宿直草卷二 第一 急なるときも思案あるべき事
宿直草 卷二
第一 急なるときも思案あるべき事
[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。中央のものが拝殿で、左手奥にあるのが祭殿で、そちらの天井裏が化け蜘蛛の巣であったものか。]
靑侍(なまさふらい)ありて、道をゆくに、里遠き所にて、日、暮れたり。
「如何(いかゞ)せん。」
とあたりをかけるに、林下(りんか)に古き宮あり。すなはち、拜殿にあがり、柱にそふて、
「こゝにしも、夜をあかさん。」
と思ふに、朱(あけ)の玉垣は年ふる苔に埋もれ、幣帛(ゆふしで)、風に飛んで、淺茅(あさぢ)がもとに朽(く)つ。巫女(をとめ)の袖の鈴(すゞ)たへて、巫(きね)が手向(たむく)る祝(のつと)もなし。露になく滋野(しげの)の虫は、榊(さかき)をさそふ嵐にこたへ、壁に亂るゝ蜘蛛(くも)の網(ゐ)は、庭の眞葛(まくず)が蔓(つる)にあらそふ。荒れしをまゝの有樣は、いとゞ秋てふ悲しかりける。
やゝ宵も闌(たけなは)にして、四更の空とおぼしきころ、十九(つゞ)二十(はたち)ばかりの女房、孩子(がいし)を抱(いだ)きて、忽然と、きたる。
「かゝる人家も遠き所へ、女性(によしやう)として夜更(よふけ)て來(く)べきにあらず。いかさまにも化生(けしやう)の者にこそ。」
と、うしろめたく用心して侍りしに、女、うちゑみて、抱きたる子に、
「あれなるは、父にてましますぞ。行(ゆき)て抱かれよ。」
とて、突き出す。
この子、するすると來(く)るに、刀に手かけて、はたと、睨めば、そのまま歸りて、母にとりつく。
「大事ないぞ、行け。」
とて、突き出す。重ねて睨めば、また、歸る。かくする事、四、五度にして、退屈やしけん、
「いで、さらば、自(みづか)ら參らん。」
とて、件(くだん)の女房、會釋(ゑしやく)もなく來るを、臆せずも、拔き討ちに、ちやうど、斬れば、
「あ。」
といひて、壁をつたひ、天井へ、上がる。
明けゆく東雲(しのゝめ)、しらみ渡れば、壁にあらはな貫(ぬき)を蹈(ふ)み、桁(けた)なんど傳(つた)ひ、天井を見るに、爪(つま)さき長(ながき)事、二尺ばかりの女郞蜘蛛、頭(かしら)より背中まで斬りつけらて、死したり。人の死骸有(あり)て、天井も狹(せば)し。
あゝ、誰(た)がかたみぞや。また、連れし子とみえしは、五輪の古(ふ)りしなり。
凡そ思ふに、化物と思ひ、氣(き)を逼(せ)きつゝも、五輪をきらば、莫耶(ばくや)が劍(つるぎ)もあるは折れ、あるは刃(は)もこぼれなん。その時にして、人をとりしにや、よき工(たく)みなりかし。此人も心せきて、身も逸(はや)らば、心の外(ほか)に越度(おつど)もあるべし。思案して五輪を斬らざるは、あゝ、果報(くはほう)人かな。
[やぶちゃん注:本話は湯浅佳子氏の論文『「曾呂里物語」の類話』によれば、先行する「曾呂里物語」(寛文三(一六六三)年刊)の巻三の一「いか成化生の物も名作の物にはおそるゝ事」のインスパイアであるが、そのプロトタイプは「今昔物語集」の「卷第二十七」の「賴光郎等平季武、値産女語第四十三」(賴光の郎等(らうどう)平季武、産女(うぶめ)に値(あ)ふ語(こと)第四十三)である。また、「諸國百物語卷之一 二 座頭旅にてばけ物にあひし事」は、その「曾呂里物語」版の完全な同話であり、同じ「諸國百物語」の「卷之四 十 淺間の社のばけ物の事」の趣向に至っては、本「宿直草」版に異様なほど酷似する。但し、後者ではエンディングで主人公の肝試し目的の侍が脇差を逆手に持って塔の九輪を突き通していたという為体(ていたらく)となっており、本条の最後の荻田安静の評言は、あたかもこの後者の話を意識したかのように読めるのも面白い。以前に述べた通り、「諸國百物語」は「宿直草」と同じ年の刊行であり、当時の人々が先に「諸國百物語」を読み、後で本話を読んだら、殆んどの人が、明らかに「宿直草」が「諸國百物語」をインスパイアし辛口評を附したのだとさえ考えるであろうと思う。こうなってくると、両書の影響関係は非常な興味を喚起すると言える(リンク先は孰れも私の電子テクスト注)ので是非、比較されたい。
「靑侍(なまさふらい)」身分の低い若侍。なお、狭義の「あをさぶらひ」は公卿の家に仕える六位の武士で、彼らが「青色の袍(ほう)」を着たことに由来する。「袍」は衣冠束帯などの際に着用する盤領(まるえり)の上衣。更に言っておくと、この「青色の袍」は「麴塵の袍(きくじんのほう)」を指し、それは元来は天皇が略儀に着用した桐・竹・鳳凰・麒麟を組み合わせて一単位とした文様が織られた上着であったが、これを六位の蔵人が拝領して着用することがあり、それが以上の武士階級に広く着られるようになり、意味も格変化していったものである。
「かける」「驅ける」。よほどの鄙で、雨露を凌ぐべき場所が視界域には何も見えなかったから焦ったのであろう。
「幣帛(ゆふしで)」岩波文庫版では『木綿垂』と漢字表記する。「木綿四手」とも書くが、「四手」は当て字。元来は「垂らす」意の動詞「垂(し)ず」の連用形の名詞化したもので、原義は「木綿 (ゆう) を垂らすこと」である。「木綿 (ゆう)」は現行の木綿(もめん)ではなく、和紙の原料として知られる「楮」(イラクサ目クワ科コウゾ属雑種コウゾ Broussonetia kazinoki × Broussonetia papyrifera 。「姫楮」(コウゾ属ヒメコウゾ Broussonetia kazinoki)と「梶の木」(コウゾ属カジノキ( Broussonetia papyrifera )の雑種)の皮の繊維を蒸して水に晒し、細かく裂いて糸としたものであって、主に幣(ぬさ)として神事の際に榊(ツツジ目モッコク科サカキ属サカキ Cleyera japonica)の枝に懸けたものを指す。所謂、玉串(たまぐし)や注連繩(しめなわ) などに附けて垂らす現在は紙になってしまったあれである。ここは氏子も参る者もいなくなった廃社で、古い注連繩に附いていたその木綿垂(ゆうしで)も、すっかり風に吹き飛ばされて、なくなってしまっているのである。
「淺茅(あさぢ)」丈の低い茅(ちがや:単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica )の叢。
「巫女(をとめ)」後の「鈴」から神楽舞いをする未婚女性の巫女/神子(みこ)。
「巫(きね)」「巫覡」(音は「フゲキ」)とも書く。これは広義には神に仕える神官や巫女 (みこ)を指すが、前に「巫女」を出しているから、こちらは祭儀を主宰する男性神官を「祝(のつと)」を指す。
「滋野(しげの)」草生い茂る野原。
「虫」原典の字体。
「榊(さかき)をさそふ嵐」かつて神前に手向けられた榊を吹き散らす大風。ここの祠の荒廃の寂寥を次のそれに「「こたへ」(應へ)る如き虫の音とともに倍化させる。
「網(ゐ)」岩波版の漢字表記を用いた。「ゐ」は「居」で蜘蛛の巣であるが、「蜘蛛の網(い)」という語があり、それは「ゐ」ではなく、「蜘蛛の巣」或いは「蜘蛛の糸」の意も示す。
「眞葛(まくず)」葛(マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属クズ Pueraria lobata)の美称。
「いとゞ秋てふ悲しかりける」秋という季節の、激しく、哀しく切ないことを思わせることであろうか。詠嘆の連体中止法。
「四更」丑の刻。現在の午前一時或いは二時からの凡そ二時間を指す。
「十九(つゞ)」「つづ」は本来は「十」を意味する。事実、「つづはたち」という語が存在し、これは本来は「十かや二十」という不定数(或いは定倍数)を指す古語であったものが、特に「十(つづ)や二十(はたち)の」年齢の謂いとして使用された際に、誤まって「十九か二十の」の意に用いられてしまった結果、「つづ」が「十九」の意に慣用化されてしまったものという(「日本国語大辞典」等を参考にした)。因みに、この下の「づ」は「一つ」などの助数詞「個(つ)」と同語源で「十個(とつ)」が転訛したものとも言うが、何だか私には怪しい感じがしてならない。因みに、「十九(つづ)」から「九十九折(つづらおり)」を連想する方もいるかも知れぬが、これは「葛折」で藤蔓などの蔓性植物が幾重にも折れ曲がって伸びていることからの比喩表現であり、「九十九」は当て字に過ぎない。しかし、私は「九十九」が「つづら」なら、「十九」を「つづ」と読もうとする人間が居たとしても強ち変ではない気がした(その場合、牽強付会するなら「ら」は複数を現わす接尾語と考え、それを落すことが「九」の一つを外すことになり「十九」と洒落てみたい気もする)。それが「十九」を「つづ」と読むようになってしまったとする説があっても、これ、よさそうな気さえするのである。
「孩子(がいし)」幼児。現代中国語でも年齢制限なしに「子ども」の意で用いる。因みに、現代の本邦では五歳位までに亡くなった子どもの戒名にこれを附すぐらいで、日常の「子ども」という使用例はまず見ない。
「うしろめたく」どうなるか不安で。
「ちやうど」一種のオノマトペイア的副詞。濁音が古いあ、後に清音「ちやうと(ちょうと)」ともなった。物と物とが強くぶつかったり、打ち合う音の形容。所謂「はっしと」や現代の「バシッと」に同じい。
「貫(ぬき)」穴。
「桁(けた)」柱の上に横に渡して垂木 (たるき) を受ける材で、梁 (はり) と打ち違いになる。
「爪(つま)さき長(ながき)事、二尺ばかりの女郞蜘蛛」間違ってはいけない。脚の先端節部分だけで二尺、六十一センチ弱もある女郎蜘蛛(鋏角亜門クモ綱クモ目クモ亜目クモ下目コガネグモ上科ジョロウグモ科ジョロウグモ属ジョロウグモ Nephila clavata)というのだから、巨大である。この数値を第一脚の先端の長い鉤のように湾曲した節の長さと採ると、その実際の同種の脚節と全長比から見て、脚の全長(第四対脚の先端まで。ジョロウグモは脚が長い種である)では五倍はあるから三メートルは有にあり、実際の同種の頭胸部+腹部だけの比で見ても、脚を本体も六十センチ以上はあるだろう。因みにジョロウグモは性的二形が著しいことで知られ、成体の体長は♀で十七~三十ミリメートルに対し、♂は六~十三ミリメートルと♀の半分以下である。ここは母として化けてもいたことでもあり、この異様な巨大さからも、まず、♀である。
「狹(せば)し」原典は「せばし」。底本は『挾し』(ルビなし)であるがこれは採れない。岩波文庫版を参考に、かく、した。
「あゝ、誰(た)がかたみぞや。また、連れし子とみえしは、五輪の古(ふ)りしなり」この前後は原典は勿論、底本なども総て繋がっているのであるが、私は恣意的に以上のような改行を施した。その理由は、この堰を切ったような感懐表現は前の天井裏に山と積もれた「人の死骸」へのそれではなくて、青侍が恐怖の天井裏から降りて来て、ふと近くの地面を見て思わず「連れし子とみえしは、五輪の古(ふ)りしなり」と気づき、その崩れた五輪塔は一体「あゝ、誰(た)がかたみぞや」と感慨を催した倒置法と読むからである。
「莫耶(ばくや)が劍(つるぎ)」名剣の譬え。この伝承(リンク先参照)で名剣の名となっている「干將(かんしょう)」と「莫耶(ばくや)」は、実はもともとは刀鍛冶の男干將とその妻莫耶の名である。時間の許す方は、先日、電子化したばかりの『柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その1)』の私の注の冒頭の長い「干將鏌耶(かんしょうばくや)」を是非、参照されたい。
「その時にして、人をとりしにや」それを好機として蜘蛛怪は人を襲ったのではなかろうか。或いは、朽ち崩れた五輪塔には何箇所もの刀傷の痕があるのを青侍は見たのかも知れぬ。その方がまた、映像的には優れる。
「よき工(たく)み」蜘蛛怪が人間を襲うための巧妙な戦略。
「心の外(ほか)に」予想外の。
「越度(おつど)もあるべし」致命的な過ちを犯していたかも知れぬ。
「果報(くはほう)人」「人」は「にん」か。幸運な人、或いは、前世の善き因果によってかくもからき命を救われた人の謂い。]
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