宿直草卷二 第四 甲州の辻堂にばけものある事
第四 甲州の辻堂にばけものある事
[やぶちゃん注:挿絵は底本のものであるが、清拭し、上下左右の枠を除去してみた。]
元和(げんわ)五年の冬、よはひ三十ばかりの人、語りしは、
『我、おさなかりしとき、道心者(だうしんじや)ありて、我(わが)家にてかたりしは、
「我(わが)生國は伊賀の甲賀なり。若き時は奉公をして、賴みし主(しゆ)は近江侍(あふみさふらひ)にて、其(その)連れ合ひは京育ち也。信玄の家中に仕へられしに、戰(たゝかひ)たびたびにして、武田の運(うん)も、はや、傾(かたふ)きければ、我(わが)主、かねて知りけるにや、ひそかに某(それがし)を近づけ、
『重ねて戰(いくさ)あらば、我も討死をすべし。然る時は、妻、一日も立寄(たちよ)らん方(かた)なし。召(めし)つかふ者、多しといへども、皆、東(あづま)の者にして、都の案内(あない)、知らず。汝は上方(かみがた)の者なれば、ひたすらに賴むぞ。あの妻を、明日(あす)、ひそかに連れて京へ上(のぼ)れ。殊更、ただならぬ身とも聞けば、如何(いか)ならん行衞(ゆくゑ)も見屆けよ。何事も奉公なれば、軍陣(ぐんぢん)に供(とも)したるよりは、過分の忠に思ふべし。』
など聞えければ、再三、辭するに、及ばず。
主命(しゆめい)にまかせて、御内(みうち)の諸人(もろびと)・女房たち・婢(はした)なんどにも深く隱し、たゞ二人、忍び出るに、さすが、一期(いちご)の別れ、殊に飽かぬ中(なか)の事なれば、たがひの名殘(なごり)、いと、哀れなり。さて有(ある)べきにもなければ、旅(みち)の代(しろ)など給(たまは)り、又、腰に差したる刀を拔き、
『これは重代相傳(ぢうだいさうでん)の重寶(ちようほう)なれど、道の用心に、上(のぼ)すぞ。もし、胎内の子、異(こと)なふ生(むま)れて成人もせば、見もせぬ父が形見(かたみ)ぞと、語れ。万に一も存命せば、我も後(あと)より上(のぼ)るべし。』
と、しばし慰め給へども、袖の水柵(しがらみ)せきあへも給はず。
心づよく立退(たちのき)たまへば、我もかの人の手を引きて、泣く泣く、宿(やど)をいでぬ。
心ばかりは急げども、何時(いつ)習はじの憂き旅に、殊にあからさまにも、輿物(のりもの)なんどにてこそ、遠山(ゑんさん)の花をも手折(たをり)給へ、けしかる徒步道(かちぢ)などは、おぼろけにも步みたまはぬに、殊にその身も重(おも)げにして、やをら、道の捗(はか)も行かず。たまたま、むぐつけき小荷駄(こにだ)などに、助け乘するも、見るさへ危うく侍る。まだ、さがなき世の癖(くせ)かは、容易(たはやす)く行く道にもあらず。ここは關(せき)、かしこは陣取(ぢんと)りなれば、あれに𢌞り、これに隱れて、徒(いたづ)らに日數(ひかず)を送る。都に着かば、やうやう、産(さん)の比(ころ)にやと思ひしに、かく暇(ひま)とるにぞ、案の外、はや、月ごろになりぬ。
ある日の沙汰に、海道には陣どり有(あり)て、通ひがたく聞えければ、やがて、脇道(わきみち)を經て行く。鄙(ひな)びたる有樣(ありさま)にして、不自由なること、いふばかりなし。あまつさへ、借るべき馬もなし。くたびれたる人を、おどしすかしなどして行くに、その日の巳の刻より、腹を痛めり。知らぬ山路を辿(たど)り行き、かの面(も)此の面に休みつつ步むに、申(さる)の頭(かしら)に、大きなる辻堂に着(つく)。隣りし家も見えなくに、五十(いそぢ)ばかりの男(をのこ)、行きかふ人のために、擔(にな)ひ茶屋(ちやや)と見えたり。先(まづ)、彼(かれ)が方に立ち寄り、湯、貰ひ、藥など勸むるに、いよいよ、腹、痛み出て、進退(しんだい)、途方(とはう)を失ふ。
かの男にも、しかじかと語るに、茶屋、聞(きき)て、
『さてさて、かかるいたはしき事こそなけれ。これより先へも三里行かざれば、里、なし。脇(わき)とても遠し。また、此所には化け物ありて、夜になれば、人、通(かよ)ひ侍らず。我(わが)住むところは廿町余(よ)の道、此(この)山の彼方(あなた)なり。此(この)所へ出(いづ)るも、朝(あした)は五つ過(すぎ)に罷(まか)りて、暮れには七つ以前に歸る。ただ惡しき所なり。願はくは、我家に來たり給へ。よきに勞(いたは)らん。』
と、いとまめやかに優しくも聞えければ、かなしき中にもうれしく、その由、尋ね見れば、
『今ははや、一足(あし)も步む事、ならず。』
とのたまへば、力、及ばず、
『さては、是(これ)にて御明(あか)し候へ。』
と、茶釜・敷物・茶碗・手桶などを殘し、
『焚き木はあれに御座候へば、いか程も御焚き候へ。構へて御用心あるべし。我もこれに留(とど)まるべく候へども、宿(やど)に案じ可申(まうすべく)候へば、御いとま申(まうす)。』
とて、歸りけり。いとど便(たよ)りなくぞ侍る。
かくて黃昏(いりあひ)の比(ころ)、安(やす)く産(さん)し給ふに、まうけ給ふは女子なり。詮方(せんかた)く取(とり)上げ、似合はしき衣(きぬ)に包み、母の懷(ふところ)に抱(いだ)かせ、用意にもちたる白米(しらげ)とり出(いだ)し、粥に炊(た)き、茶碗に盛りてこれを勸め、殘りを喰(たう)べて、あまり淋しさのまま、用(よう)にもあらぬ釜の下(もと)に、焚き火愛(あい)して居(ゐ)たるこそ、行衞思はるゝわざなれ。
過行(すぎゆく)ままに夜を明かすに、はや、半(なかば)の比、二八ばかりの女房、何處(いづち)と無(な)ふ、來(きた)る。
『すは。』
と思ひ、
『如何なるものぞ。』
と問へば、
『我は晝間、此のところに有(あり)し茶屋が娘なり。御ありさま、親の語り候にぞ、あまり御いたはしく、思ひやる心の苦しからんより、參りて仕へ申さんにはと、さてこそ、訪(とふら)ひ候。』
と、語る。暫時(しばし)は、まこととも思はざりしに、水を汲み、火など焚きて、勞(いたは)るにぞ、少し、心は緩(ゆる)びける。運の盡くべきはかなさとは、後(のち)こそ悔しく思ひけれ。
ややして、かの女房、
『まづ、其御子これへ遣(つか)はされよ。後朝(こうてう)までは、妾(わらは)、抱き申さん。殿樣も、まづ、御休み候へ。』
と、懇(ねんご)ろに聞えければ、如何樣(いかさま)に母も退屈氣(たいくつげ)に見え給へば、
『遣はされ候へ。』
といふにぞ、取りだして、やり給ふ。女(むすめ)、甲斐甲斐(かいがい)しく扱(あつか)ひて、
『さてさて。よき御子や。玉にも比(たぐ)ひ給ふ。』
なんどいふて賞(ほ)むるにも、なを、心を許さず侍りしが、夜增(よま)し日增しの旅疲(たびづか)れ、刀(かたな)を膝(ひざ)に拔(ぬ)きくつろげ、心に油斷はなかりしかども、壁にそふて寄りかゝり、少し居眠(いねむ)るともなきに、母、聲立てて、
『なふ、恐ろし、あの女房の、我が子を食ふ。』
と喚(よ)ぶ。
『やれ。』
と思ひ、驚(おどろき)て刀を拔きて立ち上がるに、又、母をも取(とり)て、堂の外へ出づ。
『遣(や)るまじき。』
とて追(をつ)かくるに、虛空(こくう)をさして飛(とび)行くにぞ、心、はや、猛(たけ)に思へども、羽(はね)なき身には力なく、口惜しなども愚かなり。
母の叫ぶ聲、かすかに聞えしが、後には堂の天井に聲ありて、
『なふ、悲しや。』
といふ。しばしして、其聲も止みぬ。まことに肝(きも)を斷つわざ也。
かくて、耳を澄まして聞くに、四、五人ほど寄りて、もの食(く)ふ口音(くちをと)せり。其中に、上嗄(うはが)れたる聲にて、
『今一人の男も連れ來たれかし。』
といふ。例(れい)の女の聲にて、
『あれは銘作の刀持ちたれば、連れ難し。』
といふに、二、三人の聲して、
『しからば。其(その)分(ぶん)よ。』
といふ聲ども、いづれ、聞き馴れず、怪しうして凄(すさ)まじ。
あるもあられぬ事なれば、天井へ上がりたく思へども、案内(あない)疎(うと)かりければ、その手段(てだて)もなし。
『さてさて口惜しや、主人に賴まれたる甲斐もなく、また、此頃(このごろ)、骨折りたる詮(せん)もなし。三寶(さんばう)の冥加(みやうが)にも盡き侍り。いで、爰(ここ)にて、腹、切らん。』
と、刀を拔く事、二、三度せしが、又、夜も明けば、天井へ上がり、妖(ばけもの)もあらば、一つなりとも從(したが)へ、仇(かたき)を討ちて意趣(いしゆ)をも晴らさんと思ひ直して、明かす。
我身ながら恥がはしく侍り。
亡き人の形見となりし衣裝など取(とり)集めゐるうち、夜も更に明(あけ)て、昨夜(ゆふべ)の茶屋も來たれり。是も化け物かと怪しみしは、理(ことわ)りに過(すぎ)たり。面(おも)無きながら、茶屋に語りければ、
『扨(さて)は。さふか。さればこそ。』
とて悔みかなしみ、
『われも心もとなくて、朝食(あさげ)、疾(と)く食べ參りしに、甲斐なき事のうたてさ。』
と、ともに淚に及びしが、
『先(まづ)、天井を見給はんか。』
といふ。
『さらば。』
とて、あちこちとする。
『もし、此(この)隅よりや、上がられ申すべきか。』
といふ。やがて、茶屋を力として、登りて見るに、あへて、これぞ化け物と思ふものもなし。骨を積(つむ)事、安達が原もかくやと、そこら見まはすに、主人の尸(かばね)と覺しくて、まだ新しきをしるべにして、散り亂れたる頭(かうべ)・手・足なんど拾ひしに、肉(しゝ)は殘さず喰(くら)ひけり。
『さても、昨夜(よべ)までは、つつがなかりし人の、かやうにもなり給ふものかは。何たる因果なれば、同じ道にも行きやらで、強面(つれなく)殘る身の上に、かゝる憂き目を見る事ぞ。』
と、心も迷ひ、目も眩(く)れて、泣く泣く、天井より降り、其(その)骸(から)を一包みにして、茶屋が在所へ持ち行(ゆき)、そこなる僧を賴み、形(かた)ばかりに葬(はうふ)り、裝束(さうぞく)どもを花柄(はながら)に參らせ、
『さてさて、ありし昔ならば、御弔ひの品(しな)も、かばかりにておはすべきかは。常なき世こそままならぬ事なれ。御慈悲にきこしめさば、よきに弔ひ給れ。』
と契(ちぎ)り、茶屋にも禮をいひて、白骨(はくこつ)を首にかけ、東國(あづま)ヘや下(くだ)る、都へや上(のぼ)ると、思案未(いま)だわかざるに、武田の運も盡き、内の侍(さふらひ)も皆、討死ときこえしかば、
『さては我主も果て給し。』
と、此處(こゝ)の憂さ、かしこの辛(つら)さ、見るも、聞くも、淚にて。
それより、京に上り、亡き人の緣(ゆかり)を尋(たづね)れども、朧(おぼろ)けにて知らるべきにあらざれば、
『今はこれまで。』
と思ひ定め、件(くだん)の白骨を黑谷(くろだに)へ籠(こ)め、名作の刀、布施(ふせ)に參らせ、我もそこにて髮を剃り、今、はた、其の二人を弔(とふら)ふ。かくのごとき事、此身の恥に侍れば、いかで言葉へはいださんなれど、昔の武士(もののふ)の身(み)にしもあらで、此(この)あつき緣(えん)に催されて、かしこくも、桑(くは)の門(もん)に入(いり)侍れば、懺悔(さんげ)物語(がた)り、申す。」
と語りし。』
と、話せり。
[やぶちゃん注:銘刀を所持せるが故に魔物が襲うことが出来ずに命が救われるという話柄は本書の前にも後にもゴマンとあるが、全体の結構が、滅んだ武田信玄の代に仕えた忠臣を主人とする近江武士を主人公とし、妖魔の犠牲者はその彼の主人であった武田家忠臣の正妻と、生まれたばかりの女児であったという、すこぶる現実的な設定は、なかなかに上手い。また、ある人物の語った話を聴いているというまた聞き構造は都市伝説(アーバン・レジェンド)のありがちな特性であるが、それが、無理なく、額縁内の額縁、直接話法の「入れ子」構造となっている点でも素晴らしい。それが判るように本文では改行と記号を駆使したつもりである。
「元和(げんわ)五年」一六一九年或いは「冬」となると、翌一六二〇年年初。第二代将軍徳川秀忠の治世。
「齡ひ三十ばかりの人」単純計算で数え三十を引くと、荻田に直接話しているこの人物の生まれは一五九〇年で
「武田の運も、はや、傾(かたふ)きければ」信玄(病没)の庶子で彼を継いだ武田勝頼は、美濃に進出して領土をさらに拡大したものの、次第に家中を掌握し切れなくなり、天正三(一五七五)年の長篠の戦いに敗北、父の代からの重臣を失うとともに一挙に衰退を始め、天正一〇(一五八二)年、天目山の戦いで織田信長に攻め込まれ、甲斐武田氏はここに滅亡した。エンディング近くに「武田の運も盡き、内の侍(さふらひ)も皆、討死ときこえしかば」とある。
「ただならぬ身」後で判る通り、妊娠している。
「たがひの名殘(なごり)」主人公の仕えていた主人夫婦の訣別。
「心づよく」きっぱりと決心して。
「何時(いつ)習はじの憂き旅」今までの体験したことのない、極めて絶望的な予兆に満ちた旅。
「殊にあからさまにも、輿物(のりもの)なんどにてこそ」は以ての外。
「遠山(ゑんさん)の花をも手折(たをり)給へ」見知らぬ田舎の山中の、名も知らぬ、咲く花なんどをも、道すがら、手折りなさったりはしたけれども。
「けしかる徒步道(かちぢ)などは、おぼろけにも步みたまはぬ」都育ちであられただけに、ちょっと変わった短い徒歩の道も、未だ嘗て、ほんのちょっとでさえも歩かれたこともあられない。
「むぐつけき」賤しい。
「小荷駄(こにだ)」室町時代以降,兵糧(ひょうろう)などを運んだ馬子(まご)の牽く馬や馬車。ここは彼らが秘かに逃げる以上、そうした輜重(しちょう)として各戦国大名らに雇われた民間の者の、小規模な或いは単独の車馬のそれ(或いは輜重労役を終えて帰る途中のもの)であろう。
「まだ、さがなき世の癖(くせ)」未だ乱世のただ中の如何にも治安も人心も劣悪な世の状況。
「關(せき)」旧来のものに加えて、戦国の力関係の中で新たに設けられた防衛上の関所。
「陣取(ぢんと)り」同じく防衛や侵攻目的として新たな場所(時には奪取された土地)に設けられた前線本部や索敵用の陣などの軍事前線拠点など。
「月ごろ」臨月。
「脇道(わきみち)」原典は「わきみち」。底本は「裏道」として「わきみち」とルビする。岩波文庫版を採った。
「くたびれたる人」言わずもがな、主人の妊娠した妻本人を指す。
「巳の刻」午前十時前後。
「腹を痛めり」陣痛が始まっていしまったのである。
「申(さる)の頭(かしら)」午後三時過ぎ。
「擔(にな)ひ茶屋(ちやや)と見えたり」その辻堂の建物の近くの道端で、旅人にちょっとした水や薬などを担ってきて、即席に茶屋まがいの行商型の商いしている者と出逢ったのである。「茶屋」の建物があるわけではなく、辻堂の庇の下か何かで品物を広げているのであろう。
「脇(わき)とても遠し」山の間道を通っても難道で本道を行くのと変わらぬぐらい遠い。
「廿町余(よ)」二キロメートル強。
「五つ過(すぎ)」午前七~八時過ぎ頃。
「七つ以前」午後四時より以前。
「焚き木はあれに御座候へ」薪であるから雨露は凌ぐ必要があるので、辻堂の縁の下辺りか。
「宿(やど)に」自宅の者が。
「案じ可申(まうすべく)候へば」心配致すでありましょうからに。
「安く産し給ふ」流石にこれは辻堂の中でである。後のカタストロフに「母をも取(とり)て、堂の外へ出づ」と出る。
「白米(しらげ)」精米した米。
「用(よう)にもあらぬ釜」最早、釜で湯を沸かす必要もなく、また、焚いてみても少しも暖房の用にもならぬの両用の謂いであろう。
「二八」数え十六歳。
「運の盡くべきはかなさとは、後(のち)こそ悔しく思ひけれ」ここは聴き手に語っている現在時制での悔やんでも悔やみきれぬ話者の直話の感懐として示されている。リアリズムを出す非常に上手い手法である。
「御子」「みこ」と読んでおく。
「退屈氣(たいくつげ)」疲弊しきった様子。出産直後であるから当然。
「夜增(よま)し日增しの旅疲(たびづか)れ」隠密の逃避行で、昼夜兼行とまでは言わないまでも、夜は主人の妻の警護のため、殆んど睡眠をとっていなかったと考えられる。
「なふ、悲しや」主人の妻の末期の声であろう。
「しからば。其(その)分(ぶん)よ」ちょっと判らぬが、私は「そうか。それはわしらの「分」(能力)を超えているから、仕方あるまいよ」という謂いか?
「あるもあられぬ事」あってはならない忌まわしく怪奇な、凡そあり得てはならぬ(しかし、事実としてあったことと認めざるを得ない)こと。
「詮(せん)もなし」「詮」は「なすべき方法・手段・術(すべ)」で「最早、何を成しても無益だ」の意。
「三寶(さんばう)」この世に示現した「仏」、仏が説いた正しき「法」(正法(しょうぼう))、その法を正しく伝える「僧」の集団(僧伽(そうぎゃ))という、衆生を正しき仏道に導く仏法の宝。
「冥加(みやうが)」三宝に心から帰依することによって、自ら意識しないうちに受けることの出来る仏の援助・保護。「冥利」に同じい。
「從(したが)へ」他動詞で「降伏(こうぶく)させ」。
「意趣(いしゆ)」他者の仕打ちに対する恨み。
「我身ながら恥がはしく侍り」ここも聴き手に語っている現在時制での自己批判である。要するに、「何故、あの時に潔く腹を切ってしまわなかったのだろうかという慚愧の念に、後には何度も襲われたことが御座いました」という感じのかつての武士としての面目に基づく謙遜である。
「理(ことわ)りに過(すぎ)たり」あまりに当然過ぎることにては御座いました(が、それは疑心暗鬼で御座いました)。
「面(おも)無きながら」あまりの為体(ていたらく)なれば、面目(めんぼく)なく、恥ずかしい限りでは御座ったれど。
「先(まづ)、天井を見給はんか」荷い茶屋主人の台詞。
「安達が原」言わずもがな、奥州の安達ヶ原(阿武隈川東岸或いは安達太良山東麓とも伝える)に棲んで人を喰らった「安達ヶ原の鬼婆」伝承を踏まえる。
「肉(しゝ)は殘さず喰(くら)ひけり」肉や脂肪の類は綺麗に削ぎ落とすように喰われているのである。
「強面(つれなく)」厚かましくも。恥知らずにも。自己批難。
殘る身の上に、かゝる憂き目を見る事ぞ。』
「裝束(さうぞく)どもを花殼(はながら)に參らせ」底本は「花柄」とするが、岩波文庫版で採った。「花殼」は仏前などに供えた花の枯れたものを指す語。岩波文庫版で高田氏は、『「花殻」は仏前に供えたものをとしさげて施すこと。また』、『その物。「参らせ」はお布施の代りとして与えて』の意と注しておられる。
「亡き人の緣(ゆかり)を尋(たづね)れども、朧(おぼろ)けにて知らるべきにあらざれば」主人の妻は「京育ち」とあった。
「黑谷(くろだに)」京の墓地(「京都七墓」「五三昧」などと称したが、名数は時代によって異なる)の一つ。国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」のこちらの事例の回答によれば、貞享三(一六八六)年刊の洛下寓居著になる浮世草子「諸國心中女」の記述によるものは七ではなく八で、鳥部山・阿弥陀峰・黒谷・船岡・蓮台寺・金光寺・西院・狐塚の八つの墓地を記し、また勝田至氏によると、歴史的記載と諸説を五つの地域に纏めて考えることが出来るとして、①鳥辺野(鳥辺山・鳥部山・鳥部野・鶴林・阿弥陀峰・華頂山・延年寺)/②蓮台野(千本・蓮台寺・船岡山・船岡)/③中山(黒谷)/④最勝河原(西院)/⑤四塚(狐塚・金光寺)を挙げてある。なお、黒谷(現在の京都市左京区黒谷町)にある寺で最も知られ、武家の帰依者の多かったのは、法然所縁として知られる「くろ谷さん」、紫雲山金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)である。
「昔の武士(もののふ)の身(み)にしもあらで」昔の勇猛果敢にして信心堅固な武士(もののふ)の身にては御座いませぬが、という献辞であろう。
「かしこくも」有り難く勿体なくも。畏れ多くも。
「桑(くは)の門(もん)に入り」出家し。「桑門(そうもん)」はもともとは梵語の「出家して修行する人・僧侶」の音写漢訳。
「懺悔(さんげ)」古語は清音が普通。]