「想山著聞奇集 卷の四」 「古狸、人に化て來る事 幷、非業の死を知て遁れ避ざる事」
古狸、人に化(ばけ)て來(きた)る事
幷、非業(ひがう)の死を知(しり)て遁(のが)れ避(さけ)ざる事
稻葉丹後守正通朝臣は相州小田原の城守なりしが、京都諸司代職[やぶちゃん注:「所司代」の誤り。]に命ぜられて、家中の上下勤役(きんやく)の者を撰(えら)み、彼(かの)地へ隨從(ずいじゆう)なさしめ給ふ、夏に大野與次(よじ)兵衞と云(いふ)家士有(あり)て、死して後(のち)、其(その)子四太郞、父の祿を承繼(うけつぎ)て、童形(どうぎやう)のまゝ勤仕(ごんし)なし居(ゐ)て、漸(やうやく)十六歲と成(なり)けるが、老母壹人のみにて、兄弟其外、親屬迚(とて)も一人もなし。しかれども、與四(よし)太郞も此撰(えらみ)の内に預りて、京都へ隨從する命を蒙りたり。由(よつて)老母の孝養盡(つく)すべきものなきを以(もつて)、京地(きやうち)へ母同道の儀を願ひて、速(すみやか)に聞濟(ききずみ)と成(なり)、元服して父の名に改(あらため)て、與次兵衞と云。然(しか)るに貞享二年【乙丑】[やぶちゃん注:一六八五年。]正通朝臣、諸司代職退役の臺命(たいめい)有て、越後國高田の城へ替地仰付られ、高田は是迄、越後中將光長卿の領所にして、城も大きく、家中の家敷も分(ぶん)に過(すぎ)て廣く、由(よつ)て役人宍戶(しゝど)五太夫と云者、主命を請(うけ)て、屋敷割(やしきわり)をして、與次兵衞にも廣き家敷を賜りて住居(じゆうきよ)す。元來、與次兵衞は未(いまだ)妻子もなく、老母と二人にて、僕從(ぼくじゆう)の外には、京都にて抱(かゝへ)おきたる老婆壹人のみにて、【此處老婆は、もと京の片田舍醍醐(だいご)のものなるが、不幸にして世にたつきなく、妹聟(いもうとむこ)の元に育(やしな)はれ居(ゐ)て、漸(やうやう)妻木(つまぎ)[やぶちゃん注:爪木(つまぎ)。手の指先で折り取れるほどの薪(たきぎ)用の細い枝。]を商ひて助(たすけ)となして、かすかに世を渡り居るものを抱(かゝひ)て遣ひたり。此老婆、若かりし時は雲上方(うんじやうがた)にも奉公なし、賤敷(いやしき)身ながらも心も優(いう)にして、聊か和哥の道にも心有(あり)て、與次兵衞母子に仕(つかへ)る事類ひなくやさしかりけれは、母子の悅び、大かたならずして、厚く目を懸(かけ)て遣ひけるにより、姥(ばば)も甚だ悅びて事(つか)はるゝ所に、俄(にはか)に斯(かく)所領替(かは)りて、夢にも知らぬ越路(こしじ)の住居と成(なり)、馴染みたる老婆に別れ行(ゆく)事、名殘(なごり)をしさよ、と母子の語り合ふを聞(きゝ)て、姥は忝(かたじけな)き事に思ひ、迚(とて)もよるべなき身なれば、生涯を此家に過(すご)して、先度(せんど)を見屆け給らば、ゆかりのものに談(はな)し合(あひ)、越後までも參りて事(つか)へ奉らんとて、身寄のものにも談合して、はるばる越路へ付行(つきゆき)たる女なり。】は至(いたつ)て人小(せう)なれば、爾(いよいよ)以(もつて)、家居(いへゐ)も廣過(ひろすぎ)て、こぼち取(とり)たる所も有て、本家(ほんや)[やぶちゃん注:母屋。]と長屋の間も遙に隔り居て、猶更、淋敷(さびしき)事也。越後は雪國と云(いふ)内にも、高田は別して雪の甚敷(はなはだしき)所にて、今年も雪、殊の外降積(ふりつもり)、寒氣も甚敷(はなはだしく)、初(はじめ)て住居(ぢゆうきよ)する輩(ともがら)は、一入(ひとしほ)、寒苦を愁ふ。主君も、心欝々として、冬籠りをなし居(お)られ、居間の次には諸士を寄(よせ)られて、己(おの)がさまさま日夜の物語りするをきゝて、慰(なぐさま)れける故、與次兵衞も、夜詰晝詰(よづめひるづめ)に、隙(ひま)なく出仕なしたりける。或夜、寒さも一入强く、與次兵衞は例の夜詰に出(いで)、本家(ほんや)には、老母と老婆とのみ、るすして居たりしに、初更過(すぐ)る頃、十七、八歳計なる見馴ぬ奴僕(ぬぼく)一人、臺所の戶を外より明けて、老婆の圍爐裏(ゐとり)に燒火(やきび)して居たる傍(かたはら)へ來り、婆さま、御淋敷(おさみしく)候半(はん)、今宵は一入寒しと云を、能(よく)みれども、知らぬ者故、誰(たれ)にやと問ふに、長屋へ洗濯(せんだく)に來(きた)るもの也、氣遣ひ給ふな、我等も其火にあて給へとて、近く居寄(ゐよる)故、何方(いづかた)の人なるぞと問(とへ)は、直(ぢき)屋敷のうしろ近き所に住(すむ)もの也とのみ云て、四方山(よもやま)の物語りす。老婆も心解(こゝろとけ)て、語合(かたりあひ)しが、我等は始(はじめ)て此國に來り、雪中の苦寒には誠に堪兼(たえかね)るといへば、左こそ候半、御身は京師(けいし)醍醐の人なれば、かゝる雪には馴(なれ)給はねば、嘸(さぞ)、難儀なるべしと云。老婆驚き、そなたは今宵始て來りたる人なるに、如何(いかゞ)して我等が故鄕(こきやう)をしり居(ゐ)らるゝぞと怪(あやし)みて問ふに、彼男、夫(それ)は我等は譯(わけ)有(あり)てしり居(ゐ)るなり、怪み給ふなと云て、餘事(よじ)の咄(はなし)をなして後(のち)、夜(よ)も大(おほひ)に更(ふけ)たり、歸りなん、又こそ來り候らはめとて出行(いでゆき)ぬ。かくする事、夜々(よるよる)に及びしかは、與次兵衞の老母も不審に思ひ、每夜、老婆は人と物語りをなす、殊に男の聲なり、いぶかしき事也と怪しみ、老婆に問ふに、誰(たれ)とは知り申さゞりしが、長屋へ洗濯(せんだく)の用有て來(きた)る者也と申せし由、答へけれは、今宵も來らば、住居(ぢゆうきよ)を問ふて、其故(ゆゑ)を能(よく)尋(たづね)よと有しかば、其夜來りし時、老婆、委敷(くはしく)尋探(たづねさぐ)りたるに、實(じつ)は我は此屋敷の後(うしろ)に年經て住(すめ)る狸なるが、御身の心正直にして、聊(いさゝか)も矩(こばみ)[やぶちゃん注:「拒」の誤字。]給ふこゝろなきまゝ、我も又、其仁心(じんしん)に馴(なれ)て來り、燒火(たきび)にあたりて寒苦を凌(しの)ぐ事幸(さいはひ)なれば、夜每に來りぬ。聊たりとも害はなさゞれは、怪(あやし)み恐れ給ふまじといへり。翌日、此旨を老母へ語りければ、老母も實(まこと)しからぬ程怪しみながら、邊土の山地(やまち)には、かゝる事も有(ある)らん、重(かさね)て來(きた)らば、左程に身を變じて人語(じんご)をもなし、通力(つうりき)自在を得るものならば、與次兵衞の俸祿(はうろく)をもまし、役儀(やくぎ)をも進む樣に、君公(くんこう)、又は執柄(しつぺい)[やぶちゃん注:政治上の権力を握ること。]の老臣へも訴へ呉(くれ)る能(よき)方便もあるらんに、賴みてみよと云(いひ)しまゝ、夜(よ)の更(ふく)るを待居(まちゐ)ると、いつもの通り、かの狸、化(ばけ)來りて、老婆を守り見て云樣(いふやう)は、姥(ばあ)樣は正直にして仁ある故、今迄は來りしが、なんぞや、與次兵衞殿の立身加增あらせん事を、我に賴み給ふ心の侍るこそ興(きやう)なき事なれ、是見給へ、我は此通りに、日果(につくわ)[やぶちゃん注:「日課」と同義であろう。一日を生きること。]を繰(くる)事數年(すねん)也とて、懷より念珠一連出(いだ)して見せ、これ全く他(た)の望(のぞみ)に非らず、只人間に成度(なりたき)事を願ふ、然(しかれ)ども、其願(ねがひ)、中々叶はず、然(しか)るに、夫程貴き人身(じんしん)を受(うけ)、殊に四民の第一なる武士と生れ給ひて、此稻葉の御家(おんいへ)において、御祿(おんろく)も賤(いやし)からずして重く召使(めしつか)はれ、殊に君(きみ)の御座右(ございう)に扈從(こじゆう)せらるゝは、是に過(すぎ)たる事、有べからず、所詮、人間の習ひ、何に成(なり)ても望み願ひの絕(たえ)る事はあるべからず、左樣の心を振捨(ふりすて)て、君には忠勤をなし、親には孝行をなして、身を正直に職を守り給はゞ、終(つひ)には天道(てんたう)の惠み來るべし、去(さり)ながら、若(もし)、人知(しれ)ぬ變事なんどのあらん時は、前方(まへかた)に心付(こころづけ)て告(つげ)奉る程の事はなし申さんといへるゆゑ、老婆も甚だ感服し、さこそ侍らん、かゝる凡心(ぼんしん)の願望は止(やむ)べしとて、其夜は酒を與へ、折節、有合(ありあは)せし小豆飯を與へて歸らせ、其由、具(つぶさ)に老母へも話せしとなり。扨又、主君は雪中の徒然に、將棊(しやうぎ)を翫(もてあそ)び給ひしが、家士丹羽武太夫(にはぶだいふ)といふもの敵手(あひて)にて、晝の勤仕(ごんし)を免(ゆる)され、夜每に登城して、君(きみ)の相手をなせり。其頃、武太夫、母の病氣にて、或夜、病用(びやうよう)に取込居(とりこめゐ)て、登城も遲刻となり、由(よつ)て至(いたつ)て差急(さしいそ)ぎ駈行(かけゆく)所に、右の與次兵衞が門前にて雪鞜(ゆきぐつ)の紐を踏切(ふみきり)、難儀に及びしまゝ、門(もん)に居たる與次兵衞が僕(しもべ)を賴み、鞜の紐を付かへ貰ふ折節、與次兵衞は今宵は登城ならん、老母もまめにて、其外(そのほか)、家内(かない)に替(かは)る事もなきやと問(とふ)に、僕、答(こたへ)て云(いふ)には、何れも御機嫌能(よく)候らへども、屋敷の裏に年來(としごろ)住居たる古狸、每夜、小者に化來(ばけきた)りて、京都より供して來り居(ゐ)候老婆と中よく咄しするに、人間に少しも替る事御座なく、或時は酒を飮(のみ)、又、或時は飯をもたべさせ、珍敷(めづらしき)事に御座候と云故、夫(それ)は甚だ珍敷事なり、實事(じつじ)かと問返(とひかへ)すと、何の虛(うそ)を申上べきぞと云内に、鞜の紐も直りたる故に、武太夫は急ぎて登城をなすと、先刻より追々尋させ給ふと、朋輩の告(つぐ)を得て、急ぎ御前へ出(いづ)るとて、武太夫申(まうす)には、時刻後れて急ぎて出(いづ)る道にて、大野與次兵衞の門前にて鞜の紐をきり、甚だ難儀して、やうやうと與次兵衞が僕を賴(たのみ)て、鞜の紐を直し貰ひ、一入(ひとしほ)、遲(をそなは)りたり[やぶちゃん注:「遲なはる」は「おそなはる」が正しい。遅れる。遅くなる。]。夫(それ)に付、右の僕の咄には、與次兵衞が臺所へは、每夜、狸が人に化て出來り、京より連來(つれきた)りし老婆と咄するといふ珍敷事を聞來(きゝきた)りたりと云故、夫は珍敷事などゝ人々噂する間もなく、直(ぢき)に主君の耳に入(いり)、夫こそ奇成(なる)事也、速(すみやか)に尋(たづ)ぬべしとて、與次兵衞を御前(ごぜん)へ呼出(よびいだ)され、汝が家にかやうの事有(あり)と聞(きく)、日頃、何(なに)にても、珍敷事は、自國他國の事によらず、聞(きゝ)及びて慰む折節なるに、何とて夫程の事を今迄は申さゞりしと尋給ふゆゑ、與次兵衞、謹(つつしん)て申(まうす)やう、されば其儀にて候、只今、武太夫申上候由の趣(おもむき)に相違は御座なく候へども、あまり怪敷(あやしき)事故、先々(まづまづ)遠慮仕(つかまつり)候て、是迄は、親敷(したしき)朋輩(はうばい)等(とう)へも、一切咄し申さず、仍(よつ)て言上(ごんじやう)も仕らず候と答へけるに、主君も、左(さ)も有(あり)なんとて、夫より與次兵衞の咄しを具(つぶさ)にきゝ給ひて、扨々(さてさて)珍敷(めづらしき)面白き事也、何卒、竊(ひそか)に汝が宅(いへ)に我等も行(ゆき)て、其狸の奴僕(ぬぼく)と成來(なりきた)りて物語りするを見聞(けんもん)したきまゝ、明夜(みやうや)、汝が家に至るべしと云出(いひいだ)し給ふ故、老臣、此事を承り、此儀は然るべからず候、假令(たとひ)、御城下と云(いへ)、御譜代の與次兵衞にもせよ、夜陰の御忍(おんしの)び步行(あるき)は、御愼(おんつゝしみ)の足(たら)ざるに似たり。殊に怪談を聞召(きこしめさ)れて、化物を御覽に入らせられ候と申は、あまり淺々(あさあさ)しき[やぶちゃん注:軽率な。]御儀(おんぎ)にて候と諫め申せば、正道(まさみち)朝臣(あそん)申さるゝは、尤(もつとも)の云(いひ)事なれども、與次兵衞の咄し、僞(いつはり)にあらず、また再度(さいど)有(ある)べき事ならねば、行(ゆき)て見置(みおく)べしと申さるゝ故、老臣の申は、然(しか)らば、御(おん)鷹狩との披露にて、前後の御行粧(おんぎやうさう)[やぶちゃん注:外出の際の装い。ここは鷹狩に出る服装。]を御調(おんととの)へ渡らせられ候へと申上(あぐ)れば、正通朝臣申さるゝには、夫にては、必定(ひつじやう)[やぶちゃん注:きっと。]、かのもの出(いづ)べからず迚(とて)、唯々(ただただ)諸向(しよむき)[やぶちゃん注:いろいろな担当者・方面の意であろう。]へ極(ごく)内々にて[やぶちゃん注:主君自ら、差配の手を回し。]、彌(いよいよ)與次兵衞の宅へ至らるゝに事極(きはま)りて、其時刻に至りて、近習(きんじゆ)のもの計(ばかり)、纔(わづか)召連られて、其供人(ともびと)も皆々、與次兵衞が門前に殘し置(おき)、主君は近臣兩三輩(さんばい)とともに、竊(ひそか)に與次兵衞が家に入(いり)、每(いつも)小者と化來りて、老婆と物語する上の間(ま)の隅に、障子一間(ま)を隔(へだて)て、極々隱れ忍びて、靜かに潛(ひそま)り居(ゐ)られて、狸にしられまじと、火鉢をも進めず、もとより酒食もなくて、數刻(すこく)待(また)るれども、其夜に限り、妖怪出來らず。既に夜半も過(すぐ)れども來らざれば、雪中の寒苦甚敷(はなはだしく)、上下(じやうげ)とも堪兼(たえかね)、今宵は先(まづ)歸りて、明夜は寒氣を凌ぐ手當(てあて)はじめ、酒肴も調へて、是非來(きた)るべしとて歸り給へば、其跡にて、間もなく、例の僕、出來りて、婆樣(ばあさま)いかにと云故、今宵は每(いつも)の時刻に來(きた)られぬ故、如何成(いかなる)事かと思ひ居(ゐ)しに、なぜ遲く來(きた)られしと問ふに、僕が曰(いはく)、そなたは知(しり)給はぬにや、今宵は大守、家内に至らせられて、巍々然(ぎぎぜん)[やぶちゃん注:厳(おごそ)かにして如何にも御大層な様子で。]としてましませしに、かゝる高位高祿の貴人(きにん)に間近く我等の入(いる)べきにあらざれば、其(その)歸らせらるゝを待(まち)て來りたる也と語りたるゆゑ、姥(ばゞ)又曰、たとへ大守の御入(おんいり)にもせよ、忍びて入らせらるゝのなれば、何も夫程、恐懼(きやうく)するには及ぶまじ、重(かさね)ては遠慮なく來(きた)るべしと云と、夫は思ひもよらぬ事也、たとへ百度來り給ふとも、大守のまします内は、百度とも出(いづ)べからずと云たる故、翌日、與次兵衞出仕して、右の趣を具(つぶさ)に言上せしかば、然(しか)らば、我等が見聞(みきか)ん事叶(かな)ふべらずとて、主君は思ひ止(とゞま)り給ひしとぞ。夫より年月(ねんげつ)を經ても、僕の來(きた)る事、始のごとくなりしが、或夜、來りて一向に物も云はず、氣色(けしき)常に替りて、欝然として樂しまず、食物(しよくもつ)抔(など)、進むれども食せず、甚だ心痛なる樣子に見ゆる故、姥も不審におもひ、何故に今宵は常に替りしぞ、心配なる事にても有(ある)かと強(しい)て問(とひ)ければ、さればにて候、我(わが)運、已に盡(つき)て、明夜(みやうや)は獵師の爲に一命を落(おと)すに極(きはま)れり、今迄、年來(ねんらい)、一形(ひとかた)ならず芳志(はうし)に預りたる事、御禮(おんれい)、言葉に盡し難し、是迄、然(しか)るべき期(ご)もなくて、させる御禮(おんれい)をもなさず、是限(これぎ)りに死に行(ゆく)事の殘(のこ)り多さよとて落淚す。明日(あす)は、晝の内に、鐡砲の難あれども、是は避(さく)べし、又、夕方(ゆふかた)、穽(おとしあな)の危(あやう)きに望めども、是も免(まぬか)るべし、夜(よ)に入(いり)て罠(わな)に懸りて死す。此時は免るべからずと語る故、老婆問て曰く、夫程、未前を能(よく)知る通力有(あり)て、形をも人と變じ、言語(ごんご)も人に替る事なき變化(へんくわ)自由の身を持(もち)て、其罠に懸る事を止(とめ)樣(やう)はなき歟(か)、又、たとへ、罠に懸りたりとも、助(たすか)るべき術(てだて)はなきか、夫(それ)ほどしり居(ゐ)ながら、其罠に懸りて死ねばならぬといふ事、我等には合點(がてん)行(ゆか)ずといへば、天運の盡(つく)る所は、如何(いかん)とも是非に及ばざる事にて、兼て罠に懸るとは知居(しりゐ)ても、其期(そのご)に至りては、心恍惚として覺えなく、縊(くゝり)て死せん事、鏡にかけたる[やぶちゃん注:(その瞬間を)鏡に映し出したかのように、の謂いであろうが、特異な用法である。]如く知居(しりゐ)れども、遁(のが)るゝに所なし。最早、今宵限一りに此家(このいへ)へも再び來(きた)るまじ、御主人へも宜(よろしく)禮を申吳(くれ)られよと打(うち)しほれて語るに、老婆も甚だ名殘惜(なごりおし)く、且(かつ)は氣の毒に思ひ、汝死(しし)て後、其尸(しかばね)に印(しるし)有(あり)やと問ふに、如何にも、古き狸の尾の、半(なかば)は白きが我(われ)にして、罠にて死(しぬ)故、一身(いつしん)に疵(きづ)なし、是、我尸(しかばね)なりと云。斯(かく)年月(ねんげつ)、心易くちなみし故、實々(げにげに)殘(のこ)り多し、一つの印(しるし)を殘すべしとて、紙墨(しぼく)を乞(こひ)て、右の掌(てのひら)に墨をぬり、紙に押(おす)と見えしが、全く獸(けもの)の足跡なり。是(これ)ぞ形見の手形なりといふ。老婆曰く、迚(とて)もの事に、今一(ひとつ)紙(し)得させよと乞(こひ)しに、あら心なの事よ、かやうの印は二つ殘すものに非ずと云(いひ)て、夫切(それぎり)に去(さつ)て見えず。仍(よつ)て老婆、狸の云たる事どもを、具(つぶさ)に與次兵衞が母に告(つげ)しが、老母もさすがに哀(あはれ)に思ひて、翌日、近邊(きんへん)の獸を鬻(ひさ)ぐ市店(してん)へ人を遣はし、寒中、狸を藥用になす事有(ある)まゝ、一身に疵なくて尾先の白からんを得ば、價(あたひ)は望みに任せんと觸置(ふれおき)せしに、其翌日、只今、獵師の手より得たるは、御注文通り也とて持來るを見れば、縊(くび)れ死せしものと見えて、惣身(さうしん)に疵なく、尾の半(なかば)は白し。常に來りてまみへたる時は、纔(わづか)廿(はたち)計(ばかり)にも成兼(なりかね)たる若き奴僕(ぬぼく)にてありしが、死せる形を見れば、一際(ひときは)小さくて斑毛(まだらげ)多く、如何にも年經(としふり)たる古狸とみえたり。老母も怪みながら、稀有の思ひをなして、高田へ所替(ところがへ)の後(のち)、菩提所に賴置(たのみおき)たる同所東雲寺(とううんじ)といふ寺の現住(げんじゆう)へ、有(あり)し事どもを具(つぶさ)に語り、畜生ながら、一入(ひとしほ)不便(ふびん)の事に思ふまゝ、厚く吊(とむら)ひ給へと賴み、施物(せもつ)を添(そへ)て、尸(しかばね)を彼(かの)寺へ送りければ、住僧も奇異の事に思ひて、人を葬るごとく、念頃(ねんごころ)に囘向(ゑかう)を成遣(なしつかは)しければ、老母も悅びて、此狸の爲に、此寺に石塔を建(たて)て、今猶、印(しるし)も殘し有(あり)となん。其後、元祿十四年【辛巳】[やぶちゃん注:一七〇一年。]稻葉家へ臺命(たいめい)有(あり)て、下總(かづさ)の國佐倉(さくら)の城主戶田家と【能登守忠直(ただなを)朝臣】所替(ところがへ)ありて、其頃は最早、醍醐の姥(ばば)は死して、老母は存命にて、母子、佐倉へ至りたれども、未(いまだ)諸士の屋敷定(さだま)らざる内、城下の山崎(やまざき)といふ所の名主又兵衞といふものゝ家に、與次兵衞、旅宿す。此時、佐倉の勝胤寺(しよういんじ)の一梁(りやう)禪師、與次兵衞の老母より直(ぢき)に聞置(ききおき)し物語を、聢(しかと)と覺え居(ゐ)て咄されたるを、源(みなもと)の信友(のぶとも)と云(いふ)人、此物語りの口談(こうだん)にのみ殘り居て、其事跡の絕(たえ)ん事を恐れて、寶曆四年【甲戌】[やぶちゃん注:一七五四年。]の春に至りて、懇(ねんごろ)に筆記なし置(おき)たる記錄を得て、寫し置たり。かの狸、老婆と夜な夜なの物語には、計らぬ面白き話も多かるべきに、漸(やうやう)、其初(しよ)・中(ちう)・終(じう)の有さまだけ、慥(たしか)に殘(のこ)りたるは、殘り多き中(なか)にも、又々幸(さいはひ)なる事と思はる。予、此書卷を筆記成し置(おく)事、意(こゝろ)、玆(ここ)に有(あり)。兎角、物每(ごと)、委敷(くはしく)筆記なし置(おけ)ば、千歲(せんざい)の昔も目前に在(ある)が如く、此書も、貞享年中[やぶちゃん注:一六八四年~一六八八年。元禄の前。]の後(のち)、寶曆年中[やぶちゃん注:一七五一年から一七六四年。]に至りて、信友の其事跡の絕果(たえはて)ん事を憂ひて筆記なし置たるは、七十年後(のち)の事にして、右の筆記あらざれば、今は絕(たえ)て知(しる)ものもあるまじく、扨又、其信友の筆記なし置し寶曆四年の後は、今天保十五年[やぶちゃん注:一八四四年。因みにさらに本書「想山著聞奇集」は嘉永三(一八五〇)年板行であるから、この信友の書写した内容が世間の目に触れるだけでも九十六年、ほぼ百年が経過しており、醍醐の媼が狸の青年に逢った時(正通の実際の高田移封の初年の冬(移ったのは貞享元(一六八四)年十二月だから)と考えるなら、貞享二(一六八五)年の冬と考えられるから、そこを起点とすると実に百六十五年前の話となる。]に至りて、己に九十一年の星霜は經(ふ)れども、歷然として右に記し置(おく)通り、筆記せし程の事は明(あきら)かなり。予、此書册に、文化[やぶちゃん注:一八〇四年から一八一八年。]以來、目前に見聞(けんもん)の事のみを多く記し置(おけ)ども、幸にして祝融(しゆくゆう)[やぶちゃん注:火災。中国神話に於いて炎帝の子孫とされ火を司る神の名。]の災(わざはひ)をさへ免(まぬか)るれば、千歲(せんざい)の後(のち)に至りても、目前に見るが如くに慥(たしか)ならんと打置兼(うちおきかね)、多忙中ながら、筆を執(とり)て纔(わづか)に其事實を記し置(おく)事、册中を見て量りしるべし。第廿五の卷(まき)に記し置(おく)、奧州宮城野の老狐の、死後を知居(しりゐ)て得(え)避(さけ)ざりしと、全(また)く同日(どうじつ)[やぶちゃん注:同一の意。]の談也。
[やぶちゃん注:私はこの話が非常に好きである。今回、原典と校合して、読みも厳密に附し、注も大々的に書き改めた(一度、「柴田宵曲 妖異博物館 命數」の注で電子化したが、結果的に不満足な出来であった)。御堪能あれかし。
「稻葉丹後守正通朝臣」「いなばまさみち/まさゆき」は大名稲葉正往(寛永一七(一六四〇)年~享保元(一七一六)年)の改名前の表記名。父正則は大老酒井忠清に連なる側近で長く老中首座を勤めた。正通は承応三(一六五四)年に従五位下丹後守に敍せられ、天和元(一六八一)年には京都所司代、同三年に小田原藩主及び稲葉家三代となっている。京都所司代在任中は東宮御所の造営を担当した。
「正通朝臣、諸司代職退役の臺命(たいめい)有て、越後國高田の城へ替地仰付られ」ウィキの「稲葉正往」によれば、貞享元(一六八四)年に『親戚の若年寄稲葉正休』(まさやす『が大老堀田正俊を』殿中で刺殺(正休自身も同席者によって斬り殺されている。犯行は遺恨と推定される)した『事件で連座、遠慮処分となって』翌貞享二年九月を以って『京都所司代を免職となり』、同十二月、『江戸に近い小田原藩から越後高田藩に転封を命じられ、翌年に高田藩に移った。免職と転封の理由について、正休の事件に関係していたためとする説があるが、真相は不明である』。
「越後國高田の城」現在の新潟県上越市本城(もとしろ)町にあった高田城。ウィキの「高田城」によれば、徳川家康の六男松平忠輝の居城として天下普請によって造られ、城地の縄張りと工事の総監督は忠輝の舅伊達政宗が行っている。約二百三十メートルから約二百二十メートル『四方の本丸を取り巻くように二ノ丸、南に三ノ丸、北に北の丸を配し、関川、青田川などを外堀として利用した。すべての曲輪に土塁が採用され、石垣は築かれなかった。低湿地に築城されたため』、『排水設備が重視され、城地には現在の技術水準から見ても遜色ない暗渠が張り巡らされていた。天守はな』かったが、慶長一九(一六一四)年に三重三階の『三重櫓を建てて天守の代用とした。当時の三重櫓の外観は不明で、江戸城の富士見櫓に似た外観であったと伝えられている』とある。
「越後中將光長卿」松平光長(元和元(一六一六)年~宝永四(一七〇七)年)。越前北ノ荘藩主松平忠直の長男で結城秀康の孫。徳川家康の曾孫・徳川秀忠の外孫。
「東雲寺」不詳。少なくとも、この叙述からは当時の高田城下、少なくとも現在の上越市内になければならぬはずであるが、そのような名の寺は現存しない模様である。しかし、「此狸の爲に、此寺に石塔を建(たて)て、今猶、印(しるし)も殘し有(あり)となん」とある以上、寺が名前違いなどであるのであれば、狸の石塔の現存有無も知りたい。土地の郷土史家の方の御教授を是非乞うものである。因みに、上越市には地名としての東雲町(とううんちょう)が現存するが、ここは海浜に近い直江津の陸側で、高田藩の藩士が菩提寺を置くには、ちょっと離れ過ぎている感じがする(但し、当時の直江津は藩の外港として繁栄してはいた)。
「元祿十四年【辛巳(かのえみ)】稻葉家へ臺命(たいめい)有(あり)て、下總(かづさ)の國佐倉(さくら)の城主戶田家と【能登守忠直朝臣】所替(ところがへ)あり」やはり、ウィキの「稲葉正往」によれば、正通は高田国替えから十五年後の元禄一三(一七〇〇)年には『江戸城大留守居を経て、翌』元禄一四(一七〇一)年一月に『老中として幕政に返り咲き、領地も』同年六月、下総佐倉藩(下総国印旛郡佐倉にあった。藩庁は佐倉城(現在の千葉県佐倉市内)に『移された。赤穂浪士による吉良邸討ち入り(赤穂事件)の当日、たまたま月番老中であった正往は、柳沢吉保が登城する前に事後処理を速やかに開始し、浪士たちが即刻処分がされることのないように配慮するなど』の気配りを見せている人物ではある(下線やぶちゃん)。なお、「戸田家」「能登守忠直朝臣」は戸田 忠真(とだただざね 慶安四(一六五一)年~享保一四(一七二九)年)の誤り。戸田家は高田藩への交換移封であった。
「城下の山崎(やまざき)といふ所」現在の千葉県佐倉市山崎。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「佐倉の勝胤寺」現在の千葉県佐倉市大佐倉にある曹洞宗。戦国時代の武将で佐倉千葉氏の千葉勝胤の建立になる。ここ(グーグル・マップ・データ)。地図で判るが、先の山崎はここからほぼ西三キロ圏内の直近にある。
「源の信友」は作者三好想山(しょうざん ?~嘉永三(一八五〇)年)と同時代の、国学者として知られる伴信友(安永二(一七七三)年~弘化三(一八四六)年)ではないかと思われる。彼の蔵書印には「源伴信友」というのがあるからである。
「第廿五の卷」はさんざん既注した通り、本「想山著聞奇集」は現存五巻で、原本は凡例や序文に五十巻とあるのだが、公刊はその五巻ぎりで、原本も散逸して伝わらない。名残り多し。]
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