしらへてくれた。
「一郎坊、この木劍を試合に使へ。わしなら枝に花をつけたまま試合をし、どんなにはげしく丁々發止(ちやうちやうはつし)とわたりあつても、花は散らさぬが、お前にはまだそれは無理ぢやらう。この梅の劍で、八左衞門の腦天を割れ」
「なにからなにまで、お薰情かたじけなく存じます」
一郎坊はその梅の木劍をおしいただいた。梅の香がまだ殘つて居り、折られたばかりの枝の切口からは伽羅(きやら)に似た芳香があふれ出てゐた。二三度打ちふつてみると、實に使ひよい恰好の武器で、
(これで勝てる)
その自信が出來た。
[やぶちゃん注:「伽羅」梵語の音訳「多伽羅」の略で「黒沈香(じんこう)」の意。沈香の最優品を言う。沈香はジンチョウゲ科の常緑高木の幹に自然或いは人為的につけた傷から真菌が侵入、生体防御反応によって分泌された油・樹脂の部分を採取したもので、香木の代表とされる。当該木材の質量が重いために水に沈むところから「沈水香」とも呼ばれる。インド・ベトナム・東南アジア産であるが、その中でも特に優良な製品を伽羅と呼び、香道で珍重される。]
「一郎坊の武道長久を祈つて乾盃しよう」
三百坊の音頭で、いつせいに盃があげられた。無氣力で無能力な三百坊頭領も乾盃の音頭をとることくらゐは出來た。數十の蕗(ふき)の葉の盃から、蓮根酒がせせらぎのやうに音をたてて飮み干された。
夜目にも大馬場(だいばば)が望まれた。月光をうけてゐて湖のやうに見える。ここでは馬術のみならず、弓、槍、劍、薙刀(なぎなた)、手裏劍(しゆりけん)、鎖り鎌等、あらゆる武道の鍜錬がなされてゐた。馬場の右には實彈射擊場もつくられ、鐡砲の音もしばしば聞えた。それは武士の示威(じゐ)運動のやうでもあり、來るべき戰爭の備へのやうでもあり、庶民の血税によつて成立した軍事豫算を使ひすてる無意味な行爲であるやうにも見うけられた。人間のすることは河童にはわからないことだらけだが、一つだけ確實にわかつてゐることは、この大馬場の下には嘗てのなつかしい宮下池があるといふことであつた。
[やぶちゃん注:「鍜錬」「たんれん」。鍛錬。「鍜」は「鍛」の異体字。]
(おれが八左衞門の木劍で打らたふされたのは、あの、流鏑馬(やぶさめ)の的のある場所だ。畜生、今に見て居れ)
復讐の念に燃える一郎坊の若々しい瞳は、妖しくギラギラ光つてゐた。
五
戸塚八左衞門の家は大月町のはづれにあつた。その一帶は中祿者(ちうろくしや)の武家屋敷になつてゐて、練土塀(ねりどべい)に冠木門(かぶきもん)のついてゐる家がならび、方々に海鼠壁(なまこかべ)があつて、火の見櫓が立つてゐた。周圍は松林である。その裏を尾奴川(をぬがは)が流れ、對岸に霧岳(きりだけ)がそびえてゐる。閑靜で、風光もまづ惡くない。
[やぶちゃん注:「大月町」前に注した通り不詳であるが、以下の「尾奴川(をぬがは)」もその対岸にあるとする「霧岳」も不詳なのは、或いは、この、一見、冒頭、香春の実在ロケーションと匂わせながら、実は存在しない「有馬藩」という仮想藩の、仮想の剣豪「戸塚八左衞門」という作者火野葦平の確信犯の虚構設定なのかも知れぬと思われてきた。
「練土塀」練った泥土と瓦を交互に積み重ねて築き上げたその上に瓦を葺いた塀のこと。
「冠木門」左右の門柱を横木(これを「冠木(かぶき)」と称する)によって構成した門。]
(これで、百姓一揆だの、戰爭だのがなかつたら申し分ないのだが、……)
八左衞門は築山のある屋敷内の庭を散步しながら、そんなことを考へる。劍豪と稱せられる八左衞門も好んで人と爭ひたくはないし、人を斬りたいこともない。やはり、平和が好きだ。特に最近はさう思ふやうになつた。二年前の一揆鎭定の功を賞(め)でられて、馬𢌞り三百石にとりたてられてから、幸運が追つかけて來るやうに相ついだ。それをいちいち書くことは省くが、ともかく彼は家中の同僚たちから羨望の眼をもつて見られ、事あるごとに「戸塚氏にあやかりたいものでござる」と合言葉にいはれるほどになつてゐた。おまけに、家老の娘を嫁にもらつたばかりだ。このまま波瀾などなく幸福な一生をすごしたいのである。
(しかし、また、百姓一揆がおこるかも知れぬ。どうも最近不穩な動きがほのみえる。腹の立つ百姓ども奴)
八左衞門はただ騷ぎをおこす百姓の方にばかり憎しみがわいた。なぜ百姓が蹶起せずには居られないのか、その原因の方には頭が向かない。一揆がおこれば八左衞門が討伐隊長に任命されることは既定の事實といつてよかつた。
領主有馬種次(ありまたねつぐ)は口癖に、
「一揆は八左衞門にまかせておけばよい。八左衞門にかかつたら、どんなたちのわるい一揆でも、鼠か蚤のやうに、ひとたまりもなくひねりつぶされてしまふわ」
といつてゐるからである。
[やぶちゃん注:太字「たち」は底本では傍点「ヽ」。
「有馬種次」不詳。久留米藩有馬氏の歴代藩主には「種次」なる人物はいない。ますます虚構性が、俄然、増してきた。]
(なんにもおこらんでくれ。このまま、十年でも二十年でも、平穩無事がつづいてくれ)
八左衞門は必死のやうに、なにかに向かつて心中で祈るのだつた。
或る夜、もう深更になつてから、八左衞門の寢處の雨戸をかるくたたく者があつた。
「戸塚八左衞門殿、……戸塚殿、……八左衞門殿、……」
さう呼ぶ聲も聞える。聞きなれぬ聲音なので、八左衞門は小首をひねつた。男のやうでもあり、女のやうでもあり、皿をたたく音か、キツツキが木の幹をつつく音のやうでもあつた。しかし、この聲を八左衞門は聞いてゐるはずなのである。しかし、もはや二年前のことであるし、香春の大馬場埋立工事のとき、文句をいひに來た河童のことなどは、とつくに念頭から去つてゐたので、すぐには憶(おも)ひだせないのであつた。
「あなた、誰でせう?」
妻の菊乃も眼をさまして、不審の眉をひそめた。
「出てみよう」
丹前姿のまま、八左衞門は手燭をかざして、廊下に出た。腕におぼえがあるので、何者であつたところで恐れる氣持はなかつた。
「戸塚殿、……八左衞門殿」
と、なほも呼んでゐる聲の場所に行つて、油斷なく雨戸を一枚めくつた。
月光がさして晝のやうに明るい庭に、異樣な動物が一匹立つてゐた。ぬれてゐる身體や、頭のてつぺんにある丸い皿がキラキラ月に光つてゐる。それを見た瞬間、
(ああ、あのときの河童の聲だつたのだ)
と、思ひだした。
河童は一本の木劍を右手に待つたまま、
「戸塚八左衞門樣、お久しゆうございます」
「うん、久しいなあ」
「わたくしを御記憶ですか」
「よく憶えてゐる。あれから二年になるかなあ。ハッハッハッハッ……」
八左衞門は當時のことを思ひだすとをかしくてたまらなくなり、笑ひだしてしまつた。
一郎坊はむつとして、
「それなら、もう、わたくしがここへ參りました理由はおわかりになつたでせう?」
「仕返しに來たのか」
「そのとほりです」
「よし、待て」
八左衞門も劍の達人であるから、相手の河童が二年前とはすつかりちがつてゐることに、すぐ氣づいた。二年前はだらしがない未熟者であつたのに、いま眼前にゐる河童は全身に堅確の氣が流れ、寸分の隙もない。劍氣に殺氣が重なつて、一種劍妖に似たすさまじさを呈してゐる。
[やぶちゃん注:「堅確」(けんかく)は、しっかりしていて動じないこと。確固。]
(これは油斷がならぬ)
と警戒心がわいた。
やがて、數分の後、ひろい庭では、二人の劍客の息づまる試合が展開されてゐた。月が明るいので、進退に不自由はない。どちらも木劍をかまへ、祕術をつくしてわたりあつた。
六
どちらの額にも油汗がふき出て來た。正直いふと、八左衞門は相手を油斷がならぬと警戒はしたものの、どんなに河童が克くてもタカが知れてゐると思つてゐた。それで、立ちあひと同時に打ちこんでしまふつもりでゐたのに、それができなかつた。それどころか、ちよつとでも氣をゆるめると、こちらが打ちこまれさうになる。河童の身體は魚か鳥かのやうに敏捷で、その飛びまはる間からつきだして來る木劍のするどさは、膽を冷やさせるほどだ。もし頭に當れば腦天がわれてしまふし、胴に當れば肋骨が折れてしまふだらう。足や腰に受け損じればみぢんに碎かれるにきまつてゐる。
(あつぱれな達人ぢや)
河童の分在とあなどつてゐたので、舌を卷いた。しかし、感心してゐてもはじまらぬ。命の瀨戸際になつて來たので、八左衞門も必死だつた。
河童の方も同樣な昏迷にとらはれてゐた。
(阿修羅坊師匠は、これならもう八左衞門に勝てるといつたのに、……?)
自信を持つてゐた一郎坊も、相手の強さにたじたじだつた。しかし、これとて、師を恨んでみたところで、眼前の一瞬々々に生死を賭けてゐるので、全力をつくしてたたかふほかはなかつた。どちらもが計算ちがひをしたのである。
試合は數刻におよんだが、勝敗は決定しなかつた。兩劍客はへとへとになつた。
[やぶちゃん注:「數刻」一刻は一般には現在の三十分相当。「數刻」という以上は最低でも一時間半にも及ぶか。後の野次馬蝟集を考えると、確かに非常に長い間、この決闘は続けられたことが判る。]
ところが、二人が知らぬ間に、周圍には人だかりがしてゐた。妻菊乃が夫が寢室から出て行く樣子が變なので、後をつけてみると、丹前を着物に着かへた。襷(たすき)をかけて袴の股立(ももだち)をたかくとつた。愛藏の樫の木劍を持つて庭に出た。そして、一人で木劍をふりまはしはじめたのである。
[やぶちゃん注:「股立」袴の左右両脇の開きの縫止めの部分を指す。そこをつまんで腰紐や帯に挟んで袴の裾をたくし上げることを「股立を(高く)とる」と称し、走ったり、試合をする際の敏捷な活動のプレの仕度の一つを指す語となった。]
「一體、どうしたのでせう?」
老母をおこしたので、女中や仲間(ちうげん)も出て來た。近所にもふれ步いたので、同僚も見物にやつて來た。亂心したのではないかと疑ふ者が多かつたけれども、さうとばかりもいはれない。河童の姿は八左衞門だけにしか見えないので、八左衞門の擧動がすべて氣ちがひじみて見える。しかし態度が眞劍で氣魄に滿らて居り、聲をかけるのを憚らせるなにかがあつた。劍をふるひながら、一人氣合のこもつた掛け聲を發して、月光のなかを跳躍する八左衞門の姿は、劍鬼になつた觀さへ示してゐた。
長いせりあひの後、一郎坊は木劍を引いた。
「戸塚殿、今夜はこれまでとします」
「逃げるのか」
「とんでもない。あくまであなたとたたかひますよ。しかし、今夜は疲れたし、時刻もううつたので、勝負なしとし、明晩また同じころに參ります」
「よし、待つてゐる」
實は八左衞門もほつとして、河童の申し出に同意した。
河童は裏木戸からいづこへともなく立ち去つて行つた。その舌打ちするやうなぬれた足音が、尾奴川のほとりから霧岳の方角へ遠ざかつて行くやうだつた。そのかすかになつた足音が絶えてしまふと、八左衞門はぐつたりとなつてそこへへたばつた。
片唾(かたづ)をのんで見物してゐた連中がかけよつて來た。口々に、一體どうしたことか、譯を早く聞かせて欲しい、といつた。
八左衞門は汗でどろどろになつた顏に、につと不氣味な笑みをたたへ、會心の面持で呟いた。
「はじめて、相手にとつて不足のない好敵手を得申したよ」
糊(のり)のやうに疲れてゐたので、その夜はそのまま寢處にかへり、翌日になつて一部始終を家族の者に話した。二年前、軍事基地を擴張するため、河童のゐる池を埋めて、抗議に來た河童代表をひと打ちにたふした話は、前に何度かしたことがあつたので、聞いた者は河童の執念に身ぶるひする面持になつた。しかし、八左衞門は敵ながらあつぱれといつて河童を褒めた。それは家中の者に對する皮肉にも聞えて、戸塚八左衞門はノイローゼにかかつてゐるのだと蔭口をたたく者もあつた。
[やぶちゃん注:「糊(のり)のやうに疲れてゐた」聴き慣れない直喩であるが、体がぐにゃぐにゃになってべったりと横たわってしまいたくなるほど、といった意味合いとしては、よく判る。]
この話はたちまち一日のうちに町全體にひろがつた。このため、次の夜は戸塚家には觀衆が押しよせた。八左衞門は閉口したが、好奇心をおさへることのできない野次馬は、まだ日も暮れぬうちからよい座席をとるために亭(ちん)や築山や練塀のうへに頑張る始末だつた。庭の木にのぼつてゐる者も多い。家中の武士のなかには手土産を下げて來て、老母や細君をくどき落して、特等席を豫約する者もあつた。
[やぶちゃん注:「亭(ちん)」屋根だけで壁のない休息所とする四阿(あずまや)のこと。]
「弱つたな」
へこたれた八左衞門が頭をかくと、老母や妻は、
「いいぢやないの。あなたの腕前を見せるのだから」
と、かへつて群衆の殺到を歡迎してゐた。
七
約束どほり、河童はやつて來た。そして、前夜のとほり、二人ははげしくたたかつた。今夜も容易に勝敗がきまらなかつた。
見物はできるだけ姿をあらはさないやうに、片唾をのんでこの試合を見守つた。といつても、八左衞門だけしか見えないので、變てこな具合である。ただ氣合のこもつた八左衞門の進退、木劍のうごき等によつて、河童のゐることを想像するほかはなかつた。木劍のはげしくかちあふ音、八左衞門のではない、陶器を打つやうな奇妙な掛け聲がときどき聞えるので、河童の存在を疑ふことはできなかつた。
「八左衞門殿、しつかりおやり」
老母も菊乃もゐても立つても居られない氣持で、口からいく度となくその言葉が出かかつた。しかし、聲援や應援は絶對にしてくれるなと、かたく八左衞門から禁じられてゐたので、ただ氣があせるばかりだつた。方々に潛(ひそ)んでゐる觀衆も聲援したい衝動にかられたが、やはり我慢をしてゐたので、數百人の人間がゐるのに、奇妙に邸内はしいんとしてゐた。月光ばかりが明るい。
(人間どもの考へてゐることはわからん)
試合をつづけながら、一郎坊はあきれてゐた。命をかけた眞劍勝負をしてゐるのに、まるで野球かレスリングを見物するみたいに、人間が集つてゐる。どこにどんなに隱れてゐても河童にはわかつた。しかし、それもいいと思ふ。八左衞門が河童をやつつけるところを大勢の人に見せたいといふのなら、一郎坊の方も八左衞門を降參させるところを見せてやりたい。人間に打ち克つ、人間を嘲笑してやる絶好の機會だ。そして、さらに一郎坊は全力をふるひおこし、八左衞門打倒のために祕術をつくした。時がながれ、月がかたむいた。
「戸塚殿、今夜はこれまでといたしませう」
「よろしい」
八左衞門が木劍を引くと、河童の足音が裏木戸から、尾奴川べりへ、そして、霧岳の方角に遠ざかつて行つた。
その翌日はたいへんなことになつた。評判は擴大するばかりで、たうとう領主有馬種次の耳に入つた。八左衞門の妻が家老の娘であるから、自然といへば自然だつた。藩主はすこぶるこのことに興味をおぼえ、三日目は戸塚邸へ出張して見物するといふ達しがあつた。さうなると、簡單ではすまされなくなる。にはかに戸塚家では大掃除が開始され、襖や疊がはりかへられた。植木の手入れもされ、練塀や冠木門のペンペン草も拔きとられた。庭には城主の紋章入りの幔幕が張りめぐらされ、まるで御前試合のやうなものものしさだつた。
「弱つたな」
八左衞門は恐慌(きようくわう)の態である。しかし、領主の命令は絶對で拒みやうがなかつた。
(今夜はどうしても河童奴を打ち負かさねばならぬ)
八左衞門は齒を食ひしばつて、覺悟を新にした。神佛に祈願をこめ、水垢離(みづごり)をとつた。老母や女房は領主が自宅にお成りになるといふので、感泣してゐた。
日が暮れて、月が出た。月がかたむいて深夜になつた。庭にさす月が明るくなつた。
「そろそろ參る時分でございます」
凛々しい試合支度の八左衞門は、緣側の床几に腰かけてゐる有馬種次に告げた。
「しつかりやれよ」
「はい」
「そちがその劍豪河童を打ち負かしたならば、二百石を加増し、有馬家指南番にとりたてて仕はす」
「かたじけなうござります」
ところが、深更をすぎても、河童はあらはれる樣子がなかつた。月はぐんぐんと霧岳のいただきに吸ひこまれて行き、どこかで一番鷄が鳴きはじめた。殿樣をはじめ見物は欠伸(あくび)を連發し、居眠りをする者もあつた。東の空が白みはじめた。八左衞門はいらいらして待つたが、呼びに行く術もなく、朝を迎へてしまつた。
不興の果、激怒した藩主は、
「たはけ者奴が。切腹申しつける」
はげしい言葉をのこし、寢不足の赤い眼をこすりながら、駕籠(かご)で城へ歸つて行つた。
八
一郎坊は必死の思案をめぐらしたのであつた。二日間たたかつてみて、戸塚八左衞門の強さがわかつた。といふより、まだ自分の腕が未熟なのだと悟つた。現在の實力をもつてしては試合は堂々めぐりをつづけるばかりで、勝敗は決定しさうもない。もうちよつと強ければ勝てるのだ。さう思つたとき、師阿修羅坊の言葉が浮かんだ。
(さうだ。師匠はまだ免許皆傳ではないといつた。もつと祕傳があるといつた。それを教へてもらはう。さうすれば、きつと今度は八左衞門をたふすことが出來るにちがはん)
そして、一郎坊は三日目の勝負に行くことをやめ、倉皇(さうくわう)として彦山川へかけつけたのであつた。一日目には別れるとき、翌夜はかならず行くと約束したが、二日目には別に三日目の試合を約束はしなかつたので、不信の行爲をしたとは思はなかつた。阿修薙坊から極意(ごくい)をさづかれば、早速また試合に出なほすつもりだつた。
[やぶちゃん注:「倉皇」「蒼惶」とも書き、慌てふためくさま・慌ただしいさまを指す。]
(出なほしだ。この木劍はもう要(い)らぬ)
いくらたたかつても勝つことのできなかつた緣起のわるい木劍だと思ひ、尾奴川の岸に立つたとき、これを粉みぢんにへし折つて、そこへ打ちすてた。そして、一散に大月町を後(あと)にしたのであつた。
彦山川のほとりで、阿修羅坊は首をひねつた。苦笑しながら、
「ふうん、戸塚八左衞門らゆうのがそんなに豪傑か。ちと勘定ちがひをしたかな。よしよし、お前もそこまで考へつめとるなら、あくまで目的を達成せねば氣がすむまい。とつておきの祕傳ぢやが、特別にさづけて仕はさう。よく覺えて行け」
それから數日、血の出るやうな稽古がつづいた。一郎坊は眞劍だから、むづかしい祕傳を短時日によく會得した。これでよからうと免許皆傳を許した師匠は、また新しい木劍を今度は桑の木で作つてくれた。勇み立つた一郎坊は宙をとぶやうにして大月町にかけつけた。
(いつたいこれはどうしたことだ?)
尾奴川をわたり、戸塚八左衞門邸の前に立つて、一郎坊は茫然となつた。もはやそこにはまつたく見知らぬ他人が住んでゐて、八左衞門の姿はなかつた。不思議なことに思ひ、人間に化けて町のうどん屋で、それとなく事情を聞いてみた。戸塚八左衞門と河童との試合は小さな城下町では有名な大事件になつてゐたので、うどん屋の女將は詳しい事情を知つてゐた。それによると、八左衞門は殿樣の逆麟(げきりん)にふれ、切腹して死んだといふのであつた。
一郎坊は仰天した。昏迷した。
(おれがあれだけ武術の極意をつくしても、たふすことのできなかつた劍豪を、藩主は手をくださずして、たつた一言の言葉で殺してしまつたといふが、これはなんの極意だらう。恐しく強い人間もあつたものだ。どうしてそんなすばらしいことができるか、殿樣に逢つて教へてもらはう)
さう決心した一郎坊は、城内に忍びこみ、有馬種次の前に姿をあらはした。
「殿樣」
膝まづき、頭の皿の水がこぼれぬやうに注意しながら、お辭儀をした。
突然、奇怪な動物が眼前にあらはれたのを見て、城主はまつ靑になつた。腰を拔かし、がたがたとふるへだした。齒の根もあはず、ふるへ聲で、
「だ、だ、だれか居らぬか。……ば、ば、ば化(ば)けものが出たァ。助けてくれえ」
武士たちのかけ集まつて來る氣配に、一郎坊は急いで城を退散した。なにがなにやらわからなくなり、泣きさうな顏つきになつて、故郷の香春岳(かはらだけ)のふもと、夜宮池の方角へ步を轉じた。
數年の後、尾奴川(をぬがは)のほとりに、梅林が出現してゐた。一郎坊がちぎりすてた梅の木劍が全部芽をふいたものである。そこは大月町の新名所となり、花咲くころには賑はつた。宴會ももよほされる。
香春岳をかこむ村々に、またも、どよめきがおこつた。その一揆を鎭壓するため、討伐隊が編成された。討伐隊は壯行宴をこの大月の梅林でからいた。領主有馬種次もその席に望み、勇しく部下を督勵した。
「生意氣至極の土百姓どもを、一人のこらずひねりつぶせ」
その姿は颯爽とし、その聲は凛としてゐた。