« 2017年6月 | トップページ | 2017年8月 »
第十一 五音(ごゐん)を聽き知る事
ある俗(ひと)、每宵(まいせう)、謠講(うたひかう)に行く。
其座に醫者有(あり)て、
「さても、御身の聲の惡しき事よ。」
と。男、聞(きき)て、
「氣分も惡しからず。いかで、さはのたまふ。」
と云ふ。醫のいはく、
「よし、さもあらばあれ、聲は夜半は過ぎぬ命に聽こえ候へ。」
と云ふ。
男、大きに驚き、
「しからば、まづ、脈をとり給れ。」
と云ふ。
「さらば。」
とて、とりて見、
「いよいよ沈(ちん)にして數(さく)なり。命門(めいもん)、巡氣(じゆんき)なし。これ、飮み給へ。」
とて、藥を呉るゝ。
「脈の品(しな)、少(ちと)賴み所あり。養性(やうしやう)し給へ。」
と云ふ。
男、其座にあるもあられねば、我屋(わがや)に歸るに、夜もはや更けて人靜まれども、醫師(くすし)のなまじゐなる諫(いさ)めにより、いとあぢきなくて、目も合はざるに、側(そば)に寢たる妻、手を越して、鼻息を、三度まで、探(さぐ)る。
寢たふりにもてなすに、また、閏(ねや)の内に長持ありしが、その中に人の息差(いきざ)し、有(あり)。
男、聞(きき)て、
『さては妻、密夫(まおとこ)ありて、我が寢たらんには殺さんと思ふにこそ。』
と。
やがて立(たち)て、かの長持を見るに、いつも鎖(じやう)下ろすに、今宵、金打(かなもの)免(ゆる)してありけり。
『賢くも、五音を聽き貰ひし。』
と思ひて、かのゑびつぼに笄(かうがい)を差し、さて、妻を詮索するに、違(たが)ふ事なし。
思ひのままに計らひし也。
これ、名醫の五音を聽きし德なり。
[やぶちゃん注:この類話は大陸の志怪小説や本邦の怪談及び落語、或いは近代以降の噂話や都市伝説にさえも認められるものである。
「五音(ごゐん)」「五音」なら歴史的仮名遣は「ごいん」が正しいが、これは「五韻」とも書き、それならばこの「ごゐん」で正しい。中国と本邦の音楽理論の用語で、音階や旋法の基本となる五つの音(低い方から順に「宮(きゅう)」・「商(しょう)」・「角(かく)」・「徴(ち)」・「羽(う)」と呼ばれるが、基本的いは洋楽のド・レ・ミ・ソ・ラと同様の音程関係になる。
「聲は夜半は過ぎぬ命に聽こえ候へ」「貴殿の声の調子や様態は、貴殿の命、これ、今夜の夜半過ぎぬ前に果ててしまうものと聴こえて御座る。」。
と云ふ。
「沈」「沈脈」(ちんみゃく)。漢方で脈搏が薄弱なことを指す語。強く指を押しつけないと感じられない脈の打ち方を言う。
「數(さく)」「數脈」(さくみゃく)。漢方で頻脈のことを指す語。脈拍数が「一息五至」(一分間に九十回)以上の脈を指す。
「命門(めいもん)」狭義には「生命の門戸」の意の経絡(臍の位置の背中側)を指すが、ここはそのまま「生命」の意で、その「巡氣(じゆんき)」(これも狭義には肺気・胃気の循環を意味するらしいが、ここは単に正常な「循環」でよかろう)が絶たれつつある状態にあるというのであろう。
「脈の品(しな)」脈の質の良し悪し。最悪の「沈にして數」なのであるが、そこに微妙にある違いがあって、そこに「少(ちと)賴み所あり」(少しばかりであるが希望がかけられるところある)、死なずにすむかも知れぬ、というのである。
「養性(やうしやう)」「養生」に同じい。
「なまじゐなる」中途半端な。不完全な。
「あぢきなくて」やり切れない思いで。
「手を越して」原典は「手をこして」。「手起して」かも知れぬが、こちらの方が私は仕草として映像的にしっくりくるので、かく、した。
鼻息を、三度まで、探(さぐ)る。
「もてなす」見せかける。
「人の息差(いきざ)し、有(あり)」本話のポイントである聴覚的特異点が、巧みに意外なところで活かされてくるシーンである。
「金打(かなもの)免(ゆる)してあり」錠前が完全に外されてあった。
「ゑびつぼ」「海老錠・蝦錠」エビのように半円形に曲がった錠前。唐櫃や門扉の閂(かんぬき)に用い、単に「えび」とも呼んだ。ここはそれを掛けて封じる突起に開いた穴(複数箇のそれを貫いて鍵がかかる)のことと思われる。だから、「笄(かうがい)」(髪を整えるための道具で毛筋を立てたり、頭の痒いところを掻いたりするために用いた箸に似た細長いもの。高級なものは象牙や銀などで作った)を差して中から蓋が開けられないようにしたのである。]
第十 京師(けいし)に、人、失(うす)る事
所司代多賀某(なにがし)と云ふは、先(さき)ら、目出度き人なり。
この時、京分限(ぶげん)なる町人の子、多く失せたり。十人に一人、歸る者はなし。親、悲しび合ひて、これを訴ふ。
所司代、不思議に思ひ、ある夜、只一人、しかも町人の振り、途子(づし)・小路、巡り給ふに、唐白の音も靜まる小夜更(さよふけ)て、十七、八の女房、袖の移り香、えならぬまでに仄(ほの)めくが、五條の邊り、たゞ獨り行くに遭ふ。
「夜もいたく更(ふけ)しに、何處(いづこ)へか、通り給ふ。」
とあれば、
「三條邊りへ參る。」
と云ふ。
「送り參らすべきか。」
とあれば、
「一(いつ)の情にまことなりや。」
と云ひ、斟酌までに及ばざれば、
『是らこそ妖(あや)しの物なれ。』
と思ひ、女房を先に立(たて)て、手を取り組みて行き給ふ。情に死ねと言の葉の、數もますます重なれば、行くべき三條に着きけり。
「妾(わらは)が住家(すみか)は、これなり。」
と、門、打ち叩きければ、内より同じ樣なる女、二、三人、立ち出(いで)て、
「さてさて、送り給ふ事、かたじけなし。」
と、手を取り、
「まづ入(いり)給へ。」
と云ふ。
「いや。是までなり。」
とあれば、
「先(まづ)。」
と止(と)むる。
『さらば。内見ん。』
と思(おぼ)して、入給ふに、御酒(みき)汲みて、いろいろもてなすにも、猶、寛(くつろ)ぎ給はざるに、例の女房、
「夜も更(ふけ)侍らへば、これにて明かさせ給へ。殊更、道すらも淺からぬまで云ひ交(かは)せしも忘れがたく侍る。たゞ、敷妙(しきたへ)の枕に語らん。傾ふき給へ。」
と、まことしやかに云ふ。
所司代、げに、聊(いさゝ)か兼(か)ねしことの恥づかしきばかりなれば、
「添ひ寢の床(とこ)に、心の底も解(ほど)きたくさふらへども、今宵は歸らでかなはず。まこと御心ざしましまして、御情(なさけ)も變らでおはしまさば、必ず、翌(あす)の夜、參るべし。見捨て給ふな。」
など懇(ねんご)ろに兼ねて、暇(いとま)乞ふて出で給へり。女は、
「然(しか)らば。」
と堅き言(ごと)して許す。
「さては、怪しの所なり。」
とて、雜色(ざうしき)に言ひ付(つけ)、その翌くる日、かの家、闕所(けつしよ)し給ふに、女七、八人、男十人ばかり、召し捕る。
家内に井戸掘りて、人多く殺して、尸(かばね)をこれに隱す。
この事あらはれて後は、人、更に失せず。
役(やく)に備はる人は、其智、目出度くこそ侍れ。
獨り行くは危なくも侍る。
[やぶちゃん注:完全な疑似怪談というか、犯罪掌篇物で、本書の中ではかなり異質な部類の話柄であると思われる。
「所司代多賀某」「多賀」姓で、しかも才気煥発で名所司代として知られた人物となると、室町後期から戦国前期に生きた多賀高忠(応永三二(一四二五)年~文明一八(一四八六)年)である。室町中期の守護大名で幕府侍所頭人兼山城守護などを歴任した京極高数の子。ウィキの「多賀高忠」によれば、主君であった『京極持清は従兄でもあり、その片腕として活躍』、寛正三(一四六二)年に『京都侍所所司代を任ぜられ、土一揆鎮圧と治安維持で名を挙げた』が、文正元(一四六六)年十二月、『持清が延暦寺と衝突して失脚すると共に解任され』てしまう。翌、応仁元(一四六七)年に『応仁の乱が勃発すると持清と』『細川勝元ら東軍に属し、西軍の六角高頼らを圧倒して山城に如意岳城を築いた』。文明元(一四六九)年には『六角氏の本拠である観音寺城を一時制圧して』第八『代将軍足利義政から直々に感状を授けられた』。ところが、『翌年に持清が病死、子の政経を庇護して京極高清、京極政光、六角高頼、多賀清直・宗直父子らの勢力に一時優勢を保つも』、文明四(一四七二)年に『敗走、政経と共に越前へ逃れ』たが、三年後の文明七年に『出雲の国人を擁して再起し、六角高頼らと戦って勝利を納めるが、西軍の土岐成頼と斎藤妙椿、斯波義廉が援軍に付いたことによ』って敗北、『三沢氏ら有力国衆を戦死させて敗退した』。文明九年の『応仁の乱終結後も本拠である近江犬上郡甲良荘下之郷(現在の滋賀県犬上郡甲良町下之郷)には復帰できず、京都での隠棲生活を余儀なくされていた』。しかし、文明十七年四月十五日(一四八五年五月二十八日)、『室町幕府に召されて』二『度目の京都侍所所司代を任ぜられると、幕命を受けて山城国内の土一揆を鎮圧し、京都市中の再建にも尽力したが、翌年に世を去った』。『高忠は武家故実に明るく』、『小笠原持長に弓術を学び、『高忠聞書』を著した。『高忠聞書』は弓術における研究資料、及び当時の故実を知る史料として現在まで重要な役割を果たしている。この他に和歌・連歌にも通じるなど、当時の知識人の』一人であったとあるから、まず彼がモデルと考えてよい(下線やぶちゃん)。この事実から考えるならば、彼が京都所司代であったのは一回目の四年と死の直前の一年となり、話柄内の様子からは、一回目がしっくりくる。その場合、本話は恐らく「宿直草」の中で具体的年代がはっきりと判るものとしては、最古のものということになろう。
「先ら」「ら」は接尾語か。才気の現実に現われたものを指し、弁舌や才知などを指す。
「分限(ぶげん)」金持ち。「ぶげん」は底本のルビであるが、「ぶんげん」とも読む。
「町人の子」「子」とあるが、結末から見ても幼児や少年少女ではない。大枚を持った豪商の十代後半か二十代前半の子女らである。
「途子」原典は「づし」。底本は「辻」(ルビなし)とする(岩波文庫版は収録しない)。「づし」は「圖子」とも書き、「大路と大路を結ぶ小路」或いは「辻」を指す語であるここは後者でとっておく。私は底本の「辻」は結果論的には正しくても、意訳ともいうべき漢字化であって「づし」というルビさえも振っていない点で断固、支持出来ない。
「斟酌までに及ばざれば」遠慮したり、躊躇(ためら)ったりする様子が全く見られなかったので。
「手を取り組みて」手を懐へ入れて軽く組んだようにしたのであろう。懐には小刀(さすが)があるに違いない。因みに、この時代、短刀は町人が護身用に持っていても別に不思議ではなかった。
「情に死ねと言の葉の、數もますます重なれば」不詳。その女の方から多賀に対して、意味ありげな如何にも艶めかしい雰囲気の語りかけが何度もあったということであろうか? 識者の御教授を乞う。
『「先(まづ)。」と止(と)むる』ここは底本では「先(まづ)とゞむる」となっているのであるが、原典を見ると、「先(まづ)ととむる」としか読めず、少なくとも「ゞ」と判読は出来ない。台詞と展開の自然さから私がかく表記化した。
「道すらも」送って戴いた「道すがらも」か「短いわずかな道中の間も」の意。
「傾ふき給へ」既出既注。ここは女の方からのあからさまな「妾(わらわ)と共寝して下さいましな」という誘いである。売春を誘いかけて、金品を奪って後に殺害、井戸に遺体を隠すという犯罪者集団だったのである。
「まことしやかに云ふ」如何にも心底、そう思っているかのように艶めかしく誘いをかけて言う。
「聊(いさゝ)か兼(か)ねしことの恥づかしきばかりなれば」ちょっと(普通の人間ならば)その誘いの言葉に思わずのってしまいそうな、如何にも照れ臭い気がしてくるような誘惑の雰囲気ばかりが波状的に襲ってくるので。多賀自身が、その言葉にふらふらっとのってしましそうな、という意でとることも可能であるが、それでは話柄としては格が落ちて、逆につまらぬ。次の多賀の決然とした措置が曇ってしまうからである。
「然(しか)らば」「きっと、よ!」。
「堅き言(ごと)」堅い約束の言葉を交わして。
「雜色(ざうしき)」この時代設定ならば、狭義には室町幕府下で侍所に属した最下級役人を指すが、ここは実際に本話が書かれた江戸初期の、より拡大した用法で、京の行政・警察・司法の業務を広汎に補佐した半官半民的な役人、最下層の危険な実務執行を担当した連中を念頭においているように感じる。
「闕所(けつしよ)」家屋敷や動産などを没収する処罰であるが、これが実際に書かれた江戸時代に於いては「闕所」は死刑及び追放刑に処せられた者を対象として行われた付加刑であった。ここはしかし、その関係が逆転しており、先に否応なしに怪しい連中がいるからというだけでそこを「闕所」とした上で調べて見たら、かくなる忌まわしい犯罪者集団の巣窟であり、井戸から死体(京の町屋の金持ちの子女らのそれ)がごろごろ出てきたというのである。小さな処罰が先にあって猟奇的な巨悪の犯罪が暴露されたにしろ、乱暴極まりない処理法ではある。]
第九 旅僧、狂氣なる者に迷惑する事
[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。これが本書の最後の挿絵でもあるので、最後に今一度、汚損度を理解していただくためにも、敢えて一切の清拭をせずに示す。]
旅僧、山路に踏み迷ひ、夜になりて步(あり)く。ある谷間(たにあひ)に小(ちい)さき家ありければ、立ち寄り、
「宿(やど)借りたし。」
と云(いふ)。四十ばかりの男立ち出(いで)て、
「易き事なり。然りながら、馴染みし者の、痛く煩(わづら)ひてさふらへば、今を限りの病(やまひ)の床(とこ)、見るに忍びず思(おぼ)しなん。それとても苦しからず侍らば、いと易き事なり。」
と云ふ。
僧、聞きて、
「此方(こなた)の爲は、よしや、何、其方(そなた)の障(さは)りにだにならずば、貸し給へかし。」
と云ふ。
男、聞きて、
「さては、否むまでなし、入(いり)給へ。」
と許す。
いよいよ嬉しくて侍りしに、女の病、いと重くなり、暫しと賴む甲斐もなく、遂に空しくなりぬ。
男、大きに嘆きしかども、露さら、その詮(せん)なかりければ、僧に向つて云ふやう、
「女の親しき者も、我(わが)所縁(ゆかり)の者も、十町ばかり隔てゝ、山の彼方(あなた)に住(すみ)侍り。我はこの谷に田畑(たはた)持ちし故、軒も並べず、此處に住むなり。今日(けふ)も、我が方樣(かたさま)の者、訪(とふら)ひしかども、『病、ちと良き』とて歸りさふらふ。この事、知らず侍らんなれば、我、行きて彼等に知らせん。願はくは、守(も)り給へ。不祥ながら、賴みたし。」
と云ふ。僧、
「易き事。」
と肯(うけが)ふに、男は外へ出でぬ。
僧、甲斐甲斐(かひがひ)しくは云ひしかども、もと、知らぬ家に主(ぬし)もなく、偶々(たまたま)あるは、死骸なり。あまさへ、黔婁(きんる)が屍(かばね)のごとく、手足も見えて、引被(ひきかづ)けし衣(きぬ)の全(また)く覆はざるに、灯(ともし)幽かの夜(よる)なれば、心細きばかりなり。
かゝる所へ、廿(はたち)ばかりの女房、髮は葎(むぐら)を搔き亂したるが、戸を開(あ)けて入(いり)、うち構はず、屍(かばね)の元に寄り、
「なふなふ。」
と云へど、空しき骸(から)の物云はざれば、
「さては死に給ひたか、あゝ、愛(いと)しや、愛(いと)しや。」
と泣く。
扨は娘にこそと、哀れを催すに、かの者、尸(かばね)を動かし、
「あゝ、おかしや。ちと笑ひ給へば。」
と、
「こそこそ。」
と擽(こそぐ)り、目、吸い、口、吸い、
「けらけら。」
と笑ふ。
嬉しさうなる有樣なり。
「さては人にてはなし。化生(けしやう)の者よ。」
と、
「はた。」
と睨めば、
「あ。怖(こ)は。」
など云ふて、出づ。
出づるかと思へば、また、來て泣く。
泣くか、と思ふに、又、笑ふ。
泣(な)いつ笑ふつせしほどに、立て追へば、
「なふ。怖(こは)や。」
とて、逃てゆく。
「さて。歸りし。」
と見れば、又、門に來(き)、背戸(せど)に𢌞(まは)り、戸障子より覗きなんどして、
「愛(いと)しや、嬉しや。」
と、いと忌(い)ま忌ましく聞えし。
「いかなる鬼の棲み家(か)ぞ。」
と、恐ろしなど云ふばかりなし。
亭主、やがて歸り、僧に向つて云ひけるは、
「もし。我(わが)留守に怪しき者、來たらず候や。」
と云ふ。
僧、吐息(といき)して、右の事、語る。
亭主(あるじ)、
「さればこそ。あれは、我(わが)娘にて候へども、狂氣者(きやうきもの)なるゆへ、山に小屋作りて、追入(おひいれ)候。我、出候へば家に來り、狂ひ申候也。申(まうし)て出(いで)候べきを失念致し、道にて思ひ出し候也。恐ろしく思(おぼ)し候こそ尤(もつとも)に侍れ。」
と云(いふ)。
扨、所縁(ゆかり)し人、集まり、骸(から)をば野邊に送りければ、僧も夜明(よあけ)て出(いで)ぬ。
狂氣を知らでは、恐れし事、尤(もつとも)に侍る。
[やぶちゃん注:疑似怪談。但し、これはもうあからさまに「諸國百物語卷之四 十一 氣ちがいの女をみて幽靈かと思ひし事」の真似である。既に述べた通り、「諸國百物語」は「宿直草」と同年の刊行で、前者が五月、「宿直草」の方が初春の刊行ではあるものの、数ヶ月でこれほど酷似たものを挿入することは考え難い(但し、当時の出版事情からは絶対にあり得ないことではないし、インスパイアを剽窃とする風潮もなかった(「諸國百物語」自体が百話中の二十一話をも先行する「曾呂利物語」からそうしていることは既に注でも述べてきた)からあり得ないことではないけれども、期間が接近し過ぎている)。また、寧ろ、冒頭注で述べた通り、荻田安静の原「宿直草」が俳句の弟子富尾似船(寛永六(一六二九)年~宝永二(一七〇五)年)によって改組され、増補編集がなされた際に、「諸國百物語」の話がインスパイアされて入れ込まれたと考えた方がよいようにさえ思われるのである。実は、かく、順番に電子化注してくると、この「卷五」になってから、あることに気づくのでる。それは、今まであったえらく長々しい筆者の粉飾風流評言が影を潜めてしまい、時には全く存在しないか、ごく短くなっている点である。これは明らかに「卷四」までと筆致が異なる。そういう区別化の観点を別方向から見ると、「宿直草卷五 第三 仁光坊と云ふ火の事」の怪談には不要な長ったらしい修辞長歌を伴った秘密の恋文の全文掲載であるとか、「宿直草卷五 第五 古曾部の里の幽靈の事」の能因(一つは伝)の和歌の完全引用なども「卷四」以前には見られなかったことも妙に気になってくるのである。この「卷五」自体が最も著しく改組変更された巻ではなかったか?
なお、途中の『「こそこそ。」』/「と擽(こそぐ)り、目、吸い、口、吸い」の部分の「と」は原典や底本にはない。しかし、ないと不自然。岩波文庫版本文には「と」があるので、特異的にそれに従って補った。
「馴染みし者」妻。
「此方(こなた)の爲は、よしや、何」当方にとっては仮にも、何の問題も御座いませぬ。
「露さら、その詮(せん)なかりければ」かく亡くなってしまった上は、如何なることも全く以ってさらに致しようがないので。
「十町」一キロ九〇メートル。山家でもあり、往復と簡単な報知合わせて一時間はかかろう。
「我が方樣(かたさま)の者」私の方の親類縁者。
、訪(とふら)ひしかども、『病、ちと良き』とて歸りさふらふ。この事、知らず侍らんなれば、我、行きて彼等に知らせん。願はくは、守(も)り給へ。不祥ながら、賴みたし。」
と云ふ。僧、
「易き事。」
「甲斐甲斐(かひがひ)しくは云ひしかども」僧であるから、死人の守りを心を籠めてこめてなす事を、これ、如何にもまめまめしくなさん、といった感じで肯(うけが)いはしたものの。
「黔婁(きんる)」岩波文庫版の高田氏の注に、『正しくは「けんる」。春秋、斉の高士。諸公が大臣に迎えようとしたが従わず、貧しくして没した。為に』遺体を覆っておく『衾(ふすま)』が短かく、衾の端『から死体がはみ出ていたので、』弔いに来た友『曾西が、斜めにすれば納まると言うと、妻は、それは邪というもので、故人が嫌う所だろしりぞけた』とある。ネットの複数の記載を見ると、曾西はそれを聴いて礼節に従った謂いであるとして彼女に礼をしたとある。出典は今一つ定かでない。識者の御教授を乞う。
「なふなふ」感動詞で人に呼びかけるときに発する語。「もしもし」「これこれ」。「喃喃」などと漢字表記する。
「忌(い)ま忌ましく聞えし」いたく不吉で穢らしい存在や行為と強く感じられた。
「道にて思ひ出し候也」ではあるものの、怪異の時間経過と報知の優先性と物理的距離からみて、彼は気づいた途中から引き返してはいない。]
第八 道行(みちゆく)僧、山賊に遭ふ事
安藝廣島の縣(けん)、さる寺の伴僧、三、四里ある山家(やまが)へ行き、歸(かへ)さ、暮(くれ)かけて步む。馬蹄跡(あと)舊(ふ)り、人迹(じんせき)絶えたる棧道(かけぢ)に、哀れなる聲、幽かに聞えり。
「如何なる事ぞ。」
と步みゆくに、山賊、旅人(りよにん)を殺し、衣裳、皆、※(はぎ)取りて、其處(そこら)立退(たちの)かんとするに行遭(ゆきあ)ふ。[やぶちゃん字注:「※」=(上)「牧」+(下){「匚」の中に「力」}。]
跡へ歸るべうもなし。
恐ろしながら、躊躇(ためら)ひゐるに、山賊、見て、
「御坊、何處(いづく)へお通りぞ。」
と云ふ。
「廣島へ參る。」
と答ふ。
「よし。廣嶋へは重ねて行き給へ。今日は、我、雇ひ申さん。此荷を持ち給はれ。」
と云ふ。
「近頃、易しと申べけれど、幼少より此身になり、其覺えもなくさふらふ。殊に用あり。お許しあれ。」
と云ふ。
「出家にて賴むに、賴まれじとは聞えず。持ても持たでも、是非に持たせん。」
と、刀引き拔くにぞ。
力なく、
「さらば。」
とて荷ひ行く。
黃昏時(たそがれどき)の道狹きに、
「行くべき廣島の方(かた)はあれなるに。」
と、誰(たれ)問はぬ淚に步む。
はや、夜にもなりけり。心の中に、
「最早、我をも、やがて、殺し、褐(つゞれ)なりとも取りぬべき爲、こゝまで連れ來(き)ぬらん。」
と思へば、いとゞ便(びん)なかりける。
「迯られやはせん。」
と、岸(きし)高き頂(いたゞき)に下し、小用とゝのへけるに、盜人も同じ並みに小用す。この時逃げずは命なしと思ひ、盜人の後に𢌞(まは)り、
「ゑい。」
と押しければ、うかと立ちし事、なじかはたまるべき、雲に近き頂より千尋(ちひろ)の谷へ突(つき)落しけり。
虎口を免(まぬ)かる心地して、足にまかせて行くに、小家ありて灯影(ほかげ)見えたり。
「一先(ひとまづ)。」
と思ひ、戶を訪づれて見れば、
「おつ。」
と云ひて、心得顏の返事なり。さて、若き女房出(いで)て、僧を見て、そでない有樣(ありさま)せり。僧、
「いや、行き侘びたる者なり。宿(やど)貸し給へ。」
と云ふ。
女、思ひ寄らぬ振りに、聊(いさゝ)め返事もせざりしが、やうやうに、
「貸し申さん。」
と云ふ。嬉しくて内に入(いる)に、亭主は見えず。
僧は、袖片敷きて臥(ふし)たるに、女房は、もの待つ躰(てい)にして、火を焚きて寢もやらずありけり。
僧も目は閉ぢでありしに、八(やつ)の比か、また、戶、敲(たゝ)く。
女、出(いで)て、
「これは如何に。」
と云ふ。聲するに、
「さればとよ、隨分、仕合(しあはせ)よかりしに、ある坊主めに騙され、高き所より落ちて、手、折れ、足、違(ちが)ひ、遍身、痛みしかども、やうやう歸りしなり。」
と云ふ。女の聲に、
「默れ、默れ。」
と云ふを聞けば、かの盜人(ぬすびと)の家なり。
「さてさて、隱るゝと思ふに、今また、ここに來たる。靈龜(れいき)、猶、尾を引くわざか。更(さり)とて如何(いかゞ)すべきやうなし。」
と案じわづらふに、傍(かたへ)を見れば、隔子(かうし)も入れざる窓に、切戶(きりと)を立てしあり。幸(さいはひ)と思ひ、ひそかに迯(のが)れて廣島へ歸り、甦(よみがへ)りたる思ひをなせりとなり。
[やぶちゃん注:僧と盗賊団(ここは夫婦)で前話と親和性が高いが、これも湯浅佳子氏の論文『「曾呂里物語」の類話』によれば、先行する「曾呂里物語」の巻五の五「因果さんげの事」の冒頭の話柄との類似性が強過ぎ、二匹目の泥鰌の体(てい)見え見えである。同一書籍内で一度読んだぞという既視感(デジャ・ヴュ)を起させてしまう点で、怪談としては失敗である。
「伴僧」用僧・役僧。葬儀や法事などに於いて導師について従う僧。
「馬蹄跡(あと)舊(ふ)り、人迹(じんせき)絶えたる」底本は「馬蹄あとふり人迹たえたる」で原典に概ね従っているが、これでは私には意味がよく判らぬ。原典を子細に見てみると、実は「あとふり」の後に区切り(句読点のようなもの)の「。」が右に打たれているのが判った。そこで「あとふり」は確実に一単語であり、「人迹絶え」は「馬蹄あとふり」と対句であると読めると判断、さすれば、「人跡絶えた」の意に対となるのは「僻地の山中のこととて、馬が通ったのもずっと以前のことらしく、道には馬の蹄鉄の跡があるものの、それがもうすっかり古びている」の謂いであると私は読んだ。さればかく、漢字を当てた。大方の御叱正を俟つ。
「棧道(かけぢ)」切り立った山腹や崖などに沿った形で木材で棚のように張り出しを設け、そこを道としたもの。
「※(はぎ)取りて」(「※」=(上)「牧」+(下){「匚」の中に「力」})引剝(ひは)ぎをして。
「廣嶋へは重ねて行き給へ」広島へはそのままお行きなされい。
「近頃、易しと申べけれど」普通の民百姓ならば、簡単なことだ、と言って請け合って申し上げようが。
「此身」出家。
「其覺えもなくさふらふ」「そうした担い仕事はやったこともなく、どうして背負うてよいものかも分かりませぬ」の意であるが、苦しい。「殊に用あり」も嘘で(山家での用は終わっている)、僧は、ついさっき、男が旅人を殺(あや)め、担うべきものがその遺体から引剝ぎしたものであることを承知しているという点で殺生や略奪という禁忌を犯す穢(え)としてその物(を得るに至った人非人行為)を忌避するための言い訳である。
「出家にて賴むに、賴まれじとは聞えず。持ても持たでも、是非に持たせん。」「坊主にこうして慇懃に頼んでいるのに、請け負えないという断わるってえのは、坊主の風上にも置けねえ生臭さじゃ! 持つとは持たないかどうでもほざきやがれ! 是が非でも担わせずにおくものかッ!」。
「行くべき廣島の方(かた)はあれなるに」行くべき広島の方向はあっちなのに。明らかに違った道に僧を強制的に連れ行こうとしていることが判り、それが僧が自分も旅人と同じように殺される運命なのだと認知する契機となっている台詞である。さりげないが、上手い手法だ。
「誰(たれ)問はぬ」盗賊は勿論、人気なき山家道故に誰もその呟きに答えてくれない、というのである。あざとい修飾である。
「褐(つゞれ)」「褐」(カツ・カチ)の原義は「荒い毛で織った衣服又はその黒ずんだ茶色」で、「身分の賤しい人」の意もある。また、当て訓の「つづれ」は襤褸(ぼろ)の意であるから、僧の着ている粗末な墨染めの衣を指す。
「いとゞ便(びん)なかりける」なんとももまあけしからぬことなのであった。
「迯られやはせん。」逃げることは出来ないだろうか?
「岸(きし)高き」切り岸(ぎし)。断崖絶壁。
「小用とゝのへけるに」小便をさせてもらったところが。
「同じ並みに」一緒に並んで。
「うかと立ちし事、なじかはたまるべき」弱そうな僧侶だからと、うっかりと気を許して連れ立ち小便(しょんべん)してしまった結果は、たまったもんじゃない、の意。自分も小便が溜まって思わず一緒にすばりしてしまったことを掛けるか。今までの過剰修辞からはそんなことも言い掛けたくなるのである。
「おつ。」感動詞。応答。「はい。」。
「心得顏」待ってましたという表情。盗賊夫の御帰還と勘違いしたのである。ところがそうでない、辛気臭い坊主であったから「そでない有樣(ありさま)せり」(「そでない」は近世口語で「そうでない」の意から、「冷淡な」の意。
「振り」話の振り方・内容。
「聊(いさゝ)め」聊か。
「貸し申さん」何故、女房はこの僧に宿を貸したのかを考えてみる必要がある。この女房は亭主とともに同じ穴の貉、根っからの極悪盗賊カップルなのである。妻は妻で気の弱そうなこの僧を見て、渡りに舟、亭主が戻ったら、一緒に縊り殺して、持ち物を奪おうと画策したのである。そう考えてこそ、後の「今また、ここに來たる」という絶望的感懐の「また」がより強く響くとも言える。
「八(やつ)」午前二時前後。
「仕合(しあはせ)」旅人襲撃・殺害・金品強奪の顛末。
「足、違(ちが)ひ」「手、折れ」と対句ならば、この「違ひ」は正常な状態とは違うの謂いで折れると同義となるが、完全に折れていては一人で歩いて帰ってくるのはちょっと無理があるから、捻った、捻挫した、ぐらいに解釈しておく。
「隱るゝと思ふに」うまいこと、かの盗人から身を隠すことが出来たと思っていたのに、何ということか。
「靈龜(れいき)、猶、尾を引くわざか」特に臨済宗で尊重される公案集「碧巖錄」(宋代(一一二五年)に圜悟克勤によって編された)の第二十四則「劉鐡磨臺山」の冒頭部分にある。
*
垂示に云く、高高たる峰頂に立てば、魔外(まげ)も能く知ること莫(な)し。深深たる海底に行けば、佛眼も覰(み)れども見えず。直饒(たとひ)眼は流星の似(ごと)く、機(き)は掣電せいでん)の如くなるも、未だ免れず、靈龜、尾を曳くことを。這裏(ここ)に到つて、合(まさ)に作麼生(そもさん)なるべき。試みに擧(こ)し看(み)ん。
*
伝説で霊験を現わすとされる神聖な亀も、泥に残したその尾のぞろ曳(び)いてしまった痕跡から人に居場所を悟られてしまい、捕えられて、亀占用として焼かれてしまうの意。岩波文庫の訳注本(一九九二年・入矢他)の注によれば、『達人の現行も、その痕跡がふっ切れていないと、こういうハメになる』と注する。因みに、この頭の部分の「高高たる峰頂に立てば」は本話柄のロケーションと不思議に一致するのは偶然とは思われない。荻田の博識は恐るべきものがある。
「隔子(かうし)」格子。
「切戶(きりと)」小さな戸。]
第七 學僧、盜人(ぬすびと)の家に宿借(やどか)る事
[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。下部の雲形の汚損が激しいので、その約七分の一から八分の一を恣意的にカット(下部の線は雲形の上部のみを残したもの、左右上の枠も除去し、加えて清拭も行った。熊ちゃんのために。]
慶長の初め、都の僧、學びのため、關東へ下る。檀中より餞(はなむけ)とて、灰吹(はいふき)三百目、贈る。金銀稀れなる時代なれば、歷々の事なり。平包(ひらつゝ)みに入(いれ)、遙々と信濃路にかゝりしに、宿(しゆく)、遠ふして、日暮(ひく)れ、ことに山路に辿(たど)り、其處(そこ)とも知らず、迷ふに、ある在家(ざいけ)を見て、
「宿(やど)借らん。」
と云ふに、易々(やすやす)と貸す。
嬉しくて臥すに、主(あるじ)、物騷々(ものさうざう)にして、あまさへ、鬼かなきかの男、二、三人と密々(みつみつ)の談合のさま、僧を殺すべきに聞えけれは、あるもあられず、小用するにもてなし、そこ逃れて裏へ出(いで)しかども、山は峨々とし、道は崎嘔(きく)たり。殊に、案内、疎(うと)し。闇に、行くべきやうなかりければ、朽木(くちき)の洞(うつろ)に屈(かゞ)みゐるに、かの主、先に立ち、手に手に松明(たいまつ)持(も)て來たる。
逃(にぐ)とも追つかれんと思ひ、繁りたる木の股に登り、こゝに隱るるに、盜人ら、
「間もなき事に、何處(いづく)かへ迯(のが)しけん。疾(と)く斬るべき物を。」
と犇(ひしめ)くに、一人が云ふやう、
「胡散(うさん)なる木を、たゞ、鑓(やり)にて突きて見よ。案内(あない)疎き者、如何で此山にて迯(のがれ)えん。」
と、賢くも下知す。
「尤(もつとも)。」
とて、早や、火振り立てて、突く。
僧の賴みし木へ、大方(おほかた)間も無かりければ、生(いき)たる心地はなくてあるに、二、三本隔てゝ、一人が云ふやう、
「突き中(あ)てしぞ。」
と。
僧、見て、
「我に等(ひと)しき人もあるか。」
と見るに、さはなくて、牛に紛(まが)ふ熊、木より輕(かろ)げに降(お)りて、かの鑓持ちし男、微塵(みぢん)に引き裂く。殘る者、見て、
「やれ、熊なるは。」
と云ふほどこそあれ、我先にと、迯(にげ)行く。
僧、盜人の難は迯(のが)れしかども、又、熊の怒りに、怖ろしさ、いや增して、息もよくせず、屈(かゞ)みしに、さまで痛手にて無かりしにや、また、熊は元の寢座(ねくら)に歸る。曉(あかつき)になりて、かの熊の寢(ねな)なんと思ふ頃、木よりひそかに降り、沛公(はいこう)項羽が圍(かこみ)を逃(のが)れ、賴朝(らいてう)、大場(おほば)が攻めを免かれし心地して、終(つひ)に檀林に學びて、また、洛陽に上(のぼ)りし僧、直(ぢき)に話せしと、郷(さと)に杖突く翁(おきな)の語り侍り。
[やぶちゃん注:本話は湯浅佳子氏の論文『「曾呂里物語」の類話』によれば、先行する「曾呂里物語」の巻五の五「因果さんげの事」の冒頭の話柄との類似性を複数の研究者が指摘しているとある。
「慶長」一五九六年から一六一五年までの二十年間。「初め」とあるものの、最初期ではまだ秀吉が健在で、関東に遊学するという謂いが、今一つしっくりこない感じはしないでもない。しかし、関ヶ原の戦いが慶長五年、徳川家康が征夷大将軍に任ぜたれて江戸幕府を開くのは慶長八年で、その頃を「初め」とは普通言わないし、主人公が京から関東へ向かうのに「信濃路」を通っているのも東海道が整備されていない証左であるから、ここは広い意味の関東にあった古刹と捉え、江戸開府以前の話柄ととっておく。従って「宿直草」の中では古い時間設定の話柄の一つとなる。
「灰吹(はいふき)」灰吹法(金や銀を含んだ鉱石から一旦、鉛に溶け込ませ、そこから改めて金銀を抽出する方法。本邦には戦国時代の天文二(一五三三)年に石見銀山の発見に際して博多を通じて中国から招来した吹工宗丹及び慶寿(桂寿とも。禅僧)の両名によって伝来され、後の豊臣秀吉が太閤となった天正一九(一五九一)年には南蛮人によってもその技術が齎された)。「金銀稀れなる時代」とあるように、伝来初期の分離技術は精度が非常に悪かった(江戸時代に急速に技術向上が図られた)ここは金と銀の混じったものと見てよく、本書の書かれた江戸初期は「三百目」は=「三百匁」、この時代設定時だと、一匁は江戸時代の三・七五グラムよりもやや小さかったようであるがそれでも一キログラムはあったであろう。「平包(ひらつゝ)み」(物を包むための正方形の布製の袱紗(ふくさ)・風呂敷など)に入れたとあるから、薄い板状にしたものであったか。
「崎嘔(きく)」嶮(けわ)しいこと。容易でなく辛苦することの意も含む。
「疾(と)く斬るべき物を」「物を」は原典が漢字表記なんであるが、「これは」終助詞「ものを」で、不満・不平や悔恨などの気持ちをこめての詠嘆の意を表わす。「さっさと斬り殺しときゃあ、よかったものを、糞ッツ!」。
「胡散(うさん)なる木」上に忍び隠れそうな怪しい感じのする樹木。
「息もよくせず」底本は「息も高くせず」と判読しているが、原典を見るに、どう見ても「高」の字の崩しではないので、私が「よ」と判読し直した。
「寢座(ねくら)」清音は原典のママ。
「沛公(はいこう)項羽が圍(かこみ)を逃(のが)れ」紀元前二〇五年、項羽の楚軍と劉邦の漢連合軍との間で行われた「彭城(ほうじょう)の戦い」(彭城は現在の江蘇省徐州市)の結末。この戦いでは五十六万もの劉邦を項羽はたった三万の軍勢で勝利し(連合軍の兵の資質が劣悪であった)、劉邦は這う這うの体で落ち延びた。
「賴朝(らいてう)、大場(おほば)が攻めを免かれし」前の「沛公」と対句にするために音読みしているだけで源頼朝のこと。「大場」は大庭景親(?~治承四(一一八〇)年)の誤り。治承四(一一八〇)年、以仁王の令旨を奉じて伊豆で挙兵した頼朝と平氏方の大庭景親らとの間で行われた「石橋山の戦い」。その前哨戦であった伊豆国目代山木兼隆の襲撃殺害は成功したが、ここでは大庭勢に完敗して敗走、土肥実平らと小人数で洞窟に潜んだものの(土肥の椙山(すぎやま)の「しとどの窟」とされる)、本シークエンスとやや似る)、死を覚悟したが、平家を見限っていた梶原景時の見逃しや箱根山の箱根権現社別当行実の匿いを受けて、辛くも小舟で真鶴岬から安房国へ落ち延びた。
「洛陽」京。
「郷(さと)」荻田安静の郷里。不詳ながら、京阪のどこかである。]
第六 蛸も恐ろしき物なる事
[やぶちゃん注:挿絵は底本のものを用いたが、下方の汚損が著しく、そこは海上の波の絵柄のみであることから、その部分(凡そ縦の十四分の一)をカットし、それに合わせるために左右と上の枠も除去し、全体に清拭した。]
ある席(せき)に、四人(よたり)、五人(いつたり)語るに、一人のいはく、
「蛸は恐ろしきものなり。津の國御影(みかげ)の濱に磔(はりつけ)有(あり)しが、夜每(よごと)に、坊主來たりて番をする、と云ひ觸(ふ)らす。その里に浪人有て、行きてよく見れば、蛸にてありしと也。人を喰らふものにや。」
と云ふ。
鍋嶋家の内、福地某(なにがし)と云ふ人、
「げに。さもあらん。我は蛸を好きて給(たべ)しが、ある時、名殘(なごり)の波(なみ)に舟繫(ふながゝり)せしが、三尺ばかりの虵(へび)、半分ほど、海へ浸(つか)り居(ゐ)たるが、何時(いつ)の程にか、手長蛸(てながだこ)になりて入(いり)ぬ。それより、蛸を喰はず。」
と云ふ。
又、見るから色黑(いろぐろ)く、潮風馴れたる海邊(うみべ)の人有しが、
「いや。虵が蛸になるでは、なし。虵、蛸を釣りに出(いで)、蛸、又、虵を獲(と)りに上がる。小さき虵は蛸に獲られ、大なるは蛸を獲る。これ、龍虎の爭ひのごとし。」
と賢(かしこ)げに弁ず。
片隅に菓子齧(つ)みて、法師のありしが、これを聞き、打(うち)頷きて、
「げに。さあらん。我、もと丹後にありし時、靑侍(なまさふらひ)三、四人と舟遊(ふなあそ)びに行く。沖へも出でず、遠淺、漕ぎて、洲崎(すさき)の芦の穗に出(いで)つゝも、色よき酒機嫌(さけきげん)に、諷謠亂舞(ふうようらんぶ)、干潟の千鳥足(ちどりあし)なもあり。或るは又、※(とも)に釣りして[やぶちゃん字注:「※」=「舟」+「丙」。]、水馴竿(みなれさほ)の雫(しづく)に濡れて樂しふあり。明月の詩を誦(しよう)し、窈窕(ようてう)の章を詠(うた)ひし、かの子膽(しせん)が樂しびも、これには如何に。桂(かつら)の棹(さほ)、蘭(らん)の舵(かぢ)にしなけれ、餘念も浪の打(うち)寢轉(ねころ)びて、
『歸去來(かえなんいさ)、舟、戾せ。』
と云へば、一人のいはく、
『暮過(くれすぐ)す迄も飽かで迎(む)かはまほしけれ。あれこそ、此浦、無双(ぶさう)の美景よ。瓮(もたひ)の霞、殘らば、如何に本意なからめ。いざ、掉(ふ)れ、舟、遣れ。』
と云ふを見れば、築(きづく)とも、又、難(かた)かるべし、と思ふ岬あり。
『磯傳ひ、漕げ。』
とて行くに、岸根の草は潮(うしほ)に馴れ、岩間の苔(こけ)は潮風(しほかぜ)に向かふ。搔かぬ落葉の數(かず)敷きて、高さ三間ばかり、太さ二尺ばかりの松、梢(こずゑ)は海を招(まね)き、根は山に刺しゝに、しかも、女松(めまつ)の葉もおかしかれば、
『あの松陰(まつかげ)に休らはん。』
と漕ぐに、今、三十間ばかりあらんに、一人のいはく、
『松の根は赤きに、側(そば)に黑き物あるは何ぞ。』
と云ふ。されば、
『合點(がてん)行かず。』
と云ふ内、舟、連々(れんれん)近くなりて、十五、六間にも及びしに、海より、水、飛んで、薄紫なるものゝ、五尺ばかりに見ゆるを、梢下(さ)がりし松に打ち懸け、かの黑き物にとりつく。
やがて、舟、止めさせ、
『何なるらん。』
と云へば、船頭、見て、
『げに。聞(きき)及ぶ。かやうに日和(ひより)には、虵、出(いで)て蛸を釣る、と。上の黑きは虵、下の紫なるは蛸か。』
と云ふ。皆、
『尤(もつとも)。』
と心をつけて見れば、長(たけ)三間、太さ一尺ばかりの烏虵(からすへび)、かの松の水際一間餘り上に、枝の有りしに纏(まと)ひ付き、尾を二、三尺、水に浸けて、居れり。
『さてさて。よき見物かな。』
と見るに、また、蛸の手、一つ、打ち懸く。
程もなきに、打ち懸け、打ち懸け、四つの手にて、下へ下へと、引く。
虵は、また、上へ上へと、引く。
互ひの力に、さしもの松、搖(ゆ)るぎわたる事、網にて引くがごとし。
舟中(しうちう)、固唾(かたづ)を呑(の)むに、
『何(なに)としても、下、弱くして、蛸、釣らるべきぞ。』
と云ひしに、虵の運(うん)盡き、纏ひし松が枝(え)、元より折れて、木、ともに、海中へ入(いる)。
『あは。』
と云ひしが、暫しは松も浮き沈みせしが、虵は遂に上(あが)らず。やゝして、枝のみ浮(うき)て果(はて)ぬ。」
と語れり。
[やぶちゃん注:前話とは、最初の話が同じ摂津である以外は、全く連関性がなく、特異点である。私は蛸(頭足綱鞘形亜綱八腕形上目八腕(タコ)目 Octopoda)フリークであるが、これは多様な蛸奇譚を一話に纏めて、実に魅力的な一篇に仕上がっていると言える。
蛸が陸上に上って来て人間の遺体を食いに襲来するという最初の話柄は、例えば、「谷の響 二の卷 一 大章魚屍を攫ふ」や「想山著聞奇集 卷の參」の「七足の蛸、死人を掘取事」にあり(蛸が陸に上がって農作物を荒らすという今も信じられている根強い伝承はそれらの注で私は否定している)、また、
二番目の福地某の蛸が蛇に変ずる、化生するという話柄は、「佐渡怪談藻鹽草 蛇蛸に變ぜし事」や「谷の響 二の卷 三 蛇章魚に化す」で実話として語られている。私はリンク先の注でも書いたが、しばしば対決が知られる相互に天敵関係にある鱓(うつぼ:条鰭綱ウナギ目ウツボ亜目ウツボ科 Muraenidae)と蛸との格闘を誤認したものではないかと深く疑っている。なお、これについては実は南方熊楠が「蛇に関する民俗と伝説」(大正六(一九一七)年『太陽』初出)の中でタコの♂が腕の一本の先に持つヘクトコチルス(交接腕:Hectocotylus)の大きなものが蛇に似ているのを誤認したのであろう、という卓抜した説も提示している。興味のある方は私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「石鮔 てなかたこ」(この本文にも出る「手長鮹」)の私の注を読まれたい。ヘクトコチルスについて御存じない方は、上記の「和漢三才圖會」の「章魚」の注でも詳述してあるが、私の別の「生物學講話 丘淺次郎 第十一章 雌雄の別 三 局部の別 (5) ヘクトコチルス」の方が手っ取り早いかも知れぬ。
因みに、中でも私が超弩級の面白さを持っていると高く評価するのは、「佐渡怪談藻鹽草 大蛸馬に乘し事」の実談(!?!)である。以上のリンク先は総て過去の私の電子化注である。未読の方は是非どうぞ! どれも、お薦め!!!
「津の國御影(みかげ)の濱」現在の兵庫県神戸市東灘区の御影地区の海浜部。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。なお、この兵庫県南東部は旧摂津国に含まれる。
「磔(はりつけ)」死罪としての磔の公開処刑。「夜每(よごと)に」とあるから、これは処刑後(磔柱に括りつけて左右から鑓で複数回刺して殺すもの。事実上の刺殺刑で、内臓が激しく抉られるので、内臓などが掻き出され、凄惨であった)、数日、そのまま晒されたものと推測される(江戸中期以降の幕府の公的なそれでは三日間晒した)。
「鍋嶋家」肥前国佐賀郡(現在の佐賀市)にあった佐賀藩。長く鍋島氏が藩主であった(従って同藩は「鍋島藩」とも呼ぶ)。
「福地某(なにがし)」ウィキの「福地氏」に「肥前国の福地氏」があり、「肥陽軍記」の天文三(一五三四)年の項に『「龍造寺家臣福地氏」について載せ』、「筑後軍記略」には前年の天文二年、『福地主計允らが龍造寺隆信に通じるとある。龍造寺氏家老の福地氏では福地長門守信重、信盈』(「のぶみつ」か)が見えるとする。『戦国大名龍造寺氏の実権を握っていた鍋島氏が佐賀藩主として認められ、龍造寺氏の支配が終焉すると肥前国の福地氏も鍋島氏に随い、佐賀藩士となった』。佐賀藩士『山本常朝が武士道の指南書として著した』「葉隠」の「聞書」の「第四」の「五十」にも藩主『鍋島勝茂が有能な藩士と評した武士として福地吉左衛門の名が見える他』、同「聞書」の「第六」の「一六六」及び「第八」の「五七」には『福地孫之允なる藩士が中野休助と喧嘩になり切腹したが、介錯人であった小城の蒲池某が』し損じてしまって浪人したことや、同「第七」の「三二」には『「千住善右衛門、討ち果たしのこと」という事案の検分役として福地市郎兵衛の名が見え』、また、「第八」の「五七」には『家老職の横岳鍋島家当主鍋島主水配下に福地六郎右衛門の名が見え、同じく佐賀藩家老の多久長門守家臣を切腹の危機から救ったとある』とあるから、鍋島家では知られた家臣の家系で、この者もその中の一人と考えてよいであろう。
「名殘の波に舟繫(ふながゝり)せしが」「余波」と書いても「なごり」(「なごろ」とも)と読め、その場合は強風の吹き止んだあと、まだその影響が残っている波を指すから、ここは「やや海上が荒れていたことから、乗っていた舟を磯辺に停泊させたが」の謂いととる。
「手長蛸(てながだこ)」文字通りに同定するならば、八腕目無触毛亜目マダコ超科マダコ科マダコ属テナガダコOctopus
minorである。全長七十センチメートルにも達し、腕部は胴の五倍を越える。日本各地の下部潮間帯から水深二百メートルから四百メートルの泥底の穴に棲み、腕を表面に出している。本邦では流通品として見かけることは稀である。水分が多く旨味は少ない。韓国で踊り食い(サンナクチ)されるのは本種である。
「齧(つ)みて」齧(かじ)って。原典・底本・岩波文庫版総て平仮名「つみて」。この漢字を当てたのは私である。
「洲崎(すさき)」丹後国の地名ではあるまい。州が海中や川の河口付近(「芦の穗」とあるのはそれを指すのであろう)に長く突き出て岬のようになった場所の意ととっておく。そうすると、直ちに天橋立が頭に浮かんでしまうが、だったら、寧ろ、はっきりそう記すはずだとも思われる。しかし、以下の叙述はかなりの絶景であり、そんじょそこらの海浜とも思えず、やはり丹後と言ったら、そこだろう。ここは天橋立の名を出さずに、読者のそう感じさせようという荻田の風流のように思われる。
「なもあり」「なるもあり」「なる者もあり」。
「※(とも)」(「※」=「舟」+「丙」。)「艫・艉」で船尾・船の後ろの方。
「水馴竿(みなれさほ)」漁師が如何にも使い込んだしなやかな釣竿。以下の「雫(しづく)に濡れて」は単なるその美称と読む。
「明月の詩を誦(しよう)し、窈窕(ようてう)の章を詠(うた)ひし、かの子膽(しせん)が樂しび」「窈窕の章」とは「詩經」の「國風」の「周南」の冒頭にある四言詩「關雎」(かんしょ)のこと。男女の恋を詠み、詩中、「窈窕淑女」(窈窕たる淑女)が四度繰り返される。サイト「碇豊長の詩詞」の同詩をリンクさせておく。そこでも注されてあるが、そこでは「窈窕」は「奥床しい」「麗しい」の意であるが、この語は元来は山水や宮殿の奥深い美しさを形容する語であり、ここで海浜の美しい景観を前にする時、この語はよく響き合っているとは言える。但し、ここは北宋の名詩人蘇東坡(蘇軾)の、知られた「前赤壁賦」の始めの方に現われる、「誦明月之詩、歌窈窕之章」(明月の詩を誦(しよう)し、窈窕の章を歌ふ)を詠った蘇東坡の楽しみ、の意。
「子膽(しせん)」蘇東坡の字は子瞻(しせん)で、その誤りである。
「これには如何に」この今の眼前の景色には及ばないという反語であろう。
「桂(かつら)の棹(さほ)、蘭(らん)の舵(かぢ)」この場合の「桂」と「蘭」は実在の植物というよりも、中国の伝説上の香木を指している(木本のカツラならいいが、草本のランでは舵は作れぬ)。
「にしなけれ」不詳。「に」を文法的に説明出来ない。「しもなけれ」なら、万能の霊力を持つ桂(この場合、月に生えるというそれであろう)や蘭で出来た棹や舵もない、の意なら判る。
「餘念も浪の打(うち)寢轉(ねころ)びて」同一の大洲本を用いているはずの岩波文庫版はこの部分が『余念も浪の相(あ)ひしろひて』と有意に異なる。非常に不審である。孰れにせよ、意味が不明である。急に海の浪が転がるようにざわざわとし始め、少し荒れてきて、の意か? 識者の御教授を乞う。
「歸去來(かえなんいさ)」読みは原典のママ。
「瓮(もたひ)の霞」「瓮」甕(もたい:現代仮名遣)に同じい。水や酒を入れる器。ここは酒を仙人の糧の霞に擬えた。
「掉(ふ)れ」「棹」の漢字を当てたのは私。「あの絶景に向けて棹させ!」。
「築(きづく)とも、又、難(かた)かるべし」岩波文庫版の高田氏の注に、『人工で築きあげても、とてもこの美しさには及ばない、の意』とある。
「三間」五メートル四十五センチメートル。
「二尺」六十一センチメートル弱。
「女松(めまつ)」赤松。球果植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属アカマツ Pinus densiflora のこと。Q&Aサイトの回答によれば、両者の簡単な見分け方は、木の肌の色が赤く、葉を触ってもあまり痛くなく、優しい感じで、柔らかく広がるのがアカマツで、対する「男松」はクロマツ(マツ属クロマツ Pinus thunbergii)で、葉を触ると明確に痛く、強い感じがし、どんどん上にのびていく、とあった。
「三十間」約五十四メートル半。
「十五、六間」二十八~二十九メートル。
「五尺」約一メートル五十一センチ。
「長(たけ)三間、太さ一尺」全長約五メートル四十五センチ、太さ約三十センチ。
「烏虵(からすへび)」有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属シマヘビ Elaphe quadrivirgata の黒化型(Melanistic:メラニスティック)の個体の中でも特に虹彩も黒い個体を指すとウィキの「シマヘビ」にある。同記載によれば、通常は淡黄色の体色に四本の黒い縦縞模様が入る(但し、縞が全くない個体や顎の辺りが黄色い個体もいる)。種小名の
quadrivirgata はも「四つの縞」の意。腹部には目立った模様はなく、クリーム色・黄色・淡紅色を呈する、とあり、全長は八十センチから稀れに二メートルに達する個体もあるとある。ここで観察されたものが、これだとすると、実際にはあり得ない大きさと太さである。
「水際」「みぎは」と訓じておく。
「一間」一メートル八十二センチ弱。
「二、三尺」約六十一~九十一センチメートル。]
衆議院SPEED退場今井選り 唯至
必要だったのは、君ではなく、僕の中の哀しい思い出であったということに僕は改めて気づいた――
と云うより、僕も君も互いに互いを必要としていないというだけに過ぎないという馬鹿げた当たり前の真理に過ぎない――
私の話している相手が如何なる思想を標榜しているか、如何なる宗教や国家を崇敬しているかなどということは、これ、全く問題ではない――寧ろ、「思想」や「国家」なしに自己起立し得ないその相手を私は永遠に軽蔑していると言っておく――
明日より町内会の祭りの業務に入るによって暫く御機嫌よう――
[やぶちゃん注:挿絵は底本のものの二枚目(向かって左)の下部が著しく汚損して見るに堪えないため、岩波版のそれを示した。この挿絵、涙ぐましいまでに本文の描写を絵師なりに生かそうとしている。その辺り、是非、本文と対比しながら読まれたい。そのため、画素数を大きくし、清拭も特異的に念入りにし、左右二枚を近づけて合成、両画の上下左右の枠を除去した。一枚の絵として描かれたものを二枚にしたものではないために、中央部は上手く接合はしないが、これは私のトリミング・ミスやサイズ・ミスではないのでここで断っておく。なお、本文の和歌の前後は恣意的に一行空けた。]
古曾部の入道、能因法師が跡をとへば、古墳、草、繁りて、村雨、哀れを添ふ。誰(たれ)問ふ者無かりけるに、翰林處士羅山子、碑文(ひもん)を鐫(え)りて、后(のち)の疑凝(ぎきやう)を斷はる。又、能因、聊(いさゝ)め棲みし庵の跡、今も淸水ありけり。昔、野守の鏡(かゞみ)とも賴みしにや。法師、詠める、
あしびきの山した水に影見ればまゆ白妙に我おひにけり
又、山越えに金龍寺(こんりうじ)に詣でしに、艷(なま)めける女の、芝生にまかりければ、
あさぢ原まとふ黑髮きのふまでたが手枕(たまくら)に懸(かけ)てきぬ覽(らん)
と弔(とふら)ひしと也。
猶、入相(いりあひ)の鐘に花を惜しみし春の夕暮、來(こ)し方、懷(なつか)しく、その里、かれこれと步(あり)くに、また、伊勢寺(いせいじ)と云ふ寺へ案内(あない)の袖に任せ行く。境(さかひ)、狹(せば)く、寺も優しきばかりなり。
その上(かみ)、左大辨家宗の子、伊勢守繼蔭(つぎかげ)の女(むすめ)、伊勢と云ふ上達女(かんだちめ)、秀歌の達者なり。小倉山庄(をぐらさんざう)の百首にも撰(えら)ばれ、我(わが)敷島の言の葉の道に、曲(きよく)をまゝ得給ひし人の菩提道場なり。像(かげ)も紙に殘りて、今に坐(いま)せり。
此寺の岸根(きしね)に添ふて、暫し、休らふに、不立文字(ふりうもんじ)の靈場に、讀經の聲も幽(かす)かに聞え、寂莫(じやくまく)たる院(いへ)の内(うち)に、磬(うちならし)の音(ね)も仄(ほの)かなり。
遠く望めば、生駒(いこま)が峯、飯森(いゐもり)山も向かひ、近く尋(たづぬ)れば金龍寺、神峯山(かぶせん)も覆ふ。本山の晩(くれ)の鐘、颪(おろし)に誘ふておかしく、牧方(ひらかた)の歸帆も誰(た)が託(かこ)つ風ならんと、侘(わ)びし。三嶋江(みしまえ)の夜の雨には、釣叟(てうそう)の焚く篝火(かゞりび)も消え、鵜殿(うどの)の芦間(あしま)に群れゐる鴈(かり)は、漁父(ぎよふ)・渉人(しようにん)の舟呼ばひに驚く。夕日照る梶原の紅葉(こうえう)は、唐紅(からくれなゐ)の色增して、久方(ひさかた)の雲の脚(あし)かとあやしく、天滿神(あまみつかみ)の森の雪は、暮れ過(すぎ)つゝも、曙(あけぼの)に紛(まが)ふ。高槻(たかつき)の晴嵐には、玉桙(たまほこ)の袖道を急ぎ、金龍(こんりう)の梢(こずゑ)の月は、羈客(はかく)も秋の悲しびを忘れん。安滿(あま)に焚く夕煙(ゆふけふり)は、遠方(をちかた)人の胸を焦(こが)し、芥川の朝(あさ)の露は、さらでも、樵夫(せうふ)の履(くつ)を潤(うるほ)す。
能因が詠(よ)み、伊勢が詠(なが)めしは、さぞな、その數奇人(すきびと)住(すみ)にし里、その數、十種百種(とくさもゝくさ)の哥(うた)ならめかは、と心にくゝ、能因の塚、伊勢の影、眺めしに、里人のいはく、
「この所に、また、不思議の事あり。これより西の谷に、騎馬の士(さふらひ)、束帶(そくたい)の女房、幽靈と見えて、夜每(よごと)に出(いづ)。露の玉ゆら現はれて、後(のち)、搔き消すやうに、去る。げに、その上(かみ)、由(よし)ある人にか、御座(おは)すらめ。數(かぞ)ふれば遠かめれど、伊勢は寺に依り、能因は碑の銘に殘りて、今にそれぞと名は朽ちずも侍るに、これらは如何なる人とも知れぬ身の、夜每に出(いで)て、誰(た)が爲(ため)に見ゆると、哀れにさふらふ。」
と語る。
我、聞(きき)て、
「聞き捨つべきにあらず。細やかに語り給へ。」
と云へば、里人のいはく、
「ある時、二人、狩のためにその谷に行く。月落ちけれど、影まだ明(あ)かきに、岡(をか)の方(かた)より、物音、轟(とゞろ)ひて、凄(すざ)まし。何ぞと見れば、甲冑(かつちう)帶(たい)せし男、緋縅(ひおどし)に見えて、弓緩(ゆる)やかに持ち、箭(や)を筈高(はづだか)に負ひ、太く逞しき馬に白泡(しらあは)嚙ませて、岡より谷を下(くだ)りに、一文字(いちもんじ)に來(きた)る。又、その後(あと)に白糸の鎧に、直垂(ひたたれ)世の常にして、下髮(さげがみ)に鉢卷の女房、白柄(しらえ)に蛭卷(ひるまき)したる長刀(なぎなた)、脇に搔い込み、しづしづと步み、初めの武者に續く。昔は墓にもありなん、今しも茅萱(ちかや)に深き野原を、二人ながら、二、三遍(べん)、𢌞りて、搔き消すやうに、失せぬ。不思議にこそ侍れ。」
と語る。
我(われ)思ふに、昔、正親町(おほぎまち)の御宇、永祿の比、天下、大(おほい)に亂る。義元、信長入恨(じゆつけん)になり、輝虎と晴信と大に戰ふ事ありて、さがなき世なりけり。其後、元龜元年、三好日向守が殘黨あり。此の里よりは西、服部(はつとり)の北に、原(はら)と云ふ村、租山(そやま)に城ありて、暫し、支へしかども、遂に義昭(よしてる)がために敗北しけり。其時、此邊り、戰場たらん。疑ふらくは、その時の勇士か。修羅(すら)の巷(ちまた)、何時(いつ)か出でなん、と悲しくこそ侍れ。
[やぶちゃん注:本話はまたしても明らかに筆者自身が主人公の実録風の怪談である(但し、ここでの怪談部分は聞き書き)。こうした怪談物で各所に作者の実体験物が挟まれるのは、完全な創作物であったとしても、怪談としてのリアリティを否が応でも高める非常に上手い手法と言える。なお、私が注した以外に、この本文には能因或いは伊勢の和歌をインスパイアした箇所があるかも知れぬ。判る方は御指摘戴ければ幸いである。
「古曾部」現在の大阪府高槻市古曽部町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。平安中期の僧で歌人として知られる能因(永延二(九八八)年~永承五(一〇五〇)年又は康平元(一〇五八)年とも)の墓と伝えるものが今も同所に残る(リンク先にも指示がある)。ウィキの「能因」によれば、俗名は橘永愷(たちばなのながやす)で二十五で出家した際の法名は「融因」であったという。近江守であった橘忠望の『子で、兄の肥後守・橘元愷の猶子となった。子に橘元任がいた』。初め、『文章生に補されて肥後進士と号したが』、長和二(一〇一三)年に出家している。『和歌に堪能で、伊勢姫に私淑し、その旧居を慕って自身の隠棲の地も摂津国古曽部』を隠棲の地と定め、『古曽部入道と称した。藤原長能に師事し、歌道師承の初例とする』。『和歌六人党を指導する一方、大江嘉言・源道済などと交流している。甲斐国や陸奥国などを旅し、多くの和歌作品を残し』、「後拾遺和歌集」には三十一首所収され、以下の勅撰和歌集にも実に六十七首が入集している。歌集に「能因集」の他、私撰集「玄々集」や歌学書「能因歌枕」があるとする。複数の辞書などの資料で補足しておくと、万寿二(一〇二五)年には東北地方を行脚しており、その死に際しては、自身の和歌の草稿を地中に埋めたとも伝えられる。岩波文庫版で高田氏は、この古曾部を『能因法師の古里で』あると注しておられるが、この『古里』が生まれ故郷という意味だとすると、疑問である(永く住み馴れた地の意ならば肯んずるし、死に際しては彼はここを『古里』と認識はしていたであろう)。諸記載を見る限りでは、ここは能因の生地とは思われないからである。彼がここを終の棲家と定めたと思われるのは、ここに登場する三十六歌仙の一人伊勢(後注)に、後代の能因が歌人として激しく私淑していたことによるものと推定されている。伊勢はこの地に住み、後の出る伊勢寺(ここ(グーグル・マップ・データ))に葬られており(現在は能因塚のある古曾部の北西に接する高槻市奥天神町内であるが、能因塚との距離は四百メートルほどしか離れていない)、伊勢の旧跡を慕った能因が、遂にはここに庵をも結んだと考えるのが至当である。
「翰林處士羅山子」江戸初期の朱子学派儒学者で林家(後に林家は大学頭を名乗るが、それは羅山の孫の三代林鳳岡(ほうこう)以降のこと)の祖である林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)羅山は号で、諱は信勝(のぶかつ)、字は子信、通称を又三郎と称し、出家した後の号である道春(どうしゅん)の名でも知られる。「翰林處士」は文字通りなら、在野の学者を意味するが、ここは家康・秀忠・家光・家綱の四代の将軍に仕えた御用学者(概ね侍講として強力なブレーンとなった)といった意味で用いているようである。高槻市公式サイト内の「伝能因法師墳」によれば、林羅山の手になる碑文を彫った墳墓正面にある顕彰碑は慶安三(一六五〇)年に高槻城主永井直清が建立したとある。岩波文庫版の高田氏の注では『慶安元年』とあるが、これは文脈から『依頼をうけた』年で、碑の完成が二年後であったということであろうか。森本行洋氏のサイト「古墳のある町並みから」の「能因塚(能因法師墳)」がルートその他に詳しい。必見。
「疑凝(ぎきやう)」岩波文庫版の高田氏の注に『「疑驚(ぎきょう)」の誤りか』とある。「疑驚」とは、本当かと疑い驚くことの意。
「斷はる」「予め、説明しておく」の意。
「聊(いさゝ)め」仮初めに。ちょっと。彼がここに庵を結んだのは晩年と考えられてい「淸水ありけり」能因塚の近くには能因法師が日常生活の用に水を得ていたとされる「花の井」と呼ばれている井戸や(森本行洋氏のサイト「古墳のある町並みから」の「花の井」参照)、彼が不老不死を願って煎茶に使用したとされる名水の井戸「不老水」(同前の森本氏のサイトの「不老水」参照)がある。
「野守の鏡」昔、鷹狩りの途中で逃げた鷹を野守が溜まり水に映る影を見て発見したという故事から野中の池水や清水を鏡に譬えて言う語。
「あしびきの山した水に影見ればまゆ白妙に我おひにけり」「あしびきの山下水に影見れば 眉白妙にわれ老いにけり」が表記としては正しい。「新古今和歌集」の「卷十八 雜下」の能因の一首(一七〇八番歌)で「山水を掬(むす)びて詠み侍りける」という詞書を持つ。能因会心の作とされる。
「金龍寺(こんりうじ)」現在の大阪府高槻市成合にあった天台宗邂逅山(たまさかざん)華雲院金龍寺。ウィキの「金龍寺(高槻市)」等によれば、延暦九(七九〇)年に建立された安満寺に始まるとされ、盛時には十九の『坊舎があり、天皇の行幸があるなど巨刹であった。その後衰退したが』、康保九(九六四)年、『三井寺で修行した千観が「日想観」のある土地を求め、金色の雲が湧く山』として、『この地に来て再興した』。『ある時、境内の池に竜女が現れて法水を甘んじ成仏したのを見て、金竜寺と改称した。それ以来、雨乞いの霊験があり』、安和二(九六九)年に旱魃が続いた際には、『冷泉天皇の勅命で千観が祈雨したところたちまち雨が降ったという。戦国時代』の天正年間(一五七三年~一五九二年)に『高山右近の兵火にあって焼失したが』、慶長七(一六〇二)年には『豊臣秀頼によって再興された。その頃には寺領』三十石『クラスの寺として門前村が形成され、巡拝や遊山でも浄財を集め大いに栄えたという。古くから桜の名所であった』。『この寺の桜は能因桜と呼ばれ』、『西行や松尾芭蕉もこの寺を訪れ句や文を残している』。しかし、『その後の金龍寺は明治時代の廃仏毀釈により荒廃』、昭和一三(一九三八)年に、植物学者で桜の研究の第一人者として「桜博士」と称された『笹部新太郎が桜の調査に訪れたときも、電気も水道もない荒れた境内に老僧が一人いるだけの状態であったという。その後、寺籍は岐阜に移され』、『金龍寺は廃寺となった』。しかも唯一残っていた寺の本堂も昭和五八(一九八三)年に『ハイカーの火の不始末により焼失して』しまい、『現在は金龍寺跡となっている』(ここまでの引用は総てウィキ)とある。高槻市公式サイトのこちらによれば、『松茸狩りの絶好の場所として』も知られており、「攝津名所圖會」の「金龍寺山松茸狩」には、『丘の上にござを敷いて火に鍋をかけ、男も女も松茸狩りに興じている様子を見ることができ』るとある(画像有り)。『この絵柄から、いわゆる行楽シーズンに金龍寺界隈が多くの人でにぎわっていたことがうかがえ』るが、『明治以後無住となって荒れ果て』、『現在、寺の跡には石塔・礎石・石垣が残』るのみとある。能因が知ったら、さぞや無常の思いを致すであろう。能因がこの寺で詠んだ歌としては、ここに出るものではなく、「新古今和歌集」の「卷第二 春歌下」にある一首(一一六番歌)、
山里(やまざと)にまかりてよみ侍りける
山寺の春の夕暮れ來て見れば入相の鐘に花ぞ散りける
が有名で、本文の後文はそれに基づく。「入相の鐘」は太陽の沈む頃に寺で勤行の合図として撞き鳴らす鐘で、一般には酉の刻(午後六時頃)に撞いた。
「まかりければ」これは「息絶えていた」というのである。だから「弔(とふら)ひし」とあるのである(次注参照)。
「あさぢ原まとふ黑髮きのふまでたが手枕(たまくら)に懸(かけ)てきぬ覽(らん)」ネット上の私家集なども調べて見たが、見当たらないので、衝撃的な情景でもあり、伝として調べて見たところ、「攝津名所圖會」に麻茅原 金竜寺の麓にあり
里諺に云ふ、能因法師この原にて美女の死したるを見たまひてかくぞ詠じたまふ
*
淺茅原(あさぢはら)【金龍寺の麓にあり。里諺(りげん)に云、能因法師、此原にて美女の死(しゝ)したるを見たまひて、かくぞ詠したまふ。】
淺茅原まとふ黑髪きのふまでたか手枕(たまくら)のうへに置けん
と詠吟したまへば、かの屍(しかばね)動き出てて草むらより枕をもたげ、悦ぶけしき見えて、又もとの如し。終(つひ)にこゝに葬(はうふ)り、印(しるし)の石を置(すへ)て吊(とふら)ひたまふとなん。此石、今にあり。
*
CHECHENTARO氏の『「古典」ゆかりの地を訪ねる』の「麻茅原(大阪府高槻市)」に示された原典画像を元に活字に起こした(【 】は二行割注)。CHECHENTARO氏に感謝申し上げる。
「伊勢寺(いせいじ)」現在の大阪府高槻市奥天神町にある現在は曹洞宗の金剛山伊勢寺(いせじ)。ウィキの「伊勢寺」によれば、歌人伊勢(貞観一四(八七二)年頃~天慶元(九三八)年頃藤原北家真夏流の藤原伊勢守継蔭の娘。当初、宇多天皇の中宮温子(おんし/あつこ)に女房として仕え、藤原仲平・時平兄弟や平貞文と交際の後、宇多天皇の寵愛を受けて、その皇子を生んだが、その子は早世し、その後は宇多天皇の第四子敦慶(あつよし)親王と結婚して中務を生んだ)を開基とするという。伊勢の死後の寛平三(八九二)年、『その草庵は伊勢寺と号し、天台宗に属した。天正年間、高山右近の兵火に焼かれたが、江戸時代の寛永年間、僧宗永によって再興され曹洞宗に改められた』(下線やぶちゃん)とある。位置は先のグーグル・マップ・データを参照されたい。
「境(さかひ)」境内。
「優しきばかりなり」ここは前に境内も狹いとしているから、その侘びしさに「正直、つらい感じがするばかりであった」の謂いと読んでおく。
「左大辨家宗」公卿藤原家宗(いえむね 弘仁八(八一七)年~貞観一九(八七七)年)。藤原北家の参議藤原真夏(まなつ)の孫で民部少輔藤原濱雄(はまお)の長男。最終官位は従三位で参議。彼は死の三年前の貞観十六年に左大弁となっている(ウィキの「藤原家宗」に拠る)。
「伊勢守繼蔭(つぎかげ)」藤原継蔭(つぐかげ(以下のウィキの読み) 生没年不詳)最終官位は従五位上で伊勢守。ウィキの「藤原継蔭」によれば、『文章生から式部大丞を経て』、元慶五(八八一)年、『従五位下に叙爵』、仁和二(八八六)年には従五位上、『伊勢守に叙任されるが、しばらく任地に出発しなかったため、同じように平安京に留まっていた諸国司とともに召問を受けている』とある。娘の伊勢の名は父の任国に由来する呼称。
「上達女(かんだちめ)」不審。「かんだちめ」(或いは「かむだちめ」)は「上達部」でこんな表記しないし、そもそも「上達部」とは三位以上及び四位の参議、即ち、公卿のことを指し、彼女は「伊勢の御(ご)」「伊勢の御息所(みやすんどころ)」とは呼ばれたが、天皇の子を生んでも下級女官である彼女を「かんだちめ」とは決して呼ばない。
「小倉山庄(をぐらさんざう)の百首」藤原定家はかの「百人一首」を現在の京都市右京区嵯峨亀ノ尾町にある小倉山(おぐらやま:標高二百九十六メートル。桂川の北岸にあって南岸の嵐山と相対し、「雄蔵山」「小椋山」とも書かれる。紅葉の名所で歌枕としても知られる)に建てた小倉山荘(「時雨亭」とも称した)で編纂した(そこから「小倉百人一首」とも呼ばれる)。
「敷島の言の葉の道」和歌。
「曲(きよく)をまゝ得給ひし人」岩波文庫版の高田氏の注に『「曲」は「極」。最高の技術を手に入れられた人』とある。
「菩提道場」伊勢の菩提寺であるということ。
「像(かげ)」描かれた肖像。
「岸根(きしね)」山下。伊勢寺は現在でもこんもりとした丘陵の南に建つ。後の「本山の晩(くれ)の鐘、颪(おろし)に誘ふ」というのもそうしたロケーションを指す。
「不立文字(ふりうもんじ)の靈場」禅宗の寺院。禅宗は経論に拠らず(「不立文字」「教外(きょうげ)別伝」)、師の心から弟子の心へと直接に悟りの内容を伝えてゆくことを唯一の伝法とする(「直指人心(じきしにんしん)」「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」)。所謂、「以心伝心」で禅宗の宗風を最も端的に表現した四句の冒頭の語。
「磬(うちならし)」音の「ケイ」で呼ぶのが一般的。ここは本邦の仏教寺院では読経の合図に鳴らす仏具を指す。ウィキの「磬」の「仏教の磬」によれば、鋳銅製で、『奈良時代から制作され、平安時代には密教で必須の仏具となり、その後他宗派でも用いるようになった』。『仏教寺院では、金属製の碗を台の上に置いて棒で叩いて鳴らす楽器のことを「磬子」または「鏧子」と書いて「けいす」または「きんす」と読む』。『柄がついていて手に持って鳴らす「引磬」も存在する』とある。リンク先で画像が見られる
「生駒(いこま)が峯」現在の奈良県生駒市と大阪府東大阪市との県境にある標高六百四十二メートルの生駒山。生駒山地の主峰。伊勢寺の南南東二十一キロメートル。ここ(グーグル・マップ・データで伊勢寺を起点に中央直下に生駒山を置いた)。
「飯森(いゐもり)山」飯盛山(いいもりやま)は現在の大阪府生駒山地の大東市と四条畷市に跨った標高は三百十四・三メートルの山(山頂は大東市内)。ここ(グーグル・マップ・データ)。生駒山の北北西六キロ圏内。
「神峯山(かぶせん)」現在の大阪府高槻市原にある天台宗神峯山寺(かぶさんじ)。伊勢寺の北北東約四キロメートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「覆ふ」一望の内に含まれることを言う。
「本山の晩(くれ)の鐘」先に注した通り、「本山」はこの伊勢寺ととっておく。これは前の能因の和歌を引いた「入相の鐘」と同じものと考えてよい。「入相の鐘」よりも後にこれがあるとなると、話柄内の季節は判らないものの(各所に季節が出るが、それは能因の歌や想像に依拠したもので確定出来ない)、ここに語られるような眺望は見られないと私は思うからである。
「牧方(ひらかた)」「牧」は原典・底本・岩波文庫版のママ。淀川を挟んで現在の高槻市に西で接する大阪府枚方市。淀川水運の港として栄えた。
「歸帆も誰(た)が託(かこ)つ風ならんと、侘(わ)びし」伊勢寺の上から吹き降ろす風であるから、これは淀川を河口方向から遡って帰ってくる舟には逆風となり、それでなくても遡上するのだから不平の種とはなろうと思うと、行き悩む帰り舟の様子は、なんとなく侘びしい思いをさせる、というのであろうか?
「三嶋江(みしまえ)」ロケーションとしては南の先、淀川の少し下流の現在の高槻市三島江。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここは万葉の昔から「淀の玉江」と呼ばれた淀川を代表する歌枕で。江戸時代には対岸の出口(でぐち:現在は枚方市出口)との間に渡し舟があって北摂津と北河内を結ぶ地として大変賑わった。以下の景は実際に見えているものではなく、荻田の風流の幻像である。その証拠に遠近自在で季節もばらばらである。
「鵜殿(うどの)の芦間(あしま)」これは「鵜殿の葦原(よしはら)」で、現在の大阪府高槻市鵜殿から上牧に広がる淀川右岸河川敷の葦原(単子葉類植物綱イネ目イネ科ダンチク亜科ヨシ属ヨシ
Phragmites australisの群生地)のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。前の三島江から反転するように淀川の遙か上流位置にある。ウィキの「鵜殿のヨシ原」によれば、『鵜殿一帯は、奈良時代には都の牧場として使用されていた。鵜殿の地名については』、紀元前八八年に起きた建波邇安王(たけはにやすひこおう:孝元天皇の皇子で崇神天皇に対する反乱を起こしたとされる)の乱『以後、敗軍の将兵が追い詰められ』、『淀川に落ち鵜のように浮いたので、一帯を「鵜河(川)」と呼ぶようになったと『古事記』に書かれており、 平安時代に鵜河の辺に造られた宿を「鵜殿」と呼び、それが土地の名になったと言われている』。承平五(九三五)年には、『紀貫之が土佐から帰京するおり、「うどの(鵜殿)といふところにとまる」という記述がある。江戸時代には「宇土野」という文字での記述もみられる』。ここにも昭和初期まで「鵜殿の渡し(下島の渡し)」という渡し場があった。また、ここで穫れる葦(よし)は『良質なことで知られ、特に雅楽で用いられる楽器・篳篥の吹き口として珍重され』て『貢物として献上されていると、『摂津名所図会』にも記されている。 その他、江戸時代には、ヨシで編んだ葦簾が盛んに生産され』、昭和三十年代までは簾や『建築資材などの材料として使用されていた』とある。
「漁父(ぎよふ)・渉人(しようにん)」漁師の声や、渡し(前注下線部参照)を渉るために向こう岸の舟に呼びかける(「舟呼ばひ」)旅人ら。
「梶原」高槻市梶原・淀川右岸で鵜殿の内陸直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。●西国街道沿いの集落。
「久方(ひさかた)の」「雲」の枕詞。「雲の脚(あし)かとあやしく」夕日に赤く映える雲の体から地上に伸びた赤い脚のように見えるというのである。
「天滿神(あまみつかみ)の森」あてずっぽうだが、大阪府枚方市楠葉丘にある交野天神社(かたのてんじんしゃ)ではないか? この社名は「かたのあまつかみのやしろ」とも読まれるからである。「森」はその鎮守の森で、ここには現在も原生林が残る。ここ(グーグル・マップ・データ)なら、伊勢寺からのロケーションの範囲内と思われるからでもある。
「晴嵐」晴れた日に空にかかる霞。
「玉桙(たまほこ)」道中。「たまほこの」(「玉鉾の」とも書く)は枕詞として「道」に掛かるところから「道・道中」の意となった。
「袖」人。
「金龍(こんりう)」先に出た直近の金龍寺。
「羈客(はかく)」読みは原典のママ。「き」の誤記であろう。馬で旅する人。
「安滿(あま)」古曾部の東直近の高槻市の安満(あま)地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。淀川の支流檜尾川(ひおがわ)の河畔。
「芥川」現在、主に高槻市を流れる淀川の支流。伊勢寺からは前注で出した檜尾川と反転した西位置に当たる。ここ(グーグル・マップ・データ)。こうしたここまでの描写は地図上で見ても描写位置のバランス感覚に私は舌を捲く。また、この芥川は、荻田の好きな「伊勢物語」の第六段、かの「芥川」とする説もあり、さればこそ、荻田はここに続けて「朝(あさ)の露」と確信犯で記したのであった(以下、原文抜粋)。
*
芥川といふ川を率(ゐ)て行きければ、草の上に置きたりける露を、
「かれは何ぞ。」
となむ男に問ひける。
[やぶちゃん注:中略。]
白玉かなにぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを
*
「これより西の谷」位置は古曾部から動いていないから、実は最後の「伊勢物語」中の特異点である怪奇譚〈鬼一口の芥川〉の上流域こそが、以下の怪異出来の現場であることが判る。グーグル・マップ・データでこの附近を候補としておく。
「伊勢は寺に依り、能因は碑の銘に殘りて、今にそれぞと名は朽ちずも侍る」と述べているが、実はやはり高槻市公式サイト内の「伊勢寺」によれば、伊勢寺には伊勢廟堂という伊勢を祀る独立の堂が寺の本堂の西側にあって、そこにはやはり能因塚と同じく林羅山の書いた顕彰碑があるとある。これは能因塚の碑建立の翌年、慶安四(一六五一)年にやはり同じ高槻城主永井直清によって建てれたとあるのである。荻田が実際に伊勢寺に行っていたら、案内人がそこを教えぬはずがない。ここに荻田は実は伊勢寺の本堂まで上ってはいないのではなかったか? という疑惑が生ずる。或いは、能因の叙述と雰囲気を差別化するため、それを記さなかったともとれなくはないが、これはあくまで荻田に対して善意に過ぎる解釈のようにも思われる。如何?
「筈高(はづだか)」箙(えびら)に入れた矢の矢筈(やはず:矢の末端の弦(つる)に番える部分)が頭上高く突き出ていること。それだけで敵に確信犯で目立ち、威圧的な印象を与えることから、強弓(つよゆみ)の勇士を形容する語としてしばしば用いられる。
「白泡(しらあは)嚙ませて」岩波文庫版の高田氏の注に『馬を勇み立たせ、口から白い泡』となった涎『を吹かせて』とある。
「蛭卷(ひるまき)」補強や装飾のために刀剣の柄や鞘、また、槍・薙刀・手斧などの柄を鉄や鍍金・鍍銀の延べ板で間をあけて巻いたもの。蛭が巻きついた形に似ることからの呼称。
「正親町(おほぎまち)の御宇」織豊時代の天皇である第百六代正親町天皇(永正一四(一五一七)年~文禄二(一五九三)年)。在位は弘治三年十月二十七日(一五五七年十一月十七日)から天正十四年十一月七日(一五八六年十二月十七日。
「永祿」一五五八年~一五七〇年。
「義元」今川義元(永正一六(一五一九)年~永禄三年五月十九日(一五六〇年六月十二日)。永禄三年五月に二万余の軍を率いて尾張国へ侵攻を開始したが、桶狭間山で休息中に織田信長(天文三(一五三四)年~天正十年六月二日(一五八二年六月二十一日)の攻撃を受け、織田家家臣毛利良勝によって首級をとられた。享年四十二。
「入恨(じゆつけん)」見馴れぬ熟語で詠みも得意。恨み骨髄となることの意でとっておく。ここは義元が、である。
「輝虎」後の上杉謙信(享禄三(一五三〇)年~天正六(一五七八)年)。法号である謙信を名乗ったのはずっと後の亀元(一五七〇)年。
「晴信」後の武田信玄(大永元(一五二一)年~元亀四(一五七三)年)。永禄二年に出家して信玄に改名。言わずもがなであるが、ここは輝虎と晴信の抗争を指す。「川中島の戦い」の最も知られた両者一騎打ちの第四次合戦は、永禄四(一五六一)年)に行われ、五次に及んだ「川中島の戦い」の中で最大規模の戦さとなり、多くの死傷者を出している。
「さがなき」とんでもなく性質(たち)の悪い。
「元龜元年」一五七〇年。
「三好日向守」畿内や四国で八ヶ国をも経営し、室町幕府の摂津国守護代も勤めた三好長慶(ながよし 大永二(一五二二)年~永禄七(一五六四)年)。信長に先行する最初の「戦国天下人」とも称されて絶大な権力を誇ったが、晩年は家宰の松永久秀に実権を奪われ、嫡子義興をも失い、第十三代将軍義輝(よしてる)との調整に悩みながら、失意のうちに病死した。文芸に秀いで、連歌の名手でもあった。
「服部」この附近と思われる(グーグル・マップ・データ)。
「原(はら)と云ふ村」前注の地区の北に現在、大阪府高槻市原がある。
「租山(そやま)に城ありて」前注の原地区の、芥川の上流にある三好山に築かれた巨大な山城。この当時は三好氏の家臣で三好一族の長老的立場にあった三好長逸(ながやす 生没年不詳:永禄八(一五六五)年五月、三好氏の障害となっていた第十三代足利義輝(よしてる)を暗殺した人物)が城主であったと思われるが、ここにあるような形では長逸は死んでいないし、落城もしていない(ウィキの「芥川山城」によれば、同山城は廃城の時期さえも明らかでないとある)。
「義昭(よしてる)」「よしてる」は原典のママ。「よしあき」の誤りである。室町幕府最後の第十五代将軍足利義昭(天文六(一五三七)年~慶長二(一五九七)年:在職:永禄一一(一五六八)年~天正一六(一五八八)年)。]
第四 曾我の幽靈の事
[やぶちゃん注:挿絵は今回はよりクリアーな岩波文庫版を用いた。多少、清拭を加えた。]
古めかしき咄(はなし)に、修行者(すぎやうじや)有(あり)て、國國、𢌞(まは)る。宇都(うつ)の山べの現(うつゝ)とも、夢としもなく世を渡るに、ある時、其名も高き富士の麓(ふもと)過(よ)ぎる。「行衞も知らぬ」と眺めし聖(ひじり)の心に似(の)りて見れば、そも又、誰(た)が焚く煙ぞや、降るか殘るか、解けぬか無きか、いさ、しら雪の雲に高く、雷(いかづち)も半腹(はんふく)に鳴り、鳥も如何でか中央(ちうわう)より翔(か)けらん。比叡(ひえ)の山二十(はたち)重(かさ)ぬべき、我が秋津洲(あきつす)の見目(みめ)のみかは、三國に類(たぐ)ふべきもあらず、突兀(とつごつ)として、また、時知らず、目離(めが)れずも崦(やま)を眺めて、まだ秋としもなきに、時も酉(とり)にかい暮れ、我(わが)衣手(ころもで)の墨染(すみぞめ)の頃なり。
もとよりも流離(さすら)への袖なれば、木蔭、苔莚(こけむしろ)など尋ぬるに、彼方(かなた)を見れば、灯影(ほかげ)仄(ほの)めいて、四阿屋(あづまや)の軒(のき)、淋しきあり。
立ち寄りて見れば、賤しからず設(しつら)ひ、几(をしまづき)に草紙(さうし)引き散らし、常ならぬ空燒(そらたき)の香(か)、おかしく美(うるはしふ)して、いと優(ゆふ)なる女房の、衣裳めでたきばかりなるが、竈(かまど)近く寄り居(ゐ)、松が枝(え)、松笠(まつかさ)うちくべて、燒火(たきび)に添ふたるさま、又、鄙(ひな)には目馴(めな)れずぞ有(あり)ける。
やがて、立ち寄り、假寢(かりね)のことを詑(わ)ぶるに、女房、聞(きき)て、
「いたはしや。旅行の袖の、なに行き暮(くれ)給ふとや。人目(ひとめ)離(か)れたるあしひきの、山の住居の憂き席(むしろ)も、一夜(ひとよ)は明かし給へかし。」
と許す。
うち嬉しくて内へ入るに、かの女房の焚(た)く釜を見れば、湧きかへりて、湯玉立つを、いさゝめ、盥(たらひ)に汲みて、浴(あび)けり。
凡そ、人のわざとは見えず。
かくて沐(ゆあみ)仕舞(しま)ふに、外(ほか)より鎧(よろ)ふたる者の歸入(かへりい)りぬ。
その身、朱(あけ)になりて、疵(きず)多く蒙(かうふ)りたり。女房、
「歸へり給ふ。」
と云ふに、苦しげなる答(いら)へせしは、軍(いくさ)の歸(かへ)さか、と見えたり。
物具(もののぐ)取りければ、痛手と見えしも、つい、癒(いへ)けり。
いとゞ不思議にぞ侍る。
僧を見て、
「誰(たれ)ぞ。」
と云へば、妻、
「旅の人にて宿を召したり。」
と云ふ、夫、聞いて、
「さては、行き暮れ給ふか。かゝる見苦しき所にお宿めし候事よ。恥づかしくこそ侍れ。」
と云ふ。僧、
「旅寢を許し給ふ事、嬉しくこそさふらへ。さるにても、御身は如何なる人にてまします。」
と云へば、
「我は曾我の十郎祐成(すけなり)、あの者は大磯(おほいそ)の虎(とら)といふ女(をんな)也。今は昔に過(すご)し世を、語るにつけて淺ましけれど、去りにし建久の頃、此邊りにして、夜晝(よるひる)、仇(かたき)を狙ひ、遂に祐經(すけつね)を討ち、年比(としごろ)の本意を遂げつゝ、身はその時に空しくなれど、魂魄はまだ消えもせで、その罪、修羅(すら)に感じ、執心、今さら殘る世の、御僧にまで見(ま)みえ參らせさふらふぞや。草の枕のうたゝ寢も、緣あればこそ見もし見えもすれ、然るべくは、弔(とふら)ひ給はれ。さりながら、うれしくも、やがて修羅の巷(ちまた)を出でゝ、來年の秋は小田原の城主に生(むま)れさふらふ。客僧、緣あらば、それにて御目にかゝるべし。これを持ちて出(いで)給へ。」
と、太刀の目貫(めぬき)、片方(かたかた)、外(はづ)して、僧に與(あた)ふ。
僧、目貫を受けとりしに、此人も無くなり、日も、まだ暮れず。
不思議に思ひ、夢かと思へど、目貫はさらに有(あり)けり。
さて、そこ立ち退き、とかく送るうち、はや、明(あく)る年の秋になる。
何となふ、小田原に行く。
ちまたの沙汰に、
「殿には、若君、出で來給へども、左の手、握り給ひて、開かず。父母、歎き給ふ。」
と云ふ。
僧、
「さては約束の人なり。」
と知り、奧へ人して、
「御手、開くるやうに致し申さん。」
と云ふ。やがて、
「召せ。」
とて、僧、參り、片方(かたかた)の目貫、取り出だし、若君に見せければ、その時、左の手を開き給ふに、目貫、有(あり)て、僧の持て來たりしと一對なり。
人々、不審しけるに、富士の裾野の約束を語りしと也。
[やぶちゃん注:前話の終りに曾我の弟時致が出た(但し、そこに出る話は私には不祥であったが)のでその兄貴曾我祐成とその愛人虎御前で直連関である。この話、荻田のまどろっこしい評言もなく、話柄の展開も非常に私好みである。曾我兄弟の仇討ちの経緯は、そうさ、私の「北條九代記 富士野の御狩 付 曾我兄弟夜討 パート2〈曾我兄弟仇討ち〉」を参照されたい。
「古めかしき咄(はなし)に」とわざわざ断っているから、ここは江戸初期から遡ること、有意に古い時代ととってよかろうから、個人的には戦国時代の小田原北条の時代と設定したくはなる。本文中で主人公の僧が、普通に「軍(いくさ)の歸(かへ)さか」と思うシーンが出てくる。こうした思いが普通に出て、その姿を不思議に思わないのは江戸幕府成立より有意に以前でなくてはならぬ。そうすると、「卷四 第十五 狐、人の妻に通ふ事」に次いで古い話柄とはなる。
「宇都(うつ)の山べの現(うつゝ)とも」「宇津の山」は今の静岡県静岡市と志太(しだ)郡岡部町(おかべちょう)との境にある山。歌枕。南側に宇津谷(うつのや)峠があり、東海道中の難所として知られた。本話のロケーションとしてもしっくりくるが、この導入部は主人公も併せて、例の荻田の好きな「伊勢物語」の「東下り」の一節に完全に基づいて構成されている。
*
行き行きて、駿河の國に至りぬ。宇津の山に至りて、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、蔦、楓(かへで)は茂り、もの心細く、
「すずろなる目を見ること。」
と思ふに、修行者(すぎやうざ)、会ひたり。
「かかる道は、いかでか、いまする。」
と言ふを見れば、見し人なりけり。
京に、その人の御もとにとて、文(ふみ)書きてつく。
駿河なる宇津の山べのうつつにも
夢にも人にあはぬなりけり
富士の山を見れば、五月(さつき)のつごもりに、雪いと白う降れり。
時知らぬ山は富士の嶺(ね)いつとてか
鹿(か)の子まだらに雪の降るらむ
その山は、ここにたとへば、比叡の山を二十(はたち)ばかり重ね上げたらむほどして、なりは塩尻(しほじり)のやうになむありける。
*
『「行衞も知らぬ」と眺めし聖(ひじり)』西行のこと。「新古今和歌集」の「卷第十七 雜中」に載る(一六一五番歌)、
東(あづま)の方(かた)へ修行し
侍(はべり)けるに、富士の山をよ
める
風になびく富士の煙(けぶり)の空に消えてゆくへも知らぬわが思ひ哉
を指す。
「似(の)りて」「乘る」と同じで、「のりうつる」の意からの敷衍。
「三國」日本・唐土(もろこし)・天竺の三国。
「突兀(とつごつ)」清音で「とつこつ」とも。高く突き出ているさま。高く聳えるさま。「時知らず、目離(めが)れずも」時が移るのも忘れてしまい、一瞬たりとも富士の霊峰から目を離すことが出来ずに。
「まだ秋としもなきに」釣瓶落としの秋というわけでもないのに。ここで時制は晩夏と推定される。
「酉(とり)」午後六時前後。
「我(わが)衣手(ころもで)の墨染(すみぞめ)の頃なり」自らが着ている僧衣(そうえ)の墨染めの衣のように、暗い時分となっていた。
「苔莚(こけむしろ)」苔蒸した場所を臥所の莚に譬えた。
「几(をしまづき)」「机」とも書き第一義は「脇息(きょうそく)・肘掛け」。机の意もあるが、ここは映像からも前者がよい。
「空燒(そらたき)の香(か)」その部屋ではなく、家の別な室でさりげなく焚いて、どこからともなく香ってくるように、香(こう)を焚き燻らすこと。
「かの女房の焚(た)く釜を見れば、湧きかへりて、湯玉立つを、いさゝめ、盥(たらひ)に汲みて、浴(あび)けり」「凡そ、人のわざとは見えず」回国修行の僧であるから、直接に女房の裸の女体(にょたい)を凝っと見ているわけではない。しかし狭い家で視界の端に沸騰した熱湯で! 沐浴をして、しかも! 何ともないそれが見えてしまうのである。さりげない画面の端に現われる怪異の第一! 実に美事!
「物具(もののぐ)取りければ、痛手と見えしも、つい、癒(いへ)けり」武具を取り外すと、その武士の身に刻まれていた多数の重い傷痕が、「Xメン」のウルヴァリンの如く! すぅーと治ってしまうのである! 怪異の第二! いいね!
「曾我の十郎祐成」(承安二(一一七二)年~建久四年五月二十八日(一一九三年六月二十八日)ここではウィキの「曾我祐成」を引いておく。安元二(一一七六)年、祐成が五歳の時、『実父・河津祐泰が同族の工藤祐経に暗殺された。その後、母が自身と弟を連れ相模国曾我荘(現神奈川県小田原市)の領主・曾我祐信に再嫁した。のち養父・祐信を烏帽子親に元服』『して祐成を名乗り、その後は北条時政の庇護の下にあったという』。建久四年の五月二十八日、『富士の巻狩りが行われた際、弟・時致と共に父の敵・工藤祐経を殺害したが、仁田忠常に討たれた』(弟時致は翌日に処刑)。先に示した私の「北條九代記 富士野の御狩 付 曾我兄弟夜討 パート2〈曾我兄弟仇討ち〉」の本文及び私の注も参照されたい。
「大磯(おほいそ)の虎(とら)といふ女」虎御前(安元元(一一七五)年~寛元三(一二四五)年)は相模国大磯の遊女。和歌にも優れ、容姿端麗であったという。「曾我物語」では曾我十郎祐成の愛人として登場し、曾我兄弟が仇討ちの本懐を遂げて世を去った後、兄弟の供養のために回国の尼僧となったと伝えられる。「曾我物語」のルーツは彼女によって語られたものとも言う。これは後、踊り巫女や瞽女などの女語りとして伝承され、やがて能や浄瑠璃の素材となり、曾我物と呼称する歌舞伎の人気狂言となった。
「祐經(すけつね)」工藤祐経(久安三(一一四七)年?~建久四年五月二十八日)は藤原南家の流れを汲む工藤滝口祐継の嫡男。ウィキの「工藤祐経」から引いておく。『幼少期に父・祐継が早世すると、父の遺言により義理の叔父である伊東祐親が後見人となる。元服ののち、祐経は祐親の娘・万劫御前を娶り、祐親に伴われて上洛し平重盛に仕える。歌舞音曲に通じており、「工藤一臈」と呼ばれた。だが、祐経が在京している間に祐親は祐経が継いだ伊東荘を押領してしまい、妻の万劫御前まで奪って土肥遠平に嫁がせてしまう。押領に気付いた祐経は都で訴訟を繰り返すが、祐親の根回しにより失敗に終わる』。『所領と妻をも奪われた祐経は祐親を深く怨み、祐親父子の殺害を図って』安元二(一一七六)年十月、『郎党に命じ、伊豆奥野の狩り場から帰る道中の祐親の嫡男・河津祐泰を射殺する。跡には祐泰の妻と子の一萬丸(曾我祐成)と箱王(曾我時致)の兄弟が残された。妻は子を連れて曾我祐信に再嫁し、兄弟は後に曾我兄弟として世に知られる事になる』。治承四(一一八〇)年八月の『源頼朝挙兵後、平家方として頼朝と敵対した伊東祐親は』、十月の『富士川の戦い後に頼朝方に捕らえられて自害した。祐経の弟とされる宇佐美祐茂(うさみすけしげ)が頼朝の挙兵当初から従い、富士川の戦いの戦功で本領を安堵されており、祐経は京から鎌倉へ下って頼朝に臣従し、祐茂を通して伊東父子亡き後の伊東荘を取り戻したと考えられる。祐経の子・伊東祐時は伊東を名乗り、伊東氏を継承する。祐時の子孫は日向国へ下向して戦国大名の日向伊東氏・飫肥藩藩主となる』。「吾妻鏡」での祐経の初見記事は、元暦元(一一八四)年四月の『一ノ谷の戦いで捕虜となり、鎌倉へ護送された平重衡を慰める宴席に呼ばれ、鼓を打って今様を歌った記録である。祐経は平家の家人であった事から、重衡に同情を寄せていたという』。同年六月に『一条忠頼の謀殺に加わるが、顔色を変えて役目を果たせず、戦闘にも加わっていない。同年』八『月、源範頼率いる平氏討伐軍に加わり、山陽道を遠征し』、『豊後国へ渡る。文治二(一一八六)年四月に』『静御前が鶴岡八幡宮で舞を舞った際に鼓を打っている』。建久元(一一九〇)年の頼朝上洛の際には『右近衛大将拝賀の布衣侍』七『人の内に選ばれて参院の供奉をし』。建久三(一一九二)年七月には、『頼朝の征夷大将軍就任の辞令をもたらした勅使に引き出物の馬を渡す名誉な役を担った。祐経は武功を立てた記録はなく、都に仕えた経験と能力によって頼朝に重用された』建久元(一一九〇)年七月、『大倉御所で双六の会が催され、遅れてやって来た祐経が、座る場所がなかったので先に伺候していた』十五『歳の加地信実を抱え上げて傍らに座らせ、その跡に座った。信実は激怒して座を立つと、石礫を持ってきて祐経の額にたたきつけ、祐経は額を割って流血した。頼朝は怒り、信実の父・佐々木盛綱に逐電した息子の身柄を引き渡して祐経に謝罪するよう求めたが、盛綱は既に信実を義絶したとして謝罪を拒否』した。『祐経は頼朝の仲裁に対し、信実に道理があったとして佐々木親子に怨みを持たないと述べている。祐経の信実に対する振る舞いには、頼朝の寵臣として奢りがあった事を伺わせる』。建久四年五月、『頼朝は富士の裾野で大規模な巻狩りを行い、祐経も参加する。巻狩りの最終日』であった五月二十八日『深夜、遊女らと共に宿舎で休んでいた所を、曾我祐成・時致兄弟が押し入り、祐経は兄弟の父・河津祐泰の仇として討たれた。祐経が仲介して御家人となっていた備前国吉備津神社の神官・王藤内も一緒に討たれている。騒動の後、詮議を行った頼朝は曾我時致の助命を考えたが、祐経の子の犬房丸(のちの伊東祐時)が泣いて訴えたため、時致の身柄は引き渡され、梟首され』ている。
「身はその時に空しくなれど、魂魄はまだ消えもせで、その罪、修羅(すら)に感じ、執心、今さら殘る世の、御僧にまで見(ま)みえ參らせさふらふぞや」基本的に輪廻した祐成は修羅道に転生したのである。「感じ」とは応感して応報の上に修羅道に生まれ変わったことを意味している。その「魂魄」が現世の主人公の行者に見えるのは矛盾でない。例えば、餓鬼道に落ちた餓鬼は「餓鬼草紙」では、現世空間にパラレルな形で、共存しているし、実際に水餓鬼が衆人環視の中で出現した記録も残る。畜生道の牛馬はしばしば現世の存在として語られ、地獄道のそれでさえ、たまさか、我々の感懐や幻視の中にその光景を見せるのである。されば、修羅道に堕ちた(三善道では人間(じんかん)道の下だから一応、「堕ちた」と言っておく)仇討ち一途に生きて悔悟する余裕もなく死んだ彼が修羅道へ転生し、かく行者の目の当たりに姿を見せたことは、これ、なんら、不思議ではないのである。
「緣あればこそ見もし見えもすれ、然るべくは、弔(とふら)ひ給はれ」ここは底本では「見えこそすれ」の後を句点とするが、私は「こそ」已然形(読点)の逆接用法として採る。祐成の亡魂はここで予定された現世への転生の確かさをダメ押しとして求めるために、自身では出来ない供養を行者に依頼したのである。
「太刀の目貫(めぬき)」「目」は「穴」の意で、刀身が柄(つか)から抜けないよう、柄と茎(なかご)の穴にさし止める目釘或いはそれを覆う金具で、次第に刀装の特徴となり精緻にして美麗な飾り物となった。そうした装飾具となったそれは、刀の柄の左右に対になって施された。ここはそれを言う。
「僧、目貫を受けとりしに、此人も無くなり、日も、まだ暮れず」瞬時に家も祐成も虎御前も消え、場面が一面の野原に変ずる怪異の第三! 小泉八雲の「食人鬼」(リンク先は私の古い現代語訳。「小泉八雲“JIKININKI”原文及びやぶちゃんによる原注の訳及びそれへの補注」もどうぞ!)のラストのように、すこぶるいい!]
第三 仁光坊(にくはうばう)と云ふ火の事
[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。この女房が気に入らぬから修正を施さなかった。なお、本文の恋文及びその中の長歌・短歌及び添え詞は恣意的に前後を一行空けで示した。長歌と短歌の本文は原典のママとし、原典にルビがあっても添えていない。並びが汚くなるからである。恋文全体の字の大きさをブラウザの都合上、小に変えてある。]
津の國嶋下郡(しましものこほり)に仁光坊と云ふ火あり。雨氣(あまけ)の夜、飛び巡り、やゝもすれば、人、行き遭ふて恐怖す。遭ひし人に聞くに、
「廣大にして唐傘ほどになり、狹少(けふせう)になりては、また、螢飛(ほたるとぶ)見ゆ。火に增減あり。大方(おほかた)は毬(まり)ほどなり。」
となん。速くして疾風(しつふ)のごとく、火に尾ありて、三、四尺、ひかれり。至りて近く遭ふ時は、坊主の首にて息吐く度(たび)に火焰出(いづ)る、となり。
如何なる始末かと云へば、その郡に溝杭(みぞくい)といふ邑(さと)あり。その閭(さと)の尹令(つかさ)し給ふ俗(ひと)を、名に負ひて溝杭殿とよぶ。其地(そのところ)拜領して、目出度く富(とみ)增(ま)すも、はや中古の事、今ははや、世語(よがた)りとなれり。
其頃、仁光坊は、溝杭殿の祈願法師なり。才(ざへ)も德(とこ)も尊(たと)ふして、また、美僧なり。芝(し)が眉宇(びう)も色を失ふ。これがために衣紋(ゑもん)を繕ひ、これが爲に鬢髮(びんはつ)を撫(な)づる人、そも幾(いく)袖ぞや。然れども、此僧、不犯(ふぼん)にして、威儀正(たゞ)しく行なふ。
一日(ひぐらし)、溝杭殿の内より、色深き情(なさけ)に、小童(こわらは)をして文(ふみ)遣(つか)ひ給ふに、取り上げもせで、返す。また、御消息(せうそこ)とて、來(きた)る。あまりに便(びん)なかりければ、開きて見るに、
君ゆへに 思ひたつたの たびころも きてしも花を
みわのやま 過ゆくまゝに ならざかや かすがのさとに
ひとりねて おもひはいかゞ ひろさはの 池のしみづに
身をはぢて 見る人もなき 秋の夜の つきぬなみだは
おほ井川 ふかき恨みは あらし山 たれまつ虫の
ねをのみに おもふ思ひは ふかくさの ひとりふしみの
ゆめにだに したふ契は はつせやま おのへのかねの
よそにのみ 君がこゝろも はづかしの もりてことのは
あらはるゝ みしま江に浮 ながれあし ながらの橋の
中たえて 戀しき人に あふさかや しるもしらぬも
わかれては 物うき旅を しがのうら うらみて爰に
きのくにや 人をまつほの やまおろし ゆめにも君を
みくまのゝ をとなし川に あらねども ふかきねがひを
みちのくの しのぶもぢ摺 たれゆへに けふしら川の
せきぢまで まよひまよひて こがねやま いつかあひづの
雲ならん たとひ別を するがなる ふじのけふりと
なるまでも なを浮嶋の さよちどり いそのまくらに
ふしわびて なげく淚は おほゐ川 かはるふちせに
しづみなば さよの中山 なかなかに なにしに君を
みかはなる その八はしを かけてだに ちぎらざりける
人ゆへに くもでに物や おもふらん さてもやつらき
美濃おはり ゆくゑは何と なるみがた はてはあはでの
もりのくさ しげき思を さらしなや われ姨捨の
やまおろし したふ心は あさましや 淺間のたけに
たつけふり ふかき思は あすか川 なにはのことも
かいなきに などかはみをも つくすらん とはおもへども
うき人を こひせの川に しづみつゝ なきためしをも
しもつけや 室のやしまに たつけふり いかでうき世に
すまの浦 ふかき思は ありあけの つきぬなみだを
あはれとも 君や思はん たゞたのめ しめぢか原の
さしもぐさ われ世中に ながらへて つれなかりける
人ゆへに 思ひつくばの やまかぜも はげしきよはの
かりまくら かすかに君を みなれ川 こゝをこしぢの
たひの空 かへる山路を ものうきに 何とうき世に
すみだ川 我思ふ人は 有やなしやと とへどこたへぬ
みやこどり うたて昔の ことをだに つゐにいはでの
もりなれや 吹飯の浦の ゆふなみに ぬるゝたもとを
あはれとも いでも見よかし かゞみやま 影もうつろふ
世中に おなじ心に なれもなは くにくに所の
名とり川 ちいろの濱の まさごより つくしがてなる
ことのはを あはれともいさ 見ずやあらなん
聲はせで身をのみこがすほたるこそいふにも增る思ひなりけれ
古言(ふるごと)ながらお思ひ寄り侍り。などてか心強(こころづよ)くいます。
など、紅葉重(がさ)ねの薄樣(うすやう)に書きしは、見るから、罪(つみ)深(ふか)くて、返しも無(な)ふ過(すぐ)すに、夜に增し、日に添ひ、錦木(にしきゞ)も千束(ちつか)になり、濱千鳥のふみゆく跡の汐干(しほひ)の磯に、隱れがたくぞ侍る。
然れども、此僧、水莖(みづぐき)の岡(をか)も踏まず、堅くも、返しなく、有(あり)けり。
女、打ち怨みて、日頃の愛(いと)しさを引き變へ、今は中中(なかなか)生憎(あやに)く思ひければ、ある夜の床に、溝杭殿に語りしは、
「さても、仁光房こそ、我が方に心ある由(よし)にて、艷書(ゑんしよ)、たび重なる、いとあさましくこそ侍れ。よきに計(はから)ひ給へ。」
と云ふ。
男、聞(きき)て、
「さてさて。左樣の事か。」
とて、殊の外にもてなし、殺すべきになれり。
しかと究(きは)めざるぞ、淺ましき。
やがて下部(しもべ)をして、野原に引据へ、首斬るべきに聞こえければ、僧、大きに怒り、
「故なき事に命終はる事よ。内のさがなき讒(ざん)ならまし。よし、我にも尋ね給はで、片口(かたくち)を聞き、命のみか、耻(はぢ)を巷(ちまた)に晒(さら)す。然るべき報ひか、無實の罪を得る、無念にこそ侍れ。太刀執る者、よく聞(きき)て殿にも申せ、我、さらに誤りなきを。後に思ひ知りて、悔(くや)み給へ。日比(ひごろ)の行力(ぎやうりき)、私(わたくし)なく、今の一念、望みたらば、七代まで見殺(みころ)すべし。」
と、齒嚙(はが)みをなして有(あり)けり。
遂に首討つに、首、飛んで空に行(ゆき)、質(むくろ)のみ、殘れり。
貴賤、眉を顰(ひそ)む。
案のごとく、その年より、其家に災ひありて、遂に跡絶え、溝杭と名のる氏(うじ)なし。
恨み、尤(もつとも)にこそ。
あゝ、是非もなき僧の仕合(しあはせ)なり。女の男を慕ふは、耻の外(ほか)までせり。甚(はなはだ)恐るべし。
かの鞍馬の安珎(あんちん)は、道成寺の鐘樓(しゆろう)に死しけれど、夢に詑(たく)して壽量品(じゆりやうぼん)の書寫を請(こひ)て、昇天の果(くは)あり。仁光坊は、それ無し。知らず、何時(いつ)まで飛(とん)で光り渡らん。不幸の中の不幸か。他(よそ)の國にも、猶、色好みの𢌞文(くはいぶん)、錦字(きんじ)の詩を賦して、征夫(せいふ)に託(かこ)ちし蘇若蘭(そじやくらん)は、如何(いか)ばかりか胸を刺すらん。又、陸奥(みちのく)の信夫(しのぶ)の里の女(むすめ)は、箱王(はこわう)といふ兒(ちご)に錦哥(にしきうた)を書けり。唐土(もろこし)の人、大和の袖、彼(かれ)も是(これ)も情の道の哀れさは、とりどりにこそ侍れ。富士の煙(けふ)りの空に消えて、行方(ゆくゑ)なき思ひのほど、忍ぶる事の弱るわざなれ。
[やぶちゃん注:前話とは恨みの妖火で直連関。「中古の事」とあるから、本「宿直草」の中ではすこぶる時代を遡った事件を起因とする、その原話設定は特異的に最も古い怪談と考えてよい。最初に断わっておくが、色情狂の残虐女の恋文の歌枕尽くしの和歌は怪談とは関係性の希薄な(病的なまでに思いつめた感じを出すという点では無縁ではないが)荻田の趣味の挿入であるので、表記の説明及び最低限の修辞注を禁欲的に附すに留めた。私は短歌嫌いであるから、言い尽くすことは出来ないし、そんな徒労を尽くす気もない。和歌好きの方には大いに不満足であろうが、悪しからず。しかし、例えば岩波文庫版が五つしか注をつけていないのよりは遙かに親切であろうとは思う。
「仁光坊と云ふ火」この仁光坊(にこうぼう)という名の妖しい怪火現象は、やや言い方や伝承の細部には異同が認められるものの、かなり有名なものである。そうしてその中でも、この「宿直草」のそれは活字化されたものでは最も古形のものに属すると言える。といよりも、優れた僧が自らの破戒や冤罪によって遺恨を以って怪火となって人に祟るという構造自体は古形ではあるものの、この個別的な類話群自体は江戸初期に形成されたものと見てよいと思われる。ウィキの「二恨坊の火」より引いておく。『二恨坊の火、仁光坊の火(にこんぼうのひ)は、摂津国二階堂村(現・大阪府茨木市二階堂)』、『同国高槻村(現・同府高槻市)に伝わる火の妖怪』。三月から七月頃までの『時期に出没したもので、大きさは』一『尺ほど、火の中に人の顔のように目、鼻、口のようなものがある。鳥のように空を飛び回り、家の棟や木にとまる。人間に対して特に危害を加えることはないとされる』。『特に曇った夜に出没したもので、近くに人がいると火のほうが恐れて逆に飛び去ってしまうともいう』。江戸中期の俳人で作家の菊岡沾凉(せんりょう 延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年)の随筆「諸国里人談」によれば、『かつて二階堂村に日光坊という名の山伏がおり、病気を治す力があると評判だった。噂を聞いた村長が自分の妻の治療を依頼し、日光坊は祈祷によって病気を治した。ところが村長はそれを感謝するどころか、日光坊と妻が密通したと思い込み、日光坊を殺してしまった。日光坊の怨みは怨霊の火となって夜な夜な村長の家に現れ、遂には村長をとり殺してしまった。この「日光坊の火」が、やがて「二恨坊の火」と呼ばれるようになった。「本朝故事因縁集」(作者未詳。刊記に元禄二(一六八九)年とある。説法談義に供される諸国奇談や因果話を収めた説話集)には、『二階堂村に山伏がおり、一生の内に二つの怨みを抱いていたために二恨坊とあだ名されていた。彼は死んだ後に魔道に堕ちたが、その邪心は火の玉となって現世に現れ、「二恨坊の火」と呼ばれるようになった』とし、以下、本「宿直草」の本篇及び、後に刊行される荻田安静とほぼ同時代人と言える俳人で作家の山岡元隣(寛永八(一六三一)年~寛文一二(一六七二)年)による怪談本「古今百物語評判」に、『かつて仁光坊という美しい僧侶がいたが、代官の女房の策略によって殺害された、以来、仁光坊の怨みの念が火の玉となって出没し、「仁光坊の火」と呼ばれるようになった』と載ると記す。しかし、『大阪府吹田市にも、表記は異なる』ものの、『読みは同じ「二魂坊」といって、月のない暗い夜に』二『つの怪火が飛び交うという伝説がある』と記す。『伝説によれば、かつて高浜神社の東堂に日光坊、西堂に月光坊という、親友同士の修行僧がいた』。二『人の仲を妬んだ村人が日光坊のもとへ行き、月光坊が彼を蔑んでいると吹き込み、さらに月光坊のもとへ行き、日光坊が彼を蔑んでいると吹き込んだ。月光坊は疑心暗鬼となり、次第に日光坊を憎み始めた。村人たちはさらに、日光坊が月光坊を殺しに来ると月光坊に告げた。一方で日光坊は、最近の月光坊の心変わりを疑問に思い、誤解を解こうと彼のもとへ赴いた』。『月光坊は、ついに日光坊が自分を殺しに来たと思い込み、錫状を彼の胸に突き立てた。日光坊は殺しなどではなく、仲直りに来たとわかったときには、すでに日光坊は息絶えていた。月光坊は罪となり、自分たちを騙した者を取り殺すと叫びながら死んでいった。以来、この村には怪火が飛び交うようになり、村人たちは「二魂坊の祟り」と恐れたという』。また、『寛政時代の地誌『摂津名所図会』にも「二魂坊」といって、かつて日光坊という山伏が別の山伏を殺して死罪になり、その怨念が雨の夜に怪火となって現れ、木の上に泊まって人々を脅かしたという記述がある』。『高浜神社の社伝によれば、河内(現・大阪府東部)の豪族が祖神の火明命と天香山命を祀ったのが神社の起こりとされ、二魂坊や日光坊とは、この』二『柱の神を指しているとの説もある』とある。なお、以上に出る、山岡元隣の「古今百物語評判」のそれは、「第九 舟幽靈付(つけたり)丹波の姥が火、津の國仁光坊の事」のことで、ここに出るような恋文などは出ない短いものである。以下にそこだけを抜粋して示しておく。底本はやはり国書刊行会の江戸文庫所収のものを用い、やはり恣意的に正字化して示す。一部で読点を追加し、読みは一部に留めた。場所を現在の大阪府高槻市を主に流れる芥川とする以外は明らかに本篇と同話である。踊り字は正字化した。
*
又、津の國仁光坊(にんくはばう)の火と云へるは、是れは先年、攝州芥河(あくたがは)のあたりに、何がしとかや云ふ代官あり。それへ往來する眞言僧に仁光坊といひて美僧ありしに、代官の女房ふかく心をかけ、さまざまくどきけれども、彼の僧同心せず。女房おもひけるは、かく同心せぬうへからは、我れ不義奉ることのかへり聞こえむもはかりがたし。然るうへは、此僧を讒言して、なき者にせんと思ひ、『仁光坊、われに心をかけ、いろいろ不義なる事申しかけたり』と告げれば、其代官、はなはだ立腹して、とかくの沙汰に及ばず、彼の僧を斬罪におこなふ。其時、仁光坊、大きにうらみ、此事はかやうかやうの事なるを、實否のせんさくもなく、かくうきめを見するからは、忽ち、おもひ知らせん、とて、目をいからし、齒をくひしばりて死にけるが、終に、其一類、のこりなく取り殺して後(のち)、今に至るまで、其僧のからだを埋(うづ)みし處の山ぎはより、火の丸かせ、出で候ふが、其火の中に法師の首ありありと見ゆると云へり。かやうの事、つねに十人なみにある事には侍らねども、たまたまはある道理にして、もろこしの書にもおりおり見え侍る」とかたられき。
*
文中の「火の丸かせ」は「ひのまろかせ」で「火が玉のようにまるくなって」の謂いであろう。
「津の國嶋下郡(しましものこほり)」現在の大阪府三島郡及び茨木市の一部であるが、先のウィキペディアの記載を信ずるなら、大阪府茨木市星見町二階堂に比定出来る。この附近(グーグル・マップ・データ)。
「螢飛(ほたるとぶ)見ゆ」蛍の灯が飛ぶ如くに見える。
「火に尾ありて、三、四尺、ひかれり」岩波版では「ひかれり」を「光れり」とするが、採れない。これは尾を「三、四尺」も「曳かれり」で、光りの尾を九十一~一メートル二十一センチほども自ずと曳いていると採るべきであろう。
「至りて近く遭ふ時は、坊主の首にて息吐く度(たび)に火焰出(いづ)る」このクロース・アップされる映像的処理は上手い。
「溝杭(みぞくい)」溝咋が正しい。現在の大阪府茨木市五十鈴町に溝咋神社がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。同社は社伝では崇神天皇の頃の創建され、五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと:綏靖(あんせい)天皇皇后で事代主の娘。安寧天皇の母とされる)の父親である三島溝咋耳命(みぞくいみみのみこと)を祀るが、本文では「拜領」「その閭(さと)の尹令(つかさ)し給ふ俗(ひと)を、名に負ひて」とか「中古の事」とか言っているから、後世に地名を姓としただけで、この祭神と「溝杭殿」とは関係性がないと考えた方がよい。
「芝(し)が眉宇(びう)」岩波文庫版の高田氏の注には、『唐の房琯が紫芝の眉を誉めた故事により、立派な眉をもつ顔。眉宇は眉だけでなく、仏者の尊顔の意がある』とあり、諸辞書の「芝眉(しび)」によれば、玄宗の命によって粛宗の宰相となっていた房琯(ぼうかん 六九七年~七六三年:直後に粛宗は粛清されるが、それを杜甫が弁護して杜甫も失職した)元徳秀(字(あざな)が紫芝)の眉を褒めて「見二紫芝眉宇一、使二人名利之心都盡一」と言ったという「新唐書」の「元德秀傳」に基づくとし、「すぐれた眉や顔つき」或いは他人を敬って言う「尊顔」の意とあるが、ここは比喩としての美顔ではなく、眉だけでもうとてつもなく美しかった絶世の美男子元紫芝でさえも真っ青の意である。
「溝杭殿の内」「内」は「ない」で内儀、「奥方・正妻」のこと。
「色ふかき情(なさけ)に」仁光坊に対する禁じられた色情が募って。
「取り上げもせで、返す」手にとることもせずに、受け取りを丁重に拒否して返した。普段の奥方の雰囲気や、使いの少女(「小童」とあるが、奥方附きであるから少女である。挿絵でもそう描かれてある)が渡そうとする際の様子(ごくごく内密にと言い含められたことから少女も察していたに違いない)などから仁光坊は鋭くその内容を察したのである。
「あまりに便(びん)なかりければ」前のように断固として受けとらないというのはあまりにも立場上から都合が悪く(「不便」=不憫)、失礼に思ったので。
「思ひたつたの」歌枕「龍田山」を掛ける定番の修辞技法で、長歌全体の架空の恋の旅路(これが本州内の東西南北をこれまた目まぐるしく巡る噴飯物)の名所を詠み込んだ物語の始まりとなる。以下の固有地名は殆んどが歌枕と採り得るから、以後、その指示は原則、省略する。部分的に既存の和歌由来のものが多いようだが、私は和歌嫌いであるから、私でも気がつく箇所のみに留めた。悪しからず。
「みわのやま」「三輪の山」に「花の」ような貴方を「見」を掛けていようし、また、三輪山の神木である大「杉」から次の「過ぎ」に繋げている。
「ならざかや」「奈良坂」(奈良と南山城の境をなす平城山(ならやま)を越える坂道。時代によって変遷した)に「過ぎ行くまま」に「なってしまうことなどありましょうか、いえ、そんなつれないことは我慢が出来ませぬ。だのに」「獨り寢」ているという恨みの意を掛けていよう。
「かすがのさと」「春日の里」。
「ひろさはの」「どうしようもなく過剰に(「さは」)に貴方への恋心が広がってしまい」に「廣澤の」で「池」を引き出す。ここから「水」絡みの縁語が波状的に配される。
「池のしみづに」「池」には原典では「いけ」とルビ。「池の淸水に」。
「身をはぢて」「恥ぢて」は前の「淸水」から、同ハ行音の一字下の「漬(ひ)ぢて」を禊(みそぎ)のパロディとして掛けていよう。
「おほ井川」「淚」が「多い」に「大井川」を掛け、「川」の縁語で「ふかき」と続く。
「ふかき恨みは」原典では「恨」には「うら」とルビ。
「あらし山」つれなさへの恨みが「あ」ることに「嵐山」を掛ける。
「たれまつ虫の」「誰れ待つ」に「松虫」を掛ける。
「ねをのみに」「ね」は松虫の「音(ね)」に焦がれる共寝の「寢(ね)」を掛ける。
「ふかくさの」「思いは」「深く」に地名の「深草」を掛ける。
「ひとりふしみの」「獨り臥し身」に「伏見」を掛ける。
「契」原典は「ちぎり」とルビ。
「はつせやま」「契り」が「果つ」に「初瀨山」を掛ける。
「おのへのかねの」「尾の上の鐘の」。長谷寺の鐘のこと。この前後、藤原定家の「新古今和歌集」に載る「年も經ぬ祈る契りは初瀨山尾上の鐘のよその夕暮れ」に基づく。恋の成就を祈りながら、それが外の人のためにのみ鳴って、自分のためには鳴(成)なって呉れないというので、この長歌にはもってこいの一首ではあろう。
「よそにのみ」「餘所にのみ」。前注参照。
「もりてことのは」「洩りて言の葉」。「言の葉」は和歌の意もあるから、この切なく「洩」らすところの恋情告白の長歌自体を暗示するか。
「みしま江に浮」「三嶋江に浮く」。原典では「江」に「え」、「浮」に「うく」とルビ。三島江は万葉以来の淀川河口の歌枕。「浮く」は「憂く」を掛ける。
「ながれあし」「流れ葭(あし)」。前の「憂く」に応じた鬱屈した感情から、「流れ」てしまって成就しないで「惡し」き状態の意を掛けるのであろう。
「ながらの橋の」「ながら」は「長良」川。
「中たえて」「仲絶えて」。前の抑鬱的気分が一つの頂点に達する。
「あふさかや」「逢坂や」。山城国と近江国の国境である逢坂関に「戀しき人に逢ふ」を掛ける。次注参照。
「しるもしらぬも」この前後は「小倉百人一首」にも出る蟬丸の「後撰和歌集」に載る「これやこの行くも歸るも別れては知るも知らぬも逢坂の關」に基づく。
「物うき旅を」原典は「旅」に「たひ」とルビ。「もの憂き旅を」。あなたがつれないので何とも言えずメランコリックになっている。
「しがのうら」に歌枕「滋賀の浦」に「して来ました」(憂鬱な状態が続いている)を掛ける。
「うらみて爰に」「爰」は「ここ」。前の「滋賀の浦」から「浦見て」を掛けて、本意の「恨みて」を出す。
「きのくにや」「紀の國や」。「き」は「爰」に、ここまで「來」てしまいました、を掛ける。
「人をまつほの」「まつほ」は兵庫県淡路島北端の松帆浦。「松」に「待つ」を掛ける(岩波文庫版は「松尾」と漢字表記する。松尾山は松帆浦の西にある。原典は「まつほ」と記するものの、確かに後が「やまおろし」「山颪」であるから、「松尾」と漢字表記する根拠は物理的には判らないではない。しかし、松尾の山から吹き降ろす山颪の風の厳しく辛いあなたを待つ松帆の浦と読めばよいのであって、これを「松尾」とするのはやはり私には採れない)。
「みくまのゝ」熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉(はやたま)大社・熊野那智大社)の総称「三熊野」。「み」に前の「夢にも君を」「見」るを掛けて言った。
「をとなし川に」「音無川に」。熊野本宮の近くで熊野川に合流する河川名。「音無(し)」は手紙の返事がないことを掛けるのであろう。後の「にあらねども」は「かの名川の名である音無川ではありませんが、ちっともお返事を下さらないという捩れた謂いであろう。
「みちのくの」「陸奥の」。ここは「小倉百人一首」にも出る河原左大臣の「古今和歌集」の「陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰(たれ)ゆゑに亂れそめにしわれならなくに」に基づく。
「しのぶもぢ摺」原典では「摺」に「ずり」のルビ。現在の福島県福島市の中心市街地北部にある信夫山一帯に伝わっていた草による染色法「しのぶ摺」。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅21 早苗とる手もとや昔しのぶ摺』を参照されたい。
「けふしら川の」「今日白河の」。
「せきぢまで」「關路まで」。
「こがねやま」「黃金山」。宮城県石巻市の金華山のことであろう。同島には黄金山(こがねやま)神社が鎮座する。「こがね」には類似音の恋「焦がれ」を掛けているのであろう。
「いつかあひづの」「何時か會津の」。「あひ」は「逢ひ」を掛ける。
「雲ならん」「雲」にはいつかは逢えると思えば「苦」にもなりません、の意を掛けるのであろう。
「たとひ別を」原典は「別」に「わかれ」とルビ。
「するがなる」「駿河なる」。「別」れを「する」と繫げて掛ける。
「ふじのけふりと」「富士の煙りと」。「竹取物語」の相思相愛の悲恋のエンディングを確信犯で暗示させている。
「なを浮嶋の」原典は「浮嶋」に「うきしま」とルビ。「浮嶋」は宮城県多賀城市浮島地区 で歌枕に詠まれた浮島の地。「なを」は「猶(なほ)」で歴史的仮名遣は誤りであるが、これは「浮き」「名を」を掛けるための確信犯と思われる。
「さよちどり」「小夜千鳥」。夜に鳴く千鳥。チドリ目チドリ亜目チドリ科 Charadriidae(海岸・干潟・河川・湿原・草原などの水辺域を中心とした多様な環境に棲息する)を初めとした野辺や水辺に群れる小鳥の夜鳴きを指す。五音で使い勝手がよいから古くから好んで歌に詠み込まれた。
「いそのまくらに」「磯の枕に」。侘びしい旅寝で次で屋上屋。
「ふしわびて」「臥し侘びて」。
「おほゐ川」「大井川」に「淚」「多い」を掛けるのは既に使用済みであるが、「万葉集」の長歌ではよく見られる反復手法ではあるから下手糞なのではない。
「かはるふちせに」「變はる淵瀨に」。前の「川」の縁語で「淵」「瀨」を出して、以下で絶望的に「沈み」と続く。
「さよの中山」「小夜の中山」。箱根峠や鈴鹿峠と並ぶ東海道の三大難所として知られる静岡県掛川市佐夜鹿(さよしか)にある峠道。好んで歌枕に使われる最強の歌枕の一つで「佐夜の中山」とも書く。
「みかはなる」「三河なる」。前から「何しに君を」「見交は」してしまったのか、その結果としてかくも恋焦がれることとなってしまった、というのである。
「その八はしを」この前後は「伊勢物語」の第九段、知られた「東下り」の冒頭を下敷きとする。教師時代が懐かしいので、頭からソリッドに引いておく。
*
むかし、男ありけり。そのをとこ、身を要(えう)なきものに思ひなして、
「京にはあらじ、あづまの方に住むべき國求めに。」
とて、行きけり。
もとより友とする人ひとりふたりして、行(い)きけり。
道知れる人もなくて、まどひ行きけり。
三河の國、八橋(やつはし)といふ所にいたりぬ。
そこを八橋といひけるは、水ゆく河(かは)の蜘蛛手(くもで)なれば、橋を八つ、渡せるによりてなむ、八橋といひける。
その澤のほとりの木の蔭に下りゐて、乾飯(かれいひ)食ひけり。
その澤に、かきつばた、いとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、
「『かきつばた』といふ五文字(いつもじ)を句の上にすゑて、旅の心をよめ。」
と言ひければ、よめる、
から衣着つつなれにしつましあれば
はるばる來ぬる旅をしぞ思ふ
とよめりければ、みな人、乾飯の上に淚おとして、ほとびにけり。
*
ここは恨み節の痙攣的な部分で、「八橋を掛けて」でも私とどうして「契」ろうとしないのか?! 「人」=貴方故に、恋い焦がれる思いが「蜘蛛手」の如く、蛸や烏賊の触手の如く、竹の根の如くに病的に広がり、異常な「物」「思」ひに沈んでいるこの私を! というのである。
「さてもやつらき」「さてもや辛き」。副詞「さて」+係助詞「も」+係助詞「や」で「それでも~か」の意。「これだけ(思いを語っても)貴方はそれでもかくも私に辛く当たるとは!」。
「美濃おはり」原典では「美濃」に「みの」のルビ。「美濃尾張」に「身の終はり」を掛ける。ネガティヴな傾向がまた始まる。この長歌、躁鬱病の典型事例を記した精神科の教科書のようだ。
「なるみがた」「鳴海潟」。名古屋市緑区鳴海付近にあった海浜。
「はてはあはでの」「果ては阿波手の」。次の「もり」と繋がって「あはでの森」で尾張国にあった歌枕「阿波手(あわで)の森」。旧愛知県海部(あま)郡甚目寺(じもくじ)町、現在のあま市甚目寺の内。無論、「逢わで」を掛ける。
「しげき思を」「繁き思ひを」。「繁き」は前の「森」「草」の縁語。
「さらしなや」「更科や」。
「われ姨捨の」原典では「姨捨」に「おばすて」とルビ。
「やまおろし」「山颪」。前の「姨捨」山から展開。
「したふ心は」前の「颪」から「下」でそれが「慕(した)ふ」を引き出す。
「淺間のたけに」原典では「淺間」に「あさま」とルビ。
「たつけふり」「立つ烟り」。前の富士のそれと対句的リフレイン。
「ふかき思は」「深き思ひは」。
「あすか川」「飛鳥川」。この辺りは岩波文庫版の高田氏の注によるならば、「古今和歌集」の詠み人知らずの一首、「世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀨になる」に
「なにはのことも」「難波の事も」。豊臣秀吉の辞世とされる(事実は辞世ではない)「露と落ち露と消えにし我が身かな難波のことも夢のまた夢」に基づく。
「かいなきに」「甲斐なきに」。
「などかはみをも」「みを」は「身をも」に「澪」を掛け、次の「つく」で「澪標」と繋がる。
「つくすらん」「盡すらん」。
「うき人を」「憂き人」であるが、前の「澪標」から「浮き」、そして以下の「瀨」「川」「沈み」と縁語を形成する。
「こひせの川に」「戀瀨の川に」。茨城県を流れる恋瀬川は歌枕。
「なきためしをも」「無き例をも」。
「しもつけや」「下野や」。前の「をも」「しも」で限定の意で続く。
「室のやしまに」原典では「室」に「むろ」とルビ。「室の八嶋」。栃木県栃木市惣社町にある大神(おおみわ)神社を指すとされ、名の由来は境内にある池の八つの島を指すということになっているが、これはこじつけっぽい。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅2 室の八島 糸遊に結びつきたる煙哉 芭蕉』を参照されたい。
「すまの浦」「須磨の浦」。「すま」は「住む」を掛ける。「源氏物語」の「須磨」の帖を響かせる。
「ふかき思は」「深き思ひは」。
「ありあけの」「有明の」で次の「つきぬなみだを」(盡きぬ淚を)の「つき」(月)に繋がる。
「たゞたのめ」「只、賴め」。
「しめぢか原の」「標茅原の」。栃木市の北方にあった野原で歌枕。
「さしもぐさ」「指燒草」。漢字表記は岩波版に従った。艾(もぐさ:キク目キク科キク亜科ヨモギ属変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii)のこと。和歌では艾の名産地である伊吹・伊吹の山に続けて用うことが多いが、ここは同音の「さしも」(それほどにも)を掛ける。
「われ世中に」「我世の中に」。
「思ひつくばの」「思ひ筑波」。
「はげしきよはの」「激しき夜半の」。
「かりまくら」「假り枕」。
「かすかに君を」「幽かに君を」。次の「見馴れ」(一目見て馴れ親しんでしまった)と続く。
「みなれ川」「見馴川」。埼玉県北部を流れる小山川(こやまがわ)の旧称。慈円の私家集「拾玉集(しゅうぎょくしゅう)」に「五月雨(さみだれ)の日を經るままに水馴川(みなれがは)水馴し瀨々も面(おも)變りつつ」を暗示するか。但し、この「水馴川」は奈良県にある水沢(みなれ)川である。
「こゝをこしぢの」「此處を越路の」。
「たひの空」「たひ」は原典のママ。和歌だから清音は問題ない。「旅の空」。
「ものうきに」「物憂きに」。
「すみだ川」「隅田川」。「憂き世」に「住み」と繫げる。
「我思ふ人は」「我」は「わが」。この前後は「有やなしやと」とあとの「みやこどり」から、やはり「伊勢物語」(荻田は本書で好んでインスパイアしている)の第九段「東下り」の人口に膾炙した以下のコーダに基づく。
*
なほ、行き行きて、武藏野の國と下つ總(ふさ)の國との中に、いと大きなる河あり。それを隅田河といふ。その河のほとりにむれゐて思ひやれば、
「限りなく遠くも來にけるかな。」
とわびあへるに、渡守(わたしもり)、
「はや、舟に乘れ、日も暮れぬ。」
と言ふに、乘りて渡らむとするに、みな人、ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さる折りしも、白き鳥の、嘴(はし)と脚あし)と赤き、鴫(しぎ)の大きさなる、水の上(うへ)に遊びつつ、魚を食(く)ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人、見知らず。渡守に問ひければ、
「これなむ都鳥。」
と言ふを聞きて、
名にし負はばいざこと問はむ都鳥
わが思ふ人はありやなしやと
とよめりければ、舟、こぞりて、泣きにけり。
*
「とへどこたへぬ」「問へど答へぬ」。「東下り」の渡し守の応じたのに反して、恋文への返事がないことの恨みへと転ずる。
「うたて昔の」「うたて」は副詞ではなく、形容詞語幹の用法による返事をくれぬことへの歎きの表現であろう。「昔の」「事をだに」は古えの渡し守でさえ応えて呉れたのに、という恨みであろう。
「つゐにいはでの」「遂に岩手の」。「遂に言わで」(返事を呉れずに)。後の「もりなれや」「もり」は前との続きならば歌枕である「岩手の關」(後の「尿前の関」)の関「守」で、「伊勢物語」の渡し「守」に掛けてあると読む。岩波文庫は「もり」を「森」とする。これは尿前の関の西方の関所番所のあった森である。
「吹飯の浦の」原典では「吹飯」に「ふけゐ」、「浦」に「うら」のルビ。「吹飯の浦」は「ふけいのうら」が一般的。現在の大阪府泉南郡岬町(みさきちょう)深日(ふけ)の海岸とされる。古来より「風が吹く」意や「夜が更ける」の意を掛けて和歌に詠まれることが多い歌枕。
「ゆふなみに」「夕波に」。
「ぬるゝたもとを」「濡るる袂を」。
「かゞみやま」「鏡山」。滋賀県南部の野洲(やす)市と蒲生(がもう)郡竜王町との境にある山で歌枕であるが、私はここは佐賀県唐津市にあるそれではないかと思う。大伴狭手彦(おおとものさでひこ)が加羅(から)に船出する際、恋人の松浦佐用姫(まつらさよひめ)がこの山に登って領巾(ひれ)を振って別れを惜しみ、悲しみのあまり、石と化したとする伝承を持つ、別名領巾振山(ひれふるやま)である。自身の恋情のまことを語るにはここの方がしっくりくるからである。
「なれもなは」「あなたもなって呉れるならば」の「汝(なれ)もなば」か?
「くにくに所の」「國國所の」。
「名とり川」「名取川」。宮城県と山形県の県境附近に源を発し、仙台市の南東で広瀬川と合流して太平洋に注ぐ歌枕。但し、ここはこの長歌全体の総括で、「國國」の名「所の」歌枕の「名」を「取り」入れて詠み込んだことを指していよう。
「ちいろの濱の」「千尋の濱の」。見渡す限り広い海浜という一般名詞ながら、概ね藤原敦忠の「伊勢の海のちひろの濱に拾ふとも今は何てふ甲斐かあるべき」が著名。この一首は詞書に「西四条の齋宮(いつきのみや)まだみこにものし給ひし時、心ざしありておもふ事侍りけるあひだに、斎宮にさだまりたまひにければ、そのあくるあしたにさか木の枝にさしてさしおかせ侍りける」という悲恋の思いを込めた一首であるからこの長歌のコーダに暗示させるには相応しいと私は思う。
「まさごより」「眞砂より」。「眞砂」は前の「濱」の縁語。
「つくしがてなる」「筑紫がてなる」。「濱」の「眞砂」は「盡しがてなる」、容易には数え尽くすことが出来ない、私の貴方への思いも「ことのは」(言の葉)では尽くすことはないほど深い、というニュアンスであろう。
「あはれともいさ」ここは「玉葉和歌集」に載る西行の「あはれとも見る人あらば思はなむ月のおもてにやどす心を」をインスパイアした。
「古言(ふるごと)」古歌や古文に託した使い古された詞。
「などてか心強くいます」反語。「私の誠心の思いを無視して、どうしてそんなに信心堅固に平然としておられることが出来るのでしょう? あり得ませんわ!」というキョウレツな決め文句である。
「紅葉重(がさ)ね」本来は襲(かさね)の色目(いろめ)の名で、表は黄、裏は蘇芳である。そのように染色した和紙なんだろうか? 識者の御教授を乞う。
「薄樣(うすやう)」これは紙の質を言う。薄手の鳥の子紙・雁皮紙(がんぴし)であるが、広く薄手の和紙をも指す 。
「錦木(にしきゞ)も千束(ちつか)になり」岩波文庫版で高田氏は、『男が女に逢おうとする時、女の家の門にこれを立て、女に応ずる心があれば取り入れ、取り入れたくなければ、男が更に加えて、千束を限りとする風習があった。「錦木は千束になりぬ今こそは人に知られぬ閨の内見め」(謡曲『錦木』)』と注しておられる。錦木はニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属ニシキギ Euonymus alatus。この習俗は東北のものだったらしい。風習及びニシキギの詳細は、個人ブログ「花々のよもやま話」のこちらに詳しい。必読! おう! 其の最後には錦木の花言葉が! 「あなたの定め」「あなたの魅力を心に刻む」「危険な遊び」!!!
「濱千鳥のふみゆく跡の汐干(しほひ)の磯に、隱れがたくぞ侍る」「然れども、此僧、水莖(みづぐき)の岡(をか)も踏まず、堅くも」ここは縁語のラッシュ・アワー。「濱(千鳥)」「汐干」「磯」「がた(潟)」「水」「岡」(水域に対する「陸(おか)」)「堅(潟)」。「水莖(みづぐき)」は毛筆で書いた文字のことで、転じて手紙のこと。
「生憎(あやに)く」感動詞「あや」に形容詞「憎し」語幹が付いた語。「生」は当て字。ここはその形容動詞の語幹で、「予期に反して思いどおりにならないさま・不本意であるさま」「意に染まず、意地悪く感じられるさま」の意。
「しかと究(きは)めざるぞ」仁光坊を糺してしっかりと確認をとらなかったのは。
「さがなき」手に負えない性質(たち)の悪い。
「讒(ざん)」讒言。
「よし」副詞。仮初めにも。
「片口(かたくち)を聞き」一方の主張だけを鵜呑みにし。
「耻(はぢ)」この場合は、仁光坊の冤罪による恥辱。
「然るべき報ひか」彼は僧であるから、これも私の前世の因果なのか? と一応は疑問を呈しているのであるが、事実はそう思っていない。そう思っていないからこそ「無實の罪を得る、無念にこそ侍れ」と叫び、遂には正法(しょうぼう)を敢然と放棄し、七代まで祟る天魔へと身を堕したのである。
「今の一念、望みたらば」今の私のこの一途の怨念の望みを満足に遂げんとするためならば。
「仕合(しあはせ)」顛末。始末。
「耻の外(ほか)までせり」岩波文庫版の高田氏の注には、『男の命を取るまで』とある。
「鞍馬の安珎(あんちん)」変形の多い道成寺伝説(安珍・清姫伝説)の中で、「元亨釈書」に載るそれでは鞍馬寺の僧安珍とする(そこでは清姫も寡婦という設定である)。因みに私は道成寺伝承のフリークで、サイトに「道成寺鐘中 Doujyou-ji
Chronicl」という特設サイトを持っている。
「壽量品(じゆりやうぼん)」「法華經」二十八品(ぽん)中の第十六「如來壽量品」のこと。全体は釈迦が久遠の昔から未来永劫に亙って存在する仏として描かれたものであるが、その中に竜女の即身成仏の話が語られている。
「𢌞文(くはいぶん)」本来は順序を逆にして読むんでもちゃんとした文章となるもので、それなら、後に注する「蘇若蘭」の故事と符合する。そのような凝った恋文ととってよいだろうが、ここまであの長ったらしい退屈な長歌を読まされると、或いはこの長歌のように、同じような内容、同じような思いを執拗に記した恋文のことじゃあねえの? などと邪推したくもなった。
「錦字(きんじ)の詩」見た目ばかりが絢爛に粉飾された中身の軽く薄い詩歌。荻田さん、これってちょっと鏡返ししたくなりますけど?
「征夫(せいふ)」出征した人の意であるが、ここは次に記す遠い地に赴任或いは辺塞に流刑となった夫の意。
「託(かこ)ちし」以下の私が示す話には出ないが、夫が妾を寵愛したことを嫉んで不平を言ったことを指す。岩波文庫版の高田氏の注にはそうあり(次注参照)、ネットで調べると、そうした事実を記し、夫は転勤する際に妾を連れて、彼女を置き去りにしたという前半を記すものが確かにある(やはり次注を参照)。
「蘇若蘭(そじやくらん)」サイト「詩詞世界 二千四百首詳註 碇豊長の漢詩」の李白「烏夜啼」の「秦川女」の注に『蘇蕙』(そけい)『(蘇若蘭)のこと。夫を思う妻の典型。彼女の出身地が秦川によるための言い方[やぶちゃん注:ここは李白の当該詩の中で彼女を「秦川女」としていることを指す。]。回文の錦を織った妻のことで竇滔』(とうとう)『の妻の蘇蕙(蘇若蘭)のこと』で、これは「晋書」の「列傳第六十六」の「列女」にある「竇滔妻蘇氏」に出る『竇滔の妻の蘇氏のこと。蘇氏は夫・竇滔が罪を得て流沙に流されたのを偲び、錦を織り、その中に回文(順序を逆に読めば、別の意味になる文)を織り込んで送った故事に基づく』とある。岩波文庫版の高田氏の注では、彼女が『夫が妾を寵することを嫉んだところ、置き去りにされたので、五采文錦を織って、詩二百余首を付して夫に贈り、迎えられた』とする。ウィキの「蘇ケイ」によれば、蘇蕙(そけい 生没年未詳)は『五胡十六国時代の中国の女性で詩人』。『始平郡の人。字は若蘭。若くして文才あり。苻堅の治めていた時代の前秦にいた竇滔に嫁ぐ。夫の滔が秦州刺史となり流沙に赴任することになるが、別に妾を連れて行き』、『正妻の蕙を伴わなかった。蕙は思慕の念に耐えきれず、錦を織り、「廻文旋図の詩」をその中に織りこんで贈った。その文は順に読んでも逆に読んでも平仄や韻字の法則にかない、循環させて読むことができた。およそ』八百四十『字でできたその文は絢爛多彩で、はなはだ凄艶であったという。現存はしていないが、これが後に流行した廻文の始まりであるという。その錦に織られた文を読んで感動した夫は妾を関中に送り返し、蘇蕙を呼び寄せたともいう』とある。嫉妬という前振りはこのいまわしい色情女と親和性はあるものの、後の「如何(いか)ばかりか胸を刺すらん」というのは、流刑となった夫に贈る錦を織った際、その中にこっそりと(罪人ゆえに大っぴらに「胸」中に思いを込めた手紙は添えられないのであろう)「刺」し入れた回文の詩篇を潜ませた、というストーリーの方が、よりしっくりくる。このいやらしい女が蘇若蘭の誠心のエピソードを知ったら、それは蘇若蘭を、ではなく、かの溝杭の残酷極まりない正妻の「胸」を「刺」すように打つことであろう、という謂いではあるまいか? いやいや、人非人の彼女は、ただほくそ笑むだけかも知れないが、ね。
「陸奥(みちのく)の信夫(しのぶ)の里の女(むすめ)は、箱王(はこわう)といふ兒(ちご)に錦哥(にしきうた)を書けり」「筥王」は曾我兄弟の仇討で知られた弟の曾我時致(ときむね 承安四(一一七四)年~建久四(一一九三)年)の幼名であるが、彼に「陸奥(みちのく)の信夫(しのぶ)の里の女(むすめ)」が恋文を書いたというエピソードは不学にして知らない。識者の御教授を乞う。
「唐土(もろこし)の人」蘇若蘭及びそのような中国の貞女。
「大和の袖」信夫の里の娘及びそのような本邦の可憐純情な娘。
「富士の煙(けふ)りの空に消えて、行方(ゆくゑ)なき思ひのほど」ここは明らかに「竹取物語」のエンディングを確信犯でインスパイア。]
第二 戰場の跡、火燃ゆる事
[やぶちゃん注:挿絵は底本のものだが、かなり細かく清拭した。大阪の陣で命を落とした武士(もののふ)のために。]
寛永十一の夷則(いそく)二日に、若江の里に行き、有るか無きかの月に涼まんとて、暮過(くれすぎ)つゝも、四、五人連れて出でけるが、梶(かぢ)の葉風も秋は秌(あき)かなと悲しく、禊萩(みそはぎ)が枝に殘る螢も、年(とし)に一度の渡り逢ひを待つか、焦がれ燃ゆるは淚の玉も祭らんためかと、身に沁むばかり眺めしに、猶、踏めば惜し、踏まねば行かぬ道に敷くは、玉かあらぬか露深き、稻葉も戰(そよ)ぐ田面(たのも)に出でしに、三十間ばかり先に、煌々燿々(くはうくはうようよう)として、火、燃え出たり。
長さ四、五尺ばかりにて、四つ五つほど連れ立(だ)ち、四、五間ほど行(ゆ)きては消え、消えては、また、燃え、海原(うなはら)に立つ浪のごとし。
誘(いざな)ひし人、語りしは、
「元和(げんわ)の軍(いくさ)のころ、五月六日に重義輕命(ぢうぎけいめい)の勇士、多く、こゝに死す。その亡魂の今もまだ火となりて燃えさふらふ。はや、去りゆける御垣守(みかきもり)、衞士(ゑじ)の焚(た)く火になけれども、夜(よる)は燃えつゝ物思ふらんと、哀れに侍る。」
と云ふ。我、聞きて、
「邂逅(わくらば)に、また見る事もあらざらめ。いざ、あの邊り行かん。」
と云へば、
「いやとよ、行けば行(ゆく)ほど火も行くなり。脇より見れば、こゝとても燃えさふらふなり。」
と云ふ。
「田か畔(あぜ)か。」
と云へば、
「堤(つゝみ)ぞ堀(ほり)ぞの分(わ)きもなし。」
と語る。
さても今、廿年(はたとせ)にも余(あま)らんに、その魂魄の殘ればこそ、かく燃えに燃えて見ゆれ。
「さぞ、修羅(すら)の巷(ちまた)の矢叫びも。」
と、思ひやらるゝわざなれ。
「よし、葭垣(あしがき)の間近く見ずとも。」
と、念佛(ねぶつ)とともに、歸りしなり。
目(ま)の當たり、かゝる事、見侍りき。
[やぶちゃん注:筆者実録物で、前の「卷四」の掉尾と直連関する怪異である。
「寛永十一の夷則(いそく)二日」「夷則」は旧暦七月(文月)の異称。寛永十一年七月二日は一六三四年七月二十六日。
「若江」既出既注。河内国若江郡。現在の大阪府河内市内の若江を冠する地名のある一帯。ここ(グーグル・マップ・データ)。古地図を見てもこの附近は低湿地帯である。大阪城の南東六キロ圏内。
「有るか無きかの月」二日月であるから非常に細い上弦の月である。
「梶(かぢ)の葉風も」岩波文庫版で高田氏はこの「梶の葉」の部分だけに注して、『古く、七夕祭りの時、七枚の梶の葉に詩歌などを書いてそなえ、芸能の向上や恋の成就を祈った』と記しておられる。「梶」はイラクサ目クワ科コウゾ属カジノキ Broussonetia papyrifera。実際には七夕に限らず、古代より神に捧げる神木として神聖視された樹木で、樹皮や葉が新撰の敷物などに使用されてきた。
「秋は秌(あき)かな」実際にはまだ夏という感覚を暦の上ではといなしたもので、同字を使うのを無風流とした異体字使用であろうが、実はこれによって「秋」「秌」という字にはこの後に出るところの「火」が含まれていることを暗示させる伏線のようにも思われる。
「禊萩(みそはぎ)」原典は「みそはぎ」、底本は「みそ萩」、岩波文庫版原文は『溝萩』と表記する。フトモモ目ミソハギ科ミソハギ属ミソハギ Lythrum anceps。ウィキの「ミソハギ」によれば、『湿地や田の畔などに生え、また栽培される。日本および朝鮮半島に分布。茎の断面は四角い。葉は長さ数センチで細長く、対生で交互に直角の方向に出る。お盆のころ紅紫色』六『弁の小さい花を先端部の葉腋に多数つける』。『盆花としてよく使われ、ボンバナ、ショウリョウバナ(精霊花)などの名もある。ミソハギの和名の由来はハギに似て禊(みそぎ)に使ったことから禊萩、または溝に生えることから溝萩によるといわれる』。『秋の季語』とある。私は敢えて「禊萩」で表記したが、話柄に合わせて敢えて遊ぶなら、「精靈萩(みそはぎ)」としたいところである。
「螢」秋(暦上)の蛍を出して、まずは人の魂のような青白いそれを暗闇に舞わせるのは実景ながら、上手い漸層的手法である。
「焦がれ燃ゆる」蛍の末期の哀しき恋のそれを言いながら、やはり後の怪火への波状的伏線となっている。
「淚の玉も祭らん」蛍火を恋に焦がれ燃える男女の情炎にし、その儚い恋の涙から、人の儚い命から人魂に落ち着かせた。岩波文庫版の高田氏の注には、『魂祭り(七月十五日)を踏んだ表現』とある。
「踏めば惜し、踏まねば行かぬ道に敷くは、玉かあらぬか露深き」田圃道を踏み行けば恋し合う蛍を驚かせて互いを散らせてしまうことを「惜し」い、とまずは言っておいて、更に、後の、淡い月光や蛍火に煌めく道端の草々に置く「玉かあらぬか」と見紛う「深き」「露」(儚い命の常套的シンボル)をあたら散らせてしまうことを「惜し」いというのであろう。
「三十間」五十四メートル五十四センチ。
「煌々燿々(くはうくはうようよう)として」きらきらと有意に耀くさま。
「四、五尺」一メートル二十一センチから一メートル五十二センチほど。
「四、五間」七メートル二十八センチから九メートル九センチ。
「元和(げんわ)の軍(いくさ)」徳川が豊臣を滅ぼした「大坂夏の陣」のこと。大阪城の落城は慶長二〇(一六一五)年五月七日(グレゴリ暦六月三日)であるが、二ヶ月後の七月十三日に「元和」に改元している。
「五月六日に重義輕命(ぢうぎけいめい)の勇士、多く、こゝに死す」落城の前日五月六日に行われた「若江の戦い」。ウィキの「八尾・若江の戦い」(八尾は「やお」と読む。若江の南東から南の現在の大阪府八尾市内)によれば、午前五時頃、豊臣軍の木村勢が若江に着陣、先鋒を三手に分け、『敵に備えた。その右手に藤堂勢の右先鋒、藤堂良勝、同良重が攻撃をかけた。藤堂勢は兵の半数を失い敗走、藤堂良勝、良重は戦死した。木村は玉串川西側堤上に鉄砲隊を配置し、敵を田圃の畦道に誘引して襲撃しようともくろんだ』。午前七時頃、『井伊直孝は若江の敵への攻撃を決断、部隊を西に転進させた。井伊勢の先鋒は右手庵原朝昌、左手川手良列。木村勢を発見した川手は、玉串川東側堤上から一斉射撃後、敵に突入した。堤上にいた木村勢は西に後退し、堤は井伊勢が占拠した。川手はさらに突進したが』、『戦死した。そこに庵原も加わ』って『激戦となった。木村重成は自身も槍を取って勇戦したが戦死した。山口弘定、内藤長秋も戦死し、木村本隊は壊滅した』。『それまで戦闘を傍観していた幕府軍の榊原康勝、丹羽長重らは味方有利と見て木村勢左先手木村宗明を攻めた。宗明は本隊が敗れたため』、『大坂城へ撤退した』とある。
「はや、去りゆける」遠い昔に消え去ってしまった。
「御垣守(みかきもり)衞士(ゑじ)の焚(た)く火」「詞花和歌集」の「戀上」大中臣能宣の「題知らず」とする歌(二二五番歌)で「小倉百人一首」にも四十九番歌として採られている、
題不知
御垣守衞士の焚く火の夜は燃え晝は消えつつものをこそ思へ
に基づく。「御垣守」(「もり」ではなく「もる」とする伝本もあり、私は「もる」の方が遙かに良いと思っている。定家がそうしなかったことを訝るぐらいである)内裏の諸門を警護する者。衛門府に属し、夜は篝火を焚いて門を守った。「衞士」は諸国から交替で招集された兵士ここは「御垣守」と同義である(だからこそわたしは前を「もる」と読みたいのである)。しかしまあ、彼らの姿は読まれていないわけだから(「御垣守衞士の焚く火の」は恋の炎を引き出すためだけの序詞)ムキになっても仕方ないか。しかし、まさにここで死んでいった連中は秀頼を守らんとした「御垣守」「衞士」であったのだ。その彼らの無念の思いが「燃えつゝ物思ふらんと、哀れに侍る」というこの荻田の友の台詞は、ただの風流の遊びではなく、重い。
「邂逅(わくらば)」漢字表記は岩波版を用いた。「たまたま・偶然に・まれに」の意。
「行けば行(ゆく)ほど火も行くなり。脇より見れば、こゝとても燃えさふらふなり」この言が正確であるとすれば、天然ガスなどの噴出による発火現象ではなく、光学的自然現象ということになる。町屋や民家の灯の大気の逆転層による反映か。
「堤(つゝみ)ぞ堀(ほり)ぞの分(わ)きもなし」「田」・「畔(あぜ)」・「堤」・「堀」の区別なく、どこでも自在に発火し、消滅するというのである。ますます光学的錯覚であることが強く疑われる。
「さても今、廿年(はたとせ)にも余(あま)らんに」先に示した通り、話柄内時制は寛永一一(一六三四)年七月で、「大坂夏の陣」は慶長二〇(一六一五)年五月であるから、経過時間は実質十九年二ヶ月余りであるが、ここは年を数えでやっておいて月だけ比較換算したものだろう。
「よし、葭垣(あしがき)の間近く見ずとも」この「よし」のあとには底本も岩波を読点は打たない。原典は「よしあしがき」で総て平仮名。私は、ここは「葦(よし)葭(あし)」(孰れも同じ単子葉類植物綱イネ目イネ科ダンチク亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis を指す。難波の蘆(あし)は万葉以来のここの名景物である)で拵えた貧者の「垣」の意に、副詞の「よし」(仕方がない・ままよ・まあよかろう)の意を掛けたものと採る。されば、「よし葭垣」や「葦葭垣」では荻田の台詞の深い感懐のパンチが失われてしまう。そこでかく表記した。]
宿直草 卷五
第一 うぶめの事
寬永四年の春、予が里の、さるものゝ下女、孕(はらみ)しまゝに死し、產女(うぶめ)となりて來(くる)ると云ひ、里の侲(わらはべ)恐れ合ひて、柴の戶を締め、葭(よし)の簾(すだれ)を下ろす。予はその頃、他所(たしよ)にありて、歸りければ、この話、せり。
「さらば、そのもの、通らば、聞かせ給へ。」
と云ふ。
夜の八つの頃、我が母、慌たゞしく起こす。
「何事ぞ。」
と云へば、
「例の者、通るぞ、泣く聲、聞け。」
と云ふ。
「さらば。」
とて聞くに、その聲、呂(りよ)にして、
「わあゝひ。」
と泣く。二聲までなり。平調(ひようでう)にして、頭(かしら)は高く、後(あと)は下(さが)れり。引く事、長(なが)ふして、一聲のうち、二間(けん)ばかりは步むべし。其聲の哀れさは、今も身に沁みてこそ侍れ。
この亡靈(まうれい)の夫(をとこ)、名さへおかしき與七といふ者なり。夜な夜な、產女(うぶめ)、與七が寢屋(ねや)へゆく。與七、寢る事なし。あまり腹立ちければ、己(をの)が寢屋の柱に、この產女を繩にて縛りつけ置けり。
「姿やある。」
と翌日(あくるひ)見るに、血の付きたる繼ぎ切(きれ)なり。
やがては放(ほふ)らかすにも、絕えず、來たる。
餘所(よそ)へゆけば、跡慕(した)ふて行く。
臍繰り錢(ぜに)にて經讀み貰へども、更に驗(しるし)もなし。
いとゞ與七も空(うつ)け侍りしが、さる者の云ふやう、
「其男の𢌞(まは)しを、かの產女(うぶめ)の來るところに置けば、その後、來ぬと云ふぞ、さもせよかし。」
と云ふ。
「さらば。」
とて、下帶を窓に掛け置けり。其夜、來て、去りぬ。
翌日(あくるひ)見れば、窓に𢌞しなし。又、二度來たらずとなり。
是もまた故實か。
[やぶちゃん注:「うぶめ」「標題はこの通りの平仮名。本文のでは「產女」で「うぶめ」とルビする。さて「產女(うぶめ)」は古狸が産女に化けたという入子妖怪の偽物ながら、既に「宿直草卷三 第二 古狸を射る事」で出ている。但し、
このそれは、真正の産女であるからダブりではないし、その上、荻田自身の実際に鳴き声を聴き、親しく身近で著聞した実話として記している点で特異点である。
しかも、
本来の妖怪化する以前の亡くなった直後の産婦の亡霊と認知出来る様態で出現している点で、実は本家本元というか、妖怪でない真正の「うぶめ」という霊現象であることに着目しなければならない。
こうした死亡直後の妊婦の霊を妖怪「うぶめ」(冒頭の「産女となりて」に着目)として語るケースは必ずしも多いとは言えないからである。
何故、彼らは即座に妖怪化されねばならなかったのか、という疑問が私には永くあった。それは、恐らくは多量の〈異常出血の苦悶による死の惨たらしさ〉という視覚的事実以上に、
その〈恐るべき血の穢れ〉、
さらに、
母体の中の胎児という〈一人の体に魂が二つあるという異常な事態〉(古く出産以前の妊婦が隔離されるのはそうした非日常的異常性が何らかの邪悪なものを逆に招くとして恐れたからである)の中での、さらに〈二つの生命のシンクロした死というまがまがしい事態〉が、ことさらに強く忌避された結果
として、
彼らは幽霊という過程を経ずに、瞬時にして妖怪化するものと信じられたのかも知れないと私は考えている。
妖怪としての産女(「うぶめ」は「姑獲鳥」とも書く)は私の『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姬(3) 產女(うぶめ)』の私の注を参照されたい。
「寬永四年」一六二七年。家光の治世。荻田安静は生年が不詳で没年は寛文九(一六六九)年である。没年との差が四十二年もあり、以下の産女を見たい(実際には声のみを聴いた)という好奇心の発起などの叙述から見ると、荻田の十代末か二十代の雰囲気が漂うように私には思われる。
「予が里」荻田の出生地は不詳であるが、本書の版元が京のかの西村九郎右衛門であり、本書の各篇のロケーションから見ても、京阪かそのごく周縁と考えてよいと思われる。
「侲(わらはべ)」見かけぬ漢字であるが、大修館書店の「廣漢和辭典」によれば、この解字は「よく動きまわる元気な子ども」の意で、そこから「善い」「童」「馬飼い」の意味を持つ。
「夜の八つ」午前一時半から二時頃。
「呂(りよ)」「律」とともに雅楽の音階名。邦楽では声や楽器の「低音域」或いは「ある音に対して一オクターブ低い音」を指す。「乙(おつ)」とも呼ぶ。
「二聲」「ふたこゑ」と訓じておく。
「平調(ひようでう)」邦楽の十二律の一つで、基音である壱越(いちこつ)の音から三律目の音。洋楽のホ音(ミ)とほぼ同じ高さの音。但し、この音は雅楽の唐楽に於ける六調子の一つとしては「律呂(りつりよ)」の「律」(この場合は十二律の各音の中で陽(奇数番目)に当る六音を指す)に属するとされている。
「二間(けん)」三メートル六十四センチ弱。
「其聲の哀れさは、今も身に沁みてこそ侍れ」鳴き声が聴こえたのが、深夜であること、鳴き声及びその鳴き方に有意なインターバルがあること、哀れな荒涼とした感じを覚えたと荻田がはっきりと記していることなどを総合すると、これは梟(鳥綱フクロウ目フクロウ科フクロウ属
Strix)の鳴き声を誤認したものと考えてよいようには思われる。
「亡靈(まうれい)」原典の「靈」は、実はここ以外でもそうだが、異体略字の「㚑」に近い字を多く用いている。しかしこの字は私が生理的に非常に嫌いな字であるので正字で示してあることをこの場を借りて注しておく。
「名さへおかしき與七といふ者」与七という名は面白いのだろうか? 面白くない。普通である。或いは、以下の何となくどこか滑稽味を含ませた怪談話のネタ元は、実はこの「名さへおかしき」という不審な言葉にこそ隠されているのではあるまいか? 識者の御教授を乞う。
「血の付きたる繼ぎ切(きれ)」べっとりと血のついた継ぎ剝ぎした粗末な布の切れ端。与七のここでの前夜の経験は幻覚と片付け得ても、その凄惨な血糊の白布の布切れは、先の荻田が実際に聴いた産女の泣く声とともに異界が積極的物理的に現実を鮮やかに侵犯して来るキモの部分と言える。
「やがては放(ほふ)らかすにも、絶えず、來たる」「餘所(よそ)へゆけば、跡慕(した)ふて行く」血だらけになった亡き妻の恐るべき毎夜の来訪という〈非日常〉がどこにでもついてくるようになってしまい、夜の生活が靈とともにあることが〈日常化〉してしまった時、登場人物の与七自体が既にして怖がるどころか、霊との付き合いに飽きてしまって疲れ果てる時、怪奇談は怪奇でなくなり、読者の面白さを狙うだけの作り話となる。荻田は明らかにそれを確信犯でやっているのであるが、全体を自身の体験した怪奇実録という額縁にしている以上、これは怪奇筆録者として越えてはならない一線を越えてしまったものようにも見えてしまう(但し、最後の注を必ず参照)。これは現代の多くの都市伝説や心霊話でも同様で、私は霊が見えると称する霊能力者を全く馬鹿にするのは、彼らがまさに、しみじみとした素朴な怪奇現象を、カストリ雑誌の安物の退屈な喜劇的怪談へと変貌させてしまうだけの、徹底的に無能な戯作者に過ぎないからである。
「臍繰り錢(ぜに)にて經讀み貰へども、更に驗(しるし)もなし」もはやここまでいってしまっては後の落語みたようなものであることが明々白々である。荻田の確信犯である。
「空(うつ)け」気が抜けたようになってぼんやりする。
「𢌞(まは)し」「下帶」褌(ふんどし)。私はこれをただのお笑いネタとして笑って読み過ごすことが出来ない。或いは産後の肥立ちが悪く、若くして亡くなった(或いは子も一緒に)妻の霊が迷わぬようにするための呪具として、夫の性器を包んでいる褌が用いられることが古えにはあったのではないかという可能性を私は否定出来ないからである。いや、一見、下ネタの笑い話の古層には神代の豊饒に満ちた男女の交合のシンボルが隠されており、そこに大真面目に検証すべき意味があると私は考えているからである。私は柳田國男と折口信夫との間には民俗学研究の中では具体な性的要素は核心に至ることが明確でない物以外なるべく出さない、抑制しようという密約が出来ていたのではないかと実はずっと昔から疑っている。そのことに真っ先に気づいて柳田に痛烈に文句を言ったのが、かの南方熊楠であったのだ。
「故實」古くより言い伝えて来たお定まりのこと。それは用意には起原を探り得ないものも多い。或いは、好意的に考えるなら、鋭い荻田はこの一見、笑い話にしか見えない後半の近場の巷間に流行っていたあり得ない話の基底にこそ、そうした民俗習慣の古形の儀式の匂いを嗅ぎ分けていたのかも知れない。]
第十七 蛇(へび)をうむ女の事
河内若江の庄に、ある侍の妻、産をするに、取り上げ見れば、袋なり。中に數限りなき蛇、あり。
面(おも)なかりければ、湧きかへる湯にいれ、
「子は死したり。」
と云ふ。
その後、また、懷妊す。この度(たび)もまた如何あらんと、かねて案ずるに、果して右のごとし。これも深く包みけり。いかなる報ひぞやと人知れぬ泪、白玉か何ぞと人の問ふまで、せり。
歳月ほど經て、また、たゞならぬ身となりければ、婦(をんな)、うち泪ぐみて、年古き人に語りければ、老人(おいびと)のいはく、
「聊(いさゝ)か聞き侍る事あり。三輪の神の見入れし女は、蛇を産むもの也。御身、眉目(まみ)麗(うるは)し。此度(このたび)も、さあらん。隱すに依りて來たります。人の行きかふ巷(ちまた)に曝(さら)せ。高札立てゝ諸人(もろびと)に見せよ。重ねてはさあらじ。」
と云ふ。
案の如く、また袋を産みて蛇あり。やがて老人の教へのごとくす。
その後(のち)、まふけたる子は、親に似たる人にてぞありける。
かやうの事、聞き置くべきをや。又、故實なり。
ちはやふる神も願ひのある故に、人の情(なさけ)によりしかど、げにや、契りも恥づかしの、洩りて餘所(よそ)にも聞えしかば、通ふも今宵ばかりに思(おぼ)しけめ。宮居のしるしも過ぎし代(よ)ならで、今もかゝる事、はんべり。
[やぶちゃん注:これは二つ前の「第十五 狐、人の妻に通ふ事」で武士の妻が夫に化けた狐と四度交接し、四匹の狐の子を生む奇譚から隔世的に連関する。異類婚姻譚は数あれど、婦人が狐そっくりの子を四体まで産み、懐妊するつど、武士の奥方が袋状のものに入った無数の蛇を産むというのは、これ、他では滅多にお目にかかれぬ。そうしたかなり猟奇的新奇さで二匹目の泥鰌を狙った感は拭えない。にしても、先の話柄が妖狐の変身した贋夫との交接が四度行われ、四匹の狐様胎児を出産したという一応の、額縁としての物理的論理立てがなされているのに対し、こちらは三度の蛇玉出産に対応する三輪の神との神人交合が全く描かれていない(多分、夢の中なのであろうが)のが私には非常に不満である。
なお、中身が蛇というのを、髪の毛の塊りなどを誤認したものとするならば、医学的には「卵巣成熟嚢胞性奇形腫」で腑には落ちる。
「河内若江の庄」河内国若江郡。現在の大阪府河内市内の若江を冠する地名のある一帯。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「面(おも)なかりければ」奇怪にして、恥ずかしく面目ないことであったので。ちょっと気になるのは、この後の湧き返る熱湯に囊ごとつけて無数の蛇を殺して「子は死したり」と世間に言ったのは誰か、という点である。夫である武士が前の狐の話の時のように、産婆と口裏を合わせてかくしたというのが現実的ではあるが、そうして妻にも「子は死産だった」と告げて真相を言わなかったとすると、次の段落の二度目の蛇玉出産とその後の描写、及び三度目の懐妊と展開がうまく繫がらなくなってしまうからである。婦人には少々残酷であるが、一度目のそれで事実は妻に告げられたもの解してこそ、後がスムースに読めるのである。
「これも深く包みけり」今回も世間に対しては死産或いは流産として深く包み隠したのであった。
「いかなる報ひぞやと人知れぬ泪」ここが問題の箇所で、この涙を流すのはやはり妻自身でなくてはおかしいのである。そうして、事実は夫と産婆ぐらいしか知らぬから、他人は、「不幸にも二度も死産・流産であったとはいえ、かの御夫人がそれを気に病むことはなかろう……おや? 御夫人、お美しいそのお顔に光っておりますのは何でしょう? 光る白玉か何かがお顔にくっついつおられますよ。」などと不思議がるのである。婦人が人に言えぬ忌まわしい出産の秘密に、隠れて悲哀の涙にくれていることを夢にも知らぬ人々には、まさか、それが激しい絶望的な悲しみから落ちる涙の「玉」であるとは、とてものことに思い至らぬのである。
「三輪の神」、奈良県桜井市にある三輪山(標高四六七・一メートル)の神。記紀には最も古い伝承の一つとして三輪山の大物主神(おおものぬしのかみ)の伝説が載る。それは活玉依姫(いくたまよりびめ)という美しい娘の元に夜な夜な男が訪れ、遂に姫は身籠る。男性の正体が判らなかったことから、着物の裾に麻糸の附いた針を刺してその跡を辿ることとした。翌朝、麻糸は戸の鍵穴を通り抜けて、三輪山の大物主神の社に留まっていた(この時、麻糸が三巻分、残っていたことからこの地を「三輪」と名づけたともされる)という話であるが、大物主は一般に豊穣・疫病除・醸造などの神として篤い信仰を集め、穀物を食害する鼠を捕食する蛇は太古の昔より五穀豊穣の象徴とされてきたことから蛇体の神とされ、同様に稲作に不可欠な治水を司る水神としては龍体の神ともされた。
「隱すに依りて來たります。人の行きかふ巷(ちまた)に曝(さら)せ。高札立てゝ諸人に見せよ。重ねてはさあらじ」というこの個別な呪法が、如何なる意味合いによって説明されるのかは私は不学にして判らぬが、現在でも出産した奇形児を神の託宣のシンボルとして崇める習俗は世界の一部に根強く残っているし、生まれたということを暴露し公言する(言上げする)ことによって、「ハレ」の「蛇玉」自動再生システムが停止し、この婦人が「ケ」たる現実の日常の時空に帰還出来、正常な美しい子を生む、という構造も、世界中の神話や民話の古層に残る原形的パターンであるとは言える。そうした核心の作用や理由は人知を越えているのであるが、しかし確かにそのようなことは安全で平和な状態を取り戻したり、維持したりするのに不可欠な「故實」(お定まりのこと)なのであるし、そのような「事」は総てを解明出来なくとも厳然たる事実として存在するのであり、いいかげんに聞き流してしまってはいけない、しっかりと「聞き置くべき」、子孫に永く伝えるべき一件なのである、と筆者は言っているのであろう。但し、最終部分は、それを、人間に引き下げて敢えて洒落て言おうとした結果、「ちはやふる神も」「願ひのある」存在らしい、だから「人の情(なさけ)に惹かれてついつい「より」(寄る/憑る)ついてきてしまったけれど、「げにや契りも恥づかしの」(いやはや、恥ずかしい密やかな交わりをすれば、神であってもお恥ずかしや、相応なる子をも出来てしまう)、それが「洩」れて世間に知れ渡ってしまって神さまも流石に恥ずかしくなり、「通ふも今宵ばかりに」こそ「思(おぼ)しけめ」なんどとやらかした結果、またまた話柄のホラー・リアリズムがすっかり殺ぎ落とされてしまった感がある。
「宮居のしるしも過ぎし代ならで、今もかゝる事、はんべり」神が我々人間にお示しになられる諸々のことは、必ずしも神々が生き生きとあった過ぎた御世だけのことではなく、今のこの現代にも、こうした不思議なことは往々にしてあることなのであるということをよく理解しておくべきである。]
第十六 智ありても畜生は淺ましき事
京大佛に牢人あり。ある時、狐を釣り初(そ)めて、數々獲りけり。一の橋、今熊野(いまぐまの)、法性寺(ほつしやうじ)の邊(ほと)り、大方(おほかた)輪繩(わな)かけぬ所なし。
此(この)邊(あた)りに毛色も變はる老(おひ)の狐あり。輪繩の餌(え)に焦がるれども合點(がてん)して、かゝらず、合點しても、又、寄る。何(いづ)れ堪(こら)へ兼ねたる躰(てい)には見えたり。牢人も、たびたびなれば、此狐を見知りて、
「何時(いつ)ぞは釣らん。」
と思ひ、輪繩、止(や)まずも、かけたり。
また其比、大佛の在家(ざいけ)に端(はし)少し借りて學問をする台家(たいけ)の僧あり。此人、ある深更に帙(ちつ)を開き、見臺(けんだい)にして博覽するに、
「ぞ。」
と怖くなる。やがて火影(ほかげ)に顧みれば、綿帽子(わたぼし)、被(かぶ)れる婆(ばば)あり。
不思議に思ひ、
「何者ぞ。」
と云へば、
「我は此邊りに住む狐にてさふらふが、賴みたきいはれさふらひて參りたり。」
と云ふ。僧、聞(きき)て、
「如何なる事ぞ。」
と云へば、狐の云(いはく)、
「御僧の知り給ふ、その牢人有(あり)て、輪繩をかけて、我(わが)眷屬、大方(おほかた)、釣り、我のみ、殘れり。知らず、我もまた、何時(いつ)か釣られん。願はくは、御僧、戒めて、輪繩かけぬやうに聞かせ給へ。然らば、我(わが)覺え候通りの學問、大小乘ともに、御僧に悟(さと)さしめん。此約束せんために參りたり。」
と云ふ。
僧、聞きて、
「易き事なり。輪繩の事は、我(われ)、切(せち)に止(と)めなん。さて、訝しきは、輪繩にはかゝる物と知らば、如何(いか)で其心にてかゝらぬやうにせざる。我を賴むまでなし。愚かにこそ侍れ。」
と云ふ。狐の云はく、
「我も、今の心にては、さこそは思ひさふらへ。餌(え)を見て堪(こら)へ難く、其時になりて迷ふが、畜生の淺ましき性(しやう)なり。三才(さんさい)の最靈(さいれい)、萬物(ばんぶつ)の最長(さいちやう)たる人の身は、その心、保(たも)ちあり。我に於ゐて、保たれず。」
と云ふ。
僧の云はく、
「然(しか)らば、汝、大小乘の渉獵(しやうれう)、我、曾て信(しん)なし。鳴呼(おこ)がましく覺ゆれ。」
と云ふ。狐の云はく、
「尤(もつとも)なり。我、昔、僧たりし時、學べり。僻解(へきげ)にして此身を受く。爾(しか)はあれど、智は、これ、萬代(ばんだい)の寶(たから)、八識不忘(はつしきふまう)の田地(でんぢ)に納(おさ)む。師、訝しくは、試みに問へ。」
と云ふ。
僧、やがて、金胎兩部(こんたいりやうぶ)の極致(ごくち)、三諦圓融(さんたいゑんゆう)の妙理を問ふに、果して台密(たいみつ)の極談(ごくだん)、その辨(べん)、懸河(けんが)なり。
僧の云はく、
「其智を以つて、などか、その身を受けしや。」
狐の云(いはく)、
「我、法體精修(ほうたいしやうしゆ)の遑(いとま)、智ありて、德なし。故(かゝるゆへ)に此身を受く。今、はた、家家(けけ)の比丘、智、有共(ありとも)、寧(むしろ)、德、無くんば、皆、野狐性(やこしやう)なり。」
僧の云はく、
「智と德と別(べち)なりや。」
狐の云はく、
「亦離亦合(やくりやくがう)、間(ま)に髮(はつ)を入れずして、また更に、呉越を隔つ。これ、我が悞領(ごれう)。あゝ、それ、察せよ。」
と云ふ。
僧の云(いはく)、
「世に、また、汝が如き人、多きや。」
と云ふ。狐の云(いはく)、
「道、多岐(たぎ)にして、羊を失ふ。誤まる人、それ、雲のごとく、霞に似たり。」
と云ふ。僧、驚きて已(や)む。
「明(あけ)なば、輪繩止(や)めしめ給へ。」
とて、狐は諾(だく)して去りけり。
僧、翌日、かの牢人の許(がり)行くに、外(ほか)へ出(いづ)る。
またの日、行かんとするに、僧の旅屋(たびや)に客あり。
その亞(つぐ)の日、行きて牢人に語る。
牢人、聞きて、
「それは。昨夜(ゆふべ)、釣りたり。年頃かゝり難(がた)かりしが、さては御袖まで約束し、『輪繩は早や無し』と心緩(こころゆ)りて、かゝりつらん。」
と云ふ。僧、
「さては。我、殺したり。」
と、泪(なみだ)流し、呆れて歸りしなり。近き事とや。
思ふに、この狐は、隔僧則忘(きやくしやうそくまう)を逃がれり。その上(かみ)、尊(たと)き階位か。
また、世はもとしのび、此話に付(つけ)、百丈師(ひやくぢやうし)を思へり。
「火影(ほかげ)の夜話(やわ)に、など、此僧、教化せざるや。甲斐なきばかり本意(ほい)なし。」
と云へば、意(こゝろ)、答へて云はく、
「釣られたる時、幻滅ならんか。」
と。我、無訶有(むかゆう)の郷(さと)に高枕(かうしん)す。
[やぶちゃん注:妖狐譚連投。狐ではないが、狸の設定で非常に良く似た内容が後半で語られる、私の好きな一篇『「想山著聞奇集 卷の四」「古狸、人に化て來る事 幷、非業の死を知て遁れ避ざる事」』を私は既に電子化注している。未読の方は是非、読まれたい。
「京大佛」「大佛」は京都の地域通称。岩波文庫版の高田氏の注には『東山山麓より鴨川まで』を指し、天正一四(一五八六)年に『秀吉が天台宗方広寺を建立してからの呼称』とある。方広寺大仏の建立経緯と消失については、ウィキの「方広寺」を参照されたい。方広寺と東山(方広寺の東北)、ここで言う「大仏」地区を含むと推定される地域をグーグル・マップ・データで示しておいた。
「牢人」浪人。
「一の橋」現在の東山区の本町通に掛かっていた橋。東山泉小中学校西学舎のグラウンドに移築されて残る。この中央付近か(グーグル・マップ・データ。「一橋宮ノ内町」「一橋野本町」の名が残る。方広寺の南西直近である。示した地図のポイントは東山泉小中学校西学舎)。
「今熊野(いまぐまの)」「一つ橋」の南東直近の現在の新熊野(いまくまの)神社や今熊野(いまくまの)観音寺のある一帯の呼称。現在も町名の頭に「今熊野」を冠する地名が複数残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。現行は清音。
「法性寺(ほつしやうじ)現在の東山区本町にある浄土宗大悲山法性寺附近(この寺は後身であって本来の法性寺ではない)。岩波文庫版の高田氏の注には『藤原氏寺。伏見街道から東山山麓の広大な地域を占めていたが応仁の乱で亡び、耕地化した』とある。今熊野の南直近附近。現在の法性寺はここ(グーグル・マップ・データ)。この話柄内時制は方広寺大仏が存在した安土桃山時代まで遡らせる必要はなく、以上の地域に狐が多数棲息していたというのであるから、江戸初期設定で問題はないように思われる。
「輪繩(わな)」(足)くくり罠。狐が餌に誘われて踏み込んだとたんに脚部が輪状の繩で絞められるタイプのもの。
「大佛の在家(ざいけ)」方広寺のある辺りの民屋の意。
「台家(たいけ)」天台宗。なお、天台宗の「台」は「臺」とは別字なので注意されたい。
「見臺(けんだい)にして」書見台に置いて。
「綿帽子(わたぼし)、被(かぶ)れる婆(ばば)あり」何故、こんな恰好に化けて出て来るのであろう。狐の嫁入りの映像的パロディを狙ったものか?
「いはれ」「謂れ」。理由。わけ。
「大小乘」大乗仏教及び小乗仏教の全教学の奥義。
「三才(さい)」天・地・人(三極(さんきょく)・三儀)で宇宙の万物の意。
「最靈(さいれい)」最も優れた霊魂を持つ存在である。
「渉獵(しやうれう)」ここは広汎の智を捜し求めて無数の経典を漁(あさ)り読むことによって得た仏法の奥義。
「我、曾て信(しん)なし」その謂いを受けては、いっかな、拙者にはそなたの申すことに信を持つことが出来ぬ。
「鳴呼(おこ)がましく覺ゆれ」差し出がましいだけでなく、全く以って馬鹿げた申しようとしか感じられぬ。
「僻解(へきげ)」岩波文庫版の高田氏の注には『自分勝手で偏った理解』とある。「びゃくげ」とも読む。似た熟語に「僻見」(公平でない偏った見解・偏見)がある。
「八識不忘(はつしきふまう)の田地(でんぢ)に納(おさ)む」岩波文庫版の高田氏の注に、『唯識大乗の見地から、小乗仏教を合せて、人間の持つ八種の悟性をいう。「田地」はそれを納める心』の意、とある。八識(「識」は純粋な精神作用を指す)は四世紀のインドで興った瑜伽行唯識学派によって立てられたもので、眼識(げんしき)・耳(に)識・鼻(び)識・舌(ぜつ)識・身(しん)識(皮膚感覚認識)・意識(以上の生理的外界認知器官による五感の前五識と区別される第六番目の「識」。「心」或いは所謂「第六感」と捉えて問題はあるまい)・末那識(まなしき:意識の深層で働く自我執著の意識・心)・阿頼耶識(あらやしき:宇宙万有の展開(生成と消滅)の根源とされる心の最奥にある真理主体。万有を保って失わないところから「無没(むもつ)識」、万有を蔵するところから蔵識、万有発生の種子(しゅじ)を蔵するところから「種子識」とも称する)を指す。
「訝しくは」「訝(いぶか)しくば」。
「金胎兩部(こんたいりやうぶ)」真言密教の教主である、宇宙の実相を仏格化した根本仏である大日如来の真実相を二つの側面から表わしたもの(もともと一切の現実の経験世界の現象はこの如来そのものであるとされる)。金剛界(大日如来を智慧の面から表わした世界観。如来の智徳は如何なるものよりも堅固で、総ての煩悩を打ち砕くことに由来する名とされる)と胎蔵界(大日如来を本来的な悟りである理性(りしょう)の面から表わした世界観。理性が胎児の如く慈悲に包まれて育まれてあることからの名とされる)。
「三諦圓融(さんたいゑんゆう)」岩波文庫版の高田氏の注には『天台に説く』思想で、『「諦」は真理の意で空・仮・中三諦に解釈されるが、本来』、『真実としては区別がなく絶対的同一であること』を言う語とある。「三諦」の空諦・仮諦・中諦はこちらで既注。
「極談(ごくだん)」極意。
「辨(べん)」論説・主張。
「懸河(けんが)なり」「懸河」は傾斜が急で流れが速い川の意であるが、「懸河の弁」(「晋書」の「郭象傳」が典拠とされる)で「奔流のように澱みなく話し語ること・雄弁」に譬える。岩波文庫版の高田氏の注には『とどこおることなく、すらすらと語った』とある。
「その身」輪廻転生で受けた狐という畜生の身。
「法體精修(ほうたいしやうしゆ)」僧侶として修行と教学の習得に精勤すること。
「遑(いとま)」ほっと気を抜いた折り、ぐらいの意味であろう。その時に「僻解」や慢心が、完成された「仁」を持たない、即ち、あるべき人徳がなかった彼の意識を致命的に侵犯してしまったというのである。
「野狐性(やこしやう)」禅で言うところの「野狐禅(やこぜん)」と同義。ウィキの「野狐禅」によれば、『「仏法は無我にて候」として真実の仏陀は自我を空じた無我のところに自覚体認されるはずのものなのに、徒(いたずら)に未証已証』(みしょういしょう:未だ証していないのに既に証覚を得た認識してしまうこと)という『独り善がりの』誤った理解を正統と誤認することを指す。なお、後で注する中でリンクした淵藪野狐禪師訳注「無門關 二 百丈野狐」も参照のこと。「野狐禅」の出典はそれであるからである。
「亦離亦合(やくりやくがう)」岩波文庫版の高田氏の注には『つかずはなれず、の意』とある。教学でしばしば用いられる語である。
「間(ま)に髮(はつ)を入れず」「間(かん)、髪(はつ)を容(い)れず」。「説苑 (ぜいえん)」の「正諫(せいかん)」が典拠。間に髪の毛一本も入れる余地がない意で、少しの時間も挟まぬさま。「かんぱつ」と続けるのも破裂音にするのも孰れも誤りであるので注意されたい。
「呉越を隔つ」岩波文庫版の高田氏の注に、『極めて相容れ難いこと』とある。
「悞領(ごれう)」致命的に誤まっての了解すること。「悞」は「誤」と同義。
「道、多岐(たぎ)にして、羊を失ふ」「亡羊(ぼうよう)の歎(たん)」。学問の道はあまりに広汎にして多岐に亙っているために、容易に真理を捉えることが出来ないことの譬え。「列子」の「説符」の「第八 二十四」に基づく。頭の当該事実部分のみを引いておく。
*
楊子之鄰人亡羊、既率其黨、又請楊子之豎追之、楊子曰、嘻亡一羊、何追者之衆、鄰人曰、多岐路、既反、問獲羊乎、曰亡之矣、曰奚亡之、曰岐路之中又有岐焉、吾不知所之、所以反也。
*
楊子[やぶちゃん注:楊朱。春秋戦国時代の思想家で個人主義的な思想である為我説(自愛説)を主張した。老子の弟子と伝える。]の鄰人、羊を亡ふ。既に其の黨(なkま)を率(ひき)ゐ、又た楊子の豎(じゆ)[やぶちゃん注:小僧。若い下僕。]を請ひて之を追ふ。楊子曰く、
「嘻(あゝ)、一羊を亡へるに、何ぞ追ふ者の衆(おお)きや。」
と。鄰人曰く、
「岐路多し。」
と。既に反(かへ)る。問ふ、
「羊を獲たるか。」
と。曰く、
「之を亡ふ。」
と。曰く、
「奚(なん)ぞ之を亡へる。」
と。曰く、
「岐路の中に、又、岐(き)有り。吾(われ)、之(ゆ)く所を知らず、反る所以なり。」
と。
*
「隔僧則忘(きやくしやうそくまう)」「隔生則忘」の誤り。「隔生即忘」とも書く。人が輪廻転生して、再びこの世に生まれ変わる際には、前世のことはその一切を忘れ去っていることを指す。
「世はもとしのび」意味不明。「予は本偲び」で、「私は(この話を聞いて、その)本(質的な部分から)偲ばれるところ(の話があった)」として以下に続くか? 識者の御教授を乞う。
「百丈師(ひやくぢやうし)」唐代の優れた禅僧百丈懐海(ひゃくじょうえかい 七四九年~八一四年)。西山慧照の下で出家、南嶽の法朝律師より具足戒を受けて広く仏教を学び、馬祖大師に参じてその法嗣となった。江西省の大雄山(「百丈山」とも呼ぶ)に大智寿聖寺(だいちじゅしょうじ:「百丈寺」とも呼ぶ)を建立、禅風を鼓吹し、かの黄檗希運など多くの弟子を育てた。ここはしかし、百丈和尚に纏わる最も有名な公案の一つで私の大好きな「百丈野狐」のことを指している。幸い、私の古い仕儀、淵藪野狐禪師訳注「無門關 二 百丈野狐」で電子化しているので、是非、参照されたい。なお、淵藪野狐禪師訳注「無門關」はその全篇をサイトでも公開している。
「火影(ほかげ)の夜話(やわ)に、など、此僧、教化せざるや。甲斐なきばかり本意(ほい)なし。」筆者は、妖狐がやって来た際に、その燈明の光りの射す永い夜話し(狐は大乗小乗の奥義を語ったのだから相当に時を尽くしたはずである)の中で、どうしてこの僧はその妖狐を教化(きょうげ)してやり、その場で直ちに救ってやらなかったのか?! と僧の方を強く純理性的に批判しているのである。翌日、浪人の所へ行こうとしたが、何故か外の所へ行ってしまったこと(用があったかなかったさえも述べていない)、次の日は客があったから行かなかったこと(遅くなっても、或いは、中座しても行くことは出来た。そもそもがだ! 彼の住まいと浪人の居所は方広寺のそばでごく近いのである!)など、どうみても、この坊主、ダメでしょう! 「さては。我、殺したり。」と慚愧の念に襲われて当たり前田のクラッカーやん!!!
「意(こゝろ)」先の「識」ではないが、かくも筆者の「智」の意識の表層では批判していたのだが、より心の深層に於いては、の意であろう。但し、これは公案の答え方や書法に似ているように思われ、先の「無門關」に見るような公案への答え或いは「頌」に当たるようなものとも考え得る。
「釣られたる時、幻滅ならんか。」「浪人に捕えられたその瞬間に、煩悩も執着の何もかも消滅したのではあるまいか。」。
「無訶有(むかゆう)の郷(さと)」一般には「無何有(むかう)の郷」と表記してかく読む。読みは「むかゆう」でも誤りではない。「荘子」の「應帝王篇」に由来する語で、「自然のままであって何の人為も加わらない理想郷(ユートピア)のこと。ここはただ楽しい夢を見る安眠の譬えでしかない。
「高枕(かうしん)す」岩波文庫版の高田氏の注に『熟睡した』とある。]
第十五 狐、人の妻に通ふ事
[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。清拭し、上下左右の枠も除去した。――縊り殺された四人の子らのために――]
中川何某とて、攝州茨木(いばらき)の城主なり。此殿、京に月越(こし)て逗留し給ふ。その供のうち、去(さる)人、ある夜、茨木に歸り、我妻の臥(ふす)扉(とぼそ)を叩く。妻、咎めて、
「誰(た)そや誰(た)そ。夫(おつと)もあらぬ閨(ねや)近く、折り知り顏(がほ)なる淺ましさ、余所(よそ)にも夢や破りなん。主(ぬし)ある園(その)の呉竹の、一よとてしも寢さゝれず、後(のち)に憂目(うきめ)を見給ひて、恨みを我に得給ふな。許さば歸れ、とくとく。」
と、こちたくも聞えければ、
「いやとよ、馴れぬ中ならば、いかで妻戸まで忍ばん。とかく云へば程も移り、餘所(よそ)にも人の咎(とが)めんに。早(は)や、開け給へ。」
と、いらなく、かこつ。
其聲、わが夫なれば、あやなくも戸を開(ひら)きしに、
「さてさて、逢ふ事の絶へてし程もなけれども、男鹿(をしか)の角(つの)の束(つか)の間(ま)も、ゆかしきにのみ過(すぐ)すぞや。露(つゆ)離(はな)るべきになけれども、宮仕(みやづがふ)身は力(ちから)なし。今日(けふ)しも戀しさまさりければ、忍びてかくは下りしなり。又、夜を籠(こ)めて歸らんに、傾(かたふ)き給へ。」
とかき口説(くど)けば、妻、聞きて、
「年頃日頃、たゞ舊(ふる)さるゝ身と思ひしに、さては左樣に思し召すぞや。難波(なには)の蘆(あし)の假初(かりそ)めに、馴れし袂(たもと)の色添ひて、露の起き臥し淺からぬ、安積(あさか)の沼の花かつみ、且つ添ふ袖の忘られで、振分髮もくらべ來し、ともに月日も瀧津瀨(たきつせ)の、深き契(ちぎ)りの嬉しも。」
と傾(かたふ)き、枕に寄りて、程もなきに、夫、
「最早、歸らん。さるにても不破の關屋の月ならで、洩らさで濟ませ。」
と云ひ捨てゝ、また明方(あけがた)に京へ上(のぼ)る。
一月のうち、四度まで通へり。
妻、けしからず思ひければ、
「阿漕(あこぎ)が浦のならひにも、いと暗き君かな。やがて殿の御供にて、下(くだ)り給ふも遠からず。誰(たれ)も思ひは變らねど、忍ぶ山のしのぶ草、ねなくはいかで色にい出でん。思ひきる瀨(せ)の網代木(あじろぎ)は、現はれわたる事もなし。いかでかくは通ひ給ふ。思ひきるにこそ、中々、恨みは解(と)けてまし。」
と云へば、夫も、今は言葉なし。
「最早、通はざらまし。後ろ髮引く妹背(いもせ)の道、面(おも)なくこそさふらへ。重ねても此事を我に向ひて云ひ給ふな。さらば。」
とて出で去りぬ。
さて、時分なれば御供にて、その後(のち)、歸りしかども、珍しきさゝめごとのみ、四度(よたび)の契(ちぎ)りは云はで過(すぎ)けり。
その月より、たゞならぬ身となりて、月十(とを)に滿ちければ産(さん)の氣(け)あり。介錯(かいしやく)する者も來て取り上げ見れば、鼬(いたち)のごとし。
「こはいかに。」
と見るに、また、ひとつ、産む。
これも毛ありて四足(しそく)の物なり。
後に、また、ふたつ、産(うめ)る。
以上、四つながら、同じ。
密(ひそ)かによく見れば、狐なり。
かの介錯の姥(うば)に心を合はせ、皆、ひねり殺して、
「子は逸(そ)れたり。」
と披露す。
よくよく思ひ合はすれば、かの留主(るす)のうち、四度(よたび)通ひしは狐の化けたる也。
されば女の身は大事の事なり。今、思ひいづみの信田(しのだ)の契(ちぎり)、それは男を慕ひ、これは女に契る。品(しな)はとりどりなれど、口惜しさは一つなり。「名山(めいさんき)記」に、『先古(いにしへ)婬婦あり。名を紫(し)といふ。化(け)して狐となる』と書(かけ)り。字書(じしよ)には『其姓(じやう)、化けてまた賢し』となり。
[やぶちゃん注:異類婚姻譚は珍しくなく、特に狐と人との間に子が出来るという伝承は大陸や本邦に非常に多いが、ここでは四つの生命体を産み、それが悉く人形(ひとがた)を示さない四足獣であったというところが、まず例を見ないキョウレツな特異点である。
「中川何某とて、攝州茨木(いばらき)の城主なり」「茨木」は現在の大阪府茨木市。ここ(グーグル・マップ・データ)。本書には何度もこの地名が出る。そこから推測するに、京の荻田はここに親しい親族か知人がいたのではないかと思わせる節がある(因みに江戸時代の茨木は幕府の天領であった)。ここで「城主」を「中川」とするところから、本話柄は江戸時代ではなく、織豊時代であることが判る。最初に中川氏として正式な茨木城主となったのは中川清秀(天文一一(一五四二)年~天正一一(一五八三)年:キリシタン大名高山右近は従兄弟に当たる)で、天正五(一五七七)年のことであった。清秀が正式に茨木城主となった。翌天正六年七月、縁故のあった荒木村重が織田信長に謀反を起こし、清秀は当初、村重方についたものの、同年十月二十八日に信長の調略によって茨木城を開城、織田軍に寝返っている。天正十年の本能寺の変後は豊臣秀吉に仕えていたが、翌年四月、賤ヶ岳の戦いで戦死した。嫡男中川秀政が後を継いだが、その三年後の天正一四(一五八六)年に秀政は数々の功績が認められて播磨三木城へ移封、その後、茨木の地は秀吉の直轄地となった(因みにその後、元和二(一六一六)年、江戸幕府の「一国一城令」によって茨木城は廃城となった。以上はウィキの「茨木城」に拠った)。以上から考えると、天正五(一五七七)年~天正一四(一五八六)年の九年の閉区間が話柄内時制ということになり、「中川何某」は中川清秀か息子秀政の孰れかであることとなる。なお、今までの「宿直草」の話柄が概ね江戸初期の設定と思われるものであったものが、この話柄内時制はそれより少し遡っている点で一つの特異点とも言える。
「折り知り顏(がほ)なる」そうした事情(夫が留守であること)を知った上で夜這いしてきた感じをあからさまにさせて。
「余所(よそ)にも夢や破りなん」そうでなくても、心地よい眠り(の中で見ていた夢)を無惨に破った。
「主(ぬし)ある園(その)」自分を夫の屋敷内の奥の「園」(庭)に喩え、そこに植わっている「呉竹」(淡竹:既出既注)を引き出し、さらにその「竹」から「一よ」(一節(ひとよ))を引き出して「一夜」に掛けた。
「寢さゝれず」夜這いをしたのに伴寝をいっかな許してくれなかったと。
「許さば歸れ、とくとく」「このように非礼な振舞いを武士の妻に仕掛けたことは理不尽極まりないものの、許してやるから、さっさと帰れ! さあ! さっさと!」。但し、だったら正しくは「許せば」である。
「こちたく」如何にも大袈裟に。
「聞えければ」相手に申し上げたところ。謙譲語であるが、「こちたく」と上手く合わないので、「言ったところ」と訳してよかろう。
「馴れぬ中」普段から何の「仲」でもない無関係な者であったなら。
「いかで妻戸まで忍ばん」反語。「どうしてこのように奥向きの閨の妻戸(一般に部屋の端(つま)に設けた両開きの板戸)にまで忍び入ることが出来ようか、いや、出来ようはずがあるまいよ。」で、暗に自分が夫であることを示す台詞となっている。
「とかく云へば程も移り、餘所(よそ)にも人の咎(とが)めんに」「ともかくもまあ、こんなことを言っているうちに無駄に時間が経ってしまい、また、家内の下男らにもこの問答の声が聴こえてしまって、用心に起きてきた者に咎められてしまうに。」。
「いらなく、かこつ」(小さな声ではあるが)きっぱりと強く、恨み言を言って歎く。
「あやなくも」訳が分からぬながらも。夫は有意に離れた京に主君とともに長期に出張しているはずで、この時は未だ返ってくる時期ではなかったから、あり得ないこととして不審がってはいるのである。しかし、その不審を既に夫に変じた雄の妖狐は予測していたのである。そうして直前の台詞「餘所にも人の咎めんに」がまっこと、効果絶大なのである。オレオレ詐欺の撃退ではないが、ここで妻戸を開けずに、その不審をさらに糾弾し、彼女と夫しか知らない事実などを以って本当の夫かどうかを確認したとならば、この悲劇は避けられたかも知れぬのである。
「男鹿(をしか)の角(つの)の束(つか)の間(ま)も」「束の間」の頭音「つ」或いは女鹿を獲得するために「男鹿」が「角」を「突(つ)」き合わすの「つ」を引き出すための序詞的用法。
「ゆかしき」見たくて・逢いたくて・心惹かれて・慕われて・懐かしくて。
「露(つゆ)」副詞であるが、ここは「少し」「わずか」の意味ではなく、逆の「ひどく」「非常に長く、遠く」の謂いであろう。但し、それは正常な使い方ではない。
「傾(かたふ)き給へ」岩波文庫版の高田氏の注に、『傾き給え。身を許して下さい』とある。ほぼダイレクトにセックスしようと言っているのである。そう考えると、フロイト的には、前の「男鹿」が女鹿を獲得するために「角」を「突(つ)」き合わすのも性行為に至るための必須過程であり、角を「突く」という行動や、その角の形状や色自体がコイツスの或いはファルスのシンボルっぽくも見えてくるのである。
「たゞ舊(ふる)さるゝ身と思ひしに」ただもう、私は貴方から見飽きられ抱き飽きられた古女房の身と自分のことを思っておりましたが。
「難波(なには)の蘆(あし)の假初(かりそ)めに」迂遠な序詞。「かりそめ」の「初め」は「染め」を掛けて下の「色」と縁語となる。迂遠でめんどくさい台詞である。「かりそめに色を添ひて」(あなたへの慕わしい思い故にちょっとばかりぽっと心に色がさし)、「つゆ」(ちょっとした)日常(「起き臥し」)でも貴方のことを忘れないほど深く思いつめて(「淺からぬ」)といったニュアンスか。こういう修辞は説明してもちっとも面白くない。面白くないばかりでなく、台詞自体に込められてあるはずのしみじみとした心情が逆に軽くなってしまって、「お前さん、本当にそう思ってんのかい?!」とツッコミたくなる。私が和歌嫌いなのはそうした心情と表現の絶望的な乖離にある。
「安積(あさか)の沼の花かつみ」「安積の沼」は歌枕。「花かつみ」は現在では正体不詳の花の名。藤原実方の故事に基づく。説明しても労多くして功少なき忌まわしい「且つ」を引き出す序詞であるからやめる。そうだな、よく判らない方は、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅21 早苗とる手もとや昔しのぶ摺』の私の注で説明してあるから参照されたい。
「添ふ袖の忘られで、振分髮もくらべ來し」荻田が大好きで今までも何度もかがさせられてきた「伊勢物語」の「筒井筒」のインスパイア。
「瀧津瀨(たきつせ)の」枕詞。岩波文庫版の高田氏の注に、『遠く過ぎて。「深き」にかかる』とある。「たぎつせ」とも。「つ」は「の」の意の上代の格助詞。「瀧のように水は激しく流れる早瀬」或いは「滝」が原義。
「不破の關屋の月ならで」「不破の關屋」といったらもう「新古今和歌集」の藤原良経の私の好きな荒涼たるリアリズムの一首、
人住まぬ不破の關屋の板廂(いたびさし)荒れにしのちはただ秋の風
なのだが、「月」はないし、意味も通らぬ。これは実は阿仏尼の「十六夜日記」に載る、鎌倉に向かう彼女が実際に見た実景歌の一首を指す。
*
不破の關屋の板廂は今も變はらざりけり。
ひまおほき不破の關屋はこのほどの時雨も月もいかに漏(も)るらむ
*
でその下の句の「漏る」から次の台詞に繋がるのである。
「洩らさで濟ませ」岩波文庫版の高田氏の注に、『人には洩らすな』とある。
「けしからず」普通でなく、不都合でもあること。主君に従って京に行っている者が一ヶ月に四度も勤務地を離れて深夜に戻ってくるというのはとんでもないことであることは言を俟たぬ。
「阿漕(あこぎ)が浦のならひ」岩波文庫版の高田氏の注に、『伊勢の禁漁地でたびたび密漁をして捕えられた漁師の伝説から、たび重なって広く知れ渡ること。「いせの海阿漕が浦ににひく綱もたびかさなれば顕はれにけり(謡曲『阿漕』)』とある。その漁師の名が「阿漕の平次(或いは平治)」であったともされるが、現在はその殺生禁断の禁漁域であった海辺が(三重県津市)「阿漕が浦」という名で残っている。また、彼が密漁した理由は病弱な母に薬餌として食べさせるためであったともされており、阿漕は阿漕な輩では実はない。
「忍ぶ山のしのぶ草、ねなくはいかで色にい出でん」「忍ぶ山」はここでは「忍ぶ草」を引き出してその「ね」「根」に「寢」を掛けて、月に四度も「寝ずにやってきては関係を持ち、翌朝、そのまま職務に就くというのでは、これ、その疲れた顔色が朋輩や主君の目にとまって不審がられる」という謂いになっているのであるが、しかし、ここには話柄の主調への隠された伏線がある。「忍ぶ山」は「信夫山」で現在の福島県福島市の中心市街地北部にある山で草による染色法「しのぶ摺」で知られる。これはやはり私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅21 早苗とる手もとや昔しのぶ摺』の私の注を参照されたいが、実はこの「信夫山」は御坊狐といわれる人を化かすのが得意な狐が棲んでいるところとして有名なのである。他にもこの近辺には長次郎狐・鴨左衛門狐がおり、この三匹を合わせて「信夫の三狐」と呼ぶぐらいに知られた妖狐の産地なのである。
「思ひきる」原典は「きる」であるが、岩波文庫版では『霧(き)る』となっている。これは次の「網代木」の原拠を匂わすためである。秘かに私(妻)に逢いに来るのを断念して呉れたなら。
「瀨(せ)の網代木(あじろぎ)」中納言定頼の「千載和歌集」の「卷第六 冬歌」(四一九番歌)で「小倉百人一首」の六十四番にも載る。
宇治にまかりて侍りけるときよめる
朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらはれわたる瀨々(せぜ)の網代木
を元にしている。「現はれ亙る」の意で、ここはそれを「皆に知れ渡る」の意で掛けているのである。
「思ひきるにこそ、中々、恨みは解(と)けてまし」(私に逢いたい一念のそのお気持ちは心底嬉しいものの)ここはその思いを断ち切ることこそが、実に実に、より恐ろしい災厄を貴方が被るかも知れぬという心配・心痛・懼れ(「恨み」)を無くして呉れることで御座いますのに。
「面(おも)なく」武士として何とも恥ずかしく面目なく。
「重ねても此事を我に向ひて云ひ給ふな」さればこそ(男としてめめしく面映ゆく面目ないことであるからこそ)二度とこのこと(秘かに四度里へ戻って妻を抱いては京へ帰った総ての事実とそこで二人で応答した以上の内容総て)を私に向かって言わないおくれ。
「珍しきさゝめごとのみ、四度(よたび)の契(ちぎ)りは云はで過(すぎ)けり」底本も岩波文庫版も、「珍しきさゝめごとのみ。」と句点を打つのだが、それでは、意味が採れないので、読点とした。岩波文庫版で高田氏は「さゝめごと」の箇所に注して『二人だけの内緒の会話』とある。されば、ここは私は「珍しきさゝめごと、四度(よたび)の契(ちぎ)りのみは云はで過(すぎ)けり」の謂いではないかと思うのである。「珍しきさゝめごと」は特に最後に諫めた妻の詞を指すものであろう。その言葉が再現されるのを実の夫が一度聴くだけで、ぐだぐだ説明するまでもなく、四度も狐が夫に化けてやってきたことが知れてしまうからである。しかし、これはある意味、狐の女への思いやりであったともとれる。当時なら、こういう事実を知ったら、有無を言わせず、妻を斬り捨ててしまう夫がゴマンといたであろうと推察されるからである。
「介錯(かいしやく)する者」助産婦。産婆。
「子は逸(そ)れたり」「逸(そ)る」は「予想とは別の方向へ進む」で、この場合は「流産した」の忌み言葉であろう。
「披露す」彼女にだけでなく、その場の皆に公に表明する。
「今、思ひいづみの信田(しのだ)の契(ちぎり)」「今、思ひいづみの」は「出づ」に「和泉」を掛けて「信田」を引き出した。「信田(しのだ)の契(ちぎり)」は狐と人との異類婚姻伝承として「恨み葛(くず)の葉」「信太(信田)妻(しのだづま)」などの呼称で知られる伝承。「葛の葉」は狐の化けた女の名で、後代の人形浄瑠璃及び歌舞伎の「蘆屋道滿大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」、通称「葛の葉」で知られる。稲荷大明神(宇迦之御魂(うかのみたま))第一の神使とされ、かの最強のゴースト・バスター安倍晴明の母ともされる。ウィキの「葛の葉」によれば、『伝説の内容は伝承によって多少異なる』ものの、概ね、以下の通り。『村上天皇の時代、河内国のひと石川悪右衛門は妻の病気をなおすため、兄の蘆屋道満の占いによって、和泉国和泉郡の信太の森(現在の大阪府和泉市)に行き、野狐の生き肝を得ようとする。摂津国東生郡の安倍野(現在の大阪府大阪市阿倍野区)に住んでいた安倍保名(伝説上の人物とされる)が信太の森を訪れた際、狩人に追われていた白狐を助けてやるが、その際に』怪我『をしてしまう。そこに葛の葉という女性がやってきて、保名を介抱して家まで送りとどける。葛の葉が保名を見舞っているうち、いつしか二人は恋仲となり、結婚して童子丸という子供をもうける(保名の父郡司は悪右衛門と争って討たれたが、保名は悪右衛門を討った)。童子丸が』五『歳のとき、葛の葉の正体が保名に助けられた白狐であることが知れてしまう。全ては稲荷大明神(宇迦之御魂神)の仰せである事を告白』、
戀しくば尋ね來て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉
という『一首を残して、葛の葉は信太の森へと帰ってゆく』。この童子丸が、後に陰陽師として知られることとなる安倍晴明であるとする伝承である。『保名は書き置きから、恩返しのために葛の葉が人間世界に来たことを知り、童子丸とともに信太の森に行き、姿をあらわした葛の葉から水晶の玉と黄金の箱を受け取り別れる。なおこの水晶の玉と黄金の箱は、稲荷大明神(宇迦之御魂神)から葛の葉が童子丸に授ける様に仰せを受けて預かっていた。数年後、童子丸は晴明と改名し、天文道を修め、母親の遺宝の力で天皇の病気を治し、陰陽頭に任ぜられる。しかし、蘆屋道満に讒奏され、占いの力くらべをすることになり、結局これを負かして、道満に殺された父の保名を生き返らせ、朝廷に訴えたので、道満は首をはねられ、晴明は天文博士となった』。『この伝説については「被差別部落出身の娘と一般民との結婚悲劇を狐に仮託したもの」とする解釈も』ある。私はこの最後の解釈に強い共感を持つ。
「品(しな)はとりどりなれど」話柄の展開や設定は多様にして多彩であるが。
「口惜しさは」解消し難い「恨み」という口惜しさに於いては。
『「名山(めいさんき)記」に……』「名山記」は晋から北魏の時代にかけて成立した書物らしいが、詳細は不詳。以下は「搜神記」の「第十八卷」の中の一篇の末に出る、
*
名山記曰、「狐者、先古之淫婦也。其名曰阿紫。化而爲狐。」。故其怪多自稱阿紫。(「名山記」に曰く、「狐は、先古の淫婦なり。其の名を阿紫(あし)と曰ひ、化して狐と爲る。」と。故に其の怪、多く、「阿紫」を自稱す。)
*
に基づくもの。
「字書」特定不能。識者の御教授を乞う。
「其姓(じやう)」「其性」で「その性質」の意であろう。]
第十四 魔法を覺えし山伏の事
その上(かみ)、因幡伯耆(いなばはうき)の大守何某(なにがし)の人の家人(けにん)、伯州に住む人の内にて、常に使ひ給ふ茶碗、見えず。
近習(きんしゆ)の内に、
「これしきのもの誰(たれ)か盜まん。また外(ほか)の者、此間(このま)へ入らず。不審なる事よ。」
と云ふに、茶入(ちやいれ)も見えず、水差し、釜なども無(な)ふなる。筆架(ひつか)硯屛(けんびよう)文沈(ぶんちん)樣(やう)の物も失(う)する。
「不思議なる事よ。」
とて、ひたと詮索するに、盜人(ぬすびと)、さらに知れず。祿は萬をもつて數へつる人なれば、内外(うちと)嚴(きび)しく番をするに、家内(かない)の調度(てうど)、大方(おほかた)無くなる。日に三色(いろ)、四色、あるは十、二十づゝ失(う)する。
上下、皆、呆れ果ててありしに、ある日、また、臟部屋(ざうべや)にある臼(つきうす)、地(ち)より一尺ばかり上を水の流るゝやうに、行く。中間二、三人、居(お)り合ひて、引き止(とゞ)むれども、え取りも止(とゞ)めずして失せたり。後(のち)には、かやうに目に見えて失せ、大方(おほかた)、殘り少なくなる。よからぬ怪異(けい)なりけり。
かゝる所へ、出入する人、
「調度の失せしは、そこに住む山伏、慥(たしか)に知り申べく候。」
と。
かねて思ひ據(よ)りや有(あり)つらん、内證(ないせう)、かくと告(つぐ)る。
「やれ、召せ。」
とて、山伏、參る。
「しかじかなり。汝、よく知りてん。」
と云ふ。
「ありやうに申せ。少(すこし)も僞(いつは)らば曲事(くせごと)なるべし。」
と聞えしかば、山伏、赤面して、
「其所(そこ)にさふらはん。」
と云ふ。
やがて、人、遣りて見するに、屋敷より十四、五町隔てて、森の内、深き谷あり。失せし道具、一つも損せず、有(あり)けり。
「さて如何なれば、またかくはせしぞ。」
とあれば、
「されば、御道具、盜むべきにてはなし。御祈禱を仰(おほせ)つけられ候やうにと存じ、かく致し候。」
と云ふ。
「さて。また何として盜み出だせしぞ。」
とあれば、
「それがし、狐を使ひ申候へば、何やうの事も調(とゝの)ひ申(まうす)。」
と語る。
「さては恐ろしき工(たくみ)かな。且(かつ)うは憎き振舞ひなり。成敗(せいばい)に命とるべきなれど、僧形(さうぎやう)なれば、許す。殿の領地、兩國には叶ふべからず。」
とて、拂ひ給へり。
思ふに此山伏、飯綱(いづな)とやらん鄙法(ひはう)を覺えて、白狐(びやくこ)を使ひしと見えたり。竺(ぢく)の幻術、倭(わ)の魔法、皆、言般(これつら)を得たり。一時(いちじ)の妙に化(ばか)かされて一心を亂すべからず。
この念をやらんとては、正法(しやうほう)に寄特(きどく)なしとて有所得(うしよとく)の心を捨てしめ、眞諦(しんたい)の實理(じつり)を勸(すゝ)め、究竟(くきやう)、涅槃の悟りに導き、或るは千差萬別(せんしやまんべつ)の機に隨(したがつ)ては、大千森羅(たいせんしんら)の諸法を説き、自在神通(じざいじんつう)の奇瑞を現(あらは)すは、また假諦(けたい)門の契事(かいじ)なり。有用成事(うようじやうじ)とても無體則空(むたいそくくう)の理(り)を離れず。無一物(むいちもつ)の所より、無盡藏の益(やく)多きは、獨り、我(わが)佛法か。
[やぶちゃん注:「因幡伯耆(いなばはうき)の大守何某(なにがし)」旧因幡国及び伯耆国は江戸時代を通じて鳥取藩で終始、池田氏が治めた。
「家人(けにん)」「伯州に住む人」「祿は萬をもつて數へつる人」となると、これはもう、鳥取藩の家老クラスとしか考えられない。ウィキの「鳥取藩」を見る限りでは、家老荒尾但馬家(伯耆米子領一万五千石・藩主外戚・米子城代)及び家老荒尾志摩家(伯耆倉吉領一万二千石・藩主外戚)の二家辺りがモデルか。
「三色(いろ)、四色」この場合の「色」は助数詞的用法で「品」「種」の意。
「臟部屋(ざうべや)」各種の品を収蔵する部屋の意か。母屋から完全に独立していたら、「藏」と呼ぶはずであるから、母屋の中か、それに付属した形で存在する部屋と思われる。但し、近世のそうした部屋は圧倒的に「納戸(なんど)」と呼ばれることが多く、私はこの「臟部屋」という表記は見たことがない。「日本国語大辞典」では同じ発音で「雑部屋」というのが見出しとして出、これはいろいろなものを入れておく「物置き部屋」の意であり、ここはただの搗き臼であるから腑に落ちる。
「臼(つきうす)、地(ち)より一尺ばかり上を水の流るゝやうに、行く。中間二、三人、居(お)り合ひて、引き止(とゞ)むれども、え取りも止(とゞ)めずして失せたり」怪奇現象が明確に事実として示される(ただ見えている場合は錯覚の範囲内であるが、複数の中間がそれを制止させようとしたところで怪異が現実を決定的に侵犯するのである)キモの部分で、描写が上手い。
「そこに住む」近くに住む。
「思ひ據(よ)り」思い当たるところ。心当たり。
「内證(ないせう)」家内に広く公表することはせずに、側近の者がごく内密に直接、主人に伝えたことを指す。ここは現象が怪奇なものであるからではなく、その真犯人が家内の者もよく知っている近くに住む修験者であるということを聴けば、それを真に受けた血気にはやった者が彼に乱暴を働いたりして、ところが、いざ、後になってそれは誤認だったなどということになれば、それこそ主家の面目に関わるからである。
かくと告(つぐ)る。
「曲事(くせごと)なるべし」ここは「法に背いた処罰すべきゆゆしき大犯(だいぼん)である」の意。
「其所(そこ)にさふらはん」消失した物品の具体的な在り処(か)(森の中の深い谷)を言ったのである。
「十四、五町」一キロ半強から一キロ六百三十六メートル。
「御祈禱を仰(おほせ)つけられ候やうにと存じ、かく致し候」やや判りにくいが、「そうした訳の分からない怪奇現象を起こせば、近くに住む修験者である私(話者である山伏自身のこと)に祈禱を依頼して呉れるに違いない(そうすれば、有意な礼金を得られる)と思いまして、このようなことをしでかしてしまいまして御座る」と言った意味であろう。
「殿の領地、兩國には叶ふべからず」「構(かまえ)」「払い」などと呼ばれた追放刑。この場合は軽追放(けいついほう)相当であるが、公的な藩の処罰ではなく、この主人の命じた一種の私刑であるから、鳥取藩だけを禁足地とするものである。幕府が公式に認めていた本来の「軽追放」は、犯罪者の居住国及び当該犯罪行為を行使した或いはしようとした国の他に、江戸十里四方と京都及び大坂、さらに東海道の道筋と日光街道への立ち入りが禁じられた(但し、後には犯罪者が百姓・町人の場合には居住国・犯罪国・江戸十里四方のみに限られた)。なお、所有する田畑や家屋敷なども当然の如く没収されたから、この場合も山伏のそれはこの主人がそうしたものと考えてよい。
「飯綱(いづな)」管狐(くだぎつね。或いは「イヅナ」「エヅナ」とも呼んだ。狐とは全く別の幻獣とされるケースと妖狐と同類とするケースがあり、ここは直後に「白狐」とあるので後者である)と呼ばれる霊的小動物を使役して、託宣・占い・呪(のろ)いなどのさまざまな法術を操った民間の呪術者である「飯綱使い」の法術。飯綱使いの多くは修験系の男であった。「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 始めて聞く飯綱の法」の注を参照されたい。
「鄙法(ひはう)」公的な仏教や神道や陰陽道からは外れた(但し、それらの影響を大きく受けた)民間に伝わる怪しげな法術・呪法の意であろう。
「竺(ぢく)の幻術」「竺」はインドの古名であるから、ここは仏教系の外道の呪法。
「倭(わ)の魔法」本邦土着の民間信仰やその後の神道系の外道の呪法。
「言般(これつら)」「これづれ」と同じ。名詞で「これくらいのもの・この程度の対象物」の意。「こうした忌まわしい怪しげな呪法の仕方」の意であろう。
を得たり。一時(いちじ)の妙に化(ばか)かされて一心を亂すべからず。
「この念をやらんとては」こうした邪念(に基づく観念や信心信仰)を捨て去るには。
「寄特(きどく)なし」「寄特」は原典のママ。「奇特」でここは、「摩訶不思議な対象や現象などというものは実は存在しない」という超常現象は見かけだけで真の不可思議な現象などというものは絶対にないという意であろう。
「有所得(うしよとく)」仏語。見かけ上の恣意的な理解や知覚を得たとすること。或いは、こだわりの心を持つこと。
「眞諦(しんたい)」仏語。絶対不変の真理。究極の真実。
「千差萬別(せんしやまんべつ)の機に隨(したがつ)ては、大千森羅(たいせんしんら)の諸法を説き」よく判らぬが、相対世界に於ける「千差萬別」(個々の差別性や区別性)をまず認識「機」(認知能力)した上で、そうした見かけ上の差は実は全く意味がないのだという「機」へと進み、あらゆる総て(「大千」)の天地の間に存在する諸対象(「森羅」)の絶対の法則のあることを説法し。
「假諦(けたい)門」総ての存在は縁によって仮りに生じて現前して見えるだけで実体はなく実在はしないという真理。天台宗で唱えられる「三諦」説の一つ。空諦(くうたい)・仮諦・中諦。「諦」とは梵語の漢訳語で「真理」の意。「空諦」とはあらゆる物事にはおよそ実体というようなものはないという基本真理を意味し、「仮諦」はその「空諦」真理に基づいて存在が現象的な見かけ上のものに過ぎないという真理を説き、中諦はそれらを受けながら、さらに全存在は「空諦」や「仮諦」によって一面的に認識されるべきものではなく、結局、仏法の「真理」は言葉では言い表わせないということを意味する。
「契事(かいじ)」「決まりごと」の意であろう。「仮諦」認識に立てば幻術・呪術などという見かけ上の奇を衒ったそれらはことごとく「仮諦」としての「お決まりごと」に過ぎぬ下らぬ、とるに足らぬ見かけ上の変異(荘子の謂う「物化」)に過ぎぬと言っていると私は読む。
「有用成事(うようじやうじ)とても無體則空(むたいそくくう)の理(り)を離れず」唐代の高僧法蔵(六四三年~七一二年)「大乗起信論」を解釈した「大乗起信論義記」に説かれる華厳教学の重要な一つ。不生不滅の「真如(しんにょ)」には「不変」と「随縁」の二義が、「真如」に対する「無明(むみょう)」(梵語の漢訳で原義は「愚痴・無智」の意。迷い・真理に暗い状態・真の智慧に照らされていない様態を言う)にはこの「無體卽空」と「有用成事」の二義があるとする。栃木県那須郡那珂川町の浄土宗慈願寺住職池田行信氏のブログのこちらに載る、荻田安静と同時時代人の浄土真宗の僧西吟(さいぎん 慶長一〇(一六〇五)年~寛文三(一六六三)年)の「正信偈要解」の一節には次のような記載がある。『無明闇とは無智不覚にして而して一切善悪の事において分明ならざること、猶、暗夜のごとし。故に無明闇と云ふ。起信の疏に、無明を解するに二つ。一に無体即空の義。謂く、無明の惑、皆、衆生の妄心に依って真如に違して、而して妄境を起こす。元と空、本と有ならずが故に、無体即空の義と云ふ。二には有用成事の義。謂く、無明自体無しと雖も而して能く世間・出世間の一切の事業を成弁す。故に有用成事の義と云ふ』(下線[やぶちゃん)。この下線部の解をを順序を逆にして読むと、この荻田の謂いは腑に落ちる。私は二十代の頃に「大乗起信論」を論じたある論文を読んだが、一ページを理解するのに一日かかったこともあり、結局、読み終わるのに一ヶ月もかかった。]
第十三 博奕打(ばくちうち)、女房に恐れし事
[やぶちゃん注:最初に断わっておくと、この「女房」は単なる既婚の婦人のことで、「博奕打」ちの女房ではない。博奕打ちとこの女房は見ず知らずの関係である。そうして読まないと長く不審のままに読むことになるので、かく注することとした。]
[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。]
緣は異(い)なものなれや、命の關(せき)まで思ふあり、長く添ふても呉竹のよに、節々(ふしぶし)の中となり、飽かれて退き、捨てゝ別るゝ有(あり)、情(なさけ)の山の奧深み、戀の淵の底知れぬも、望みの花の枯れず凋(しぼ)まぬからなるべし。去(い)にし代に焦(こが)れて竹を染め、歎きて石となりしも、外(ほか)に男のあらぬにはなけれど、思ふど程に思はねばなるべし。
ある女房、武藏野のゆかりの草(くさ)もつらく、また男憎(おとこにく)みして露(つゆ)受く袖に、むば玉の夜に紛(まぎ)れて出けるが、行くべきかたに人音(ひとをと)しければ、
「露に濡れてふ玉鉾(たまぼこ)の、道ゆく人にやあらん、待(まち)つゝも通さばや。」
と思ひ、片方(かたへ)に墓堂(はかだう)の有(あり)ければ、暫くも隱るゝに、此者どもも、その墓へ來たる。
はや逃ぐべき樣(やう)なかりければ、梁(うつはり)を傳ひ、天井へ上がるに、いとゞ荒(あば)らにして、身一つ隱(かく)るべきも猶いぶせきに、十文字に渡せる虹梁(こうりやう)に上がり、身を潛(ひそ)めてありしに、例(れい)の人と見えて、若き男(をのこ)、四、五人連れて來たり、火を打ち、行燈(あんどう)の影に莚(むしろ)敷き、はや、ひたと、博奕を打つ。
女見て、
「扨も、うたてや、籠の鳥、鼎(かなへ)の魚(うを)の出でなん方(かた)もなし。すぐに行かば、かくばかりの氣遣いはあらじ、また見つけられなば、如何(いか)ばかりの心にまかせぬ事かあらん。」
とやかくと思ひ煩(わづら)ふうちにも、やゝ時移るに、其中に、一人負けて、はうはうの有樣なり。
「錢(ぜに)貸せ、金(かね)貸せ。」
云へど、皆、鼻哥(はなうた)にて、あひしらはざれば、手を叩(たゝ)き、膝を振(ふ)るふて、車座を立ち退(の)き、欠伸(あくび)し、伸(の)びし、仰(あふの)いて空(そら)を見れば、妖(あや)しの女ありて、鉄漿(かね)黑く、紅(べに)赤く、髮は亂(みだ)けて下に傾(なだ)れ、裾は下がりて風翻(ひるがへ)り、夜目遠目、仄(ほの)かにして、燈火(ともし)の火影(ほかげ)に化生(けしやう)のものと見えたり。
側(そば)なる者に、
「あれは何ぞ。」
と指(ゆび)さしすれば、これも心得ず顏(がほ)に見る。
一人二人、五人の者、目と目を見合はせ、暫し、物も云はず、堪(こら)へ兼ねたる風情なりしが、一人、つい、立ちければ、殘る者、捨られたる心地して、我先(われさき)にと逃(にげ)行きて、後(あと)見返らずなりければ、女房は錢金(ぜにかね)拾ひ、親里(おやさと)へ歸りしなり。
初めは我(われ)脅(おど)されて、後に繕(つくろ)はずも、人を脅(おど)す。拔かぬ太刀(たち)の高名(かうみやう)か。山田守(やまだもる)庵(いほり)眞近くなく鹿(しか)に驚ろかされて驚かすかな。
[やぶちゃん注:前話「第十二 山伏、忍び者を威す事」の山伏を女性に換えただけで構成はそっくり同じの、やはり疑似怪談。新味はないものの、博奕打ちの一人がただ一人大負けをし、天井を見上げて以降の描写が、前の話より遙かに映像的で面白い。前の話は出歯亀的いやらしさが横溢してちょっと生理的にいやな感じがあったが、こちらはそうした不快感がなく、博奕打ちらが鬼女と勘違いして蜘蛛の子を散らすように逃げ去る辺り、実に好ましい。
「命の關(せき)まで思ふあり」偕老同穴相思相愛。
「呉竹のよ」「よ」は「節(よ)」で本来は竹の節(ふし)と節との間を指すが、後に転じて、その節(ふし)自体を指すようになった。ここは節目、特にすっきりとしない躓きの時節で「節々(ふしぶし)の中」(ぎくしゃくとした仲)となってしまって、と続く。さすればこの「くれたけのよ」(「呉竹」は淡竹(はちく:単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科マダケ属クロチク変種ハチク Phyllostachys nigra var. henonis)の異名で中国の呉から渡来したとされることに由来。古来、宮中の清涼殿東庭の北寄りにある「呉竹の台」に植えられてあったもので知られる竹)はまずは「節」を引き出すためでありつつも、実は「暮れ」てしまった今の褻(け:穢れた状態を指す語)の「世(よ)」を掛けているのではないかと私は読む。荻田の過剰な修辞技巧の痙攣的濫用を体験してくると、自然、神経症的にそう分析したくもなってきてしまうのである。
「焦(こが)れて竹を染め」曹雪芹の「紅楼夢」の中に『将来この人は自分の夫を思いこがれて、あの竹もきっと斑竹』(はんちく)『になってしまうでしょう』(富士正晴・武部利男訳)とある。
「歎きて石となりし」望夫石(ぼうふせき)のこと。中国では湖北省武昌の北の山の上にある岩を指し、昔、貞女が戦争に出かける夫をこの山上で見送り、悲しみのあまり、そのままそこで岩となってしまったとする伝承がある。本邦でも同様の伝承は各地に散在し、その中でも肥前国松浦(現在の佐賀県唐津市)に伝わる松浦佐用姫(まつらさよひめ)の話は有名。彼女は百済救援のための兵を率いて松浦潟に停泊した大伴狭手彦(おおとものさでひこ)と契りを結び、出船する夫を鏡山の上から夫の船に向かって領巾(ひれ:肩から腕にかける長い細布で出来た女性の装身具)を振って別れを惜しんだが、悲しみのあまり、狭手彦の形見の鏡を抱いて川に沈んだとも、夫の船を追って、やっとの思いで辿り着いた加部(かべ)島で、泣き伏したままに石となったとも伝えられる。佐用姫の化した「望夫石」は、後に加部島の田島神社境内に遷され、現在も末社佐用姫神社として祀られている。
「外(ほか)に男のあらぬにはなけれど、思ふど程に思はねばなるべし」どうもこういうちゃちゃの入れ方は気に入らない。やっぱり、荻田安静にはかなり強い女性嫌悪感情が見てとれると言ってよい。君が好き勝手に書くように、私はその勝手な記述から勝手に君を精神分析させて貰う。悪しからず、荻田君。
「武藏野のゆかりの草(くさ)もつらく」これは「拾遺和歌集」の「卷第七 物名」にある知覚法師の一首(第三六〇番歌)、
さくなむさ
紫の色には咲くな武藏野の草のゆかりと人もこそ見れ
に基づく。巻名の「物名(もののな)」とは事物を和歌の中二隠し詠む遊戯を言う。詞書「さくなむさ」は石楠花(しゃくなげ)のことで、恐らくはシャクナゲ(ツツジ目ツツジ科ツツジ属シャクナゲ亜属 Hymenanthes。多くの種の花は淡い紅色であるが、紅紫色を呈するものもある)を詠んだものと思われ、まさに二句目三句目に「いろにはさくなむさしのの」の語が詠み込まれてある。なお「さくなむさ」は「石南草(さくなんさう)」の略と言われる)一首は「紫色に咲いてはいけないよ……武蔵野の草、紫と縁(ゆかり)のある草なのだろうと言って、人が間違えて見るかも知れぬから……」であるが、この「武藏野の草のゆかり」というのは「古今和歌集」に「題知らず」「讀人知らず」で載る一首(第八六七番歌)、
紫の一本(ひともと)ゆゑに武藏野の草は皆がらあはれとぞ見る
を踏まえたものである。ここは、ただ「ゆかり」(縁)を引き出し、それが「つらい」、即ち、結婚した夫との「縁に恵まれなかった」と言いたいためだけに使われたものであって、武蔵野を舞台にしているわけでもなんでもないので老婆心ながら、注意されたい。
「男憎(おとこにく)み」岩波文庫版の高田氏の注に、『夫憎み。夫に愛想をつかして』とある。
「露(つゆ)受く袖に」遁走する夜の夜「露」を受けた「袖」であるが、「露」は辛さ故に流した「涙」をも比喩する。
「むば玉の」「夜」の枕詞。古くは「ぬばたまの」で「射干玉の」などと漢字表記した。「ぬばたま」はヒオウギ(単子葉植物キジカクシ目アヤメ科アヤメ属ヒオウギ Iris domestica)の種子で、それが黒いことから「黒」「夕」「宵」「髪」などの枕詞となった。
に紛(まぎ)れて出けるが、行くべきかたに人音(ひとをと)しければ、
「露に濡れてふ玉鉾(たまぼこ)の」岩波文庫版の高田氏の注に、『出典不詳。「道行」の序詞の役わりをはたす語』とある。
「虹梁(こうりやう)」建物の主柱に架け渡す梁材で虹形に上方に反り返った形状のものを指す。主に社寺建築に於いて下から見える部分に使う。挿絵では絵師の視点位置が悪く、その独特の形状が屋根と女房によって隠れてしまっている。
「例(れい)の人」先ほど、行く手でした人音の主。
「氣遣い」「い」は原典のママ。
「あひしらはざれば」「あへしらふ」は「応対する」の意。「あしらふ」の古い形で、現代語の(適当に)「あしらう」の元である。この場合はそれが打ち消されているのでまさに現代語のニュアンスの「適当にあしらうばかりで、全く相手にしなかったので」の謂いとなる。
「手を叩(たゝ)き、膝を振(ふ)るふて」何だか、無視された大負け男にこの多動的な感じ、実にまっことリアルではないか。
「車座を立ち退(の)き、欠伸(あくび)し、伸(の)びし、仰(あふの)いて空(そら)を見れば」この動きも、無視されて屋台の中央から少し壁際に退くのは極めて自然でリアル、そこで手持無沙汰から欠伸をして、背伸びをすると自然と体は上へ仰向くわけで、梁上に潜む女房の姿が視界に入るまでの男の挙止動作のカメラ・ワークが実に上手いのである。
「鉄漿(かね)」お歯黒。
「髮は亂(みだ)けて下に傾(なだ)れ、裾は下がりて風翻(ひるがへ)り」すこぶる動画的で上手い。以下の他の男たちが順々に頭上の女房を見るモンタージュも素敵!
「親里(おやさと)」自分の実家。
「繕(つくろ)はずも」岩波文庫版の高田氏の注には、『わざとではなしに』とあり、結果的には肯んずるものではあるが、「つくろふ」という古語の意味や用法としては一般的なものではない。
「拔かぬ太刀(たち)の高名(かうみやう)」諺。実際に優れた手腕を示したわけではないのだが、結果としてそのような格別の仕儀を現出させること。但し、「高名」は「賞讃を浴びること・重んじられること」であるから少しこの諺の意義からはずれる。また、この諺は別に、口では有能であるかのようなことを盛んに吹聴するものの、実際には、その手腕を示したことがない人物を嘲って言う言葉でもあり(「太刀を抜いてしまったら実力が知れてしまうぞ! 抜かぬうちが花よ!」)という意味合いで使用されるから、ここに附すに相応しいとは必ずしも言えぬ。
「山田守(やまだもる)庵(いほり)眞近く鳴く鹿(しか)に驚ろかされて驚かすかな」かなりの和歌を調べて見たが、これにぴったりくる和歌は見当たらなかった。しばしばお世話になる「日文研」の「和歌データベース」を検索してみた結果からは、「金葉和歌集」の初度本の「卷三 秋」には「山田守る」「庵」「鹿」の三語が共通する、
山田守る賤(しづ)の庵(いほり)の邊りには鹿よりほかに來る人もなし
があった(この一首、私の持つ同家集には所収していない)ぐらいで、ネット検索では古浄瑠璃の一節に、
いとゞさびしき山田もるいほりの内にしかぞなく
というのがある(安田富貴子「古浄瑠璃 太夫の受領とその時代」の資料翻刻より)程度である。これは荻田の創作歌か。識者の御教授を乞う。]
第十二 山伏、忍び者を威(おど)す事
[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。]
山伏有(あり)て諸國巡る。
ある日、里遠き所にて、日暮れたり。殊更、鬼一口(おにひとくち)の闇の夜に、あやなく迷ひ行くに、一の堂ありて住持なし。賴(たのむ)木(こ)の下(もと)雨たまらず、四面荒れて物さびたり。甍(いらか)破(やぶ)れて、霧、ふだんの香(かう)を燒(やき)、扉(とぼそ)落ちて、月、常住の燈(ともしび)を掲(かゝ)ぐ。江上(こうしやう)の小堂(せうだう)、※翠(ひすい)巣くひ、薗邊(ゑんへん)の高塚(かうてう)麒鱗(きりん)臥(ふ)すと眺(なが)むるに、かゝる所へ夜も更けなんに、火、一つ、見えたり。此火、さしにさして、來る。[やぶちゃん字注:「※」=(上)「羽」+(下)「比」。]
「こは好(す)かぬ事や。」
と柱を傳ひ、天井へ上がるに、見目(みめ)よき女房、行燈(あんどう)提(さ)げて來る。
いよいよ恐ろしく思ひしに、此女房、堂の隅、淸(きよ)らかに掃き、聊(いさゝ)か携へし蒲團を、いと寢(ね)良げに敷きけり。又、疊紙(たゝふがみ)より小櫛(をぐし)とり出し、粧(よそほ)ひかいつくろふ體(てい)、もの待つ風情(ふぜい)にも見えたり。かゝる所へ、兩腰(れうこし)差したる男(おとこ)の、事柄(ことがら)由々しきが、會尺(ゑしやく)もなく入(いり)ければ、女、うち悦びて、
「如何(いか)なれば遲くはまします。思はねばこそ。」
など、かこち顏なるに、男も、
「宮仕(みやづか)へてふ身は、淀(よど)に繫(つな)ぐ鯉にはなけれど、身をも心にまかすべきかは。待つも待たるゝも、包むに餘る花の香(か)の、漏(も)るゝを忍ぶ憂き袖は、思ひ亂るゝ煙(けふり)くらべに、など變りあらんや。さまで恨み給ふそ。」
など斷はるも、流石(さすが)に馴れし中(なか)と見えたり。
山伏見て、
「さては。こゝを出合處(であいどころ)に定め、稀(まれ)に逢ふ忍び者なめれ。我、威(をど)せで許すべし。」
と、心して侍るに、如何でかくとは知るべきなれば、二人(ふたり)の袖も打合(うちあは)せ、いろなる心やみ立ちまさり、をのがきぬぎぬ置き重ね、恨みも髮(かみ)も解(と)け解(ほど)け、海士(あま)も釣(つり)する枕のなみ、うち並びつゝ有(あり)ければ、堪(こら)へすませる山伏も、何時(いつ)しか疎(うと)み果(は)てたり。げに、拔かれたる心地こそせめ。
「いつまでかは殿居(とのゐ)せん。」
と、認(したふ)て持ちし柿紙包(かきかみつゝみ)を、かのしきたへの枕の上へ、天井より、どう、と落とす。
もとよりも思ひ寄りなかりければ、二人ともに肝(きも)魂(たましゐ)もあらばこそ、慌てふためき、裸になりて逃(にげ)さりけり。猶も、
「鬼(おに)と聞けや。」
と、いろいろの聲をして、天井の板、踏み鳴らし、謀(はか)りつゝも威(おど)しけるにぞ、後(あと)見返へらず、逃げ侍る。
さて、山伏は殘せし道具ども取り、
「斯樣(かやう)の良き宿、又もあらじ。」
と立出(たちいで)しとなり。
昔、梁(りやう)の代(みよ)のたはれ男(お)、塔(たう)の第二層(そ)に交はりて、其報ひ、雷(いかづち)に打たれて死せり。この戀衣(こひころも)のあかづきて、山伏にあらはれしも、其類(たぐ)ひか。貴(たふと)き精舍(しやうじや)をよるべとせし、あさましくも侍る。但し、昔も后宮(こうきう)たる袖、西の御堂(みだう)を隱れ家(が)にして、假寢(かりね)の床に新枕(にゐまくら)せしも、その報ひなくても過(すぎ)ぬ。
「たゞ山伏よ、情なし、妹背(いもせ)の中のならひ、鬼も淚を捩(ね)ぢ切り、荒き夷(ゑびす)も情(なさけ)に弱り、燃ゆる螢も鳴く鹿も、聖(せい)も賢(けん)も押し並べて、笙(しやう)の岩屋(いはや)の聖(ひじり)の外(ほか)、ちはやふる神代(かみよ)よりも始まり、御裳裾(みもすそ)川の流れ久しく、曉季(ぎようき)の今(いま)に人種(たね)あるも、情けの道の育(そだ)たればなり。いかに見のがしもせで、やぶさかりしぞや。人やりならず、あさまし。」
と云へば、一人の曰く、
「また、山伏になりても見給へ。」
と云ふ。
げに、此(この)評判、難しくこそ。
[やぶちゃん注:疑似怪談で前と連関する。なお、最後の附言部分は直接話法の混在などでごちゃごちゃしていることから、読み易さを考慮して恣意的に一行空けして改行をかなり施してかく示した。
「鬼一口の闇の夜」平安初期の「日本霊異記」の「中卷」の「女人(によにん)、惡鬼に點(し)められて、食噉(は)まるる緣第三十三」(美しい処女の娘を一人の男がものにするが、男は実は鬼で、その初夜の契りの夜、頭と指一本を残して喰らわれてしまう話)があるが、この「鬼一口」という言い方は、言わずもがな、その後に書かれた「伊勢物語」の知られた第六段「芥川の段」のそれで、ある男が女と駆け落ちをし、夜更けて激しい雷雨に見舞われ、女をあばら屋の蔵に匿ったものの、その夜のうちにその女を「鬼、はや一口(ひとくち)に食(く)ひてけり」という部分に由来する。ここは単に闇夜の怖さを形容するために用いただけである。
「あやなく」暗くて視界がはっきりせず、物の判別がつかないために。
「賴(たのむ)木(こ)の下(もと)雨たまらず」堂の上に茂った樹木のお蔭で、堂の中は(すっかり荒れ果ててはいるものの)雨水は溜まっておらず。
「甍(いらか)破れて、霧、ふだんの香(かう)を燒(やき)」破れた屋根の穴から霧が入り込んできて、それは不断に仏事として香を焚きしめているようでもあったという皮肉な比喩。私はこの「ふだん」は「絶えず」の「不斷」以外に「日々いつも」の「普段」の意も掛け、さらには「香」の譬えから考えれば、「ふだん」の「だん」は「檀」で、焚きしめるための香木の栴檀(せんだん)・白檀(びゃくだん)・紫檀(したん)などの総称である「檀香」をも洒落て掛けたものと読む。
「月、常住の燈を掲(かゝ)ぐ」破れた天上から覗く月を法灯に、やはり皮肉に喩えたもの。
「江上(こうしやう)」大河の畔り。しかしそのような描写は他になく、挿絵も山の中の描画である。意味のない筆が辷り過ぎる傾向のはなはだ強い荻田の、単なる無意味な修辞粉飾で、この廃堂のそばには川などはないと考えてよい。「小堂」に対する大河が欲しかっただけだろう。
「※翠(ひすい)巣くひ」(「※」=(上)「羽」+(下)「比」)「※翠」は翡翠。蜘蛛の巣に月光が乱反射して虹色に見えるのを比喩したものであろう。
「薗邊(ゑんへん)」庭の辺り。廃堂の周辺。
「高塚(かうてう)」土饅頭の墓であろう。
「麒鱗(きりん)臥す」弔う人もなく、その塚は苔蒸してしまい、草がぼうぼうに生えているのであろう、こんもりとしたところに毛のように草の生えるそれは、かの賢人の生まれる時にのみ出現するという聖獣麒麟が病んで死にかけて蹲っていると見る、世も末の、これまた、超辛口の皮肉である。
「さしにさして」「さし」は光りが鋭く「射し」て、しかも明らかにこの廃堂を「指し」て近づいて来ることを掛けていよう。
「好(す)かぬ事」よからぬ禍々しい凶兆を思わせる現象。
「いと寢(ね)よげに」たいそう寝易いように(独り寝するには明らかに大きく)丁寧に整え設えて。
「疊紙(たゝふがみ)」「たたうがみ」が歴史的仮名遣としては正しい。現代仮名遣の「たとうがみ」(畳紙)で、「畳み紙」の転じた語。単に「たたう(たとう)」とも呼ぶ。普通は詩歌詠草や鼻紙などに使用するために畳んで懐に入れておく懐紙(ふところがみ)を指すが、ここは櫛を取り出しているから、厚手の和紙に柿渋や漆などを塗って折り目をつけた結髪の道具や衣類などを入れるのに用いたそれの小型のものととっておく。
「思はねばこそ」「心配しないとでも思って?」。
「かこち顏」恨みや不平を示す表情。
「淀(よど)に繫(つな)ぐ鯉」「淀」はここは人工的に流れをせき止めた澱みで、庭の池と採る。そこに自由を奪われて飼われている鯉である。
「身をも心にまかすべきかは」反語。「心の思うままに自由に振る舞うことは出来ぬものじゃて。」。
「煙(けふり)くらべ」香道に於ける香を聴くそれを指すか。前の恋の熱で焚き立つ「花の香(か)」の縁語的手法で、そう考えると「袖」も何時もの「人」の意味の以前に香を焚き染めるところの「袖」であることが判る。
「さまで恨み給ふそ」このままなら「そこまでお恨みになるか」の謂いだが、私は禁止の「給ひそ」の誤りのように感じる。
「斷はる」相手に了解を求めるの意。
「威(をど)せで許すべし」反語。「威さねで、おくべきかッツ!」という怒りである。この二人の密会を怪異か盗賊などの出来と早合点して天井裏に隠れ潜んだ自分が情けなく、その鬱憤を彼ら二人に押し付けたのである。
「心して侍るに」気づかれぬように凝っとして、深く用心しておったところ。
「如何でかくとは知るべき」反語。
「いろなる心やみ」色好みからくる(双方の)心の激しい乱れ。「心やみ」は「心闇」(思慮分別が失われている状態・煩悩に迷い狂っていること)の意の名詞でとらないと意味が通らない。
「をのがきぬぎぬ置き重ね」「きぬぎぬ」は現実的行為としての「衣衣」で男女が二人の衣服を重ね掛けて共寝をすること。しかし「きぬぎぬ」には、ここでは何となく視覚的な「着ぬ衣」で双方が全裸になっている感じを想起させる仕掛けがあるようにも見えぬことはない(これは私の色好みのせいか?)。
「恨みも髮(かみ)も解(と)け解(ほど)け」「恨み」は附会すりならば前の男が遅れて来たことへの「恨み」ととれるが、ここは寧ろ、「恨み」の「み」を「髪(かみ)」の「み」の音に合わせて韻を踏む効果を狙ったに過ぎない。
「海士(あま)も釣(つり)する枕のなみ」「なみ」は「浪(波)」に「並み」を掛けて、並べた二つの枕(実際には枕はなく、男女が伴寝してぴっちりと抱き合って頭を並べていることを指す)を引き出すための退屈な序詞的修辞。「海士」「釣」「浪」は同時に縁語である。
「堪(こら)へすませる山伏も、何時(いつ)しか疎(うと)み果(は)てたり。げに、拔かれたる心地こそせめ」「拔かれたる心地こそせめ」「騙されたような気分になったに違いない」の意。山伏は怪異か不審者と誤認して隠れたのであって事実はそうではないものの、山伏が見下ろし覗く二人の媚態の映像を想像するに、心情としてはすこぶる納得出来る。このシーンの筆者の心理描写は相当に上手い。
「いつまでかは殿居(とのゐ)せん」「いつまでも手前(てめえ)らの睦言の宿直(とのい)をしてると思うなッツ!」。
「認(したふ)て持ちし」しかるべき時のために普段から所持していた。
「柿紙包(かきかみつゝみ)」雨具や物が濡れぬように包むために柿渋をひいた渋紙(しぶがみ)。投げ落として「どう」と有意な音が立つぐらいであるから、折り畳んではあるが、相当に広く、重量もそれなりにあると読まねばならぬ。
「しきたへの」「敷妙の」。枕詞。ここは「枕」のそれであるが、一般にこの枕詞は男女の供寝のイメージ・シーンに伴って用いられることが多いから、ぴったりの用法と言える。
「もとよりも思ひ寄りなかりければ」もとより、想像だにしていない出来事であったので。
「慌てふためき、裸になりて逃(にげ)さりけり」挿絵では逃げる二人がちゃんと着物を著けているのは、失望の極み! 素っ裸で逃げる男女を描いてこそ山伏の鬱憤も晴れようというものを!
「鬼(おに)と聞けや。」「鬼の発する声だと思えよッツ!」
「謀(はか)りつゝも」いろいろと工夫を企んで。
「梁(りやう)の代(みよ)のたはれ男(お)、塔(たう)の第二層(そ)に交はりて、其報ひ、雷(いかづち)に打たれて死せり」「層」の読み「そ」は原典のママ。原典不詳。識者の御教授を乞う。「塔」で「報ひ」とある以上、この「塔」は仏塔(仏教の多層塔)とは読める。
「この戀衣(こひころも)のあかづきて、山伏にあらはれし」よく意味がとれない。二人の「戀」の「衣」だけを纏った素っ裸の二人のいちゃつきを見た山伏が怒り心頭に発した(「あらはれし」)という言うのか? 「あかづく」は衣の「垢(あか)」と見続けることにすっかり「飽」き切ってしまいの意を掛けるか?
「貴(たふと)き精舍(しやうじや)をよるべとせし」廃堂とは言え、貴い寺を密会して性交する「寄る邊」とした。或いは「よるべ」には密やかな添い寝の「夜邊」(夜の時間)の意も利かせているか。
「后宮(こうきう)たる袖、西の御堂(みだう)を隱れ家(が)にして、假寢(かりね)の床に新枕(にゐまくら)せしも、その報ひなくても過(すぎ)ぬ」誰のことを指しているのか、不学にして不詳。何方か、出典だけでもお教え願いまいか?
「笙(しやう)の岩屋(いはや)の聖(ひじり)」「笙の岩屋」は吉野と熊野を結ぶ大峯山(おおみねさん)を縦走する修験道の修験道(みち)である大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)の途中にある行場「靡(なびき)」の一つ。平凡社「世界大百科事典」の「洞窟」の記載によれば(コンマを読点に代えた。下線はやぶちゃん)、『洞窟は、地下世界、死者の国への出発点であると同時に、豊饒(ほうじよう)の根源、母胎とも観念されていた。洞窟は、黄泉国、根の国、妣(はは)が国への入口であり、生、死、豊饒、大地、女性などのイメージを宿し、蛇や鬼の住む魔所であるが、一方で神霊の斎(いつ)く聖所でもあるという始源性を帯びている』。「道賢上人冥途記」(「扶桑略記」(神武天皇から堀河天皇の寛治八(一〇九四)年までの編年史。延暦寺学僧皇円の編で十二世紀末成立)所収)によれば、天慶四(九四一)年に道賢(日蔵)がこの笙の窟で参籠中、死んで冥途巡りをし、蘇生した話を記しているという。『洞窟が生と死の境にあり、修行者がそこにこもって山霊と交感し、霊力を身につけて再生して山を下る様相を示している。修験者が山を母胎に見立てて、山中の洞窟や岩の割れ目で行う胎内くぐりは、擬死再生を行為によって確証するもので、成年式の試練を果たす意味合いもあった』とあり、ここはまさにそうした女性器のシンボルとしての窟をこの話者は述べているのであって、そうした性的象徴性の中で大徳(だいとこ)の「聖」日蔵上人さえも蘇生(産道をシンボライズした窟を通って再生)したことを通して「妹背の」仲「のならひ」(習い)としての性行為の本来の古代からの神聖性をことさらに主張したいのであろう。因みに、その立場には私はすこぶる賛成する。だから、保守派なんぞの都合のいい消毒された主張なんぞよりも、私は「古事記」の素戔嗚までを総て古文の教科書に載せて、みっちりと濃厚に判り易く全高校生に教授すべきであると大真面目に考えているのである。
「御裳裾(みもすそ)川」三重県の伊勢市を流れる五十鈴川(いすずがわ)。倭姫命(やまとひめのみこと 生没年不詳:垂仁天皇第四皇女。天照大神を磯城(しき)の厳橿之本(いむかしのもと)に神籬(かみがき)を立てて、垂仁天皇二五年三月に伊勢の地に祀った(これが現在の伊勢神宮の前身とされる)皇女であるとされ、これが伊勢神宮に奉仕する未婚女性「斎宮(いつきのみや)」の濫觴ともされる)が御裳の裾の汚れを濯いだという伝説から「御裳濯川(みもすそがわ)」の異名を持つ歌枕である。斎宮とは神と婚姻した処女であり、ここに出すのは専ら、神との交合を実際の男女のコイツスに引き下げて等価化することを意味していると私は読む。
「曉季(ぎようき)の今に人種(たね)あるも」天地開闢の「曉」(あかつき)の「季」(とき:時間)の謂いか? しかし思うにこれは実は原典の「澆季」の誤記ではあるまいか? 「澆季」とは「道徳や人情などがすっかり乱れてしまって一つの時代が終わる寸前の時期」の謂いである。そんな末世・乱世にあっても愚かな人間が滅亡することなく、かくも繁殖し栄えているのも。
「なさけの道の育(そだ)たればなり」男女の恋情が大切なものとされ、それによる肉体関係が連綿と続けられ、子孫が生まれ、その性行為の神聖性が育まれてきたからに外ならない。ここまで畳み掛けられると(というか、かくも「くどくどと」訳している私も)まっこと「くどい」気はしてくる。
「やぶさかりしぞや」不詳。文字列から直ちに想起される「吝か」では、意味が通じないない。寧ろ、山伏の脅しの実際行動から考えると、「破り盛り」「破り逆り」ですっかり怒りを爆発させて、二人の性交を邪魔するだけでなく、行為を中止させて完遂することを「破」ってだめにしてしまい、無益無暗に彼らに逆らっては吠え立ててエキサイトした(「盛り」「逆り」)の謂いか?
「人やりならず」「人遣りならず」(名詞「人遣り」(自分の意志ではなく他から強制されてすること。人からさせられること)に断定の助動詞「なり」の未然形と打消の助動詞「ず」がついた連語)で、誰のせいでもない、自分のせいである、意。ここは山伏が勝手に怪異・不審と思った最初の行為の誤りに立ち返って山伏の行動を指弾しているのである。
「あさまし」情けなく、興醒めだ。
「此(この)評判、難しくこそ」この一件について正しく分析批評することは実に難しいことではある。]
女としての母性性をことさらに隠蔽し、少女性と文学性をひけらかすことで男をたらし込めると思っている輩は僕の最も嫌悪する女群である――
追伸:国を守ることの「いろは」も理解していない稲田朋美とかいう下劣な女はこの話の最下層以下の地獄の馬鹿女である。僕は初めっからあの女に防衛は任せられないと周囲に言ってきた。あいつは自衛隊員の「命」を「命」とも思わない最低「逆賊」の最下劣の極みの存在である。あの女の下で自衛隊員の誰が「国家」に命を捧げようか!!!
虎の皮
虎が人になり、人が虎になる支那の話の中で、特に奇妙に感ぜられるのは虎が美人に化する話である。蒲州の人崔韜なる者、旅中仁義館といふところに宿る。館吏の話によると、この建物は惡い評判があつて、誰も宿泊せぬといふことであつたが、崔は構はずに一夜を明すことにした。夜の十時頃、突然門があいて、一疋の虎が入つて來たので、崔もびつくりして暗がりに身をひそめたが、虎は毛皮を庭に脱ぎ捨て、綺麗に著飾つた女子になつて上つて來た。相手が人間の姿になれば別にこはくもないから、一體獸になつて入つて來たのはどういふわけか、と尋ねた。女子はそれに答へて、願はくは君子怪しむことなかれ、私の父兄は獵師でありますが、家が貧しいために良緣を求めることが出來ません、それで夜ひそかにこの皮を被り、自分の生涯を托すべき人を待つてゐるのですが、皆恐怖して自ら命をなくしてしまふのです、今夜は幸ひにあなたのやうな方にお目にかゝることが出來ました、どうか私の志を聽き屆けて下さい、と云ふ。崔も係累のない獨身者であるから、二人の結婚は忽ち成立した。崔は例の毛皮を館の裏にあつた空井戸に投げ込み、匆々に女子を連れて立ち去つた。崔はその後官途に就いて次第に立身し、地方に赴任するに当當り、久しぶりで仁義館に一宿した。彼に取つては忘れ得ぬ記念の地なので、早速裏の空井戸に行つて見ると、投げ込んだ毛皮は依然としてもとのままに在る。そこで妻に向つて、お前の著物はまだあるよ、と云つたら、まだありますか、と云つて妻は眼を輝かしたが、人に賴んで井戸の底から取り出して貰つた。やがて妻は笑ひながら、私はもう一度これが著て見たいと云ひ、階下に下りて行つたかと思ふと、忽ちに虎に化して上つて來た。話はこれまでにして置きたいのであるが、一たび人間から虎に變つた以上は仕方がない。崔もその子も虎に食はれてしまつたと「集異記」に書いてある。
[やぶちゃん注:「蒲州」(ほしう)は現在の山西省にあったそれであろう。
「崔韜」「サイトウ」(現代仮名遣)と読んでおく。
以上は「太平廣記」の「虎八」に「集異記」を出典として「崔韜」で載る。
*
崔韜、蒲州人也。旅遊滁州、南抵歷陽。曉發滁州。至仁義舘。宿舘。吏曰。此舘凶惡。幸無宿也。韜不聽、負笈昇廳。舘吏備燈燭訖。而韜至二更、展衾方欲就寢。忽見舘門有一大足如獸。俄然其門豁開、見一虎自門而入。韜驚走、於暗處潛伏視之、見獸於中庭脫去獸皮、見一女子奇麗嚴飾、昇廳而上、乃就韜衾。出問之曰。何故宿餘衾而寢。韜適見汝爲獸入來、何也。女子起謂韜曰、「願君子無所怪。妾父兄以畋獵爲事。家貧、欲求良匹、無從自達。乃夜潛將虎皮爲衣。知君子宿於是舘。故欲託身、以備灑掃。前後賓旅、皆自怖而殞。妾今夜幸逢達人、願察斯志。」。韜曰、「誠如此意、願奉懽好。」。來日、韜取獸皮衣、棄廳後枯井中、乃挈女子而去。後韜明經擢第、任宣城。時韜妻及男將赴任、與俱行。月餘。復宿仁義舘。韜笑曰、「此舘乃與子始會之地也。」。韜往視井中、獸皮衣宛然如故。韜又笑謂其妻子曰、「往日卿所著之衣猶在。」。妻曰、「可令人取之」。既得。妻笑謂韜曰、「妾試更著之。衣猶在請。妻乃下階將獸皮衣著之纔畢。乃化爲虎。跳躑哮吼。奮而上廳。食子及韜而去。
*]
これとよく似た話は「原化記」にも出てゐる。旅中一宿した僧房に於て、十七八の美人を見ることは同じであるが、この方は虎になつたのを目擊したわけでなく、虎の皮をかけて熟睡してゐるに過ぎなかつた。この皮をひそかに取つて隱してしまひ、然る後その美人と結婚する。役人となつて地方に赴任し、また同じ僧房に宿るまで、「集異記」の話と變りはない。たゞこの女房は、主人公が往年の事を云ひ出したら、びどく腹を立てて、自分はもと人類ではない、あなたに毛皮を隱されてしまつた爲、已むを得ず一緒になつてゐるのだ、と云つた。その態度が次第に兇暴になつて、いくらなだめても承知せぬので、たうとうお前の著物は北の部屋に隱してある、と白狀してしまつた。妻は大いに怒り、北の部屋を搜して虎の皮を見付け出し、これを著て跳躍するや否や大きな虎になつた。全體の成行きから見ると、この方が悲劇に終りさうに見えるが、林を望んで走り去り、亭主が驚懼して子供を連れて出發することになつてゐる。
[やぶちゃん注:以上は「太平廣記」の「虎二」に「原化記」を出典として「天寳選人」という題で載る。
*
天寶年中、有選人入京、路行日暮、投一村僧房求宿。僧不在。時已昏黑、他去不得、遂就榻假宿、鞍馬置於別室。遲明將發、偶巡行院內。至院後破屋中、忽見一女子。年十七八、容色甚麗。蓋虎皮。熟寢之次、此人乃徐行、掣虎皮藏之。女子覺、甚驚懼、因而爲妻。問其所以、乃言逃難、至此藏伏。去家已遠、載之別乘、赴選。選既就、又與同之官。數年秩滿、生子數人。一日俱行、復至前宿處。僧有在者、延納而宿。明日、未發間、因笑語妻曰、「君豈不記余與君初相見處耶。」。妻怒曰、「某本非人類、偶爾爲君所收、有子數人。能不見嫌、敢且同處。今如見耻、豈徒為語耳。還我故衣、從我所適。」。此人方謝以過言、然妻怒不已、索故衣轉急。此人度不可制、乃曰、「君衣在北屋間、自往取。」。女人大怒、目如電光。猖狂入北屋間尋覔虎皮。披之於體。跳躍數步、已成巨虎、哮吼囘顧、望林而往。此人驚懼、收子而行。
*]
「河東記」に出てゐるのも、旅中風雪の夜にはじめて相見た少女と結婚する話で、夫妻唱和の詞などがあり、才子佳人の情話らしく思はれるのに、末段に妻の家に歸つたところで、壁に掛けた故衣の下から虎の皮を發見すると、妻は俄かに大笑し、あゝこれがまだあつたか、と云ひ、身に著けると同時に虎になつて咆哮し、門を衝いて去るとある。前に虎になることは勿論、虎の皮の事も全く見えぬ。最後に虎の皮を得て忽ち虎に化し去るのは、何だか取つて付けたやうで、少しく唐突の嫌ひがないでもない。
[やぶちゃん注:以上は「河東記」に出る「申屠澄」。
*
申屠澄者、貞元九年、自布衣調補濮州什邠尉。之官、至眞符縣東十里許遇風雪大寒、馬不能進。路旁茅舍中有煙火甚溫煦、澄往就之。有老父嫗及處女環火而坐、其女年方十四五、雖蓬發垢衣、而雪膚花臉、舉止妍媚。父嫗見澄來、遽起曰、「客沖雪寒甚、請前就火。」。澄坐良久、天色已晚、風雪不止、澄曰、「西去縣尚遠、請宿於此。」。父嫗曰、「茍不以蓬室爲陋、敢不承命。」。澄遂解鞍、施衾幬焉。其女見客、更修容靚飾、自帷箔間復出、而閑麗之態、尤倍昔時。有頃、嫗自外挈酒壺至、於火前暖飮。謂澄曰、「以君冒寒、且進一杯、以禦凝冽。」。因揖讓曰、「始自主人。」。翁卽巡行、澄當婪尾。澄因曰、「座上尚欠小娘子。」。父嫗皆笑曰、「田舍家所育、豈可備賓主。」。女子卽囘眸斜睨曰、「酒豈足貴、謂人不宜預飮也。」。母卽牽裙、使坐於側。澄始欲探其所能、乃舉令以觀其意。澄執盞曰、「請徵書語、意屬目前事。」。澄曰、「厭厭夜飮、不醉無歸。」。女低鬟微笑曰、「天色如此、、歸亦何往哉。」。俄然巡至女、女復令曰、「風雨如晦、雞鳴不已。」。澄愕然嘆曰、「小娘子明慧若此、某幸未昏、敢請自媒如何。」。翁曰、「某雖寒賤、亦嘗嬌保之。頗有過客、以金帛爲問、某先不忍別、未許、不期貴客又欲援拾、豈敢惜。」。卽以爲托。澄遂修子婿之禮、祛囊之遺之、嫗悉無所取、曰、「但不棄寒賤、焉事資貨。」。明日、又謂澄曰、「此孤遠無鄰、又復湫溢、不足以久留。女既事人、便可行矣。」。又一日、咨嗟而別、澄乃以所乘馬載之而行。既至官、俸祿甚薄、妻力以成其家、交結賓客、旬日之內、大獲名譽、而夫妻情義益浹。其於厚親族、撫甥侄、洎僮僕廝養、無不歡心。後秩滿將歸、已生一男一女、亦甚明慧。澄尤加敬焉。常作贈內詩一篇曰、「一官慚梅福、三年愧孟光。此情何所喩、川上有鴛鴦。」其妻終日吟諷、似默有和者、然未嘗出口。每謂澄曰、「爲婦之道、不可不知書。倘更作詩、反似嫗妾耳。」。澄罷官、卽罄室歸秦、過利州、至嘉陵江畔、臨泉藉草憩息。其妻忽悵然謂澄曰、「前者見贈一篇、尋卽有和。初不擬奉示、今遇此景物、不能終默之。」。乃吟曰、「琴瑟情雖重、山林志自深。常尤時節變、辜負百年心。」。吟罷、潸然良久、若有慕焉。澄曰、「詩則麗矣、然山林非弱質所思、倘憶賢尊、今則至矣、何用悲泣乎。人生因緣業相之事、皆由前定。」。後二十餘日、復至妻本家、草舍依然、但不復有人矣。澄與其妻卽止其舍、妻思慕之深、盡日涕泣。於壁角故衣之下、見一虎皮、塵埃積滿。妻見之、忽大笑曰、「不知此物尚在耶。」。披之、卽變爲虎、哮吼拿攖、突門而去。澄驚走避之、攜二子尋其路、望林大哭數日、竟不知所之。
*]
虎の因緣の頗る稀薄な最後の話はしばらく除外するとして、「集異記」及び「原化記」の話は、一面に於て餘吾の天人以來の白鳥傳説を連想せしめると同時に、他の一面に於て「情史」の「情仇類」中の話と多少の連關を持つてゐる。鉛山に人あり、一美婦に心を寄せてゐたが、容易にその意に從はぬ。たまたまその夫が病氣になつた時、大雨の日の晦冥に乘じ、花衣兩翼を著け、雷神のやうな恰好をしてその家に到り、鐡椎を揮つて夫を殺してしまつた。今なら到底こんな事でごまかせるものではないが、當時は雷雨中の出來事だけに雷に打たれたものとして怪しまなかつたと見える。それから稍時間を置いて、人を介して結婚を申し込み、首尾よく本望を達し得た。夫婦仲も不思議に睦まじく一子を擧げた後、この前のやうな雷雨があつたので、男の方から一部始終を話し、もしあの時あゝいふ非常手段を執らなかつたら、お前を妻にすることは出來なかつたらう、と云つた。妻はさりげなく笑つて、その著物や翼は今でもありますか、と尋ねる。こゝにあると箱から出して見せたのが運の盡きで、妻は夫の外出を待ち、これを證據物件として官に訴へ、夫は申開きが立たず、死罪になつた。この話には妖味はないが、隱して置いた祕密を自ら持ち出した爲、運命の破綻に了ることは、前の虎の話と揆を一にしてゐる。
[やぶちゃん注:「餘吾の天人」「近江国風土記」に記載される現在の滋賀県長浜市にある余呉湖(琵琶湖の北方にある独立した湖。ここ(グーグル・マップ・データ))を舞台とした羽衣伝説の天人。この伝承では天女が衣を掛けるのは柳となっている。
「白鳥傳説」各地に伝わる天の羽衣伝説では天女はしばしば白鳥となって舞い降りて美女に変ずるところから、古来の倭武尊や浦島伝説に登場する「白鳥伝説」とも関連性が強く、聖鳥が本体とするならばこれは、以上のような虎が女となって人と交わる異類婚姻譚と同じ系に属すとも言え、実際、ウィキの「羽衣伝説」によれば、本邦の羽衣伝説は神話学上の「白鳥処女説話(Swan maiden)」系の類型と考えられており、これは『日本のみならず、広くアジアや世界全体に見うけられる』とある。
「情史」明末の作家で陽明学者の馮夢龍(ふうむりゅう 一五七四年~一六四六年)の書いた小説集「情史類略」のこと。
「情仇類」「じょうゆうるい」(現代仮名遣)と読んでおく。
以上は同書の「第十四卷 情仇類」の「鉛山婦」。
*
鉛山有人悦一美婦、挑之不從。乘其夫病時、天大雨、晝晦、乃著花衣爲兩翼、如雷神狀、至其家、奮鐵椎椎殺之、卽飛出。其家以爲真遭雷誅也。又經若干時、乃使人説其婦、求爲妻。婦許焉。伉儷甚篤。出一子、已周歲矣。一日、雷雨如初。因燕語、漫及前事、曰、「吾當時不爲此、焉得妻汝。」。婦佯笑、因問、「衣與兩翼安在。」。曰、「在某箱中。」。婦俟其人出、啓得之。赴訴張令。擒其人至、伏罪、論死。
*]
尤も虎皮を用ゐて虎に化する話は、決して女子に限るわけではない。女の虎になるといふ話が何だか不似合に感ぜられるので、先づその話を擧げて見たに過ぎぬ。王居貞なる者が洛に歸る途中、一人の道士と道連れになつた。この男は一日何も食はずにゐて、居貞が睡りに就いて燈を消すと、囊(ふくろ)の中から一枚の毛皮を取り出し、それを被つて出かけて行く。夜半には必ず歸つて來るので、或時居貞が寢たふりをして、いきなりその皮を奪つてしまつた。道士は頗る狼狽し、叩頭して返してくれといふ。君が本當の事を云へば返すよと云ふと、實は自分は人間ではない、虎の皮を被つて食を求めに出るのだ、何しろこの皮を被れば一晩に五百里は走れるからね、といふことであつた。居貞も家を離れて久しくなるので、ちよつと家に歸りたくなり、賴んでその皮を貸して貰つた。居貞の家は百餘里の距離だから、忽ちに門前に到つたが、中へ入るわけに往かぬ。門外に豕(ぶた)のゐるのを見て、たちどころに食つてしまひ、馳せ歸つて毛皮を道士に返した。家に戾つてから聞いて見ると、居貞の次男が夜、外へ出て虎に食はれたといふ。その日を勘定したら、正に居貞が毛皮を被つて行つた晩であつた(傳奇)。――我が子の見分けも付かなくなるに至つては、物騷でもあり不愉快でもある。虎皮を被ればおのづから虎心を生じ、眼前の動物が皆食糧に見えるのかも知れない。
[やぶちゃん注:「王居貞なる者が洛に歸る途中」原文を見ると判るが、「下第」で彼は科挙試を受けて落第して、消沈して帰る途中である。
「この男は一日何も食はずにゐて」原典では道士はそれを道術の「咽氣術だ」と述べたとする。
「五百里」何度も述べているが、中国唐代の一里は五百五十九・八メートルしかないが、それでも二百八十キロメートル弱となる。
「傳奇」は晩唐の文人官僚裴鉶(はいけい)の伝奇小説集で、唐代伝奇の中でも特に知られたもので、本書の名が一般化して唐代伝奇と呼ばれるようになったとも言われている。ここに出るのは「太平廣記」の「虎五」の「王居貞」。
*
明經王居貞者下第、歸洛之潁陽。出京、與一道士同行。道士盡日不食。云、「我咽氣術也。」。每至居貞睡後、燈滅。卽開一布囊、取一皮披之而去、五更復來。他日、居貞佯寢、急奪其囊、道士叩頭乞。居貞曰、「言之卽還汝。」。遂言吾非人、衣者虎皮也、夜卽求食於村鄙中、衣其皮、卽夜可馳五百里。居貞以離家多時、甚思歸。曰、「吾可披乎。」。曰、「可也。居貞去家猶百餘里。遂披之暫歸。夜深、不可入其門、乃見一豬立於門外、擒而食之。逡巡囘、乃還道士皮。及至家、云、居貞之次子夜出、爲虎所食。問其日、乃居貞囘日。自後一兩日甚飽、並不食他物。
*
原典では後からつけたように、最後に「王居貞が虎に変じて豚に見えた自分の子どもを食べた後は、一日二日の間、腹が一杯の状態であって何も食べなかった」という象徴的なカニバリズム・ホラーの駄目押しが行われいることが判る。]
由來虎の話に關する限り、道士なる者が甚だ怪しいので、石井崖なる者が或溪のところへ來ると、朱衣を著けた一人の道士が靑衣の二童子を從へて石の上に居る。その量子に語る言葉を聞けば、わしは明日中に書生石井崖を食ふ筈になつてゐる、お前達は側杖を食つて怪我をするといかんから、どこかへ行つてゐた方がよからう、といふのであつた。井崖の眼には道士の姿が見えるが、道士は井崖のゐることに氣が付かぬらしいので、驚いて旅店に匿れ、幾日も外へ出ぬやうにしてゐた。たまたま軍人がやつて來て、お前は武器を携へて居りはせぬかと問ふ。井崖は道士の言を聞いて居るから、刀を出して軍人に渡し、自分は槍の穗先を拔いて懷ろに呑んで居つた。井崖が容易に出發せぬのを見て、頻りに追ひ立てようとする。已むを得ず宿を立つ段になつて、槍の穗先を竹に仕込み、恐る恐る出かけると、果して一疋の虎が路を要して居る。井崖は忽ちに捉へられたが、用意の槍を以てその胸を突き、途にこれを發した。前の二童子もどこからか現れ、この體を見て大よろこびであつたと「廣異記」にある。この話には虎の皮の事は見えぬが、多分井崖を襲ふ前には隱し持つた虎の皮を被つて一躍咆哮したことであらう。「解頤錄」に見えた石室中の道士のやうに、已に九百九十九人を食ひ、あと一人で千人に達するといふ、五條橋の辨慶のやうな先生も居る。この道士は架上に虎の皮をひろげて熟睡してゐたといふから、道士だと云つて油斷は出來ない。道士を見たら虎と思へといふ諺、どこかにありはせぬかと思はれるくらゐである。
[やぶちゃん注:「解頤錄」(かいいろく)は唐代伝奇の一つで包湑(ほうしょ)作とするが疑わしい。
最初の話は「太平廣記」「虎七」に「廣異記」からとして「石井崖」で出る。
*
石井崖者初爲里正。不之好也、遂服儒、號書生、因向郭買衣、至一溪、溪南石上有一道士衣朱衣、有二靑衣童子侍側。道士曰。「我明日日中得書生石井崖充食、可令其除去刀杖、勿有損傷。」。二童子曰、「去訖。」。石井崖見道士、道士不見石井崖。井崖聞此言驚駭、行至店宿、留連數宿。忽有軍人來問井崖。莫要携軍器去否。井崖素聞道士言、乃出刀、拔鎗頭、懷中藏之。軍人將刀去、井崖盤桓未行。店主屢逐之、井崖不得已、遂以竹盛却鎗頭而行。至路口、見一虎當路。徑前躩取井崖。井崖遂以鎗刺、適中其心、遂斃。二童子審觀虎死。乃謳謌喜躍。
*
この話、幾つかの意味不明な箇所が却って話を面白くさせているように私には思われる。まず、井崖には道士が見えたのに、道士には見えなかった点で、これは逆に井崖にこそ仙骨があることの暗示であろう。武器を取り上げた軍人は道士の変じたものであろうが、さても意外な展開で虎が斃されると、例の青衣の二童子が出て来て大喜びする辺りには、道士の弟子は師匠が死なないと、真の仙道修行が出来ないのであろうと私は推測するものである。なお、これと、次の話を読むに、羽化登仙するレベルの低い手法の中には、実は一定数の人間を喰うというカニバリズムによるそれが存在したことがよく判ってくる。
*
後者は「太平廣記」の「虎一」に「峽口道士」として載る。
*
開元中、峽口多虎、往來舟船皆被傷害。自後但是有船將下峽之時、即預一人充飼虎、方舉船無患。不然。則船中被害者衆矣。自此成例。船留二人上岸飼虎。經數日、其後有一船、內皆豪強。數內有二人單窮。被衆推出。令上岸飼虎。其人自度力不能拒、乃爲出船、而謂諸人曰、「某貧窮、合爲諸公代死。然人各有分定。苟不便爲其所害。某別有懇誠、諸公能允許否。衆人聞其語言甚切。爲之愴然。而問曰、「爾有何事。」。其人曰、「某今便上岸、尋其虎蹤、當自別有計較。但懇爲某留船灘下、至日午時、若不來、卽任船去也。衆人曰。我等如今便泊船灘下、不止住今日午時、兼爲爾留宿。俟明日若不來、船卽去也。」。言訖、船乃下灘。其人乃執一長柯斧、便上岸、入山尋虎。並不見有人蹤。但見虎跡而已。林木深邃、其人乃見一路、虎蹤甚稠、乃更尋之。至一山隘、泥極甚、虎蹤轉多。更行半里、卽見一大石室、又有一石床、見一道士在石床上而熟寐、架上有一張虎皮。其人意是變虎之所、乃躡足、于架上取皮、執斧衣皮而立。道士忽驚覺、已失架上虎皮。乃曰、「吾合食汝、汝何竊吾皮。其人曰、「我合食爾、爾何反有是言。二人爭競、移時不已。道士詞屈、乃曰、「吾有罪于上帝、被謫在此爲虎。合食一千人、吾今已食九百九十九人、唯欠汝一人、其數當足。吾今不幸、爲汝竊皮。若不歸、吾必須別更爲虎、又食一千人矣。今有一計、吾與汝俱獲兩全。可乎。其人曰、「可也。」。道士曰、「汝今但執皮還船中、剪髮及鬚鬢少許、剪指爪甲、兼頭面脚手及身上、各瀝少血二三升、以故衣三兩事裹之。待吾到岸上、汝可抛皮與吾、吾取披已、化爲虎。卽將此物抛與、吾取而食之、卽與汝無異也。」。其人遂披皮執斧而歸。船中諸人驚訝、而備述其由。遂於船中、依虎所教待之。遲明、道士已在岸上、遂抛皮與之。道士取皮衣振迅、俄變成虎、哮吼跳躑。又拋衣與虎、乃嚙食而去。自後更不聞有虎傷人。衆言食人數足。自當歸天去矣。
*]
かういふ道士の顏觸れを見來つて、「聊齋志異」の向杲の話を讀めば、何人も自ら首肯し得るものがあらう。向は今までの話と違ひ、莊公子なる者に兄を殺され、常に利刀を懷ろにして復讐を念願としてゐる。先方もこれを知つて、焦桐といふ弓の名人を雇ひ、警衞に怠りないので、容易につけ入る隙がないけれど、なほ初一念を棄てず、あたりを徘徊してゐると、一日大雨に遭つてずぶ濡れになり、山の上の廟に駈け込んだ。こゝに居る道士の顏を見れば、嘗て村に食を乞うた時、向も一飯を饗したおぼえがある。道士の方でも無論忘れては居らぬ。褞袍(どてら)のやうなものを出して、濡れた著物の乾くまで、これでも着ておいでなさいと云つてくれた。總身の冷えきつた向は、犬のやうにうづくまつてゐたが、身體が暖まるにつれてとろとろとしたかと思ふと、自分はいつの間にか虎になつてゐた。道士はどこへ行つたかわからない。この時莊公子の事が灼き付くやうに心に浮んで、向は虎になつたのを幸ひに、敵を嚙み殺してやらうと決心した。山上の廟へ飛び込む前、自分の隱れてゐたところに來て見たら、自分の屍がそこに橫はつてゐる。はじめて自分は已に死に、後身が虎になつたものとわかつたが、自分の屍を鳶鴉の餌にするに忍びないので、ぢつとそれを守つてゐるうちに、思ひがけなくも莊公子がそこを通りかゝつた。虎は跳躍して馬上の莊公子を襲ひ、その首を嚙み切つたが、護衞の焦桐は一矢を放ち、あやまたず虎の腹に中(あた)つた。向は再び昏迷に陷り、夢の醒めるやうに氣が付いた時は、もとの人間に還つてゐた。夜が明けて家に帰ると、向杲の幾日も歸らぬのを心配してゐた家人は、よろこんで迎へたけれど、彼は直ぐ橫になつて何も話をしない。莊公子の虎に襲はれた噂は間もなく傳はつた。向は初めてその虎は自分だと云ひ、前後の事情を話した。莊の家ではこの話を傳聞して官に訴へたが、役人は妄誕として取り上げなかつた。道士の消息は更に知られて居らぬ。彼は向に一飯の恩を受けてゐたのだから、向が敵討の志願を懷いてゐることは、勿論承知だつたに相違ない。向に貸した褞袍は何であつたか。貸し手が道士だけに、もしこれが虎の皮であれば、首尾一貫するわけであるが、「聯肅志異」はたゞ「布袍」とのみ記してゐる。道士は平生この布袍によつて虎と化してゐかどうか、その邊は更に證跡が見當らぬけれど、彼は漫然この布袍を貸し、向杲は測らず虎になつたたものとは考へにくい。虎に化して敵を斃した後、虎に死し人に蘇る經緯は、すべて道士の方寸に出たらしく思はれる。
[やぶちゃん注:「向杲」「コウコウ」(現代仮名遣)と読んでおく。
「焦桐」「ショウトウ」(同前)と読んでおく。
以上は「聊齋志異」の「第六卷」の「向杲」。
*
向杲字初旦、太原人。與庶兄晟、友于最敦。晟狎一妓、名波斯、有割臂之盟、以其母取直奢、所約不遂。適其母欲從良、願先遣波斯。有莊公子者、素善波斯、請贖爲妾。波斯謂母曰、「既願同離水火、是欲出地獄而登天堂也。若妾媵之、相去幾何矣。肯從奴志、向生其可。」。母諾之、以意達晟。時晟喪偶未婚、喜、竭貲聘波斯以歸。莊聞、怒奪所好、途中偶逢、大加詬罵。晟不服、遂嗾從人折箠苔之、垂斃、乃去。杲聞奔視、則兄已死。不勝哀憤。具造赴郡。莊廣行賄賂、使其理不得伸。杲隱忿中結、莫可控訴、惟思要路刺殺莊。日懷利刃、伏於山徑之莽。久之、機漸洩。莊知其謀、出則戒備甚嚴、聞汾州有焦桐者、勇而善射、以多金聘爲衞。杲無計可施、然猶日伺之。一日、方伏、雨暴作、上下沾濡、寒戰頗苦。既而烈風四塞、冰雹繼至、身忽然痛癢不能復覺。嶺上舊有山神祠、強起奔赴。既入廟、則所識道士在内焉。先是、道士嘗行乞村中、杲輒飯之、道士以故識杲。見杲衣服濡溼、乃以布袍授之、曰、「姑易此。」。杲易衣、忍凍蹲若犬、自視、則毛革頓生、身化爲虎。道士已失所在。心中驚恨。轉念、得仇人而食其肉、計亦良得。下山伏舊處、見己尸臥叢莽中、始悟前身已死、猶恐葬於烏鳶、時時邏守之。越日、莊始經此、虎暴出、於馬上撲莊落、齕其首、咽之。焦桐返馬而射、中虎腹、蹶然遂斃。杲在錯楚中、恍若夢醒、又經宵、始能行步、厭厭以歸。家人以其連夕不返、方共駭疑、見之、喜相慰問。杲但臥、蹇澀不能語。少間、聞莊信、爭即牀頭慶告之。杲乃自言、「虎卽我也。」。遂述其異。由此傳播。莊子痛父之死甚慘、聞而惡之、因訟杲。官以其事誕而無據、置不理焉。
異史氏曰、「壯士志酬、必不生返、此千古所悼恨也。借人之殺以爲生、仙人之術亦神哉。然天下事足髮指者多矣。使怨者常爲人、恨不令暫作虎。」。
*
例によって柴田天馬氏の訳を掲げておく。一部の読みは省略した。
*
向杲
向杲は字を初旦と言って、大原の人だった。腹違いの兄にあたる晟(せい)と友于最敦(たいそうなかがよ)かったが、晟には波斯(はし)という狎(なじ)みの一妓(おんな)があって、割臂之盟(ふかいなか)だつたが、女の母親が高いことを言うので、二人の約束は遂げられずにいた。
そのうちに、女の母親は、堅気になろうという気がでたので、まず渡斯を、どこへかやりたいと願っていると、前から波斯と心やすくしていた荘という家の公子が、身受けをして妾にしたいと言ってきたので、波斯は母に言った、
「あたしも、いっしょに苦界を出ようと願ってるんだわ! 地獄を出て天堂に登ろうというんだわ! 妾になるんだったら、今と、たいして違わないじゃないの? あたしの願いをいれてくださるんだったら、向さんが、いいのよ」
母が承知したので、晟に考えを知らせると、晟は妻をなくしてまだ結婚しない時だったから、ひどく喜んで財布をはたき、波斯を聘(めと)って帰ったのであった。
荘はそれを聞くと、晟が好きな女を取ったと言って怒った。そして、あるとき、途中で晟に会い、たいそう晟を罵ったが、晟が、あやまらないので、供のものに言いつけ、箠(むち)の折れで、ひどく、なぐらせ、晟が死にそうになったのをみて、行ってしまった。
それを聞いて杲が駆けつけたときには、兄は、もう死んでいた。杲はたらなくかなしかった。腹だたしくもあった。で、すぐ郡に行って訴えたが、荘は広く賄賂をおくって、その理くつを通らないようにした。杲は、くやしいとは思うけれど控訴するみちがないので、待ち伏せをして荘を刺し殺そうと思い、毎日、利刃(わざもの)を懷(の)んで山路の草むらに隠れている、その秘密が、だんだん漏れて、荘は彼の謀(たく)みを知り、出るときには、厳しい戒備(そなえ)をつけていた。そして汾州の焦桐と小う弓の上手な勇士に、たくさんな金をやって、焦を呼び迎え、護衛の一人としたため、呆は手が出せなくなったが、それでも、なお毎日ねらっているのだった。
ある日、ちょうど、かくれているときだった。雨が、にわかに降ってきたので、ずぶぬれになり、寒さに苦しんでいるうちに、ひどい雨が、いちめんに吹き起こったと思うまもなく、続いて、あられが降ってきた。呆は忽々然(うつとり)して、痛いとか、かゆいとかいう覚えが、もうなくなったのであった。
嶺の上には、古くから山神の祠があった。呆は強(むりや)りに走って行き、やがて廟にはいると、そこには所識(なじみ)の道士がいた。前であるが、道士がかつて村に乞いに行ったとき、呆は道士に食べさしてやったことがあるので、道士は杲を知っていた。で、杲が、ぬれねずみになってるのを見ると、布の(もめん)の袍(うわぎ)をわたし、
「とにかく、これと易(か)えなされ」
と言うので、杲は、それと着かえ、寒さをこらえながら、犬のように、うずくまっていたが、見ると、たちまち毛が生えて、からだは虎になっていた。道士は、もう、いなかったのである。
杲は、心の中で驚きもし恨みもしたけれど、仇人(かたき)をつかまえて、その肉を食うには都合がよいと思いかえし、峰を下りて、もと隠れていた所へ行って見ると、自分の死骸が草むらの中に臥(ふせ)っていた。で、やっと前身は、もう死んだのだと悟り、烏や鳶の腹に葬られるのが心配だったから、ときどき見まわって守っていた。
趣日(あくるひ)、ちょうど荘がそこを通ると、たちまち虎が出て、馬上の荘をたたき落とし、首を齕(か)みきって飲んでしまった。焦桐が、とって返して射った矢が、虎の腹にあたって、虎は、ぱったり倒れた。と、杲は在錯楚中(はやしのなか)で、うっとりと目がさめた。そして、ひと晩すぎて、やっと歩けるようになり、厭々(ぶじ)に帰って来たのだった。
家のものはみんな杲が幾夜も帰らないのを心配しているおりからだったので、彼を見ると、喜んで、慰めたり、たずねたりしたが、呆は、ただ臥(ね)ているはかりで、口がきけなかった。
しばらくしてから、荘のたよりを聞いて、みんなは枕もとに来て争(われさき)に話して聞かせた。で、杲は、
「虎は、おれさ!」
と言って、ふしぎなことを、みんなに話した。それが伝わったので、父の死を痛み嘆いていた荘のせがれは、それを聞くと悪(くや)しがって、杲を訴えたが、役人は事がらが誕(ばから)しいうえに拠(よりどころ)がないので取りあわなかった。
*
天馬氏がカットした蒲松礼齡の評言は、
――「壯士、酬ひんと志ざさば、必ず、生きては返らず」とは、千古の昔より、人々に如何とも言い難いやるせない思いをさせてきた所のものである。人が誰かを殺すのに手を貸した上、以ってその人の生命(いのち)をも救ったとは、その仙人の術、これ、なんとまあ、神妙なものであることか! それにしても、この世には怒髪天を衝くが如き痛憤なる出来事が実に多い。怨みを懐かさせられる者は、これ、いつも人間なのであって、仮に暫しの間でさえも虎となれぬことを恨めしく思うことであろう。――
といった意味である(訳には平凡社の「中国古典文学大系」版の訳を一部、参考にさせて貰った。]
第十一 ゐざりを班(ばけもの)とみし事
さる人、西六條にて家老衆(からうしゆ)へ訪(とふ)らひしに、話、時移る内、大夕立(おほゆふだち)しけり。雨止みて獨り歸るに、やうやう暮(くれ)たり。
長築地(ながつぢ)を東へ、黑門(くろもん)未ださゝざれば、御堂(みだう)の前を歸るに、十四、五間先へ、何なるらん、えも知れがたきもの、行く。
折節、月射したるに見れば、高さ三尺ばかりに、橫へも同じ程なり。上は圓(まろ)く、下は平(ひら)し。
後ろへ月射せば、ひかひかと耀(かゝや)く。たゞ鱗(いろこ)のごとし。行くとはすれど、やはかはかも行かず。言語(ごんご)たへて辨(わきま)へがたし。
「何にても、あれ、討つて捨てばや。」
と思ひ、木履(ぼくり)脱ぎ捨て、帷子(かたびら)の裾(すそ)高く取り、するすると走り寄るに、この者、我(わが)氣色(けしき)を見て、
「あゝ。」
といふ聲、又、人なり。さて立ち寄り、
「何者ぞ。」
と云へば、
「これは何時(いつ)も黑門に住むゐざりにてさふらふが、今日(けふ)の白雨(ゆふだち)に門に水漬(みづつ)つき、臥せり申(まうす)べき樣(やう)御座なく、常樂寺樣の御門へ參り候。」
と云ふ。
「げに。」
と思ひ、其姿を見れば、をのれが敷きし古俵(ふるたはら)を背中に負ひ、其上に大きなる縫笠(ぬいかさ)、取り付けたり。
この笠の、濡れにぞ濡れて、月射す影の竹の皮の乾(かは)く間(ま)なきに、ちらちらと光れり。
おかしくも哀れなり、となん。
親のために鹿皮(ろくひ)を被(かふ)れる人、もし、聲せずは、山中(さんちう)に矢を帶(おび)む危うさも思ひやられてぞ侍る。
[やぶちゃん注:シミュラクラ系疑似怪談三連発。誤認による殺害の危険性を孕んでいる点で前話とは強く連関する。
「ゐざり」「躄・膝行」などと漢字表記した。動詞「躄(いざ)る」(膝や尻をついて移動する)の連用形の名詞化したもの。足が不自由な障碍者。概ね乞食(こつじき)した。
「班(ばけもの)」この漢字にかく当て訓をするのは私は初見。「班」の字にこのような意味はない。「区別」の意があるから、人とは別な「ばけもの」ということか?
「西六條」現在の京都府京都市中京区西ノ京三条坊町附近(グーグル・マップ・データ)か。「家老衆」とあるからは、この人物、相応の格式の屋敷を訪れたものと思われる。
「長築地(ながつぢ)」底本は「ながちつきぢ」とルビするが、原典では「き」は見えない。「築地」は「築泥(つきひじ)」の転で、土を搗き固めて造り、瓦などで屋根を葺いた築地塀(ついじべい)であるが、ロケーションから、これはそれを屋敷の周囲に築地を巡らした堂上方(どうじょうがた)の邸の長い塀と読める。
「黑門(くろもん)」黒門通か。この中央の南北の通り(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「黒門通」によれば、『豊臣秀吉による京都改造事業、天正の地割によって猪熊通と大宮通の間に新設された通りである。通りの名は、秀吉によって築かれた聚楽第の東門である「鉄(くろがね)門」の別名「黒門」に由来する。門は黒門通下長者町に存在したとされる』とある。先の三条坊町からは真東で一・六キロメートルほどでこの通りにぶつかる。
「未ださゝざれば」「指さざれば」で、いまだ視認出来ない位置であったということであろう。
「御堂(みだう)」不詳。識者の御教授を乞う。
「十四、五間」二十六、七メートルほど。
「言語(ごんご)たへて」「言語絶えて」が正しい。
「常樂寺」不詳。京都には幾つかの同名の寺があるが、ここまでのロケーション(私の認識に誤りが無ければの話であるが)附近に該当する寺はない。識者の御教授を乞う。
「縫笠(ぬいかさ)」一般には菅笠(単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属カサスゲ Carex dispalata やカンスゲ Carex
morrowii の葉を織り編んだ笠)のことであるが、ここはその「竹の皮の乾(かは)く間(ま)なきに」とあるので、竹を薄く削いだものを材料にしたものであるようである。
「親のために鹿皮(ろくひ)を被(かふ)れる人、もし、聲せずは、山中(さんちう)に矢を帶(おび)む危うさも思ひやられてぞ侍る」元の郭居敬が編した二十四人の孝行譚を集めた「二十四孝」の「剡子(ぜんし)」の話である。ウィキの「二十四孝」によれば、剡子には『年老いた両親がおり、眼を患っていた。鹿の乳が眼の薬になると聞いた両親は、剡子に欲しいと願った。剡子は鹿の皮を身にまとい、鹿の群れに紛れて入った。そこへ猟師が本物の鹿と間違えて剡子を射ようとしたが、剡子が「私は本物の鹿ではありません。剡子と言いまして、親の願いを叶えたいと思い、こうやって鹿の格好をしているのです」と言うと、猟師は驚いてその訳を聞いた。孝行の志が篤いので射られずに帰り、親孝行をすることが出来た』とある。]
第十 痘(いも)する子を化物と思ひし事
闇に燭(しよく)秉(と)らで雪隱(せつちん)へ行く人あり。
かの開き戸あけて歸るに、長(たけ)三尺ばかりに得知れぬ物立ちゐたり。化物と思ひ、彼奴(きやつ)が手を握り、やがて脇差拔き、斬らんとせしかども、此もの、敢へて驚かず。うはがれたる聲に、
「餠買いに行(い)きました。」
と云ふ。
其聲、童(わら)べにして、また、化け物とも定(さだめ)がたし。
しかれども、握りし手の内(うち)、竹の子の根・蛸の手のごとし。
いかさま、珍しき物と思ひ、
「火を持て、來よ、かゝる事あり。」
と云ふ。人々、
「何事ぞ。」
とて來る。
さて、火影(ほかげ)に見るに、庖瘡(はうさう)して山上(あ)げたる、五つばかりの女子、頭巾(づきん)の被(かぶ)り樣(やう)おかしく、袖なき衣に帶もせず居(ゐ)たり。内の下女出て、
「隣りの娘にて候。」
とて抱きて行く。
其の姿と云ひ、聲と云ひ、握りたる手の内まで、異樣(ことやう)にぞ見えし。熱氣に冒(おか)されて來たりしなり。そのまゝ討ち捨(すて)なば、疎忽(そこつ)ならまし。火を待しはいみじくこそ侍れ。
[やぶちゃん注:病気の子供の朦朧状態で夢遊病のようにさ迷い出でたのに遭遇してお化けと勘違いした疑似怪談で前話と直連関。
「痘(いも)」「庖瘡(はうさう)」天然痘。私の「耳囊 卷之三 高利を借すもの殘忍なる事」の「疱瘡」の注を参照されたい。なお、底本は表題の原典の平仮名「いも」を「疸」とするが、これはおかしく、かく変えた。
「雪隱(せつちん)」底本は『雲隠』となっており、ルビもなく、ママ注記さえ、ない。不審に思って原典画像を確認したところ、はっきりと以上のように書かれてある。訂した。
「うはがれたる」嗄(しゃがれ)た。
「餠買いに行(い)きました」口語表現はママ。この台詞が超弩級によい。
「竹の子の根・蛸の手のごとし」或いは天然痘の合併症による皮膚の二次感染や敗血症によって手首に変形が生じていたのかも知れぬが、最後でわざわざ「握りたる手の内まで、異樣(ことやう)にぞ見え」たのであったと言い添えてある以上、単にか細い病んだ女児の手をそのように感じただけととるのがよい。
「火影(ほかげ)」燭の光り。
「山上(あ)げたる」天然痘の症状が最も危険な状態を過ぎることを「山上げ」と称した。
「討ち捨て」「討ち」は原典では「うち」であるが、高田氏の漢字化は正当。ここは斬り捨てて誤って女児を殺害してしまうことを指すからである。
「疎忽(そこつ)ならまし」軽挙妄動の謗りを免れなかったであろう。]
第九 月影を犬と見る事
ある人、五月雨(さみだれ)の晴れ間に、里傳(さとづた)ひの道を行く。月は浮雲の薄きに包まれ、芝生露敷いて、貫(つら)拔き止めぬ玉の數は、崑山(こんざん)もかくやと覺しきに、眺めもいとゞ長き江(え)を、南向(むき)て行く。
芦(あし)も疎らに刈る澤の文目(あやめ)も分(わか)ぬところに、塘(つゝみ)を沿ふて、白犬あり。礫(つぶて)を以つて追へば、ひたもの、逃ぐ。靜かに行けば、犬も靜(しづか)に、止まれば、犬も止まれり。かくて、追(をふ)と思ひつゝ、十四、五町行く。一聲(こゑ)吠ゆる事もなし。
それより江の堤には沿はず、我行く道は橫なりしに、犬、見えずなる。
「こは如何に。」
と、又、元の方(かた)へ戾りて見れば、犬、あり。
不思議の思ひをなすに、何の別の事もなし。
濁水(にごりみづ)に、曇りし月の影、うつろひしなり。
犬と思ひし時は月と見えず。月と合點して、何ほど犬に見なさんとせしかども、犬とは嘗て見えざるなり。
「一念の趣くところ、異なものにて、十四、五町迷へり。知りて後は、迷ふて見んと思ひしかども、迷はれず。」
と語れり。
これやこの、李君が箭(や)走りて堅石(けんせき)を穿ち、王覊(わうき)が戰(いくさ)敗れて深淵を渡ると云ひ、虎と見て射る矢も岩に立つ、と讀みしやまと哥(うた)の例(ためし)か。唯識(ゆいしき)の貴(たふと)き論に、三性(さんしやう)を立(たて)て偏計依他(へんけゑた)の迷ひも、圓成實(ゑんじやうじつ)の明(あきら)かなるに到りては、迷はんと思ふとも、如何で迷はん事を演(のべ)給へり。此話にも知られ侍る。かの金口(きんく)、佛語(ぶつご)に眞(まこと)を教へ、未來を勸(すゝ)むるの巍(よそほい)、その操(みさほ)の貴き、また宜(むべ)ならずや。
[やぶちゃん注:またしても犬で連関するが、これは、心霊が写っているとする悪意のない画像系の、錯視による思い込みを原因としたシミュラクラの完全疑似怪談。
「崑山(こんざん)」中国古代の伝説上の神仙の山で、中国の西方にあって黄河の源と考えられた崑崙山(こんろんざん)のこと。
「江(え)」川。
「芦(あし)も疎らに刈る澤の文目(あやめ)」「あやめ」には「菖蒲(あやめ)」を元として序詞的に引き出した上で、それに「物の区別」の意の「文目」を掛けて下へ意味を繫げた。
「ひたもの」既出既注。副詞で「一途に・只管(ひたすら)・矢鱈(やたら)と」の意。
「十四、五町」一キロ半から一キロ六百メートル強。
「我行く道は橫なりし」「江の堤には沿は」なかったが、堤の陸側の、少し離れた横の、やはり川に附かず離れずの道であった。
「李君が箭(や)走りて堅石(けんせき)を穿ち」「史記」の「李將軍列傳」に出る李広(前漢の武将で、かの李陵の祖父に当たる)の逸話、『廣出獵、見草中石、以爲虎而射之、中石沒鏃。視之石也。因復更射之、終不能復入石矣。』(廣、出でて猟(かり)し、草中の石を見、以つて虎と爲して之れを射、石に中りて鏃(やじり)を没す。之れを視れば石なり。因りて復(ま)た更に之れを射るも、終(つい)に復た石に入ること能はず。)に基づく。これは安静の好きな謡曲の、「戀重荷」にもシテの台詞で『重くとも。思は捨てじ唐國の。虎と思へば石にだに。立つ矢の有るぞかし。いかにも輕く持たうよ』と使われているが、この詞章は寧ろ後の「虎と見て射る矢も岩に立つ、と讀みしやまと哥(うた)」に示した了誉の和歌がネタ元かとも思われる(竹本幹夫氏の『「作り能」の初期形態』(PDF)を参照されたい)。
「王覊(わうき)が戰(いくさ)敗れて深淵を渡る」全く不詳。しかし、前の章句と対句になっているから、「王覊」なる武将が「戰(いくさ)」に「敗れて」、失意のどん底の中、敗走した際、その絶望的な意識が物理的外界をも制して、彼は非常に深い「淵を」さえ浅瀬を「渡る」ように渡ってしまっていた、というのであろう。原拠を御存じの方は、是非、御教授願いたい。
「虎と見て射る矢も岩に立つ、と讀みしやまと哥(うた)の例(ためし)」これは、
虎と見て射る矢は石に立つなるをなど我が戀の通らざるらん
という、南北朝から室町中期にかけて生きた浄土宗の学僧で神道・儒学・和歌にも精通した聖冏(しょうげい 興国二年/暦応(一三四一)年~応永二七(一四二〇)年:号は酉蓮社了誉(ゆうれんじゃりょうよ))の「古今集序註」に出る彼の和歌であろう。
「唯識」この世の事物現象は客体として実在しているものではなく、人間の心の根源である「阿頼耶識(あらやしき)」が展開して生じたものに過ぎないとする思想。法相宗(ほっそうしゅう)の根本教義。
「三性(さんしやう)を立(たて)て偏計依他(へんけゑた)の迷ひも、圓成實(ゑんじやうじつ)の明(あきら)かなるに到りては、迷はんと思ふとも、如何で迷はん事を演(のべ)給へり」「三性」はインドの唯識学派の所説の一つで、総ての存在の本性・状態の在り方を有・無・仮(け)・実という点から「遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)」・「依他起性(えたきしょう)」・「円成実性(えんじょうじっしょう)」の三種に分けて説いたもの。「三自性・三性相・三種自性・三相」などとも称する。「遍計所執性」は「遍(あまね)く分別によって構成された性質のもの」「虚妄の存在」という意味で、「世俗的生活で経験される諸々の事物は主観が妄執によって構想したものに過ぎない」「相対的存在」ということを指し、「依他起性」は「他に依存して生起する性質のもの」の意で、「万物は純粋に主観の作用の中に存在するものであって因果関係によって他者に依存して生起するもの」であることを言う。最後の「円成実性」は「円満・完成・真実の性質のもの」という意で、これが「絶対の境地」を表わしているとする。前二者「遍計所執性」と「依他起性」は孰れも無自性であるが、この両者の無自性を正しく認識するとき、存在の絶対的様相、即ち、「円成実性」が真の認識として立ち現われる。それは「無常」であって、変遷する現実世界の中に立ち現れながらも、それは主客の対立を超えているとする。それは「実相・真如・法界」とも呼ばれるものであって,「完全絶対の清澄な悟りの世界」であるとする考え方である(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」を参考にした)。如何で迷はん事を「演」(のぶ)は論理的に説明するの意で、虚妄であり、相対的な存在でしかないシミュラクラを認識した時はその下らない現象(道家思想で言う「物化」)を理屈で真面目に語ったり、或いは完全再現をしたり、今一度同様の意識に立ち戻るなどということは出来ない相談だ、と反語で言っているのである。
「金口」「きんこう・こんく」とも読む。釈迦の口を尊んでいう語で、転じて広く釈迦の説法を指す。
「未來」来世。ここは正しき仏法の王国としての極楽浄土。
「巍(よそほい)」当て訓(歴史的仮名遣の誤りはママ)。「巍」の原義は「高い」「高大なさま」で、現行でしばしば使われるこの字の唯一の熟語「巍然」は山の高く聳えて広大なさま以外に、人物が甚だ優れていることの形容として用いられる。]
第八 冷食(ひへめし)を盜む犬の事
寛永七八年の比、河内高安より、越前北の庄へ下る、木綿商人(あきんど)あり。
その年のみにもあらず、前つかたも度々下りければ、其問屋(といや)の下女に枕ならべ、旅寢の床の情け深きに、此下女を、宿の妻、朝每(ごと)に叱る。いと笑止なれば、下女に、
「何事にかくは叱らるゝ。」
と云ふ。下女、
「その事よ、こゝに不思議なる事こそさふらへ。昨夜(よべ)の冷飯(ひへめし)、櫃(ひつ)に入置き候に、今朝見ればなし。誰がわざとも知れず。我より外に知る者あらじ、と叱らるゝ。指圖(さしず)し給ふも尤(もつとも)なれども、ゆめ、さら、知らぬ事にこそさふらへ。かゝる事語るも、面(おも)なし。」
など云ふ。
商人、聞きて、
「しからば、もの一夜の事、如何でつけて見ぬぞ。」
と。下女のいはく、
「誰か等閑(なをざり)ならん、なれど、朝六(あさむつつ)、夕(ゆふ)さり四つ過(すぎ)て臥(ふす)ゆへ、えも見屆(とゞ)けで臥(ふす)。」
と云ふ。
「さらば、我、つけて見ん。」
と、その夜、待つに、人靜まりて、外面(そとも)の戸、開(あ)く。
「あは。」
と見るに、また中戸のくゞり、開くる。よく見れば、いつも庭にゐる白犬なり。
しばし、四方を見𢌞(みまは)し、大釜(おほかま)の上へ上がり、それより筋易(すちかひ)に、七尺ばかりの棚へ、やすやすと飛(とび)あがり、櫃、銜(くは)へ、下(お)りて、蓋(ふた)開(あ)け、中なる飯(めし)、皆、喰らひ、元のごとくにして戸を開(あ)け、また、閉めて外へ出づる。其ありさま、愚かなる人間には過(すぎ)たり。
「さて、盜人(ぬすびと)は知れたり。」
と臥(ふし)ける。
夜明(よあけ)て、宿の妻、又、下女を呼び、櫃、見せて訇(のゝし)る。商人、側(そば)に寄り、
「冷飯の事ならば、これに飼(かひ)給ふ犬が喰らひ候。」
と云ふ。
亭夫婦(ていふうふ)、聞きて、
「如何で贔屓(ひゐき)はし給ふ。二重(ふたへ)の戸開けて、如何で狗(いぬ)の盜まん。」
と云ふ。
「さらば、行く夜、つけて見給へ。」
と云ふ。
商人の云ふにまかせて、つけてみるに、違(たが)ふ事なし。
亭主、呆れ果(は)て、翌朝(あくるあさ)、犬を庭へ呼び、
「扨々、をのれ、畜生の分(ぶん)として、二重(ふたへ)の戸を開(あ)けて盜みをせし事よ。商人殿の、宣(のたま)はずは、知るべきか。憎き奴(やつ)かな。」
と叱る。
犬、耳を垂れ、身震ひして、去りぬ。
さてこそ、盜みをも、下女(しもおんな)かと疑ひしも晴れてこそ侍れ。
かの商人の臥(ふす)所は二階にて、箱階(はこばし)あるに、其夜、例(れい)の犬、葭(よし)一本、銜へて來る。不審に思ひ、寢たる顏(がほ)にこれを見れば、わが堅橫(たてよこ)の長(たけ)、比べて歸る。つけ送りて見るに、家の裏に穴を掘る。葭の長(たけ)にて、これを比(くら)ぶ。
「さては。我を殺さん工(たくみ)ぞ。」
と心得、大小をとり、帶(おび)をして、枕に夜着(よぎ)引かづけ、別(よ)の間(ま)へ入(いり)て覗きて見るに、犬、二階に來たり、喉(のど)の邊りと志(こゝろざ)して一文字(いちもんじ)に飛(とび)かゝるに、人無かりければ、大きに怒り、夜着を三つ、四つに喰らい破り、外へ出でしが、大方(おほかた)危うくぞ見えける。
夜明(よあけ)て、亭主に語る。
「夜着を喰らひ、穴を掘りしありさま、人間には勝(まさ)りたり。」
「いで、其犬、殺さん。」
と犇(ひしめ)けど、行衞(ゆくゑ)、さらになし。
商人も越前より歸り、再び行かずとなん。
鹽賣(しほう)りが科(とが)は、榑賣(くれう)り、さらに知らず。無實(むじつ)を負(おほ)すべからず。菅相(かんしやう)獨り、是を悲しめり。凡そ、人を使ふ人、よく思慮すべし。犬の科(とが)を下女の得しは、如何に悲しからん。忠の疑はしきは祿(ろく)し、罪(つみ)の疑はしきは宥(なだ)むとは、君主の軌(のり)、先生の句(ことば)なり。
間(まゝ)、大人の上(うへ)に正直(せいちよく)の袖も、ねぢけ人の唇(くちびる)により、あたら、名を罪に充(あて)られ、思ひの外の災ひに遭ふあり。鹽治(ゑんや)が忠も師直(もろなふ)が讒(ざん)によりて、惜しき勇士も路頭に滅ぶ。「晏氏春秋(あんしししゆんじう)」に、『景公(けいこう)の家の鼠を憂(うれ)へ、出(いで)ては君の威を借り、入(いり)ては君の傍(かたはら)にあり』と。ものゝ害ある人を病(やめ)り。今とても家々にもて扱(あつか)ふたる人、星(ほし)のごとくあるべし。君としてその臣を知らずは、家、整(ととの)ほらじ。猶、御前(おまへ)追從(ついせう)聞き紛(まが)ひ給ふ師(ひと)は、其(その)智(ち)の淺きゆへか。
[やぶちゃん注:前話とはある意味で人に執心(恋情・怨恨)を持った超常的犬を主要登場人物とする点で強く連関するが、それ以上に、この一篇は、主人公の商人の出身地を「高安」とする点、犬が「飯」を「櫃」から「手ずから」取り出して食うとシチュエーションから見て、明らかにかの「伊勢物語」の第二十二段、「筒井筒」の最後の部分、「河内の國高安の郡に」作った愛人のところへ、「まれまれ」「來てみれば、初めこそ心にくくもつくりけれ、今はうちとけて、手づから飯匙(いひがひ)取りて、笥子(けこ)の器物(うつはもの)に盛りけるを見て、心憂(こころう)がりて行かずなりにけり」のパロディであることが見え見えである(と私は思う)。だから私はあまり面白いとは思わぬし、最後のとってつけた教訓も歯が浮くようで厭な感じだ。
「寛永七八年」一六三〇~一六三二年。
「河内高安」現在の大阪府八尾市内に古くからある地名。同市の東部の玉串川沿いの旧大和川堤防跡の東から生駒山地の奈良県境にかけての広範囲に亙る広域。この附近(グーグル・マップ・データ)。
「越前北の庄」現在の福井県福井市の旧地名。
「いと笑止なれば」殆んど毎日叱られているのを見るので、あまりにも面白おかしく思って。
「指圖(さしず)」(お前がこっそり食ったのだろうと暗に)指弾されること。
「面(おも)なし」恥ずかしくて面白くないことです。
「もの一夜の事」ただ一晩ばかりのことじゃないか。
「如何でつけて見ぬぞ」どうして寝ずの番をして見張って見ないんだ?
「誰か等閑(なをざり)ならん」それはその通りで、私だって濡れ衣着せられて、そのままじゃいられません。
「朝六(あさむつつ)」午前六時頃。
「夕(ゆふ)さり四つ」午後十時頃。
「愚かなる人間には過(すぎ)たり」愚鈍な人間なんぞに比べたら、遙かに敏捷なだけでなく智恵が働いている行動であった。
「訇(のゝし)る」「訇」は原義は音「コウ」で大きな声の形容。
「如何で贔屓(ひゐき)はし給ふ」当然ながら、下女と商人の関係を受けた批判。
「行く夜」今夜。
「商人殿の、宣(のたま)はずは、知るべきか」反実仮想的な謂い。「かの商人(あきんど)さまがおっしゃられなかったならば、我ら、ことの真相を知ることが出来なかっただろうに。」。
「箱階(はこばし)」側面に戸棚や引出などを設けた収納家具兼用になっている階段。「箱階段」「箱段」などとも呼ぶ。
「葭(よし)」葭簀や屋根葺材などに棒状の茎を用いる単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis。
「つけ送りて」あとをつけて行って。
「大小」打ち刀と脇差。一部の有力な豪商などは町人身分であっても苗字帯刀を許されたケースがある。
「引かづけ」「引(ひつ)被(かつ)げ」。なるべく姿を隠すためにひっかぶったのである。
「大方(おほかた)危うくぞ見えける」そのまま気づかずに襲われていたら、命も危うい状況だったと冷や汗をかくような状況であった。
「夜着を喰らひ、穴を掘りしありさま、人間には勝(まさ)りたり。」「いで、其犬、殺さん。」の独立させた台詞は底本では地の文で連続しているが、恣意的に分離して前者を商人、後者を亭主の台詞として、臨場感を出した。後者の「其犬」という謂いからは、商人だけの台詞として独立させたほうがよいかも知れないが、そうすると、直後の「犇(ひしめ)けど」(二人以上が集まって大騒ぎをする)のエキサイト感が生きてこないと判断した。
「鹽賣(しほう)りが科(とが)は、榑賣(くれう)り、さらに知らず」「榑賣(くれう)り」の「榑(くれ)」は一定の大きさに割られた比較的薄い板材の一種で、屋根葺き火つけ木・薪などに用いた。それを売る行商人である。ここは鎌倉時代の僧無住の著した「沙石集」の「卷第五」にある「六 學匠の見解僻む事」に基づく謂い。原文を所持するが、注が必要になるので、簡単に述べると、自分の思い込みで安い塩を高い絹で交換した学僧が、弟子たちにそれはとんでもない高い買い物してしまったと指摘されて、恥じ入りつつも、内心、騙されたと不満を持っていたところが、翌日、全く関係ない別人の榑売りが来たのを「昨日は貴様に騙された!」と棒を以って打とうとする。弟子たちがこれは榑売りで昨日の塩売りとは違いますと注意したところが、学僧は、「御房達は本より非學生にて、子細しらぬさかしらする物哉。鹽賣は鹽賣、榑賣は榑賣とは、別教の心なり。圓教(ゑんげう)の心には、榑賣、卽、鹽賣、鹽賣、卽、榑賣なり。」と言って叱ったので、弟子たちは榑売りを蔭に呼んで幾許かの銭を摑ませて早々に帰らせた、というエピソードをもとに、半可通の仏法認識から誤ったトンデモ行動をしてしまったこの学匠を批判した条々である。「圓教」とは総てが差別を超えて互いに融け合って互いに完成するとする天台教学において特に多用される考え方である。
「菅相(かんしやう)獨り、是を悲しめり」「菅相」は稀代の学識者でありながら、左大臣藤原時平に讒訴され、その冤罪によって失脚した菅原道真で、彼だけが真の仏法の真の実相、円教(えんぎょう)の真意を摑み、それがこの世では全く理解されない、誰一人判っていないことを悲しんだというのであろう。何か、道真のより具体的なエピソードを元にしているのかも知れぬが、私にはその原拠は判らぬ。識者の御教授を乞うものである。
凡そ、人を使ふ人、よく思慮すべし。犬の科(とが)を下女の得しは、如何に悲しからん。忠の疑はしきは祿(ろく)し、罪(つみ)の疑はしきは宥(なだ)むとは、君主の軌(のり)、先生の句(ことば)なり。
「間(まゝ)」副詞。時に。
「大人のうへに正直(せいちよく)の袖も、ねぢけ人の唇(くちびる)により、あたら、名を罪に充(あて)られ、思ひの外の災ひに遭ふあり」「袖」は「人・存在」の意で、まさに直前の道真のケースに代表されるような讒言による失墜の悲劇の事例を言っているのであろう。
「鹽治(ゑんや)が忠も師直(もろなふ)が讒(ざん)によりて、惜しき勇士も路頭に滅ぶ」鎌倉後期から南北朝にかけての武将塩冶判官高貞(?~興国二/暦応四(一三四一)年)は鎌倉幕府滅亡の二年後の建武二(一三三五)年の中先代の乱の後、関東で自立して権勢を持った足利尊氏を討つべく、東国に向かう新田義貞が率いる軍に佐々木道誉と参陣するも、箱根竹ノ下の戦いで足利方に寝返り、室町幕府にあっては出雲国及び隠岐国の守護となった。しかし、尊氏の側近高師直(こうのもろなお ?~正平六/観応二(一三五一)年)の讒言によって謀反の疑いをかけられて領国出雲に向けて逃走、山名時氏らの追討を受けて妻子らは播磨国で自害した。彼自身は出雲に帰りついたが、家臣から妻子自害の事実を聞き、同じく自害して果てた(以上はウィキの「塩冶高貞」に拠った)。
「晏氏春秋」春秋時代の斉に於いて霊公・荘公・景公の三代に仕えて宰相となった名臣晏嬰(あんえい ?~紀元前五〇〇年)に関する言行録を纏めたもの。著者不詳。内篇六巻・外篇二巻の計八巻から成り、内篇は晏嬰が仕えた君主への諫言に纏わる説話が記されている(以上はウィキの「晏氏春秋」に拠った)。
「景公(けいこう)の家の鼠を憂(うれ)へ、出(いで)ては君の威を借り、入(いり)ては君の傍(かたはら)にあり」私は「晏氏春秋」を読んだことがないので、文字列をぼんやり見て思っただけであるが、これは例えば、同書の以下の部分を指すか。個人ブログ「IKAEBITAKOSUIKA」の「◆景公問治國何患晏子對以社鼠猛狗…君主が国を治めるとき患うこととは?、晏子春秋・内篇・問篇・問上 第九◆」を参照されたい。原文・訓読・現代語訳が出る。
「ものゝ害ある人を病(やめ)り」意味不詳。或いは「ものの害、或る人を病めり」で、「ある種の精神的な害毒は或う種の人の精神を蝕むものである」という謂いか? 識者の御教授を乞う。
「家、整(ととの)ほらじ」家が安泰に立ち行くことは、これ、あるまい。
「御前(おまへ)追從(ついせう)聞き紛(まが)ひ給ふ師(ひと)」佞臣や企みごとを腹の中の潜ませた悪賢い親しい者の御追従をそのままに受け取ってしまわれるような御仁は。]
4-17 大岡、神尾、乘邑の器量を賞する事
大岡越州の、山田奉行より德廟の御鑑を蒙り、寺社奉行までに陛りしことは、世の人知る所なり。其人才智も衆に勝れたりしが、常に儕輩に對して松平左近將監計は、其才智の敏捷なること梯しても及ぶべからずと云しとなり。その故は、事もつれて入組、いかんとも斷案しがたき公事訴訟の類を、數日を費して調べ、漸條理貫通するやうになりたることを持出て、左監へ申せば、其半にも至らぬ内に、此事はかくかく移りて、かく結局すべし。さればかくは斷案せらるゝ心得かと、先より申さるゝことの、いつも露違ふこと無りしとぞ。左候と云へば、夫にてよし。今日は事多ければ、詳に承るに及ばずなどありしこと、常の事なりしと云。かゝる神妙の才、亦世に出べしとも思はれずと、人に語りしとなり。又神尾若狹守、享保中司農の長官にて、種々の功績ありしこと、これも亦人の能知れる所なり。若狹守の申たるは、左近將監ほど人をよく使ふ人は無し。あの如く使はれては、誰にても働らかねばならぬと云ける。その故は、あるとき若州病より起て登營し、左近に謁すれば、病氣快やとの尋なり。若州いやとよ未だ全く快らず、此節御用差支べしやと存ずるまま、押て出勤せしと答へしかば、左近色を正くして、其許出勤せずとて御用の支あるべしやと、苦々しく申されければ、若州も失言を悔て退きぬ。扨若州、朝散して家に歸れば、左近より使なり。書札を披讀すれば、病後食氣も未だ薄かるべし。此品調理ほゞよく覺へたれば、分ち進ずとて、鱚の製したるを小重に入れて送りしとなり。
■やぶちゃんの呟き
「大岡」御存知、名奉行大岡越前守忠相(延宝五(一六七七)年~宝暦元(一七五二)年)。千七百石の旗本大岡忠高の四男として江戸に生まれたが、貞享三(一六八六)年満九歳で同族の旗本大岡忠右衛門忠真の養子となって忠真の娘と婚約した。第五代将軍徳川綱吉の時代に寄合旗本無役から元禄一五(一七〇二)年に書院番となり、翌年には元禄大地震に伴う復旧普請のための仮奉行の一人を務め、宝永元(一七〇四)年には徒頭、三年後の宝永四年には使番、翌宝永五年に目付に就任、幕府官僚として成長、第六代将軍家宣の時(正徳二(一七一二)年一月)に遠国奉行の一つである山田奉行(伊勢奉行)に就任した。七代将軍徳川家継の時代の享保元(一七一六)年には普請奉行となって江戸の土木工事や屋敷割りを指揮、同年八月に吉宗が将軍に就任すると、翌享保二年に江戸町奉行(南町奉行)となった(以上はウィキの「大岡忠相」に拠った)。
「神尾」「かんを」と読む。旗本神尾若狭守春央(かんおはるひで 貞享四(一六八七)年~宝暦三(一七五三)年)。ウィキの「神尾春央」によれば、『苛斂誅求を推進した酷吏として知られており、農民から憎悪を買ったが、将軍吉宗にとっては幕府の財政を潤沢にし、改革に貢献した功労者であった』とある。『下嶋為政の次男として誕生。母は館林徳川家の重臣稲葉重勝の娘。長じて旗本の神尾春政の養子とな』。元禄一四(一七〇一)年に仕官し、『賄頭、納戸頭など経済官僚畑を歩み』、元文元年(一七三六)年に勘定吟味役、翌年には勘定奉行となった。時に『徳川吉宗の享保の改革が終盤にさしかかった時期であり、勝手掛老中・松平乗邑の下、年貢増徴政策が進められ、春央はその実務役として積極的に財政再建に取り組み、租税収入の上昇を図った。特に』延享元(一七四四)年には『自ら中国地方へ赴任して、年貢率の強化、収税状況の視察、隠田の摘発などを行い、百姓たちからは大いに恨まれたが、その甲斐あって、同年は江戸時代約』二百六十『年を通じて収税石高が最高となった』。『しかし、翌年』、ここに出る『松平乗邑が失脚した影響から春央も地位が危うくなる。春央は金銀銅山の管理、新田開発、検地奉行、長崎掛、村鑑、佐倉小金牧などの諸任務を』一『人で担当していた他、支配役替や代官の所替といった人事権をも掌握していたが』、延享三年九月に『それらの職務権限は勝手方勘定奉行全員の共同管理となったため』、彼の影響力は著しく減衰した。『およそ半世紀後の本多利明の著作「西域物語」によれば、春央は「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と述べたとされており、この文句は春央の性格を反映するものとして』『広く知られている』。『また、当時の勘定組頭・堀江荒四郎芳極(ほりえ あらしろう ただとう)と共に行った畿内・中国筋における年貢増徴の厳しさから、「東から かんの(雁の・神尾)若狭が飛んできて 野をも山をも堀江荒しろ(荒四郎)」という落書も読まれた』とある(この最後の落書のエピソードは本「甲子夜話」が出典)。
「乘邑」松平左近将監(さこんのしょうげん)乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)。肥前唐津藩第三代藩藩主・志摩鳥羽藩藩主・伊勢亀山藩藩主・山城淀藩藩主・下総佐倉藩初代藩主。老中(享保八(一七二三)年就任)。複数回既出既注。
「御鑑」「御感」の誤字であろう。
「陛りし」「のぼりし」。
「儕輩」「さいはい/せいはい」仲間。同輩。同僚。
「計は」「ばかりは」。
「梯」底本では『てい』とルビする。梯子(はしご)のこと。
「入組」「いれくみ」。
「公事訴訟」「くじそしよう」。現在の民事事件の裁判。
「類」「たぐひ」。
「漸」「やうやく」。
「持出て」「もちいでて」。
「其半にも至らぬ内に」「其半」は「そのなかば」。報告内容の詳細な説明が半分も終わらないうちに。
「此事はかくかく移りて、かく結局すべし。さればかくは斷案せらるゝ心得か」「この公事訴訟案件はそこからこれこれのように推移して、このように結果したものと推測される。さればこれこれといったような裁きを、貴殿は決せられのではないかと推察するが、如何?」。
「先より申さるゝこと」これから拙者がお話しようとした経緯の推移とその結審案を、みるみるうちに簡潔に推測なされて申される、その内容は。
「露違ふこと無りし」「つゆたがふことなかりし」。仰せられた内容には、ほんの少しも違っていることがなかった。
「詳に」「つまびらかに」。
「出べし」「いづべし」。
「享保中」一七一六年~一七三六年。
「司農」(しのう)は中国古代の官名で農政を司ったことから、幕府の財政担当業務の長官であった勘定奉行の別称。
「能知れる」「よくしれる」。
「起て登營し」「起て」は「たつて」。病身を無理におして登城し。
「快や」「よきや」。底本のルビに従った。
「尋」「たづね」。
「差支べしや」底本ではルビして「さしつかゆべしや」と読んでいる。
「押て」「おして」。
「其許」「そこもと」。
「支」「つかへ」。
「悔て」「くひて」。
「朝散」「てうさん(ちょうさん)」は江戸城を下がること。
「使」「つかひ」。
「病後食氣も未だ薄かるべし」病み上がりで食欲もまだあまりないことと推察仕る。
「此品調理ほゞよく覺へたれば」この品はちょっとばかり上手く料理(つく)ることが出来たと思うたによって。
「鱚」高い確率で条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目キス科キス属シロギス Sillago japonica である。身は脂肪が少なく柔らかい白身で美味とされる。白鱚の旬から見てもこのシークエンスは夏と思われ、病み上がりの贈答で「製したるを小重に入れて送りし」とあることからも、これは酢塩でしめたものと推察される。
○安永六年夏の比より、伊豆大島燒(やけ)はじめて、海南へ火もえ出(いづ)る事あり。房州瀕海の地はこの燒(やく)るひゞき、地にこたへて地震(なゐ)のごとく、津浪あるべしとて恐怖にたへず。此もゆる火光(くわかう)夜には品川沖或ははねだ邊まで天に映じて見えたり。翌年猶もゆる事たえず、やうやくにして止(やみ)たり。
[やぶちゃん注:これは伊豆大島三原山の安永の大噴火である。三原山の歴史噴火記録が十分残されている大規模噴火の一つで安永六(一七七七)年から翌年にかけて発生した。ウィキの「伊豆大島」によれば(記載が総てグレゴリオ暦なので独自に旧暦換算もしておいた)、一七七七年八月末(安永六年七月下旬相当)に『カルデラ内の山頂火口から噴火が始まり、火山毛』(かざんもう:「ペレーの毛」(英語:Pele's hair:「ペレー」はハワイに伝わる火山の女神の名。火山の爆発の際にマグマの一部が引き伸ばされて髪の毛状になったものを指す。主に玄武岩由来のガラス質からなる褐色の細い単繊維で、典型的なものは断面が円形に近く、直径は〇・五ミリメートルより細く、長さは最大二メートルにも及ぶことがある)やスコリア(英語:scoria:火山噴出物の一種で塊状を成す多孔質のガラス質物質の中でも暗色のものを指し、「岩滓(がんさい)」とも呼ぶ。主に玄武岩質のマグマが、噴火の際に地下深部から上昇、減圧することによってマグマに溶解していた水などの揮発成分が発泡したために多孔質となったものである)『の降下があった。山頂噴火活動は比較的穏やかだったが』、翌一七七八年二月末頃(安永七年一月末から二月末相当)まで続き、同年四月十九日(安永七年三月二十二日)から『激しい噴火が始まり、降下スコリアが厚く堆積し、溶岩の流出が起こった。このときの溶岩流は北東方向に細く流れ、泉津地区の波治加麻神社付近まで流れ下った』。五月末頃(安永七年六月下旬相当)には一旦、噴火が沈静化したものの、十月中旬頃(安永七年八月下旬相当)より再び噴火が激しくなり、十一月(安永七年九月中旬から十月中旬相当)には『再び溶岩の流出が起こった。このときの溶岩流は三原山南西方向にカルデラを超えて流れ下ったほか、やや遅れて北東方向にも流れ、現在の大島公園付近で海に達した。溶岩の流出などは年内には収まったが』、一七八三年(天明三年)から『大量の火山灰を噴出する活動が始まり』、一七九二年(寛政四年)まで実に最初の兆候から十五年ほどに亙って『噴火が続いた。このときの火山灰の厚さは中腹で』一メートル以上に『達し、人家、家畜、農作物に大打撃を与えた』とある(下線やぶちゃん)。私は一九八六年十一月二十一日に始まった大噴火(溶岩噴泉高度千メートル以上、噴煙高度一万メートルに達した)を、翌日の夜、友人の車で遊びに行った江ノ島から偶然に目撃した。海上に妖しく垂直に立ち上ぼるオレンジ色のやや太い火の柱をよく覚えている。
{ふりて」は「降りて」或いは「振りて」で「降らして」或いは「火を振り散らすようにして」の謂いであろう。「燒たる」は「やけたる」と訓じておく。
「海南」底本では「南」の下にポイント落ちで「邊」の訂正注がある。
「地震(なゐ)」読みは私の推定。
「品川沖」三原山山頂からは直線で百キロメートルほど。
「はねだ」羽田沖で九十五、六キロメートルほど。最初に注した私が見た江ノ島は六十四キロメートルほどである。]
○上總の方言に、古城の跡又は陣屋などをきでと云(いひ)、城出(きで)と云(いふ)也。又山の邊郡といふ所のくりの木は、みな高さ四五尺程にて悉く實(み)のる、[やぶちゃん注:読点はママ。]笹栗と稱してその國の名物也。他邦の栗は喬木にならざれば實とまる事なし。山の邊に限りて栗の大木なし。この山の邊は歌仙赤人の生國なり。大和の國にも同名あれど、上總國正統のよしその處の人いひ傳ふ。萬葉集に赤人の眞間の詠歌あるも、郷國ゆゑ往來して詠ぜしなるべしと云。
[やぶちゃん注:冒頭は前条の方言談と連関している。
「山邊赤人」(やまべのあかひと ?~天平八(七三六)年?)は言わずもがな、柿本人麻呂とともに歌聖と讃えられる万葉歌人。
「きで」「城出」不詳。「日本国語大辞典」には見出しとして「きで」はない。但し、余湖氏の優れた城跡サイトのこちらに千葉県にある「木出城(吉岡城・四街道市吉岡字木出)」(吉岡地区はここ(グーグル・マップ・データ))の記載があり、その説明の最後に『「木出」の地名は「城出」あるいは「城台」がなまったものではないかと考えられている』とあるから、この「きで」「城出」という語は確かに千葉に存在したことが判る。
「山の邊郡」上総国及び旧千葉県にあった山辺郡(やまべぐん)。位置はウィキの「山辺郡(千葉県)」で参照されたい。
「笹栗」ブナ目ブナ科クリ属クリ Castanea
crenata の中でも、現在の各栽培品種の原種で山野に自生するものを指す。「シバグリ(柴栗)」「ヤマグリ(山栗)」などとも呼ばれ、栽培品種はこれに比べて果実が大粒である。現在でもこの原種はごく一部で栽培されているとウィキの「クリ」にある。
「他邦の栗は喬木にならざれば實とまる事なし」意味不詳。栗の木は喬木になるでしょう?! 後の「山の邊に限りて栗の大木なし」とも矛盾した謂いとしか読めぬ。そもそも私の家の裏山にも高木の自生の栗の木がゴマンとあるぞ! 「實とまる事なし」の意味も分らん(実の歩留まりが悪いということ?)! お手上げ! どなたか御教授あれかし!
「この山の邊は歌仙赤人の生國なり」千葉県安房郡鋸南町町役場公式サイト内の「きょなんのむかしばなし」の「田子の浦」に、「万葉集」の『山部赤人の有名な歌「田子の浦ゆ うち出てみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」にある、田子の浦は、勝山海岸という説があります。江戸時代の神代学者、山口志道が発表した説です。勝山の田子台の下の海が田子の浦と呼ばれていたこと、赤人が上総国山辺郡(東金市)出身であるらしいことなどが根拠です。昔から富士の名所の鋸南』で、『冬の晴れた日などは、対岸の富士山は、すばらしくきれいに見えます』とある。
「大和の國にも同名あれど」かつての大和国にあり、現在も奈良県に山辺郡として残る。旧郡域や位置はウィキの奈良県の方の「山辺郡」を参照されたい。古代、この山辺郡内であった奈良県宇陀市の額井岳の麓に「赤人の墓」と伝える五輪塔が現存する。中村秀樹氏のブログ「奈良に住んでみました」のこちらで墓の画像が見られる。
「赤人の眞間の詠歌」「万葉集」の「卷第三」の三首の挽歌(四三一から四三三番歌)を指す。
勝鹿(かつしか)の眞間娘子(ままのをとめ)が
墓を過ぎし時に、山部宿禰(すくね)赤人の作る
歌一首幷(あは)せて短歌
古(いにしへ)に ありけむ人の 倭文幡(しづはた)の 帶解き交(か)へて 臥屋(ふせや)建て 妻問(つまど)ひしけむ 勝鹿の 眞間の手兒名(てこな)が 奥つ城(き)を こことは聞けど 眞木(まき)の葉や 茂りたるらむ 松が根や 遠く久しき 言(こと)のみも 名のみも我われは 忘らえなくに
反歌
我も見つ人にも告げむ勝鹿の眞間の手兒名が奥つ城處(きどころ)
勝鹿の眞間の入江に打ち靡(なび)く玉藻苅りけむ手兒名し思ほゆ
「勝鹿」は現在の東京都葛飾区や埼玉県北葛飾郡及び千葉県市川市真間などの江戸川流域を指す。「倭文幡(しづはた)」は中国伝来の唐織(からおり)に対して、本邦に古来から伝わる地味で落ち着いた織り物のこと。私は高校時代に「真間の手児名」の話を知り、大学一年の春、市川に住む友人の案内で真間を訪れ、手児名の井戸や霊堂を巡ったことがある。懐かしい思い出である。]
伯州丈次郎岩の事
○中國の北の海邊の方言に坂をたをと云(いひ)、きのこをなはと云(いふ)。四十里たをといふ處(ところ)伯州(はくしう)の内にあり、三坂也。又(また)丈次郎岩といふあり、高さ二三丈程あり、その下(した)蜂(はち)の巣の如く穴明(あき)たり。往來の人くゞり通る、出雲より石見へ通ふ北海也。
[やぶちゃん注:「たを」「日本国語大辞典」に「たお(歴史的仮名遣:たを)」、漢字の「撓」を当て、『①山頂の道のあるところ。峠』とし、『②山と山とのくぼまっているところ。鞍部』とした上で、方言の二番目(一番目は鞍部のそれ)として『山の峠』を挙げ、兵庫県・鳥取県・石見・山口県などの中国地方を採集地としている。「坂」の方言とはしないものの、「山の峠」は同時に「坂」である。
「なは」「日本国語大辞典」には「なば」と濁音で載り、『「きのこ(茸)」の異名』と明記した上で方言として『①きのこの笠』(島根県)、『②きくらげ(木耳)』(福岡県)、『③まつたけ(松茸)』(奈良県と広島県)、『④きのこ類の総称』(中国及び九州・石見・広島県・山口県及び九州各地)を挙げており、中国地方から南に広く分布することが示されてある。
「四十里たをといふ處伯州の内にあり、三坂也」「伯州」は伯耆国で現在の鳥取県中部及び西部域であるから、これは「三坂」と地名(坂名?)からは現在の鳥取県西伯郡大山町今在家(大山の西北)にある三坂峠が候補としてまず挙げられる。「峠データベース」のこちらで位置が確認出来る。しかし、最初の「四十里」坂(たお)の名を重視するならば、鳥取県日野郡日野町と岡山県真庭郡新庄村との間にある「四十曲峠(しじゅうまがりとうげ)」というのも気になってくる。上記の三坂峠の別称には「四十里峠」というのは見当たらないことと、「里」は草書の「曲」の字と誤読とも思われなくもないからである。なお、伯耆国ではないが、同じ中国地方の島根県邑智郡邑南町と広島県山県郡北広島町を結ぶ峠に「三坂峠(みさかだお)」という峠が存在することも付記しておきたい。
「丈次郎岩」不詳。識者の御教授を乞う。島根県益田市匹見町道川下道川下に丈次郎城という城があったらしいが(城跡として残る)、ここは「出雲より石見へ通ふ北海」ではない山家であるから違う。
「二三丈」約六~九メートル。]
○美濃養老の瀧の邊に神社あり。その社(やしろ)のうしろに黃金竹(こがねたけ)といふもの年々二本づつ叢生す。壹年限かぎり)にて枯(かる)る、黃金の色にして異竹也。他所に移し植れども生ずる事なし、江戸へも持來(もちきた)りしを見しに、誠に其ことのごとし。
[やぶちゃん注:「美濃養老の瀧」現在の岐阜県養老郡養老町にある落差三十二メートル、幅四メートルの瀧。鎌倉時代の「十訓抄」の「第六」の「忠直を存ずべき事」
の第十八話にある「養老の孝子」や、同期の「古今著聞集」の「卷八」に載る「孝行恩愛 第十」等に記される瀧水が酒になったという親孝行奇譚の古伝承などでよく知られる。
「神社」養老神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。養老の滝の四百メートルほど下流の左岸に位置する。
「黃金竹(こがねたけ)」読みは日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」の「黄金竹」に拠った。同記載は本「譚海」のこの記載を原出処とする。なお、現在、黄金竹なる和名を持つ竹は実在する。単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科マダケ属マダケ Phyllostachys bambusoidesの品種であるオウゴンチクPhyllostachys
bambusoides f. holochrysa である。「竹図鑑」の同種の解説によれば(リンク先に写真有り)、『マダケの黄金型』で、稈(かん:竹の中空になっている茎部分の植物学上の呼称)が黄色を呈し、『緑の縦縞が不規則に入る場合もある』。但し、現在、この竹が同地のみに特異的に植生しているなどということは確認出来なかった(ネット検索で掛かってこない)。画像を見る限り、黄金というほどのことはなく、寧ろ、普通に乾燥させた竹の色に似ているように私には見える。
「誠に其ことのごとし」事実、その噂通り、根づかなかったというのである。しかもその枯れたものを津村は実際に見たと言っている。植物の実見談として前の萩譚などとやはり連関した記載と言える。]
○藝州嚴島明神の鳥居は、萩とつゝじの樹とを以て建(たて)たる二柱なりとぞ。安永八年夏雷火にて燒亡せり。五百年來をへて希代のもの也しを、此度(このたび)燒亡せし事誠に惜むべき事也。
[やぶちゃん注:前二項と合わせて萩絡み(仙台は躑躅の名所でもあるからその絡みもある)で、以上の三本は明確な連関性の中で記された本書でも特異点の記載であることがはっきりと判る。しかし、萩と躑躅(ツツジ目ツツジ科ツツジ属 Rhododendron)を鳥居材とするというのはやはり不審である。調べてみると、現在の満潮時には海中にそそり立つ厳島神社の大鳥居(ここもそれを言っているとしか思われない)は楠(クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora)製で、個人ブログ「樹樹日記」の「厳島神社の鳥居」によれば、通常では神社の鳥居には檜(球果植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ヒノキ属ヒノキ Chamaecyparis obtusa)が使われるが、この大鳥居は昔から楠と決まっている、とある(ブログによれば仁安三(一一六八)年に平清盛が厳島神社を造営したその翌年にこの大鳥居の初代が造営されたとあるから、現在までは八百四十八年になる)。そこではその理由について『クスノキは昔から造船材料として使われたくらい水に強いので、脚が海に沈んでも大丈夫なようにクスノキを選んだのではない』かと推測されておられる。楠なんだ。やわな萩や躑躅なんぞではないぞ? 何だろう? この不審の萩材連投は?
「安永八年」一七七九年。徳川家治の治世。本書は寛政七(一七九五)年自序であるが、安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る津村の見聞奇譚をとり纏めたものであるから、「此度」は腑に落ちる。厳島神社公式サイトの年譜にも確かに安永五年に大鳥居が落雷により炎上したとある。但し、「五百年來」とするが、初代の鳥居の建立の仁安四年から安永八年までは六百十年もある。]
○奧州仙臺宮城野の萩は、皆喬木にて火入(ひいれ)灰吹(はひふき)の具に造(つくり)たるものあり、往來の人萩の下をかよひゆくに、花しだりたれて袖を染(そめ)なす事、萩の花ずりといへる事僞(いつはり)ならずと人のいひし。予近き頃松島にあそびてみやぎのを通りたるに、八月の末にして花すでに散(ちり)たりといへり。原町(はらのまち)といふ高き所より野をみつゝ行(ゆく)に、さのみ萩はらおほからず。はるかなる所なれば近く分(わけ)よりてみたらんには、さる事ありやしらず。但し又かく人のいへるは、今よりはるかに昔の事にや、奧州見聞の事はあこやの松といふものに記したれば、こゝに贅(ぜい)せず。
[やぶちゃん注:前の不審な「京三十三間堂梁木の事」と奥州と萩絡みで連関するだけでなく、「往來の人萩の下をかよひゆくに、花しだりたれて袖を染なす事、萩の花ずりといへる事僞ならず」というトンデモ記述でも似ている。但し、こちらは津村の実見体験であることを明記して記す点では、短いものの、「譚海」の中では一種の特異点とは言える。
「仙臺宮城野萩」「仙臺宮城野」は「源氏物語」にも既に詠まれた平安の昔からの歌枕で、「奥の細道」で芭蕉も訪ねている(リンク先は私が二〇一四年に行った「奥の細道」全行程のシンクロニティ・プロジェクトの一篇)。陸奥国分寺が所在した原野で「宮木野」とも書き、「宮城野原」とも称した。陸奥国分寺は現在の真言宗護国山医王院国分寺の前身であるが、本寺は室町時代に衰微、後に伊達政宗によって再興されたものの、明治の廃仏毀釈で一坊を残して廃絶、それが現存の宮城県仙台市若林区木下にある国分寺名義となって残る。ここ(グーグル・マップ・データ)で、以上から地形的には若林区の北に接する現在の宮城野区の仙台市街の中心にある榴ケ岡(つつじがおか)辺りから東及び南に広がる平野部で、この国分寺周辺域までの内陸平原一帯が原「宮城野」原であると考えてよいであろう。ここで言う「宮城野」の「萩」は通常のマメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza である。「宮城野萩」という和名を持ち、宮城県の県花にも指定されている萩の一種、ハギ属ミヤギノハギ Lespedeza thunbergii なる種が存在するが、本種は宮城県に多く自生はするものの、近代になって歌枕の宮城野の萩にちなんで命名されたものであるから、本種に比定することは出来ない。特に本邦に自生するハギ類で我々が普通に「萩」と呼んでいるものはハギ属ヤマハギ亜属(模式種ヤマハギLespedeza
bicolor。芽生えの第一節の葉がハギ亜属では互生し、ヤマハギ亜属では対生する違いがある)のものである旨の記載がウィキの「ハギ属」にはある。
「火入」煙草盆の中に組み込んで置く煙草の火種入れの容器。中に灰を入れ置いて火を熾(おこ)した切炭を中央に埋めておく。香炉の小振りな物や向付を見立てで使用したのが始まりと思われ、普通、火種を入れることから陶磁器製であり、萩の木で出来たそれというのはちょっと変わっていると私は思う。
「灰吹」やはり煙草盆の中に組み込んで置くもので、煙草を煙管で吸い終えた後、煙管の火皿部分に残った灰を打ち落とし入れるための筒状の容器。これも普通に見るそれは油抜きをした白竹或いは青竹製である。
「八月の末にして花すでに散たり」萩の開花時期は新暦の七月前後から九月前後までで、旧暦の八月末では遅いと新暦十月上旬頃になってしまい、ちょっと遅い。
「原町」「はらのまち」は現存する地名呼称とウィキの「原町(仙台市)」の記載からかく読んでおいた。現在の宮城県仙台市宮城野区原町(はらのまち)を中心とした古い広域地名。現在の町域はここ(グーグル・マップ・データ)。以下、当該ウィキより引く。『かつて仙台市東部の広い範囲の町名に「原町」の名が冠されていた』。『仙台の東部、宮城野区の中心部に当たる町で、古くから多くの人が往き来していた。また、現在の宮城野区役所所在地の表記は「宮城野区五輪(ごりん)」であるが、この五輪は、かつて原町に含まれてい』て、昭和三(一九二八)年四月までは『宮城郡原町だった。その後、原町小田原、原町南目、原町苦竹の地名で広範囲において称されており、その面積は現在の青葉区と若林区の一部と宮城野区西部を占めていた』。『石巻街道の、仙台を出て最初にあった「原町宿(はらのまちじゅく)」が起源となっている。江戸時代には、塩竃湊から、舟入掘、七北田川、舟曳堀を経て苦竹まできた船荷が、牛車で原町宿の米蔵まで運ばれていた。以上のことから、原町は仙台の東のターミナルであった。のち、鉄道が開通してその地位を失ったものの、仙台の市街地拡大によって街の東端としての地位を得』ている、とある。
「あこやの松」底本の竹内氏の注に『津村淙庵の奥州紀行記』で現在、『写本が岩瀬文庫に残っている。二巻』とある。書名のそれは「阿古耶の松」で、現在の山形市東部にある千歳山(標高四百七十一メートル)にあったとされる阿古耶姫の伝説に出る松の名。「山形市観光協会」公式サイト内の「あこやの松(千歳山)」の解説によれば、『阿古耶姫は、信夫群司の中納言藤原豊充の娘と伝え、千歳山の古松の精と契を結んだが、その古松は名取川の橋材として伐されてしまったので、姫は嘆き悲しみ、仏門に入り、山の頂上に松を植えて弔ったのが、後に阿古耶の松と称されたという』とある。
「贅せず」必要以上の言葉は添えない。]
○京都三十三間堂の梁は、六十六間通りたるものにて萩の樹なるよし、羽州秋田郡勝平山より出(いづ)といふ銘きりつけてありといへり。
[やぶちゃん注:「京三十三間堂」現在の京都府京都市東山区三十三間堂廻町にあるそれは、正式名称を蓮華王院本堂と称し、近世以降は現在の東山区妙法院前側町にある天台宗南叡山妙法院の境外仏堂となり、同院が現在も所有管理をしている。ここに記されているような三十三間堂の梁の素材・記銘についてはネット上では全く確認出来ない。
「六十六間」これは「三十三間堂の一間(けん:これは距離単位の「間(けん)」ではなく、柱と柱の間を「一間(けん)」と呼ぶ建築用語)が通常距離単位の二間(けん)分に当たる」という説明から出た厳密な意味に於いては誤認識に基づく記載である。ウィキの「三十三間堂」によれば、『三十三間堂の名称は、本堂が間面記法』(けんめんきほう:奈良期から南北朝に用いられた建築の平面・規模・形式を表現する方法。中世前期までの建築は母屋と廂(ひさし)によって構成され、母屋の間口(梁行)柱間を「何間」と表わし、奥行(梁間)は通常は柱間二間であったから省略されて母屋に「何面」の廂が附いているかで表記された)『で「三十三間四面」となることに由来する。これは桁行三十三間』『の周囲四面に一間の庇(廂)を巡らせたという意味である。つまり柱間が』三十三『あるのは本堂の内陣』(母屋)であって、『建物外部から見る柱間は』三十五である。現在は正面に七間の向拝(こうはい/ごはい:仏堂や社殿で屋根の中央が前方に張り出した部分の称)を付けているるが、これは慶安二(一六四九)年から四年頃に増築されたものである。『ここで言う「間」(けん)は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語である』。しかも『三十三間堂の柱間寸法は一定ではなく』、『その柱間も』、現在、『柱間として使われる京間・中京間・田舎間のどれにも該当しない』ものである。「三十三間堂の一間(柱間)は今日の二間(十二尺)に相当する」として堂の全長を「33×2×1.818で約120メートル」と『説明されることがあるが、これは柱間長についても、柱間数についても誤りである』(但し、『実際の外縁小口間の長さ』は約百二十一メートルで、殆んど一致する)』とある。
「萩」マメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza であるが、不審。木本類ではあるが、凡そ梁に使える木ではない。伊原恵司氏の論文「古建築に用いられた木の種類と使用位置について」(PDF)を見る限り、ヒノキ・ヒバが圧倒的で次にツガ・マツ・ケヤキ・スギ・クリ等が並び、これらが素材の殆んどである。私の好きな人形浄瑠璃に「卅三間堂棟由來(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)」(文政八(一八二五)年初演)があるが、あれはまさに白河法皇の病気の原因を取り除くために三十三間堂の棟木に柳の大木を用いることになるという設定であるが、これは実際の伝承をインスパイアしたもので、ウィキの「三十三間堂」によれば、『後白河上皇は長年頭痛に悩まされていた。熊野参詣の折にその旨を祈願すると、熊野権現から「洛陽因幡堂の薬師如来に祈れ」とお告げがあった。そこで因幡堂に参詣すると、上皇の夢に僧が現れ』、『「上皇の前世は熊野の蓮華坊という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし、その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げた。上皇が岩田川(現在の富田川)を調べさせるとお告げの通りであったので、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木を梁に使ったところ、上皇の頭痛は治ったという。「蓮華王院」という名前は前世の蓮華坊の名から取ったものであるという。この伝承により「頭痛封じの寺」として崇敬を受けるようになり、「頭痛山平癒寺」と俗称された』とあるのだが、この芝居、見ながら、不思議に思ったことがある。柳の木は柔らか過ぎてとても梁には使えんだろうという不審であった。ここでまたしても不審が増えてしまった。何方か、私のこの波状的不審を解いては戴けまいか?
「秋田郡勝平山」現在の秋田県秋田市勝平(かつひら)地区。ここら周辺(グーグル・マップ・データ)。ここに記された内容が事実なら、ネット上の検索に掛かってきてよさそうなものだが、ここから三十三間堂の梁材が供給されたという事実は出てこない。識者の御教授を乞う。]
盧君暢といふ人が野に出て二疋の白犬を見た。田圃道を元氣に駈け𢌞つてゐるが、その犬の腰が甚だ長い。盧もその點に不審を懷き、馬をとゞめてぢつと見てゐると、俄かに二疋とも飛び上つて、その邊にあつた沼の中に飛び込んだ。沼の水は一時に湧き上り、水烟の中から朦朧として白龍の昇天するのが見えた。雲氣はあたりに充ち滿ち、風聲雷擊交々起るといふ物凄い光景になつたので、盧は大いに恐れ、馬に鞭打つて急ぎ歸つたが、何里か來るうちに、衣服は悉く濡れ通つてしまつた。はじめて二犬の龍なるを悟ると、これは「宜室志」にある。
[やぶちゃん注:「太平廣記」の「龍六」に「宣室志」を出典として載せる「盧君暢」を示す。
*
故東都留守判官祠部郎中范陽盧君暢爲白衣時、僑居漢上。嘗一日、獨驅郊野、見二白犬腰甚長、而其臆豐、飄然若墜、俱馳走田間。盧訝其異於常犬。因立馬以望。俄而其犬俱跳入於一湫中、已而湫浪汎騰、旋有二白龍自湫中起、雲氣噎空、風雷大震。盧懼甚、鞭馬而歸。未及行數里、衣盡沾濕。方悟二犬乃龍也。
*]
支那に多いのは蟄龍(ちつりやう)の話であるが、蟄龍に至つては眞に端倪すべからざるもので、どこに潛んでゐるかわからない。「龍」(芥川龍之介)の中で、猿澤の池のほとりに「三月三日この池より龍昇らんずるなり」といふ札を立てた得業惠印が瘤の中から龍が昇天する話を、しかつめらしく説くところがあるが、この話は明かに「大唐奇事」に出てゐる。洛陽の豪家の子供が、眉のほとりに肉塊が出來て、いくら療治してもなほらぬ。洛城の一布衣、自ら終南山人と稱する男がこの肉塊を見て、先づ恭しく神を祭り、壺の中から一丸藥を取り出して碎いてつけたところ、暫時にして肉塊が破れ、小さな蛇が中から出て來た。はじめは五寸ぐらゐの長さであつたが、忽ちのうちに一丈ばかりになつた。山人が一擊叱咤すると、雲霧俄かに起り、蛇はその雲に乘じて昇天しようとする。山人忻然としてこれに跨がり、去つて行く所を知らずといふのである。この話などは奇拔な蟄龍譚の中に在つて、最も奇拔なものであるに相違ない。
[やぶちゃん注:「蟄龍(ちつりやう)」地中に潜んでいる竜。後は専ら「活躍する機会を得ないで、世に隠れている英雄」の譬えとして用いられることが殆んどである。
「端倪すべからざるもの」「端倪(たん げい)」は「荘子」「大宗師篇」を初出とする語で「端」は「糸口」、「倪」は「末端」の意で「事象の始めと終わり」の意であるが、後に中唐の韓愈の文「送高閑上人序」(高閑上人を送る序)で「故旭之書、變動猶鬼神、不可端倪、以此終其身而名後世」(故に旭の書、變動、猶ほ鬼神の端倪すべからざるがごとし。此(ここ)を以つて其の身を終ふれども後世に名あり:「旭」はこの前で述べている草書の達人)という文々から「推しはかること」の意となった。ここは後者で「その最初から最後まで或いはその総体を安易に推し量ることは出来ない・人智の推測が及ぶものではない・計り知れない」といった意。
『「龍」(芥川龍之介)』「龍(りゆう)」は大正八(一九一九)年五月発行の『中央公論』初出。「青空文庫」のこちらで全文(但し、新字新仮名)が読める。この作品全体は「宇治拾遺物語」の「卷第十」の「藏人得業猿沢池龍事」(蔵人(くらうど)得業(とくごふ)、猿沢池の龍(りよう)の事)を素材とするが、原拠では龍は昇天しない。
「得業惠印が瘤の中から龍が昇天する話を、しかつめらしく説くところ」「惠印」は「ゑいん」と読む。これは悪戯で恵印が立てた札を見て呆気(あっけ)とられた婆さんが、「此池に龍などが居りませうかいな」と、何食わぬ顔をして様子を見に来た恵印に問うたシークエンスに出る落ち着き払った恵印ののたまうところの台詞である。岩波旧全集から引く。
*
「昔、唐(から)のある學者が眉の上に瘤が出來て、痒うてたまらなんだ事があるが、或日一天俄に搔き曇つて、雷雨車軸を流すが如く降り注いだと見てあれば、たちまちその瘤がふつつと裂けて、中から一匹の黑龍が雲を捲いて一文字に昇天したと云ふ話もござる。瘤の中にさへ龍が居たなら、ましてこれほどの池の底には、何十匹となく蛟龍毒蛇がつて居ようも知れぬ道理じや。」
*
以上の「大唐奇事」のそれは「太平廣記」に同書からとして「異人二」に「王守一」として出る。
*
唐貞觀初、洛城有一布衣、自稱終南山人、姓王名守一、常負一大壺賣藥。人有求買之不得者、病必死、或急趁無疾人授與之者。其人旬日後必染沈痼也。柳信者、世居洛陽、家累千金、唯有一子。既冠後、忽於眉頭上生一肉塊。歷使療之、不能除去、及聞此布衣、遂躬自禱請、既至其家、乃出其子以示之。布衣先焚香、命酒脯、猶若祭祝、後方於壺中探一丸藥、嚼傅肉塊。復請具樽爼。須臾間、肉塊破、有小蛇一條突出在地、約長五寸、五色爛然、漸漸長及一丈已來。其布衣乃盡飲其酒、叱蛇一聲、其蛇騰起、雲霧昏暗。布衣忻然乘蛇而去、不知所在。
*]
「聊齋志異」にある蟄龍は書樓の中であつた。陰雨晦冥の際、螢のやうな小さな光りある物が現れて几に登つたが、その過ぎる跡は皆黑くなる。漸くにして書卷の上に達すると、その卷もまた焦げるので、これは龍であらうと思ひ、捧げて門外に出で、暫く立つてゐたところ、少しも動かなくなつた。龍に對しいさゝか禮を失したかと思ひ返して、もう一度書卷を几に置き、自分は衣冠を改め、長揖してこれを送る態度を執つた。今度は軒下に到り、首を上げ身を伸べ、書卷を離れて橫飛びに飛んだ。その時嗤(わら)ふやうな聲がしたと思つたが、縷の如き一道の光りを放ち、數步外へ行つて首を囘らした時は、已に甕の如き頭となり、恐るべき大きな龍の身を示して居つた。お定まりの霹靂一聲で天外に去つた後、書樓に戾つて調べて見るのに、それまでは書笥中に身を潛めてゐたものの如くであつた。或時は額の瘤、或時は書笥の中、竟に窮まるところを知らぬのが、龍の神變自在なる所以であらう。
[やぶちゃん注:「書樓」書斎を兼ねた多層階状の書庫。
「書笥」「しよし」。後の柴田天馬氏の訳で判る通り、本箱・本棚のこと。
以上は「聊齋志異」の「卷四」の「蟄龍」。まず原文を示す。
*
於陵曲銀臺公、讀書樓上、值陰雨晦冥、見一小物、有光如熒、蠕蠕登几、過處則黑、如蚰跡、漸盤卷上、卷亦焦、意爲龍、乃捧送之。至門外、持立良久、蠖曲不少動、公曰、「將無謂我不恭。」。執卷返、乃置案上、冠帶長揖而後送之。方至簷下、但見昂首乍伸、離卷橫飛、其聲嗤然、光一道如縷。數步外、囘首向公、則頭大於甕、身數十圍矣。又一折反、霹靂震驚、騰霄而去。回視所行處、蓋曲曲自書笥中出焉。
*
柴田天馬氏の訳(昭和五一(一九七六)年改版八版角川文庫刊)で以下に示す。
*
蟄竜(ちつりゅう)
暗い雨の日だった。銀台(つうせいし)の於陸曲(おりくしょく)公が、楼上で書を読んでいると、螢のような光のある小さな物が、うじうじ机に登って来た。その通った処は、蚰(なめくじ)の跡のように黒くなり、だんだん巻(ほん)の上に来て、とぐろを巻くと、巻も、やほり焦げるのだった。公は竜だと思ったので、巻を捧げて門外に送って行き、巻を持って、しばらく立っていたが、曲がったままで少しも動かなかった。公は、
「我(わし)のしかたが、恭しくないと思うのではないかな」
と言って、巻(ほん)を持って引き返し、もとのように机の上に置いて、衣冠束帯に身を正し、長揖(おじぎ)をしてから送って行った。そして軒下まで来ると、首をあげてからだを伸ばし、巻を離れて飛びあがった。しっ、という音がして、一道(ひとすじ)の光が糸すじのようであったが、数歩を離れ、公に向かって、ふりかえった時には、頭(かしら)は甕(かめ)よりも大きく、からだは数十囲であった。そして向きなおるとともに、霹靂(いかずち)が大地をふるわせ、空へ登って行ってしまった。小さい物の歩いた処を見ると、書笥(ほんばこ)の中から出て来たのであった。
*
「銀台」は内外の上奏書を受けて処理する役所である通政司或いはその長官通政使の俗称。]「於陸曲(おりくしょく)公」原文との相違が激しく、何だかおかしいと感じたので、所持する平凡社の「中国古典文学大系」(第四十巻)版の訳を見たところ、冒頭で『於陵(山東省)の銀台にいた曲(きょく)公』と訳されてある。これはそれで腑に落ちる。「蚰」平凡社版は『みみず』(蚯蚓)とするが、「蚰」は中文サイトを見ても「蛞蝓」とするので天馬訳を採る。「長揖」平凡社版には『ちょうゆう』とルビし、割注で『拱手(きょうしゅ)した腕を上から下へおろす礼』とある。「数十囲」平凡社版は『十抱(かか)え』とする。中国特有の誇張表現と考えれば、平凡社版の方が判りはよい。しかし、仮に日本人体尺の両腕幅である「比呂(尋)」(=百五十一・五センチメートル)としても、十五メートル強となる。昇龍としてはもう充分過ぎるほど、ぶっとい。]
「夜譚隨錄」にあるのは、李高魚といふ人が枕碧山房の壁に掛けた古い劍である。例によつて大雷雨の日、一尺餘りの黑い物が、細い線を引いて動くあとを、紅い線のやうなものが逐つて行く。何とも知れぬ二つの線が窓から入つて來て、室内を飛び步くうちに壁に近付いて劍の鞘の中に入つてしまつた。戞々(かつかつ)といふ音がして、狹い鞘の中を動き𢌞るのに、少しも閊へる樣子がない。やゝ暫くして今度は鞘を飛び出し、蜿蜒として軒端まで行つた途端、迅雷が家屋を震はせ、紅い光りが四邊に漲るやうに感ぜられた。その時は黑い線も紅い線も、已に所在を失して居つたが、窓の下を見ると數片の鱗が落ちてゐる。穿山甲(せんざんかふ)の鱗に似たものであつた。劍の刃には蟲の巣のやうな小さな孔が無數に出來て居り、鞘もまた同樣であつた。或人は龍の變化したものだと云つたが、霹靂一擊以外、龍らしいものは姿を見せてゐない。古劍は恐らく贋物になつたことと思はれる。
[やぶちゃん注:「蜿蜒」(ゑんえん)は原義は蛇などがうねりながら行くさま。そこからうねうねとどこまでも続くさまの意となった。
「穿山甲」哺乳綱ローラシア獣上目センザンコウ目センザンコウ科 Manidae のセンザンコウ類(インドから東南アジアにかけて四種と、アフリカに四種の計八種が現存種)であるが、中国だと、南部に棲息するセンザンコウ属ミミセンザンコウ Manis pentadactyla であろう。本種は中文名でまさに「中華穿山甲」と称する。
「古劍は恐らく贋物になつたことと思はれる」ここは柴田宵曲の鋭い指摘である。
以上は「夜譚隨錄」(既出既注の清代の志怪小説)の「龍化」。
*
李高魚枕碧山房、壁掛古劍。一日大雨雷、瞥見一黑物、長尺餘、細如線、後一紅線逐之、自窗凌空而入、繞室飛行、俄延壁上、穿入劍鞘中。即聞戛戛作聲、旋出旋入、無所阻礙。良久、忽又飛出、蜿蜒空際、甫及檐、霹靂一聲、屋宇震動、紅光燭天、不及察二物所至、唯見窗下落鱗數片、酷似穿山甲。取劍視之、鋒刃盡穿小孔、密如蟲蛀、鞘亦如之。或曰、「此龍之變化。」。想當然耳。
*]
日本の龍には遺憾ながらあまり奇拔な話は見當らぬ。建部綾足(あやたり)が「折々草」に書いた龍石の話の如き、奇といふ點では支那の諸譚に遠く及ばぬに拘らず、妙に無氣味な點で日本に於ては異彩を放つに足るかと思ふ。
高取の城下に人を訪ねることがあつて、夏の夜の明けぬうちに家を出た。三里ばかりの道であるから、夜が明けるまでには著くつもりで、もう五丁ばかりといふところに到つた時、漸く東の方が白んで來た。この邊で一休みといふことになつたが、草ばかり茂つてゐて適當な石がない。二尺ばかりの石を見出して道の眞中に運び、手拭を敷いて腰をおろしたのはよかつたが、不思議な事に何となくふはふはして、座蒲團でも積み重ねたやうな氣がする。それも氣のせゐかと煙草などをくゆらし、朝日が出たのを見て步き出したが、何分暑くて堪らず、淸水に顏を洗つたりしながら、持つてゐる手拭に異樣な臭氣のあるのに氣が付いた。いくら洗つても臭氣は更に落ちぬので、新しい手拭を惜し氣もなく棄ててしまひ、それからは道にも迷はずに辿り著いた。先方の家で食事をしてゐるのを朝飯かと思へば、今日は晝飯が遲くなつたのだと云ふ。自分達は例の石に腰をおろして煙草を吹かしただけなのに、何でそんなに時間がたつたのかわからぬ。狐に化されたのではないかといふ話になつて、石の事を云ひ出したら、それは惡いものにお逢ひなすつた、あれは何の害もしないけれど、龍が化けてゐるといふので龍石といふ、妙な臭ひがするのはそのためで、あの石に觸れた者は病氣になるといふ話だが、あなたは何ともないか、と聞かれた。さう云はれると熱があるやうである。幸ひ先方の家は醫者であつたから、藥を煎じて貰つて飮み、駕籠を雇つて貰つて歸ることにした。主人は更に注意して、歸りに氣を付けて御覽、その石は必ずありますまい、と云つたが、成程どこにも見當らなかつた。あたりに石一つないところなので、人が取りのけたにしても目に入らなければならぬ。愈々怪しい事になつて來た。連れてゐた下男は休んだ時も石に觸れなかつた爲、遂に何事もなかつたが、腰かけた男の方は翌月までわづらつて、漸く快方に向つた。これに懲りた男は、山へ往つた時など、得體の知れぬ石に腰かけるものではないと、子供等に教へてゐたさうである。
[やぶちゃん注:「鈍色」「にびいろ」。濃い灰鼠色。
「折々草」は既出既注。
「あれは何の害もしないけれど」と言いながら、「あの石に觸れた者は病氣になるといふ話だが、あなたは何ともないか、と聞」くのは如何にもおかしい。以下に原典を示したが、柴田は「其化物は何に侍るともしらねど」(その化け物の正体は、一体何ものでありますのかということも存じませねど)を訳し間違えているとしか思われない。
以上は同書の「夏の部」の「龍石をいふ條」。岩波新古典文学大系本を参考に、恣意的に正字化して示す。繰り返し記号や踊り字の一部を変更或いは正字化した。歴史的仮名遣の誤りはママ。カタカナで示された原典の読みのみを附した。
*
龍石をいふ條
大和の國上品寺(ジヤウホンジ)[やぶちゃん注:現在の奈良県橿原市上品寺町(じょうぼんじちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]とふ里にいきてあそび侍るに、此主(アルジ)物がたりしき。
主のいとこは、同じ國高取(タカトリ)[やぶちゃん注:現在の奈良県高市(たかいち)郡高取町(たかとりちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。当時は植村氏二万五千石の高取藩の居城高取城があった。]といふ城下(キモト)に土佐(トサ)といふ所に侍り[やぶちゃん注:底本の高田衛氏の注にその高取城城下の『大手口に城下土佐町村があった』とある。現在、高取町内には「上土佐(かみとさ)」「下土佐」の地名が残る(上土佐はここで、「下土佐」はその西北隣りのここ(グーグル・マップ・データ))なお、高取城は町域からは三キロメートルほど南東の離れた山上にある。]。久しくおとづれざりしかばいかむとおもひて、みな月望(モチ)計(バカリ)[やぶちゃん注:七月十五日頃。]、いとあつき比なれば、寅の時[やぶちゃん注:午前四時頃。]に出て往(イキ)ける。道は三里(ミサト)ばかりなれば、明むとするころは參りつくべしとおもひて行に、そこへは今五丁(イツトコロ)[やぶちゃん注:五百五十メートル弱。]ばかりにて、やうやう東(ヒンガシ)のそらしらみたるに、「いととくも[やぶちゃん注:たいそう早く。]來たりぬ。少しやすらはゞや」とおもへど、此わたりは皆野らにて、芝生(シバフ)の露いと深く、ひた居(ヲリ)にをりかねたれば、と見かう見するに、草の中によき石の侍るを見出て、いきて腰かけむとおもへど、蚋(ブト)などや多からむに、こゝへもて來むとて、手を打かけて引に、みしよりはいとかろらかに侍る。大きさは二尺(フタサカ)斗にて、鈍色せる石也。こを道の眞(マ)中にすゑて、淸らを好(コノ)む癖の侍るに、手拭(タナゴヒ)のいと新らしくてもたるを其上に打しき、さて腰(コシ)かけたれば、此石たはむさまにて、衾(フスマ)などを疊み上て其上にをる計におぼえたる。くしき事とはおもへど、心からにや侍りけむと[やぶちゃん注:単なる気のせいに過ぎぬのであろうと。]、事もなくをりて、火打袋(ウチブクロ)をとうでゝ[やぶちゃん注:後でも出てくるが、「取り出して」の意のようである。]火をきり出し、下部(シモベ)にもたばこたうべさせなどし、稻どもの心よげに靑み立たるを打見遣りて、しばし有間(アルアヒダ)に、朝日のいとあかくさしのぼる。いざあゆまむとて立て、道二丁(フタトコロ)[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]斗行に、汗のしとゞに流れて唯あつくおぼえけり。淸水に立よりてかほなどあらひ侍るに、何となくくさき香(カ)のたへがたうしけるを、何ぞとおもへば、かのたなどひにいたくしみたる
何に似たるかをりぞとおもふに、蛇(オロチ)の香にて、そがうへにえもいはずくさき香のそひたるなり。「こはけしからぬ事かな。かの石のうへにかれ[やぶちゃん注:蛇を指す。]がをり侍りけむ名殘(ナゴリ)也。さるにても洗(アラ)ひ落(オト)さむ」とおもひて淸水に打ひぢて[やぶちゃん注:「漬ぢて」浸(ひた)して。]洗へども、中々にさらず。水に入りては猶くさき香のつのりて、頭(カシラ)にもとほるべくおぼゆるに、たなどひは捨て遣りける。さて手もからだもものゝうつりたる[やぶちゃん注:これは先の臭さだけではなく、何かの「もの」=物の怪のまがまがしい気(かざ)ようなものが体に染みつく、憑依したような感じで、の意。]、たへがたければ、はやくいきて湯あみせむといそぎて、いとこのがり[やぶちゃん注:「許(がり)」は
接尾語で人を表わす名詞又は代名詞に付いて「~の所へ」「~の許(もと)に」の意を添える。「處在(かあり)」が転じたものと言われる。]いきつけば、みなまどひ[やぶちゃん注:「圓居」で車座になって座ること。歴史的仮名遣としては「まどゐ」が正しい。]して、朝食にかあらむ、物たうべてはべるが、主のいはく、「久しくみえ給はざりし。かゝるあつき時に、あかつきかけては來(キ)給はで、かく日のさかりには何しに出おはしたり」と聞ゆ。
此男きゝて、「寅の時に出て、唯いまふもとにて夜の明てさぶらへ。主(ヌシ)たちも今朝食參るならずや」といへば、家の内の人皆笑らひて、「いづこにか午睡(ヒルイ)してねおびれ給へるならむ。空は未(ヒツジ)の頭(カシラ)[やぶちゃん注:午後一時頃。早朝の出立から実に九時間も経過していた。]にてさむらへ。けふは晝いひのおそくて、唯今たうぶる也」といふに、少しあやしく成りて空をみれば、日ざしも實にしかり。またあつき事も朝のほどならず。下部をみれば、これも唯あやしくおもへる顏にて、「道には何も程すごすばかりの事はしたまはず。火をきりてたばこ二吸(フタスヒ)斗(バカリ)して侍るのみ也」と申すに、主どもが、「それはかの[やぶちゃん注:底本の高田氏の注に『不詳。「かの」という妖異か。または例のものの意か』とある。考えてみると、強力或いは凶悪な霊や物の怪はその名を口にすることを忌むから、それが単なる指示語であるのは寧ろ自然な気が私にはする。]にて侍らむ。山のふもとにはよからぬ狐(キツ)の折々さるわざして侍ることの有に」といへば、「いな、狐ともおぼえず。かうかうなむ侍る事のありて、其香のいまださらず侍るにいたくなやめり。ゆあみせばや」といへば、主(アルジ)打おどろきて、「それはあしきめにあひたまへり。かの石は龍石[やぶちゃん注:底本注に不詳とする。]とて、此わたりにはかまへて[やぶちゃん注:待ち構えて。]侍り。其化物は何に侍るともしらねど、必ず蛇(オロチ)の香のし侍るをもて、所の者は龍(リヤウ)の化(バケ)て侍る也とて、それをば龍石とは申す也。是に觸(フレ)たる人は、疫病(エタシヤミ)[やぶちゃん注:伝染性の病気。]して命にも及(オヨブ)者多し。御心はいかに侍る」といふに、たちまちに身のほとぼり來て[やぶちゃん注:熱を帯びてきて。]、頭(カシラ)もいたく、いと苦しく成しほどに、いとこは藥師(クスシ)なりければ、「こゝろえて侍り」とて、よき藥(クスリ)を俄(ニハカ)に煮させ、又からだに香のとまりたる[やぶちゃん注:附着浸透しているの。]をば、洗(アラ)ふ藥をもてのごはせなどしけり。「此家にかく病臥(ヤミフシ)てあらむもいかに侍れば、かへりて妻子(メコ)どもに見とらせむ[やぶちゃん注:看病させようと思う。]」とて、某日の夕つかた、堅間[やぶちゃん注:底本では『かたま』とルビし、注で『竹で編んだかご』とする。]にのりてうめきながらかへるべくす。
又主(アルジ)のいはく、「かのやすみ給ふ所にて見させよ。必ず其石は侍るまじきに」ときこゆるに、下部(シモベ)ども心得て、「かの石は道の眞中にとうでゝ侍りける」とて、行かゝりてみれども更になし。人のとりのけしにやとてをちこちみれども、もとより石ひとつなき所なれば有べきにもあらず。「さては化(バケ)たる成けり。おのれは下部だけに、地(ツチ)にをりて侍れば、石にはふれざりける」とて、福(サイハヒ)えたるつらつきしてかへりにけり。
かの男は、八月(ハヅキ)斗(バカリ)までいたくわづらひて、やうやうにおこたりはてぬ[やぶちゃん注:病気の勢いが弱まって良くなった。古語の「怠る」自体に、その意味がある。]と。さて後は子共らにも誰(タレ)にも、「山にいきては心得なく石にな腰かけそ」と教へ侍りきと聞えし。
*]
龍石の正體は結局わからぬが、あたりに何もないところに、この石だけあるのが怪しい上に、鈍色で思つたより輕いといふのも怪しい種の一つである。腥臭(せいしう)が腰かけた人にこびり付いて、いくら洗つても落ちぬのは無氣味なことおびたゞしい。夜が明けてから道に迷つた覺えもなく、どうして數時間も費したか、龍に化されるのは狐狸よりも氣味が惡いことになつて來る。綾足は大和でこの話を聞いたといふのであるが、水にも雨にも關せず、野中に在つて人を惑はす龍は、支那にも類がないかも知れぬ。
第七 七人の子の中も女に心許すまじき事
耳馴れたる話に、ある人、娘を持つ。家に白犬あり。
娘に小便(せうべん)やる度(たび)に、かの白犬を呼びて、
「掃除せよ。此娘は己(をのれ)が妻ぞ。」
など戲(たは)れければ、犬も尾を振りて來たる。
かくて、娘、長(ひとゝな)りて、言立(ことた)つべき比(ころ)、媒酌(なかだち)すべき人、一間所(ひとまところ)にて、緣(よすが)定むべき談合などすれば、此犬、見て、其人の歸るを待ちて、咬(か)みつく。
餘(よ)の人とても、緣(えん)の事、言ふをば、かくの如く、咬みければ、
「由無(よしな)し。」
とてうち捨て、娘の嫁(か)すべきやうなし。
殊に起き臥しともに、娘を思ひ入(いれ)たる體(てい)、凄(すさ)まじくぞ見えし。
親、悲しく思ひ、相人(さうにん)を呼び、卜(うら)を賴みければ、
「此犬、思ひ入れしなり。殺すとも、又、執心、止む事なし。はかなきは、母、あひたてなくも、『汝が妻ぞ』など云ひしを、畜生ながら、聞止(ききとゞ)めけるにや。一度(たび)は語らはせでは叶(かな)ふまじ。方見(うたてく)こそ。」
と云ふ。
親、聞き、涕(なみだ)流し、
「さては。力無し。」
と娘に語れば、敢へて歎く色もなし。
「我に似たる畜生にこそ。」
と、途離(とばな)れたる山に家を作り、犬、諸共(もろとも)に遣(つか)はしけり。
しかるべき因果なめれ、さぞな、添ひ臥(ぶ)しも異(い)な物にあらなん、あたら、よすがの狹筵(さむしろ)も、私語(さゝめごと)もあるべきか、聞くも氣の毒、如何にことふたならであるべきや、橫行(わうぎやう)の者と竪行(しゆぎやう)の袖の語らひ、これなん、耳に鼻かみ、竹に木を接(つ)ぐ例(ためし)ならまし。
かゝる馴染みも薄からで、狐・狸・雉子・兎樣(やう)の物、獲(と)り歸れば、女(をんな)は市(いち)に持(も)て出(いで)、代(しろ)なしつゝも日を送れり。宿世(すぐせ)の約束、淺ましく侍る。
ある時、山伏有(あり)て、此山を過(よぎ)る。並べし軒(のき)も見えなくに、その姿優しき女、もの待つ風情(ふぜい)に見えたり。猶、過(すぎ)がてに立寄(たちよ)り、
「如何におことは誰が問ふてこの山には住(すみ)給ふ。」
と云ふ。女、
「我にも夫(をつと)の候(さふら)ひて。」
と云ふ。
山伏、つくづく聞(きき)て、
『花ならば手折(たをり)、雪ならば捏(つく)ねんに。』
と、一二(ひとふた)云ふ言葉(ことのは)の露も、我(わが)戀草(こひぐさ)に置き餘り、搔き亂したる浮き草の、心の水に誘ひ行(ゆく)、情(なさけ)の渕(ふち)も淺からで、深き契りも結(むす)びたく思ひければ、
「さて。其(その)語らひ給ふは、何處(いづこ)にて、如何なる人ぞ。」
と尋(たづぬ)れば、云はでもと思ふ顏(がほ)に、
「恥づかしながら、犬に契りて侍る。」
と云ふ。
「さては。さうか。」
と、さらぬ體(てい)にて立ち出(いで)、
『この女、犬に添はすべきやうこそ、なけれ。』
と、ある所に待ち居(ゐ)しに、例の犬、見えたり。
『さらばこれなるべし、殺さん。』
と思ひ、峒(ほら)に隱れて待居(まちゐ)る。
犬、更に知らず。
謀(はか)りすまして、たゞ一刀(ひとかたな)に打ち殺し、骸(から)は土に埋(うづ)め、日を經て、彼處(かしこ)に又、訪(とふ)らふ。
女、例(れい)ならず欺く。
空(そら)知らずして、
「何を悲しび給ふぞ。」
と云ふ。
「さればとよ、これこれなり。たゞ假初(かりそめ)に立ち出(いで)て、今日(けふ)、七日になり侍り。行衞(ゆくゑ)思はれ候ぞや。」
と、淚とともに語る。
「さては。さやうに候か。猶、行く身より、殘りし御身の、如何(いかゞ)なり給はん。愛(いと)をしくこそ。」
と云ふ。
「さてしも、悔(くや)む甲斐もなし。我、未だ定まりし妻もなし。來たり給はゞ、誘ひ行かん。」
と云ふ。
女も賴りなき身なれば、その心にまかせて、長く添ひ侍り。
年の矢も數(かず)經(た)ち行けば、子を七人まで儲(まふ)けたり。
山伏、ある夜、語らく、
「御身が添ひし白犬は、かく語らひたきまゝに、我、殺し侍る。」
と語る。
心の下紐(したひも)うち解(と)けしは、はかなくぞ、侍る。
女、つらつら、これを恨み、遂に山伏を殺せり、となり。
故にこそ、女には心許さぬと語れり。
振り分髮(わけがみ)を比べ來(こ)し、幼な馴染みを忘れぬは、殊勝(すせう)にこそ侍れ。「三瀨(みつせ)の川に瀨蹈(せぶ)みして、手を取りて渡すは、初めて逢ふ男(おのこ)なり」と世話(せわ)にも云ひ習(なら)はせり。
また、咲く花はうつろひて、昔に及ぶばぬ色香なれば、散り失せしを惜しむ業(わざ)、いとあらまほし。まさなき枝を手折(たをり)つゝ、色に鳴海(なるみ)の秋風までも、心多(おほ)ふ插(かざ)ず人は、袖時雨(しぐ)るゝ業(わざ)なりけらし。
さればとて、後に添ふを、かくの如く殺す、良きにはあらず。添ふからは、傅(かしづ)くべきなり。世の尻輕(しりがる)なる女に聞かせてしがな。由無き方(かた)に心通(こころかよ)ふ。稀に知れずして、たまたま命あるも、猶、古めかしの調度(でうど)なんど、あち荷(に)なひ、こち運び、いとゞ卯月(うつき)の一日に、恥に近江(あふみ)の筑摩祭(つくままつ)りに、被(かづ)ける鍋(なべ)の、數(かず)、幾つならん。
[やぶちゃん注:前話とは犬で連関している。私は前の大鐘に閉じ込められる中に犬のいたのが妙にリアルで印象的であったから、本篇のこのアイテムの連関性は私にとっては決して軽いものではなかった。また、私にはこの山伏は殺されて当然、真相を七人の子を得た後に聴かされて恨み骨髄となって夫の山伏を殺した女には激しく同情し、何より、この白犬こそ哀れと感ずる人種であるから、例の通り、見当違いの辛気臭い説教を故実をべたべた貼り付けてぐだぐだと記す筆者に対しては、何時ものこと乍ら、やはり強い不快感を感ずる。
「耳馴れたる話」話者(筆者)が、この一種異様な〈異類婚姻譚を主調にした山伏による殺生譚プラス謀略による略奪婚姻譚プラス前夫白犬殺しの仇討(あだうち)譚〉を巷間の噂としてはよく知られた話として提示している点に注意したい。こうした一見異様としか思われない異類婚姻譚が、近世初期に於いては既に一定のステイタスと人気を持ち、必ずしも忌まわしく異常な話とは認識されておらず、ある程度、心情的には許容された綺譚性を持っていたことを示す証左と考えられる。
「娘に小便(せうべん)やる度(たび)に、かの白犬を呼びて」「掃除せよ。此娘は己(をのれ)が妻ぞ」「など戲(たは)れければ、犬も尾を振りて來たる」ここには女性器を露わにして排尿させられる幼女の映像とそれに「尾を振」って駈けて来(き)、その娘の尿(すばり)の後を嗅いで砂をかける牡の子犬という映像に、ある種の猟奇的な仄めかしを含んだ性的象徴関係が感じられる。
「長(ひとゝな)りて」成人して。
「言立(ことた)つ」これは「言葉に出して誓う」(或いは「事立つ」で「平常とは全く異なった行為、今までやったことのないことをする」の意)という、神仏への生涯の一大事としての祈誓の原義から派生したものであろう、「女が添うべき夫を定める」ことを指す。
「相人(さうにん)」人相を見る占い師。観相家。
「はかなきは」何の甲斐にもならぬ、無益なこと(この場合は逆に悪しきことを生み出すこと)には。或いは、思慮分別が不全で、如何にも愚かであったことには。前者は事態そのものの持つカタストロフへの評言であるが、後者で採る場合には、軽率な戯れ言を繰り返して犬に刷り込みをしてしまった母への批判が強く滲むことになる。前振りから見ても後者のニュアンスである。
「あひたてなくも」岩波文庫版で高田氏は『無分別にも』と注しておられる。
「方見(うたてく)こそ」「いや、もう、忌まわしいことじゃ!」。畜生に魅入られたことへの忌避感情が示されてある。「方見」及びルビは原典のママであるが、何故、この文字列で「うたてし」と読むのか、そのような意味になるのかは探り得なかったが、或いは「方見」は「かたみ」で「片身」、不完全であることから、不満・不快であるの意となったものか、或いは「奸(かだ)み」の当て字で「心が致命的にねじけていること」から尋常でない状況を批判的に示すのかも知れぬなどと思いはした。識者の御教授を乞うものである。
「我に似たる畜生にこそ」と娘が「敢へて歎く色もな」く、ぽつりと言ったところが、妙に心に残る。何故、彼女はこの犬のことを「如何にもまさしく私にそっくりな獣だわ」と述懐したのであろう? 寧ろ、この謎めいた台詞こそが、エンディングで七人の子をもうけた後の夫の山伏を殺害するに至る彼女の持つ「因果」に基づく「執心」或いは「怨恨」の伏線なのではあるまいか? 孰れにせよ、本怪談のキモは実はこの娘の奇怪な台詞にこそあると私は思う。
「途離(とばな)れたる」人里離れた。
「さぞな、添ひ臥(ぶ)しも異(い)な物にあらなん、あたら、よすがの狹筵(さむしろ)も、私語(さゝめごと)もあるべきか、聞くも氣の毒」バレ句を読むような荻田の厭らしさを感じさせるイヤな箇所で、真面目に注する気にもなれない。「よすが」は「縁・因・便」で「寄す處(か)」が元で古くはかく清音。第一義は「生きるためのに頼りとなることや対象」で、そこから「夫・妻・子」など意があるので、ここは「生きるよすが」と「夫」を掛ける。「私語(さゝめごと)」閨(ねや:「狹筵(さむしろ)」は寝床)での夫婦の秘かな睦言(むつごと)。
「如何にことふたならであるべきや」反語。「ことふたならであるべきや」については岩波文庫版で高田氏は注で『こんな事が二度とあるであろうか』と訳しておられる。
「橫行(わうぎやう)の者」四足で横になって歩く獣。
「竪行(しゆぎやう)の袖」直立二足歩行をする人間。
「語らひ」夫婦としての関係を持つこと。以下の後の山伏の問いの「語らひ給ふ」や、彼の真相告白の「かく語らひたき」の「語らふ」はその動詞。
「耳に鼻かみ」「耳で鼻をかむ」は出来ない。「竹に木を接(つ)ぐ」と同じく、全く機能や性質の異なるものを繫ぎ合わせることが出来ないことの譬え。
「宿世(すぐせ)の約束」前世の因縁。異類との異様な婚姻生活とその異常な形態も総て仏教的には輪廻に於ける因果応報の思想に吸収されてしまい、何でも閉じられたそのけったいな思想の系の中では腑に落ちるものとして説明され、腑に落ちてしまうのである。逆に言えば、腑に落ちるはずであるところに「淺ましく侍る」と思わず感懐を述べてしまうところにこそ、真の人間性は表われるとも言えるのである。
「並べし軒(のき)も見えなくに」まさに山深いところにぽつんと建つ、あり得ない場所に不思議に現われる異様な一軒屋なのである。修験の山伏なればこそここを通ったのである。しかもそこに「その姿優しき女、もの待つ風情(ふぜい)に見えたり」とあれば、「猶、過(すぎ)がてに立寄」ってしまうのは泉鏡花の「高野聖」を待つまでもなかったのである。
「おこと」相手を敬っていう二人称代名詞。貴女(あなた)。
「誰が問ふて」誰を待って。
「捏(つく)ねん」「つくぬ」は「手で捏(こ)ねて丸める」の意。女を言葉巧みに丸め込んで我が物にするというような厭なニュアンスであり、それが確信犯であることは以下の「一二(ひとふた)云ふ言葉(ことのは)の露も、我(わが)戀草(こひぐさ)に置き餘り、搔き亂したる浮き草の、心の水に誘ひ行(ゆく)、情(なさけ)の渕(ふち)も淺からで、深き契りも結(むす)びたく思」ふという、荻田によって粉飾された(故に厭らしくも)おぞましい表現によく示されてある。こうした荻田の表現過飾がますます山伏に対する生理的嫌悪感を読者に惹起させるのであるが、ここまで過剰になると、或いはそれはそれこそ荻田の確信犯(読者に対して山伏へのシンパシーを絶対無化する)なのかも知れぬとも実は思われてくるほどに五月蠅いのである。
「云はでもと思ふ顏(がほ)」如何にも言いにくそうな困りきった顏、の謂いでとる。
「峒(ほら)」山の斜面にある洞穴。
「例(れい)ならず」尋常でないほどに取り乱して。
「空(そら)知らずして」そしらぬ風をして。
「假初(かりそめ)に」ちょっと。
「心の下紐(したひも)うち解(と)けしは」「下紐」は実際の女の下帯を掛けて、夫白犬を殺害した男に身を許したことをも示す、厭なバレ句の掛詞である。
「故にこそ、女には心許さぬと語れり」「語れり」は「(世間では)言うのである」の意。おいおい!? 急にそこに行くカイ?! 荻田!
「振り分髮(わけがみ)を比べ來(こ)し、幼な馴染みを忘れぬは、殊勝(すせう)にこそ侍れ」「伊勢物語」第二十三段のかの「筒井筒」及びそこに出る、
比べこし振り分け髪も肩過ぎぬ君ならずして誰(た)れか上(あ)ぐべき
の和歌に基づく。
「三瀨(みつせ)の川」三途の川。既出既注。
「瀨蹈(せぶ)み」三途の川の深さを測ったり,先に死んだ者が後から来る亡者のために三途の川で渡り易いところへと導くことを「三途の瀬踏み」と称した。
「世話(せわ)」諺。「三瀨の川に瀨蹈みして、手を取りて渡すは、初めて逢ふ男(おのこ)なり」は「女性が亡くなって三途の川を越える際には、初めて契った男性に背負われて行く」という俗信があったが、これは中世以降に成立した諺であるようだ。それを考証した田村正彦氏の論文「渡す男と待つ女――古代における三途の川の信仰について――」(PDF)を参照されたい。
にも云ひ習(なら)はせり。
「まさなき枝を手折(たをり)つゝ、色に鳴海(なるみ)の秋風までも、心多(おほ)ふ插(かざ)ず人は、袖時雨(しぐ)るゝ業(わざ)なりけらし」修辞粉飾によって私にはよく意味がとれない。「まさなき」はすでに見苦しくなってしまった枝(老いた女)で、「色に鳴海(なるみ)の秋風」は秋風にすっかり褪せた色になる(「鳴海」はそれを尾張国歌枕の鳴海潟で掛けた)、変じてしまった病葉(わくらば:同前の象徴)を未練たらたらに(「までも」)、髪に挿し続けようというような過剰な「色」好みの男は、それを聴いた或いは知った人(袖)の限りない絶望の涙を誘うこととなり、それがその人(女)の袖をすっかり濡らしてしまう(「時雨るゝ」)という浅ましい結果(「業」)を招くこととなるもののようである、の謂いか。大方の御叱正を俟つ。
「添ふからは、傅(かしづ)くべきなり。世の尻輕(しりがる)なる女に聞かせてしがな」この後の謂いを見ても、或いは筆者荻田安静は良縁に恵まれなかったのか、女性関係で痛い目に遇っていたのも知れないなどと私は思うのである。本「宿直草」には、ある種の、筆者