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« 宿直草卷二 第二 蜘蛛、人をとる事 | トップページ | 宿直草卷二 第四 甲州の辻堂にばけものある事 »

2017/06/26

宿直草卷二 第三 百物語して蛛の足をきる事

 

  第三 百物語して蛛(くも)の足をきる事

100kumo[やぶちゃん注:底本の挿絵は左端がひどく汚いので、岩波文庫版のものを採用した。]

 

 血氣(けつき)の袖どち、群れつゝ、話す。

「夜、百物語すれば、恐ろしき事、有りといふ。いざ、せん。」

と切(せち)に話すに、はや、九十九にをよぶ。

「よし。さら、まづ、三寸汲(く)みてよ、事急(ことせ)くな。」

などいひて、順盃(じゆんはい)とりどり、色めいて侍るに、ひとり立(たち)て、重(ぢう)の肴(さかな)たづさへて、圓居(まどゐ)のこらず、末座(ばつざ)まで、引きまはりしに、其(その)時、

「ここへも、ひとつ。」

とて、おほきなる手を天井より差し出(だ)す。

 はやき者有(あり)て、ぬき打(うち)に斬る。手ごたへ無(な)ふして、糸なんど、斬るがごとし。落つるを見るに、蜘蛛の手、三寸ばかり、斬りたり。

「さてこそ百の話(はなし)の驗(しる)し有りけれ。」

と語る。

 まことにおそろしき虫にあらずや。

 鬼蜘蛛(おにぐも)の名に負(お)ひて、上﨟蜘蛛(じやうらうぐも)の媚(こび)過(すぎ)たるも、げに穴蜘蛛(あなぐも)のふかき巧(たく)みやあらん。土蜘蛛(つちぐも)の土氣(つちけ)にも見こなせど、また靑蜘蛛(あをぐも)の草にまじりては、大象(だいざう)をも殺す、おそろしき毒ともなれり。

 汀(みぎは)の風も冴えわたり、浪にうき藻(も)の夜晝(よるひる)となく、たゞ、水蜘蛛(みづぐも)の哀(あは)れなるは、心もいとも亂すらんと見るに、賢(かしこ)くも身仕舞(みじま)ひして、平屋(ひらや)のいへか平蜘蛛(ひらぐも)の、間口(まぐち)に狹(せ)ばふ作(つくり)なし、壁にむかへる殊勝(すせう)さは、かの少室(せうしつ)の寄る方(べ)とやいはん。猶、蠅(はへ)とり蜘蛛(ぐも)よ、夏の晝寢の宿直(とのゐ)とも賴(たの)まん。

 たゞかきみだしたる心も解(ほど)けて、己(をの)が糸筋(いとすぢ)、素直(すなほ)ならば、一葉(ひとは)の舟(ふね)の例(ため)しにも乘らなん。何とてか、わが背子(せこ)が、來(く)べき良い事には引かれずして、童子(どうじ)が靈(れい)となりては、賴光(らいくはう)にも、近づきしぞや。今はた、巷(ちまた)に殺されても、童子(わらはべ)などの「一昨日(おとゝひ)こよ」と呼ぶも、その性(しやう)、執心の深ければこそ。

 

[やぶちゃん注:荻田はよほど興に乗ったものか、評言の「蜘蛛尽くし」の部分が事件パートの一・五倍もある。その分、斬られて落ちた蜘蛛の脚の長さもしょぼく、せっかくの百物語怪異示現譚としてのホラー性はひどく減衰してしまっている。

「血氣(けつき)の袖どち」既出既注の通り、「袖」は「人」の意。血気盛んな若者たち。

「切(せち)に」それぞれが皆、すこぶる熱心に。

話すに、はや、九十九にをよぶ。

「さら」離れているが、これは文末の「事急(ことせ)くな」という禁止に掛かる呼応の副詞で「決して」の意であろう。

「三寸汲みてよ」この「三寸」は実寸ではなく、「少ないこと・薄いこと」を意味し、「酒をちょいとばかり盃(さかずき)注いで酌み交わそうではないか」の意であるが、ここにそれを用いたのは、後の化け蜘蛛の脚の実寸として「三寸」への伏線である。

「順盃(じゆんはい)とりどり」順々に盃(さかずき)を取り交わしては酒を酌み交わして賑やかになりゆくさまを言っている。

「色めいて」活気づいて。酔って顔が赤くなるさまも掛けていよう。

「重(ぢう)」重箱。

「圓居(まどゐ)」同座している者たち。

「末座(ばつざ)」その場には、その百物語を開いた家に勤める下男或いは同席者の中間(ちゅうげん)などもいたのであろう。

「はやき者」太刀捌きの素早く巧みな者。

「鬼蜘蛛(おにぐも)」以下、現在の生物学で同名の和名を持つ種を示す。但し、荻田がその種を指しているというわけではなく、その仲間や類似の形態や生態を持つものを広範に含むと考えるべきことは言うまでもない。鋏角亜門クモ綱クモ下目クモ亜目クモ目コガネグモ科オニグモ属オニグモ Araneus ventricosus。まさに荻田の言う通り、「名に負」いし通りの恐持ての大型種で、しかも実際に「鬼」っぽい感じのする蜘蛛である。体長はで三~二センチメートル、で二~一・五センチメートルほど、背甲は黒褐色から赤褐色を、歩脚は黒褐色でそこにより暗い色の輪紋を持つ。歩脚には多数の棘も生えている。

「上﨟蜘蛛(じやうらうぐも)」女郎蜘蛛・絡新婦。クモ下目クモ亜目コガネグモ上科ジョロウグモ科ジョロウグモ属ジョロウグモ Nephila clavata。先行する「卷二 第一 急なるときも思案あるべき事」で詳細に注済み。ここはあでやかさで「媚(こび)」の過剰な感じとする調子に合わせるために、「女郎(ぢよらう)」ではなく「上らう」(原典の表記)としたものであろう。

「穴蜘蛛(あなぐも)」クモ亜目ジグモ科ジグモ属ジグモ Atypus karschi。糸で作った細長い筍の頭のような形の袋状のかなり目立つ巣を壁際や木の根元などの地面に十センチメートルほど立てることでよく知られている。ウィキの「ジグモ」によれば、『この袋の地上に出た部分は、捕虫装置としての性格をもっている。餌は小型甲虫、ダンゴムシ、ワラジムシといった地表性の小動物などで、これらがこの袋の表面を歩いた時に、ジグモは袋越しに長大な鋏角で咬みつき、袋を破れるままに巣内に引きずり込む。食べかすは袋の先端から捨てられる。このクモは比較的飢餓には強いことが知られている』とあり、荻田はそうした捕食行動を観察していたのであろう。そうでなくては、「ふかき巧(たく)みやあらん」という推定表現は決して添えられない。彼は俳人でもあったから、そうした歳時記的博物学的知識は旺盛だったと考えてよい。

「土蜘蛛(つちぐも)」これは前の「穴蜘蛛」=ジグモの別名であるが、荻田は別種として示している以上、ここは前話で注した、地中に穴を掘ってその入り口に扉を付けることを特徴とする戸立蜘蛛(鋏角亜門蛛形(クモ)上綱蛛形(クモ)綱クモ亜綱クモ目クモ亜目カネコトタテグモ科 Antrodiaetidae 及びトタテグモ科 Ctenizidae に属する種群(事実上の主な種群はトタテグモ科に属する類)類の総称と採っておく。中でも本邦で最も普通に観察されるのはキシノウエトタテグモ Latouchia swinhoei typica で、ウィキの「トタテグモ」によれば、このキシノウエトタテグモは『本州中部以南に分布し、人家周辺にも普通に生息』し苔の『生えたようなところが好きである。地面に真っすぐに穴を掘るか、斜面に対してやや下向きに穴を掘る。穴は深さが約』十センチメートル『程度、内側は糸で裏打ちされる。巣穴の入り口にはちょうどそれを隠すだけの楕円形の蓋がある。蓋は上側で巣穴の裏打ちとつながっている。つながっている部分は狭く、折れ曲がるようになっていて、ちょうど蝶番のようになる。蓋は、巣穴と同じく糸でできている。そのため、裏側は真っ白だが、表側には周囲と同じような泥や苔が張り付けられているため、蓋を閉めていると、回りとの見分けがとても難しい』(下線やぶちゃん)とあり、このカモフラージュをこそ荻田は「土氣(つちけ)にも見こな」す(この「見こなす」というのは「見る」に、他の動詞の下に付いてその動作を「楽々としてしまう・巧みにする」のニュアンスである)と表現しているのである。

「靑蜘蛛(あをぐも)」私は、薄などの大型のイネ科の植物の葉を巻いて営巣する、大きな顎と種によっては非常に強い毒を有するクモ亜目フクログモ科コマチグモ属 Cheiracanthium の一種ではないかと推測する。体長は六~十四ミリメートルと小さく、一部の種は薄黄色を呈していて「草にまじ」ると目立たない。「大象(だいざう)をも殺す、おそろしき毒」は大袈裟であるが、本邦産のクモ類中では最強毒の一種とされるコマチグモ属カバキコマチグモ Cheiracanthium japonicum は神経毒を含み、咬まれると激しく痛み、重傷例ではショック症状などを起こす場合もある。ただ、これを本邦産でない、渡来人の話や海外の書にある、実際に「靑」い、噂では猛毒を持つと恐れられたところの「蜘蛛」とするならば、大型で鮮やかなコバルト・ブルーを呈する、かの毒蜘蛛として恐れられる(事実は毒は強くない)「タランチュラ」類の一種であるクモ亜目オオツチグモ科 Haplopelma 属コバルトブルータランチュラ Haplopelma lividum などを挙げてよい。

「汀(みぎは)の風も冴えわたり、浪にうき藻(も)の夜晝(よるひる)となく、たゞ、水蜘蛛(みづぐも)の哀(あは)れなるは」「汀」「風」「浪」に「うき」(浮き)「藻」「水」は縁語で、「うき」は「憂き」の掛詞として以下の「哀れなる」引き出しつつ、「心」「亂す」と新たな縁語群を形成する。

「水蜘蛛(みづぐも)」本邦だけでなく、世界でただ一種のみ完全に水中に棲息する一科一属一種のクモ亜目ミズグモ科ミズグモ属ミズグモ Argyroneta aquatica がいる。ウィキの「ミズグモ」を引いておく。『水際で生活するクモや、時々水中で活動するクモは珍しくないが、水中生活と言って良いのはこの種だけである』。一センチメートル『程度の大きさの黒っぽい体色のクモで』、『全身が毛深いことを除けば、外見上は近縁のタナグモ科』Agelenidae『のものとほとんどかわらない』。『体長は雌雄とも』八~十五ミリと小さく、『頭胸部は赤褐色、腹部は灰色から黒褐色、特に斑紋はない。歩脚も褐色から黒褐色。背甲前方に』二列八個の『眼が並ぶ。頭胸部は卵形、腹部は楕円形』を成す。『形態的には水中生活にふさわしいような特徴があまりない』が、第三・第四脚の『腿節内側に長い毛を密生』しており、『これは水中活動する際に空気を抱える部位に当たる。また。気管気門が一般のクモでは腹部腹面後方の糸疣』(しゆう:クモ類のの腹部下面後端の肛門の前方にある出糸突起のこと)『近くにあるのに対して、ミズグモではほぼ中央にあり、空気を抱える後方歩脚間に近いのも、水中生活への適応ともとれる』。『水中を泳ぐときには、体の表面を覆う微毛の間に空気の層ができるので、銀色に光って見える。水中では水草をたどって歩き、また足を掻いて泳ぐことができる。ヨコエビなどの小型の甲殻類や水生昆虫といった水中の小動物を捕らえて餌とする』。『また、水中に巣を作る。巣は糸を重ねてできた膜によるドームで、ここに空気を蓄え、その中で休息する。空気は水面に出て、後ろ足の間と腹部の微毛の間に通常より厚い空気の層を抱えるようにして潜り、巣内に放すことを繰り返して集める。餌はこの巣に持ち帰って食べる』。『卵嚢もこの巣の中に作る。幼生はふ化後はそのまま水中に出て、巣を作って水中生活を始め』る。但し、『水中生活への適応は、例えば昆虫のゲンゴロウのような完全なものではなく、時折り』、『陸上に出て体を乾かさなければならない。水槽内で飼育する時、水草などが入っていても、水面から出ていられる場所を作らないと、次第に体の表面に空気を維持できなくなり、水底に沈んでしまう。この段階で取り出し、体を乾かしてやれば回復するが、放っておくと溺死する』。『ヨーロッパから日本を含むアジアまで、旧北区に広く分布する』が、本種はそのライフ・サイクルを殆んど水中で行い、通常のクモ類のかなりの種がよくやるバルーニング(幼体が糸を使って空を飛んで棲息息を拡大すること)を『行わないため、この広い分布がどのように実現されたのかは興味深い』。本邦では昭和五(一九三〇)年に『京都市の深泥池で吉沢覚文』(当時は中学三年)『が初めてミズグモを発見・採集した。彼はタヌキモを採集観察中にこれを発見し、「子供の科学」誌で見たミズグモを思い出して調べたところ、どうやらそれらしいと判断、ところが周囲の誰に聞いても「日本にミズグモはいない」と言われたという。しかし博物科担当教諭であった秋山蓮三、清水初太郎が実物を見た上で岸田久吉に連絡、岸田は京都に出向いてこれを観察、ヨーロッパのミズグモと同じ種であると確認、新聞紙上をにぎわすまでのニュースとなった』。『が、それから数十年の間』、二回目が昭和一六(一九四一)年の『北海道厚岸』、三回目が昭和五二(一九七七)年に再び京都と、極めて稀に『報告されるだけであった。この後』、『全国で発見例が増え、北海道から九州まで分布することが判明した。北海道道東地方では確実な観察例が多いが、継続的な生息を確認できない所が多い本州以南では絶滅が危惧されている。きれいな湿原や池の、浅くて水草が多いところで、なおかつ』、『大型魚のいない場所でなければ生存できないなど、生息条件が厳し』く、『環境省のレッドデータでは絶滅危惧II類に指定されている』。なお、日本固有亜種が Argyroneta aquatica japonica として『記録されているが、これについてはまだ確定的ではなく、変異の範囲とも見られている』とある。荻田が正しく本種を名指しているとしたら、彼が真正の和名の命名者となるが、恐らくは彼が「水蜘蛛」とと言っているのはそれこそ、水際で生活したり、時に水中で活動をするクモ類を広汎に指しているととるべきか

「いとも」「より一層にも」に蜘蛛の「糸」を掛ける。

「身仕舞(みじま)ひ」身を隠すこと。カモフラージュ。擬態。

「平蜘蛛(ひらぐも)」体が平たい蜘蛛の総称であるが、種としては文字通り、偏平な、クモ亜目ヒラタグモ科ヒラタグモ属ヒラタグモ Uroctea compactilis の俗称、というか漢字表記は「平蜘蛛」と、相同ではある。

「間口(まぐち)に狹(せ)ばふ作(つくり)なし」家の間口に狭くささやかな網を張り巡らせて巣を作り成し。上記のヒラタグモ(平蜘蛛Uroctea compactilis は人家の壁面などに好んで巣を作り、ウィキの「ヒラタグモ」によれば、『ヒラタグモの巣はテント型と言われることもあ』り、『巣は雨のあまり当たらない平らな広い面の上に作られる。外見はほぼ円形で中央が少し盛り上がる。輪郭は多数の突起を出していて、粗い歯車の形。この突起からは糸が出ていて、周囲の表面に張り付いている。また、巣の表面は、周囲のゴミ等をその表面につけて、周囲の色と紛らわしくなっている』。『巣その物は糸を重ねて作られた膜からなる。このような膜が上下に二枚重なったものが巣の本体であり、クモはその二枚の隙間に入っている。ヒラタグモの扁平な体はこのような巣に身を隠すのに都合がよい。上面の膜をはがすと、底面の膜の上にクモがいるのを見ることができる。クモは二枚の膜の隙間から出入りする』。『巣の外側の所々から壁面に糸が伸びる。この張られた糸は、ややジグザグになりながら巣から放射状に広がり、その面に張り付いたようになっている。この糸を受信糸と言い、これに昆虫等が引っ掛かると、振動が巣にいるクモに伝わることで、クモはえさの接近を知ることができる。えさが近づくとクモは巣から飛び出し、えさに食いついて巣に持ち込むか、えさの周囲をぐるぐる回りながら糸をかけ、動きを封じた後に噛み付いて巣に持ち込む』。『産卵は春から秋に散発的に行われる。卵は巣の中に柔らかな糸でくるんだ卵塊として生み付けられる。』摂餌や繁殖以外では『本体は常に巣にこもっていて出歩くことは少ない』とある。「壁にむかへる殊勝(すせう)さは」は、まさに荻田が本種ヒラタグモをよく観察していなければ記せぬ内容であり、荻田の博物学的関心の高さが判る

「少室(せうしつ)の寄る方(べ)とやいはん」岩波文庫版で高田氏は『不詳。謡曲『氷室』によるか』とのみ注しておられる。謡曲「氷室(ひむろ)」は宮増 (みやます)作と言われる脇能物。亀山院に仕える朝臣が丹波の氷室山に立ち寄るったところが、氷室守(もり)の老人が氷を都へ運ばせる由来を語り、やがて、氷室の中から氷室明神(老人の後シテ)が現れ、采女(うねめ)が氷を運ぶのを守護するという内容らしいが、この高田氏の注の謂わんとするところが私が馬鹿なのか、よく判らぬ。識者の御教授を乞う。単に「少室」は「氷室」の誤りで(しかし原典には御丁寧に「せうしつ」とルビが振ってあるんだがねぇ?)、氷が解けぬように外気に触れぬよう、しっかりと遮蔽されているされていることと蜘蛛の巣のカモフラージュを喩えて言ったものか? よう、判らんね。

「蠅(はへ)とり蜘蛛(ぐも)」私が大好きなクモ亜目ハエトリグモ科 Salticidae のハエトリグモ類。家屋内で普通に出逢うあの可愛いやつはオビジロハエトリグモ属アダンソンハエトリ Hasarius adansoni であることが多い。

「一葉(ひとは)の舟(ふね)の例(ため)し」岩波文庫版で高田氏は『舟の起源は、中国の貨狄(かてき)』(黄帝の臣であったとされる)『が蜘蛛の柳の一葉から作った舟を皇帝に献じたとする伝説』と注しておられる。

「わが背子(せこ)が、來(く)べき」岩波文庫版の高田氏の注によれば、流布本「古今和歌集」の「卷第二十」の終りに附されている「墨滅歌」(すみけちうた/ぼくめつか:「古今和歌集」の歌の中で古写本に書かれてはいるが、墨で消されてあるもの)の中の「卷第十四」の一首(一一一〇番歌)、及びそれを援用した酒呑童子退治の謡曲「土蜘蛛」を元にしているとする。

    *

  衣通姬(そとほりひめ)の、獨り居(ゐ)て帝を戀ひ奉りて

 わが背子が來べき宵(よひ)也(なり)ささがにの蜘蛛(くも)の振舞ひかねてしるしも

    *

ここでは、いとしい彼がやって来てくれるという「良い」(よひ)予兆が蜘蛛の動作の動きに示されている「宵」だというのである。糸に引かれるように、そうした瑞兆に引かれるのではなく、その反対に、鬼神の悪霊となった酒呑童子が頼光に近づいたが故に滅ぼされたというのであろうか? どうもこの辺りは圧縮が過ぎ、謡曲に冥い私にはよく判らぬ。或いは、蜘蛛に繋げるとすれば、頼光に退治された酒呑童子が恨み骨髄の悪霊となって、後の妖怪土蜘蛛となって、またしても頼光に滅ぼされたという入れ子的謂いなのか? 一応、ウィキの「土蜘蛛の「妖怪土蜘蛛」の部分を引いておく。『人前に現われる姿は鬼の顔、虎の胴体に長いクモの手足の巨大ないでたちであるともいう。いずれも山に棲んでおり、旅人を糸で雁字搦めにして捕らえて喰ってしまうといわれる』。十四『世紀頃に書かれた『土蜘蛛草紙』では、京の都で大蜘蛛の怪物として登場する。酒呑童子討伐で知られる平安時代中期の武将・源頼光が家来の渡辺綱を連れて京都の洛外北山の蓮台野に赴くと、空を飛ぶ髑髏に遭遇した。不審に思った頼光たちがそれを追うと、古びた屋敷に辿り着き、様々な異形の妖怪たちが現れて頼光らを苦しめた、夜明け頃には美女が現れて目くらましを仕掛けてきたが、頼光はそれに負けずに刀で斬りかかると、女の姿は消え、白い血痕が残っていた。それを辿って行くと、やがて山奥の洞窟に至り、そこには巨大なクモがおり、このクモがすべての怪異の正体だった。激しい戦いの末に頼光がクモの首を刎ねると、その腹からは』千九百九十『個もの死人の首が出てきた。さらに脇腹からは無数の子グモが飛び出したので、そこを探ると、さらに約』二十『個の小さな髑髏があったという』。『土蜘蛛の話は諸説あり、『平家物語』には以下のようにある(ここでは「山蜘蛛」と表記されている)。頼光が瘧(マラリア)を患って床についていたところ』、身長七尺(約二・一メートル)の『怪僧が現れ、縄を放って頼光を絡めとろうとした。頼光が病床にもかかわらず』、『名刀・膝丸で斬りつけると、僧は逃げ去った。翌日、頼光が四天王を率いて僧の血痕を追うと、北野神社裏手の塚に辿り着き、そこには』全長四尺(約一・二メートル)の『巨大グモがいた。頼光たちはこれを捕え、鉄串に刺して川原に晒した。頼光の病気はその後すぐに回復し、土蜘蛛を討った膝丸は以来』、「蜘蛛切り」と呼ばれた。『この土蜘蛛の正体は』『神武天皇が討った土豪の土蜘蛛の怨霊だったという』とある。

「童子(どうじ)が靈」「童子」は原典でも後の「わらはべ」と区別してかくルビが振られてあることから判る通り、酒呑(しゅてん)童子のこと。だから、源「賴光(らいくはう)にも、近づきし」と続く。これは岩波文庫版の高田氏注によれば頼光の酒呑童子退治を主題とした謡曲「大江山」に基づくとされる。私のここへの不審は前の注の下線太字部分を参照されたい。

「一昨日(おとゝひ)こよ」現在も厭な者を罵って追い払う際に浴びせる罵詈雑言の一つである「一昨日(おととい)来やがれ!」は「もう二度と来るな」の意で、恐らくは過去の一昨日に来ることは不可能であることからであろう(と私は思っている)。不可能なこと言上げすることによって相手を永遠に封じてしまう呪言である。]

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