宿直草卷二 第八 誓願寺にて鬼に責めらるる女の事
第八 誓願寺にて鬼に責めらるる女の事
昔、宇治の里(さと)より、京誓願寺へ隔夜(かくや)に參る山伏、有り。またその頃、五十(いそぢ)あまりの女、これも怠りなく、每日、七つ下がりに參る。山伏見て、
「扨々、女性(によしやう)にて、かく修行堅固なる人こそなけれ。さだめて六十萬人決定往生の人にや。」
と殊勝の思ひをなす。
さて、御堂に通夜(つや)して心中(しんぢう)を澄ますに、夜半(やはん)ばかりの比(ころ)、鬼、四、五頭(づ)、女一人具して來たる。
「何事ぞ。」
と恐ろしき思ひをなすに、堂の庭に、忽ち、火焰(くわえん)燃えたり。五(いつつ)の鬼、かの女の髮、四つの手足を取りて引き張り、打返(うちかへ)し打ちか返し、炙(あぶ)る。叫ぶとすれど、聲も出ず、遍身(へんしん)より血流るゝ事、油など絞るが如し。然(しか)れども、
「此女、つれなき命の消えもせで、苦を受くる事、見るも忍びがたし。さても又、如何なる罪人か。」
と立ち寄りて見れば、この比(ごろ)、賞(ほ)めそやしたる女房なり。
「さてさて。日ごとによく參りて、缺(か)くる事もなき人の、案に相違せし事かな。如何なる隱せる罪のあるぞや。」
と見るに、曉(あかつき)告ぐる鐘の音(ね)に、鬼も女も消え行けば、
「さては夢か。」
と疑がへば、袖(そで)片敷(かたし)くにも有らざれば、ありしを儘の現(うつつ)なり。引く橫雲も散り行(ゆき)て、程なく夜も明ければ、佛(ほとけ)を禮(らい)し、をのが住家(すみか)に歸り、次の夜は來らず。
又、次の日、參るに、かの女も時も違へず、その身、つつがなふして來(きた)る。
「如何樣(いかさま)にも、ただならぬ咎(とが)を持ちたる人なめれ。」
と、しばし、片方(かたへ)にこれを見るに、佛(ほとけ)の御前に手を糾(あざ)へ、合掌なんど、いと懇ろなり。しばらく拜むと見しが、人目の隙(ひま)を數(かぞ)へ、散錢(さんぜん)二包(つゝみ)、祕かに取り、さらぬ體(てい)にて下向(げかう)す。
「さてこそ。女の罪は知れたれ。」
と思ひ、御堂(みだう)に其夜も越夜(おつや)するに、鬼、來たりて、かの女を責むる事、一昨日(おととひ)の夜に變る事なし。
「扨は、この女に教化(けうげ)せよとの佛の示(しめ)しにこそ、此相(さう)も見るらめ。」
と納得して、明(あく)れば、また、宇治に歸り、その翌日(あくるひ)、參りしに、女もまた、參れり。
やがて、袖を引き、片脇へ誘(いざな)ひ、
「さても我、この御寺(おほんてら)に參り初(そ)めてより此方(このかた)、御身(おんみ)、參り給はぬ日もなし。いと貴(たふと)くこそ侍れ。さりながら、心得がたき事の候。我(われ)、御堂(みだう)に籠り候に、五つの鬼ありて、女を責むる。其責めらるゝ人、形(なり)も、㒵(かほ)も、年頃も、紛(まが)ふところもなく、御身(おんみ)なり。度度(たびたび)の事なれば、見誤るにもあらず。不審ならば、今宵、見給へかし。願はくは、心中にをゐて、道惡(だうあく)の覺ゆるところあらば、など、隱(つゝ)み給はんや。有りの儘に語り給ひて、後の世、助かり給へかし。」
と語る。
その時、女、㒵(かほ)、打(うち)赤めて淚を流し、
「さては。恥づかしや。左樣(さやう)の御告(おほんつげ)の御座候ぞや。かく懇にの給ふに、何かは包み申べき。我は此處より二、三町へだてて、年久しく住む者にてさふらふが、夫(をつと)もなく、子もなし。たゞひとりある此の身の、渡りかねたる世中に、春、渇(かつ)へ、冬、凍(こゞ)ゆる、一日(ひぐらし)、此寺に參りしに、人目(ひとめ)の關(せき)のひま有(あり)て、佛前の錢(ぜに)二十文、盜みしかば、明(あ)けの日、易く過(すぐ)せり。かく仕染(しそ)めてよりこのかた、每日、申の下刻に參り、恭敬(くきやう)するよしにて、多くも取らず。たゞ、十五錢、二十錢づゝ取りて歸り、今、三季(みとせ)の命をつぎ侍る。隱(つゝ)むに漏れし其咎(とが)の、今はた、顯はれ、御教化にあづかり參らせ候事、且つうは、大悲の憐愍(れんみん)、又は貴士(きじ)の恩顧(をんこ)なり。一紙(いつし)の信施(しんせ)も爲(な)しがたき身をこそ恨み申(まうす)べけれ。却(かへ)りて、犯し盜みし咎(とが)、そも又、如何(いかゞ)すべきぞ。」
と、袖に雫(しづく)の風情(ふぜい)して、後悔の淚、如何ともしがたし。
「幸(さいはひ)、今宵、通夜(つや)申(まうす)べし。その有樣(ありさま)、見せ給へ。」
といふ。山伏も、
「ありがたき心入(こころいれ)なり。惡に强かりし昔に代(か)へて、善にいよいよなり給へ。」
などいふうち、夜にもなり、時分ともなりしに、鬼來たりて、女を責むる。見れば見るほど、我が形(かたち)なり。山伏も、
「あれ、見給へ。」
といふ。女、限りなふ悲しみ見るに、二時(ふたとき)ばかり、責めて、去りぬ。
さて、夜、明けぬれば、山伏は宇治へ歸る。女はまた、方丈へ行きて、右の事を懺悔(さんげ)して、すなはち、尼になり、その庭にありて、參詣の諸人に、隱(つゝ)まず語りしと也。
[やぶちゃん注:本話は先行する世阿弥作の謡曲「誓願寺」の結構を世俗的に判り易くインスパイアしたものと思われる。私は同曲を観たことがないので、観世流シテ方能楽師中所宜夫氏のブログ「能・修羅しゅシュSyu」の「『誓願寺』について」から引用させて戴くと、この曲は『凡そ二時間を要する大曲』であるにも拘わらず、『文学的情趣に乏しく、またワキに一遍上人、シテに和泉式部を配しながら、踊念仏の開祖たる融通無碍の魅力を描くでもなく、恋多き宮廷歌人の苦悩を描くでもない、つまり演劇としてこの曲を見た時、その構成に興趣をそそられない事などが相まって、長いばかりで退屈な能と言うのが、大方の評価』であろうと述べられつつも、『しかし私は、世阿弥の創作過程を辿る上で、この曲を大変重要な曲と考えて』おり、何故、『世阿弥がこの曲を書いたのかを考えてみる時、この曲ならではの魅力が見えて来るのだと思』うと記された上、謡曲「誓願寺」の梗概を語っておられる。一部に敬体が混入する不全性があるが、そのまま引く。
《引用開始》
熊野に参籠し、夢の告を受けた一遍上人(ワキ)は、「六十萬人決定(けつじょう)往生」の御札を配ろうと都に上る。念佛の教えに多くの聴衆が集まる誓願寺。一遍から御札を受ける人々の中に、信心深げな気品高い一人の女がいる。札を見て「六十萬人しか往生出来ないのですか」と女が尋ねるのに、一遍は熊野の夢想で示された四句の文の頭の字が「六十萬人」なのだと答え、その子細を語る。
六字名号一遍法(南無阿弥陀佛の六文字で表される佛の名前は、それだけで一つにして普遍の世界の有り様を表している。)
十界依正一遍体(それが分かれば、この世界全体が一つにして普遍の存在であると感得する事になる。)
萬行離念一遍証(そうすれば全ての修行が雑念を離れ、世界が一つにして普遍である事を明らかにしてくれる。)
人中上々妙好華(この念佛行を行う人は、人の中でも上々の位の人であり、蓮の花の様な存在である。)
女は忽ちに了解し、一遍と共に教えを喜ぶ。やがて念佛は夜半に及び、法悦境も頂点に至るかと見えた頃、女は思わぬ事を口にする。
「いかに上人に申すべき事の候」「何事にて候ぞ」「誓願寺と打ちたる額を除け。上人の御手跡にて。六字の名号になして給わり候へ」。
余りの事に住処を尋ねる上人に、「わらわがすみかはあの石塔にて候」と答え、あれは和泉式部の墓だと聞いていますと言う一遍に、それこそが私の名前ですと答えて、石塔に寄って行く。俄かに石塔から光が射して姿を消す。
一遍が六字名号の額を掲げると、和泉式部が歌舞の菩薩として、二十五菩薩と共に現れる。辺りは清浄な光に照らされて、極楽世界のようだ。この誓願寺が極楽世界に変じるのは何の不思議もないのですと、式部は曲舞を謡い舞を舞う。
「此処は天智天皇の創建の尊い寺で、その上、ご本尊は春日明神がお作りになったもの。神佛の違いは水と波の様なもので、この日の本では春日明神が二人の菩薩の姿となってこれを作り、衆生を済度して下さるのです。つまりこの如来様は毎日一度は西方浄土に通って、死後の往生を約束して下さっているのです。
歌舞の菩薩が語る様は阿弥陀如来の姿と重なる様だ。
辺りには天上の歌が響き、尊き方々が来迎されている。昔お釈迦様は霊鷲山に一人いらしたが、今は有難い事に、西方浄土から阿弥陀如来が観音菩薩として様々な姿で衆生の前に現れて助けて下さる。この恩恵に浴する念佛の行者は、何の苦労もなく浄土に至り、その楽しみには限りがない。その道を辿っていると知れば、邪心の引き起こす迷いも無くなる。悟りを得る西方浄土も、この誓願寺からは遠くない。ただ心の持ち方一つで此処こそが浄土なのだと拝むのです。」
歌舞の菩薩が様々な佛事をなし、清浄の気が辺りに満ちる。暫しその法悦境に浸っていると、思いは現実世界に生きる自分に帰って来る。
其処で一人なお、南無阿弥陀佛と称えるのです。
その一人一人の称名の声が大きな響きとなり、虚空には天上の歌が流れ、甘やかな香りに包まれて花が雪の様に降る。菩薩たちは舞い乱れ、一遍上人の教えを讃えて、六字の額に礼を尽くす。
この誓願寺で繰り広げられたこの有様は、本当に得難く尊い、有難い事であった。
《引用終了》
展開に於いて意外なのは、中所氏もこの後で述べておられる通り、ここにはかの『恋多き女流宮廷歌人としての和泉式部の姿は全く描かれて』おらず、それどころか、彼女の『和歌の一首さえ歌われ』ていない点で、これについて中所氏は謡曲「誓願寺」は、たまたま、この『誓願寺に和泉式部の墓と伝えられる石塔があったので、シテを和泉式部に設定したのであって、もし其処に清少納言の墓があれば清少納言をシテとした』であろうと推測された上で、『そう言う意味で、この曲の主眼はむしろ一遍上人に据えられていると言え』とされる。しかしかと言って、『一遍上人の生涯に目を転じれば、確かに三熊野での霊夢は時宗草創の一大画期ではあ』るものの、御札賦算(ふさん:私の後注参照)時の『女信者との六十萬人問答や、和泉式部の幽霊との遭遇説話(この説話自体、本曲以後の創作である可能性も高い』『)などは、後々踊り念佛を創出した後の諸国遍歴の姿などに比べれば、さして魅力を感じ』ない点では、実は『作者の目は一遍上人の上にもそれ程の重きを置いていない』と断ぜられた上で、この「誓願寺」の謂わんとするところのものは『私には、霊夢を得て己れの道を定めて歩き始めた者を、歌舞の菩薩が祝福する、その一事にあると』される。以下、非常に興味深い考察なので、敬体の引用元のまま引用を終わらさせて戴く。
《引用開始》
哲学者の井筒俊彦氏によれば凡そ東洋哲学に共通する神秘主義には、例えば坐禅による悟りや、神の啓示、霊夢などの神秘体験が実体験としてあり、また多くの優れた芸術家にもそれを窺わせるものが確かにあるとの事です。最近の人では宮澤賢治は当に神秘家でしょうし、古代では空海がそうでしょう。夢幻能を作り出した世阿弥がこれに列なるのは当然の事と思います。
観阿弥は非常に優れた役者であり劇作家でしたが、物狂いや神懸かりと言う現実世界の現象としてしか超越世界を捉えていません。世阿弥の天才と特異さはこの点にあります。
他でもない世阿弥が何処かで何らかの神秘体験をしたのです。歌舞の菩薩と言う存在を作り出す訳ですから、それは本番か稽古かはわかりませんが、舞を舞っている最中の事かも知れません。
それでは何故、己れの神秘体験を投影する素材として一遍を選んだのでしょうか。おそらくは芸能民も含めた「道々の者」達にとって、一遍は念佛の教えを自分達に広めた特別な存在だった事もあり、また、一の谷近くで終焉を迎えた上人の足跡が大変に親しいものだったからだと思います。
以前に「『自然居士』と『東岸居士』」を論じて、『東岸居士』を、世阿弥が初めて曲舞を作り、其処に自分の独自性を確立して行こうとする宣言の曲だと断じた事がありますが、その『東岸居士』の曲舞も一遍法語の引き写しでした。
私はこの『誓願寺』こそ、世阿弥の最初の夢幻能だと思います。後々の多くの傑作に繋がる「歌舞の菩薩」が登場する最初の曲でもあるでしょう。
《引用終了》
「京誓願寺」現在の京都市中京区新京極通三条下ル桜之町にある浄土宗西山深草派総本山誓願寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。本尊阿弥陀如来。ここは宇治から直線距離で十三キロメートルはある。ウィキの「誓願寺」によれば、天智六(六六七)年に『天智天皇の勅願により奈良に創建。三論宗の寺院となるが、いつしか改宗し、法相宗の興福寺の所有となっていた。その後、誓願寺は法相宗の蔵俊僧都が法然上人に譲ったことにより、浄土宗の所属となる。そこに法然上人の弟子である西山上人証空が入り、自らが唱える西山義の教えを広め始め、浄土宗西山派が成立して』行き、天正一九(一五九一)年には、『豊臣秀吉の命を受けて現在の新京極へ移転し、秀吉の側室であった京極竜子とその生家の京極家から広い敷地が与えられ』、『木食応其の勧進もあり』、慶長二(一五九七)年には『落慶法要が行われ、高野衆』五十『人が参列したという。天明、弘化、元治年間に三度大火に罹り、さらに明治維新とそれに続く廃仏毀釈で寺地を公収され』、『境内は狭隘となったが、扇の塚のある寺として芸能関係にはよく知られた寺である』。『京都御所に近いことから朝廷との交流も多く見られた。能の曲目に『誓願寺』があるが、この本山のことを指している。説教から発達した講談、落語、漫才などの芸人の成就を祈願する寺として知られている。また、落語発祥の寺とも言われている』とある。
「七つ下がり」現在の午後四時を過ぎた頃。
「六十萬人決定往生」時宗に於いては「南無阿彌陀佛決定往生六十萬人」と記した札を配るが、これを「賦算」と呼ぶ。これはウィキの「賦算」によれば、「六十万人」の意には二説あり、一つは、『時宗宗門の伝統的教えによると、一遍の偈(『一遍聖絵』第三)、「六字名号一遍法 十界依法正一遍体 万行離念一遍証 人中上々妙好華」の四句の首字をとったものと解されている』。一方で、「一遍聖繪」の第三では、『「六」は「南無阿弥陀仏」の六字名号を、「十」は、阿弥陀如来が悟りを開いてからの十劫という長い時間を、「万」は、報身仏である阿弥陀如来の「万徳」(あらゆる徳)を、「人」は、一切衆生が往生して、安楽世界の人となることを意味するとする』という。『いずれにしても、極楽往生ができる人数を数的に』六十『万人に限定することを意味し』たものではないことは明白であることは押さえねばならない。即ち、浄土教を源とする時宗の、「一切衆生の往生は弥陀の本願によって既にして決定(けつじょう)している。されば念仏によって生きとし生けるものは極楽往生する」ということを指すと考えてよい。「一遍聖繪」の『第二によると、一遍が四天王寺で仏戒を受けてから、念仏を勧めて賦算を始めた』とし、同絵詞の第三では、『「一念の信をおこして南無阿弥陀仏ととなへて、このふだをうけ給ふべし」といって、一念の信を起こすことと、「南無阿弥陀仏」と称することを条件に札を配っていた。しかし既に一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と定まっているので、受け取る人の、信・不信、浄・不浄を嫌わずに配るべきである、という夢における熊野権現の神勅に基づいて、その後は、無条件で配ったという。これと踊念仏によって時宗は鎌倉時代から室町時代にかけて大いに発展した』とある。
「袖片敷くにも有らざれば」自分の衣服の片袖を敷いて仮り寝をしたわけでもなかったので。終夜念仏を唱え、姿勢を崩したわけでもなかったことを自身で確認出来たことを指す。
「ありしを儘の現(うつつ)なり」夢なんぞではなく、実際に見たそのままの確かな事実であった。
「糾(あざ)へ」絡み合わせて。組み合わせ、交差させて。
「人目の隙(ひま)を數(かぞ)へ」人の目の隙(すき)をさっと窃(ひそ)かに偸(ぬす)んで。
「散錢(さんぜん)」仏前に上げられた賽銭。
「二、三町」二百十八~三百二十七メートル。
「關(せき)」人の出入りを取り締まる関所を人の視線に擬えたもの。
「二十文」江戸初期の一文は二十円から二百円相当であるから、四百円から四千円相当にはなる。翌一日を安楽に過ごせるというのだから中をとって千円か二千円というところか。
「かく仕染(しそ)めてよりこのかた」このうま味をを味わってしまって、それにすっかり狎れてしまってよりこの方。
「申の下刻」午後四時台。
「恭敬(くきやう)するよしにて」参詣を兼ねてのことでありますから。「よし」(由)は装っての意味ではあるまい。身勝手な自己正当化ではあっても、確信犯ではないのである。
「三季(みとせ)」三年。
「大悲の憐愍(れんみん)」阿弥陀如来の広大無辺な大慈悲心の絶対の憐憫。
「貴士(きじ)」正法(しょうぼう)に衆生を導く仏菩薩や現世の僧。山伏個人を指すものではない。
「一紙(いつし)の信施(しんせ)」価値も何もないただの紙切れ一枚の布施。
「二時(ふたとき)」四時間。]