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2017/07/31

Jeanne Moreau



Jyanu



宿直草卷五 第十一 五音を聽き知る事

 

  第十一 五音(ごゐん)を聽き知る事

 

 ある俗(ひと)、每宵(まいせう)、謠講(うたひかう)に行く。

 其座に醫者有(あり)て、

「さても、御身の聲の惡しき事よ。」

と。男、聞(きき)て、

「氣分も惡しからず。いかで、さはのたまふ。」

と云ふ。醫のいはく、

「よし、さもあらばあれ、聲は夜半は過ぎぬ命に聽こえ候へ。」

と云ふ。

 男、大きに驚き、

「しからば、まづ、脈をとり給れ。」

と云ふ。

「さらば。」

とて、とりて見、

「いよいよ沈(ちん)にして數(さく)なり。命門(めいもん)、巡氣(じゆんき)なし。これ、飮み給へ。」

とて、藥を呉るゝ。

「脈の品(しな)、少(ちと)賴み所あり。養性(やうしやう)し給へ。」

と云ふ。

 男、其座にあるもあられねば、我屋(わがや)に歸るに、夜もはや更けて人靜まれども、醫師(くすし)のなまじゐなる諫(いさ)めにより、いとあぢきなくて、目も合はざるに、側(そば)に寢たる妻、手を越して、鼻息を、三度まで、探(さぐ)る。

 寢たふりにもてなすに、また、閏(ねや)の内に長持ありしが、その中に人の息差(いきざ)し、有(あり)。

 男、聞(きき)て、

『さては妻、密夫(まおとこ)ありて、我が寢たらんには殺さんと思ふにこそ。』

と。

 やがて立(たち)て、かの長持を見るに、いつも鎖(じやう)下ろすに、今宵、金打(かなもの)免(ゆる)してありけり。

『賢くも、五音を聽き貰ひし。』

と思ひて、かのゑびつぼに笄(かうがい)を差し、さて、妻を詮索するに、違(たが)ふ事なし。

 思ひのままに計らひし也。

 これ、名醫の五音を聽きし德なり。

 

[やぶちゃん注:この類話は大陸の志怪小説や本邦の怪談及び落語、或いは近代以降の噂話や都市伝説にさえも認められるものである。

「五音(ごゐん)」「五音」なら歴史的仮名遣は「ごいん」が正しいが、これは「五韻」とも書き、それならばこの「ごゐん」で正しい。中国と本邦の音楽理論の用語で、音階や旋法の基本となる五つの音(低い方から順に「宮(きゅう)」・「商(しょう)」・「角(かく)」・「徴(ち)」・「羽(う)」と呼ばれるが、基本的いは洋楽のド・レ・ミ・ソ・ラと同様の音程関係になる。

「聲は夜半は過ぎぬ命に聽こえ候へ」「貴殿の声の調子や様態は、貴殿の命、これ、今夜の夜半過ぎぬ前に果ててしまうものと聴こえて御座る。」。

と云ふ。

「沈」「沈脈」(ちんみゃく)。漢方で脈搏が薄弱なことを指す語。強く指を押しつけないと感じられない脈の打ち方を言う。

「數(さく)」「數脈」(さくみゃく)。漢方で頻脈のことを指す語。脈拍数が「一息五至」(一分間に九十回)以上の脈を指す。

「命門(めいもん)」狭義には「生命の門戸」の意の経絡(臍の位置の背中側)を指すが、ここはそのまま「生命」の意で、その「巡氣(じゆんき)」(これも狭義には肺気・胃気の循環を意味するらしいが、ここは単に正常な「循環」でよかろう)が絶たれつつある状態にあるというのであろう。

「脈の品(しな)」脈の質の良し悪し。最悪の「沈にして數」なのであるが、そこに微妙にある違いがあって、そこに「少(ちと)賴み所あり」(少しばかりであるが希望がかけられるところある)、死なずにすむかも知れぬ、というのである。

「養性(やうしやう)」「養生」に同じい。

「なまじゐなる」中途半端な。不完全な。

「あぢきなくて」やり切れない思いで。

「手を越して」原典は「手をこして」。「手起して」かも知れぬが、こちらの方が私は仕草として映像的にしっくりくるので、かく、した。

鼻息を、三度まで、探(さぐ)る。

「もてなす」見せかける。

「人の息差(いきざ)し、有(あり)」本話のポイントである聴覚的特異点が、巧みに意外なところで活かされてくるシーンである。

「金打(かなもの)免(ゆる)してあり」錠前が完全に外されてあった。

「ゑびつぼ」「海老錠・蝦錠」エビのように半円形に曲がった錠前。唐櫃や門扉の閂(かんぬき)に用い、単に「えび」とも呼んだ。ここはそれを掛けて封じる突起に開いた穴(複数箇のそれを貫いて鍵がかかる)のことと思われる。だから、「笄(かうがい)」(髪を整えるための道具で毛筋を立てたり、頭の痒いところを掻いたりするために用いた箸に似た細長いもの。高級なものは象牙や銀などで作った)を差して中から蓋が開けられないようにしたのである。]

 

宿直草卷五 第十 京師に、人、失る事

 

     第十 京師(けいし)に、人、失(うす)る事

 

 所司代多賀某(なにがし)と云ふは、先(さき)ら、目出度き人なり。

 この時、京分限(ぶげん)なる町人の子、多く失せたり。十人に一人、歸る者はなし。親、悲しび合ひて、これを訴ふ。

 所司代、不思議に思ひ、ある夜、只一人、しかも町人の振り、途子(づし)・小路、巡り給ふに、唐白の音も靜まる小夜更(さよふけ)て、十七、八の女房、袖の移り香、えならぬまでに仄(ほの)めくが、五條の邊り、たゞ獨り行くに遭ふ。

「夜もいたく更(ふけ)しに、何處(いづこ)へか、通り給ふ。」

とあれば、

「三條邊りへ參る。」

と云ふ。

「送り參らすべきか。」

とあれば、

「一(いつ)の情にまことなりや。」

と云ひ、斟酌までに及ばざれば、

『是らこそ妖(あや)しの物なれ。』

と思ひ、女房を先に立(たて)て、手を取り組みて行き給ふ。情に死ねと言の葉の、數もますます重なれば、行くべき三條に着きけり。

「妾(わらは)が住家(すみか)は、これなり。」

と、門、打ち叩きければ、内より同じ樣なる女、二、三人、立ち出(いで)て、

「さてさて、送り給ふ事、かたじけなし。」

と、手を取り、

「まづ入(いり)給へ。」

と云ふ。

「いや。是までなり。」

とあれば、

「先(まづ)。」

と止(と)むる。

『さらば。内見ん。』

と思(おぼ)して、入給ふに、御酒(みき)汲みて、いろいろもてなすにも、猶、寛(くつろ)ぎ給はざるに、例の女房、

「夜も更(ふけ)侍らへば、これにて明かさせ給へ。殊更、道すらも淺からぬまで云ひ交(かは)せしも忘れがたく侍る。たゞ、敷妙(しきたへ)の枕に語らん。傾ふき給へ。」

と、まことしやかに云ふ。

 所司代、げに、聊(いさゝ)か兼(か)ねしことの恥づかしきばかりなれば、

「添ひ寢の床(とこ)に、心の底も解(ほど)きたくさふらへども、今宵は歸らでかなはず。まこと御心ざしましまして、御情(なさけ)も變らでおはしまさば、必ず、翌(あす)の夜、參るべし。見捨て給ふな。」

など懇(ねんご)ろに兼ねて、暇(いとま)乞ふて出で給へり。女は、

「然(しか)らば。」

と堅き言(ごと)して許す。

「さては、怪しの所なり。」

とて、雜色(ざうしき)に言ひ付(つけ)、その翌くる日、かの家、闕所(けつしよ)し給ふに、女七、八人、男十人ばかり、召し捕る。

 家内に井戸掘りて、人多く殺して、尸(かばね)をこれに隱す。

 この事あらはれて後は、人、更に失せず。

 役(やく)に備はる人は、其智、目出度くこそ侍れ。

 獨り行くは危なくも侍る。

 

[やぶちゃん注:完全な疑似怪談というか、犯罪掌篇物で、本書の中ではかなり異質な部類の話柄であると思われる。

「所司代多賀某」「多賀」姓で、しかも才気煥発で名所司代として知られた人物となると、室町後期から戦国前期に生きた多賀高忠(応永三二(一四二五)年~文明一八(一四八六)年)である。室町中期の守護大名で幕府侍所頭人兼山城守護などを歴任した京極高数の子。ウィキの「多賀高忠によれば、主君であった『京極持清は従兄でもあり、その片腕として活躍』、寛正三(一四六二)年に『京都侍所所司代を任ぜられ、土一揆鎮圧と治安維持で名を挙げた』が、文正元(一四六六)年十二月、『持清が延暦寺と衝突して失脚すると共に解任され』てしまう。翌、応仁元(一四六七)年に『応仁の乱が勃発すると持清と』『細川勝元ら東軍に属し、西軍の六角高頼らを圧倒して山城に如意岳城を築いた』。文明元(一四六九)年には『六角氏の本拠である観音寺城を一時制圧して』第八『代将軍足利義政から直々に感状を授けられた』。ところが、『翌年に持清が病死、子の政経を庇護して京極高清、京極政光、六角高頼、多賀清直・宗直父子らの勢力に一時優勢を保つも』、文明四(一四七二)年に『敗走、政経と共に越前へ逃れ』たが、三年後の文明七年に『出雲の国人を擁して再起し、六角高頼らと戦って勝利を納めるが、西軍の土岐成頼と斎藤妙椿、斯波義廉が援軍に付いたことによ』って敗北、『三沢氏ら有力国衆を戦死させて敗退した』。文明九年の『応仁の乱終結後も本拠である近江犬上郡甲良荘下之郷(現在の滋賀県犬上郡甲良町下之郷)には復帰できず、京都での隠棲生活を余儀なくされていた』。しかし、文明十七年四月十五日(一四八五年五月二十八日)、『室町幕府に召されて』二『度目の京都侍所所司代を任ぜられると、幕命を受けて山城国内の土一揆を鎮圧し、京都市中の再建にも尽力したが、翌年に世を去った』。『高忠は武家故実に明るく』、『小笠原持長に弓術を学び、『高忠聞書』を著した。『高忠聞書』は弓術における研究資料、及び当時の故実を知る史料として現在まで重要な役割を果たしている。この他に和歌・連歌にも通じるなど、当時の知識人の』一人であったとあるから、まず彼がモデルと考えてよい(下線やぶちゃん)。この事実から考えるならば、彼が京都所司代であったのは一回目の四年と死の直前の一年となり、話柄内の様子からは、一回目がしっくりくる。その場合、本話は恐らく「宿直草」の中で具体的年代がはっきりと判るものとしては、最古のものということになろう。

「先ら」「ら」は接尾語か。才気の現実に現われたものを指し、弁舌や才知などを指す。

「分限(ぶげん)」金持ち。「ぶげん」は底本のルビであるが、「ぶんげん」とも読む。

「町人の子」「子」とあるが、結末から見ても幼児や少年少女ではない。大枚を持った豪商の十代後半か二十代前半の子女らである。

「途子」原典は「づし」。底本は「辻」(ルビなし)とする(岩波文庫版は収録しない)。「づし」は「圖子」とも書き、「大路と大路を結ぶ小路」或いは「辻」を指す語であるここは後者でとっておく。私は底本の「辻」は結果論的には正しくても、意訳ともいうべき漢字化であって「づし」というルビさえも振っていない点で断固、支持出来ない。

「斟酌までに及ばざれば」遠慮したり、躊躇(ためら)ったりする様子が全く見られなかったので。

「手を取り組みて」手を懐へ入れて軽く組んだようにしたのであろう。懐には小刀(さすが)があるに違いない。因みに、この時代、短刀は町人が護身用に持っていても別に不思議ではなかった。

「情に死ねと言の葉の、數もますます重なれば」不詳。その女の方から多賀に対して、意味ありげな如何にも艶めかしい雰囲気の語りかけが何度もあったということであろうか? 識者の御教授を乞う。

『「先(まづ)。」と止(と)むる』ここは底本では「先(まづ)とゞむる」となっているのであるが、原典を見ると、「先(まづ)ととむる」としか読めず、少なくとも「ゞ」と判読は出来ない。台詞と展開の自然さから私がかく表記化した。

「道すらも」送って戴いた「道すがらも」か「短いわずかな道中の間も」の意。

「傾ふき給へ」既出既注。ここは女の方からのあからさまな「妾(わらわ)と共寝して下さいましな」という誘いである。売春を誘いかけて、金品を奪って後に殺害、井戸に遺体を隠すという犯罪者集団だったのである。

「まことしやかに云ふ」如何にも心底、そう思っているかのように艶めかしく誘いをかけて言う。

「聊(いさゝ)か兼(か)ねしことの恥づかしきばかりなれば」ちょっと(普通の人間ならば)その誘いの言葉に思わずのってしまいそうな、如何にも照れ臭い気がしてくるような誘惑の雰囲気ばかりが波状的に襲ってくるので。多賀自身が、その言葉にふらふらっとのってしましそうな、という意でとることも可能であるが、それでは話柄としては格が落ちて、逆につまらぬ。次の多賀の決然とした措置が曇ってしまうからである。

「然(しか)らば」「きっと、よ!」。

「堅き言(ごと)」堅い約束の言葉を交わして。

「雜色(ざうしき)」この時代設定ならば、狭義には室町幕府下で侍所に属した最下級役人を指すが、ここは実際に本話が書かれた江戸初期の、より拡大した用法で、京の行政・警察・司法の業務を広汎に補佐した半官半民的な役人、最下層の危険な実務執行を担当した連中を念頭においているように感じる。

「闕所(けつしよ)」家屋敷や動産などを没収する処罰であるが、これが実際に書かれた江戸時代に於いては「闕所」は死刑及び追放刑に処せられた者を対象として行われた付加刑であった。ここはしかし、その関係が逆転しており、先に否応なしに怪しい連中がいるからというだけでそこを「闕所」とした上で調べて見たら、かくなる忌まわしい犯罪者集団の巣窟であり、井戸から死体(京の町屋の金持ちの子女らのそれ)がごろごろ出てきたというのである。小さな処罰が先にあって猟奇的な巨悪の犯罪が暴露されたにしろ、乱暴極まりない処理法ではある。]

宿直草卷五 第九 旅僧、狂氣なる者に迷惑する事

 

     第九 旅僧、狂氣なる者に迷惑する事

 

Kyoujyo

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。これが本書の最後の挿絵でもあるので、最後に今一度、汚損度を理解していただくためにも、敢えて一切の清拭をせずに示す。]

 

 旅僧、山路に踏み迷ひ、夜になりて步(あり)く。ある谷間(たにあひ)に小(ちい)さき家ありければ、立ち寄り、

「宿(やど)借りたし。」

と云(いふ)。四十ばかりの男立ち出(いで)て、

「易き事なり。然りながら、馴染みし者の、痛く煩(わづら)ひてさふらへば、今を限りの病(やまひ)の床(とこ)、見るに忍びず思(おぼ)しなん。それとても苦しからず侍らば、いと易き事なり。」

と云ふ。

 僧、聞きて、

「此方(こなた)の爲は、よしや、何、其方(そなた)の障(さは)りにだにならずば、貸し給へかし。」

と云ふ。

 男、聞きて、

「さては、否むまでなし、入(いり)給へ。」

と許す。

 いよいよ嬉しくて侍りしに、女の病、いと重くなり、暫しと賴む甲斐もなく、遂に空しくなりぬ。

 男、大きに嘆きしかども、露さら、その詮(せん)なかりければ、僧に向つて云ふやう、

「女の親しき者も、我(わが)所縁(ゆかり)の者も、十町ばかり隔てゝ、山の彼方(あなた)に住(すみ)侍り。我はこの谷に田畑(たはた)持ちし故、軒も並べず、此處に住むなり。今日(けふ)も、我が方樣(かたさま)の者、訪(とふら)ひしかども、『病、ちと良き』とて歸りさふらふ。この事、知らず侍らんなれば、我、行きて彼等に知らせん。願はくは、守(も)り給へ。不祥ながら、賴みたし。」

と云ふ。僧、

「易き事。」

と肯(うけが)ふに、男は外へ出でぬ。

 僧、甲斐甲斐(かひがひ)しくは云ひしかども、もと、知らぬ家に主(ぬし)もなく、偶々(たまたま)あるは、死骸なり。あまさへ、黔婁(きんる)が屍(かばね)のごとく、手足も見えて、引被(ひきかづ)けし衣(きぬ)の全(また)く覆はざるに、灯(ともし)幽かの夜(よる)なれば、心細きばかりなり。

 かゝる所へ、廿(はたち)ばかりの女房、髮は葎(むぐら)を搔き亂したるが、戸を開(あ)けて入(いり)、うち構はず、屍(かばね)の元に寄り、

「なふなふ。」

と云へど、空しき骸(から)の物云はざれば、

「さては死に給ひたか、あゝ、愛(いと)しや、愛(いと)しや。」

と泣く。

 扨は娘にこそと、哀れを催すに、かの者、尸(かばね)を動かし、

「あゝ、おかしや。ちと笑ひ給へば。」

と、

「こそこそ。」

と擽(こそぐ)り、目、吸い、口、吸い、

「けらけら。」

と笑ふ。

 嬉しさうなる有樣なり。

「さては人にてはなし。化生(けしやう)の者よ。」

と、

「はた。」

と睨めば、

「あ。怖(こ)は。」

など云ふて、出づ。

 出づるかと思へば、また、來て泣く。

 泣くか、と思ふに、又、笑ふ。

 泣(な)いつ笑ふつせしほどに、立て追へば、

「なふ。怖(こは)や。」

とて、逃てゆく。

「さて。歸りし。」

と見れば、又、門に來(き)、背戸(せど)に𢌞(まは)り、戸障子より覗きなんどして、

「愛(いと)しや、嬉しや。」

と、いと忌(い)ま忌ましく聞えし。

「いかなる鬼の棲み家(か)ぞ。」

と、恐ろしなど云ふばかりなし。

 亭主、やがて歸り、僧に向つて云ひけるは、

「もし。我(わが)留守に怪しき者、來たらず候や。」

と云ふ。

 僧、吐息(といき)して、右の事、語る。

 亭主(あるじ)、

「さればこそ。あれは、我(わが)娘にて候へども、狂氣者(きやうきもの)なるゆへ、山に小屋作りて、追入(おひいれ)候。我、出候へば家に來り、狂ひ申候也。申(まうし)て出(いで)候べきを失念致し、道にて思ひ出し候也。恐ろしく思(おぼ)し候こそ尤(もつとも)に侍れ。」

と云(いふ)。

 扨、所縁(ゆかり)し人、集まり、骸(から)をば野邊に送りければ、僧も夜明(よあけ)て出(いで)ぬ。

 狂氣を知らでは、恐れし事、尤(もつとも)に侍る。

 

[やぶちゃん注:疑似怪談。但し、これはもうあからさまに「諸國百物語卷之四 十一 氣ちがいの女をみて幽靈かと思ひし事」の真似である。既に述べた通り、「諸國百物語」は「宿直草」と同年の刊行で、前者が五月、「宿直草」の方が初春の刊行ではあるものの、数ヶ月でこれほど酷似たものを挿入することは考え難い(但し、当時の出版事情からは絶対にあり得ないことではないし、インスパイアを剽窃とする風潮もなかった(「諸國百物語」自体が百話中の二十一話をも先行する「曾呂利物語」からそうしていることは既に注でも述べてきた)からあり得ないことではないけれども、期間が接近し過ぎている)。また、寧ろ、冒頭注で述べた通り、荻田安静の原「宿直草」が俳句の弟子富尾似船(寛永六(一六二九)年~宝永二(一七〇五)年)によって改組され、増補編集がなされた際に、「諸國百物語」の話がインスパイアされて入れ込まれたと考えた方がよいようにさえ思われるのである。実は、かく、順番に電子化注してくると、この「卷五」になってから、あることに気づくのでる。それは、今まであったえらく長々しい筆者の粉飾風流評言が影を潜めてしまい、時には全く存在しないか、ごく短くなっている点である。これは明らかに「卷四」までと筆致が異なる。そういう区別化の観点を別方向から見ると、「宿直草卷五 第三 仁光坊と云ふ火の事」の怪談には不要な長ったらしい修辞長歌を伴った秘密の恋文の全文掲載であるとか、「宿直草卷五 第五 古曾部の里の幽靈の事」の能因(一つは伝)の和歌の完全引用なども「卷四」以前には見られなかったことも妙に気になってくるのである。この「卷五」自体が最も著しく改組変更された巻ではなかったか?

 なお、途中の『「こそこそ。」』/「と擽(こそぐ)り、目、吸い、口、吸い」の部分の「と」は原典や底本にはない。しかし、ないと不自然。岩波文庫版本文には「と」があるので、特異的にそれに従って補った

「馴染みし者」妻。

「此方(こなた)の爲は、よしや、何」当方にとっては仮にも、何の問題も御座いませぬ。

「露さら、その詮(せん)なかりければ」かく亡くなってしまった上は、如何なることも全く以ってさらに致しようがないので。

「十町」一キロ九〇メートル。山家でもあり、往復と簡単な報知合わせて一時間はかかろう。

「我が方樣(かたさま)の者」私の方の親類縁者。

、訪(とふら)ひしかども、『病、ちと良き』とて歸りさふらふ。この事、知らず侍らんなれば、我、行きて彼等に知らせん。願はくは、守(も)り給へ。不祥ながら、賴みたし。」

と云ふ。僧、

「易き事。」

「甲斐甲斐(かひがひ)しくは云ひしかども」僧であるから、死人の守りを心を籠めてこめてなす事を、これ、如何にもまめまめしくなさん、といった感じで肯(うけが)いはしたものの。

「黔婁(きんる)」岩波文庫版の高田氏の注に、『正しくは「けんる」。春秋、斉の高士。諸公が大臣に迎えようとしたが従わず、貧しくして没した。為に』遺体を覆っておく『衾(ふすま)』が短かく、衾の端『から死体がはみ出ていたので、』弔いに来た友『曾西が、斜めにすれば納まると言うと、妻は、それは邪というもので、故人が嫌う所だろしりぞけた』とある。ネットの複数の記載を見ると、曾西はそれを聴いて礼節に従った謂いであるとして彼女に礼をしたとある。出典は今一つ定かでない。識者の御教授を乞う。

「なふなふ」感動詞で人に呼びかけるときに発する語。「もしもし」「これこれ」。「喃喃」などと漢字表記する。

「忌(い)ま忌ましく聞えし」いたく不吉で穢らしい存在や行為と強く感じられた。

「道にて思ひ出し候也」ではあるものの、怪異の時間経過と報知の優先性と物理的距離からみて、彼は気づいた途中から引き返してはいない。]

2017/07/30

宿直草卷五 第八 道行僧、山賊に遭ふ事

 

  第八 道行(みちゆく)僧、山賊に遭ふ事

 

 安藝廣島の縣(けん)、さる寺の伴僧、三、四里ある山家(やまが)へ行き、歸(かへ)さ、暮(くれ)かけて步む。馬蹄跡(あと)舊(ふ)り、人迹(じんせき)絶えたる棧道(かけぢ)に、哀れなる聲、幽かに聞えり。

「如何なる事ぞ。」

と步みゆくに、山賊、旅人(りよにん)を殺し、衣裳、皆、※(はぎ)取りて、其處(そこら)立退(たちの)かんとするに行遭(ゆきあ)ふ。[やぶちゃん字注:「※」=(上)「牧」+(下){「匚」の中に「力」}。]

 跡へ歸るべうもなし。

 恐ろしながら、躊躇(ためら)ひゐるに、山賊、見て、

「御坊、何處(いづく)へお通りぞ。」

と云ふ。

「廣島へ參る。」

と答ふ。

「よし。廣嶋へは重ねて行き給へ。今日は、我、雇ひ申さん。此荷を持ち給はれ。」

と云ふ。

「近頃、易しと申べけれど、幼少より此身になり、其覺えもなくさふらふ。殊に用あり。お許しあれ。」

と云ふ。

「出家にて賴むに、賴まれじとは聞えず。持ても持たでも、是非に持たせん。」

と、刀引き拔くにぞ。

 力なく、

「さらば。」

とて荷ひ行く。

 黃昏時(たそがれどき)の道狹きに、

「行くべき廣島の方(かた)はあれなるに。」

と、誰(たれ)問はぬ淚に步む。

 はや、夜にもなりけり。心の中に、

「最早、我をも、やがて、殺し、褐(つゞれ)なりとも取りぬべき爲、こゝまで連れ來(き)ぬらん。」

と思へば、いとゞ便(びん)なかりける。

「迯られやはせん。」

と、岸(きし)高き頂(いたゞき)に下し、小用とゝのへけるに、盜人も同じ並みに小用す。この時逃げずは命なしと思ひ、盜人の後に𢌞(まは)り、

「ゑい。」

と押しければ、うかと立ちし事、なじかはたまるべき、雲に近き頂より千尋(ちひろ)の谷へ突(つき)落しけり。

 虎口を免(まぬ)かる心地して、足にまかせて行くに、小家ありて灯影(ほかげ)見えたり。

「一先(ひとまづ)。」

と思ひ、戶を訪づれて見れば、

「おつ。」

と云ひて、心得顏の返事なり。さて、若き女房出(いで)て、僧を見て、そでない有樣(ありさま)せり。僧、

「いや、行き侘びたる者なり。宿(やど)貸し給へ。」

と云ふ。

 女、思ひ寄らぬ振りに、聊(いさゝ)め返事もせざりしが、やうやうに、

「貸し申さん。」

と云ふ。嬉しくて内に入(いる)に、亭主は見えず。

 僧は、袖片敷きて臥(ふし)たるに、女房は、もの待つ躰(てい)にして、火を焚きて寢もやらずありけり。

 僧も目は閉ぢでありしに、八(やつ)の比か、また、戶、敲(たゝ)く。

 女、出(いで)て、

「これは如何に。」

と云ふ。聲するに、

「さればとよ、隨分、仕合(しあはせ)よかりしに、ある坊主めに騙され、高き所より落ちて、手、折れ、足、違(ちが)ひ、遍身、痛みしかども、やうやう歸りしなり。」

と云ふ。女の聲に、

「默れ、默れ。」

と云ふを聞けば、かの盜人(ぬすびと)の家なり。

「さてさて、隱るゝと思ふに、今また、ここに來たる。靈龜(れいき)、猶、尾を引くわざか。更(さり)とて如何(いかゞ)すべきやうなし。」

と案じわづらふに、傍(かたへ)を見れば、隔子(かうし)も入れざる窓に、切戶(きりと)を立てしあり。幸(さいはひ)と思ひ、ひそかに迯(のが)れて廣島へ歸り、甦(よみがへ)りたる思ひをなせりとなり。

 

[やぶちゃん注:僧と盗賊団(ここは夫婦)で前話と親和性が高いが、これも湯浅佳子氏の論文『「曾呂里物語」の類話』によれば、先行する「曾呂里物語」の巻五の五「因果さんげの事」の冒頭の話柄との類似性が強過ぎ、二匹目の泥鰌の体(てい)見え見えである。同一書籍内で一度読んだぞという既視感(デジャ・ヴュ)を起させてしまう点で、怪談としては失敗である。

「伴僧」用僧・役僧。葬儀や法事などに於いて導師について従う僧。

「馬蹄跡(あと)舊(ふ)り、人迹(じんせき)絶えたる」底本は「馬蹄あとふり人迹たえたる」で原典に概ね従っているが、これでは私には意味がよく判らぬ原典を子細に見てみると、実は「あとふり」の後に区切り(句読点のようなもの)の「。」が右に打たれているのが判った。そこで「あとふり」は確実に一単語であり、「人迹絶え」は「馬蹄あとふり」と対句であると読めると判断、さすれば、「人跡絶えた」の意に対となるのは「僻地の山中のこととて、馬が通ったのもずっと以前のことらしく、道には馬の蹄鉄の跡があるものの、それがもうすっかり古びている」の謂いであると私は読んだ。さればかく、漢字を当てた。大方の御叱正を俟つ。

「棧道(かけぢ)」切り立った山腹や崖などに沿った形で木材で棚のように張り出しを設け、そこを道としたもの。

「※(はぎ)取りて」(「※」=(上)「牧」+(下){「匚」の中に「力」})引剝(ひは)ぎをして。

「廣嶋へは重ねて行き給へ」広島へはそのままお行きなされい。

「近頃、易しと申べけれど」普通の民百姓ならば、簡単なことだ、と言って請け合って申し上げようが。

「此身」出家。

「其覺えもなくさふらふ」「そうした担い仕事はやったこともなく、どうして背負うてよいものかも分かりませぬ」の意であるが、苦しい。「殊に用あり」も嘘で(山家での用は終わっている)、僧は、ついさっき、男が旅人を殺(あや)め、担うべきものがその遺体から引剝ぎしたものであることを承知しているという点で殺生や略奪という禁忌を犯す穢(え)としてその物(を得るに至った人非人行為)を忌避するための言い訳である。

「出家にて賴むに、賴まれじとは聞えず。持ても持たでも、是非に持たせん。」「坊主にこうして慇懃に頼んでいるのに、請け負えないという断わるってえのは、坊主の風上にも置けねえ生臭さじゃ! 持つとは持たないかどうでもほざきやがれ! 是が非でも担わせずにおくものかッ!」。

「行くべき廣島の方(かた)はあれなるに」行くべき広島の方向はあっちなのに。明らかに違った道に僧を強制的に連れ行こうとしていることが判り、それが僧が自分も旅人と同じように殺される運命なのだと認知する契機となっている台詞である。さりげないが、上手い手法だ。

「誰(たれ)問はぬ」盗賊は勿論、人気なき山家道故に誰もその呟きに答えてくれない、というのである。あざとい修飾である。

「褐(つゞれ)」「褐」(カツ・カチ)の原義は「荒い毛で織った衣服又はその黒ずんだ茶色」で、「身分の賤しい人」の意もある。また、当て訓の「つづれ」は襤褸(ぼろ)の意であるから、僧の着ている粗末な墨染めの衣を指す。

「いとゞ便(びん)なかりける」なんとももまあけしからぬことなのであった。

「迯られやはせん。」逃げることは出来ないだろうか?

「岸(きし)高き」切り岸(ぎし)。断崖絶壁。

「小用とゝのへけるに」小便をさせてもらったところが。

「同じ並みに」一緒に並んで。

「うかと立ちし事、なじかはたまるべき」弱そうな僧侶だからと、うっかりと気を許して連れ立ち小便(しょんべん)してしまった結果は、たまったもんじゃない、の意。自分も小便が溜まって思わず一緒にすばりしてしまったことを掛けるか。今までの過剰修辞からはそんなことも言い掛けたくなるのである。

「おつ。」感動詞。応答。「はい。」。

「心得顏」待ってましたという表情。盗賊夫の御帰還と勘違いしたのである。ところがそうでない、辛気臭い坊主であったから「そでない有樣(ありさま)せり」(「そでない」は近世口語で「そうでない」の意から、「冷淡な」の意。

「振り」話の振り方・内容。

「聊(いさゝ)め」聊か。

「貸し申さん」何故、女房はこの僧に宿を貸したのかを考えてみる必要がある。この女房は亭主とともに同じ穴の貉、根っからの極悪盗賊カップルなのである。妻は妻で気の弱そうなこの僧を見て、渡りに舟、亭主が戻ったら、一緒に縊り殺して、持ち物を奪おうと画策したのである。そう考えてこそ、後の「今また、ここに來たる」という絶望的感懐の「また」がより強く響くとも言える。

「八(やつ)」午前二時前後。

「仕合(しあはせ)」旅人襲撃・殺害・金品強奪の顛末。

「足、違(ちが)ひ」「手、折れ」と対句ならば、この「違ひ」は正常な状態とは違うの謂いで折れると同義となるが、完全に折れていては一人で歩いて帰ってくるのはちょっと無理があるから、捻った、捻挫した、ぐらいに解釈しておく。

「隱るゝと思ふに」うまいこと、かの盗人から身を隠すことが出来たと思っていたのに、何ということか。

「靈龜(れいき)、猶、尾を引くわざか」特に臨済宗で尊重される公案集「碧巖錄」(宋代(一一二五年)に圜悟克勤によって編された)の第二十四則「劉鐡磨臺山」の冒頭部分にある。

   *

 垂示に云く、高高たる峰頂に立てば、魔外(まげ)も能く知ること莫(な)し。深深たる海底に行けば、佛眼も覰(み)れども見えず。直饒(たとひ)眼は流星の似(ごと)く、機(き)は掣電せいでん)の如くなるも、未だ免れず、靈龜、尾を曳くことを。這裏(ここ)に到つて、合(まさ)に作麼生(そもさん)なるべき。試みに擧(こ)し看(み)ん。

   *

伝説で霊験を現わすとされる神聖な亀も、泥に残したその尾のぞろ曳(び)いてしまった痕跡から人に居場所を悟られてしまい、捕えられて、亀占用として焼かれてしまうの意。岩波文庫の訳注本(一九九二年・入矢他)の注によれば、『達人の現行も、その痕跡がふっ切れていないと、こういうハメになる』と注する。因みに、この頭の部分の「高高たる峰頂に立てば」は本話柄のロケーションと不思議に一致するのは偶然とは思われない。荻田の博識は恐るべきものがある。

「隔子(かうし)」格子。

「切戶(きりと)」小さな戸。]

宿直草卷五 第七 學僧、盜人の家に宿借る事

 

  第七 學僧、盜人(ぬすびと)の家に宿借(やどか)る事

 

Kakusounusututo

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。下部の雲形の汚損が激しいので、その約七分の一から八分の一を恣意的にカット(下部の線は雲形の上部のみを残したもの、左右上の枠も除去し、加えて清拭も行った。熊ちゃんのために。]

 

 慶長の初め、都の僧、學びのため、關東へ下る。檀中より餞(はなむけ)とて、灰吹(はいふき)三百目、贈る。金銀稀れなる時代なれば、歷々の事なり。平包(ひらつゝ)みに入(いれ)、遙々と信濃路にかゝりしに、宿(しゆく)、遠ふして、日暮(ひく)れ、ことに山路に辿(たど)り、其處(そこ)とも知らず、迷ふに、ある在家(ざいけ)を見て、

「宿(やど)借らん。」

と云ふに、易々(やすやす)と貸す。

 嬉しくて臥すに、主(あるじ)、物騷々(ものさうざう)にして、あまさへ、鬼かなきかの男、二、三人と密々(みつみつ)の談合のさま、僧を殺すべきに聞えけれは、あるもあられず、小用するにもてなし、そこ逃れて裏へ出(いで)しかども、山は峨々とし、道は崎嘔(きく)たり。殊に、案内、疎(うと)し。闇に、行くべきやうなかりければ、朽木(くちき)の洞(うつろ)に屈(かゞ)みゐるに、かの主、先に立ち、手に手に松明(たいまつ)持(も)て來たる。

 逃(にぐ)とも追つかれんと思ひ、繁りたる木の股に登り、こゝに隱るるに、盜人ら、

「間もなき事に、何處(いづく)かへ迯(のが)しけん。疾(と)く斬るべき物を。」

と犇(ひしめ)くに、一人が云ふやう、

「胡散(うさん)なる木を、たゞ、鑓(やり)にて突きて見よ。案内(あない)疎き者、如何で此山にて迯(のがれ)えん。」

と、賢くも下知す。

「尤(もつとも)。」

とて、早や、火振り立てて、突く。

 僧の賴みし木へ、大方(おほかた)間も無かりければ、生(いき)たる心地はなくてあるに、二、三本隔てゝ、一人が云ふやう、

「突き中(あ)てしぞ。」

と。

 僧、見て、

「我に等(ひと)しき人もあるか。」

と見るに、さはなくて、牛に紛(まが)ふ熊、木より輕(かろ)げに降(お)りて、かの鑓持ちし男、微塵(みぢん)に引き裂く。殘る者、見て、

「やれ、熊なるは。」

と云ふほどこそあれ、我先にと、迯(にげ)行く。

 僧、盜人の難は迯(のが)れしかども、又、熊の怒りに、怖ろしさ、いや增して、息もよくせず、屈(かゞ)みしに、さまで痛手にて無かりしにや、また、熊は元の寢座(ねくら)に歸る。曉(あかつき)になりて、かの熊の寢(ねな)なんと思ふ頃、木よりひそかに降り、沛公(はいこう)項羽が圍(かこみ)を逃(のが)れ、賴朝(らいてう)、大場(おほば)が攻めを免かれし心地して、終(つひ)に檀林に學びて、また、洛陽に上(のぼ)りし僧、直(ぢき)に話せしと、郷(さと)に杖突く翁(おきな)の語り侍り。

 

[やぶちゃん注:本話は湯浅佳子氏の論文『「曾呂里物語」の類話』によれば、先行する「曾呂里物語」の巻五の五「因果さんげの事」の冒頭の話柄との類似性を複数の研究者が指摘しているとある。というより、これは直ちに、同じものをインスパイアしたと思しい本書の第二 七命(みやう)ほろびし因果の事との親和性がすこぶる強く、僧役には同じ俳優を使いたくなるぐらいである。

「慶長」一五九六年から一六一五年までの二十年間。「初め」とあるものの、最初期ではまだ秀吉が健在で、関東に遊学するという謂いが、今一つしっくりこない感じはしないでもない。しかし、関ヶ原の戦いが慶長五年、徳川家康が征夷大将軍に任ぜたれて江戸幕府を開くのは慶長八年で、その頃を「初め」とは普通言わないし、主人公が京から関東へ向かうのに「信濃路」を通っているのも東海道が整備されていない証左であるから、ここは広い意味の関東にあった古刹と捉え、江戸開府以前の話柄ととっておく。従って「宿直草」の中では古い時間設定の話柄の一つとなる。

「灰吹(はいふき)」灰吹法(金や銀を含んだ鉱石から一旦、鉛に溶け込ませ、そこから改めて金銀を抽出する方法。本邦には戦国時代の天文二(一五三三)年に石見銀山の発見に際して博多を通じて中国から招来した吹工宗丹及び慶寿(桂寿とも。禅僧)の両名によって伝来され、後の豊臣秀吉が太閤となった天正一九(一五九一)年には南蛮人によってもその技術が齎された)。「金銀稀れなる時代」とあるように、伝来初期の分離技術は精度が非常に悪かった(江戸時代に急速に技術向上が図られた)ここは金と銀の混じったものと見てよく、本書の書かれた江戸初期は「三百目」は=「三百匁」、この時代設定時だと、一匁は江戸時代の三・七五グラムよりもやや小さかったようであるがそれでも一キログラムはあったであろう。「平包(ひらつゝ)み」(物を包むための正方形の布製の袱紗(ふくさ)・風呂敷など)に入れたとあるから、薄い板状にしたものであったか。

「崎嘔(きく)」嶮(けわ)しいこと。容易でなく辛苦することの意も含む。

「疾(と)く斬るべき物を」「物を」は原典が漢字表記なんであるが、「これは」終助詞「ものを」で、不満・不平や悔恨などの気持ちをこめての詠嘆の意を表わす。「さっさと斬り殺しときゃあ、よかったものを、糞ッツ!」。

「胡散(うさん)なる木」上に忍び隠れそうな怪しい感じのする樹木。

「息もよくせず」底本は「息も高くせず」と判読しているが、原典を見るに、どう見ても「高」の字の崩しではないので、私が「よ」と判読し直した

「寢座(ねくら)」清音は原典のママ。

「沛公(はいこう)項羽が圍(かこみ)を逃(のが)れ」紀元前二〇五年、項羽の楚軍と劉邦の漢連合軍との間で行われた「彭城(ほうじょう)の戦い」(彭城は現在の江蘇省徐州市)の結末。この戦いでは五十六万もの劉邦を項羽はたった三万の軍勢で勝利し(連合軍の兵の資質が劣悪であった)、劉邦は這う這うの体で落ち延びた。

「賴朝(らいてう)、大場(おほば)が攻めを免かれし」前の「沛公」と対句にするために音読みしているだけで源頼朝のこと。「大場」は大庭景親(?~治承四(一一八〇)年)の誤り。治承四(一一八〇)年、以仁王の令旨を奉じて伊豆で挙兵した頼朝と平氏方の大庭景親らとの間で行われた「石橋山の戦い」。その前哨戦であった伊豆国目代山木兼隆の襲撃殺害は成功したが、ここでは大庭勢に完敗して敗走、土肥実平らと小人数で洞窟に潜んだものの(土肥の椙山(すぎやま)の「しとどの窟」とされる)、本シークエンスとやや似る)、死を覚悟したが、平家を見限っていた梶原景時の見逃しや箱根山の箱根権現社別当行実の匿いを受けて、辛くも小舟で真鶴岬から安房国へ落ち延びた。

「洛陽」京。

「郷(さと)」荻田安静の郷里。不詳ながら、京阪のどこかである。]

宿直草卷五 第六 蛸も恐ろしき物なる事

 

   第六 蛸も恐ろしき物なる事

 

Takohebi

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のものを用いたが、下方の汚損が著しく、そこは海上の波の絵柄のみであることから、その部分(凡そ縦の十四分の一)をカットし、それに合わせるために左右と上の枠も除去し、全体に清拭した。]

 

 ある席(せき)に、四人(よたり)、五人(いつたり)語るに、一人のいはく、

「蛸は恐ろしきものなり。津の國御影(みかげ)の濱に磔(はりつけ)有(あり)しが、夜每(よごと)に、坊主來たりて番をする、と云ひ觸(ふ)らす。その里に浪人有て、行きてよく見れば、蛸にてありしと也。人を喰らふものにや。」

と云ふ。

 鍋嶋家の内、福地某(なにがし)と云ふ人、

「げに。さもあらん。我は蛸を好きて給(たべ)しが、ある時、名殘(なごり)の波(なみ)に舟繫(ふながゝり)せしが、三尺ばかりの虵(へび)、半分ほど、海へ浸(つか)り居(ゐ)たるが、何時(いつ)の程にか、手長蛸(てながだこ)になりて入(いり)ぬ。それより、蛸を喰はず。」

と云ふ。

 又、見るから色黑(いろぐろ)く、潮風馴れたる海邊(うみべ)の人有しが、

「いや。虵が蛸になるでは、なし。虵、蛸を釣りに出(いで)、蛸、又、虵を獲(と)りに上がる。小さき虵は蛸に獲られ、大なるは蛸を獲る。これ、龍虎の爭ひのごとし。」

と賢(かしこ)げに弁ず。

 片隅に菓子齧(つ)みて、法師のありしが、これを聞き、打(うち)頷きて、

「げに。さあらん。我、もと丹後にありし時、靑侍(なまさふらひ)三、四人と舟遊(ふなあそ)びに行く。沖へも出でず、遠淺、漕ぎて、洲崎(すさき)の芦の穗に出(いで)つゝも、色よき酒機嫌(さけきげん)に、諷謠亂舞(ふうようらんぶ)、干潟の千鳥足(ちどりあし)なもあり。或るは又、(とも)に釣りして[やぶちゃん字注:「」=「舟」+「丙」。]、水馴竿(みなれさほ)の雫(しづく)に濡れて樂しふあり。明月の詩を誦(しよう)し、窈窕(ようてう)の章を詠(うた)ひし、かの子膽(しせん)が樂しびも、これには如何に。桂(かつら)の棹(さほ)、蘭(らん)の舵(かぢ)にしなけれ、餘念も浪の打(うち)寢轉(ねころ)びて、

『歸去來(かえなんいさ)、舟、戾せ。』

と云へば、一人のいはく、

『暮過(くれすぐ)す迄も飽かで迎(む)かはまほしけれ。あれこそ、此浦、無双(ぶさう)の美景よ。瓮(もたひ)の霞、殘らば、如何に本意なからめ。いざ、掉(ふ)れ、舟、遣れ。』

と云ふを見れば、築(きづく)とも、又、難(かた)かるべし、と思ふ岬あり。

『磯傳ひ、漕げ。』

とて行くに、岸根の草は潮(うしほ)に馴れ、岩間の苔(こけ)は潮風(しほかぜ)に向かふ。搔かぬ落葉の數(かず)敷きて、高さ三間ばかり、太さ二尺ばかりの松、梢(こずゑ)は海を招(まね)き、根は山に刺しゝに、しかも、女松(めまつ)の葉もおかしかれば、

『あの松陰(まつかげ)に休らはん。』

と漕ぐに、今、三十間ばかりあらんに、一人のいはく、

『松の根は赤きに、側(そば)に黑き物あるは何ぞ。』

と云ふ。されば、

『合點(がてん)行かず。』

と云ふ内、舟、連々(れんれん)近くなりて、十五、六間にも及びしに、海より、水、飛んで、薄紫なるものゝ、五尺ばかりに見ゆるを、梢下(さ)がりし松に打ち懸け、かの黑き物にとりつく。

 やがて、舟、止めさせ、

『何なるらん。』

と云へば、船頭、見て、

『げに。聞(きき)及ぶ。かやうに日和(ひより)には、虵、出(いで)て蛸を釣る、と。上の黑きは虵、下の紫なるは蛸か。』

と云ふ。皆、

『尤(もつとも)。』

と心をつけて見れば、長(たけ)三間、太さ一尺ばかりの烏虵(からすへび)、かの松の水際一間餘り上に、枝の有りしに纏(まと)ひ付き、尾を二、三尺、水に浸けて、居れり。

『さてさて。よき見物かな。』

と見るに、また、蛸の手、一つ、打ち懸く。

 程もなきに、打ち懸け、打ち懸け、四つの手にて、下へ下へと、引く。

 虵は、また、上へ上へと、引く。

 互ひの力に、さしもの松、搖(ゆ)るぎわたる事、網にて引くがごとし。

 舟中(しうちう)、固唾(かたづ)を呑(の)むに、

『何(なに)としても、下、弱くして、蛸、釣らるべきぞ。』

と云ひしに、虵の運(うん)盡き、纏ひし松が枝(え)、元より折れて、木、ともに、海中へ入(いる)。

『あは。』

と云ひしが、暫しは松も浮き沈みせしが、虵は遂に上(あが)らず。やゝして、枝のみ浮(うき)て果(はて)ぬ。」

と語れり。

 

[やぶちゃん注:前話とは、最初の話が同じ摂津である以外は、全く連関性がなく、特異点である。私は蛸(頭足綱鞘形亜綱八腕形上目八腕(タコ)目 Octopoda)フリークであるが、これは多様な蛸奇譚を一話に纏めて、実に魅力的な一篇に仕上がっていると言える。

蛸が陸上に上って来て人間の遺体を食いに襲来するという最初の話柄は、例えば、「谷の響 二の卷 一 大章魚屍を攫ふ」「想山著聞奇集 卷の參」の「七足の蛸、死人を掘取事」にあり(蛸が陸に上がって農作物を荒らすという今も信じられている根強い伝承はそれらの注で私は否定している)、また、

二番目の福地某の蛸が蛇に変ずる、化生するという話柄は、「佐渡怪談藻鹽草 蛇蛸に變ぜし事」「谷の響 二の卷 三 蛇章魚に化す」で実話として語られている。私はリンク先の注でも書いたが、しばしば対決が知られる相互に天敵関係にある鱓(うつぼ:条鰭綱ウナギ目ウツボ亜目ウツボ科 Muraenidae)と蛸との格闘を誤認したものではないかと深く疑っている。なお、これについては実は南方熊楠が「蛇に関する民俗と伝説」(大正六(一九一七)年『太陽』初出)の中でタコのが腕の一本の先に持つヘクトコチルス(交接腕:Hectocotylus)の大きなものが蛇に似ているのを誤認したのであろう、という卓抜した説も提示している。興味のある方は私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「石鮔 てなかたこ」(この本文にも出る「手長鮹」)の私の注を読まれたい。ヘクトコチルスについて御存じない方は、上記の「和漢三才圖會」の「章魚」の注でも詳述してあるが、私の別の「生物學講話 丘淺次郎 第十一章 雌雄の別 三 局部の別 (5) ヘクトコチルス」の方が手っ取り早いかも知れぬ。

 因みに、中でも私が超弩級の面白さを持っていると高く評価するのは、「佐渡怪談藻鹽草 大蛸馬に乘し事」の実談(!?!)である。以上のリンク先は総て過去の私の電子化注である。未読の方は是非どうぞ! どれも、お薦め!!!

「津の國御影(みかげ)の濱」現在の兵庫県神戸市東灘区の御影地区の海浜部。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。なお、この兵庫県南東部は旧摂津国に含まれる。

「磔(はりつけ)」死罪としての磔の公開処刑。「夜每(よごと)に」とあるから、これは処刑後(磔柱に括りつけて左右から鑓で複数回刺して殺すもの。事実上の刺殺刑で、内臓が激しく抉られるので、内臓などが掻き出され、凄惨であった)、数日、そのまま晒されたものと推測される(江戸中期以降の幕府の公的なそれでは三日間晒した)。

「鍋嶋家」肥前国佐賀郡(現在の佐賀市)にあった佐賀藩。長く鍋島氏が藩主であった(従って同藩は「鍋島藩」とも呼ぶ)。

「福地某(なにがし)」ウィキの「福地氏」に「肥前国の福地氏」があり、「肥陽軍記」の天文三(一五三四)年の項に『「龍造寺家臣福地氏」について載せ』、「筑後軍記略」には前年の天文二年、『福地主計允らが龍造寺隆信に通じるとある。龍造寺氏家老の福地氏では福地長門守信重、信盈』(「のぶみつ」か)が見えるとする。『戦国大名龍造寺氏の実権を握っていた鍋島氏が佐賀藩主として認められ、龍造寺氏の支配が終焉すると肥前国の福地氏も鍋島氏に随い、佐賀藩士となった』。佐賀藩士『山本常朝が武士道の指南書として著した』「葉隠」の「聞書」の「第四」の「五十」にも藩主『鍋島勝茂が有能な藩士と評した武士として福地吉左衛門の名が見える他』、同「聞書」の「第六」の「一六六」及び「第八」の「五七」には『福地孫之允なる藩士が中野休助と喧嘩になり切腹したが、介錯人であった小城の蒲池某が』し損じてしまって浪人したことや、同「第七」の「三二」には『「千住善右衛門、討ち果たしのこと」という事案の検分役として福地市郎兵衛の名が見え』、また、「第八」の「五七」には『家老職の横岳鍋島家当主鍋島主水配下に福地六郎右衛門の名が見え、同じく佐賀藩家老の多久長門守家臣を切腹の危機から救ったとある』とあるから、鍋島家では知られた家臣の家系で、この者もその中の一人と考えてよいであろう。

「名殘の波に舟繫(ふながゝり)せしが」「余波」と書いても「なごり」(「なごろ」とも)と読め、その場合は強風の吹き止んだあと、まだその影響が残っている波を指すから、ここは「やや海上が荒れていたことから、乗っていた舟を磯辺に停泊させたが」の謂いととる。

「手長蛸(てながだこ)」文字通りに同定するならば、八腕目無触毛亜目マダコ超科マダコ科マダコ属テナガダコOctopus minorである。全長七十センチメートルにも達し、腕部は胴の五倍を越える。日本各地の下部潮間帯から水深二百メートルから四百メートルの泥底の穴に棲み、腕を表面に出している。本邦では流通品として見かけることは稀である。水分が多く旨味は少ない。韓国で踊り食い(サンナクチ)されるのは本種である。

「齧(つ)みて」齧(かじ)って。原典・底本・岩波文庫版総て平仮名「つみて」。この漢字を当てたのは私である。

「洲崎(すさき)」丹後国の地名ではあるまい。州が海中や川の河口付近(「芦の穗」とあるのはそれを指すのであろう)に長く突き出て岬のようになった場所の意ととっておく。そうすると、直ちに天橋立が頭に浮かんでしまうが、だったら、寧ろ、はっきりそう記すはずだとも思われる。しかし、以下の叙述はかなりの絶景であり、そんじょそこらの海浜とも思えず、やはり丹後と言ったら、そこだろう。ここは天橋立の名を出さずに、読者のそう感じさせようという荻田の風流のように思われる。

「なもあり」「なるもあり」「なる者もあり」。

(とも)」(「」=「舟」+「丙」。)「艫・艉」で船尾・船の後ろの方。

「水馴竿(みなれさほ)」漁師が如何にも使い込んだしなやかな釣竿。以下の「雫(しづく)に濡れて」は単なるその美称と読む。

「明月の詩を誦(しよう)し、窈窕(ようてう)の章を詠(うた)ひし、かの子膽(しせん)が樂しび」「窈窕の章」とは「詩經」の「國風」の「周南」の冒頭にある四言詩「關雎」(かんしょ)のこと。男女の恋を詠み、詩中、「窈窕淑女」(窈窕たる淑女)が四度繰り返される。サイト「碇豊長の詩詞」の同詩をリンクさせておく。そこでも注されてあるが、そこでは「窈窕」は「奥床しい」「麗しい」の意であるが、この語は元来は山水や宮殿の奥深い美しさを形容する語であり、ここで海浜の美しい景観を前にする時、この語はよく響き合っているとは言える。但し、ここは北宋の名詩人蘇東坡(蘇軾)の、知られた「前赤壁賦」の始めの方に現われる、「誦明月之詩、歌窈窕之章」(明月の詩を誦(しよう)し、窈窕の章を歌ふ)を詠った蘇東坡の楽しみ、の意。

「子膽(しせん)」蘇東坡の字は子瞻(しせん)で、その誤りである。

「これには如何に」この今の眼前の景色には及ばないという反語であろう。

「桂(かつら)の棹(さほ)、蘭(らん)の舵(かぢ)」この場合の「桂」と「蘭」は実在の植物というよりも、中国の伝説上の香木を指している(木本のカツラならいいが、草本のランでは舵は作れぬ)。

「にしなけれ」不詳。「に」を文法的に説明出来ない。「しもなけれ」なら、万能の霊力を持つ桂(この場合、月に生えるというそれであろう)や蘭で出来た棹や舵もない、の意なら判る。

「餘念も浪の打(うち)寢轉(ねころ)びて」同一の大洲本を用いているはずの岩波文庫版はこの部分が『余念も浪の相(あ)ひしろひて』と有意に異なる非常に不審である。孰れにせよ、意味が不明である。急に海の浪が転がるようにざわざわとし始め、少し荒れてきて、の意か? 識者の御教授を乞う。

「歸去來(かえなんいさ)」読みは原典のママ。

「瓮(もたひ)の霞」「瓮」甕(もたい:現代仮名遣)に同じい。水や酒を入れる器。ここは酒を仙人の糧の霞に擬えた。

「掉(ふ)れ」「棹」の漢字を当てたのは私。「あの絶景に向けて棹させ!」。

「築(きづく)とも、又、難(かた)かるべし」岩波文庫版の高田氏の注に、『人工で築きあげても、とてもこの美しさには及ばない、の意』とある。

「三間」五メートル四十五センチメートル。

「二尺」六十一センチメートル弱。

「女松(めまつ)」赤松。球果植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属アカマツ Pinus densiflora のこと。Q&Aサイトの回答によれば、両者の簡単な見分け方は、木の肌の色が赤く、葉を触ってもあまり痛くなく、優しい感じで、柔らかく広がるのがアカマツで、対する「男松」はクロマツ(マツ属クロマツ Pinus thunbergii)で、葉を触ると明確に痛く、強い感じがし、どんどん上にのびていく、とあった。

「三十間」約五十四メートル半。

「十五、六間」二十八~二十九メートル。

「五尺」約一メートル五十一センチ。

「長(たけ)三間、太さ一尺」全長約五メートル四十五センチ、太さ約三十センチ。

「烏虵(からすへび)」有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属シマヘビ Elaphe quadrivirgata の黒化型(Melanistic:メラニスティック)の個体の中でも特に虹彩も黒い個体を指すウィキの「シマヘビ」にある。同記載によれば、通常は淡黄色の体色に四本の黒い縦縞模様が入る(但し、縞が全くない個体や顎の辺りが黄色い個体もいる)。種小名の quadrivirgata はも「四つの縞」の意。腹部には目立った模様はなく、クリーム色・黄色・淡紅色を呈する、とあり、全長は八十センチから稀れに二メートルに達する個体もあるとある。ここで観察されたものが、これだとすると、実際にはあり得ない大きさと太さである

「水際」「みぎは」と訓じておく。

「一間」一メートル八十二センチ弱。

「二、三尺」約六十一~九十一センチメートル。]

2017/07/29

戯れ句一句

衆議院SPEED退場今井選り 唯至

2017/07/28

僕にとって

必要だったのは、君ではなく、僕の中の哀しい思い出であったということに僕は改めて気づいた―― 
 
と云うより、僕も君も互いに互いを必要としていないというだけに過ぎないという馬鹿げた当たり前の真理に過ぎない――
 
私の話している相手が如何なる思想を標榜しているか、如何なる宗教や国家を崇敬しているかなどということは、これ、全く問題ではない――寧ろ、「思想」や「国家」なしに自己起立し得ないその相手を私は永遠に軽蔑していると言っておく――

2017/07/27

明日より町内会の祭りの業務に入るによって暫く御機嫌よう――

宿直草卷五 第五 古曾部の里の幽靈の事

 

 第五 古曾部(こそべ)の里の幽靈の事



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[やぶちゃん注:挿絵は底本のものの二枚目(向かって左)の下部が著しく汚損して見るに堪えないため、岩波版のそれを示した。この挿絵、涙ぐましいまでに本文の描写を絵師なりに生かそうとしている。その辺り、是非、本文と対比しながら読まれたい。そのため、画素数を大きくし、清拭も特異的に念入りにし、左右二枚を近づけて合成、両画の上下左右の枠を除去した一枚の絵として描かれたものを二枚にしたものではないために、中央部は上手く接合はしないが、これは私のトリミング・ミスやサイズ・ミスではないのでここで断っておく。なお、本文の和歌の前後は恣意的に一行空けた。]

 

 古曾部の入道、能因法師が跡をとへば、古墳、草、繁りて、村雨、哀れを添ふ。誰(たれ)問ふ者無かりけるに、翰林處士羅山子、碑文(ひもん)を鐫(え)りて、后(のち)の疑凝(ぎきやう)を斷はる。又、能因、聊(いさゝ)め棲みし庵の跡、今も淸水ありけり。昔、野守の鏡(かゞみ)とも賴みしにや。法師、詠める、

 

 あしびきの山した水に影見ればまゆ白妙に我おひにけり

 

 又、山越えに金龍寺(こんりうじ)に詣でしに、艷(なま)めける女の、芝生にまかりければ、

 

 あさぢ原まとふ黑髮きのふまでたが手枕(たまくら)に懸(かけ)てきぬ覽(らん)

 

と弔(とふら)ひしと也。

 猶、入相(いりあひ)の鐘に花を惜しみし春の夕暮、來(こ)し方、懷(なつか)しく、その里、かれこれと步(あり)くに、また、伊勢寺(いせいじ)と云ふ寺へ案内(あない)の袖に任せ行く。境(さかひ)、狹(せば)く、寺も優しきばかりなり。

 その上(かみ)、左大辨家宗の子、伊勢守繼蔭(つぎかげ)の女(むすめ)、伊勢と云ふ上達女(かんだちめ)、秀歌の達者なり。小倉山庄(をぐらさんざう)の百首にも撰(えら)ばれ、我(わが)敷島の言の葉の道に、曲(きよく)をまゝ得給ひし人の菩提道場なり。像(かげ)も紙に殘りて、今に坐(いま)せり。

 此寺の岸根(きしね)に添ふて、暫し、休らふに、不立文字(ふりうもんじ)の靈場に、讀經の聲も幽(かす)かに聞え、寂莫(じやくまく)たる院(いへ)の内(うち)に、磬(うちならし)の音(ね)も仄(ほの)かなり。

 遠く望めば、生駒(いこま)が峯、飯森(いゐもり)山も向かひ、近く尋(たづぬ)れば金龍寺、神峯山(かぶせん)も覆ふ。本山の晩(くれ)の鐘、颪(おろし)に誘ふておかしく、牧方(ひらかた)の歸帆も誰(た)が託(かこ)つ風ならんと、侘(わ)びし。三嶋江(みしまえ)の夜の雨には、釣叟(てうそう)の焚く篝火(かゞりび)も消え、鵜殿(うどの)の芦間(あしま)に群れゐる鴈(かり)は、漁父(ぎよふ)・渉人(しようにん)の舟呼ばひに驚く。夕日照る梶原の紅葉(こうえう)は、唐紅(からくれなゐ)の色增して、久方(ひさかた)の雲の脚(あし)かとあやしく、天滿神(あまみつかみ)の森の雪は、暮れ過(すぎ)つゝも、曙(あけぼの)に紛(まが)ふ。高槻(たかつき)の晴嵐には、玉桙(たまほこ)の袖道を急ぎ、金龍(こんりう)の梢(こずゑ)の月は、羈客(はかく)も秋の悲しびを忘れん。安滿(あま)に焚く夕煙(ゆふけふり)は、遠方(をちかた)人の胸を焦(こが)し、芥川の朝(あさ)の露は、さらでも、樵夫(せうふ)の履(くつ)を潤(うるほ)す。

 能因が詠(よ)み、伊勢が詠(なが)めしは、さぞな、その數奇人(すきびと)住(すみ)にし里、その數、十種百種(とくさもゝくさ)の哥(うた)ならめかは、と心にくゝ、能因の塚、伊勢の影、眺めしに、里人のいはく、

「この所に、また、不思議の事あり。これより西の谷に、騎馬の士(さふらひ)、束帶(そくたい)の女房、幽靈と見えて、夜每(よごと)に出(いづ)。露の玉ゆら現はれて、後(のち)、搔き消すやうに、去る。げに、その上(かみ)、由(よし)ある人にか、御座(おは)すらめ。數(かぞ)ふれば遠かめれど、伊勢は寺に依り、能因は碑の銘に殘りて、今にそれぞと名は朽ちずも侍るに、これらは如何なる人とも知れぬ身の、夜每に出(いで)て、誰(た)が爲(ため)に見ゆると、哀れにさふらふ。」

と語る。

 我、聞(きき)て、

「聞き捨つべきにあらず。細やかに語り給へ。」

と云へば、里人のいはく、

「ある時、二人、狩のためにその谷に行く。月落ちけれど、影まだ明(あ)かきに、岡(をか)の方(かた)より、物音、轟(とゞろ)ひて、凄(すざ)まし。何ぞと見れば、甲冑(かつちう)帶(たい)せし男、緋縅(ひおどし)に見えて、弓緩(ゆる)やかに持ち、箭(や)を筈高(はづだか)に負ひ、太く逞しき馬に白泡(しらあは)嚙ませて、岡より谷を下(くだ)りに、一文字(いちもんじ)に來(きた)る。又、その後(あと)に白糸の鎧に、直垂(ひたたれ)世の常にして、下髮(さげがみ)に鉢卷の女房、白柄(しらえ)に蛭卷(ひるまき)したる長刀(なぎなた)、脇に搔い込み、しづしづと步み、初めの武者に續く。昔は墓にもありなん、今しも茅萱(ちかや)に深き野原を、二人ながら、二、三遍(べん)、𢌞りて、搔き消すやうに、失せぬ。不思議にこそ侍れ。」

と語る。

 我(われ)思ふに、昔、正親町(おほぎまち)の御宇、永祿の比、天下、大(おほい)に亂る。義元、信長入恨(じゆつけん)になり、輝虎と晴信と大に戰ふ事ありて、さがなき世なりけり。其後、元龜元年、三好日向守が殘黨あり。此の里よりは西、服部(はつとり)の北に、原(はら)と云ふ村、租山(そやま)に城ありて、暫し、支へしかども、遂に義昭(よしてる)がために敗北しけり。其時、此邊り、戰場たらん。疑ふらくは、その時の勇士か。修羅(すら)の巷(ちまた)、何時(いつ)か出でなん、と悲しくこそ侍れ。

 

[やぶちゃん注:本話はまたしても明らかに筆者自身が主人公の実録風の怪談である(但し、ここでの怪談部分は聞き書き)。こうした怪談物で各所に作者の実体験物が挟まれるのは、完全な創作物であったとしても、怪談としてのリアリティを否が応でも高める非常に上手い手法と言える。なお、私が注した以外に、この本文には能因或いは伊勢の和歌をインスパイアした箇所があるかも知れぬ。判る方は御指摘戴ければ幸いである。

「古曾部」現在の大阪府高槻市古曽部町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。平安中期の僧で歌人として知られる能因(永延二(九八八)年~永承五(一〇五〇)年又は康平元(一〇五八)年とも)の墓と伝えるものが今も同所に残る(リンク先にも指示がある)。ウィキの「能因」によれば、俗名は橘永愷(たちばなのながやす)で二十五で出家した際の法名は「融因」であったという。近江守であった橘忠望の『子で、兄の肥後守・橘元愷の猶子となった。子に橘元任がいた』。初め、『文章生に補されて肥後進士と号したが』、長和二(一〇一三)年に出家している。『和歌に堪能で、伊勢姫に私淑し、その旧居を慕って自身の隠棲の地も摂津国古曽部』を隠棲の地と定め、『古曽部入道と称した。藤原長能に師事し、歌道師承の初例とする』。『和歌六人党を指導する一方、大江嘉言・源道済などと交流している。甲斐国や陸奥国などを旅し、多くの和歌作品を残し』、「後拾遺和歌集」には三十一首所収され、以下の勅撰和歌集にも実に六十七首が入集している。歌集に「能因集」の他、私撰集「玄々集」や歌学書「能因歌枕」があるとする。複数の辞書などの資料で補足しておくと、万寿二(一〇二五)年には東北地方を行脚しており、その死に際しては、自身の和歌の草稿を地中に埋めたとも伝えられる。岩波文庫版で高田氏は、この古曾部を『能因法師の古里で』あると注しておられるが、この『古里』が生まれ故郷という意味だとすると、疑問である(永く住み馴れた地の意ならば肯んずるし、死に際しては彼はここを『古里』と認識はしていたであろう)。諸記載を見る限りでは、ここは能因の生地とは思われないからである。彼がここを終の棲家と定めたと思われるのは、ここに登場する三十六歌仙の一人伊勢(後注)に、後代の能因が歌人として激しく私淑していたことによるものと推定されている。伊勢はこの地に住み、後の出る伊勢寺(ここ(グーグル・マップ・データ))に葬られており(現在は能因塚のある古曾部の北西に接する高槻市奥天神町内であるが、能因塚との距離は四百メートルほどしか離れていない)、伊勢の旧跡を慕った能因が、遂にはここに庵をも結んだと考えるのが至当である。

「翰林處士羅山子」江戸初期の朱子学派儒学者で林家(後に林家は大学頭を名乗るが、それは羅山の孫の三代林鳳岡(ほうこう)以降のこと)の祖である林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)羅山は号で、諱は信勝(のぶかつ)、字は子信、通称を又三郎と称し、出家した後の号である道春(どうしゅん)の名でも知られる。「翰林處士」は文字通りなら、在野の学者を意味するが、ここは家康・秀忠・家光・家綱の四代の将軍に仕えた御用学者(概ね侍講として強力なブレーンとなった)といった意味で用いているようである。高槻市公式サイト内の「伝能因法師墳」によれば、林羅山の手になる碑文を彫った墳墓正面にある顕彰碑は慶安三(一六五〇)年に高槻城主永井直清が建立したとある。岩波文庫版の高田氏の注では『慶安元年』とあるが、これは文脈から『依頼をうけた』年で、碑の完成が二年後であったということであろうか。森本行洋氏のサイト「古墳のある町並みから」の「能因塚(能因法師墳)」がルートその他に詳しい。必見。

「疑凝(ぎきやう)」岩波文庫版の高田氏の注に『「疑驚(ぎきょう)」の誤りか』とある。「疑驚」とは、本当かと疑い驚くことの意。

「斷はる」「予め、説明しておく」の意。

「聊(いさゝ)め」仮初めに。ちょっと。彼がここに庵を結んだのは晩年と考えられてい「淸水ありけり」能因塚の近くには能因法師が日常生活の用に水を得ていたとされる「花の井」と呼ばれている井戸や(森本行洋氏のサイト「古墳のある町並みから」の「花の井」参照)、彼が不老不死を願って煎茶に使用したとされる名水の井戸「不老水」(同前の森本氏のサイトの「不老水」参照)がある。

「野守の鏡」昔、鷹狩りの途中で逃げた鷹を野守が溜まり水に映る影を見て発見したという故事から野中の池水や清水を鏡に譬えて言う語。

「あしびきの山した水に影見ればまゆ白妙に我おひにけり」「あしびきの山下水に影見れば 眉白妙にわれ老いにけり」が表記としては正しい。「新古今和歌集」の「卷十八 雜下」の能因の一首(一七〇八番歌)で「山水を掬(むす)びて詠み侍りける」という詞書を持つ。能因会心の作とされる。

「金龍寺(こんりうじ)」現在の大阪府高槻市成合にあった天台宗邂逅山(たまさかざん)華雲院金龍寺。ウィキの「金龍寺(高槻市)」によれば、延暦九(七九〇)年に建立された安満寺に始まるとされ、盛時には十九の『坊舎があり、天皇の行幸があるなど巨刹であった。その後衰退したが』、康保九(九六四)年、『三井寺で修行した千観が「日想観」のある土地を求め、金色の雲が湧く山』として、『この地に来て再興した』。『ある時、境内の池に竜女が現れて法水を甘んじ成仏したのを見て、金竜寺と改称した。それ以来、雨乞いの霊験があり』、安和二(九六九)年に旱魃が続いた際には、『冷泉天皇の勅命で千観が祈雨したところたちまち雨が降ったという。戦国時代』の天正年間(一五七三年~一五九二年)に『高山右近の兵火にあって焼失したが』、慶長七(一六〇二)年には『豊臣秀頼によって再興された。その頃には寺領』三十石『クラスの寺として門前村が形成され、巡拝や遊山でも浄財を集め大いに栄えたという。古くから桜の名所であった』。『この寺の桜は能因桜と呼ばれ』、『西行や松尾芭蕉もこの寺を訪れ句や文を残している』。しかし、『その後の金龍寺は明治時代の廃仏毀釈により荒廃』、昭和一三(一九三八)年に、植物学者で桜の研究の第一人者として「桜博士」と称された『笹部新太郎が桜の調査に訪れたときも、電気も水道もない荒れた境内に老僧が一人いるだけの状態であったという。その後、寺籍は岐阜に移され』、『金龍寺は廃寺となった』。しかも唯一残っていた寺の本堂も昭和五八(一九八三)年に『ハイカーの火の不始末により焼失して』しまい、『現在は金龍寺跡となっている』(ここまでの引用は総てウィキ)とある。高槻市公式サイトのこちらによれば、『松茸狩りの絶好の場所として』も知られており、「攝津名所圖會」の「金龍寺山松茸狩」には、『丘の上にござを敷いて火に鍋をかけ、男も女も松茸狩りに興じている様子を見ることができ』るとある(画像有り)。『この絵柄から、いわゆる行楽シーズンに金龍寺界隈が多くの人でにぎわっていたことがうかがえ』るが、『明治以後無住となって荒れ果て』、『現在、寺の跡には石塔・礎石・石垣が残』るのみとある。能因が知ったら、さぞや無常の思いを致すであろう。能因がこの寺で詠んだ歌としては、ここに出るものではなく、「新古今和歌集」の「卷第二 春歌下」にある一首(一一六番歌)、

 

   山里(やまざと)にまかりてよみ侍りける

 山寺の春の夕暮れ來て見れば入相の鐘に花ぞ散りける

 

が有名で、本文の後文はそれに基づく。「入相の鐘」は太陽の沈む頃に寺で勤行の合図として撞き鳴らす鐘で、一般には酉の刻(午後六時頃)に撞いた。

「まかりければ」これは「息絶えていた」というのである。だから「弔(とふら)ひし」とあるのである(次注参照)。

「あさぢ原まとふ黑髮きのふまでたが手枕(たまくら)に懸(かけ)てきぬ覽(らん)」ネット上の私家集なども調べて見たが、見当たらないので、衝撃的な情景でもあり、伝として調べて見たところ、「攝津名所圖會」に麻茅原  金竜寺の麓にあり

里諺に云ふ、能因法師この原にて美女の死したるを見たまひてかくぞ詠じたまふ

   *

淺茅原(あさぢはら)【金龍寺の麓にあり。里諺(りげん)に云、能因法師、此原にて美女の死(しゝ)したるを見たまひて、かくぞ詠したまふ。】

 

 淺茅原まとふ黑髪きのふまでたか手枕(たまくら)のうへに置けん

 

と詠吟したまへば、かの屍(しかばね)動き出てて草むらより枕をもたげ、悦ぶけしき見えて、又もとの如し。終(つひ)にこゝに葬(はうふ)り、印(しるし)の石を置(すへ)て吊(とふら)ひたまふとなん。此石、今にあり。

   *

CHECHENTARO氏の『「古典」ゆかりの地を訪ねる』の「麻茅原(大阪府高槻市)」に示された原典画像を元に活字に起こした(【 】は二行割注)。CHECHENTARO氏に感謝申し上げる。

「伊勢寺(いせいじ)」現在の大阪府高槻市奥天神町にある現在は曹洞宗の金剛山伊勢寺(いせじ)。ウィキの「伊勢寺」によれば、歌人伊勢(貞観一四(八七二)年頃~天慶元(九三八)年頃藤原北家真夏流の藤原伊勢守継蔭の娘。当初、宇多天皇の中宮温子(おんし/あつこ)に女房として仕え、藤原仲平・時平兄弟や平貞文と交際の後、宇多天皇の寵愛を受けて、その皇子を生んだが、その子は早世し、その後は宇多天皇の第四子敦慶(あつよし)親王と結婚して中務を生んだ)を開基とするという。伊勢の死後の寛平三(八九二)年、『その草庵は伊勢寺と号し、天台宗に属した。天正年間、高山右近の兵火に焼かれたが、江戸時代の寛永年間、僧宗永によって再興され曹洞宗に改められた』(下線やぶちゃん)とある。位置は先のグーグル・マップ・データを参照されたい。

「境(さかひ)」境内。

「優しきばかりなり」ここは前に境内も狹いとしているから、その侘びしさに「正直、つらい感じがするばかりであった」の謂いと読んでおく。

「左大辨家宗」公卿藤原家宗(いえむね 弘仁八(八一七)年~貞観一九(八七七)年)。藤原北家の参議藤原真夏(まなつ)の孫で民部少輔藤原濱雄(はまお)の長男。最終官位は従三位で参議。彼は死の三年前の貞観十六年に左大弁となっている(ウィキの「藤原家宗」に拠る)。

「伊勢守繼蔭(つぎかげ)」藤原継蔭(つぐかげ(以下のウィキの読み) 生没年不詳)最終官位は従五位上で伊勢守。ウィキの「藤原継蔭によれば、『文章生から式部大丞を経て』、元慶五(八八一)年、『従五位下に叙爵』、仁和二(八八六)年には従五位上、『伊勢守に叙任されるが、しばらく任地に出発しなかったため、同じように平安京に留まっていた諸国司とともに召問を受けている』とある。娘の伊勢の名は父の任国に由来する呼称

「上達女(かんだちめ)」不審。「かんだちめ」(或いは「かむだちめ」)は「上達部」でこんな表記しないし、そもそも「上達部」とは三位以上及び四位の参議、即ち、公卿のことを指し、彼女は「伊勢の御(ご)」「伊勢の御息所(みやすんどころ)」とは呼ばれたが、天皇の子を生んでも下級女官である彼女を「かんだちめ」とは決して呼ばない。

「小倉山庄(をぐらさんざう)の百首」藤原定家はかの「百人一首」を現在の京都市右京区嵯峨亀ノ尾町にある小倉山(おぐらやま:標高二百九十六メートル。桂川の北岸にあって南岸の嵐山と相対し、「雄蔵山」「小椋山」とも書かれる。紅葉の名所で歌枕としても知られる)に建てた小倉山荘(「時雨亭」とも称した)で編纂した(そこから「小倉百人一首」とも呼ばれる)。

「敷島の言の葉の道」和歌。

「曲(きよく)をまゝ得給ひし人」岩波文庫版の高田氏の注に『「曲」は「極」。最高の技術を手に入れられた人』とある。

「菩提道場」伊勢の菩提寺であるということ。

「像(かげ)」描かれた肖像。

「岸根(きしね)」山下。伊勢寺は現在でもこんもりとした丘陵の南に建つ。後の「本山の晩(くれ)の鐘、颪(おろし)に誘ふ」というのもそうしたロケーションを指す。

「不立文字(ふりうもんじ)の靈場」禅宗の寺院。禅宗は経論に拠らず(「不立文字」「教外(きょうげ)別伝」)、師の心から弟子の心へと直接に悟りの内容を伝えてゆくことを唯一の伝法とする(「直指人心(じきしにんしん)」「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」)。所謂、「以心伝心」で禅宗の宗風を最も端的に表現した四句の冒頭の語。

「磬(うちならし)」音の「ケイ」で呼ぶのが一般的。ここは本邦の仏教寺院では読経の合図に鳴らす仏具を指す。ウィキの「磬」の「仏教の磬」によれば、鋳銅製で、『奈良時代から制作され、平安時代には密教で必須の仏具となり、その後他宗派でも用いるようになった』。『仏教寺院では、金属製の碗を台の上に置いて棒で叩いて鳴らす楽器のことを「磬子」または「鏧子」と書いて「けいす」または「きんす」と読む』。『柄がついていて手に持って鳴らす「引磬」も存在する』とある。リンク先で画像が見られる

「生駒(いこま)が峯」現在の奈良県生駒市と大阪府東大阪市との県境にある標高六百四十二メートルの生駒山。生駒山地の主峰。伊勢寺の南南東二十一キロメートル。ここ(グーグル・マップ・データで伊勢寺を起点に中央直下に生駒山を置いた)。

「飯森(いゐもり)山」飯盛山(いいもりやま)は現在の大阪府生駒山地の大東市と四条畷市に跨った標高は三百十四・三メートルの山(山頂は大東市内)。ここ(グーグル・マップ・データ)。生駒山の北北西六キロ圏内。

「神峯山(かぶせん)」現在の大阪府高槻市原にある天台宗神峯山寺(かぶさんじ)。伊勢寺の北北東約四キロメートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「覆ふ」一望の内に含まれることを言う。

「本山の晩(くれ)の鐘」先に注した通り、「本山」はこの伊勢寺ととっておく。これは前の能因の和歌を引いた「入相の鐘」と同じものと考えてよい。「入相の鐘」よりも後にこれがあるとなると、話柄内の季節は判らないものの(各所に季節が出るが、それは能因の歌や想像に依拠したもので確定出来ない)、ここに語られるような眺望は見られないと私は思うからである。

「牧方(ひらかた)」「牧」は原典・底本・岩波文庫版のママ。淀川を挟んで現在の高槻市に西で接する大阪府枚方市。淀川水運の港として栄えた。

「歸帆も誰(た)が託(かこ)つ風ならんと、侘(わ)びし」伊勢寺の上から吹き降ろす風であるから、これは淀川を河口方向から遡って帰ってくる舟には逆風となり、それでなくても遡上するのだから不平の種とはなろうと思うと、行き悩む帰り舟の様子は、なんとなく侘びしい思いをさせる、というのであろうか?

「三嶋江(みしまえ)」ロケーションとしては南の先、淀川の少し下流の現在の高槻市三島江。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここは万葉の昔から「淀の玉江」と呼ばれた淀川を代表する歌枕で。江戸時代には対岸の出口(でぐち:現在は枚方市出口)との間に渡し舟があって北摂津と北河内を結ぶ地として大変賑わった。以下の景は実際に見えているものではなく、荻田の風流の幻像である。その証拠に遠近自在で季節もばらばらである。

「鵜殿(うどの)の芦間(あしま)」これは「鵜殿の葦原(よしはら)」で、現在の大阪府高槻市鵜殿から上牧に広がる淀川右岸河川敷の葦原(単子葉類植物綱イネ目イネ科ダンチク亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australisの群生地)のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。前の三島江から反転するように淀川の遙か上流位置にある。ウィキの「鵜殿のヨシ原によれば、『鵜殿一帯は、奈良時代には都の牧場として使用されていた。鵜殿の地名については』、紀元前八八年に起きた建波邇安王(たけはにやすひこおう:孝元天皇の皇子で崇神天皇に対する反乱を起こしたとされる)の乱『以後、敗軍の将兵が追い詰められ』、『淀川に落ち鵜のように浮いたので、一帯を「鵜河(川)」と呼ぶようになったと『古事記』に書かれており、 平安時代に鵜河の辺に造られた宿を「鵜殿」と呼び、それが土地の名になったと言われている』。承平五(九三五)年には、『紀貫之が土佐から帰京するおり、「うどの(鵜殿)といふところにとまる」という記述がある。江戸時代には「宇土野」という文字での記述もみられる』。ここにも昭和初期まで「鵜殿の渡し(下島の渡し)」という渡し場があった。また、ここで穫れる葦(よし)は『良質なことで知られ、特に雅楽で用いられる楽器・篳篥の吹き口として珍重され』て『貢物として献上されていると、『摂津名所図会』にも記されている。 その他、江戸時代には、ヨシで編んだ葦簾が盛んに生産され』、昭和三十年代までは簾や『建築資材などの材料として使用されていた』とある。

「漁父(ぎよふ)・渉人(しようにん)」漁師の声や、渡し(前注下線部参照)を渉るために向こう岸の舟に呼びかける(「舟呼ばひ」)旅人ら。

「梶原」高槻市梶原・淀川右岸で鵜殿の内陸直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。西国街道沿いの集落。

「久方(ひさかた)の」「雲」の枕詞。「雲の脚(あし)かとあやしく」夕日に赤く映える雲の体から地上に伸びた赤い脚のように見えるというのである。

「天滿神(あまみつかみ)の森」あてずっぽうだが、大阪府枚方市楠葉丘にある交野天神社(かたのてんじんしゃ)ではないか? この社名は「かたのあまつかみのやしろ」とも読まれるからである。「森」はその鎮守の森で、ここには現在も原生林が残る。ここ(グーグル・マップ・データ)なら、伊勢寺からのロケーションの範囲内と思われるからでもある。

「晴嵐」晴れた日に空にかかる霞。

「玉桙(たまほこ)」道中。「たまほこの」(「玉鉾の」とも書く)は枕詞として「道」に掛かるところから「道・道中」の意となった。

「袖」人。

「金龍(こんりう)」先に出た直近の金龍寺。

「羈客(はかく)」読みは原典のママ。「き」の誤記であろう。馬で旅する人。

「安滿(あま)」古曾部の東直近の高槻市の安満(あま)地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。淀川の支流檜尾川(ひおがわ)の河畔。

「芥川」現在、主に高槻市を流れる淀川の支流。伊勢寺からは前注で出した檜尾川と反転した西位置に当たる。ここ(グーグル・マップ・データ)。こうしたここまでの描写は地図上で見ても描写位置のバランス感覚に私は舌を捲く。また、この芥川は、荻田の好きな「伊勢物語」の第六段、かの「芥川」とする説もあり、さればこそ、荻田はここに続けて「朝(あさ)の露」と確信犯で記したのであった(以下、原文抜粋)。

   *

芥川といふ川を率(ゐ)て行きければ、草の上に置きたりける露を、

「かれは何ぞ。」

となむ男に問ひける。

[やぶちゃん注:中略。]

 

  白玉かなにぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを

 

   *

「これより西の谷」位置は古曾部から動いていないから、実は最後の「伊勢物語」中の特異点である怪奇譚〈鬼一口の芥川〉の上流域こそが、以下の怪異出来の現場であることが判る。グーグル・マップ・データでこの附近を候補としておく。

「伊勢は寺に依り、能因は碑の銘に殘りて、今にそれぞと名は朽ちずも侍る」と述べているが、実はやはり高槻市公式サイト内の「伊勢寺」によれば、伊勢寺には伊勢廟堂という伊勢を祀る独立の堂が寺の本堂の西側にあって、そこにはやはり能因塚と同じく林羅山の書いた顕彰碑があるとある。これは能因塚の碑建立の翌年、慶安四(一六五一)年にやはり同じ高槻城主永井直清によって建てれたとあるのである。荻田が実際に伊勢寺に行っていたら、案内人がそこを教えぬはずがない。ここに荻田は実は伊勢寺の本堂まで上ってはいないのではなかったか? という疑惑が生ずる。或いは、能因の叙述と雰囲気を差別化するため、それを記さなかったともとれなくはないが、これはあくまで荻田に対して善意に過ぎる解釈のようにも思われる。如何?

「筈高(はづだか)」箙(えびら)に入れた矢の矢筈(やはず:矢の末端の弦(つる)に番える部分)が頭上高く突き出ていること。それだけで敵に確信犯で目立ち、威圧的な印象を与えることから、強弓(つよゆみ)の勇士を形容する語としてしばしば用いられる。

「白泡(しらあは)嚙ませて」岩波文庫版の高田氏の注に『馬を勇み立たせ、口から白い泡』となった涎『を吹かせて』とある。

「蛭卷(ひるまき)」補強や装飾のために刀剣の柄や鞘、また、槍・薙刀・手斧などの柄を鉄や鍍金・鍍銀の延べ板で間をあけて巻いたもの。蛭が巻きついた形に似ることからの呼称。

「正親町(おほぎまち)の御宇」織豊時代の天皇である第百六代正親町天皇(永正一四(一五一七)年~文禄二(一五九三)年)。在位は弘治三年十月二十七日(一五五七年十一月十七日)から天正十四年十一月七日(一五八六年十二月十七日。

「永祿」一五五八年~一五七〇年。

「義元」今川義元(永正一六(一五一九)年~永禄三年五月十九日(一五六〇年六月十二日)。永禄三年五月に二万余の軍を率いて尾張国へ侵攻を開始したが、桶狭間山で休息中に織田信長(天文三(一五三四)年~天正十年六月二日(一五八二年六月二十一日)の攻撃を受け、織田家家臣毛利良勝によって首級をとられた。享年四十二。

「入恨(じゆつけん)」見馴れぬ熟語で詠みも得意。恨み骨髄となることの意でとっておく。ここは義元が、である。

「輝虎」後の上杉謙信(享禄三(一五三〇)年~天正六(一五七八)年)。法号である謙信を名乗ったのはずっと後の亀元(一五七〇)年

「晴信」後の武田信玄(大永元(一五二一)年~元亀四(一五七三)年)。永禄二年に出家して信玄に改名。言わずもがなであるが、ここは輝虎と晴信の抗争を指す。「川中島の戦い」の最も知られた両者一騎打ちの第四次合戦は、永禄四(一五六一)年)に行われ、五次に及んだ「川中島の戦い」の中で最大規模の戦さとなり、多くの死傷者を出している。

「さがなき」とんでもなく性質(たち)の悪い。

「元龜元年」一五七〇年。

「三好日向守」畿内や四国で八ヶ国をも経営し、室町幕府の摂津国守護代も勤めた三好長慶(ながよし 大永二(一五二二)年~永禄七(一五六四)年)。信長に先行する最初の「戦国天下人」とも称されて絶大な権力を誇ったが、晩年は家宰の松永久秀に実権を奪われ、嫡子義興をも失い、第十三代将軍義輝(よしてる)との調整に悩みながら、失意のうちに病死した。文芸に秀いで、連歌の名手でもあった。

「服部」この附近と思われる(グーグル・マップ・データ)。

「原(はら)と云ふ村」前注の地区の北に現在、大阪府高槻市原がある。

「租山(そやま)に城ありて」前注の原地区の、芥川の上流にある三好山に築かれた巨大な山城。この当時は三好氏の家臣で三好一族の長老的立場にあった三好長逸(ながやす 生没年不詳:永禄八(一五六五)年五月、三好氏の障害となっていた第十三代足利義輝(よしてる)を暗殺した人物)が城主であったと思われるが、ここにあるような形では長逸は死んでいないし、落城もしていない(ウィキの「芥川山城」によれば、同山城は廃城の時期さえも明らかでないとある)。

「義昭(よしてる)」「よしてる」は原典のママ。「よしあき」の誤りである。室町幕府最後の第十五代将軍足利義昭(天文六(一五三七)年~慶長二(一五九七)年:在職:永禄一一(一五六八)年~天正一六(一五八八)年)。]

2017/07/26

宿直草卷五 第四 曾我の幽靈の事

 

  第四 曾我の幽靈の事

 Soganoyuurei

[やぶちゃん注:挿絵は今回はよりクリアーな岩波文庫版を用いた。多少、清拭を加えた。]

 

 古めかしき咄(はなし)に、修行者(すぎやうじや)有(あり)て、國國、𢌞(まは)る。宇都(うつ)の山べの現(うつゝ)とも、夢としもなく世を渡るに、ある時、其名も高き富士の麓(ふもと)過(よ)ぎる。「行衞も知らぬ」と眺めし聖(ひじり)の心に似(の)りて見れば、そも又、誰(た)が焚く煙ぞや、降るか殘るか、解けぬか無きか、いさ、しら雪の雲に高く、雷(いかづち)も半腹(はんふく)に鳴り、鳥も如何でか中央(ちうわう)より翔(か)けらん。比叡(ひえ)の山二十(はたち)重(かさ)ぬべき、我が秋津洲(あきつす)の見目(みめ)のみかは、三國に類(たぐ)ふべきもあらず、突兀(とつごつ)として、また、時知らず、目離(めが)れずも崦(やま)を眺めて、まだ秋としもなきに、時も酉(とり)にかい暮れ、我(わが)衣手(ころもで)の墨染(すみぞめ)の頃なり。

 もとよりも流離(さすら)への袖なれば、木蔭、苔莚(こけむしろ)など尋ぬるに、彼方(かなた)を見れば、灯影(ほかげ)仄(ほの)めいて、四阿屋(あづまや)の軒(のき)、淋しきあり。

 立ち寄りて見れば、賤しからず設(しつら)ひ、几(をしまづき)に草紙(さうし)引き散らし、常ならぬ空燒(そらたき)の香(か)、おかしく美(うるはしふ)して、いと優(ゆふ)なる女房の、衣裳めでたきばかりなるが、竈(かまど)近く寄り居(ゐ)、松が枝(え)、松笠(まつかさ)うちくべて、燒火(たきび)に添ふたるさま、又、鄙(ひな)には目馴(めな)れずぞ有(あり)ける。

 やがて、立ち寄り、假寢(かりね)のことを詑(わ)ぶるに、女房、聞(きき)て、

「いたはしや。旅行の袖の、なに行き暮(くれ)給ふとや。人目(ひとめ)離(か)れたるあしひきの、山の住居の憂き席(むしろ)も、一夜(ひとよ)は明かし給へかし。」

と許す。

 うち嬉しくて內へ入るに、かの女房の焚(た)く釜を見れば、湧きかへりて、湯玉立つを、いさゝめ、盥(たらひ)に汲みて、浴(あび)けり。

 凡そ、人のわざとは見えず。

 かくて沐(ゆあみ)仕舞(しま)ふに、外(ほか)より鎧(よろ)ふたる者の歸入(かへりい)りぬ。

 その身、朱(あけ)になりて、疵(きず)多く蒙(かうふ)りたり。女房、

「歸へり給ふ。」

と云ふに、苦しげなる答(いら)へせしは、軍(いくさ)の歸(かへ)さか、と見えたり。

 物具(もののぐ)取りければ、痛手と見えしも、つい、癒(いへ)けり。

 いとゞ不思議にぞ侍る。

 僧を見て、

「誰(たれ)ぞ。」

と云へば、妻、

「旅の人にて宿を召したり。」

と云ふ、夫、聞いて、

「さては、行き暮れ給ふか。かゝる見苦しき所にお宿めし候事よ。恥づかしくこそ侍れ。」

と云ふ。僧、

「旅寢を許し給ふ事、嬉しくこそさふらへ。さるにても、御身は如何なる人にてまします。」

と云へば、

「我は曾我の十郞祐成(すけなり)、あの者は大磯(おほいそ)の虎(とら)といふ女(をんな)也。今は昔に過(すご)し世を、語るにつけて淺ましけれど、去りにし建久の頃、此邊りにして、夜晝(よるひる)、仇(かたき)を狙ひ、遂に祐經(すけつね)を討ち、年比(としごろ)の本意を遂げつゝ、身はその時に空しくなれど、魂魄はまだ消えもせで、その罪、修羅(すら)に感じ、執心、今さら殘る世の、御僧にまで見(ま)みえ參らせさふらふぞや。草の枕のうたゝ寢も、緣あればこそ見もし見えもすれ、然るべくは、弔(とふら)ひ給はれ。さりながら、うれしくも、やがて修羅の巷(ちまた)を出でゝ、來年の秋は小田原の城主に生(むま)れさふらふ。客僧、緣あらば、それにて御目にかゝるべし。これを持ちて出(いで)給へ。」

と、太刀の目貫(めぬき)、片方(かたかた)、外(はづ)して、僧に與(あた)ふ。

 僧、目貫を受けとりしに、此人も無くなり、日も、まだ暮れず。

 不思議に思ひ、夢かと思へど、目貫はさらに有(あり)けり。

 さて、そこ立ち退き、とかく送るうち、はや、明(あく)る年の秋になる。

 何となふ、小田原に行く。

 ちまたの沙汰に、

「殿には、若君、出で來給へども、左の手、握り給ひて、開かず。父母、歎き給ふ。」

と云ふ。

 僧、

「さては約束の人なり。」

と知り、奧へ人して、

「御手、開くるやうに致し申さん。」

と云ふ。やがて、

「召せ。」

とて、僧、參り、片方(かたかた)の目貫、取り出だし、若君に見せければ、その時、左の手を開き給ふに、目貫、有(あり)て、僧の持て來たりしと一對なり。

 人々、不審しけるに、富士の裾野の約束を語りしと也。 

 

[やぶちゃん注:前話の終りに曾我の弟時致が出た(但し、そこに出る話は私には不祥であったが)のでその兄貴曾我祐成とその愛人虎御前で直連関である。この話、荻田のまどろっこしい評言もなく、話柄の展開も非常に私好みである。曾我兄弟の仇討ちの経緯は、そうさ、私の北條九代記 富士野の御狩 付 曾我兄弟夜討 パート2〈曾我兄弟仇討ち〉を参照されたい。

「古めかしき咄(はなし)に」とわざわざ断っているから、ここは江戸初期から遡ること、有意に古い時代ととってよかろうから、個人的には戦国時代の小田原北条の時代と設定したくはなる。本文中で主人公の僧が、普通に「軍(いくさ)の歸(かへ)さか」と思うシーンが出てくる。こうした思いが普通に出て、その姿を不思議に思わないのは江戸幕府成立より有意に以前でなくてはならぬ。そうすると、「卷四 第十五 狐、人の妻に通ふ事」に次いで古い話柄とは、なる。

「宇都(うつ)の山べの現(うつゝ)とも」「宇津の山」は今の静岡県静岡市と志太(しだ)郡岡部町(おかべちょう)との境にある山。歌枕。南側に宇津谷(うつのや)峠があり、東海道中の難所として知られた。本話のロケーションとしてもしっくりくるが、この導入部は主人公も併せて、例の荻田の好きな「伊勢物語」の「東下り」の一節に完全に基づいて構成されている。

   *

 行き行きて、駿河の國に至りぬ。宇津の山に至りて、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、蔦、楓(かへで)は茂り、もの心細く、

「すずろなる目を見ること。」

と思ふに、修行者(すぎやうざ)、会ひたり。

「かかる道は、いかでか、いまする。」

と言ふを見れば、見し人なりけり。

 京に、その人の御もとにとて、文(ふみ)書きてつく。

  駿河なる宇津の山べのうつつにも

    夢にも人にあはぬなりけり

 富士の山を見れば、五月(さつき)のつごもりに、雪いと白う降れり。

  時知らぬ山は富士の嶺(ね)いつとてか

    鹿(か)の子まだらに雪の降るらむ

 その山は、ここにたとへば、比叡の山を二十(はたち)ばかり重ね上げたらむほどして、なりは塩尻(しほじり)のやうになむありける。

   *

『「行衞も知らぬ」と眺めし聖(ひじり)』西行のこと。「新古今和歌集」の「卷第十七 雜中」に載る(一六一五番歌)、

    東(あづま)の方(かた)へ修行し
    侍(はべり)けるに、富士の山をよ
    める

 風になびく富士の煙(けぶり)の空に消えて

          ゆくへも知らぬわが思ひ哉

を指す。

「似(の)りて」「乘る」と同じで、「のりうつる」の意からの敷衍。

「三國」日本・唐土(もろこし)・天竺の三国。

「突兀(とつごつ)」清音で「とつこつ」とも。高く突き出ているさま。高く聳えるさま。「時知らず、目離(めが)れずも」時が移るのも忘れてしまい、一瞬たりとも富士の霊峰から目を離すことが出来ずに。

「まだ秋としもなきに」釣瓶落としの秋というわけでもないのに。ここで時制は晩夏と推定される。

「酉(とり)」午後六時前後。

「我(わが)衣手(ころもで)の墨染(すみぞめ)の頃なり」自らが着ている僧衣(そうえ)の墨染めの衣のように、暗い時分となっていた。

「苔莚(こけむしろ)」苔蒸した場所を臥所の莚に譬えた。

「几(をしまづき)」「机」とも書き第一義は「脇息(きょうそく)・肘掛け」。机の意もあるが、ここは映像からも前者がよい。

「空燒(そらたき)の香(か)」その部屋ではなく、家の別な室でさりげなく焚いて、どこからともなく香ってくるように、香(こう)を焚き燻らすこと。

「かの女房の焚(た)く釜を見れば、湧きかへりて、湯玉立つを、いさゝめ、盥(たらひ)に汲みて、浴(あび)けり」「凡そ、人のわざとは見えず」回国修行の僧であるから、直接に女房の裸の女体(にょたい)を凝っと見ているわけではない。しかし狭い家で視界の端に沸騰した熱湯で! 沐浴をして、しかも! 何ともないそれが見えてしまうのである。さりげない画面の端に現われる怪異の第一! 実に美事!

「物具(もののぐ)取りければ、痛手と見えしも、つい、癒(いへ)けり」武具を取り外すと、その武士の身に刻まれていた多数の重い傷痕が、「Xメン」のウルヴァリンの如く! すぅーと治ってしまうのである! 怪異の第二! いいね!

「曾我の十郞祐成」(承安二(一一七二)年~建久四年五月二十八日(一一九三年六月二十八日)ここではウィキの「曾我祐成」を引いておく。安元二(一一七六)年、祐成が五歳の時、『実父・河津祐泰が同族の工藤祐経に暗殺された。その後、母が自身と弟を連れ相模国曾我荘(現神奈川県小田原市)の領主・曾我祐信に再嫁した。のち養父・祐信を烏帽子親に元服』『して祐成を名乗り、その後は北条時政の庇護の下にあったという』。建久四年の五月二十八日、『富士の巻狩りが行われた際、弟・時致と共に父の敵・工藤祐経を殺害したが、仁田忠常に討たれた』(弟時致は翌日に処刑)。先に示した私の「北條九代記 富士野の御狩 付 曾我兄弟夜討 パート2〈曾我兄弟仇討ち〉」の本文及び私の注も参照されたい。

「大磯(おほいそ)の虎(とら)といふ女」虎御前(安元元(一一七五)年~寛元三(一二四五)年)は相模国大磯の遊女。和歌にも優れ、容姿端麗であったという。「曾我物語」では曾我十郎祐成の愛人として登場し、曾我兄弟が仇討ちの本懐を遂げて世を去った後、兄弟の供養のために回国の尼僧となったと伝えられる。「曾我物語」のルーツは彼女によって語られたものとも言う。これは後、踊り巫女や瞽女などの女語りとして伝承され、やがて能や浄瑠璃の素材となり、曾我物と呼称する歌舞伎の人気狂言となった。

「祐經(すけつね)」工藤祐経(久安三(一一四七)年?~建久四年五月二十八日)は藤原南家の流れを汲む工藤滝口祐継の嫡男。ウィキの「工藤祐経」から引いておく。『幼少期に父・祐継が早世すると、父の遺言により義理の叔父である伊東祐親が後見人となる。元服ののち、祐経は祐親の娘・万劫御前を娶り、祐親に伴われて上洛し平重盛に仕える。歌舞音曲に通じており、「工藤一臈」と呼ばれた。だが、祐経が在京している間に祐親は祐経が継いだ伊東荘を押領してしまい、妻の万劫御前まで奪って土肥遠平に嫁がせてしまう。押領に気付いた祐経は都で訴訟を繰り返すが、祐親の根回しにより失敗に終わる』。『所領と妻をも奪われた祐経は祐親を深く怨み、祐親父子の殺害を図って』安元二(一一七六)年十月、『郎党に命じ、伊豆奥野の狩り場から帰る道中の祐親の嫡男・河津祐泰を射殺する。跡には祐泰の妻と子の一萬丸(曾我祐成)と箱王(曾我時致)の兄弟が残された。妻は子を連れて曾我祐信に再嫁し、兄弟は後に曾我兄弟として世に知られる事になる』。治承四(一一八〇)年八月の『源頼朝挙兵後、平家方として頼朝と敵対した伊東祐親は』、十月の『富士川の戦い後に頼朝方に捕らえられて自害した。祐経の弟とされる宇佐美祐茂(うさみすけしげ)が頼朝の挙兵当初から従い、富士川の戦いの戦功で本領を安堵されており、祐経は京から鎌倉へ下って頼朝に臣従し、祐茂を通して伊東父子亡き後の伊東荘を取り戻したと考えられる。祐経の子・伊東祐時は伊東を名乗り、伊東氏を継承する。祐時の子孫は日向国へ下向して戦国大名の日向伊東氏・飫肥藩藩主となる』。「吾妻鏡」での祐経の初見記事は、元暦元(一一八四)年四月の『一ノ谷の戦いで捕虜となり、鎌倉へ護送された平重衡を慰める宴席に呼ばれ、鼓を打って今様を歌った記録である。祐経は平家の家人であった事から、重衡に同情を寄せていたという』。同年六月に『一条忠頼の謀殺に加わるが、顔色を変えて役目を果たせず、戦闘にも加わっていない。同年』八『月、源範頼率いる平氏討伐軍に加わり、山陽道を遠征し』、『豊後国へ渡る。文治二(一一八六)年四月に』『静御前が鶴岡八幡宮で舞を舞った際に鼓を打っている』。建久元(一一九〇)年の頼朝上洛の際には『右近衛大将拝賀の布衣侍』七『人の内に選ばれて参院の供奉をし』。建久三(一一九二)年七月には、『頼朝の征夷大将軍就任の辞令をもたらした勅使に引き出物の馬を渡す名誉な役を担った。祐経は武功を立てた記録はなく、都に仕えた経験と能力によって頼朝に重用された』建久元(一一九〇)年七月、『大倉御所で双六の会が催され、遅れてやって来た祐経が、座る場所がなかったので先に伺候していた』十五『歳の加地信実を抱え上げて傍らに座らせ、その跡に座った。信実は激怒して座を立つと、石礫を持ってきて祐経の額にたたきつけ、祐経は額を割って流血した。頼朝は怒り、信実の父・佐々木盛綱に逐電した息子の身柄を引き渡して祐経に謝罪するよう求めたが、盛綱は既に信実を義絶したとして謝罪を拒否』した。『祐経は頼朝の仲裁に対し、信実に道理があったとして佐々木親子に怨みを持たないと述べている。祐経の信実に対する振る舞いには、頼朝の寵臣として奢りがあった事を伺わせる』。建久四年五月、『頼朝は富士の裾野で大規模な巻狩りを行い、祐経も参加する。巻狩りの最終日』であった五月二十八日『深夜、遊女らと共に宿舎で休んでいた所を、曾我祐成・時致兄弟が押し入り、祐経は兄弟の父・河津祐泰の仇として討たれた。祐経が仲介して御家人となっていた備前国吉備津神社の神官・王藤内も一緒に討たれている。騒動の後、詮議を行った頼朝は曾我時致の助命を考えたが、祐経の子の犬房丸(のちの伊東祐時)が泣いて訴えたため、時致の身柄は引き渡され、梟首され』ている。

「身はその時に空しくなれど、魂魄はまだ消えもせで、その罪、修羅(すら)に感じ、執心、今さら殘る世の、御僧にまで見(ま)みえ參らせさふらふぞや」基本的に輪廻した祐成は修羅道に転生したのである。「感じ」とは応感して応報の上に修羅道に生まれ変わったことを意味している。その「魂魄」が現世の主人公の行者に見えるのは矛盾でない。例えば、餓鬼道に落ちた餓鬼は「餓鬼草紙」では、現世空間にパラレルな形で、共存しているし、実際に水餓鬼が衆人環視の中で出現した記録も残る。畜生道の牛馬はしばしば現世の存在として語られ、地獄道のそれでさえ、たまさか、我々の感懐や幻視の中にその光景を見せるのである。されば、修羅道に堕ちた(三善道では人間道の下だから一応、「堕ちた」と言っておく)仇討ち一途に生きて悔悟する余裕もなく死んだ彼が修羅道へ転生し、かく行者の目の当たりに姿を見せたことは、これ、なんら、不思議ではないのである。

「緣あればこそ見もし見えもすれ、然るべくは、弔(とふら)ひ給はれ」ここは底本では「見えこそすれ」の後を句点とするが、私は「こそ」已然形(読点)の逆接用法として採る。祐成の亡魂はここで予定された現世への転生の確かさをダメ押しとして求めるために、自身では出来ない供養を行者に依頼したのである。

「太刀の目貫(めぬき)」「目」は「穴」の意で、刀身が柄(つか)から抜けないよう、柄と茎(なかご)の穴にさし止める目釘或いはそれを覆う金具で、次第に刀装の特徴となり精緻にして美麗な飾り物となった。そうした装飾具となったそれは、刀の柄の左右に対になって施された。ここはそれを言う。

「僧、目貫を受けとりしに、此人も無くなり、日も、まだ暮れず」瞬時に家も祐成も虎御前も消え、場面が一面の野原に変ずる怪異の第三! 小泉八雲の「鬼」(リンク先は私の古い現代語訳。「小泉八雲“JIKININKI”原文及びやぶちゃんによる原注の訳及びそれへの補注もどうぞ!)のラストのように、すこぶる、いい!

宿直草卷五 第三 仁光坊と云ふ火の事

 

  第三 仁光坊(にくはうばう)と云ふ火の事

 

Nikoubounohi

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。この女房が気に入らぬから修正を施さなかった。なお、本文の恋文及びその中の長歌・短歌及び添え詞は恣意的に前後を一行空けで示した。長歌と短歌の本文は原典のママとし、原典にルビがあっても添えていない。並びが汚くなるからである。恋文全体の字の大きさをブラウザの都合上、小に変えてある。]

 

 津の國嶋下郡(しましものこほり)に仁光坊と云ふ火あり。雨氣(あまけ)の夜、飛び巡り、やゝもすれば、人、行き遭ふて恐怖す。遭ひし人に聞くに、

「廣大にして唐傘ほどになり、狹少(けふせう)になりては、また、螢飛(ほたるとぶ)見ゆ。火に增減あり。大方(おほかた)は毬(まり)ほどなり。」

となん。速くして疾風(しつふ)のごとく、火に尾ありて、三、四尺、ひかれり。至りて近く遭ふ時は、坊主の首にて息吐く度(たび)に火焰出(いづ)る、となり。

 如何なる始末かと云へば、その郡に溝杭(みぞくい)といふ邑(さと)あり。その閭(さと)の尹令(つかさ)し給ふ俗(ひと)を、名に負ひて溝杭殿とよぶ。其地(そのところ)拜領して、目出度く富(とみ)增(ま)すも、はや中古の事、今ははや、世語(よがた)りとなれり。

 其頃、仁光坊は、溝杭殿の祈願法師なり。才(ざへ)も德(とこ)も尊(たと)ふして、また、美僧なり。芝(し)が眉宇(びう)も色を失ふ。これがために衣紋(ゑもん)を繕ひ、これが爲に鬢髮(びんはつ)を撫(な)づる人、そも幾(いく)袖ぞや。然れども、此僧、不犯(ふぼん)にして、威儀正(たゞ)しく行なふ。

 一日(ひぐらし)、溝杭殿の内より、色深き情(なさけ)に、小童(こわらは)をして文(ふみ)遣(つか)ひ給ふに、取り上げもせで、返す。また、御消息(せうそこ)とて、來(きた)る。あまりに便(びん)なかりければ、開きて見るに、

 

君ゆへに  思ひたつたの  たびころも  きてしも花を

みわのやま 過ゆくまゝに  ならざかや  かすがのさとに

ひとりねて おもひはいかゞ ひろさはの  池のしみづに

身をはぢて 見る人もなき  秋の夜の   つきぬなみだは

おほ井川  ふかき恨みは  あらし山   たれまつ虫の

ねをのみに おもふ思ひは  ふかくさの  ひとりふしみの

ゆめにだに したふ契は   はつせやま  おのへのかねの

よそにのみ 君がこゝろも  はづかしの  もりてことのは

あらはるゝ みしま江に浮  ながれあし  ながらの橋の

中たえて  戀しき人に   あふさかや  しるもしらぬも

わかれては 物うき旅を   しがのうら  うらみて爰に

きのくにや 人をまつほの  やまおろし  ゆめにも君を

みくまのゝ をとなし川に  あらねども  ふかきねがひを

みちのくの しのぶもぢ摺  たれゆへに  けふしら川の

せきぢまで まよひまよひて こがねやま  いつかあひづの

雲ならん  たとひ別を   するがなる  ふじのけふりと

なるまでも なを浮嶋の   さよちどり  いそのまくらに

ふしわびて なげく淚は   おほゐ川   かはるふちせに

しづみなば さよの中山   なかなかに  なにしに君を

みかはなる その八はしを  かけてだに  ちぎらざりける

人ゆへに  くもでに物や  おもふらん  さてもやつらき

美濃おはり ゆくゑは何と  なるみがた  はてはあはでの

もりのくさ しげき思を   さらしなや  われ姨捨の

やまおろし したふ心は   あさましや  淺間のたけに

たつけふり ふかき思は   あすか川   なにはのことも

かいなきに などかはみをも つくすらん  とはおもへども

うき人を  こひせの川に  しづみつゝ  なきためしをも

しもつけや 室のやしまに  たつけふり  いかでうき世に

すまの浦  ふかき思は   ありあけの  つきぬなみだを

あはれとも 君や思はん   たゞたのめ  しめぢか原の

さしもぐさ われ世中に   ながらへて  つれなかりける

人ゆへに  思ひつくばの  やまかぜも  はげしきよはの

かりまくら かすかに君を  みなれ川   こゝをこしぢの

たひの空  かへる山路を  ものうきに  何とうき世に

すみだ川  我思ふ人は   有やなしやと とへどこたへぬ

みやこどり うたて昔の   ことをだに  つゐにいはでの

もりなれや 吹飯の浦の   ゆふなみに  ぬるゝたもとを

あはれとも いでも見よかし かゞみやま  影もうつろふ

世中に   おなじ心に   なれもなは  くにくに所の

名とり川  ちいろの濱の  まさごより  つくしがてなる

ことのはを あはれともいさ 見ずやあらなん

 

聲はせで身をのみこがすほたるこそいふにも增る思ひなりけれ

 

古言(ふるごと)ながらお思ひ寄り侍り。などてか心強(こころづよ)くいます。

 

など、紅葉重(がさ)ねの薄樣(うすやう)に書きしは、見るから、罪(つみ)深(ふか)くて、返しも無(な)ふ過(すぐ)すに、夜に增し、日に添ひ、錦木(にしきゞ)も千束(ちつか)になり、濱千鳥のふみゆく跡の汐干(しほひ)の磯に、隱れがたくぞ侍る。

 然れども、此僧、水莖(みづぐき)の岡(をか)も踏まず、堅くも、返しなく、有(あり)けり。

 女、打ち怨みて、日頃の愛(いと)しさを引き變へ、今は中中(なかなか)生憎(あやに)く思ひければ、ある夜の床に、溝杭殿に語りしは、

「さても、仁光房こそ、我が方に心ある由(よし)にて、艷書(ゑんしよ)、たび重なる、いとあさましくこそ侍れ。よきに計(はから)ひ給へ。」

と云ふ。

 男、聞(きき)て、

「さてさて。左樣の事か。」

とて、殊の外にもてなし、殺すべきになれり。

 しかと究(きは)めざるぞ、淺ましき。

 やがて下部(しもべ)をして、野原に引据へ、首斬るべきに聞こえければ、僧、大きに怒り、

「故なき事に命終はる事よ。内のさがなき讒(ざん)ならまし。よし、我にも尋ね給はで、片口(かたくち)を聞き、命のみか、耻(はぢ)を巷(ちまた)に晒(さら)す。然るべき報ひか、無實の罪を得る、無念にこそ侍れ。太刀執る者、よく聞(きき)て殿にも申せ、我、さらに誤りなきを。後に思ひ知りて、悔(くや)み給へ。日比(ひごろ)の行力(ぎやうりき)、私(わたくし)なく、今の一念、望みたらば、七代まで見殺(みころ)すべし。」

と、齒嚙(はが)みをなして有(あり)けり。

 遂に首討つに、首、飛んで空に行(ゆき)、質(むくろ)のみ、殘れり。

 貴賤、眉を顰(ひそ)む。

 案のごとく、その年より、其家に災ひありて、遂に跡絶え、溝杭と名のる氏(うじ)なし。

 恨み、尤(もつとも)にこそ。

 あゝ、是非もなき僧の仕合(しあはせ)なり。女の男を慕ふは、耻の外(ほか)までせり。甚(はなはだ)恐るべし。

 かの鞍馬の安珎(あんちん)は、道成寺の鐘樓(しゆろう)に死しけれど、夢に詑(たく)して壽量品(じゆりやうぼん)の書寫を請(こひ)て、昇天の果(くは)あり。仁光坊は、それ無し。知らず、何時(いつ)まで飛(とん)で光り渡らん。不幸の中の不幸か。他(よそ)の國にも、猶、色好みの𢌞文(くはいぶん)、錦字(きんじ)の詩を賦して、征夫(せいふ)に託(かこ)ちし蘇若蘭(そじやくらん)は、如何(いか)ばかりか胸を刺すらん。又、陸奥(みちのく)の信夫(しのぶ)の里の女(むすめ)は、箱王(はこわう)といふ兒(ちご)に錦哥(にしきうた)を書けり。唐土(もろこし)の人、大和の袖、彼(かれ)も是(これ)も情の道の哀れさは、とりどりにこそ侍れ。富士の煙(けふ)りの空に消えて、行方(ゆくゑ)なき思ひのほど、忍ぶる事の弱るわざなれ。

 

[やぶちゃん注:前話とは恨みの妖火で直連関。「中古の事」とあるから、本「宿直草」の中ではすこぶる時代を遡った事件を起因とする、その原話設定は特異的に最も古い怪談と考えてよい。最初に断わっておくが、色情狂の残虐女の恋文の歌枕尽くしの和歌は怪談とは関係性の希薄な(病的なまでに思いつめた感じを出すという点では無縁ではないが)荻田の趣味の挿入であるので、表記の説明及び最低限の修辞注を禁欲的に附すに留めた。私は短歌嫌いであるから、言い尽くすことは出来ないし、そんな徒労を尽くす気もない。和歌好きの方には大いに不満足であろうが、悪しからず。しかし、例えば岩波文庫版が五つしか注をつけていないのよりは遙かに親切であろうとは思う

「仁光坊と云ふ火」この仁光坊(にこうぼう)という名の妖しい怪火現象は、やや言い方や伝承の細部には異同が認められるものの、かなり有名なものである。そうしてその中でも、この「宿直草」のそれは活字化されたものでは最も古形のものに属すると言える。といよりも、優れた僧が自らの破戒や冤罪によって遺恨を以って怪火となって人に祟るという構造自体は古形ではあるものの、この個別的な類話群自体は江戸初期に形成されたものと見てよいと思われる。ウィキの「二恨坊の火」より引いておく。『二恨坊の火、仁光坊の火(にこんぼうのひ)は、摂津国二階堂村(現・大阪府茨木市二階堂)』、『同国高槻村(現・同府高槻市)に伝わる火の妖怪』。三月から七月頃までの『時期に出没したもので、大きさは』一『尺ほど、火の中に人の顔のように目、鼻、口のようなものがある。鳥のように空を飛び回り、家の棟や木にとまる。人間に対して特に危害を加えることはないとされる』。『特に曇った夜に出没したもので、近くに人がいると火のほうが恐れて逆に飛び去ってしまうともいう』。江戸中期の俳人で作家の菊岡沾凉(せんりょう 延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年)の随筆「諸国里人談」によれば、『かつて二階堂村に日光坊という名の山伏がおり、病気を治す力があると評判だった。噂を聞いた村長が自分の妻の治療を依頼し、日光坊は祈祷によって病気を治した。ところが村長はそれを感謝するどころか、日光坊と妻が密通したと思い込み、日光坊を殺してしまった。日光坊の怨みは怨霊の火となって夜な夜な村長の家に現れ、遂には村長をとり殺してしまった。この「日光坊の火」が、やがて「二恨坊の火」と呼ばれるようになった。「本朝故事因縁集」(作者未詳。刊記に元禄二(一六八九)年とある。説法談義に供される諸国奇談や因果話を収めた説話集)には、『二階堂村に山伏がおり、一生の内に二つの怨みを抱いていたために二恨坊とあだ名されていた。彼は死んだ後に魔道に堕ちたが、その邪心は火の玉となって現世に現れ、「二恨坊の火」と呼ばれるようになった』とし、以下、本「宿直草」の本篇及び、後に刊行される荻田安静とほぼ同時代人と言える俳人で作家の山岡元隣(寛永八(一六三一)年~寛文一二(一六七二)年)による怪談本「古今百物語評判」に、『かつて仁光坊という美しい僧侶がいたが、代官の女房の策略によって殺害された、以来、仁光坊の怨みの念が火の玉となって出没し、「仁光坊の火」と呼ばれるようになった』と載ると記す。しかし、『大阪府吹田市にも、表記は異なる』ものの、『読みは同じ「二魂坊」といって、月のない暗い夜に』二『つの怪火が飛び交うという伝説がある』と記す。『伝説によれば、かつて高浜神社の東堂に日光坊、西堂に月光坊という、親友同士の修行僧がいた』。二『人の仲を妬んだ村人が日光坊のもとへ行き、月光坊が彼を蔑んでいると吹き込み、さらに月光坊のもとへ行き、日光坊が彼を蔑んでいると吹き込んだ。月光坊は疑心暗鬼となり、次第に日光坊を憎み始めた。村人たちはさらに、日光坊が月光坊を殺しに来ると月光坊に告げた。一方で日光坊は、最近の月光坊の心変わりを疑問に思い、誤解を解こうと彼のもとへ赴いた』。『月光坊は、ついに日光坊が自分を殺しに来たと思い込み、錫状を彼の胸に突き立てた。日光坊は殺しなどではなく、仲直りに来たとわかったときには、すでに日光坊は息絶えていた。月光坊は罪となり、自分たちを騙した者を取り殺すと叫びながら死んでいった。以来、この村には怪火が飛び交うようになり、村人たちは「二魂坊の祟り」と恐れたという』。また、『寛政時代の地誌『摂津名所図会』にも「二魂坊」といって、かつて日光坊という山伏が別の山伏を殺して死罪になり、その怨念が雨の夜に怪火となって現れ、木の上に泊まって人々を脅かしたという記述がある』。『高浜神社の社伝によれば、河内(現・大阪府東部)の豪族が祖神の火明命と天香山命を祀ったのが神社の起こりとされ、二魂坊や日光坊とは、この』二『柱の神を指しているとの説もある』とある。なお、以上に出る、山岡元隣の「古今百物語評判」のそれは、「第九 舟幽靈付(つけたり)丹波の姥が火、津の國仁光坊の事」のことで、ここに出るような恋文などは出ない短いものである。以下にそこだけを抜粋して示しておく。底本はやはり国書刊行会の江戸文庫所収のものを用い、やはり恣意的に正字化して示す。一部で読点を追加し、読みは一部に留めた。場所を現在の大阪府高槻市を主に流れる芥川とする以外は明らかに本篇と同話である。踊り字は正字化した。

   *

又、津の國仁光坊(にんくはばう)の火と云へるは、是れは先年、攝州芥河(あくたがは)のあたりに、何がしとかや云ふ代官あり。それへ往來する眞言僧に仁光坊といひて美僧ありしに、代官の女房ふかく心をかけ、さまざまくどきけれども、彼の僧同心せず。女房おもひけるは、かく同心せぬうへからは、我れ不義奉ることのかへり聞こえむもはかりがたし。然るうへは、此僧を讒言して、なき者にせんと思ひ、『仁光坊、われに心をかけ、いろいろ不義なる事申しかけたり』と告げれば、其代官、はなはだ立腹して、とかくの沙汰に及ばず、彼の僧を斬罪におこなふ。其時、仁光坊、大きにうらみ、此事はかやうかやうの事なるを、實否のせんさくもなく、かくうきめを見するからは、忽ち、おもひ知らせん、とて、目をいからし、齒をくひしばりて死にけるが、終に、其一類、のこりなく取り殺して後(のち)、今に至るまで、其僧のからだを埋(うづ)みし處の山ぎはより、火の丸かせ、出で候ふが、其火の中に法師の首ありありと見ゆると云へり。かやうの事、つねに十人なみにある事には侍らねども、たまたまはある道理にして、もろこしの書にもおりおり見え侍る」とかたられき。

   *

文中の「火の丸かせ」は「ひのまろかせ」で「火が玉のようにまるくなって」の謂いであろう。

「津の國嶋下郡(しましものこほり)」現在の大阪府三島郡及び茨木市の一部であるが、先のウィキペディアの記載を信ずるなら、大阪府茨木市星見町二階堂に比定出来る。の附近(グーグル・マップ・データ)。

「螢飛(ほたるとぶ)見ゆ」蛍の灯が飛ぶ如くに見える。

「火に尾ありて、三、四尺、ひかれり」岩波版では「ひかれり」を「光れり」とするが、採れない。これは尾を「三、四尺」も「曳かれり」で、光りの尾を九十一~一メートル二十一センチほども自ずと曳いていると採るべきであろう。

「至りて近く遭ふ時は、坊主の首にて息吐く度(たび)に火焰出(いづ)る」このクロース・アップされる映像的処理は上手い。

「溝杭(みぞくい)」溝咋が正しい。現在の大阪府茨木市五十鈴町に溝咋神社がある。(グーグル・マップ・データ)。同社は社伝では崇神天皇の頃の創建され、五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと:綏靖(あんせい)天皇皇后で事代主の娘。安寧天皇の母とされる)の父親である三島溝咋耳命(みぞくいみみのみこと)を祀るが、本文では「拜領」「その閭(さと)の尹令(つかさ)し給ふ俗(ひと)を、名に負ひて」とか「中古の事」とか言っているから、後世に地名を姓としただけで、この祭神と「溝杭殿」とは関係性がないと考えた方がよい。

「芝(し)が眉宇(びう)」岩波文庫版の高田氏の注には、『唐の房琯が紫芝の眉を誉めた故事により、立派な眉をもつ顔。眉宇は眉だけでなく、仏者の尊顔の意がある』とあり、諸辞書の「芝眉(しび)」によれば、玄宗の命によって粛宗の宰相となっていた房琯(ぼうかん 六九七年~七六三年:直後に粛宗は粛清されるが、それを杜甫が弁護して杜甫も失職した)元徳秀(字(あざな)が紫芝)の眉を褒めて「見紫芝眉宇、使人名利之心都盡」と言ったという「新唐書」の「元德秀傳」に基づくとし、「すぐれた眉や顔つき」或いは他人を敬って言う「尊顔」の意とあるが、ここは比喩としての美顔ではなく、眉だけでもうとてつもなく美しかった絶世の美男子元紫芝でさえも真っ青の意である。

「溝杭殿の内」「内」は「ない」で内儀、「奥方・正妻」のこと。

「色ふかき情(なさけ)に」仁光坊に対する禁じられた色情が募って。

「取り上げもせで、返す」手にとることもせずに、受け取りを丁重に拒否して返した。普段の奥方の雰囲気や、使いの少女(「小童」とあるが、奥方附きであるから少女である。挿絵でもそう描かれてある)が渡そうとする際の様子(ごくごく内密にと言い含められたことから少女も察していたに違いない)などから仁光坊は鋭くその内容を察したのである。

「あまりに便(びん)なかりければ」前のように断固として受けとらないというのはあまりにも立場上から都合が悪く(「不便」=不憫)、失礼に思ったので。

 

「思ひたつたの」歌枕「龍田山」を掛ける定番の修辞技法で、長歌全体の架空の恋の旅路(これが本州内の東西南北をこれまた目まぐるしく巡る噴飯物)の名所を詠み込んだ物語の始まりとなる。以下の固有地名は殆んどが歌枕と採り得るから、以後、その指示は原則、省略する。部分的に既存の和歌由来のものが多いようだが、私は和歌嫌いであるから、私でも気がつく箇所のみに留めた。悪しからず。

「みわのやま」「三輪の山」に「花の」ような貴方を「見」を掛けていようし、また、三輪山の神木である大「杉」から次の「過ぎ」に繋げている。

「ならざかや」「奈良坂」(奈良と南山城の境をなす平城山(ならやま)を越える坂道。時代によって変遷した)に「過ぎ行くまま」に「なってしまうことなどありましょうか、いえ、そんなつれないことは我慢が出来ませぬ。だのに」「獨り寢」ているという恨みの意を掛けていよう。

「かすがのさと」「春日の里」。

「ひろさはの」「どうしようもなく過剰に(「さは」)に貴方への恋心が広がってしまい」に「廣澤の」で「池」を引き出す。ここから「水」絡みの縁語が波状的に配される。

「池のしみづに」「池」には原典では「いけ」とルビ。「池の淸水に」。

「身をはぢて」「恥ぢて」は前の「淸水」から、同ハ行音の一字下の「漬(ひ)ぢて」を禊(みそぎ)のパロディとして掛けていよう。

「おほ井川」「淚」が「多い」に「大井川」を掛け、「川」の縁語で「ふかき」と続く。

「ふかき恨みは」原典では「恨」には「うら」とルビ。

「あらし山」つれなさへの恨みが「あ」ることに「嵐山」を掛ける。

「たれまつ虫の」「誰れ待つ」に「松虫」を掛ける。

「ねをのみに」「ね」は松虫の「音(ね)」に焦がれる共寝の「寢(ね)」を掛ける。

「ふかくさの」「思いは」「深く」に地名の「深草」を掛ける。

「ひとりふしみの」「獨り臥し身」に「伏見」を掛ける。

「契」原典は「ちぎり」とルビ。

「はつせやま」「契り」が「果つ」に「初瀨山」を掛ける。

「おのへのかねの」「尾の上の鐘の」。長谷寺の鐘のこと。この前後、藤原定家の「新古今和歌集」に載る「年も經ぬ祈る契りは初瀨山尾上の鐘のよその夕暮れ」に基づく。恋の成就を祈りながら、それが外の人のためにのみ鳴って、自分のためには鳴(成)なって呉れないというので、この長歌にはもってこいの一首ではあろう。

「よそにのみ」「餘所にのみ」。前注参照。

「もりてことのは」「洩りて言の葉」。「言の葉」は和歌の意もあるから、この切なく「洩」らすところの恋情告白の長歌自体を暗示するか。

「みしま江に浮」「三嶋江に浮く」。原典では「江」に「え」、「浮」に「うく」とルビ。三島江は万葉以来の淀川河口の歌枕。「浮く」は「憂く」を掛ける。

「ながれあし」「流れ葭(あし)」。前の「憂く」に応じた鬱屈した感情から、「流れ」てしまって成就しないで「惡し」き状態の意を掛けるのであろう。

「ながらの橋の」「ながら」は「長良」川。

「中たえて」「仲絶えて」。前の抑鬱的気分が一つの頂点に達する。

「あふさかや」「逢坂や」。山城国と近江国の国境である逢坂関に「戀しき人に逢ふ」を掛ける。次注参照。

「しるもしらぬも」この前後は「小倉百人一首」にも出る蟬丸の「後撰和歌集」に載る「これやこの行くも歸るも別れては知るも知らぬも逢坂の關」に基づく。

「物うき旅を」原典は「旅」に「たひ」とルビ。「もの憂き旅を」。あなたがつれないので何とも言えずメランコリックになっている。

「しがのうら」に歌枕「滋賀の浦」に「して来ました」(憂鬱な状態が続いている)を掛ける。

「うらみて爰に」「爰」は「ここ」。前の「滋賀の浦」から「浦見て」を掛けて、本意の「恨みて」を出す。

「きのくにや」「紀の國や」。「き」は「爰」に、ここまで「來」てしまいました、を掛ける。

「人をまつほの」「まつほ」は兵庫県淡路島北端の松帆浦。「松」に「待つ」を掛ける(岩波文庫版は「松尾」と漢字表記する。松尾山は松帆浦の西にある。原典は「まつほ」と記するものの、確かに後が「やまおろし」「山颪」であるから、「松尾」と漢字表記する根拠は物理的には判らないではない。しかし、松尾の山から吹き降ろす山颪の風の厳しく辛いあなたを待つ松帆の浦と読めばよいのであって、これを「松尾」とするのはやはり私には採れない)。

「みくまのゝ」熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉(はやたま)大社・熊野那智大社)の総称「三熊野」。「み」に前の「夢にも君を」「見」るを掛けて言った。

「をとなし川に」「音無川に」。熊野本宮の近くで熊野川に合流する河川名。「音無(し)」は手紙の返事がないことを掛けるのであろう。後の「にあらねども」は「かの名川の名である音無川ではありませんが、ちっともお返事を下さらないという捩れた謂いであろう。

「みちのくの」「陸奥の」。ここは「小倉百人一首」にも出る河原左大臣の「古今和歌集」の「陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰(たれ)ゆゑに亂れそめにしわれならなくに」に基づく。

「しのぶもぢ摺」原典では「摺」に「ずり」のルビ。現在の福島県福島市の中心市街地北部にある信夫山一帯に伝わっていた草による染色法「しのぶ摺」。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅21 早苗とる手もとや昔しのぶ摺』を参照されたい。

「けふしら川の」「今日白河の」。

「せきぢまで」「關路まで」。

「こがねやま」「黃金山」。宮城県石巻市の金華山のことであろう。同島には黄金山(こがねやま)神社が鎮座する。「こがね」には類似音の恋「焦がれ」を掛けているのであろう。

「いつかあひづの」「何時か會津の」。「あひ」は「逢ひ」を掛ける。

「雲ならん」「雲」にはいつかは逢えると思えば「苦」にもなりません、の意を掛けるのであろう。

「たとひ別を」原典は「別」に「わかれ」とルビ。

「するがなる」「駿河なる」。「別」れを「する」と繫げて掛ける。

「ふじのけふりと」「富士の煙りと」。「竹取物語」の相思相愛の悲恋のエンディングを確信犯で暗示させている。

「なを浮嶋の」原典は「浮嶋」に「うきしま」とルビ。「浮嶋」は宮城県多賀城市浮島地区 で歌枕に詠まれた浮島の地。「なを」は「猶(なほ)」で歴史的仮名遣は誤りであるが、これは「浮き」「名を」を掛けるための確信犯と思われる。

「さよちどり」「小夜千鳥」。夜に鳴く千鳥。チドリ目チドリ亜目チドリ科 Charadriidae(海岸・干潟・河川・湿原・草原などの水辺域を中心とした多様な環境に棲息する)を初めとした野辺や水辺に群れる小鳥の夜鳴きを指す。五音で使い勝手がよいから古くから好んで歌に詠み込まれた。

「いそのまくらに」「磯の枕に」。侘びしい旅寝で次で屋上屋。

「ふしわびて」「臥し侘びて」。

「おほゐ川」「大井川」に「淚」「多い」を掛けるのは既に使用済みであるが、「万葉集」の長歌ではよく見られる反復手法ではあるから下手糞なのではない。

「かはるふちせに」「變はる淵瀨に」。前の「川」の縁語で「淵」「瀨」を出して、以下で絶望的に「沈み」と続く。

「さよの中山」「小夜の中山」。箱根峠や鈴鹿峠と並ぶ東海道の三大難所として知られる静岡県掛川市佐夜鹿(さよしか)にある峠道。好んで歌枕に使われる最強の歌枕の一つで「佐夜の中山」とも書く。

「みかはなる」「三河なる」。前から「何しに君を」「見交は」してしまったのか、その結果としてかくも恋焦がれることとなってしまった、というのである。

「その八はしを」この前後は「伊勢物語」の第九段、知られた「東下り」の冒頭を下敷きとする。教師時代が懐かしいので、頭からソリッドに引いておく。

   *

むかし、男ありけり。そのをとこ、身を要(えう)なきものに思ひなして、

「京にはあらじ、あづまの方に住むべき國求めに。」

とて、行きけり。

 もとより友とする人ひとりふたりして、行(い)きけり。

 道知れる人もなくて、まどひ行きけり。

 三河の國、八橋(やつはし)といふ所にいたりぬ。

 そこを八橋といひけるは、水ゆく河(かは)の蜘蛛手(くもで)なれば、橋を八つ、渡せるによりてなむ、八橋といひける。

 その澤のほとりの木の蔭に下りゐて、乾飯(かれいひ)食ひけり。

 その澤に、かきつばた、いとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、

「『かきつばた』といふ五文字(いつもじ)を句の上にすゑて、旅の心をよめ。」

と言ひければ、よめる、

 

  から衣着つつなれにしつましあれば

    はるばる來ぬる旅をしぞ思ふ

 

とよめりければ、みな人、乾飯の上に淚おとして、ほとびにけり。

   *

ここは恨み節の痙攣的な部分で、「八橋を掛けて」でも私とどうして「契」ろうとしないのか?! 「人」=貴方故に、恋い焦がれる思いが「蜘蛛手」の如く、蛸や烏賊の触手の如く、竹の根の如くに病的に広がり、異常な「物」「思」ひに沈んでいるこの私を! というのである。

「さてもやつらき」「さてもや辛き」。副詞「さて」+係助詞「も」+係助詞「や」で「それでも~か」の意。「これだけ(思いを語っても)貴方はそれでもかくも私に辛く当たるとは!」。

「美濃おはり」原典では「美濃」に「みの」のルビ。「美濃尾張」に「身の終はり」を掛ける。ネガティヴな傾向がまた始まる。この長歌、躁鬱病の典型事例を記した精神科の教科書のようだ。

「なるみがた」「鳴海潟」。名古屋市緑区鳴海付近にあった海浜。

「はてはあはでの」「果ては阿波手の」。次の「もり」と繋がって「あはでの森」で尾張国にあった歌枕「阿波手(あわで)の森」。旧愛知県海部(あま)郡甚目寺(じもくじ)町、現在のあま市甚目寺の内。無論、「逢わで」を掛ける。

「しげき思を」「繁き思ひを」。「繁き」は前の「森」「草」の縁語。

「さらしなや」「更科や」。

「われ姨捨の」原典では「姨捨」に「おばすて」とルビ。

「やまおろし」「山颪」。前の「姨捨」山から展開。

「したふ心は」前の「颪」から「下」でそれが「慕(した)ふ」を引き出す。

「淺間のたけに」原典では「淺間」に「あさま」とルビ。

「たつけふり」「立つ烟り」。前の富士のそれと対句的リフレイン。

「ふかき思は」「深き思ひは」。

「あすか川」「飛鳥川」。この辺りは岩波文庫版の高田氏の注によるならば、「古今和歌集」の詠み人知らずの一首、「世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀨になる」に

「なにはのことも」「難波の事も」。豊臣秀吉の辞世とされる(事実は辞世ではない)「露と落ち露と消えにし我が身かな難波のことも夢のまた夢」に基づく。

「かいなきに」「甲斐なきに」。

「などかはみをも」「みを」は「身をも」に「澪」を掛け、次の「つく」で「澪標」と繋がる。

「つくすらん」「盡すらん」。

「うき人を」「憂き人」であるが、前の「澪標」から「浮き」、そして以下の「瀨」「川」「沈み」と縁語を形成する。

「こひせの川に」「戀瀨の川に」。茨城県を流れる恋瀬川は歌枕。

「なきためしをも」「無き例をも」。

「しもつけや」「下野や」。前の「をも」「しも」で限定の意で続く。

「室のやしまに」原典では「室」に「むろ」とルビ。「室の八嶋」。栃木県栃木市惣社町にある大神(おおみわ)神社を指すとされ、名の由来は境内にある池の八つの島を指すということになっているが、これはこじつけっぽい。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅2 室の八島 糸遊に結びつきたる煙哉 芭蕉』を参照されたい。

「すまの浦」「須磨の浦」。「すま」は「住む」を掛ける。「源氏物語」の「須磨」の帖を響かせる。

「ふかき思は」「深き思ひは」。

「ありあけの」「有明の」で次の「つきぬなみだを」(盡きぬ淚を)の「つき」(月)に繋がる。

「たゞたのめ」「只、賴め」。

「しめぢか原の」「標茅原の」。栃木市の北方にあった野原で歌枕。

「さしもぐさ」「指燒草」。漢字表記は岩波版に従った。艾(もぐさ:キク目キク科キク亜科ヨモギ属変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii)のこと。和歌では艾の名産地である伊吹・伊吹の山に続けて用うことが多いが、ここは同音の「さしも」(それほどにも)を掛ける。

「われ世中に」「我世の中に」。

「思ひつくばの」「思ひ筑波」。

「はげしきよはの」「激しき夜半の」。

「かりまくら」「假り枕」。

「かすかに君を」「幽かに君を」。次の「見馴れ」(一目見て馴れ親しんでしまった)と続く。

「みなれ川」「見馴川」。埼玉県北部を流れる小山川(こやまがわ)の旧称。慈円の私家集「拾玉集(しゅうぎょくしゅう)」に「五月雨(さみだれ)の日を經るままに水馴川(みなれがは)水馴し瀨々も面(おも)變りつつ」を暗示するか。但し、この「水馴川」は奈良県にある水沢(みなれ)川である。

「こゝをこしぢの」「此處を越路の」。

「たひの空」「たひ」は原典のママ。和歌だから清音は問題ない。「旅の空」。

「ものうきに」「物憂きに」。

「すみだ川」「隅田川」。「憂き世」に「住み」と繫げる。

「我思ふ人は」「我」は「わが」。この前後は「有やなしやと」とあとの「みやこどり」から、やはり「伊勢物語」(荻田は本書で好んでインスパイアしている)の第九段「東下り」の人口に膾炙した以下のコーダに基づく。

   *

なほ、行き行きて、武藏野の國と下つ總(ふさ)の國との中に、いと大きなる河あり。それを隅田河といふ。その河のほとりにむれゐて思ひやれば、

「限りなく遠くも來にけるかな。」

とわびあへるに、渡守(わたしもり)、

「はや、舟に乘れ、日も暮れぬ。」

と言ふに、乘りて渡らむとするに、みな人、ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さる折りしも、白き鳥の、嘴(はし)と脚あし)と赤き、鴫(しぎ)の大きさなる、水の上(うへ)に遊びつつ、魚を食(く)ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人、見知らず。渡守に問ひければ、

「これなむ都鳥。」

と言ふを聞きて、

 

  名にし負はばいざこと問はむ都鳥

    わが思ふ人はありやなしやと

 

とよめりければ、舟、こぞりて、泣きにけり。

   *

「とへどこたへぬ」「問へど答へぬ」。「東下り」の渡し守の応じたのに反して、恋文への返事がないことの恨みへと転ずる。

「うたて昔の」「うたて」は副詞ではなく、形容詞語幹の用法による返事をくれぬことへの歎きの表現であろう。「昔の」「事をだに」は古えの渡し守でさえ応えて呉れたのに、という恨みであろう。

「つゐにいはでの」「遂に岩手の」。「遂に言わで」(返事を呉れずに)。後の「もりなれや」「もり」は前との続きならば歌枕である「岩手の關」(後の「尿前の関」)の関「守」で、「伊勢物語」の渡し「守」に掛けてあると読む。岩波文庫は「もり」を「森」とする。これは尿前の関の西方の関所番所のあった森である。

「吹飯の浦の」原典では「吹飯」に「ふけゐ」、「浦」に「うら」のルビ。「吹飯の浦」は「ふけいのうら」が一般的。現在の大阪府泉南郡岬町(みさきちょう)深日(ふけ)の海岸とされる。古来より「風が吹く」意や「夜が更ける」の意を掛けて和歌に詠まれることが多い歌枕。

「ゆふなみに」「夕波に」。

「ぬるゝたもとを」「濡るる袂を」。

「かゞみやま」「鏡山」。滋賀県南部の野洲(やす)市と蒲生(がもう)郡竜王町との境にある山で歌枕であるが、私はここは佐賀県唐津市にあるそれではないかと思う。大伴狭手彦(おおとものさでひこ)が加羅(から)に船出する際、恋人の松浦佐用姫(まつらさよひめ)がこの山に登って領巾(ひれ)を振って別れを惜しみ、悲しみのあまり、石と化したとする伝承を持つ、別名領巾振山(ひれふるやま)である。自身の恋情のまことを語るにはここの方がしっくりくるからである。

「なれもなは」「あなたもなって呉れるならば」の「汝(なれ)もなば」か?

「くにくに所の」「國國所の」。

「名とり川」「名取川」。宮城県と山形県の県境附近に源を発し、仙台市の南東で広瀬川と合流して太平洋に注ぐ歌枕。但し、ここはこの長歌全体の総括で、「國國」の名「所の」歌枕の「名」を「取り」入れて詠み込んだことを指していよう。

「ちいろの濱の」「千尋の濱の」。見渡す限り広い海浜という一般名詞ながら、概ね藤原敦忠の「伊勢の海のちひろの濱に拾ふとも今は何てふ甲斐かあるべき」が著名。この一首は詞書に「西四条の齋宮(いつきのみや)まだみこにものし給ひし時、心ざしありておもふ事侍りけるあひだに、斎宮にさだまりたまひにければ、そのあくるあしたにさか木の枝にさしてさしおかせ侍りける」という悲恋の思いを込めた一首であるからこの長歌のコーダに暗示させるには相応しいと私は思う。

「まさごより」「眞砂より」。「眞砂」は前の「濱」の縁語。

「つくしがてなる」「筑紫がてなる」。「濱」の「眞砂」は「盡しがてなる」、容易には数え尽くすことが出来ない、私の貴方への思いも「ことのは」(言の葉)では尽くすことはないほど深い、というニュアンスであろう。

「あはれともいさ」ここは「玉葉和歌集」に載る西行の「あはれとも見る人あらば思はなむ月のおもてにやどす心を」をインスパイアした。

「古言(ふるごと)」古歌や古文に託した使い古された詞。

「などてか心強くいます」反語。「私の誠心の思いを無視して、どうしてそんなに信心堅固に平然としておられることが出来るのでしょう? あり得ませんわ!」というキョウレツな決め文句である。

「紅葉重(がさ)ね」本来は襲(かさね)の色目(いろめ)の名で、表は黄、裏は蘇芳である。そのように染色した和紙なんだろうか? 識者の御教授を乞う。

「薄樣(うすやう)」これは紙の質を言う。薄手の鳥の子紙・雁皮紙(がんぴし)であるが、広く薄手の和紙をも指す 

「錦木(にしきゞ)も千束(ちつか)になり」岩波文庫版で高田氏は、『男が女に逢おうとする時、女の家の門にこれを立て、女に応ずる心があれば取り入れ、取り入れたくなければ、男が更に加えて、千束を限りとする風習があった。「錦木は千束になりぬ今こそは人に知られぬ閨の内見め」(謡曲『錦木』)』と注しておられる。錦木はニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属ニシキギ Euonymus alatus。この習俗は東北のものだったらしい。風習及びニシキギの詳細は、個人ブログ「花々のよもやま話」のこちらに詳しい。必読! おう! 其の最後には錦木の花言葉が! 「あなたの定め」「あなたの魅力を心に刻む」「危険な遊び」!!!

「濱千鳥のふみゆく跡の汐干(しほひ)の磯に、隱れがたくぞ侍る」「然れども、此僧、水莖(みづぐき)の岡(をか)も踏まず、堅くも」ここは縁語のラッシュ・アワー。「濱(千鳥)」「汐干」「磯」「がた(潟)」「水」「岡」(水域に対する「陸(おか)」)「堅(潟)」。「水莖(みづぐき)」は毛筆で書いた文字のことで、転じて手紙のこと。

「生憎(あやに)く」感動詞「あや」に形容詞「憎し」語幹が付いた語。「生」は当て字。ここはその形容動詞の語幹で、「予期に反して思いどおりにならないさま・不本意であるさま」「意に染まず、意地悪く感じられるさま」の意。

「しかと究(きは)めざるぞ」仁光坊を糺してしっかりと確認をとらなかったのは。

「さがなき」手に負えない性質(たち)の悪い。

「讒(ざん)」讒言。

「よし」副詞。仮初めにも。

「片口(かたくち)を聞き」一方の主張だけを鵜呑みにし。

「耻(はぢ)」この場合は、仁光坊の冤罪による恥辱。

「然るべき報ひか」彼は僧であるから、これも私の前世の因果なのか? と一応は疑問を呈しているのであるが、事実はそう思っていない。そう思っていないからこそ「無實の罪を得る、無念にこそ侍れ」と叫び、遂には正法(しょうぼう)を敢然と放棄し、七代まで祟る天魔へと身を堕したのである。

「今の一念、望みたらば」今の私のこの一途の怨念の望みを満足に遂げんとするためならば。

「仕合(しあはせ)」顛末。始末。

「耻の外(ほか)までせり」岩波文庫版の高田氏の注には、『男の命を取るまで』とある。

「鞍馬の安珎(あんちん)」変形の多い道成寺伝説(安珍・清姫伝説)の中で、「元亨釈書」に載るそれでは鞍馬寺の僧安珍とする(そこでは清姫も寡婦という設定である)。因みに私は道成寺伝承のフリークで、サイトに「道成寺鐘中 Doujyou-ji Chroniclという特設サイトを持っている。

「壽量品(じゆりやうぼん)」「法華經」二十八品(ぽん)中の第十六「如來壽量品」のこと。全体は釈迦が久遠の昔から未来永劫に亙って存在する仏として描かれたものであるが、その中に竜女の即身成仏の話が語られている。

「𢌞文(くはいぶん)」本来は順序を逆にして読むんでもちゃんとした文章となるもので、それなら、後に注する「蘇若蘭」の故事と符合する。そのような凝った恋文ととってよいだろうが、ここまであの長ったらしい退屈な長歌を読まされると、或いはこの長歌のように、同じような内容、同じような思いを執拗に記した恋文のことじゃあねえの? などと邪推したくもなった。

「錦字(きんじ)の詩」見た目ばかりが絢爛に粉飾された中身の軽く薄い詩歌。荻田さん、これってちょっと鏡返ししたくなりますけど?

「征夫(せいふ)」出征した人の意であるが、ここは次に記す遠い地に赴任或いは辺塞に流刑となった夫の意。

「託(かこ)ちし」以下の私が示す話には出ないが、夫が妾を寵愛したことを嫉んで不平を言ったことを指す。岩波文庫版の高田氏の注にはそうあり(次注参照)、ネットで調べると、そうした事実を記し、夫は転勤する際に妾を連れて、彼女を置き去りにしたという前半を記すものが確かにある(やはり次注を参照)。

「蘇若蘭(そじやくらん)」サイト詩詞世界 二千四百首詳註 碇豊長の漢詩李白「啼」の「秦川女」の注に『蘇蕙』(そけい)『(蘇若蘭)のこと。夫を思う妻の典型。彼女の出身地が秦川によるための言い方[やぶちゃん注:ここは李白の当該詩の中で彼女を「秦川女」としていることを指す。]。回文の錦を織った妻のことで竇滔』(とうとう)『の妻の蘇蕙(蘇若蘭)のこと』で、これは「晋書」の「列傳第六十六」の「列女」にある「竇滔妻蘇氏」に出る『竇滔の妻の蘇氏のこと。蘇氏は夫・竇滔が罪を得て流沙に流されたのを偲び、錦を織り、その中に回文(順序を逆に読めば、別の意味になる文)を織り込んで送った故事に基づく』とある。岩波文庫版の高田氏の注では、彼女が『夫が妾を寵することを嫉んだところ、置き去りにされたので、五采文錦を織って、詩二百余首を付して夫に贈り、迎えられた』とする。ウィキの「ケイによれば、蘇蕙(そけい 生没年未詳)は『五胡十六国時代の中国の女性で詩人』。『始平郡の人。字は若蘭。若くして文才あり。苻堅の治めていた時代の前秦にいた竇滔に嫁ぐ。夫の滔が秦州刺史となり流沙に赴任することになるが、別に妾を連れて行き』、『正妻の蕙を伴わなかった。蕙は思慕の念に耐えきれず、錦を織り、「廻文旋図の詩」をその中に織りこんで贈った。その文は順に読んでも逆に読んでも平仄や韻字の法則にかない、循環させて読むことができた。およそ』八百四十『字でできたその文は絢爛多彩で、はなはだ凄艶であったという。現存はしていないが、これが後に流行した廻文の始まりであるという。その錦に織られた文を読んで感動した夫は妾を関中に送り返し、蘇蕙を呼び寄せたともいう』とある。嫉妬という前振りはこのいまわしい色情女と親和性はあるものの、後の「如何(いか)ばかりか胸を刺すらん」というのは、流刑となった夫に贈る錦を織った際、その中にこっそりと(罪人ゆえに大っぴらに「胸」中に思いを込めた手紙は添えられないのであろう)「刺」し入れた回文の詩篇を潜ませた、というストーリーの方が、よりしっくりくる。このいやらしい女が蘇若蘭の誠心のエピソードを知ったら、それは蘇若蘭を、ではなく、かの溝杭の残酷極まりない正妻の「胸」を「刺」すように打つことであろう、という謂いではあるまいか? いやいや、人非人の彼女は、ただほくそ笑むだけかも知れないが、ね。

「陸奥(みちのく)の信夫(しのぶ)の里の女(むすめ)は、箱王(はこわう)といふ兒(ちご)に錦哥(にしきうた)を書けり」「筥王」は曾我兄弟の仇討で知られた弟の曾我時致(ときむね 承安四(一一七四)年~建久四(一一九三)年)の幼名であるが、彼に「陸奥(みちのく)の信夫(しのぶ)の里の女(むすめ)」が恋文を書いたというエピソードは不学にして知らない。識者の御教授を乞う。

「唐土(もろこし)の人」蘇若蘭及びそのような中国の貞女。

「大和の袖」信夫の里の娘及びそのような本邦の可憐純情な娘。

「富士の煙(けふ)りの空に消えて、行方(ゆくゑ)なき思ひのほど」ここは明らかに「竹取物語」のエンディングを確信犯でインスパイア。]

2017/07/25

宿直草卷五 第二 戰場の跡、火燃ゆる事

 

  第二 戰場の跡、火燃ゆる事

 

Sennjyounohi

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のものだが、かなり細かく清拭した。大阪の陣で命を落とした武士(もののふ)のために。]

 寛永十一の夷則(いそく)二日に、若江の里に行き、有るか無きかの月に涼まんとて、暮過(くれすぎ)つゝも、四、五人連れて出でけるが、梶(かぢ)の葉風も秋は秌(あき)かなと悲しく、禊萩(みそはぎ)が枝に殘る螢も、年(とし)に一度の渡り逢ひを待つか、焦がれ燃ゆるは淚の玉も祭らんためかと、身に沁むばかり眺めしに、猶、踏めば惜し、踏まねば行かぬ道に敷くは、玉かあらぬか露深き、稻葉も戰(そよ)ぐ田面(たのも)に出でしに、三十間ばかり先に、煌々燿々(くはうくはうようよう)として、火、燃え出たり。

 長さ四、五尺ばかりにて、四つ五つほど連れ立(だ)ち、四、五間ほど行(ゆ)きては消え、消えては、また、燃え、海原(うなはら)に立つ浪のごとし。

 誘(いざな)ひし人、語りしは、

「元和(げんわ)の軍(いくさ)のころ、五月六日に重義輕命(ぢうぎけいめい)の勇士、多く、こゝに死す。その亡魂の今もまだ火となりて燃えさふらふ。はや、去りゆける御垣守(みかきもり)、衞士(ゑじ)の焚(た)く火になけれども、夜(よる)は燃えつゝ物思ふらんと、哀れに侍る。」

と云ふ。我、聞きて、

「邂逅(わくらば)に、また見る事もあらざらめ。いざ、あの邊り行かん。」

と云へば、

「いやとよ、行けば行(ゆく)ほど火も行くなり。脇より見れば、こゝとても燃えさふらふなり。」

と云ふ。

「田か畔(あぜ)か。」

と云へば、

「堤(つゝみ)ぞ堀(ほり)ぞの分(わ)きもなし。」

と語る。

 さても今、廿年(はたとせ)にも余(あま)らんに、その魂魄の殘ればこそ、かく燃えに燃えて見ゆれ。

「さぞ、修羅(すら)の巷(ちまた)の矢叫びも。」

と、思ひやらるゝわざなれ。

「よし、葭垣(あしがき)の間近く見ずとも。」

と、念佛(ねぶつ)とともに、歸りしなり。

 目(ま)の當たり、かゝる事、見侍りき。

 

[やぶちゃん注:筆者実録物で、前の「卷四」の掉尾と直連関する怪異である。

「寛永十一の夷則(いそく)二日」「夷則」は旧暦七月(文月)の異称。寛永十一年七月二日は一六三四年七月二十六日。

「若江」既出既注。河内国若江郡。現在の大阪府河内市内の若江を冠する地名のある一帯。ここ(グーグル・マップ・データ)。古地図を見てもこの附近は低湿地帯である。大阪城の南東六キロ圏内。

「有るか無きかの月」二日月であるから非常に細い上弦の月である。

「梶(かぢ)の葉風も」岩波文庫版で高田氏はこの「梶の葉」の部分だけに注して、『古く、七夕祭りの時、七枚の梶の葉に詩歌などを書いてそなえ、芸能の向上や恋の成就を祈った』と記しておられる。「梶」はイラクサ目クワ科コウゾ属カジノキ Broussonetia papyrifera。実際には七夕に限らず、古代より神に捧げる神木として神聖視された樹木で、樹皮や葉が新撰の敷物などに使用されてきた。

「秋は秌(あき)かな」実際にはまだ夏という感覚を暦の上ではといなしたもので、同字を使うのを無風流とした異体字使用であろうが、実はこれによって「秋」「秌」という字にはこの後に出るところの「火」が含まれていることを暗示させる伏線のようにも思われる。

「禊萩(みそはぎ)」原典は「みそはぎ」、底本は「みそ萩」、岩波文庫版原文は『溝萩』と表記する。フトモモ目ミソハギ科ミソハギ属ミソハギ Lythrum ancepsウィキの「ミソハギ」によれば、『湿地や田の畔などに生え、また栽培される。日本および朝鮮半島に分布。茎の断面は四角い。葉は長さ数センチで細長く、対生で交互に直角の方向に出る。お盆のころ紅紫色』六『弁の小さい花を先端部の葉腋に多数つける』。『盆花としてよく使われ、ボンバナ、ショウリョウバナ(精霊花)などの名もある。ミソハギの和名の由来はハギに似て禊(みそぎ)に使ったことから禊萩、または溝に生えることから溝萩によるといわれる』。『秋の季語』とある。私は敢えて「禊萩」で表記したが、話柄に合わせて敢えて遊ぶなら、「精靈萩(みそはぎ)」としたいところである。

「螢」秋(暦上)の蛍を出して、まずは人の魂のような青白いそれを暗闇に舞わせるのは実景ながら、上手い漸層的手法である。

「焦がれ燃ゆる」蛍の末期の哀しき恋のそれを言いながら、やはり後の怪火への波状的伏線となっている。

「淚の玉も祭らん」蛍火を恋に焦がれ燃える男女の情炎にし、その儚い恋の涙から、人の儚い命から人魂に落ち着かせた。岩波文庫版の高田氏の注には、『魂祭り(七月十五日)を踏んだ表現』とある。

「踏めば惜し、踏まねば行かぬ道に敷くは、玉かあらぬか露深き」田圃道を踏み行けば恋し合う蛍を驚かせて互いを散らせてしまうことを「惜し」い、とまずは言っておいて、更に、後の、淡い月光や蛍火に煌めく道端の草々に置く「玉かあらぬか」と見紛う「深き」「露」(儚い命の常套的シンボル)をあたら散らせてしまうことを「惜し」いというのであろう。

「三十間」五十四メートル五十四センチ。

「煌々燿々(くはうくはうようよう)として」きらきらと有意に耀くさま。

「四、五尺」一メートル二十一センチから一メートル五十二センチほど。

「四、五間」七メートル二十八センチから九メートル九センチ。

「元和(げんわ)の軍(いくさ)」徳川が豊臣を滅ぼした「大坂夏の陣」のこと。大阪城の落城は慶長二〇(一六一五)年五月七日(グレゴリ暦六月三日)であるが、二ヶ月後の七月十三日に「元和」に改元している。

「五月六日に重義輕命(ぢうぎけいめい)の勇士、多く、こゝに死す」落城の前日五月六日に行われた「若江の戦い」。ウィキの「八尾・若江の戦い」(八尾は「やお」と読む。若江の南東から南の現在の大阪府八尾市内)によれば、午前五時頃、豊臣軍の木村勢が若江に着陣、先鋒を三手に分け、『敵に備えた。その右手に藤堂勢の右先鋒、藤堂良勝、同良重が攻撃をかけた。藤堂勢は兵の半数を失い敗走、藤堂良勝、良重は戦死した。木村は玉串川西側堤上に鉄砲隊を配置し、敵を田圃の畦道に誘引して襲撃しようともくろんだ』。午前七時頃、『井伊直孝は若江の敵への攻撃を決断、部隊を西に転進させた。井伊勢の先鋒は右手庵原朝昌、左手川手良列。木村勢を発見した川手は、玉串川東側堤上から一斉射撃後、敵に突入した。堤上にいた木村勢は西に後退し、堤は井伊勢が占拠した。川手はさらに突進したが』、『戦死した。そこに庵原も加わ』って『激戦となった。木村重成は自身も槍を取って勇戦したが戦死した。山口弘定、内藤長秋も戦死し、木村本隊は壊滅した』。『それまで戦闘を傍観していた幕府軍の榊原康勝、丹羽長重らは味方有利と見て木村勢左先手木村宗明を攻めた。宗明は本隊が敗れたため』、『大坂城へ撤退した』とある。

「はや、去りゆける」遠い昔に消え去ってしまった。

「御垣守(みかきもり)衞士(ゑじ)の焚(た)く火」「詞花和歌集」の「戀上」大中臣能宣の「題知らず」とする歌(二二五番歌)で「小倉百人一首」にも四十九番歌として採られている、

 

     題不知

御垣守衞士の焚く火の夜は燃え晝は消えつつものをこそ思へ

 

に基づく。「御垣守」(「もり」ではなく「もる」とする伝本もあり、私は「もる」の方が遙かに良いと思っている。定家がそうしなかったことを訝るぐらいである)内裏の諸門を警護する者。衛門府に属し、夜は篝火を焚いて門を守った。「衞士」は諸国から交替で招集された兵士ここは「御垣守」と同義である(だからこそわたしは前を「もる」と読みたいのである)。しかしまあ、彼らの姿は読まれていないわけだから(「御垣守衞士の焚く火の」は恋の炎を引き出すためだけの序詞)ムキになっても仕方ないか。しかし、まさにここで死んでいった連中は秀頼を守らんとした「御垣守」「衞士」であったのだ。その彼らの無念の思いが「燃えつゝ物思ふらんと、哀れに侍る」というこの荻田の友の台詞は、ただの風流の遊びではなく、重い

「邂逅(わくらば)」漢字表記は岩波版を用いた。「たまたま・偶然に・まれに」の意。

「行けば行(ゆく)ほど火も行くなり。脇より見れば、こゝとても燃えさふらふなり」この言が正確であるとすれば、天然ガスなどの噴出による発火現象ではなく、光学的自然現象ということになる。町屋や民家の灯の大気の逆転層による反映か。

「堤(つゝみ)ぞ堀(ほり)ぞの分(わ)きもなし」「田」・「畔(あぜ)」・「堤」・「堀」の区別なく、どこでも自在に発火し、消滅するというのである。ますます光学的錯覚であることが強く疑われる。

「さても今、廿年(はたとせ)にも余(あま)らんに」先に示した通り、話柄内時制は寛永一一(一六三四)年七月で、「大坂夏の陣」は慶長二〇(一六一五)年五月であるから、経過時間は実質十九年二ヶ月余りであるが、ここは年を数えでやっておいて月だけ比較換算したものだろう。

「よし、葭垣(あしがき)の間近く見ずとも」この「よし」のあとには底本も岩波を読点は打たない。原典は「よしあしがき」で総て平仮名。私は、ここは「葦(よし)葭(あし)」(孰れも同じ単子葉類植物綱イネ目イネ科ダンチク亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis を指す。難波の蘆(あし)は万葉以来のここの名景物である)で拵えた貧者の「垣」の意に、副詞の「よし」(仕方がない・ままよ・まあよかろう)の意を掛けたものと採る。されば、「よし葭垣」や「葦葭垣」では荻田の台詞の深い感懐のパンチが失われてしまう。そこでかく表記した。]

宿直草卷五 第一 うぶめの事

 

宿直草 卷五

 

  第一 うぶめの事

 

 寬永四年の春、予が里の、さるものゝ下女、孕(はらみ)しまゝに死し、產女(うぶめ)となりて來(くる)ると云ひ、里の侲(わらはべ)恐れ合ひて、柴の戶を締め、葭(よし)の簾(すだれ)を下ろす。予はその頃、他所(たしよ)にありて、歸りければ、この話、せり。

「さらば、そのもの、通らば、聞かせ給へ。」

と云ふ。

 夜の八つの頃、我が母、慌たゞしく起こす。

「何事ぞ。」

と云へば、

「例の者、通るぞ、泣く聲、聞け。」

と云ふ。

「さらば。」

とて聞くに、その聲、呂(りよ)にして、

「わあゝひ。」

と泣く。二聲までなり。平調(ひようでう)にして、頭(かしら)は高く、後(あと)は下(さが)れり。引く事、長(なが)ふして、一聲のうち、二間(けん)ばかりは步むべし。其聲の哀れさは、今も身に沁みてこそ侍れ。

 この亡靈(まうれい)の夫(をとこ)、名さへおかしき與七といふ者なり。夜な夜な、產女(うぶめ)、與七が寢屋(ねや)へゆく。與七、寢る事なし。あまり腹立ちければ、己(をの)が寢屋の柱に、この產女を繩にて縛りつけ置けり。

「姿やある。」

と翌日(あくるひ)見るに、血の付きたる繼ぎ切(きれ)なり。

 やがては放(ほふ)らかすにも、絕えず、來たる。

 餘所(よそ)へゆけば、跡慕(した)ふて行く。

 臍繰り錢(ぜに)にて經讀み貰へども、更に驗(しるし)もなし。

 いとゞ與七も空(うつ)け侍りしが、さる者の云ふやう、

「其男の𢌞(まは)しを、かの產女(うぶめ)の來るところに置けば、その後、來ぬと云ふぞ、さもせよかし。」

と云ふ。

「さらば。」

とて、下帶を窓に掛け置けり。其夜、來て、去りぬ。

 翌日(あくるひ)見れば、窓に𢌞しなし。又、二度來たらずとなり。

 是もまた故實か。

[やぶちゃん注:「うぶめ」「標題はこの通りの平仮名。本文のでは「產女」で「うぶめ」とルビする。さて「產女(うぶめ)」は古狸が産女に化けたという入子妖怪の偽物ながら、既に「宿直草卷三 第二 古狸を射る事」で出ている。但し、

このそれは、真正の産女であるからダブりではないし、その上、荻田自身の実際に鳴き声を聴き、親しく身近で著聞した実話として記している点で特異点である

しかも、

本来の妖怪化する以前の亡くなった直後の産婦の亡霊と認知出来る様態で出現している点で、実は本家本元というか、妖怪でない真正の「うぶめ」という霊現象であることに着目しなければならない

こうした死亡直後の妊婦の霊を妖怪「うぶめ」(冒頭の「産女となりて」に着目)として語るケースは必ずしも多いとは言えないからである。

 何故、彼らは即座に妖怪化されねばならなかったのか、という疑問が私には永くあった。それは、恐らくは多量の〈異常出血の苦悶による死の惨たらしさ〉という視覚的事実以上に、

その〈恐るべき血の穢れ〉

さらに、

母体の中の胎児という〈一人の体に魂が二つあるという異常な事態〉(古く出産以前の妊婦が隔離されるのはそうした非日常的異常性が何らかの邪悪なものを逆に招くとして恐れたからである)の中での、さらに〈二つの生命のシンクロした死というまがまがしい事態〉が、ことさらに強く忌避された結果

として、

彼らは幽霊という過程を経ずに、瞬時にして妖怪化するものと信じられたのかも知れないと私は考えている

 妖怪としての産女(「うぶめ」は「姑獲鳥」とも書く)は私の『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姬(3) 產女(うぶめ)』の私の注を参照されたい。

「寬永四年」一六二七年。家光の治世。荻田安静は生年が不詳で没年は寛文九(一六六九)年である。没年との差が四十二年もあり、以下の産女を見たい(実際には声のみを聴いた)という好奇心の発起などの叙述から見ると、荻田の十代末か二十代の雰囲気が漂うように私には思われる。

「予が里」荻田の出生地は不詳であるが、本書の版元が京のかの西村九郎右衛門であり、本書の各篇のロケーションから見ても、京阪かそのごく周縁と考えてよいと思われる。

「侲(わらはべ)」見かけぬ漢字であるが、大修館書店の「廣漢和辭典」によれば、この解字は「よく動きまわる元気な子ども」の意で、そこから「善い」「童」「馬飼い」の意味を持つ。

「夜の八つ」午前一時半から二時頃。

「呂(りよ)」「律」とともに雅楽の音階名。邦楽では声や楽器の「低音域」或いは「ある音に対して一オクターブ低い音」を指す。「乙(おつ)」とも呼ぶ。

「二聲」「ふたこゑ」と訓じておく。

「平調(ひようでう)」邦楽の十二律の一つで、基音である壱越(いちこつ)の音から三律目の音。洋楽のホ音(ミ)とほぼ同じ高さの音。但し、この音は雅楽の唐楽に於ける六調子の一つとしては「律呂(りつりよ)」の「律」(この場合は十二律の各音の中で陽(奇数番目)に当る六音を指す)に属するとされている。

「二間(けん)」三メートル六十四センチ弱。

「其聲の哀れさは、今も身に沁みてこそ侍れ」鳴き声が聴こえたのが、深夜であること、鳴き声及びその鳴き方に有意なインターバルがあること、哀れな荒涼とした感じを覚えたと荻田がはっきりと記していることなどを総合すると、これは梟(鳥綱フクロウ目フクロウ科フクロウ属
Strix)の鳴き声を誤認したものと考えてよいようには思われる。

「亡靈(まうれい)」原典の「靈」は、実はここ以外でもそうだが、異体略字の「㚑」に近い字を多く用いている。しかしこの字は私が生理的に非常に嫌いな字であるので正字で示してあることをこの場を借りて注しておく。

「名さへおかしき與七といふ者」与七という名は面白いのだろうか? 面白くない。普通である。或いは、以下の何となくどこか滑稽味を含ませた怪談話のネタ元は、実はこの「名さへおかしき」という不審な言葉にこそ隠されているのではあるまいか? 識者の御教授を乞う。

「血の付きたる繼ぎ切(きれ)」べっとりと血のついた継ぎ剝ぎした粗末な布の切れ端。与七のここでの前夜の経験は幻覚と片付け得ても、その凄惨な血糊の白布の布切れは、先の荻田が実際に聴いた産女の泣く声とともに異界が積極的物理的に現実を鮮やかに侵犯して来るキモの部分と言える。

「やがては放(ほふ)らかすにも、絶えず、來たる」「餘所(よそ)へゆけば、跡慕(した)ふて行く」血だらけになった亡き妻の恐るべき毎夜の来訪という〈非日常〉がどこにでもついてくるようになってしまい、夜の生活が靈とともにあることが〈日常化〉してしまった時、登場人物の与七自体が既にして怖がるどころか、霊との付き合いに飽きてしまって疲れ果てる時、怪奇談は怪奇でなくなり、読者の面白さを狙うだけの作り話となる。荻田は明らかにそれを確信犯でやっているのであるが、全体を自身の体験した怪奇実録という額縁にしている以上、これは怪奇筆録者として越えてはならない一線を越えてしまったものようにも見えてしまう(但し、最後の注を必ず参照)。これは現代の多くの都市伝説や心霊話でも同様で、私は霊が見えると称する霊能力者を全く馬鹿にするのは、彼らがまさに、しみじみとした素朴な怪奇現象を、カストリ雑誌の安物の退屈な喜劇的怪談へと変貌させてしまうだけの、徹底的に無能な戯作者に過ぎないからである。

「臍繰り錢(ぜに)にて經讀み貰へども、更に驗(しるし)もなし」もはやここまでいってしまっては後の落語みたようなものであることが明々白々である。荻田の確信犯である。

「空(うつ)け」気が抜けたようになってぼんやりする。

「𢌞(まは)し」「下帶」褌(ふんどし)。私はこれをただのお笑いネタとして笑って読み過ごすことが出来ない。或いは産後の肥立ちが悪く、若くして亡くなった(或いは子も一緒に)妻の霊が迷わぬようにするための呪具として、夫の性器を包んでいる褌が用いられることが古えにはあったのではないかという可能性を私は否定出来ないからである。いや、一見、下ネタの笑い話の古層には神代の豊饒に満ちた男女の交合のシンボルが隠されており、そこに大真面目に検証すべき意味があると私は考えているからである。私は柳田國男と折口信夫との間には民俗学研究の中では具体な性的要素は核心に至ることが明確でない物以外なるべく出さない、抑制しようという密約が出来ていたのではないかと実はずっと昔から疑っている。そのことに真っ先に気づいて柳田に痛烈に文句を言ったのが、かの南方熊楠であったのだ。

「故實」古くより言い伝えて来たお定まりのこと。それは用意には起原を探り得ないものも多い。或いは、好意的に考えるなら、鋭い荻田はこの一見、笑い話にしか見えない後半の近場の巷間に流行っていたあり得ない話の基底にこそ、そうした民俗習慣の古形の儀式の匂いを嗅ぎ分けていたのかも知れない。]

2017/07/24

宿直草卷四 第十七 蛇をうむ女の事 / 宿直草卷四~了

 

  第十七 蛇(へび)をうむ女の事

 

 河内若江の庄に、ある侍の妻、産をするに、取り上げ見れば、袋なり。中に數限りなき蛇、あり。

 面(おも)なかりければ、湧きかへる湯にいれ、

「子は死したり。」

と云ふ。

 その後、また、懷妊す。この度(たび)もまた如何あらんと、かねて案ずるに、果して右のごとし。これも深く包みけり。いかなる報ひぞやと人知れぬ泪、白玉か何ぞと人の問ふまで、せり。

 歳月ほど經て、また、たゞならぬ身となりければ、婦(をんな)、うち泪ぐみて、年古き人に語りければ、老人(おいびと)のいはく、

「聊(いさゝ)か聞き侍る事あり。三輪の神の見入れし女は、蛇を産むもの也。御身、眉目(まみ)麗(うるは)し。此度(このたび)も、さあらん。隱すに依りて來たります。人の行きかふ巷(ちまた)に曝(さら)せ。高札立てゝ諸人(もろびと)に見せよ。重ねてはさあらじ。」

と云ふ。

 案の如く、また袋を産みて蛇あり。やがて老人の教へのごとくす。

 その後(のち)、まふけたる子は、親に似たる人にてぞありける。

 かやうの事、聞き置くべきをや。又、故實なり。

 ちはやふる神も願ひのある故に、人の情(なさけ)によりしかど、げにや、契りも恥づかしの、洩りて餘所(よそ)にも聞えしかば、通ふも今宵ばかりに思(おぼ)しけめ。宮居のしるしも過ぎし代(よ)ならで、今もかゝる事、はんべり。

 

[やぶちゃん注:これは二つ前の第十五 狐、人の妻に通ふ事で武士の妻が夫に化けた狐と四度交接し、四匹の狐の子を生む奇譚から隔世的に連関する。異類婚姻譚は数あれど、婦人が狐そっくりの子を四体まで産み、懐妊するつど、武士の奥方が袋状のものに入った無数の蛇を産むというのは、これ、他では滅多にお目にかかれぬ。そうしたかなり猟奇的新奇さで二匹目の泥鰌を狙った感は拭えない。にしても、先の話柄が妖狐の変身した贋夫との交接が四度行われ、四匹の狐様胎児を出産したという一応の、額縁としての物理的論理立てがなされているのに対し、こちらは三度の蛇玉出産に対応する三輪の神との神人交合が全く描かれていない(多分、夢の中なのであろうが)のが私には非常に不満である。

 なお、中身が蛇というのを、髪の毛の塊りなどを誤認したものとするならば、医学的には「卵巣成熟嚢胞性奇形腫」で腑には落ちる

「河内若江の庄」河内国若江郡。現在の大阪府河内市内の若江を冠する地名のある一帯。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「面(おも)なかりければ」奇怪にして、恥ずかしく面目ないことであったので。ちょっと気になるのは、この後の湧き返る熱湯に囊ごとつけて無数の蛇を殺して「子は死したり」と世間に言ったのは誰か、という点である。夫である武士が前の狐の話の時のように、産婆と口裏を合わせてかくしたというのが現実的ではあるが、そうして妻にも「子は死産だった」と告げて真相を言わなかったとすると、次の段落の二度目の蛇玉出産とその後の描写、及び三度目の懐妊と展開がうまく繫がらなくなってしまうからである。婦人には少々残酷であるが、一度目のそれで事実は妻に告げられたもの解してこそ、後がスムースに読めるのである。

「これも深く包みけり」今回も世間に対しては死産或いは流産として深く包み隠したのであった。

「いかなる報ひぞやと人知れぬ泪」ここが問題の箇所で、この涙を流すのはやはり妻自身でなくてはおかしいのである。そうして、事実は夫と産婆ぐらいしか知らぬから、他人は、「不幸にも二度も死産・流産であったとはいえ、かの御夫人がそれを気に病むことはなかろう……おや? 御夫人、お美しいそのお顔に光っておりますのは何でしょう? 光る白玉か何かがお顔にくっついつおられますよ。」などと不思議がるのである。婦人が人に言えぬ忌まわしい出産の秘密に、隠れて悲哀の涙にくれていることを夢にも知らぬ人々には、まさか、それが激しい絶望的な悲しみから落ちる涙の「玉」であるとは、とてものことに思い至らぬのである。

「三輪の神」、奈良県桜井市にある三輪山(標高四六七・一メートル)の神。記紀には最も古い伝承の一つとして三輪山の大物主神(おおものぬしのかみ)の伝説が載る。それは活玉依姫(いくたまよりびめ)という美しい娘の元に夜な夜な男が訪れ、遂に姫は身籠る。男性の正体が判らなかったことから、着物の裾に麻糸の附いた針を刺してその跡を辿ることとした。翌朝、麻糸は戸の鍵穴を通り抜けて、三輪山の大物主神の社に留まっていた(この時、麻糸が三巻分、残っていたことからこの地を「三輪」と名づけたともされる)という話であるが、大物主は一般に豊穣・疫病除・醸造などの神として篤い信仰を集め、穀物を食害する鼠を捕食する蛇は太古の昔より五穀豊穣の象徴とされてきたことから蛇体の神とされ、同様に稲作に不可欠な治水を司る水神としては龍体の神ともされた。

「隱すに依りて來たります。人の行きかふ巷(ちまた)に曝(さら)せ。高札立てゝ諸人に見せよ。重ねてはさあらじ」というこの個別な呪法が、如何なる意味合いによって説明されるのかは私は不学にして判らぬが、現在でも出産した奇形児を神の託宣のシンボルとして崇める習俗は世界の一部に根強く残っているし、生まれたということを暴露し公言する(言上げする)ことによって、「ハレ」の「蛇玉」自動再生システムが停止し、この婦人が「ケ」たる現実の日常の時空に帰還出来、正常な美しい子を生む、という構造も、世界中の神話や民話の古層に残る原形的パターンであるとは言える。そうした核心の作用や理由は人知を越えているのであるが、しかし確かにそのようなことは安全で平和な状態を取り戻したり、維持したりするのに不可欠な「故實」(お定まりのこと)なのであるし、そのような「事」は総てを解明出来なくとも厳然たる事実として存在するのであり、いいかげんに聞き流してしまってはいけない、しっかりと「聞き置くべき」、子孫に永く伝えるべき一件なのである、と筆者は言っているのであろう。但し、最終部分は、それを、人間に引き下げて敢えて洒落て言おうとした結果、「ちはやふる神も」「願ひのある」存在らしい、だから「人の情(なさけ)に惹かれてついつい「より」(寄る/憑る)ついてきてしまったけれど、「げにや契りも恥づかしの」(いやはや、恥ずかしい密やかな交わりをすれば、神であってもお恥ずかしや、相応なる子をも出来てしまう)、それが「洩」れて世間に知れ渡ってしまって神さまも流石に恥ずかしくなり、「通ふも今宵ばかりに」こそ「思(おぼ)しけめ」なんどとやらかした結果、またまた話柄のホラー・リアリズムがすっかり殺ぎ落とされてしまった感がある。

「宮居のしるしも過ぎし代ならで、今もかゝる事、はんべり」神が我々人間にお示しになられる諸々のことは、必ずしも神々が生き生きとあった過ぎた御世だけのことではなく、今のこの現代にも、こうした不思議なことは往々にしてあることなのであるということをよく理解しておくべきである。]

宿直草卷四 第十六 智ありても畜生は淺ましき事

 

  第十六 智ありても畜生は淺ましき事

 

 京大佛に牢人あり。ある時、狐を釣り初(そ)めて、數々獲りけり。一の橋、今熊野(いまぐまの)、法性寺(ほつしやうじ)の邊(ほと)り、大方(おほかた)輪繩(わな)かけぬ所なし。

 此(この)邊(あた)りに毛色も變はる老(おひ)の狐あり。輪繩の餌(え)に焦がるれども合點(がてん)して、かゝらず、合點しても、又、寄る。何(いづ)れ堪(こら)へ兼ねたる躰(てい)には見えたり。牢人も、たびたびなれば、此狐を見知りて、

「何時(いつ)ぞは釣らん。」

と思ひ、輪繩、止(や)まずも、かけたり。

 また其比、大佛の在家(ざいけ)に端(はし)少し借りて學問をする台家(たいけ)の僧あり。此人、ある深更に帙(ちつ)を開き、見臺(けんだい)にして博覽するに、

「ぞ。」

と怖くなる。やがて火影(ほかげ)に顧みれば、綿帽子(わたぼし)、被(かぶ)れる婆(ばば)あり。

 不思議に思ひ、

「何者ぞ。」

と云へば、

「我は此邊りに住む狐にてさふらふが、賴みたきいはれさふらひて參りたり。」

と云ふ。僧、聞(きき)て、

「如何なる事ぞ。」

と云へば、狐の云(いはく)、

「御僧の知り給ふ、その牢人有(あり)て、輪繩をかけて、我(わが)眷屬、大方(おほかた)、釣り、我のみ、殘れり。知らず、我もまた、何時(いつ)か釣られん。願はくは、御僧、戒めて、輪繩かけぬやうに聞かせ給へ。然らば、我(わが)覺え候通りの學問、大小乘ともに、御僧に悟(さと)さしめん。此約束せんために參りたり。」

と云ふ。

 僧、聞きて、

「易き事なり。輪繩の事は、我(われ)、切(せち)に止(と)めなん。さて、訝しきは、輪繩にはかゝる物と知らば、如何(いか)で其心にてかゝらぬやうにせざる。我を賴むまでなし。愚かにこそ侍れ。」

と云ふ。狐の云はく、

「我も、今の心にては、さこそは思ひさふらへ。餌(え)を見て堪(こら)へ難く、其時になりて迷ふが、畜生の淺ましき性(しやう)なり。三才(さんさい)の最靈(さいれい)、萬物(ばんぶつ)の最長(さいちやう)たる人の身は、その心、保(たも)ちあり。我に於ゐて、保たれず。」

と云ふ。

 僧の云はく、

「然(しか)らば、汝、大小乘の渉獵(しやうれう)、我、曾て信(しん)なし。鳴呼(おこ)がましく覺ゆれ。」

と云ふ。狐の云はく、

「尤(もつとも)なり。我、昔、僧たりし時、學べり。僻解(へきげ)にして此身を受く。爾(しか)はあれど、智は、これ、萬代(ばんだい)の寶(たから)、八識不忘(はつしきふまう)の田地(でんぢ)に納(おさ)む。師、訝しくは、試みに問へ。」

と云ふ。

 僧、やがて、金胎兩部(こんたいりやうぶ)の極致(ごくち)、三諦圓融(さんたいゑんゆう)の妙理を問ふに、果して台密(たいみつ)の極談(ごくだん)、その辨(べん)、懸河(けんが)なり。

 僧の云はく、

「其智を以つて、などか、その身を受けしや。」

狐の云(いはく)、

「我、法體精修(ほうたいしやうしゆ)の遑(いとま)、智ありて、德なし。故(かゝるゆへ)に此身を受く。今、はた、家家(けけ)の比丘、智、有共(ありとも)、寧(むしろ)、德、無くんば、皆、野狐性(やこしやう)なり。」

僧の云はく、

「智と德と別(べち)なりや。」

狐の云はく、

「亦離亦合(やくりやくがう)、間(ま)に髮(はつ)を入れずして、また更に、呉越を隔つ。これ、我が悞領(ごれう)。あゝ、それ、察せよ。」

と云ふ。

 僧の云(いはく)、

「世に、また、汝が如き人、多きや。」

と云ふ。狐の云(いはく)、

「道、多岐(たぎ)にして、羊を失ふ。誤まる人、それ、雲のごとく、霞に似たり。」

と云ふ。僧、驚きて已(や)む。

「明(あけ)なば、輪繩止(や)めしめ給へ。」

とて、狐は諾(だく)して去りけり。

 僧、翌日、かの牢人の許(がり)行くに、外(ほか)へ出(いづ)る。

 またの日、行かんとするに、僧の旅屋(たびや)に客あり。

 その亞(つぐ)の日、行きて牢人に語る。

 牢人、聞きて、

「それは。昨夜(ゆふべ)、釣りたり。年頃かゝり難(がた)かりしが、さては御袖まで約束し、『輪繩は早や無し』と心緩(こころゆ)りて、かゝりつらん。」

と云ふ。僧、

「さては。我、殺したり。」

と、泪(なみだ)流し、呆れて歸りしなり。近き事とや。

 思ふに、この狐は、隔僧則忘(きやくしやうそくまう)を逃がれり。その上(かみ)、尊(たと)き階位か。

 また、世はもとしのび、此話に付(つけ)、百丈師(ひやくぢやうし)を思へり。

「火影(ほかげ)の夜話(やわ)に、など、此僧、教化せざるや。甲斐なきばかり本意(ほい)なし。」

と云へば、意(こゝろ)、答へて云はく、

「釣られたる時、幻滅ならんか。」

と。我、無訶有(むかゆう)の郷(さと)に高枕(かうしん)す。

 

[やぶちゃん注:妖狐譚連投。狐ではないが、狸の設定で非常に良く似た内容が後半で語られる、私の好きな一篇『「想山著聞奇集 卷の四」「古狸、人に化て來る事 幷、非業の死を知て遁れ避ざる事」』を私は既に電子化注している。未読の方は是非、読まれたい。

「京大佛」「大佛」は京都の地域通称。岩波文庫版の高田氏の注には『東山山麓より鴨川まで』を指し、天正一四(一五八六)年に『秀吉が天台宗方広寺を建立してからの呼称』とある。方広寺大仏の建立経緯と消失については、ウィキの「方広寺」を参照されたい。方広寺と東山(方広寺の東北)、ここで言う「大仏」地区を含むと推定される地域をグーグル・マップ・データで示しておいた。

「牢人」浪人。

「一の橋」現在の東山区の本町通に掛かっていた橋。東山泉小中学校西学舎のグラウンドに移築されて残る。この中央付近か(グーグル・マップ・データ。「一橋宮ノ内町」「一橋野本町」の名が残る。方広寺の南西直近である。示した地図のポイントは東山泉小中学校西学舎)。

「今熊野(いまぐまの)」「一つ橋」の南東直近の現在の新熊野(いまくまの)神社や今熊野(いまくまの)観音寺のある一帯の呼称。現在も町名の頭に「今熊野」を冠する地名が複数残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。現行は清音。

「法性寺(ほつしやうじ)現在の東山区本町にある浄土宗大悲山法性寺附近(この寺は後身であって本来の法性寺ではない)。岩波文庫版の高田氏の注には『藤原氏寺。伏見街道から東山山麓の広大な地域を占めていたが応仁の乱で亡び、耕地化した』とある。今熊野の南直近附近。現在の法性寺はここ(グーグル・マップ・データ)。この話柄内時制は方広寺大仏が存在した安土桃山時代まで遡らせる必要はなく、以上の地域に狐が多数棲息していたというのであるから、江戸初期設定で問題はないように思われる。

「輪繩(わな)」(足)くくり罠。狐が餌に誘われて踏み込んだとたんに脚部が輪状の繩で絞められるタイプのもの。

「大佛の在家(ざいけ)」方広寺のある辺りの民屋の意。

「台家(たいけ)」天台宗。なお、天台宗の「台」は「臺」とは別字なので注意されたい。

「見臺(けんだい)にして」書見台に置いて。

「綿帽子(わたぼし)、被(かぶ)れる婆(ばば)あり」何故、こんな恰好に化けて出て来るのであろう。狐の嫁入りの映像的パロディを狙ったものか?

「いはれ」「謂れ」。理由。わけ。

「大小乘」大乗仏教及び小乗仏教の全教学の奥義。

「三才(さい)」天・地・人(三極(さんきょく)・三儀)で宇宙の万物の意。

「最靈(さいれい)」最も優れた霊魂を持つ存在である。

「渉獵(しやうれう)」ここは広汎の智を捜し求めて無数の経典を漁(あさ)り読むことによって得た仏法の奥義。

「我、曾て信(しん)なし」その謂いを受けては、いっかな、拙者にはそなたの申すことに信を持つことが出来ぬ。

「鳴呼(おこ)がましく覺ゆれ」差し出がましいだけでなく、全く以って馬鹿げた申しようとしか感じられぬ。

「僻解(へきげ)」岩波文庫版の高田氏の注には『自分勝手で偏った理解』とある。「びゃくげ」とも読む。似た熟語に「僻見」(公平でない偏った見解・偏見)がある。

「八識不忘(はつしきふまう)の田地(でんぢ)に納(おさ)む」岩波文庫版の高田氏の注に、『唯識大乗の見地から、小乗仏教を合せて、人間の持つ八種の悟性をいう。「田地」はそれを納める心』の意、とある。八識(「識」は純粋な精神作用を指す)は四世紀のインドで興った瑜伽行唯識学派によって立てられたもので、眼識(げんしき)・耳(に)識・鼻(び)識・舌(ぜつ)識・身(しん)識(皮膚感覚認識)・意識(以上の生理的外界認知器官による五感の前五識と区別される第六番目の「識」。「心」或いは所謂「第六感」と捉えて問題はあるまい)・末那識(まなしき:意識の深層で働く自我執著の意識・心)・阿頼耶識(あらやしき:宇宙万有の展開(生成と消滅)の根源とされる心の最奥にある真理主体。万有を保って失わないところから「無没(むもつ)識」、万有を蔵するところから蔵識、万有発生の種子(しゅじ)を蔵するところから「種子識」とも称する)を指す。

「訝しくは」「訝(いぶか)しくば」。

「金胎兩部(こんたいりやうぶ)」真言密教の教主である、宇宙の実相を仏格化した根本仏である大日如来の真実相を二つの側面から表わしたもの(もともと一切の現実の経験世界の現象はこの如来そのものであるとされる)。金剛界(大日如来を智慧の面から表わした世界観。如来の智徳は如何なるものよりも堅固で、総ての煩悩を打ち砕くことに由来する名とされる)と胎蔵界(大日如来を本来的な悟りである理性(りしょう)の面から表わした世界観。理性が胎児の如く慈悲に包まれて育まれてあることからの名とされる)。

「三諦圓融(さんたいゑんゆう)」岩波文庫版の高田氏の注には『天台に説く』思想で、『「諦」は真理の意で空・仮・中三諦に解釈されるが、本来』、『真実としては区別がなく絶対的同一であること』を言う語とある。「三諦」の空諦・仮諦・中諦はこちらで既注。

「極談(ごくだん)」極意。

「辨(べん)」論説・主張。

「懸河(けんが)なり」「懸河」は傾斜が急で流れが速い川の意であるが、「懸河の弁」(「晋書」の「郭象傳」が典拠とされる)で「奔流のように澱みなく話し語ること・雄弁」に譬える。岩波文庫版の高田氏の注には『とどこおることなく、すらすらと語った』とある。

「その身」輪廻転生で受けた狐という畜生の身。

「法體精修(ほうたいしやうしゆ)」僧侶として修行と教学の習得に精勤すること。

「遑(いとま)」ほっと気を抜いた折り、ぐらいの意味であろう。その時に「僻解」や慢心が、完成された「仁」を持たない、即ち、あるべき人徳がなかった彼の意識を致命的に侵犯してしまったというのである。

「野狐性(やこしやう)」禅で言うところの「野狐禅(やこぜん)」と同義。ウィキの「野狐禅」によれば、『「仏法は無我にて候」として真実の仏陀は自我を空じた無我のところに自覚体認されるはずのものなのに、徒(いたずら)に未証已証』(みしょういしょう:未だ証していないのに既に証覚を得た認識してしまうこと)という『独り善がりの』誤った理解を正統と誤認することを指す。なお、後で注する中でリンクした淵藪野狐禪師訳注「無門關 二 百丈野狐」も参照のこと。「野狐禅」の出典はそれであるからである。

「亦離亦合(やくりやくがう)」岩波文庫版の高田氏の注には『つかずはなれず、の意』とある。教学でしばしば用いられる語である。

「間(ま)に髮(はつ)を入れず」「間(かん)、髪(はつ)を容(い)れず」。「説苑 (ぜいえん)」の「正諫(せいかん)」が典拠。間に髪の毛一本も入れる余地がない意で、少しの時間も挟まぬさま。「かんぱつ」と続けるのも破裂音にするのも孰れも誤りであるので注意されたい。

「呉越を隔つ」岩波文庫版の高田氏の注に、『極めて相容れ難いこと』とある。

「悞領(ごれう)」致命的に誤まっての了解すること。「悞」は「誤」と同義。

「道、多岐(たぎ)にして、羊を失ふ」「亡羊(ぼうよう)の歎(たん)」。学問の道はあまりに広汎にして多岐に亙っているために、容易に真理を捉えることが出来ないことの譬え。「列子」の「説符」の「第八 二十四」に基づく。頭の当該事実部分のみを引いておく。

   *

楊子之鄰人亡羊、既率其黨、又請楊子之豎追之、楊子曰、嘻亡一羊、何追者之衆、鄰人曰、多岐路、既反、問獲羊乎、曰亡之矣、曰奚亡之、曰岐路之中又有岐焉、吾不知所之、所以反也。

   *

 楊子[やぶちゃん注:楊朱。春秋戦国時代の思想家で個人主義的な思想である為我説(自愛説)を主張した。老子の弟子と伝える。]の鄰人、羊を亡ふ。既に其の黨(なkま)を率(ひき)ゐ、又た楊子の豎(じゆ)[やぶちゃん注:小僧。若い下僕。]を請ひて之を追ふ。楊子曰く、

「嘻(あゝ)、一羊を亡へるに、何ぞ追ふ者の衆(おお)きや。」

と。鄰人曰く、

「岐路多し。」

と。既に反(かへ)る。問ふ、

「羊を獲たるか。」

と。曰く、

「之を亡ふ。」

と。曰く、

「奚(なん)ぞ之を亡へる。」

と。曰く、

「岐路の中に、又、岐(き)有り。吾(われ)、之(ゆ)く所を知らず、反る所以なり。」

と。

   *

「隔僧則忘(きやくしやうそくまう)」「隔生則忘」の誤り。「隔生即忘」とも書く。人が輪廻転生して、再びこの世に生まれ変わる際には、前世のことはその一切を忘れ去っていることを指す。

「世はもとしのび」意味不明。「予は本偲び」で、「私は(この話を聞いて、その)本(質的な部分から)偲ばれるところ(の話があった)」として以下に続くか? 識者の御教授を乞う。

「百丈師(ひやくぢやうし)」唐代の優れた禅僧百丈懐海(ひゃくじょうえかい 七四九年~八一四年)。西山慧照の下で出家、南嶽の法朝律師より具足戒を受けて広く仏教を学び、馬祖大師に参じてその法嗣となった。江西省の大雄山(「百丈山」とも呼ぶ)に大智寿聖寺(だいちじゅしょうじ:「百丈寺」とも呼ぶ)を建立、禅風を鼓吹し、かの黄檗希運など多くの弟子を育てた。ここはしかし、百丈和尚に纏わる最も有名な公案の一つで私の大好きな「百丈野狐」のことを指している。幸い、私の古い仕儀、淵藪野狐禪師訳注「無門關 二 百丈野狐」で電子化しているので、是非、参照されたい。なお、淵藪野狐禪師訳注「無門關」はその全篇をサイトでも公開している

「火影(ほかげ)の夜話(やわ)に、など、此僧、教化せざるや。甲斐なきばかり本意(ほい)なし。」筆者は、妖狐がやって来た際に、その燈明の光りの射す永い夜話し(狐は大乗小乗の奥義を語ったのだから相当に時を尽くしたはずである)の中で、どうしてこの僧はその妖狐を教化(きょうげ)してやり、その場で直ちに救ってやらなかったのか?! と僧の方を強く純理性的に批判しているのである。翌日、浪人の所へ行こうとしたが、何故か外の所へ行ってしまったこと(用があったかなかったさえも述べていない)、次の日は客があったから行かなかったこと(遅くなっても、或いは、中座しても行くことは出来た。そもそもがだ! 彼の住まいと浪人の居所は方広寺のそばでごく近いのである!)など、どうみても、この坊主、ダメでしょう! 「さては。我、殺したり。」と慚愧の念に襲われて当たり前田のクラッカーやん!!!

「意(こゝろ)」先の「識」ではないが、かくも筆者の「智」の意識の表層では批判していたのだが、より心の深層に於いては、の意であろう。但し、これは公案の答え方や書法に似ているように思われ、先の「無門關」に見るような公案への答え或いは「頌」に当たるようなものとも考え得る。

「釣られたる時、幻滅ならんか。」「浪人に捕えられたその瞬間に、煩悩も執着の何もかも消滅したのではあるまいか。」。

「無訶有(むかゆう)の郷(さと)」一般には「無何有(むかう)の郷」と表記してかく読む。読みは「むかゆう」でも誤りではない。「荘子」の「應帝王篇」に由来する語で、「自然のままであって何の人為も加わらない理想郷(ユートピア)のこと。ここはただ楽しい夢を見る安眠の譬えでしかない。

「高枕(かうしん)す」岩波文庫版の高田氏の注に『熟睡した』とある。]

2017/07/23

宿直草卷四 第十五 狐、人の妻に通ふ事

 

  第十五 狐、人の妻に通ふ事

 

Kitunenoko

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。清拭し、上下左右の枠も除去した。――縊り殺された四人の子らのために――]

 

 中川何某とて、攝州茨木(いばらき)の城主なり。此殿、京に月越(こし)て逗留し給ふ。その供のうち、去(さる)人、ある夜、茨木に歸り、我妻の臥(ふす)扉(とぼそ)を叩く。妻、咎めて、

「誰(た)そや誰(た)そ。夫(おつと)もあらぬ閨(ねや)近く、折り知り顏(がほ)なる淺ましさ、余所(よそ)にも夢や破りなん。主(ぬし)ある園(その)の呉竹の、一よとてしも寢さゝれず、後(のち)に憂目(うきめ)を見給ひて、恨みを我に得給ふな。許さば歸れ、とくとく。」

と、こちたくも聞えければ、

「いやとよ、馴れぬ中ならば、いかで妻戸まで忍ばん。とかく云へば程も移り、餘所(よそ)にも人の咎(とが)めんに。早(は)や、開け給へ。」

と、いらなく、かこつ。

 其聲、わが夫なれば、あやなくも戸を開(ひら)きしに、

「さてさて、逢ふ事の絶へてし程もなけれども、男鹿(をしか)の角(つの)の束(つか)の間(ま)も、ゆかしきにのみ過(すぐ)すぞや。露(つゆ)離(はな)るべきになけれども、宮仕(みやづがふ)身は力(ちから)なし。今日(けふ)しも戀しさまさりければ、忍びてかくは下りしなり。又、夜を籠(こ)めて歸らんに、傾(かたふ)き給へ。」

とかき口説(くど)けば、妻、聞きて、

「年頃日頃、たゞ舊(ふる)さるゝ身と思ひしに、さては左樣に思し召すぞや。難波(なには)の蘆(あし)の假初(かりそ)めに、馴れし袂(たもと)の色添ひて、露の起き臥し淺からぬ、安積(あさか)の沼の花かつみ、且つ添ふ袖の忘られで、振分髮もくらべ來し、ともに月日も瀧津瀨(たきつせ)の、深き契(ちぎ)りの嬉しも。」

と傾(かたふ)き、枕に寄りて、程もなきに、夫、

「最早、歸らん。さるにても不破の關屋の月ならで、洩らさで濟ませ。」

と云ひ捨てゝ、また明方(あけがた)に京へ上(のぼ)る。

 一月のうち、四度まで通へり。

 妻、けしからず思ひければ、

「阿漕(あこぎ)が浦のならひにも、いと暗き君かな。やがて殿の御供にて、下(くだ)り給ふも遠からず。誰(たれ)も思ひは變らねど、忍ぶ山のしのぶ草、ねなくはいかで色にい出でん。思ひきる瀨(せ)の網代木(あじろぎ)は、現はれわたる事もなし。いかでかくは通ひ給ふ。思ひきるにこそ、中々、恨みは解(と)けてまし。」

と云へば、夫も、今は言葉なし。

「最早、通はざらまし。後ろ髮引く妹背(いもせ)の道、面(おも)なくこそさふらへ。重ねても此事を我に向ひて云ひ給ふな。さらば。」

とて出で去りぬ。

 さて、時分なれば御供にて、その後(のち)、歸りしかども、珍しきさゝめごとのみ、四度(よたび)の契(ちぎ)りは云はで過(すぎ)けり。

 その月より、たゞならぬ身となりて、月十(とを)に滿ちければ産(さん)の氣(け)あり。介錯(かいしやく)する者も來て取り上げ見れば、鼬(いたち)のごとし。

「こはいかに。」

と見るに、また、ひとつ、産む。

 これも毛ありて四足(しそく)の物なり。

 後に、また、ふたつ、産(うめ)る。

 以上、四つながら、同じ。

 密(ひそ)かによく見れば、狐なり。

 かの介錯の姥(うば)に心を合はせ、皆、ひねり殺して、

「子は逸(そ)れたり。」

と披露す。

 よくよく思ひ合はすれば、かの留主(るす)のうち、四度(よたび)通ひしは狐の化けたる也。

 されば女の身は大事の事なり。今、思ひいづみの信田(しのだ)の契(ちぎり)、それは男を慕ひ、これは女に契る。品(しな)はとりどりなれど、口惜しさは一つなり。「名山(めいさんき)記」に、『先古(いにしへ)婬婦あり。名を紫(し)といふ。化(け)して狐となる』と書(かけ)り。字書(じしよ)には『其姓(じやう)、化けてまた賢し』となり。

 

[やぶちゃん注:異類婚姻譚は珍しくなく、特に狐と人との間に子が出来るという伝承は大陸や本邦に非常に多いが、ここでは四つの生命体を産み、それが悉く人形(ひとがた)を示さない四足獣であったというところが、まず例を見ないキョウレツな特異点である。

「中川何某とて、攝州茨木(いばらき)の城主なり」「茨木」は現在の大阪府茨木市。ここ(グーグル・マップ・データ)。本書には何度もこの地名が出る。そこから推測するに、京の荻田はここに親しい親族か知人がいたのではないかと思わせる節がある(因みに江戸時代の茨木は幕府の天領であった)。ここで「城主」を「中川」とするところから、本話柄は江戸時代ではなく、織豊時代であることが判る。最初に中川氏として正式な茨木城主となったのは中川清秀(天文一一(一五四二)年~天正一一(一五八三)年:キリシタン大名高山右近は従兄弟に当たる)で、天正五(一五七七)年のことであった。清秀が正式に茨木城主となった。翌天正六年七月、縁故のあった荒木村重が織田信長に謀反を起こし、清秀は当初、村重方についたものの、同年十月二十八日に信長の調略によって茨木城を開城、織田軍に寝返っている。天正十年の本能寺の変後は豊臣秀吉に仕えていたが、翌年四月、賤ヶ岳の戦いで戦死した。嫡男中川秀政が後を継いだが、その三年後の天正一四(一五八六)年に秀政は数々の功績が認められて播磨三木城へ移封、その後、茨木の地は秀吉の直轄地となった(因みにその後、元和二(一六一六)年、江戸幕府の「一国一城令」によって茨木城は廃城となった。以上はウィキの「茨木城」に拠った)。以上から考えると、天正五(一五七七)年~天正一四(一五八六)年の九年の閉区間が話柄内時制ということになり、「中川何某」は中川清秀か息子秀政の孰れかであることとなる。なお、今までの「宿直草」の話柄が概ね江戸初期の設定と思われるものであったものが、この話柄内時制はそれより少し遡っている点で一つの特異点とも言える。

「折り知り顏(がほ)なる」そうした事情(夫が留守であること)を知った上で夜這いしてきた感じをあからさまにさせて。

「余所(よそ)にも夢や破りなん」そうでなくても、心地よい眠り(の中で見ていた夢)を無惨に破った。

「主(ぬし)ある園(その)」自分を夫の屋敷内の奥の「園」(庭)に喩え、そこに植わっている「呉竹」(淡竹:既出既注)を引き出し、さらにその「竹」から「一よ」(一節(ひとよ))を引き出して「一夜」に掛けた。

「寢さゝれず」夜這いをしたのに伴寝をいっかな許してくれなかったと。

「許さば歸れ、とくとく」「このように非礼な振舞いを武士の妻に仕掛けたことは理不尽極まりないものの、許してやるから、さっさと帰れ! さあ! さっさと!」。但し、だったら正しくは「許せば」である。

「こちたく」如何にも大袈裟に。

「聞えければ」相手に申し上げたところ。謙譲語であるが、「こちたく」と上手く合わないので、「言ったところ」と訳してよかろう。

「馴れぬ中」普段から何の「仲」でもない無関係な者であったなら。

「いかで妻戸まで忍ばん」反語。「どうしてこのように奥向きの閨の妻戸(一般に部屋の端(つま)に設けた両開きの板戸)にまで忍び入ることが出来ようか、いや、出来ようはずがあるまいよ。」で、暗に自分が夫であることを示す台詞となっている。

「とかく云へば程も移り、餘所(よそ)にも人の咎(とが)めんに」「ともかくもまあ、こんなことを言っているうちに無駄に時間が経ってしまい、また、家内の下男らにもこの問答の声が聴こえてしまって、用心に起きてきた者に咎められてしまうに。」。

「いらなく、かこつ」(小さな声ではあるが)きっぱりと強く、恨み言を言って歎く。

「あやなくも」訳が分からぬながらも。夫は有意に離れた京に主君とともに長期に出張しているはずで、この時は未だ返ってくる時期ではなかったから、あり得ないこととして不審がってはいるのである。しかし、その不審を既に夫に変じた雄の妖狐は予測していたのである。そうして直前の台詞「餘所にも人の咎めんに」がまっこと、効果絶大なのである。オレオレ詐欺の撃退ではないが、ここで妻戸を開けずに、その不審をさらに糾弾し、彼女と夫しか知らない事実などを以って本当の夫かどうかを確認したとならば、この悲劇は避けられたかも知れぬのである。

「男鹿(をしか)の角(つの)の束(つか)の間(ま)も」「束の間」の頭音「つ」或いは女鹿を獲得するために「男鹿」が「角」を「突(つ)」き合わすの「つ」を引き出すための序詞的用法。

「ゆかしき」見たくて・逢いたくて・心惹かれて・慕われて・懐かしくて。

「露(つゆ)」副詞であるが、ここは「少し」「わずか」の意味ではなく、逆の「ひどく」「非常に長く、遠く」の謂いであろう。但し、それは正常な使い方ではない。

「傾(かたふ)き給へ」岩波文庫版の高田氏の注に、『傾き給え。身を許して下さい』とある。ほぼダイレクトにセックスしようと言っているのである。そう考えると、フロイト的には、前の「男鹿」が女鹿を獲得するために「角」を「突(つ)」き合わすのも性行為に至るための必須過程であり、角を「突く」という行動や、その角の形状や色自体がコイツスの或いはファルスのシンボルっぽくも見えてくるのである。

「たゞ舊(ふる)さるゝ身と思ひしに」ただもう、私は貴方から見飽きられ抱き飽きられた古女房の身と自分のことを思っておりましたが。

「難波(なには)の蘆(あし)の假初(かりそ)めに」迂遠な序詞。「かりそめ」の「初め」は「染め」を掛けて下の「色」と縁語となる。迂遠でめんどくさい台詞である。「かりそめに色を添ひて」(あなたへの慕わしい思い故にちょっとばかりぽっと心に色がさし)、「つゆ」(ちょっとした)日常(「起き臥し」)でも貴方のことを忘れないほど深く思いつめて(「淺からぬ」)といったニュアンスか。こういう修辞は説明してもちっとも面白くない。面白くないばかりでなく、台詞自体に込められてあるはずのしみじみとした心情が逆に軽くなってしまって、「お前さん、本当にそう思ってんのかい?!」とツッコミたくなる。私が和歌嫌いなのはそうした心情と表現の絶望的な乖離にある

「安積(あさか)の沼の花かつみ」「安積の沼」は歌枕。「花かつみ」は現在では正体不詳の花の名。藤原実方の故事に基づく。説明しても労多くして功少なき忌まわしい「且つ」を引き出す序詞であるからやめる。そうだな、よく判らない方は、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅21 早苗とる手もとや昔しのぶ摺』の私の注で説明してあるから参照されたい。

「添ふ袖の忘られで、振分髮もくらべ來し」荻田が大好きで今までも何度もかがさせられてきた「伊勢物語」の「筒井筒」のインスパイア。

「瀧津瀨(たきつせ)の」枕詞。岩波文庫版の高田氏の注に、『遠く過ぎて。「深き」にかかる』とある。「たぎつせ」とも。「つ」は「の」の意の上代の格助詞。「瀧のように水は激しく流れる早瀬」或いは「滝」が原義。

「不破の關屋の月ならで」「不破の關屋」といったらもう「新古今和歌集」の藤原良経の私の好きな荒涼たるリアリズムの一首、

 

 人住まぬ不破の關屋の板廂(いたびさし)荒れにしのちはただ秋の風

 

なのだが、「月」はないし、意味も通らぬ。これは実は阿仏尼の「十六夜日記」に載る、鎌倉に向かう彼女が実際に見た実景歌の一首を指す。

   *

不破の關屋の板廂は今も變はらざりけり。

 

 ひまおほき不破の關屋はこのほどの時雨も月もいかに漏(も)るらむ

 

   *

でその下の句の「漏る」から次の台詞に繋がるのである。

「洩らさで濟ませ」岩波文庫版の高田氏の注に、『人には洩らすな』とある。

「けしからず」普通でなく、不都合でもあること。主君に従って京に行っている者が一ヶ月に四度も勤務地を離れて深夜に戻ってくるというのはとんでもないことであることは言を俟たぬ。

「阿漕(あこぎ)が浦のならひ」岩波文庫版の高田氏の注に、『伊勢の禁漁地でたびたび密漁をして捕えられた漁師の伝説から、たび重なって広く知れ渡ること。「いせの海阿漕が浦ににひく綱もたびかさなれば顕はれにけり(謡曲『阿漕』)』とある。その漁師の名が「阿漕の平次(或いは平治)」であったともされるが、現在はその殺生禁断の禁漁域であった海辺が(三重県津市)「阿漕が浦」という名で残っている。また、彼が密漁した理由は病弱な母に薬餌として食べさせるためであったともされており、阿漕は阿漕な輩では実はない

「忍ぶ山のしのぶ草、ねなくはいかで色にい出でん」「忍ぶ山」はここでは「忍ぶ草」を引き出してその「ね」「根」に「寢」を掛けて、月に四度も「寝ずにやってきては関係を持ち、翌朝、そのまま職務に就くというのでは、これ、その疲れた顔色が朋輩や主君の目にとまって不審がられる」という謂いになっているのであるが、しかし、ここには話柄の主調への隠された伏線がある。「忍ぶ山」は「信夫山」で現在の福島県福島市の中心市街地北部にある山で草による染色法「しのぶ摺」で知られる。これはやはり私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅21 早苗とる手もとや昔しのぶ摺』の私の注を参照されたいが、実はこの「信夫山」は御坊狐といわれる人を化かすのが得意な狐が棲んでいるところとして有名なのである。他にもこの近辺には長次郎狐・鴨左衛門狐がおり、この三匹を合わせて「信夫の三狐」と呼ぶぐらいに知られた妖狐の産地なのである。

「思ひきる」原典は「きる」であるが、岩波文庫版では『霧(き)る』となっている。これは次の「網代木」の原拠を匂わすためである。秘かに私(妻)に逢いに来るのを断念して呉れたなら。

「瀨(せ)の網代木(あじろぎ)」中納言定頼の「千載和歌集」の「卷第六 冬歌」(四一九番歌)で「小倉百人一首」の六十四番にも載る。

 

   宇治にまかりて侍りけるときよめる

 朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらはれわたる瀨々(せぜ)の網代木

 

を元にしている。「現はれ亙る」の意で、ここはそれを「皆に知れ渡る」の意で掛けているのである。

「思ひきるにこそ、中々、恨みは解(と)けてまし」(私に逢いたい一念のそのお気持ちは心底嬉しいものの)ここはその思いを断ち切ることこそが、実に実に、より恐ろしい災厄を貴方が被るかも知れぬという心配・心痛・懼れ(「恨み」)を無くして呉れることで御座いますのに。

「面(おも)なく」武士として何とも恥ずかしく面目なく。

「重ねても此事を我に向ひて云ひ給ふな」さればこそ(男としてめめしく面映ゆく面目ないことであるからこそ)二度とこのこと(秘かに四度里へ戻って妻を抱いては京へ帰った総ての事実とそこで二人で応答した以上の内容総て)を私に向かって言わないおくれ。

「珍しきさゝめごとのみ、四度(よたび)の契(ちぎ)りは云はで過(すぎ)けり」底本も岩波文庫版も、「珍しきさゝめごとのみ。」と句点を打つのだが、それでは、意味が採れないので、読点とした。岩波文庫版で高田氏は「さゝめごと」の箇所に注して『二人だけの内緒の会話』とある。されば、ここは私は「珍しきさゝめごと、四度(よたび)の契(ちぎ)りのみは云はで過(すぎ)けり」の謂いではないかと思うのである。「珍しきさゝめごと」は特に最後に諫めた妻の詞を指すものであろう。その言葉が再現されるのを実の夫が一度聴くだけで、ぐだぐだ説明するまでもなく、四度も狐が夫に化けてやってきたことが知れてしまうからである。しかし、これはある意味、狐の女への思いやりであったともとれる。当時なら、こういう事実を知ったら、有無を言わせず、妻を斬り捨ててしまう夫がゴマンといたであろうと推察されるからである

「介錯(かいしやく)する者」助産婦。産婆。

「子は逸(そ)れたり」「逸(そ)る」は「予想とは別の方向へ進む」で、この場合は「流産した」の忌み言葉であろう。

「披露す」彼女にだけでなく、その場の皆に公に表明する。

「今、思ひいづみの信田(しのだ)の契(ちぎり)」「今、思ひいづみの」は「出づ」に「和泉」を掛けて「信田」を引き出した。「信田(しのだ)の契(ちぎり)」は狐と人との異類婚姻伝承として「恨み葛(くず)の葉」「信太(信田)妻(しのだづま)」などの呼称で知られる伝承。「葛の葉」は狐の化けた女の名で、後代の人形浄瑠璃及び歌舞伎の「蘆屋道滿大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」、通称「葛の葉」で知られる。稲荷大明神(宇迦之御魂(うかのみたま))第一の神使とされ、かの最強のゴースト・バスター安倍晴明の母ともされる。ウィキの「葛の葉によれば、『伝説の内容は伝承によって多少異なる』ものの、概ね、以下の通り。『村上天皇の時代、河内国のひと石川悪右衛門は妻の病気をなおすため、兄の蘆屋道満の占いによって、和泉国和泉郡の信太の森(現在の大阪府和泉市)に行き、野狐の生き肝を得ようとする。摂津国東生郡の安倍野(現在の大阪府大阪市阿倍野区)に住んでいた安倍保名(伝説上の人物とされる)が信太の森を訪れた際、狩人に追われていた白狐を助けてやるが、その際に』怪我『をしてしまう。そこに葛の葉という女性がやってきて、保名を介抱して家まで送りとどける。葛の葉が保名を見舞っているうち、いつしか二人は恋仲となり、結婚して童子丸という子供をもうける(保名の父郡司は悪右衛門と争って討たれたが、保名は悪右衛門を討った)。童子丸が』五『歳のとき、葛の葉の正体が保名に助けられた白狐であることが知れてしまう。全ては稲荷大明神(宇迦之御魂神)の仰せである事を告白』、

 

 戀しくば尋ね來て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉

 

という『一首を残して、葛の葉は信太の森へと帰ってゆく』。この童子丸が、後に陰陽師として知られることとなる安倍晴明であるとする伝承である。『保名は書き置きから、恩返しのために葛の葉が人間世界に来たことを知り、童子丸とともに信太の森に行き、姿をあらわした葛の葉から水晶の玉と黄金の箱を受け取り別れる。なおこの水晶の玉と黄金の箱は、稲荷大明神(宇迦之御魂神)から葛の葉が童子丸に授ける様に仰せを受けて預かっていた。数年後、童子丸は晴明と改名し、天文道を修め、母親の遺宝の力で天皇の病気を治し、陰陽頭に任ぜられる。しかし、蘆屋道満に讒奏され、占いの力くらべをすることになり、結局これを負かして、道満に殺された父の保名を生き返らせ、朝廷に訴えたので、道満は首をはねられ、晴明は天文博士となった』。『この伝説については「被差別部落出身の娘と一般民との結婚悲劇を狐に仮託したもの」とする解釈も』ある。私はこの最後の解釈に強い共感を持つ。

「品(しな)はとりどりなれど」話柄の展開や設定は多様にして多彩であるが。

「口惜しさは」解消し難い「恨み」という口惜しさに於いては。

『「名山(めいさんき)記」に……』「名山記」は晋から北魏の時代にかけて成立した書物らしいが、詳細は不詳。以下は「搜神記」の「第十八卷」の中の一篇の末に出る、

   *

名山記曰、「狐者、先古之淫婦也。其名曰阿紫。化而爲狐。」。故其怪多自稱阿紫。(「名山記」に曰く、「狐は、先古の淫婦なり。其の名を阿紫(あし)と曰ひ、化して狐と爲る。」と。故に其の怪、多く、「阿紫」を自稱す。)

   *

に基づくもの。

「字書」特定不能。識者の御教授を乞う。

「其姓(じやう)」「其性」で「その性質」の意であろう。]

宿直草卷四 第十四 魔法を覺えし山伏の事

 

  第十四 魔法を覺えし山伏の事

 

 その上(かみ)、因幡伯耆(いなばはうき)の大守何某(なにがし)の人の家人(けにん)、伯州に住む人の内にて、常に使ひ給ふ茶碗、見えず。

 近習(きんしゆ)の内に、

「これしきのもの誰(たれ)か盜まん。また外(ほか)の者、此間(このま)へ入らず。不審なる事よ。」

と云ふに、茶入(ちやいれ)も見えず、水差し、釜なども無(な)ふなる。筆架(ひつか)硯屛(けんびよう)文沈(ぶんちん)樣(やう)の物も失(う)する。

「不思議なる事よ。」

とて、ひたと詮索するに、盜人(ぬすびと)、さらに知れず。祿は萬をもつて數へつる人なれば、内外(うちと)嚴(きび)しく番をするに、家内(かない)の調度(てうど)、大方(おほかた)無くなる。日に三色(いろ)、四色、あるは十、二十づゝ失(う)する。

 上下、皆、呆れ果ててありしに、ある日、また、臟部屋(ざうべや)にある臼(つきうす)、地(ち)より一尺ばかり上を水の流るゝやうに、行く。中間二、三人、居(お)り合ひて、引き止(とゞ)むれども、え取りも止(とゞ)めずして失せたり。後(のち)には、かやうに目に見えて失せ、大方(おほかた)、殘り少なくなる。よからぬ怪異(けい)なりけり。

 かゝる所へ、出入する人、

「調度の失せしは、そこに住む山伏、慥(たしか)に知り申べく候。」

と。

 かねて思ひ據(よ)りや有(あり)つらん、内證(ないせう)、かくと告(つぐ)る。

「やれ、召せ。」

とて、山伏、參る。

「しかじかなり。汝、よく知りてん。」

と云ふ。

「ありやうに申せ。少(すこし)も僞(いつは)らば曲事(くせごと)なるべし。」

と聞えしかば、山伏、赤面して、

「其所(そこ)にさふらはん。」

と云ふ。

 やがて、人、遣りて見するに、屋敷より十四、五町隔てて、森の内、深き谷あり。失せし道具、一つも損せず、有(あり)けり。

「さて如何なれば、またかくはせしぞ。」

とあれば、

「されば、御道具、盜むべきにてはなし。御祈禱を仰(おほせ)つけられ候やうにと存じ、かく致し候。」

と云ふ。

「さて。また何として盜み出だせしぞ。」

とあれば、

「それがし、狐を使ひ申候へば、何やうの事も調(とゝの)ひ申(まうす)。」

と語る。

「さては恐ろしき工(たくみ)かな。且(かつ)うは憎き振舞ひなり。成敗(せいばい)に命とるべきなれど、僧形(さうぎやう)なれば、許す。殿の領地、兩國には叶ふべからず。」

とて、拂ひ給へり。

 思ふに此山伏、飯綱(いづな)とやらん鄙法(ひはう)を覺えて、白狐(びやくこ)を使ひしと見えたり。竺(ぢく)の幻術、倭(わ)の魔法、皆、言般(これつら)を得たり。一時(いちじ)の妙に化(ばか)かされて一心を亂すべからず。

 この念をやらんとては、正法(しやうほう)に寄特(きどく)なしとて有所得(うしよとく)の心を捨てしめ、眞諦(しんたい)の實理(じつり)を勸(すゝ)め、究竟(くきやう)、涅槃の悟りに導き、或るは千差萬別(せんしやまんべつ)の機に隨(したがつ)ては、大千森羅(たいせんしんら)の諸法を説き、自在神通(じざいじんつう)の奇瑞を現(あらは)すは、また假諦(けたい)門の契事(かいじ)なり。有用成事(うようじやうじ)とても無體則空(むたいそくくう)の理(り)を離れず。無一物(むいちもつ)の所より、無盡藏の益(やく)多きは、獨り、我(わが)佛法か。

 

[やぶちゃん注:「因幡伯耆(いなばはうき)の大守何某(なにがし)」旧因幡国及び伯耆国は江戸時代を通じて鳥取藩で終始、池田氏が治めた。

「家人(けにん)」「伯州に住む人」「祿は萬をもつて數へつる人」となると、これはもう、鳥取藩の家老クラスとしか考えられない。ウィキの「鳥取藩」を見る限りでは、家老荒尾但馬家(伯耆米子領一万五千石・藩主外戚・米子城代)及び家老荒尾志摩家伯耆倉吉領一万二千石・藩主外戚)の二家辺りがモデルか。

「三色(いろ)、四色」この場合の「色」は助数詞的用法で「品」「種」の意。

「臟部屋(ざうべや)」各種の品を収蔵する部屋の意か。母屋から完全に独立していたら、「藏」と呼ぶはずであるから、母屋の中か、それに付属した形で存在する部屋と思われる。但し、近世のそうした部屋は圧倒的に「納戸(なんど)」と呼ばれることが多く、私はこの「臟部屋」という表記は見たことがない。「日本国語大辞典」では同じ発音で「雑部屋」というのが見出しとして出、これはいろいろなものを入れておく「物置き部屋」の意であり、ここはただの搗き臼であるから腑に落ちる。

「臼(つきうす)、地(ち)より一尺ばかり上を水の流るゝやうに、行く。中間二、三人、居(お)り合ひて、引き止(とゞ)むれども、え取りも止(とゞ)めずして失せたり」怪奇現象が明確に事実として示される(ただ見えている場合は錯覚の範囲内であるが、複数の中間がそれを制止させようとしたところで怪異が現実を決定的に侵犯するのである)キモの部分で、描写が上手い。

「そこに住む」近くに住む。

「思ひ據(よ)り」思い当たるところ。心当たり。

「内證(ないせう)」家内に広く公表することはせずに、側近の者がごく内密に直接、主人に伝えたことを指す。ここは現象が怪奇なものであるからではなく、その真犯人が家内の者もよく知っている近くに住む修験者であるということを聴けば、それを真に受けた血気にはやった者が彼に乱暴を働いたりして、ところが、いざ、後になってそれは誤認だったなどということになれば、それこそ主家の面目に関わるからである。

かくと告(つぐ)る。

「曲事(くせごと)なるべし」ここは「法に背いた処罰すべきゆゆしき大犯(だいぼん)である」の意。

「其所(そこ)にさふらはん」消失した物品の具体的な在り処(か)(森の中の深い谷)を言ったのである。

「十四、五町」一キロ半強から一キロ六百三十六メートル。

「御祈禱を仰(おほせ)つけられ候やうにと存じ、かく致し候」やや判りにくいが、「そうした訳の分からない怪奇現象を起こせば、近くに住む修験者である私(話者である山伏自身のこと)に祈禱を依頼して呉れるに違いない(そうすれば、有意な礼金を得られる)と思いまして、このようなことをしでかしてしまいまして御座る」と言った意味であろう。

「殿の領地、兩國には叶ふべからず」「構(かまえ)」「払い」などと呼ばれた追放刑。この場合は軽追放(けいついほう)相当であるが、公的な藩の処罰ではなく、この主人の命じた一種の私刑であるから、鳥取藩だけを禁足地とするものである。幕府が公式に認めていた本来の「軽追放」は、犯罪者の居住国及び当該犯罪行為を行使した或いはしようとした国の他に、江戸十里四方と京都及び大坂、さらに東海道の道筋と日光街道への立ち入りが禁じられた(但し、後には犯罪者が百姓・町人の場合には居住国・犯罪国・江戸十里四方のみに限られた)。なお、所有する田畑や家屋敷なども当然の如く没収されたから、この場合も山伏のそれはこの主人がそうしたものと考えてよい。

「飯綱(いづな)」管狐(くだぎつね。或いは「イヅナ」「エヅナ」とも呼んだ。狐とは全く別の幻獣とされるケースと妖狐と同類とするケースがあり、ここは直後に「白狐」とあるので後者である)と呼ばれる霊的小動物を使役して、託宣・占い・呪(のろ)いなどのさまざまな法術を操った民間の呪術者である「飯綱使い」の法術。飯綱使いの多くは修験系の男であった。「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 始めて聞く飯綱の法」の注を参照されたい。

「鄙法(ひはう)」公的な仏教や神道や陰陽道からは外れた(但し、それらの影響を大きく受けた)民間に伝わる怪しげな法術・呪法の意であろう。

「竺(ぢく)の幻術」「竺」はインドの古名であるから、ここは仏教系の外道の呪法。

「倭(わ)の魔法」本邦土着の民間信仰やその後の神道系の外道の呪法。

「言般(これつら)」「これづれ」と同じ。名詞で「これくらいのもの・この程度の対象物」の意。「こうした忌まわしい怪しげな呪法の仕方」の意であろう。

を得たり。一時(いちじ)の妙に化(ばか)かされて一心を亂すべからず。

「この念をやらんとては」こうした邪念(に基づく観念や信心信仰)を捨て去るには。

「寄特(きどく)なし」「寄特」は原典のママ。「奇特」でここは、「摩訶不思議な対象や現象などというものは実は存在しない」という超常現象は見かけだけで真の不可思議な現象などというものは絶対にないという意であろう。

「有所得(うしよとく)」仏語。見かけ上の恣意的な理解や知覚を得たとすること。或いは、こだわりの心を持つこと。

「眞諦(しんたい)」仏語。絶対不変の真理。究極の真実。

「千差萬別(せんしやまんべつ)の機に隨(したがつ)ては、大千森羅(たいせんしんら)の諸法を説き」よく判らぬが、相対世界に於ける「千差萬別」(個々の差別性や区別性)をまず認識「機」(認知能力)した上で、そうした見かけ上の差は実は全く意味がないのだという「機」へと進み、あらゆる総て(「大千」)の天地の間に存在する諸対象(「森羅」)の絶対の法則のあることを説法し。

「假諦(けたい)門」総ての存在は縁によって仮りに生じて現前して見えるだけで実体はなく実在はしないという真理。天台宗で唱えられる「三諦」説の一つ。空諦(くうたい)・仮諦・中諦。「諦」とは梵語の漢訳語で「真理」の意。「空諦」とはあらゆる物事にはおよそ実体というようなものはないという基本真理を意味し、「仮諦」はその「空諦」真理に基づいて存在が現象的な見かけ上のものに過ぎないという真理を説き、中諦はそれらを受けながら、さらに全存在は「空諦」や「仮諦」によって一面的に認識されるべきものではなく、結局、仏法の「真理」は言葉では言い表わせないということを意味する。

「契事(かいじ)」「決まりごと」の意であろう。「仮諦」認識に立てば幻術・呪術などという見かけ上の奇を衒ったそれらはことごとく「仮諦」としての「お決まりごと」に過ぎぬ下らぬ、とるに足らぬ見かけ上の変異(荘子の謂う「物化」)に過ぎぬと言っていると私は読む。

「有用成事(うようじやうじ)とても無體則空(むたいそくくう)の理(り)を離れず」唐代の高僧法蔵(六四三年~七一二年)「大乗起信論」を解釈した「大乗起信論義記」に説かれる華厳教学の重要な一つ。不生不滅の「真如(しんにょ)」には「不変」と「随縁」の二義が、「真如」に対する「無明(むみょう)」(梵語の漢訳で原義は「愚痴・無智」の意。迷い・真理に暗い状態・真の智慧に照らされていない様態を言う)にはこの「無體卽空」と「有用成事」の二義があるとする。栃木県那須郡那珂川町の浄土宗慈願寺住職池田行信氏のブログのこちらに載る、荻田安静と同時時代人の浄土真宗の僧西吟(さいぎん 慶長一〇(一六〇五)年~寛文三(一六六三)年)の「正信偈要解」の一節には次のような記載がある。『無明闇とは無智不覚にして而して一切善悪の事において分明ならざること、猶、暗夜のごとし。故に無明闇と云ふ。起信の疏に、無明を解するに二つ。一に無体即空の義。謂く、無明の惑、皆、衆生の妄心に依って真如に違して、而して妄境を起こす。元と空、本と有ならずが故に、無体即空の義と云ふ二には有用成事の義。謂く、無明自体無しと雖も而して能く世間・出世間の一切の事業を成弁す。故に有用成事の義と云ふ』(下線[やぶちゃん)。この下線部の解をを順序を逆にして読むと、この荻田の謂いは腑に落ちる。私は二十代の頃に「大乗起信論」を論じたある論文を読んだが、一ページを理解するのに一日かかったこともあり、結局、読み終わるのに一ヶ月もかかった。]

2017/07/22

宿直草卷四 第十三 博奕打(ばくちうち)、女房に恐れし事

 

  第十三 博奕打(ばくちうち)、女房に恐れし事

 

[やぶちゃん注:最初に断わっておくと、この「女房」は単なる既婚の婦人のことで、「博奕打」ちの女房ではない。博奕打ちとこの女房は見ず知らずの関係である。そうして読まないと長く不審のままに読むことになるので、かく注することとした。]

 

Bakutuitunyoubou

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。]

 

 緣は異(い)なものなれや、命の關(せき)まで思ふあり、長く添ふても呉竹のよに、節々(ふしぶし)の中となり、飽かれて退き、捨てゝ別るゝ有(あり)、情(なさけ)の山の奧深み、戀の淵の底知れぬも、望みの花の枯れず凋(しぼ)まぬからなるべし。去(い)にし代に焦(こが)れて竹を染め、歎きて石となりしも、外(ほか)に男のあらぬにはなけれど、思ふど程に思はねばなるべし。

 ある女房、武藏野のゆかりの草(くさ)もつらく、また男憎(おとこにく)みして露(つゆ)受く袖に、むば玉の夜に紛(まぎ)れて出けるが、行くべきかたに人音(ひとをと)しければ、

「露に濡れてふ玉鉾(たまぼこ)の、道ゆく人にやあらん、待(まち)つゝも通さばや。」

と思ひ、片方(かたへ)に墓堂(はかだう)の有(あり)ければ、暫くも隱るゝに、此者どもも、その墓へ來たる。

 はや逃ぐべき樣(やう)なかりければ、梁(うつはり)を傳ひ、天井へ上がるに、いとゞ荒(あば)らにして、身一つ隱(かく)るべきも猶いぶせきに、十文字に渡せる虹梁(こうりやう)に上がり、身を潛(ひそ)めてありしに、例(れい)の人と見えて、若き男(をのこ)、四、五人連れて來たり、火を打ち、行燈(あんどう)の影に莚(むしろ)敷き、はや、ひたと、博奕を打つ。

 女見て、

「扨も、うたてや、籠の鳥、鼎(かなへ)の魚(うを)の出でなん方(かた)もなし。すぐに行かば、かくばかりの氣遣いはあらじ、また見つけられなば、如何(いか)ばかりの心にまかせぬ事かあらん。」

とやかくと思ひ煩(わづら)ふうちにも、やゝ時移るに、其中に、一人負けて、はうはうの有樣なり。

「錢(ぜに)貸せ、金(かね)貸せ。」

云へど、皆、鼻哥(はなうた)にて、あひしらはざれば、手を叩(たゝ)き、膝を振(ふ)るふて、車座を立ち退(の)き、欠伸(あくび)し、伸(の)びし、仰(あふの)いて空(そら)を見れば、妖(あや)しの女ありて、鉄漿(かね)黑く、紅(べに)赤く、髮は亂(みだ)けて下に傾(なだ)れ、裾は下がりて風翻(ひるがへ)り、夜目遠目、仄(ほの)かにして、燈火(ともし)の火影(ほかげ)に化生(けしやう)のものと見えたり。

 側(そば)なる者に、

「あれは何ぞ。」

と指(ゆび)さしすれば、これも心得ず顏(がほ)に見る。

 一人二人、五人の者、目と目を見合はせ、暫し、物も云はず、堪(こら)へ兼ねたる風情なりしが、一人、つい、立ちければ、殘る者、捨られたる心地して、我先(われさき)にと逃(にげ)行きて、後(あと)見返らずなりければ、女房は錢金(ぜにかね)拾ひ、親里(おやさと)へ歸りしなり。

 初めは我(われ)脅(おど)されて、後に繕(つくろ)はずも、人を脅(おど)す。拔かぬ太刀(たち)の高名(かうみやう)か。山田守(やまだもる)庵(いほり)眞近くなく鹿(しか)に驚ろかされて驚かすかな。

 

[やぶちゃん注:前話「第十二 山伏、忍び者を威す事」の山伏を女性に換えただけで構成はそっくり同じの、やはり疑似怪談。新味はないものの、博奕打ちの一人がただ一人大負けをし、天井を見上げて以降の描写が、前の話より遙かに映像的で面白い。前の話は出歯亀的いやらしさが横溢してちょっと生理的にいやな感じがあったが、こちらはそうした不快感がなく、博奕打ちらが鬼女と勘違いして蜘蛛の子を散らすように逃げ去る辺り、実に好ましい

「命の關(せき)まで思ふあり」偕老同穴相思相愛。

「呉竹のよ」「よ」は「節(よ)」で本来は竹の節(ふし)と節との間を指すが、後に転じて、その節(ふし)自体を指すようになった。ここは節目、特にすっきりとしない躓きの時節で「節々(ふしぶし)の中」(ぎくしゃくとした仲)となってしまって、と続く。さすればこの「くれたけのよ」(「呉竹」は淡竹(はちく:単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科マダケ属クロチク変種ハチク Phyllostachys nigra var. henonis)の異名で中国の呉から渡来したとされることに由来。古来、宮中の清涼殿東庭の北寄りにある「呉竹の台」に植えられてあったもので知られる竹)はまずは「節」を引き出すためでありつつも、実は「暮れ」てしまった今の褻(け:穢れた状態を指す語)の「世(よ)」を掛けているのではないかと私は読む。荻田の過剰な修辞技巧の痙攣的濫用を体験してくると、自然、神経症的にそう分析したくもなってきてしまうのである。

「焦(こが)れて竹を染め」曹雪芹の「紅楼夢」の中に『将来この人は自分の夫を思いこがれて、あの竹もきっと斑竹』(はんちく)『になってしまうでしょう』(富士正晴・武部利男訳)とある。

「歎きて石となりし」望夫石(ぼうふせき)のこと。中国では湖北省武昌の北の山の上にある岩を指し、昔、貞女が戦争に出かける夫をこの山上で見送り、悲しみのあまり、そのままそこで岩となってしまったとする伝承がある。本邦でも同様の伝承は各地に散在し、その中でも肥前国松浦(現在の佐賀県唐津市)に伝わる松浦佐用姫(まつらさよひめ)の話は有名。彼女は百済救援のための兵を率いて松浦潟に停泊した大伴狭手彦(おおとものさでひこ)と契りを結び、出船する夫を鏡山の上から夫の船に向かって領巾(ひれ:肩から腕にかける長い細布で出来た女性の装身具)を振って別れを惜しんだが、悲しみのあまり、狭手彦の形見の鏡を抱いて川に沈んだとも、夫の船を追って、やっとの思いで辿り着いた加部(かべ)島で、泣き伏したままに石となったとも伝えられる。佐用姫の化した「望夫石」は、後に加部島の田島神社境内に遷され、現在も末社佐用姫神社として祀られている。

「外(ほか)に男のあらぬにはなけれど、思ふど程に思はねばなるべし」どうもこういうちゃちゃの入れ方は気に入らない。やっぱり、荻田安静にはかなり強い女性嫌悪感情が見てとれると言ってよい。君が好き勝手に書くように、私はその勝手な記述から勝手に君を精神分析させて貰う。悪しからず、荻田君。

「武藏野のゆかりの草(くさ)もつらく」これは「拾遺和歌集」の「卷第七 物名」にある知覚法師の一首(第三六〇番歌)、

 

  さくなむさ

 紫の色には咲くな武藏野の草のゆかりと人もこそ見れ

 

に基づく。巻名の「物名(もののな)」とは事物を和歌の中二隠し詠む遊戯を言う。詞書「さくなむさ」は石楠花(しゃくなげ)のことで、恐らくはシャクナゲ(ツツジ目ツツジ科ツツジ属シャクナゲ亜属 Hymenanthes。多くの種の花は淡い紅色であるが、紅紫色を呈するものもある)を詠んだものと思われ、まさに二句目三句目に「いろにはさくなむさしのの」の語が詠み込まれてある。なお「さくなむさ」は「石南草(さくなんさう)」の略と言われる)一首は「紫色に咲いてはいけないよ……武蔵野の草、紫と縁(ゆかり)のある草なのだろうと言って、人が間違えて見るかも知れぬから……」であるが、この「武藏野の草のゆかり」というのは「古今和歌集」に「題知らず」「讀人知らず」で載る一首(第八六七番歌)、

紫の一本(ひともと)ゆゑに武藏野の草は皆がらあはれとぞ見る

を踏まえたものである。ここは、ただ「ゆかり」(縁)を引き出し、それが「つらい」、即ち、結婚した夫との「縁に恵まれなかった」と言いたいためだけに使われたものであって、武蔵野を舞台にしているわけでもなんでもないので老婆心ながら、注意されたい。

「男憎(おとこにく)み」岩波文庫版の高田氏の注に、『夫憎み。夫に愛想をつかして』とある。

「露(つゆ)受く袖に」遁走する夜の夜「露」を受けた「袖」であるが、「露」は辛さ故に流した「涙」をも比喩する。

「むば玉の」「夜」の枕詞。古くは「ぬばたまの」で「射干玉の」などと漢字表記した。「ぬばたま」はヒオウギ(単子葉植物キジカクシ目アヤメ科アヤメ属ヒオウギ Iris domestica)の種子で、それが黒いことから「黒」「夕」「宵」「髪」などの枕詞となった。

に紛(まぎ)れて出けるが、行くべきかたに人音(ひとをと)しければ、

「露に濡れてふ玉鉾(たまぼこ)の」岩波文庫版の高田氏の注に、『出典不詳。「道行」の序詞の役わりをはたす語』とある。

「虹梁(こうりやう)」建物の主柱に架け渡す梁材で虹形に上方に反り返った形状のものを指す。主に社寺建築に於いて下から見える部分に使う。挿絵では絵師の視点位置が悪く、その独特の形状が屋根と女房によって隠れてしまっている。

「例(れい)の人」先ほど、行く手でした人音の主。

「氣遣い」「い」は原典のママ。

「あひしらはざれば」「あへしらふ」は「応対する」の意。「あしらふ」の古い形で、現代語の(適当に)「あしらう」の元である。この場合はそれが打ち消されているのでまさに現代語のニュアンスの「適当にあしらうばかりで、全く相手にしなかったので」の謂いとなる。

「手を叩(たゝ)き、膝を振(ふ)るふて」何だか、無視された大負け男にこの多動的な感じ、実にまっことリアルではないか。

「車座を立ち退(の)き、欠伸(あくび)し、伸(の)びし、仰(あふの)いて空(そら)を見れば」この動きも、無視されて屋台の中央から少し壁際に退くのは極めて自然でリアル、そこで手持無沙汰から欠伸をして、背伸びをすると自然と体は上へ仰向くわけで、梁上に潜む女房の姿が視界に入るまでの男の挙止動作のカメラ・ワークが実に上手いのである

「鉄漿(かね)」お歯黒。

「髮は亂(みだ)けて下に傾(なだ)れ、裾は下がりて風翻(ひるがへ)り」すこぶる動画的で上手い。以下の他の男たちが順々に頭上の女房を見るモンタージュも素敵!

「親里(おやさと)」自分の実家。

「繕(つくろ)はずも」岩波文庫版の高田氏の注には、『わざとではなしに』とあり、結果的には肯んずるものではあるが、「つくろふ」という古語の意味や用法としては一般的なものではない。

「拔かぬ太刀(たち)の高名(かうみやう)」諺。実際に優れた手腕を示したわけではないのだが、結果としてそのような格別の仕儀を現出させること。但し、「高名」は「賞讃を浴びること・重んじられること」であるから少しこの諺の意義からはずれる。また、この諺は別に、口では有能であるかのようなことを盛んに吹聴するものの、実際には、その手腕を示したことがない人物を嘲って言う言葉でもあり(「太刀を抜いてしまったら実力が知れてしまうぞ! 抜かぬうちが花よ!」)という意味合いで使用されるから、ここに附すに相応しいとは必ずしも言えぬ。

「山田守(やまだもる)庵(いほり)眞近く鳴く鹿(しか)に驚ろかされて驚かすかな」かなりの和歌を調べて見たが、これにぴったりくる和歌は見当たらなかった。しばしばお世話になる「日文研」の「和歌データベース」を検索してみた結果からは、「金葉和歌集」の初度本の「卷三 秋」には「山田守る」「庵」「鹿」の三語が共通する、

 

 山田守る賤(しづ)の庵(いほり)の邊りには鹿よりほかに來る人もなし

 

があった(この一首、私の持つ同家集には所収していない)ぐらいで、ネット検索では古浄瑠璃の一節に、

 

 いとゞさびしき山田もるいほりの内にしかぞなく

 

というのがある(安田富貴子「古浄瑠璃 太夫の受領とその時代」の資料翻刻より)程度である。これは荻田の創作歌か。識者の御教授を乞う。]

宿直草卷四 第十二 山伏、忍び者を威す事

 

  第十二 山伏、忍び者を威(おど)す事

 

Yamabusiodosi

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。]

 

 山伏有(あり)て諸國巡る。

 ある日、里遠き所にて、日暮れたり。殊更、鬼一口(おにひとくち)の闇の夜に、あやなく迷ひ行くに、一の堂ありて住持なし。賴(たのむ)木(こ)の下(もと)雨たまらず、四面荒れて物さびたり。甍(いらか)破(やぶ)れて、霧、ふだんの香(かう)を燒(やき)、扉(とぼそ)落ちて、月、常住の燈(ともしび)を掲(かゝ)ぐ。江上(こうしやう)の小堂(せうだう)、※翠(ひすい)巣くひ、薗邊(ゑんへん)の高塚(かうてう)麒鱗(きりん)臥(ふ)すと眺(なが)むるに、かゝる所へ夜も更けなんに、火、一つ、見えたり。此火、さしにさして、來る。[やぶちゃん字注:「※」=(上)「羽」+(下)「比」。]

「こは好(す)かぬ事や。」

と柱を傳ひ、天井へ上がるに、見目(みめ)よき女房、行燈(あんどう)提(さ)げて來る。

 いよいよ恐ろしく思ひしに、此女房、堂の隅、淸(きよ)らかに掃き、聊(いさゝ)か携へし蒲團を、いと寢(ね)良げに敷きけり。又、疊紙(たゝふがみ)より小櫛(をぐし)とり出し、粧(よそほ)ひかいつくろふ體(てい)、もの待つ風情(ふぜい)にも見えたり。かゝる所へ、兩腰(れうこし)差したる男(おとこ)の、事柄(ことがら)由々しきが、會尺(ゑしやく)もなく入(いり)ければ、女、うち悦びて、

「如何(いか)なれば遲くはまします。思はねばこそ。」

など、かこち顏なるに、男も、

「宮仕(みやづか)へてふ身は、淀(よど)に繫(つな)ぐ鯉にはなけれど、身をも心にまかすべきかは。待つも待たるゝも、包むに餘る花の香(か)の、漏(も)るゝを忍ぶ憂き袖は、思ひ亂るゝ煙(けふり)くらべに、など變りあらんや。さまで恨み給ふそ。」

など斷はるも、流石(さすが)に馴れし中(なか)と見えたり。

 山伏見て、

「さては。こゝを出合處(であいどころ)に定め、稀(まれ)に逢ふ忍び者なめれ。我、威(をど)せで許すべし。」

と、心して侍るに、如何でかくとは知るべきなれば、二人(ふたり)の袖も打合(うちあは)せ、いろなる心やみ立ちまさり、をのがきぬぎぬ置き重ね、恨みも髮(かみ)も解(と)け解(ほど)け、海士(あま)も釣(つり)する枕のなみ、うち並びつゝ有(あり)ければ、堪(こら)へすませる山伏も、何時(いつ)しか疎(うと)み果(は)てたり。げに、拔かれたる心地こそせめ。

「いつまでかは殿居(とのゐ)せん。」

と、認(したふ)て持ちし柿紙包(かきかみつゝみ)を、かのしきたへの枕の上へ、天井より、どう、と落とす。

 もとよりも思ひ寄りなかりければ、二人ともに肝(きも)魂(たましゐ)もあらばこそ、慌てふためき、裸になりて逃(にげ)さりけり。猶も、

「鬼(おに)と聞けや。」

と、いろいろの聲をして、天井の板、踏み鳴らし、謀(はか)りつゝも威(おど)しけるにぞ、後(あと)見返へらず、逃げ侍る。

 さて、山伏は殘せし道具ども取り、

「斯樣(かやう)の良き宿、又もあらじ。」

と立出(たちいで)しとなり。

 

 昔、梁(りやう)の代(みよ)のたはれ男(お)、塔(たう)の第二層(そ)に交はりて、其報ひ、雷(いかづち)に打たれて死せり。この戀衣(こひころも)のあかづきて、山伏にあらはれしも、其類(たぐ)ひか。貴(たふと)き精舍(しやうじや)をよるべとせし、あさましくも侍る。但し、昔も后宮(こうきう)たる袖、西の御堂(みだう)を隱れ家(が)にして、假寢(かりね)の床に新枕(にゐまくら)せしも、その報ひなくても過(すぎ)ぬ。

「たゞ山伏よ、情なし、妹背(いもせ)の中のならひ、鬼も淚を捩(ね)ぢ切り、荒き夷(ゑびす)も情(なさけ)に弱り、燃ゆる螢も鳴く鹿も、聖(せい)も賢(けん)も押し並べて、笙(しやう)の岩屋(いはや)の聖(ひじり)の外(ほか)、ちはやふる神代(かみよ)よりも始まり、御裳裾(みもすそ)川の流れ久しく、曉季(ぎようき)の今(いま)に人種(たね)あるも、情けの道の育(そだ)たればなり。いかに見のがしもせで、やぶさかりしぞや。人やりならず、あさまし。」

と云へば、一人の曰く、

「また、山伏になりても見給へ。」

と云ふ。

 げに、此(この)評判、難しくこそ。

 

[やぶちゃん注:疑似怪談で前と連関する。なお、最後の附言部分は直接話法の混在などでごちゃごちゃしていることから、読み易さを考慮して恣意的に一行空けして改行をかなり施してかく示した。

「鬼一口の闇の夜」平安初期の「日本霊異記」の「中卷」の「女人(によにん)、惡鬼に點(し)められて、食噉(は)まるる緣第三十三」(美しい処女の娘を一人の男がものにするが、男は実は鬼で、その初夜の契りの夜、頭と指一本を残して喰らわれてしまう話)があるが、この「鬼一口」という言い方は、言わずもがな、その後に書かれた「伊勢物語」の知られた第六段「芥川の段」のそれで、ある男が女と駆け落ちをし、夜更けて激しい雷雨に見舞われ、女をあばら屋の蔵に匿ったものの、その夜のうちにその女を「鬼、はや一口(ひとくち)に食(く)ひてけり」という部分に由来する。ここは単に闇夜の怖さを形容するために用いただけである。

「あやなく」暗くて視界がはっきりせず、物の判別がつかないために。

「賴(たのむ)木(こ)の下(もと)雨たまらず」堂の上に茂った樹木のお蔭で、堂の中は(すっかり荒れ果ててはいるものの)雨水は溜まっておらず。

「甍(いらか)破れて、霧、ふだんの香(かう)を燒(やき)」破れた屋根の穴から霧が入り込んできて、それは不断に仏事として香を焚きしめているようでもあったという皮肉な比喩。私はこの「ふだん」は「絶えず」の「不斷」以外に「日々いつも」の「普段」の意も掛け、さらには「香」の譬えから考えれば、「ふだん」の「だん」は「檀」で、焚きしめるための香木の栴檀(せんだん)・白檀(びゃくだん)・紫檀(したん)などの総称である「檀香」をも洒落て掛けたものと読む

「月、常住の燈を掲(かゝ)ぐ」破れた天上から覗く月を法灯に、やはり皮肉に喩えたもの。

「江上(こうしやう)」大河の畔り。しかしそのような描写は他になく、挿絵も山の中の描画である。意味のない筆が辷り過ぎる傾向のはなはだ強い荻田の、単なる無意味な修辞粉飾で、この廃堂のそばには川などはないと考えてよい。「堂」に対する河が欲しかっただけだろう。

「※翠(ひすい)巣くひ」(「※」=(上)「羽」+(下)「比」)「※翠」は翡翠。蜘蛛の巣に月光が乱反射して虹色に見えるのを比喩したものであろう。

「薗邊(ゑんへん)」庭の辺り。廃堂の周辺。

「高塚(かうてう)」土饅頭の墓であろう。

「麒鱗(きりん)臥す」弔う人もなく、その塚は苔蒸してしまい、草がぼうぼうに生えているのであろう、こんもりとしたところに毛のように草の生えるそれは、かの賢人の生まれる時にのみ出現するという聖獣麒麟が病んで死にかけて蹲っていると見る、世も末の、これまた、超辛口の皮肉である。

「さしにさして」「さし」は光りが鋭く「射し」て、しかも明らかにこの廃堂を「指し」て近づいて来ることを掛けていよう。

「好(す)かぬ事」よからぬ禍々しい凶兆を思わせる現象。

「いと寢(ね)よげに」たいそう寝易いように(独り寝するには明らかに大きく)丁寧に整え設えて。

「疊紙(たゝふがみ)」「たたうがみ」が歴史的仮名遣としては正しい。現代仮名遣の「たとうがみ」(畳紙)で、「畳み紙」の転じた語。単に「たたう(たとう)」とも呼ぶ。普通は詩歌詠草や鼻紙などに使用するために畳んで懐に入れておく懐紙(ふところがみ)を指すが、ここは櫛を取り出しているから、厚手の和紙に柿渋や漆などを塗って折り目をつけた結髪の道具や衣類などを入れるのに用いたそれの小型のものととっておく。

「思はねばこそ」「心配しないとでも思って?」。

「かこち顏」恨みや不平を示す表情。

「淀(よど)に繫(つな)ぐ鯉」「淀」はここは人工的に流れをせき止めた澱みで、庭の池と採る。そこに自由を奪われて飼われている鯉である。

「身をも心にまかすべきかは」反語。「心の思うままに自由に振る舞うことは出来ぬものじゃて。」。

「煙(けふり)くらべ」香道に於ける香を聴くそれを指すか。前の恋の熱で焚き立つ「花の香(か)」の縁語的手法で、そう考えると「袖」も何時もの「人」の意味の以前に香を焚き染めるところの「袖」であることが判る。

「さまで恨み給ふそ」このままなら「そこまでお恨みになるか」の謂いだが、私は禁止の「給ひそ」の誤りのように感じる。

「斷はる」相手に了解を求めるの意。

「威(をど)せで許すべし」反語。「威さねで、おくべきかッツ!」という怒りである。この二人の密会を怪異か盗賊などの出来と早合点して天井裏に隠れ潜んだ自分が情けなく、その鬱憤を彼ら二人に押し付けたのである。

「心して侍るに」気づかれぬように凝っとして、深く用心しておったところ。

「如何でかくとは知るべき」反語。

「いろなる心やみ」色好みからくる(双方の)心の激しい乱れ。「心やみ」は「心闇」(思慮分別が失われている状態・煩悩に迷い狂っていること)の意の名詞でとらないと意味が通らない。

「をのがきぬぎぬ置き重ね」「きぬぎぬ」は現実的行為としての「衣衣」で男女が二人の衣服を重ね掛けて共寝をすること。しかし「きぬぎぬ」には、ここでは何となく視覚的な「着ぬ衣」で双方が全裸になっている感じを想起させる仕掛けがあるようにも見えぬことはない(これは私の色好みのせいか?)。

「恨みも髮(かみ)も解(と)け解(ほど)け」「恨み」は附会すりならば前の男が遅れて来たことへの「恨み」ととれるが、ここは寧ろ、「恨み」の「み」を「髪(かみ)」の「み」の音に合わせて韻を踏む効果を狙ったに過ぎない。

「海士(あま)も釣(つり)する枕のなみ」「なみ」は「浪(波)」に「並み」を掛けて、並べた二つの枕(実際には枕はなく、男女が伴寝してぴっちりと抱き合って頭を並べていることを指す)を引き出すための退屈な序詞的修辞。「海士」「釣」「浪」は同時に縁語である。

「堪(こら)へすませる山伏も、何時(いつ)しか疎(うと)み果(は)てたり。げに、拔かれたる心地こそせめ」「拔かれたる心地こそせめ」「騙されたような気分になったに違いない」の意。山伏は怪異か不審者と誤認して隠れたのであって事実はそうではないものの、山伏が見下ろし覗く二人の媚態の映像を想像するに、心情としてはすこぶる納得出来る。このシーンの筆者の心理描写は相当に上手い。

「いつまでかは殿居(とのゐ)せん」「いつまでも手前(てめえ)らの睦言の宿直(とのい)をしてると思うなッツ!」。

「認(したふ)て持ちし」しかるべき時のために普段から所持していた。

「柿紙包(かきかみつゝみ)」雨具や物が濡れぬように包むために柿渋をひいた渋紙(しぶがみ)。投げ落として「どう」と有意な音が立つぐらいであるから、折り畳んではあるが、相当に広く、重量もそれなりにあると読まねばならぬ。

「しきたへの」「敷妙の」。枕詞。ここは「枕」のそれであるが、一般にこの枕詞は男女の供寝のイメージ・シーンに伴って用いられることが多いから、ぴったりの用法と言える。

「もとよりも思ひ寄りなかりければ」もとより、想像だにしていない出来事であったので。

「慌てふためき、裸になりて逃(にげ)さりけり」挿絵では逃げる二人がちゃんと着物を著けているのは、失望の極み! 素っ裸で逃げる男女を描いてこそ山伏の鬱憤も晴れようというものを!

「鬼(おに)と聞けや。」「鬼の発する声だと思えよッツ!」

「謀(はか)りつゝも」いろいろと工夫を企んで。

「梁(りやう)の代(みよ)のたはれ男(お)、塔(たう)の第二層(そ)に交はりて、其報ひ、雷(いかづち)に打たれて死せり」「層」の読み「そ」は原典のママ。原典不詳。識者の御教授を乞う。「塔」で「報ひ」とある以上、この「塔」は仏塔(仏教の多層塔)とは読める。

「この戀衣(こひころも)のあかづきて、山伏にあらはれし」よく意味がとれない。二人の「戀」の「衣」だけを纏った素っ裸の二人のいちゃつきを見た山伏が怒り心頭に発した(「あらはれし」)という言うのか? 「あかづく」は衣の「垢(あか)」と見続けることにすっかり「飽」き切ってしまいの意を掛けるか?

「貴(たふと)き精舍(しやうじや)をよるべとせし」廃堂とは言え、貴い寺を密会して性交する「寄る邊」とした。或いは「よるべ」には密やかな添い寝の「夜邊」(夜の時間)の意も利かせているか。

「后宮(こうきう)たる袖、西の御堂(みだう)を隱れ家(が)にして、假寢(かりね)の床に新枕(にゐまくら)せしも、その報ひなくても過(すぎ)ぬ」誰のことを指しているのか、不学にして不詳。何方か、出典だけでもお教え願いまいか?

「笙(しやう)の岩屋(いはや)の聖(ひじり)」「笙の岩屋」は吉野と熊野を結ぶ大峯山(おおみねさん)を縦走する修験道の修験道(みち)である大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)の途中にある行場「靡(なびき)」の一つ。平凡社「世界大百科事典」の「洞窟」の記載によれば(コンマを読点に代えた。下線はやぶちゃん)、『洞窟は、地下世界、死者の国への出発点であると同時に、豊饒(ほうじよう)の根源、母胎とも観念されていた。洞窟は、黄泉国、根の国、妣(はは)が国への入口であり、生、死、豊饒、大地、女性などのイメージを宿し、蛇や鬼の住む魔所であるが、一方で神霊の斎(いつ)く聖所でもあるという始源性を帯びている』。「道賢上人冥途記」(「扶桑略記」(神武天皇から堀河天皇の寛治八(一〇九四)年までの編年史。延暦寺学僧皇円の編で十二世紀末成立)所収)によれば、天慶四(九四一)年に道賢(日蔵)がこの笙の窟で参籠中、死んで冥途巡りをし、蘇生した話を記しているという。『洞窟が生と死の境にあり、修行者がそこにこもって山霊と交感し、霊力を身につけて再生して山を下る様相を示している。修験者が山を母胎に見立てて、山中の洞窟や岩の割れ目で行う胎内くぐりは、擬死再生を行為によって確証するもので、成年式の試練を果たす意味合いもあった』とあり、ここはまさにそうした女性器のシンボルとしての窟をこの話者は述べているのであって、そうした性的象徴性の中で大徳(だいとこ)の「聖」日蔵上人さえも蘇生(産道をシンボライズした窟を通って再生)したことを通して「妹背の」仲「のならひ」(習い)としての性行為の本来の古代からの神聖性をことさらに主張したいのであろう。因みに、その立場には私はすこぶる賛成する。だから、保守派なんぞの都合のいい消毒された主張なんぞよりも、私は「古事記」の素戔嗚までを総て古文の教科書に載せて、みっちりと濃厚に判り易く全高校生に教授すべきであると大真面目に考えているのである

「御裳裾(みもすそ)川」三重県の伊勢市を流れる五十鈴川(いすずがわ)。倭姫命(やまとひめのみこと 生没年不詳:垂仁天皇第四皇女。天照大神を磯城(しき)の厳橿之本(いむかしのもと)に神籬(かみがき)を立てて、垂仁天皇二五年三月に伊勢の地に祀った(これが現在の伊勢神宮の前身とされる)皇女であるとされ、これが伊勢神宮に奉仕する未婚女性「斎宮(いつきのみや)」の濫觴ともされる)が御裳の裾の汚れを濯いだという伝説から「御裳濯川(みもすそがわ)」の異名を持つ歌枕である。斎宮とは神と婚姻した処女であり、ここに出すのは専ら、神との交合を実際の男女のコイツスに引き下げて等価化することを意味していると私は読む。

「曉季(ぎようき)の今に人種(たね)あるも」天地開闢の「曉」(あかつき)の「季」(とき:時間)の謂いか? しかし思うにこれは実は原典の「澆季」の誤記ではあるまいか? 「澆季」とは「道徳や人情などがすっかり乱れてしまって一つの時代が終わる寸前の時期」の謂いである。そんな末世・乱世にあっても愚かな人間が滅亡することなく、かくも繁殖し栄えているのも。

「なさけの道の育(そだ)たればなり」男女の恋情が大切なものとされ、それによる肉体関係が連綿と続けられ、子孫が生まれ、その性行為の神聖性が育まれてきたからに外ならない。ここまで畳み掛けられると(というか、かくも「くどくどと」訳している私も)まっこと「くどい」気はしてくる。

「やぶさかりしぞや」不詳。文字列から直ちに想起される「吝か」では、意味が通じないない。寧ろ、山伏の脅しの実際行動から考えると、「破り盛り」「破り逆り」ですっかり怒りを爆発させて、二人の性交を邪魔するだけでなく、行為を中止させて完遂することを「破」ってだめにしてしまい、無益無暗に彼らに逆らっては吠え立ててエキサイトした(「盛り」「逆り」)の謂いか?

「人やりならず」「人遣りならず」(名詞「人遣り」(自分の意志ではなく他から強制されてすること。人からさせられること)に断定の助動詞「なり」の未然形と打消の助動詞「ず」がついた連語)で、誰のせいでもない、自分のせいである、意。ここは山伏が勝手に怪異・不審と思った最初の行為の誤りに立ち返って山伏の行動を指弾しているのである。

「あさまし」情けなく、興醒めだ。

「此(この)評判、難しくこそ」この一件について正しく分析批評することは実に難しいことではある。]

2017/07/21

嫌悪する女

女としての母性性をことさらに隠蔽し、少女性と文学性をひけらかすことで男をたらし込めると思っている輩は僕の最も嫌悪する女群である――

追伸:国を守ることの「いろは」も理解していない稲田朋美とかいう下劣な女はこの話の最下層以下の地獄の馬鹿女である。僕は初めっからあの女に防衛は任せられないと周囲に言ってきた。あいつは自衛隊員の「命」を「命」とも思わない最低「逆賊」の最下劣の極みの存在である。あの女の下で自衛隊員の誰が「国家」に命を捧げようか!!!

柴田宵曲 續妖異博物館 「虎の皮」

 

 虎の皮

 

  虎が人になり、人が虎になる支那の話の中で、特に奇妙に感ぜられるのは虎が美人に化する話である。蒲州の人崔韜なる者、旅中仁義館といふところに宿る。館吏の話によると、この建物は惡い評判があつて、誰も宿泊せぬといふことであつたが、崔は構はずに一夜を明すことにした。夜の十時頃、突然門があいて、一疋の虎が入つて來たので、崔もびつくりして暗がりに身をひそめたが、虎は毛皮を庭に脱ぎ捨て、綺麗に著飾つた女子になつて上つて來た。相手が人間の姿になれば別にこはくもないから、一體獸になつて入つて來たのはどういふわけか、と尋ねた。女子はそれに答へて、願はくは君子怪しむことなかれ、私の父兄は獵師でありますが、家が貧しいために良緣を求めることが出來ません、それで夜ひそかにこの皮を被り、自分の生涯を托すべき人を待つてゐるのですが、皆恐怖して自ら命をなくしてしまふのです、今夜は幸ひにあなたのやうな方にお目にかゝることが出來ました、どうか私の志を聽き屆けて下さい、と云ふ。崔も係累のない獨身者であるから、二人の結婚は忽ち成立した。崔は例の毛皮を館の裏にあつた空井戸に投げ込み、匆々に女子を連れて立ち去つた。崔はその後官途に就いて次第に立身し、地方に赴任するに当當り、久しぶりで仁義館に一宿した。彼に取つては忘れ得ぬ記念の地なので、早速裏の空井戸に行つて見ると、投げ込んだ毛皮は依然としてもとのままに在る。そこで妻に向つて、お前の著物はまだあるよ、と云つたら、まだありますか、と云つて妻は眼を輝かしたが、人に賴んで井戸の底から取り出して貰つた。やがて妻は笑ひながら、私はもう一度これが著て見たいと云ひ、階下に下りて行つたかと思ふと、忽ちに虎に化して上つて來た。話はこれまでにして置きたいのであるが、一たび人間から虎に變つた以上は仕方がない。崔もその子も虎に食はれてしまつたと「集異記」に書いてある。

[やぶちゃん注:「蒲州」(ほしう)は現在の山西省にあったそれであろう。

「崔韜」「サイトウ」(現代仮名遣)と読んでおく。

 以上は「太平廣記」の「虎八」に「集異記」を出典として「崔韜」で載る。

   *

崔韜、蒲州人也。旅遊滁州、南抵歷陽。曉發滁州。至仁義舘。宿舘。吏曰。此舘凶惡。幸無宿也。韜不聽、負笈昇廳。舘吏備燈燭訖。而韜至二更、展衾方欲就寢。忽見舘門有一大足如獸。俄然其門豁開、見一虎自門而入。韜驚走、於暗處潛伏視之、見獸於中庭去獸皮、見一女子奇麗嚴飾、昇廳而上、乃就韜衾。出問之曰。何故宿餘衾而寢。韜適見汝爲獸入來、何也。女子起謂韜曰、「願君子無所怪。妾父兄以畋獵爲事。家貧、欲求良匹、無從自達。乃夜潛將虎皮爲衣。知君子宿於是舘。故欲託身、以備灑掃。前後賓旅、皆自怖而殞。妾今夜幸逢達人、願察斯志。」。韜曰、「誠如此意、願奉懽好。」。來日、韜取獸皮衣、棄廳後枯井中、乃挈女子而去。後韜明經擢第、任宣城。時韜妻及男將赴任、與俱行。月餘。復宿仁義舘。韜笑曰、「此舘乃與子始會之地也。」。韜往視井中、獸皮衣宛然如故。韜又笑謂其妻子曰、「往日卿所著之衣猶在。」。妻曰、「可令人取之」。既得。妻笑謂韜曰、「妾試更著之。衣猶在請。妻乃下階將獸皮衣著之纔畢。乃化爲虎。跳躑哮吼。奮而上廳。食子及韜而去。

   *]

 

 これとよく似た話は「原化記」にも出てゐる。旅中一宿した僧房に於て、十七八の美人を見ることは同じであるが、この方は虎になつたのを目擊したわけでなく、虎の皮をかけて熟睡してゐるに過ぎなかつた。この皮をひそかに取つて隱してしまひ、然る後その美人と結婚する。役人となつて地方に赴任し、また同じ僧房に宿るまで、「集異記」の話と變りはない。たゞこの女房は、主人公が往年の事を云ひ出したら、びどく腹を立てて、自分はもと人類ではない、あなたに毛皮を隱されてしまつた爲、已むを得ず一緒になつてゐるのだ、と云つた。その態度が次第に兇暴になつて、いくらなだめても承知せぬので、たうとうお前の著物は北の部屋に隱してある、と白狀してしまつた。妻は大いに怒り、北の部屋を搜して虎の皮を見付け出し、これを著て跳躍するや否や大きな虎になつた。全體の成行きから見ると、この方が悲劇に終りさうに見えるが、林を望んで走り去り、亭主が驚懼して子供を連れて出發することになつてゐる。

[やぶちゃん注:以上は「太平廣記」の「虎二」に「原化記」を出典として「天寳選人」という題で載る。

   *

天寶年中、有選人入京、路行日暮、投一村僧房求宿。僧不在。時已昏黑、他去不得、遂就榻假宿、鞍馬置於別室。遲明將發、偶巡行院。至院後破屋中、忽見一女子。年十七八、容色甚麗。蓋虎皮。熟寢之次、此人乃徐行、掣虎皮藏之。女子覺、甚驚懼、因而爲妻。問其所以、乃言逃難、至此藏伏。去家已遠、載之別乘、赴選。選既就、又與同之官。數年秩滿、生子數人。一日俱行、復至前宿處。僧有在者、延納而宿。明日、未發間、因笑語妻曰、「君豈不記余與君初相見處耶。」。妻怒曰、「某本非人類、偶爾爲君所收、有子數人。能不見嫌、敢且同處。今如見耻、豈徒為語耳。還我故衣、從我所適。」。此人方謝以過言、然妻怒不已、索故衣轉急。此人度不可制、乃曰、「君衣在北屋間、自往取。」。女人大怒、目如電光。猖狂入北屋間尋覔虎皮。披之於體。跳躍數步、已成巨虎、哮吼囘顧、望林而往。此人驚懼、收子而行。

   *]

 

「河東記」に出てゐるのも、旅中風雪の夜にはじめて相見た少女と結婚する話で、夫妻唱和の詞などがあり、才子佳人の情話らしく思はれるのに、末段に妻の家に歸つたところで、壁に掛けた故衣の下から虎の皮を發見すると、妻は俄かに大笑し、あゝこれがまだあつたか、と云ひ、身に著けると同時に虎になつて咆哮し、門を衝いて去るとある。前に虎になることは勿論、虎の皮の事も全く見えぬ。最後に虎の皮を得て忽ち虎に化し去るのは、何だか取つて付けたやうで、少しく唐突の嫌ひがないでもない。

[やぶちゃん注:以上は「河東記」に出る「申屠澄」。

   *

申屠澄者、貞元九年、自布衣調補濮州什邠尉。之官、至眞符縣東十里許遇風雪大寒、馬不能進。路旁茅舍中有煙火甚溫煦、澄往就之。有老父嫗及處女環火而坐、其女年方十四五、雖蓬發垢衣、而雪膚花臉、舉止妍媚。父嫗見澄來、遽起曰、「客沖雪寒甚、請前就火。」。澄坐良久、天色已晚、風雪不止、澄曰、「西去縣尚遠、請宿於此。」。父嫗曰、「不以蓬室爲陋、敢不承命。」。澄遂解鞍、施衾幬焉。其女見客、更修容靚飾、自帷箔間復出、而閑麗之態、尤倍昔時。有頃、嫗自外挈酒壺至、於火前暖飮。謂澄曰、「以君冒寒、且進一杯、以禦凝冽。」。因揖讓曰、「始自主人。」。翁卽巡行、澄當婪尾。澄因曰、「座上尚欠小娘子。」。父嫗皆笑曰、「田舍家所育、豈可備賓主。」。女子卽囘眸斜睨曰、「酒豈足貴、謂人不宜預飮也。」。母卽牽裙、使坐於側。澄始欲探其所能、乃舉令以觀其意。澄執盞曰、「請徵書語、意屬目前事。」。澄曰、「厭厭夜飮、不醉無歸。」。女低鬟微笑曰、「天色如此、、歸亦何往哉。」。俄然巡至女、女復令曰、「風雨如晦、雞鳴不已。」。澄愕然嘆曰、「小娘子明慧若此、某幸未昏、敢請自媒如何。」。翁曰、「某雖寒賤、亦嘗嬌保之。頗有過客、以金帛爲問、某先不忍別、未許、不期貴客又欲援拾、豈敢惜。」。卽以爲托。澄遂修子婿之禮、祛囊之遺之、嫗悉無所取、曰、「但不棄寒賤、焉事資貨。」。明日、又謂澄曰、「此孤遠無鄰、又復湫溢、不足以久留。女既事人、便可行矣。」。又一日、咨嗟而別、澄乃以所乘馬載之而行。既至官、俸祿甚薄、妻力以成其家、交結賓客、旬日之、大獲名譽、而夫妻情義益浹。其於厚親族、撫甥侄、洎僮僕廝養、無不歡心。後秩滿將歸、已生一男一女、亦甚明慧。澄尤加敬焉。常作贈詩一篇曰、「一官慚梅福、三年愧孟光。此情何所喩、川上有鴛鴦。」其妻終日吟諷、似默有和者、然未嘗出口。每謂澄曰、「爲婦之道、不可不知書。倘更作詩、反似嫗妾耳。」。澄罷官、卽罄室歸秦、過利州、至嘉陵江畔、臨泉藉草憩息。其妻忽悵然謂澄曰、「前者見贈一篇、尋卽有和。初不擬奉示、今遇此景物、不能終默之。」。乃吟曰、「琴瑟情雖重、山林志自深。常尤時節變、辜負百年心。」。吟罷、潸然良久、若有慕焉。澄曰、「詩則麗矣、然山林非弱質所思、倘憶賢尊、今則至矣、何用悲泣乎。人生因緣業相之事、皆由前定。」。後二十餘日、復至妻本家、草舍依然、但不復有人矣。澄與其妻卽止其舍、妻思慕之深、盡日涕泣。於壁角故衣之下、見一虎皮、塵埃積滿。妻見之、忽大笑曰、「不知此物尚在耶。」。披之、卽變爲虎、哮吼拿攖、突門而去。澄驚走避之、攜二子尋其路、望林大哭數日、竟不知所之。

   *]

 

 虎の因緣の頗る稀薄な最後の話はしばらく除外するとして、「集異記」及び「原化記」の話は、一面に於て餘吾の天人以來の白鳥傳説を連想せしめると同時に、他の一面に於て「情史」の「情仇類」中の話と多少の連關を持つてゐる。鉛山に人あり、一美婦に心を寄せてゐたが、容易にその意に從はぬ。たまたまその夫が病氣になつた時、大雨の日の晦冥に乘じ、花衣兩翼を著け、雷神のやうな恰好をしてその家に到り、鐡椎を揮つて夫を殺してしまつた。今なら到底こんな事でごまかせるものではないが、當時は雷雨中の出來事だけに雷に打たれたものとして怪しまなかつたと見える。それから稍時間を置いて、人を介して結婚を申し込み、首尾よく本望を達し得た。夫婦仲も不思議に睦まじく一子を擧げた後、この前のやうな雷雨があつたので、男の方から一部始終を話し、もしあの時あゝいふ非常手段を執らなかつたら、お前を妻にすることは出來なかつたらう、と云つた。妻はさりげなく笑つて、その著物や翼は今でもありますか、と尋ねる。こゝにあると箱から出して見せたのが運の盡きで、妻は夫の外出を待ち、これを證據物件として官に訴へ、夫は申開きが立たず、死罪になつた。この話には妖味はないが、隱して置いた祕密を自ら持ち出した爲、運命の破綻に了ることは、前の虎の話と揆を一にしてゐる。

[やぶちゃん注:「餘吾の天人」「近江国風土記」に記載される現在の滋賀県長浜市にある余呉湖(琵琶湖の北方にある独立した湖。ここ(グーグル・マップ・データ))を舞台とした羽衣伝説の天人。この伝承では天女が衣を掛けるのは柳となっている。

「白鳥傳説」各地に伝わる天の羽衣伝説では天女はしばしば白鳥となって舞い降りて美女に変ずるところから、古来の倭武尊や浦島伝説に登場する「白鳥伝説」とも関連性が強く、聖鳥が本体とするならばこれは、以上のような虎が女となって人と交わる異類婚姻譚と同じ系に属すとも言え、実際、ウィキの「羽衣伝説」によれば、本邦の羽衣伝説は神話学上の「白鳥処女説話(Swan maiden)」系の類型と考えられており、これは『日本のみならず、広くアジアや世界全体に見うけられる』とある。

「情史」明末の作家で陽明学者の馮夢龍(ふうむりゅう 一五七四年~一六四六年)の書いた小説集「情史類略」のこと。

「情仇類」「じょうゆうるい」(現代仮名遣)と読んでおく。

 以上は同書の「第十四卷 情仇類」の「鉛山婦」。

   *

鉛山有人悦一美婦、挑之不從。乘其夫病時、天大雨、晝晦、乃著花衣爲兩翼、如雷神狀、至其家、奮鐵椎椎殺之、卽飛出。其家以爲真遭雷誅也。又經若干時、乃使人説其婦、求爲妻。婦許焉。伉儷甚篤。出一子、已周矣。一日、雷雨如初。因燕語、漫及前事、曰、「吾當時不爲此、焉得妻汝。」。婦佯笑、因問、「衣與兩翼安在。」。曰、「在某箱中。」。婦俟其人出、啓得之。赴訴張令。擒其人至、伏罪、論死。

   *]

 

 尤も虎皮を用ゐて虎に化する話は、決して女子に限るわけではない。女の虎になるといふ話が何だか不似合に感ぜられるので、先づその話を擧げて見たに過ぎぬ。王居貞なる者が洛に歸る途中、一人の道士と道連れになつた。この男は一日何も食はずにゐて、居貞が睡りに就いて燈を消すと、囊(ふくろ)の中から一枚の毛皮を取り出し、それを被つて出かけて行く。夜半には必ず歸つて來るので、或時居貞が寢たふりをして、いきなりその皮を奪つてしまつた。道士は頗る狼狽し、叩頭して返してくれといふ。君が本當の事を云へば返すよと云ふと、實は自分は人間ではない、虎の皮を被つて食を求めに出るのだ、何しろこの皮を被れば一晩に五百里は走れるからね、といふことであつた。居貞も家を離れて久しくなるので、ちよつと家に歸りたくなり、賴んでその皮を貸して貰つた。居貞の家は百餘里の距離だから、忽ちに門前に到つたが、中へ入るわけに往かぬ。門外に豕(ぶた)のゐるのを見て、たちどころに食つてしまひ、馳せ歸つて毛皮を道士に返した。家に戾つてから聞いて見ると、居貞の次男が夜、外へ出て虎に食はれたといふ。その日を勘定したら、正に居貞が毛皮を被つて行つた晩であつた(傳奇)。――我が子の見分けも付かなくなるに至つては、物騷でもあり不愉快でもある。虎皮を被ればおのづから虎心を生じ、眼前の動物が皆食糧に見えるのかも知れない。

[やぶちゃん注:「王居貞なる者が洛に歸る途中」原文を見ると判るが、「下第」で彼は科挙試を受けて落第して、消沈して帰る途中である。

「この男は一日何も食はずにゐて」原典では道士はそれを道術の「咽氣術だ」と述べたとする。

「五百里」何度も述べているが、中国唐代の一里は五百五十九・八メートルしかないが、それでも二百八十キロメートル弱となる。

「傳奇」は晩唐の文人官僚裴鉶(はいけい)の伝奇小説集で、唐代伝奇の中でも特に知られたもので、本書の名が一般化して唐代伝奇と呼ばれるようになったとも言われている。ここに出るのは「太平廣記」の「虎五」の「王居貞」。

   *

明經王居貞者下第、歸洛之潁陽。出京、與一道士同行。道士盡日不食。云、「我咽氣術也。」。每至居貞睡後、燈滅。卽開一布囊、取一皮披之而去、五更復來。他日、居貞佯寢、急奪其囊、道士叩頭乞。居貞曰、「言之卽還汝。」。遂言吾非人、衣者虎皮也、夜卽求食於村鄙中、衣其皮、卽夜可馳五百里。居貞以離家多時、甚思歸。曰、「吾可披乎。」。曰、「可也。居貞去家猶百餘里。遂披之暫歸。夜深、不可入其門、乃見一豬立於門外、擒而食之。逡巡囘、乃還道士皮。及至家、云、居貞之次子夜出、爲虎所食。問其日、乃居貞囘日。自後一兩日甚飽、並不食他物。

   *

原典では後からつけたように、最後に「王居貞が虎に変じて豚に見えた自分の子どもを食べた後は、一日二日の間、腹が一杯の状態であって何も食べなかった」という象徴的なカニバリズム・ホラーの駄目押しが行われいることが判る。]

 

 由來虎の話に關する限り、道士なる者が甚だ怪しいので、石井崖なる者が或溪のところへ來ると、朱衣を著けた一人の道士が靑衣の二童子を從へて石の上に居る。その量子に語る言葉を聞けば、わしは明日中に書生石井崖を食ふ筈になつてゐる、お前達は側杖を食つて怪我をするといかんから、どこかへ行つてゐた方がよからう、といふのであつた。井崖の眼には道士の姿が見えるが、道士は井崖のゐることに氣が付かぬらしいので、驚いて旅店に匿れ、幾日も外へ出ぬやうにしてゐた。たまたま軍人がやつて來て、お前は武器を携へて居りはせぬかと問ふ。井崖は道士の言を聞いて居るから、刀を出して軍人に渡し、自分は槍の穗先を拔いて懷ろに呑んで居つた。井崖が容易に出發せぬのを見て、頻りに追ひ立てようとする。已むを得ず宿を立つ段になつて、槍の穗先を竹に仕込み、恐る恐る出かけると、果して一疋の虎が路を要して居る。井崖は忽ちに捉へられたが、用意の槍を以てその胸を突き、途にこれを發した。前の二童子もどこからか現れ、この體を見て大よろこびであつたと「廣異記」にある。この話には虎の皮の事は見えぬが、多分井崖を襲ふ前には隱し持つた虎の皮を被つて一躍咆哮したことであらう。「解頤錄」に見えた石室中の道士のやうに、已に九百九十九人を食ひ、あと一人で千人に達するといふ、五條橋の辨慶のやうな先生も居る。この道士は架上に虎の皮をひろげて熟睡してゐたといふから、道士だと云つて油斷は出來ない。道士を見たら虎と思へといふ諺、どこかにありはせぬかと思はれるくらゐである。

[やぶちゃん注:「解頤錄」(かいいろく)は唐代伝奇の一つで包湑(ほうしょ)作とするが疑わしい。

最初の話は「太平廣記」「虎七」に「廣異記」からとして「石井崖」で出る。

   *

石井崖者初爲里正。不之好也、遂服儒、號書生、因向郭買衣、至一溪、溪南石上有一道士衣朱衣、有二靑衣童子侍側。道士曰。「我明日日中得書生石井崖充食、可令其除去刀杖、勿有損傷。」。二童子曰、「去訖。」。石井崖見道士、道士不見石井崖。井崖聞此言驚駭、行至店宿、留連數宿。忽有軍人來問井崖。莫要携軍器去否。井崖素聞道士言、乃出刀、拔鎗頭、懷中藏之。軍人將刀去、井崖盤桓未行。店主屢逐之、井崖不得已、遂以竹盛却鎗頭而行。至路口、見一虎當路。徑前躩取井崖。井崖遂以鎗刺、適中其心、遂斃。二童子審觀虎死。乃謳謌喜躍。

   *

この話、幾つかの意味不明な箇所が却って話を面白くさせているように私には思われる。まず、井崖には道士が見えたのに、道士には見えなかった点で、これは逆に井崖にこそ仙骨があることの暗示であろう。武器を取り上げた軍人は道士の変じたものであろうが、さても意外な展開で虎が斃されると、例の青衣の二童子が出て来て大喜びする辺りには、道士の弟子は師匠が死なないと、真の仙道修行が出来ないのであろうと私は推測するものである。なお、これと、次の話を読むに、羽化登仙するレベルの低い手法の中には、実は一定数の人間を喰うというカニバリズムによるそれが存在したことがよく判ってくる

   *

 後者は「太平廣記」の「虎一」に「峽口道士」として載る。

   *

開元中、峽口多虎、往來舟船皆被傷害。自後但是有船將下峽之時、即預一人充飼虎、方舉船無患。不然。則船中被害者衆矣。自此成例。船留二人上岸飼虎。經數日、其後有一船、皆豪強。數有二人單窮。被衆推出。令上岸飼虎。其人自度力不能拒、乃爲出船、而謂諸人曰、「某貧窮、合爲諸公代死。然人各有分定。苟不便爲其所害。某別有懇誠、諸公能允許否。衆人聞其語言甚切。爲之愴然。而問曰、「爾有何事。」。其人曰、「某今便上岸、尋其虎蹤、當自別有計較。但懇爲某留船灘下、至日午時、若不來、卽任船去也。衆人曰。我等如今便泊船灘下、不止住今日午時、兼爲爾留宿。俟明日若不來、船卽去也。」。言訖、船乃下灘。其人乃執一長柯斧、便上岸、入山尋虎。並不見有人蹤。但見虎跡而已。林木深邃、其人乃見一路、虎蹤甚稠、乃更尋之。至一山隘、泥極甚、虎蹤轉多。更行半里、卽見一大石室、又有一石床、見一道士在石床上而熟寐、架上有一張虎皮。其人意是變虎之所、乃躡足、于架上取皮、執斧衣皮而立。道士忽驚覺、已失架上虎皮。乃曰、「吾合食汝、汝何竊吾皮。其人曰、「我合食爾、爾何反有是言。二人爭競、移時不已。道士詞屈、乃曰、「吾有罪于上帝、被謫在此爲虎。合食一千人、吾今已食九百九十九人、唯欠汝一人、其數當足。吾今不幸、爲汝竊皮。若不歸、吾必須別更爲虎、又食一千人矣。今有一計、吾與汝俱獲兩全。可乎。其人曰、「可也。」。道士曰、「汝今但執皮還船中、剪髮及鬚鬢少許、剪指爪甲、兼頭面脚手及身上、各瀝少血二三升、以故衣三兩事裹之。待吾到岸上、汝可抛皮與吾、吾取披已、化爲虎。卽將此物抛與、吾取而食之、卽與汝無異也。」。其人遂披皮執斧而歸。船中諸人驚訝、而備述其由。遂於船中、依虎所教待之。遲明、道士已在岸上、遂抛皮與之。道士取皮衣振迅、俄變成虎、哮吼跳躑。又衣與虎、乃嚙食而去。自後更不聞有虎傷人。衆言食人數足。自當歸天去矣。

   *]

 

 かういふ道士の顏觸れを見來つて、「聊齋志異」の向杲の話を讀めば、何人も自ら首肯し得るものがあらう。向は今までの話と違ひ、莊公子なる者に兄を殺され、常に利刀を懷ろにして復讐を念願としてゐる。先方もこれを知つて、焦桐といふ弓の名人を雇ひ、警衞に怠りないので、容易につけ入る隙がないけれど、なほ初一念を棄てず、あたりを徘徊してゐると、一日大雨に遭つてずぶ濡れになり、山の上の廟に駈け込んだ。こゝに居る道士の顏を見れば、嘗て村に食を乞うた時、向も一飯を饗したおぼえがある。道士の方でも無論忘れては居らぬ。褞袍(どてら)のやうなものを出して、濡れた著物の乾くまで、これでも着ておいでなさいと云つてくれた。總身の冷えきつた向は、犬のやうにうづくまつてゐたが、身體が暖まるにつれてとろとろとしたかと思ふと、自分はいつの間にか虎になつてゐた。道士はどこへ行つたかわからない。この時莊公子の事が灼き付くやうに心に浮んで、向は虎になつたのを幸ひに、敵を嚙み殺してやらうと決心した。山上の廟へ飛び込む前、自分の隱れてゐたところに來て見たら、自分の屍がそこに橫はつてゐる。はじめて自分は已に死に、後身が虎になつたものとわかつたが、自分の屍を鳶鴉の餌にするに忍びないので、ぢつとそれを守つてゐるうちに、思ひがけなくも莊公子がそこを通りかゝつた。虎は跳躍して馬上の莊公子を襲ひ、その首を嚙み切つたが、護衞の焦桐は一矢を放ち、あやまたず虎の腹に中(あた)つた。向は再び昏迷に陷り、夢の醒めるやうに氣が付いた時は、もとの人間に還つてゐた。夜が明けて家に帰ると、向杲の幾日も歸らぬのを心配してゐた家人は、よろこんで迎へたけれど、彼は直ぐ橫になつて何も話をしない。莊公子の虎に襲はれた噂は間もなく傳はつた。向は初めてその虎は自分だと云ひ、前後の事情を話した。莊の家ではこの話を傳聞して官に訴へたが、役人は妄誕として取り上げなかつた。道士の消息は更に知られて居らぬ。彼は向に一飯の恩を受けてゐたのだから、向が敵討の志願を懷いてゐることは、勿論承知だつたに相違ない。向に貸した褞袍は何であつたか。貸し手が道士だけに、もしこれが虎の皮であれば、首尾一貫するわけであるが、「聯肅志異」はたゞ「布袍」とのみ記してゐる。道士は平生この布袍によつて虎と化してゐかどうか、その邊は更に證跡が見當らぬけれど、彼は漫然この布袍を貸し、向杲は測らず虎になつたたものとは考へにくい。虎に化して敵を斃した後、虎に死し人に蘇る經緯は、すべて道士の方寸に出たらしく思はれる。

[やぶちゃん注:「向杲」「コウコウ」(現代仮名遣)と読んでおく。

「焦桐」「ショウトウ」(同前)と読んでおく。

 以上は「聊齋志異」の「第六卷」の「向杲」。

   *

向杲字初旦、太原人。與庶兄晟、友于最敦。晟狎一妓、名波斯、有割臂之盟、以其母取直奢、所約不遂。適其母欲從良、願先遣波斯。有莊公子者、素善波斯、請贖爲妾。波斯謂母曰、「既願同離水火、是欲出地獄而登天堂也。若妾媵之、相去幾何矣。肯從奴志、向生其可。」。母諾之、以意達晟。時晟喪偶未婚、喜、竭貲聘波斯以歸。莊聞、怒奪所好、途中偶逢、大加詬罵。晟不服、遂嗾從人折箠苔之、垂斃、乃去。杲聞奔視、則兄已死。不勝哀憤。具造赴郡。莊廣行賄賂、使其理不得伸。杲隱忿中結、莫可控訴、惟思要路刺殺莊。日懷利刃、伏於山徑之莽。久之、機漸洩。莊知其謀、出則戒備甚嚴、聞汾州有焦桐者、勇而善射、以多金聘爲衞。杲無計可施、然猶日伺之。一日、方伏、雨暴作、上下沾濡、寒戰頗苦。既而烈風四塞、冰雹繼至、身忽然痛癢不能復覺。嶺上舊有山神祠、強起奔赴。既入廟、則所識道士在内焉。先是、道士嘗行乞村中、杲輒飯之、道士以故識杲。見杲衣服濡、乃以布袍授之、曰、「姑易此。」。杲易衣、忍凍蹲若犬、自視、則毛革頓生、身化爲虎。道士已失所在。心中驚恨。轉念、得仇人而食其肉、計亦良得。下山伏舊處、見己尸臥叢莽中、始悟前身已死、猶恐葬於烏鳶、時時邏守之。越日、莊始經此、虎暴出、於馬上撲莊落、齕其首、咽之。焦桐返馬而射、中虎腹、蹶然遂斃。杲在錯楚中、恍若夢醒、又經宵、始能行步、厭厭以歸。家人以其連夕不返、方共駭疑、見之、喜相慰問。杲但臥、蹇澀不能語。少間、聞莊信、爭即牀頭慶告之。杲乃自言、「虎卽我也。」。遂述其異。由此傳播。莊子痛父之死甚慘、聞而惡之、因訟杲。官以其事誕而無據、置不理焉。

異史氏曰、「壯士志酬、必不生返、此千古所悼恨也。借人之殺以爲生、仙人之術亦神哉。然天下事足髮指者多矣。使怨者常爲人、恨不令暫作虎。」。

   *

例によって柴田天馬氏の訳を掲げておく。一部の読みは省略した。

   *

 

 向杲

 

 向杲は字を初旦と言って、大原の人だった。腹違いの兄にあたる晟(せい)と友于最敦(たいそうなかがよ)かったが、晟には波斯(はし)という狎(なじ)みの一妓(おんな)があって、割臂之盟(ふかいなか)だつたが、女の母親が高いことを言うので、二人の約束は遂げられずにいた。

 そのうちに、女の母親は、堅気になろうという気がでたので、まず渡斯を、どこへかやりたいと願っていると、前から波斯と心やすくしていた荘という家の公子が、身受けをして妾にしたいと言ってきたので、波斯は母に言った、

 「あたしも、いっしょに苦界を出ようと願ってるんだわ! 地獄を出て天堂に登ろうというんだわ! 妾になるんだったら、今と、たいして違わないじゃないの? あたしの願いをいれてくださるんだったら、向さんが、いいのよ」

 母が承知したので、晟に考えを知らせると、晟は妻をなくしてまだ結婚しない時だったから、ひどく喜んで財布をはたき、波斯を聘(めと)って帰ったのであった。

 荘はそれを聞くと、晟が好きな女を取ったと言って怒った。そして、あるとき、途中で晟に会い、たいそう晟を罵ったが、晟が、あやまらないので、供のものに言いつけ、箠(むち)の折れで、ひどく、なぐらせ、晟が死にそうになったのをみて、行ってしまった。

 それを聞いて杲が駆けつけたときには、兄は、もう死んでいた。杲はたらなくかなしかった。腹だたしくもあった。で、すぐ郡に行って訴えたが、荘は広く賄賂をおくって、その理くつを通らないようにした。杲は、くやしいとは思うけれど控訴するみちがないので、待ち伏せをして荘を刺し殺そうと思い、毎日、利刃(わざもの)を懷(の)んで山路の草むらに隠れている、その秘密が、だんだん漏れて、荘は彼の謀(たく)みを知り、出るときには、厳しい戒備(そなえ)をつけていた。そして汾州の焦桐と小う弓の上手な勇士に、たくさんな金をやって、焦を呼び迎え、護衛の一人としたため、呆は手が出せなくなったが、それでも、なお毎日ねらっているのだった。

 ある日、ちょうど、かくれているときだった。雨が、にわかに降ってきたので、ずぶぬれになり、寒さに苦しんでいるうちに、ひどい雨が、いちめんに吹き起こったと思うまもなく、続いて、あられが降ってきた。呆は忽々然(うつとり)して、痛いとか、かゆいとかいう覚えが、もうなくなったのであった。

 嶺の上には、古くから山神の祠があった。呆は強(むりや)りに走って行き、やがて廟にはいると、そこには所識(なじみ)の道士がいた。前であるが、道士がかつて村に乞いに行ったとき、呆は道士に食べさしてやったことがあるので、道士は杲を知っていた。で、杲が、ぬれねずみになってるのを見ると、布の(もめん)の袍(うわぎ)をわたし、

 「とにかく、これと易(か)えなされ」

 と言うので、杲は、それと着かえ、寒さをこらえながら、犬のように、うずくまっていたが、見ると、たちまち毛が生えて、からだは虎になっていた。道士は、もう、いなかったのである。

 杲は、心の中で驚きもし恨みもしたけれど、仇人(かたき)をつかまえて、その肉を食うには都合がよいと思いかえし、峰を下りて、もと隠れていた所へ行って見ると、自分の死骸が草むらの中に臥(ふせ)っていた。で、やっと前身は、もう死んだのだと悟り、烏や鳶の腹に葬られるのが心配だったから、ときどき見まわって守っていた。

 趣日(あくるひ)、ちょうど荘がそこを通ると、たちまち虎が出て、馬上の荘をたたき落とし、首を齕(か)みきって飲んでしまった。焦桐が、とって返して射った矢が、虎の腹にあたって、虎は、ぱったり倒れた。と、杲は在錯楚中(はやしのなか)で、うっとりと目がさめた。そして、ひと晩すぎて、やっと歩けるようになり、厭々(ぶじ)に帰って来たのだった。

 家のものはみんな杲が幾夜も帰らないのを心配しているおりからだったので、彼を見ると、喜んで、慰めたり、たずねたりしたが、呆は、ただ臥(ね)ているはかりで、口がきけなかった。

 しばらくしてから、荘のたよりを聞いて、みんなは枕もとに来て争(われさき)に話して聞かせた。で、杲は、

 「虎は、おれさ!」

 と言って、ふしぎなことを、みんなに話した。それが伝わったので、父の死を痛み嘆いていた荘のせがれは、それを聞くと悪(くや)しがって、杲を訴えたが、役人は事がらが誕(ばから)しいうえに拠(よりどころ)がないので取りあわなかった。

   *

天馬氏がカットした蒲松礼齡の評言は、

――「壯士、酬ひんと志ざさば、必ず、生きては返らず」とは、千古の昔より、人々に如何とも言い難いやるせない思いをさせてきた所のものである。人が誰かを殺すのに手を貸した上、以ってその人の生命(いのち)をも救ったとは、その仙人の術、これ、なんとまあ、神妙なものであることか! それにしても、この世には怒髪天を衝くが如き痛憤なる出来事が実に多い。怨みを懐かさせられる者は、これ、いつも人間なのであって、仮に暫しの間でさえも虎となれぬことを恨めしく思うことであろう。――

といった意味である(訳には平凡社の「中国古典文学大系」版の訳を一部、参考にさせて貰った。]

宿直草卷四 第十一 ゐざりを班(ばけもの)とみし事

 

  第十一 ゐざりを班(ばけもの)とみし事

 

 さる人、西六條にて家老衆(からうしゆ)へ訪(とふ)らひしに、話、時移る内、大夕立(おほゆふだち)しけり。雨止みて獨り歸るに、やうやう暮(くれ)たり。

 長築地(ながつぢ)を東へ、黑門(くろもん)未ださゝざれば、御堂(みだう)の前を歸るに、十四、五間先へ、何なるらん、えも知れがたきもの、行く。

 折節、月射したるに見れば、高さ三尺ばかりに、橫へも同じ程なり。上は圓(まろ)く、下は平(ひら)し。

 後ろへ月射せば、ひかひかと耀(かゝや)く。たゞ鱗(いろこ)のごとし。行くとはすれど、やはかはかも行かず。言語(ごんご)たへて辨(わきま)へがたし。

「何にても、あれ、討つて捨てばや。」

と思ひ、木履(ぼくり)脱ぎ捨て、帷子(かたびら)の裾(すそ)高く取り、するすると走り寄るに、この者、我(わが)氣色(けしき)を見て、

「あゝ。」

といふ聲、又、人なり。さて立ち寄り、

「何者ぞ。」

と云へば、

「これは何時(いつ)も黑門に住むゐざりにてさふらふが、今日(けふ)の白雨(ゆふだち)に門に水漬(みづつ)つき、臥せり申(まうす)べき樣(やう)御座なく、常樂寺樣の御門へ參り候。」

と云ふ。

「げに。」

と思ひ、其姿を見れば、をのれが敷きし古俵(ふるたはら)を背中に負ひ、其上に大きなる縫笠(ぬいかさ)、取り付けたり。

 この笠の、濡れにぞ濡れて、月射す影の竹の皮の乾(かは)く間(ま)なきに、ちらちらと光れり。

 おかしくも哀れなり、となん。

 親のために鹿皮(ろくひ)を被(かふ)れる人、もし、聲せずは、山中(さんちう)に矢を帶(おび)む危うさも思ひやられてぞ侍る。

 

[やぶちゃん注:シミュラクラ系疑似怪談三連発。誤認による殺害の危険性を孕んでいる点で前話とは強く連関する。

「ゐざり」「躄・膝行」などと漢字表記した。動詞「躄(いざ)る」(膝や尻をついて移動する)の連用形の名詞化したもの。足が不自由な障碍者。概ね乞食(こつじき)した。

「班(ばけもの)」この漢字にかく当て訓をするのは私は初見。「班」の字にこのような意味はない。「区別」の意があるから、人とは別な「ばけもの」ということか?

「西六條」現在の京都府京都市中京区西ノ京三条坊町附近(グーグル・マップ・データ)か。「家老衆」とあるからは、この人物、相応の格式の屋敷を訪れたものと思われる。

「長築地(ながつぢ)」底本は「ながちつきぢ」とルビするが、原典では「き」は見えない。「築地」は「築泥(つきひじ)」の転で、土を搗き固めて造り、瓦などで屋根を葺いた築地塀(ついじべい)であるが、ロケーションから、これはそれを屋敷の周囲に築地を巡らした堂上方(どうじょうがた)の邸の長い塀と読める。

「黑門(くろもん)」黒門通か。中央南北(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「黒門通」によれば、『豊臣秀吉による京都改造事業、天正の地割によって猪熊通と大宮通の間に新設された通りである。通りの名は、秀吉によって築かれた聚楽第の東門である「鉄(くろがね)門」の別名「黒門」に由来する。門は黒門通下長者町に存在したとされる』とある。先の三条坊町からは真東で一・六キロメートルほどでこの通りにぶつかる。

「未ださゝざれば」「指さざれば」で、いまだ視認出来ない位置であったということであろう。

「御堂(みだう)」不詳。識者の御教授を乞う。

「十四、五間」二十六、七メートルほど。

「言語(ごんご)たへて」「言語絶えて」が正しい。

「常樂寺」不詳。京都には幾つかの同名の寺があるが、ここまでのロケーション(私の認識に誤りが無ければの話であるが)附近に該当する寺はない。識者の御教授を乞う。

「縫笠(ぬいかさ)」一般には菅笠(単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属カサスゲ Carex dispalata やカンスゲ Carex morrowii の葉を織り編んだ笠)のことであるが、ここはその「竹の皮の乾(かは)く間(ま)なきに」とあるので、竹を薄く削いだものを材料にしたものであるようである。

「親のために鹿皮(ろくひ)を被(かふ)れる人、もし、聲せずは、山中(さんちう)に矢を帶(おび)む危うさも思ひやられてぞ侍る」元の郭居敬が編した二十四人の孝行譚を集めた「二十四孝」の「剡子(ぜんし)」の話である。ウィキの「二十四によれば、剡子には『年老いた両親がおり、眼を患っていた。鹿の乳が眼の薬になると聞いた両親は、剡子に欲しいと願った。剡子は鹿の皮を身にまとい、鹿の群れに紛れて入った。そこへ猟師が本物の鹿と間違えて剡子を射ようとしたが、剡子が「私は本物の鹿ではありません。剡子と言いまして、親の願いを叶えたいと思い、こうやって鹿の格好をしているのです」と言うと、猟師は驚いてその訳を聞いた。孝行の志が篤いので射られずに帰り、親孝行をすることが出来た』とある。]

宿直草卷四 第十 痘する子を化物と思ひし事

 

  第十 痘(いも)する子を化物と思ひし事

 

 闇に燭(しよく)秉(と)らで雪隱(せつちん)へ行く人あり。

 かの開き戸あけて歸るに、長(たけ)三尺ばかりに得知れぬ物立ちゐたり。化物と思ひ、彼奴(きやつ)が手を握り、やがて脇差拔き、斬らんとせしかども、此もの、敢へて驚かず。うはがれたる聲に、

「餠買いに行(い)きました。」

と云ふ。

 其聲、童(わら)べにして、また、化け物とも定(さだめ)がたし。

 しかれども、握りし手の内(うち)、竹の子の根・蛸の手のごとし。

 いかさま、珍しき物と思ひ、

「火を持て、來よ、かゝる事あり。」

と云ふ。人々、

「何事ぞ。」

とて來る。

 さて、火影(ほかげ)に見るに、庖瘡(はうさう)して山上(あ)げたる、五つばかりの女子、頭巾(づきん)の被(かぶ)り樣(やう)おかしく、袖なき衣に帶もせず居(ゐ)たり。内の下女出て、

「隣りの娘にて候。」

とて抱きて行く。

 其の姿と云ひ、聲と云ひ、握りたる手の内まで、異樣(ことやう)にぞ見えし。熱氣に冒(おか)されて來たりしなり。そのまゝ討ち捨(すて)なば、疎忽(そこつ)ならまし。火を待しはいみじくこそ侍れ。

 

[やぶちゃん注:病気の子供の朦朧状態で夢遊病のようにさ迷い出でたのに遭遇してお化けと勘違いした疑似怪談で前話と直連関。

「痘(いも)」「庖瘡(はうさう)」天然痘。私囊 之三 高利を借すもの殘忍なる事の「疱瘡」の注を参照されたい。なお、底本は表題の原典の平仮名「いも」を「疸」とするが、これはおかしく、かく変えた

「雪隱(せつちん)」底本は『雲隠』となっており、ルビもなく、ママ注記さえ、ない。不審に思って原典画像を確認したところ、はっきりと以上のように書かれてある。訂した。

「うはがれたる」嗄(しゃがれ)た。

「餠買いに行(い)きました」口語表現はママ。この台詞が超弩級によい。

「竹の子の根・蛸の手のごとし」或いは天然痘の合併症による皮膚の二次感染や敗血症によって手首に変形が生じていたのかも知れぬが、最後でわざわざ「握りたる手の内まで、異樣(ことやう)にぞ見え」たのであったと言い添えてある以上、単にか細い病んだ女児の手をそのように感じただけととるのがよい。

「火影(ほかげ)」燭の光り。

「山上(あ)げたる」天然痘の症状が最も危険な状態を過ぎることを「山上げ」と称した。

「討ち捨て」「討ち」は原典では「うち」であるが、高田氏の漢字化は正当。ここは斬り捨てて誤って女児を殺害してしまうことを指すからである。

「疎忽(そこつ)ならまし」軽挙妄動の謗りを免れなかったであろう。]

宿直草卷四 第九 月影を犬と見る事

 

  第九 月影を犬と見る事

 

 ある人、五月雨(さみだれ)の晴れ間に、里傳(さとづた)ひの道を行く。月は浮雲の薄きに包まれ、芝生露敷いて、貫(つら)拔き止めぬ玉の數は、崑山(こんざん)もかくやと覺しきに、眺めもいとゞ長き江(え)を、南向(むき)て行く。

 芦(あし)も疎らに刈る澤の文目(あやめ)も分(わか)ぬところに、塘(つゝみ)を沿ふて、白犬あり。礫(つぶて)を以つて追へば、ひたもの、逃ぐ。靜かに行けば、犬も靜(しづか)に、止まれば、犬も止まれり。かくて、追(をふ)と思ひつゝ、十四、五町行く。一聲(こゑ)吠ゆる事もなし。

 それより江の堤には沿はず、我行く道は橫なりしに、犬、見えずなる。

「こは如何に。」

と、又、元の方(かた)へ戾りて見れば、犬、あり。

 不思議の思ひをなすに、何の別の事もなし。

 濁水(にごりみづ)に、曇りし月の影、うつろひしなり。

 犬と思ひし時は月と見えず。月と合點して、何ほど犬に見なさんとせしかども、犬とは嘗て見えざるなり。

「一念の趣くところ、異なものにて、十四、五町迷へり。知りて後は、迷ふて見んと思ひしかども、迷はれず。」

と語れり。

 これやこの、李君が箭(や)走りて堅石(けんせき)を穿ち、王覊(わうき)が戰(いくさ)敗れて深淵を渡ると云ひ、虎と見て射る矢も岩に立つ、と讀みしやまと哥(うた)の例(ためし)か。唯識(ゆいしき)の貴(たふと)き論に、三性(さんしやう)を立(たて)て偏計依他(へんけゑた)の迷ひも、圓成實(ゑんじやうじつ)の明(あきら)かなるに到りては、迷はんと思ふとも、如何で迷はん事を演(のべ)給へり。此話にも知られ侍る。かの金口(きんく)、佛語(ぶつご)に眞(まこと)を教へ、未來を勸(すゝ)むるの巍(よそほい)、その操(みさほ)の貴き、また宜(むべ)ならずや。

[やぶちゃん注:またしても犬で連関するが、これは、心霊が写っているとする悪意のない画像系の、錯視による思い込みを原因としたシミュラクラの完全疑似怪談。

「崑山(こんざん)」中国古代の伝説上の神仙の山で、中国の西方にあって黄河の源と考えられた崑崙山(こんろんざん)のこと。

「江(え)」川。

「芦(あし)も疎らに刈る澤の文目(あやめ)」「あやめ」には「菖蒲(あやめ)」を元として序詞的に引き出した上で、それに「物の区別」の意の「文目」を掛けて下へ意味を繫げた。

「ひたもの」既出既注。副詞で「一途に・只管(ひたすら)・矢鱈(やたら)と」の意。

「十四、五町」一キロ半から一キロ六百メートル強。

「我行く道は橫なりし」「江の堤には沿は」なかったが、堤の陸側の、少し離れた横の、やはり川に附かず離れずの道であった。

「李君が箭(や)走りて堅石(けんせき)を穿ち」「史記」の「李將軍列傳」に出る李広(前漢の武将で、かの李陵の祖父に当たる)の逸話、『廣出獵、見草中石、以爲虎而射之、中石沒鏃。視之石也。因復更射之、終不能復入石矣。』(廣、出でて猟(かり)し、草中の石を見、以つて虎と爲して之れを射、石に中りて鏃(やじり)を没す。之れを視れば石なり。因りて復(ま)た更に之れを射るも、終(つい)に復た石に入ること能はず。)に基づく。これは安静の好きな謡曲の、「戀重荷」にもシテの台詞で『重くとも。思は捨てじ唐國の。虎と思へば石にだに。立つ矢の有るぞかし。いかにも輕く持たうよ』と使われているが、この詞章は寧ろ後の「虎と見て射る矢も岩に立つ、と讀みしやまと哥(うた)」に示した了誉の和歌がネタ元かとも思われる(竹本幹夫氏の『「作り能」の初期形態』(PDF)を参照されたい)。

「王覊(わうき)が戰(いくさ)敗れて深淵を渡る」全く不詳しかし、前の章句と対句になっているから、「王覊」なる武将が「戰(いくさ)」に「敗れて」、失意のどん底の中、敗走した際、その絶望的な意識が物理的外界をも制して、彼は非常に深い「淵を」さえ浅瀬を「渡る」ように渡ってしまっていた、というのであろう。原拠を御存じの方は、是非、御教授願いたい

「虎と見て射る矢も岩に立つ、と讀みしやまと哥(うた)の例(ためし)」これは、

  虎と見て射る矢は石に立つなるをなど我が戀の通らざるらん

という、南北朝から室町中期にかけて生きた浄土宗の学僧で神道・儒学・和歌にも精通した聖冏(しょうげい 興国二年/暦応(一三四一)年~応永二七(一四二〇)年:号は酉蓮社了誉(ゆうれんじゃりょうよ))の「古今集序註」に出る彼の和歌であろう。

「唯識」この世の事物現象は客体として実在しているものではなく、人間の心の根源である「阿頼耶識(あらやしき)」が展開して生じたものに過ぎないとする思想。法相宗(ほっそうしゅう)の根本教義。

「三性(さんしやう)を立(たて)て偏計依他(へんけゑた)の迷ひも、圓成實(ゑんじやうじつ)の明(あきら)かなるに到りては、迷はんと思ふとも、如何で迷はん事を演(のべ)給へり」「三性」はインドの唯識学派の所説の一つで、総ての存在の本性・状態の在り方を有・無・仮(け)・実という点から「遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)」・「依他起性(えたきしょう)」・「円成実性(えんじょうじっしょう)」の三種に分けて説いたもの。「三自性・三性相・三種自性・三相」などとも称する。「遍計所執性」は「遍(あまね)く分別によって構成された性質のもの」「虚妄の存在」という意味で、「世俗的生活で経験される諸々の事物は主観が妄執によって構想したものに過ぎない」「相対的存在」ということを指し、「依他起性」は「他に依存して生起する性質のもの」の意で、「万物は純粋に主観の作用の中に存在するものであって因果関係によって他者に依存して生起するもの」であることを言う。最後の「円成実性」は「円満・完成・真実の性質のもの」という意で、これが「絶対の境地」を表わしているとする。前二者「遍計所執性」と「依他起性」は孰れも無自性であるが、この両者の無自性を正しく認識するとき、存在の絶対的様相、即ち、「円成実性」が真の認識として立ち現われる。それは「無常」であって、変遷する現実世界の中に立ち現れながらも、それは主客の対立を超えているとする。それは「実相・真如・法界」とも呼ばれるものであって,「完全絶対の清澄な悟りの世界」であるとする考え方である(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」を参考にした)。如何で迷はん事を「演」(のぶ)は論理的に説明するの意で、虚妄であり、相対的な存在でしかないシミュラクラを認識した時はその下らない現象(道家思想で言う「物化」)を理屈で真面目に語ったり、或いは完全再現をしたり、今一度同様の意識に立ち戻るなどということは出来ない相談だ、と反語で言っているのである。

「金口」「きんこう・こんく」とも読む。釈迦の口を尊んでいう語で、転じて広く釈迦の説法を指す。

「未來」来世。ここは正しき仏法の王国としての極楽浄土。

「巍(よそほい)」当て訓(歴史的仮名遣の誤りはママ)。「巍」の原義は「高い」「高大なさま」で、現行でしばしば使われるこの字の唯一の熟語「巍然」は山の高く聳えて広大なさま以外に、人物が甚だ優れていることの形容として用いられる。]

2017/07/20

宿直草卷四 第八 冷食を盜む犬の事

 

  第八 冷食(ひへめし)を盜む犬の事

 

 寛永七八年の比、河内高安より、越前北の庄へ下る、木綿商人(あきんど)あり。

 その年のみにもあらず、前つかたも度々下りければ、其問屋(といや)の下女に枕ならべ、旅寢の床の情け深きに、此下女を、宿の妻、朝每(ごと)に叱る。いと笑止なれば、下女に、

「何事にかくは叱らるゝ。」

と云ふ。下女、

「その事よ、こゝに不思議なる事こそさふらへ。昨夜(よべ)の冷飯(ひへめし)、櫃(ひつ)に入置き候に、今朝見ればなし。誰がわざとも知れず。我より外に知る者あらじ、と叱らるゝ。指圖(さしず)し給ふも尤(もつとも)なれども、ゆめ、さら、知らぬ事にこそさふらへ。かゝる事語るも、面(おも)なし。」

など云ふ。

 商人、聞きて、

「しからば、もの一夜の事、如何でつけて見ぬぞ。」

と。下女のいはく、

「誰か等閑(なをざり)ならん、なれど、朝六(あさむつつ)、夕(ゆふ)さり四つ過(すぎ)て臥(ふす)ゆへ、えも見屆(とゞ)けで臥(ふす)。」

と云ふ。

「さらば、我、つけて見ん。」

と、その夜、待つに、人靜まりて、外面(そとも)の戸、開(あ)く。

「あは。」

と見るに、また中戸のくゞり、開くる。よく見れば、いつも庭にゐる白犬なり。

 しばし、四方を見𢌞(みまは)し、大釜(おほかま)の上へ上がり、それより筋易(すちかひ)に、七尺ばかりの棚へ、やすやすと飛(とび)あがり、櫃、銜(くは)へ、下(お)りて、蓋(ふた)開(あ)け、中なる飯(めし)、皆、喰らひ、元のごとくにして戸を開(あ)け、また、閉めて外へ出づる。其ありさま、愚かなる人間には過(すぎ)たり。

「さて、盜人(ぬすびと)は知れたり。」

と臥(ふし)ける。

 夜明(よあけ)て、宿の妻、又、下女を呼び、櫃、見せて訇(のゝし)る。商人、側(そば)に寄り、

「冷飯の事ならば、これに飼(かひ)給ふ犬が喰らひ候。」

と云ふ。

 亭夫婦(ていふうふ)、聞きて、

「如何で贔屓(ひゐき)はし給ふ。二重(ふたへ)の戸開けて、如何で狗(いぬ)の盜まん。」

と云ふ。

「さらば、行く夜、つけて見給へ。」

と云ふ。

 商人の云ふにまかせて、つけてみるに、違(たが)ふ事なし。

 亭主、呆れ果(は)て、翌朝(あくるあさ)、犬を庭へ呼び、

「扨々、をのれ、畜生の分(ぶん)として、二重(ふたへ)の戸を開(あ)けて盜みをせし事よ。商人殿の、宣(のたま)はずは、知るべきか。憎き奴(やつ)かな。」

と叱る。

 犬、耳を垂れ、身震ひして、去りぬ。

 さてこそ、盜みをも、下女(しもおんな)かと疑ひしも晴れてこそ侍れ。

 かの商人の臥(ふす)所は二階にて、箱階(はこばし)あるに、其夜、例(れい)の犬、葭(よし)一本、銜へて來る。不審に思ひ、寢たる顏(がほ)にこれを見れば、わが堅橫(たてよこ)の長(たけ)、比べて歸る。つけ送りて見るに、家の裏に穴を掘る。葭の長(たけ)にて、これを比(くら)ぶ。

「さては。我を殺さん工(たくみ)ぞ。」

と心得、大小をとり、帶(おび)をして、枕に夜着(よぎ)引かづけ、別(よ)の間(ま)へ入(いり)て覗きて見るに、犬、二階に來たり、喉(のど)の邊りと志(こゝろざ)して一文字(いちもんじ)に飛(とび)かゝるに、人無かりければ、大きに怒り、夜着を三つ、四つに喰らい破り、外へ出でしが、大方(おほかた)危うくぞ見えける。

 夜明(よあけ)て、亭主に語る。

「夜着を喰らひ、穴を掘りしありさま、人間には勝(まさ)りたり。」

「いで、其犬、殺さん。」

と犇(ひしめ)けど、行衞(ゆくゑ)、さらになし。

 商人も越前より歸り、再び行かずとなん。

 鹽賣(しほう)りが科(とが)は、榑賣(くれう)り、さらに知らず。無實(むじつ)を負(おほ)すべからず。菅相(かんしやう)獨り、是を悲しめり。凡そ、人を使ふ人、よく思慮すべし。犬の科(とが)を下女の得しは、如何に悲しからん。忠の疑はしきは祿(ろく)し、罪(つみ)の疑はしきは宥(なだ)むとは、君主の軌(のり)、先生の句(ことば)なり。

 間(まゝ)、大人の上(うへ)に正直(せいちよく)の袖も、ねぢけ人の唇(くちびる)により、あたら、名を罪に充(あて)られ、思ひの外の災ひに遭ふあり。鹽治(ゑんや)が忠も師直(もろなふ)が讒(ざん)によりて、惜しき勇士も路頭に滅ぶ。「晏氏春秋(あんしししゆんじう)」に、『景公(けいこう)の家の鼠を憂(うれ)へ、出(いで)ては君の威を借り、入(いり)ては君の傍(かたはら)にあり』と。ものゝ害ある人を病(やめ)り。今とても家々にもて扱(あつか)ふたる人、星(ほし)のごとくあるべし。君としてその臣を知らずは、家、整(ととの)ほらじ。猶、御前(おまへ)追從(ついせう)聞き紛(まが)ひ給ふ師(ひと)は、其(その)智(ち)の淺きゆへか。

 

[やぶちゃん注:前話とはある意味で人に執心(恋情・怨恨)を持った超常的犬を主要登場人物とする点で強く連関するが、それ以上に、この一篇は、主人公の商人の出身地を「高安」とする点、犬が「飯」を「櫃」から「手ずから」取り出して食うとシチュエーションから見て、明らかにかの「伊勢物語」の第二十二段、「筒井筒」の最後の部分、「河内の國高安の郡に」作った愛人のところへ、「まれまれ」「來てみれば、初めこそ心にくくもつくりけれ、今はうちとけて、手づから飯匙(いひがひ)取りて、笥子(けこ)の器物(うつはもの)に盛りけるを見て、心憂(こころう)がりて行かずなりにけり」のパロディであることが見え見えである(と私は思う)。だから私はあまり面白いとは思わぬし、最後のとってつけた教訓も歯が浮くようで厭な感じだ。

「寛永七八年」一六三〇~一六三二年。

「河内高安」現在の大阪府八尾市内に古くからある地名。同市の東部の玉串川沿いの旧大和川堤防跡の東から生駒山地の奈良県境にかけての広範囲に亙る広域。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「越前北の庄」現在の福井県福井市の旧地名。

「いと笑止なれば」殆んど毎日叱られているのを見るので、あまりにも面白おかしく思って。

「指圖(さしず)」(お前がこっそり食ったのだろうと暗に)指弾されること。

「面(おも)なし」恥ずかしくて面白くないことです。

「もの一夜の事」ただ一晩ばかりのことじゃないか。

「如何でつけて見ぬぞ」どうして寝ずの番をして見張って見ないんだ?

「誰か等閑(なをざり)ならん」それはその通りで、私だって濡れ衣着せられて、そのままじゃいられません。

「朝六(あさむつつ)」午前六時頃。

「夕(ゆふ)さり四つ」午後十時頃。

「愚かなる人間には過(すぎ)たり」愚鈍な人間なんぞに比べたら、遙かに敏捷なだけでなく智恵が働いている行動であった。

「訇(のゝし)る」「訇」は原義は音「コウ」で大きな声の形容。

「如何で贔屓(ひゐき)はし給ふ」当然ながら、下女と商人の関係を受けた批判。

「行く夜」今夜。

「商人殿の、宣(のたま)はずは、知るべきか」反実仮想的な謂い。「かの商人(あきんど)さまがおっしゃられなかったならば、我ら、ことの真相を知ることが出来なかっただろうに。」。

「箱階(はこばし)」側面に戸棚や引出などを設けた収納家具兼用になっている階段。「箱階段」「箱段」などとも呼ぶ。

「葭(よし)」葭簀や屋根葺材などに棒状の茎を用いる単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis

「つけ送りて」あとをつけて行って。

「大小」打ち刀と脇差。一部の有力な豪商などは町人身分であっても苗字帯刀を許されたケースがある。

「引かづけ」「引(ひつ)被(かつ)げ」。なるべく姿を隠すためにひっかぶったのである。

「大方(おほかた)危うくぞ見えける」そのまま気づかずに襲われていたら、命も危うい状況だったと冷や汗をかくような状況であった。

「夜着を喰らひ、穴を掘りしありさま、人間には勝(まさ)りたり。」「いで、其犬、殺さん。」の独立させた台詞は底本では地の文で連続しているが、恣意的に分離して前者を商人、後者を亭主の台詞として、臨場感を出した。後者の「其犬」という謂いからは、商人だけの台詞として独立させたほうがよいかも知れないが、そうすると、直後の「犇(ひしめ)けど」(二人以上が集まって大騒ぎをする)のエキサイト感が生きてこないと判断した。

「鹽賣(しほう)りが科(とが)は、榑賣(くれう)り、さらに知らず」「榑賣(くれう)り」の「榑(くれ)」は一定の大きさに割られた比較的薄い板材の一種で、屋根葺き火つけ木・薪などに用いた。それを売る行商人である。ここは鎌倉時代の僧無住の著した「沙石集」の「卷第五」にある「六 學匠の見解僻む事」に基づく謂い。原文を所持するが、注が必要になるので、簡単に述べると、自分の思い込みで安い塩を高い絹で交換した学僧が、弟子たちにそれはとんでもない高い買い物してしまったと指摘されて、恥じ入りつつも、内心、騙されたと不満を持っていたところが、翌日、全く関係ない別人の榑売りが来たのを「昨日は貴様に騙された!」と棒を以って打とうとする。弟子たちがこれは榑売りで昨日の塩売りとは違いますと注意したところが、学僧は、「御房達は本より非學生にて、子細しらぬさかしらする物哉。鹽賣は鹽賣、榑賣は榑賣とは、別教の心なり。圓教(ゑんげう)の心には、榑賣、卽、鹽賣、鹽賣、卽、榑賣なり。」と言って叱ったので、弟子たちは榑売りを蔭に呼んで幾許かの銭を摑ませて早々に帰らせた、というエピソードをもとに、半可通の仏法認識から誤ったトンデモ行動をしてしまったこの学匠を批判した条々である。「圓教」とは総てが差別を超えて互いに融け合って互いに完成するとする天台教学において特に多用される考え方である。

「菅相(かんしやう)獨り、是を悲しめり」「菅相」は稀代の学識者でありながら、左大臣藤原時平に讒訴され、その冤罪によって失脚した菅原道真で、彼だけが真の仏法の真の実相、円教(えんぎょう)の真意を摑み、それがこの世では全く理解されない、誰一人判っていないことを悲しんだというのであろう。何か、道真のより具体的なエピソードを元にしているのかも知れぬが、私にはその原拠は判らぬ。識者の御教授を乞うものである。

凡そ、人を使ふ人、よく思慮すべし。犬の科(とが)を下女の得しは、如何に悲しからん。忠の疑はしきは祿(ろく)し、罪(つみ)の疑はしきは宥(なだ)むとは、君主の軌(のり)、先生の句(ことば)なり。

「間(まゝ)」副詞。時に。

「大人のうへに正直(せいちよく)の袖も、ねぢけ人の唇(くちびる)により、あたら、名を罪に充(あて)られ、思ひの外の災ひに遭ふあり」「袖」は「人・存在」の意で、まさに直前の道真のケースに代表されるような讒言による失墜の悲劇の事例を言っているのであろう。

「鹽治(ゑんや)が忠も師直(もろなふ)が讒(ざん)によりて、惜しき勇士も路頭に滅ぶ」鎌倉後期から南北朝にかけての武将塩冶判官高貞(?~興国二/暦応四(一三四一)年)は鎌倉幕府滅亡の二年後の建武二(一三三五)年の中先代の乱の後、関東で自立して権勢を持った足利尊氏を討つべく、東国に向かう新田義貞が率いる軍に佐々木道誉と参陣するも、箱根竹ノ下の戦いで足利方に寝返り、室町幕府にあっては出雲国及び隠岐国の守護となった。しかし、尊氏の側近高師直(こうのもろなお ?~正平六/観応二(一三五一)年)の讒言によって謀反の疑いをかけられて領国出雲に向けて逃走、山名時氏らの追討を受けて妻子らは播磨国で自害した。彼自身は出雲に帰りついたが、家臣から妻子自害の事実を聞き、同じく自害して果てた(以上はウィキの「塩冶高貞に拠った)。

「晏氏春秋」春秋時代の斉に於いて霊公・荘公・景公の三代に仕えて宰相となった名臣晏嬰(あんえい ?~紀元前五〇〇年)に関する言行録を纏めたもの。著者不詳。内篇六巻・外篇二巻の計八巻から成り、内篇は晏嬰が仕えた君主への諫言に纏わる説話が記されている(以上はウィキの「晏氏春秋に拠った)。

「景公(けいこう)の家の鼠を憂(うれ)へ、出(いで)ては君の威を借り、入(いり)ては君の傍(かたはら)にあり」私は「晏氏春秋」を読んだことがないので、文字列をぼんやり見て思っただけであるが、これは例えば、同書の以下の部分を指すか。個人ブログ「IKAEBITAKOSUIKA」の景公問治國何患晏子對以社鼠猛狗君主が国を治めるとき患うこととは、晏子春秋・内篇・問篇・問上 第九を参照されたい。原文・訓読・現代語訳が出る。

「ものゝ害ある人を病(やめ)り」意味不詳。或いは「ものの害、或る人を病めり」で、「ある種の精神的な害毒は或う種の人の精神を蝕むものである」という謂いか? 識者の御教授を乞う。

「家、整(ととの)ほらじ」家が安泰に立ち行くことは、これ、あるまい。

「御前(おまへ)追從(ついせう)聞き紛(まが)ひ給ふ師(ひと)」佞臣や企みごとを腹の中の潜ませた悪賢い親しい者の御追従をそのままに受け取ってしまわれるような御仁は。]

甲子夜話卷之四 17 大岡、神尾、乘邑の器量を賞する事

 

4-17 大岡、神尾、乘邑の器量を賞する事

大岡越州の、山田奉行より德廟の御鑑を蒙り、寺社奉行までに陛りしことは、世の人知る所なり。其人才智も衆に勝れたりしが、常に儕輩に對して松平左近將監計は、其才智の敏捷なること梯しても及ぶべからずと云しとなり。その故は、事もつれて入組、いかんとも斷案しがたき公事訴訟の類を、數日を費して調べ、漸條理貫通するやうになりたることを持出て、左監へ申せば、其半にも至らぬ内に、此事はかくかく移りて、かく結局すべし。さればかくは斷案せらるゝ心得かと、先より申さるゝことの、いつも露違ふこと無りしとぞ。左候と云へば、夫にてよし。今日は事多ければ、詳に承るに及ばずなどありしこと、常の事なりしと云。かゝる神妙の才、亦世に出べしとも思はれずと、人に語りしとなり。又神尾若狹守、享保中司農の長官にて、種々の功績ありしこと、これも亦人の能知れる所なり。若狹守の申たるは、左近將監ほど人をよく使ふ人は無し。あの如く使はれては、誰にても働らかねばならぬと云ける。その故は、あるとき若州病より起て登營し、左近に謁すれば、病氣快やとの尋なり。若州いやとよ未だ全く快らず、此節御用差支べしやと存ずるまま、押て出勤せしと答へしかば、左近色を正くして、其許出勤せずとて御用の支あるべしやと、苦々しく申されければ、若州も失言を悔て退きぬ。扨若州、朝散して家に歸れば、左近より使なり。書札を披讀すれば、病後食氣も未だ薄かるべし。此品調理ほゞよく覺へたれば、分ち進ずとて、鱚の製したるを小重に入れて送りしとなり。

やぶちゃんの呟き

「大岡」御存知、名奉行大岡越前守忠相(延宝五(一六七七)年~宝暦元(一七五二)年)。千七百石の旗本大岡忠高の四男として江戸に生まれたが、貞享三(一六八六)年満九歳で同族の旗本大岡忠右衛門忠真の養子となって忠真の娘と婚約した。第五代将軍徳川綱吉の時代に寄合旗本無役から元禄一五(一七〇二)年に書院番となり、翌年には元禄大地震に伴う復旧普請のための仮奉行の一人を務め、宝永元(一七〇四)年には徒頭、三年後の宝永四年には使番、翌宝永五年に目付に就任、幕府官僚として成長、第六代将軍家宣の時(正徳二(一七一二)年一月)に遠国奉行の一つである山田奉行(伊勢奉行)に就任した。七代将軍徳川家継の時代の享保元(一七一六)年には普請奉行となって江戸の土木工事や屋敷割りを指揮、同年八月に吉宗が将軍に就任すると、翌享保二年に江戸町奉行(南町奉行)となった(以上はウィキの「大岡に拠った)。

「神尾」「かんを」と読む。旗本神尾若狭守春央(かんおはるひで 貞享四(一六八七)年~宝暦三(一七五三)年)。ウィキの「神尾春央によれば、『苛斂誅求を推進した酷吏として知られており、農民から憎悪を買ったが、将軍吉宗にとっては幕府の財政を潤沢にし、改革に貢献した功労者であった』とある。『下嶋為政の次男として誕生。母は館林徳川家の重臣稲葉重勝の娘。長じて旗本の神尾春政の養子とな』。元禄一四(一七〇一)年に仕官し、『賄頭、納戸頭など経済官僚畑を歩み』、元文元年(一七三六)年に勘定吟味役、翌年には勘定奉行となった。時に『徳川吉宗の享保の改革が終盤にさしかかった時期であり、勝手掛老中・松平乗邑の下、年貢増徴政策が進められ、春央はその実務役として積極的に財政再建に取り組み、租税収入の上昇を図った。特に』延享元(一七四四)年には『自ら中国地方へ赴任して、年貢率の強化、収税状況の視察、隠田の摘発などを行い、百姓たちからは大いに恨まれたが、その甲斐あって、同年は江戸時代約』二百六十『年を通じて収税石高が最高となった』。『しかし、翌年』、ここに出る『松平乗邑が失脚した影響から春央も地位が危うくなる。春央は金銀銅山の管理、新田開発、検地奉行、長崎掛、村鑑、佐倉小金牧などの諸任務を』一『人で担当していた他、支配役替や代官の所替といった人事権をも掌握していたが』、延享三年九月に『それらの職務権限は勝手方勘定奉行全員の共同管理となったため』、彼の影響力は著しく減衰した。『およそ半世紀後の本多利明の著作「西域物語」によれば、春央は「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と述べたとされており、この文句は春央の性格を反映するものとして』『広く知られている』。『また、当時の勘定組頭・堀江荒四郎芳極(ほりえ あらしろう ただとう)と共に行った畿内・中国筋における年貢増徴の厳しさから、「東から かんの(雁の・神尾)若狭が飛んできて 野をも山をも堀江荒しろ(荒四郎)」という落書も読まれた』とある(この最後の落書のエピソードは本「甲子夜話」が出典)。

「乘邑」松平左近将監(さこんのしょうげん)乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)。肥前唐津藩第三代藩藩主・志摩鳥羽藩藩主・伊勢亀山藩藩主・山城淀藩藩主・下総佐倉藩初代藩主。老中(享保八(一七二三)年就任)。複数回既出既注

「御鑑」「御感」の誤字であろう。

「陛りし」「のぼりし」。

「儕輩」「さいはい/せいはい」仲間。同輩。同僚。

「計は」「ばかりは」。

「梯」底本では『てい』とルビする。梯子(はしご)のこと。

「入組」「いれくみ」。

「公事訴訟」「くじそしよう」。現在の民事事件の裁判。

「類」「たぐひ」。

「漸」「やうやく」。

「持出て」「もちいでて」。

「其半にも至らぬ内に」「其半」は「そのなかば」。報告内容の詳細な説明が半分も終わらないうちに。

「此事はかくかく移りて、かく結局すべし。さればかくは斷案せらるゝ心得か」「この公事訴訟案件はそこからこれこれのように推移して、このように結果したものと推測される。さればこれこれといったような裁きを、貴殿は決せられのではないかと推察するが、如何?」。

「先より申さるゝこと」これから拙者がお話しようとした経緯の推移とその結審案を、みるみるうちに簡潔に推測なされて申される、その内容は。

「露違ふこと無りし」「つゆたがふことなかりし」。仰せられた内容には、ほんの少しも違っていることがなかった。

「詳に」「つまびらかに」。

「出べし」「いづべし」。

「享保中」一七一六年~一七三六年。

「司農」(しのう)は中国古代の官名で農政を司ったことから、幕府の財政担当業務の長官であった勘定奉行の別称。

「能知れる」「よくしれる」。

「起て登營し」「起て」は「たつて」。病身を無理におして登城し。

「快や」「よきや」。底本のルビに従った。

「尋」「たづね」。

「差支べしや」底本ではルビして「さしつかゆべしや」と読んでいる。

「押て」「おして」。

「其許」「そこもと」。

「支」「つかへ」。

「悔て」「くひて」。

「朝散」「てうさん(ちょうさん)」は江戸城を下がること。

「使」「つかひ」。

「病後食氣も未だ薄かるべし」病み上がりで食欲もまだあまりないことと推察仕る。

「此品調理ほゞよく覺へたれば」この品はちょっとばかり上手く料理(つく)ることが出来たと思うたによって。

「鱚」高い確率で条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目キス科キス属シロギス Sillago japonica である。身は脂肪が少なく柔らかい白身で美味とされる。白鱚の旬から見てもこのシークエンスは夏と思われ、病み上がりの贈答で「製したるを小重に入れて送りし」とあることからも、これは酢塩でしめたものと推察される。

譚海 卷之二 豆州大島火をふりて燒たる事

○安永六年夏の比より、伊豆大島燒(やけ)はじめて、海南へ火もえ出(いづ)る事あり。房州瀕海の地はこの燒(やく)るひゞき、地にこたへて地震(なゐ)のごとく、津浪あるべしとて恐怖にたへず。此もゆる火光(くわかう)夜には品川沖或ははねだ邊まで天に映じて見えたり。翌年猶もゆる事たえず、やうやくにして止(やみ)たり。

[やぶちゃん注:これは伊豆大島三原山の安永の大噴火である。三原山の歴史噴火記録が十分残されている大規模噴火の一つで安永六(一七七七)年から翌年にかけて発生した。ウィキの「伊豆大島」によれば(記載が総てグレゴリオ暦なので独自に旧暦換算もしておいた)、一七七七年八月末(安永六年七月下旬相当)に『カルデラ内の山頂火口から噴火が始まり、火山毛』(かざんもう:「ペレーの毛」(英語:Pele's hair:「ペレー」はハワイに伝わる火山の女神の名。火山の爆発の際にマグマの一部が引き伸ばされて髪の毛状になったものを指す。主に玄武岩由来のガラス質からなる褐色の細い単繊維で、典型的なものは断面が円形に近く、直径は〇・五ミリメートルより細く、長さは最大二メートルにも及ぶことがある)やスコリア(英語:scoria:火山噴出物の一種で塊状を成す多孔質のガラス質物質の中でも暗色のものを指し、「岩滓(がんさい)」とも呼ぶ。主に玄武岩質のマグマが、噴火の際に地下深部から上昇、減圧することによってマグマに溶解していた水などの揮発成分が発泡したために多孔質となったものである)『の降下があった。山頂噴火活動は比較的穏やかだったが』、翌一七七八年二月末頃(安永七年一月末から二月末相当)まで続き、同年四月十九日(安永七年三月二十二日)から『激しい噴火が始まり、降下スコリアが厚く堆積し、溶岩の流出が起こった。このときの溶岩流は北東方向に細く流れ、泉津地区の波治加麻神社付近まで流れ下った』。五月末頃(安永七年六月下旬相当)には一旦、噴火が沈静化したものの、十月中旬頃(安永七年八月下旬相当)より再び噴火が激しくなり、十一月(安永七年九月中旬から十月中旬相当)には『再び溶岩の流出が起こった。このときの溶岩流は三原山南西方向にカルデラを超えて流れ下ったほか、やや遅れて北東方向にも流れ、現在の大島公園付近で海に達した。溶岩の流出などは年内には収まったが』、一七八三年(天明三年)から『大量の火山灰を噴出する活動が始まり』、一七九二年(寛政四年)まで実に最初の兆候から十五年ほどに亙って『噴火が続いた。このときの火山灰の厚さは中腹で』一メートル以上に『達し、人家、家畜、農作物に大打撃を与えた』とある(下線やぶちゃん)。私は一九八六年十一月二十一日に始まった大噴火(溶岩噴泉高度千メートル以上、噴煙高度一万メートルに達した)を、翌日の夜、友人の車で遊びに行った江ノ島から偶然に目撃した。海上に妖しく垂直に立ち上ぼるオレンジ色のやや太い火の柱をよく覚えている。

{ふりて」は「降りて」或いは「振りて」で「降らして」或いは「火を振り散らすようにして」の謂いであろう。「燒たる」は「やけたる」と訓じておく。
  
「海南」底本では「南」の下にポイント落ちで「邊」の訂正注がある

「地震(なゐ)」読みは私の推定

「品川沖」三原山山頂からは直線で百キロメートルほど。

「はねだ」羽田沖で九十五、六キロメートルほど。最初に注した私が見た江ノ島は六十四キロメートルほどである。]

譚海 卷之二 上總國笹栗幷山邊赤人の事

○上總の方言に、古城の跡又は陣屋などをきでと云(いひ)、城出(きで)と云(いふ)也。又山の邊郡といふ所のくりの木は、みな高さ四五尺程にて悉く實(み)のる、[やぶちゃん注:読点はママ。]笹栗と稱してその國の名物也。他邦の栗は喬木にならざれば實とまる事なし。山の邊に限りて栗の大木なし。この山の邊は歌仙赤人の生國なり。大和の國にも同名あれど、上總國正統のよしその處の人いひ傳ふ。萬葉集に赤人の眞間の詠歌あるも、郷國ゆゑ往來して詠ぜしなるべしと云。

[やぶちゃん注:冒頭は前条の方言談と連関している。

「山邊赤人」(やまべのあかひと ?~天平八(七三六)年?)は言わずもがな、柿本人麻呂とともに歌聖と讃えられる万葉歌人。

「きで」「城出」不詳。「日本国語大辞典」には見出しとして「きで」はない。但し、余湖氏の優れた城跡サイトのこちらに千葉県にある「木出城(吉岡城・四街道市吉岡字木出)」(吉岡地区は(グーグル・マップ・データ))の記載があり、その説明の最後に『「木出」の地名は「城出」あるいは「城台」がなまったものではないかと考えられている』とあるから、この「きで」「城出」という語は確かに千葉に存在したことが判る。

「山の邊郡」上総国及び旧千葉県にあった山辺郡(やまべぐん)。位置はウィキの「山辺郡(千葉県)で参照されたい。

「笹栗」ブナ目ブナ科クリ属クリ Castanea crenata の中でも、現在の各栽培品種の原種で山野に自生するものを指す。「シバグリ(柴栗)」「ヤマグリ(山栗)」などとも呼ばれ、栽培品種はこれに比べて果実が大粒である。現在でもこの原種はごく一部で栽培されているとウィキの「クリにある。

「他邦の栗は喬木にならざれば實とまる事なし」意味不詳。栗の木は喬木になるでしょう?! 後の「山の邊に限りて栗の大木なし」とも矛盾した謂いとしか読めぬ。そもそも私の家の裏山にも高木の自生の栗の木がゴマンとあるぞ! 「實とまる事なし」の意味も分らん(実の歩留まりが悪いということ?)! お手上げ! どなたか御教授あれかし!

「この山の邊は歌仙赤人の生國なり」千葉県安房郡鋸南町町役場公式サイト内のきょなんのむかしばなしの「田子の浦」に、「万葉集」の『山部赤人の有名な歌「田子の浦ゆ うち出てみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」にある、田子の浦は、勝山海岸という説があります。江戸時代の神代学者、山口志道が発表した説です。勝山の田子台の下の海が田子の浦と呼ばれていたこと、赤人が上総国山辺郡(東金市)出身であるらしいことなどが根拠です。昔から富士の名所の鋸南』で、『冬の晴れた日などは、対岸の富士山は、すばらしくきれいに見えます』とある。

「大和の國にも同名あれど」かつての大和国にあり、現在も奈良県に山辺郡として残る。旧郡域や位置はウィキの奈良県山辺郡を参照されたい。古代、この山辺郡内であった奈良県宇陀市の額井岳の麓に「赤人の墓」と伝える五輪塔が現存する。中村秀樹氏のブログ「奈良に住んでみました」ので墓の画像が見られる。

「赤人の眞間の詠歌」「万葉集」の「卷第三」の三首の挽歌(四三一から四三三番歌)を指す。

 

  勝鹿(かつしか)の眞間娘子(ままのをとめ)が

  墓を過ぎし時に、山部宿禰(すくね)赤人の作る

  歌一首幷(あは)せて短歌

 

古(いにしへ)に ありけむ人の 倭文幡(しづはた)の 帶解き交(か)へて 臥屋(ふせや)建て 妻問(つまど)ひしけむ 勝鹿の 眞間の手兒名(てこな)が 奥つ城(き)を こことは聞けど 眞木(まき)の葉や 茂りたるらむ 松が根や 遠く久しき 言(こと)のみも 名のみも我われは 忘らえなくに

 

   反歌

 

我も見つ人にも告げむ勝鹿の眞間の手兒名が奥つ城處(きどころ)

 

勝鹿の眞間の入江に打ち靡(なび)く玉藻苅りけむ手兒名し思ほゆ

 

「勝鹿」は現在の東京都葛飾区や埼玉県北葛飾郡及び千葉県市川市真間などの江戸川流域を指す。「倭文幡(しづはた)」は中国伝来の唐織(からおり)に対して、本邦に古来から伝わる地味で落ち着いた織り物のこと。私は高校時代に「真間の手児名」の話を知り、大学一年の春、市川に住む友人の案内で真間を訪れ、手児名の井戸や霊堂を巡ったことがある。懐かしい思い出である。]

譚海 卷之二 伯州丈次郎岩の事

 

伯州丈次郎岩の事

○中國の北の海邊の方言に坂をたをと云(いひ)、きのこをなはと云(いふ)。四十里たをといふ處(ところ)伯州(はくしう)の内にあり、三坂也。又(また)丈次郎岩といふあり、高さ二三丈程あり、その下(した)蜂(はち)の巣の如く穴明(あき)たり。往來の人くゞり通る、出雲より石見へ通ふ北海也。

[やぶちゃん注:「たを」「日本国語大辞典」に「たお(歴史的仮名遣:たを)」、漢字の「撓」を当て、『①山頂の道のあるところ。峠』とし、『②山と山とのくぼまっているところ。鞍部』とした上で、方言の二番目(一番目は鞍部のそれ)として『山の峠』を挙げ、兵庫県・鳥取県・石見・山口県などの中国地方を採集地としている。「坂」の方言とはしないものの、「山の峠」は同時に「坂」である

「なは」「日本国語大辞典」には「なば」と濁音で載り、『「きのこ(茸)」の異名』と明記した上で方言として『①きのこの笠』(島根県)、『②きくらげ(木耳)』(福岡県)、『③まつたけ(松茸)』(奈良県と広島県)、『④きのこ類の総称』(中国及び九州・石見広島県山口県及び九州各地)を挙げており、中国地方から南に広く分布することが示されてある。

「四十里たをといふ處伯州の内にあり、三坂也」「伯州」は伯耆国で現在の鳥取県中部及び西部域であるから、これは「三坂」と地名(坂名?)からは現在の鳥取県西伯郡大山町今在家(大山の西北)にある三坂峠が候補としてまず挙げられる。「峠データベース」のこちらで位置が確認出来る。しかし、最初の「四十里」坂(たお)の名を重視するならば、鳥取県日野郡日野町と岡山県真庭郡新庄村との間にある「四十曲峠(しじゅうまがりとうげ)」というのも気になってくる。上記の三坂峠の別称には「四十里峠」というのは見当たらないことと、「里」は草書の「曲」の字と誤読とも思われなくもないからである。なお、伯耆国ではないが、同じ中国地方の島根県邑智郡邑南町と広島県山県郡北広島町を結ぶ峠に「三坂峠(みさかだお)」という峠が存在することも付記しておきたい。

「丈次郎岩」不詳。識者の御教授を乞う。島根県益田市匹見町道川下道川下に丈次郎城という城があったらしいが(城跡として残る)、ここは「出雲より石見へ通ふ北海」ではない山家であるから違う。

「二三丈」約六~九メートル。]

譚海 卷之二 濃州養老の瀧神社黃金竹の事

○美濃養老の瀧の邊に神社あり。その社(やしろ)のうしろに黃金竹(こがねたけ)といふもの年々二本づつ叢生す。壹年限かぎり)にて枯(かる)る、黃金の色にして異竹也。他所に移し植れども生ずる事なし、江戸へも持來(もちきた)りしを見しに、誠に其ことのごとし。

[やぶちゃん注:「美濃養老の瀧」現在の岐阜県養老郡養老町にある落差三十二メートル、幅四メートルの瀧。鎌倉時代の「十訓抄」の「第六」の「忠直を存ずべき事」 の第十八話にある「養老の孝子」や、同期の「古今著聞集」の「卷八」に載る「孝行恩愛 第十」等に記される瀧水が酒になったという親孝行奇譚の古伝承などでよく知られる。

「神社」養老神社。(グーグル・マップ・データ)。養老の滝の四百メートルほど下流の左岸に位置する。

「黃金竹(こがねたけ)」読みは日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」の黄金竹」に拠った。同記載は本「譚海」のこの記載を原出処とする。なお、現在、黄金竹なる和名を持つ竹は実在する。単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科マダケ属マダケ Phyllostachys bambusoidesの品種であるオウゴンチクPhyllostachys bambusoides f. holochrysa である。竹図鑑」同種解説によれば(リンク先に写真有り)、『マダケの黄金型』で、稈(かん:竹の中空になっている茎部分の植物学上の呼称)が黄色を呈し、『緑の縦縞が不規則に入る場合もある』。但し、現在、この竹が同地のみに特異的に植生しているなどということは確認出来なかった(ネット検索で掛かってこない)。画像を見る限り、黄金というほどのことはなく、寧ろ、普通に乾燥させた竹の色に似ているように私には見える。

「誠に其ことのごとし」事実、その噂通り、根づかなかったというのである。しかもその枯れたものを津村は実際に見たと言っている。植物の実見談として前の萩譚などとやはり連関した記載と言える。]

譚海 卷之二 藝州嚴島明神の鳥居

○藝州嚴島明神の鳥居は、萩とつゝじの樹とを以て建(たて)たる二柱なりとぞ。安永八年夏雷火にて燒亡せり。五百年來をへて希代のもの也しを、此度(このたび)燒亡せし事誠に惜むべき事也。

[やぶちゃん注:前二項と合わせて萩絡み(仙台は躑躅の名所でもあるからその絡みもある)で、以上の三本は明確な連関性の中で記された本書でも特異点の記載であることがはっきりと判る。しかし、萩と躑躅(ツツジ目ツツジ科ツツジ属 Rhododendron)を鳥居材とするというのはやはり不審である。調べてみると、現在の満潮時には海中にそそり立つ厳島神社の大鳥居(ここもそれを言っているとしか思われない)は楠(クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora)製で、個人ブログ「樹樹日記」の厳島神社の鳥居によれば、通常では神社の鳥居には檜(球果植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ヒノキ属ヒノキ Chamaecyparis obtusa)が使われるが、この大鳥居は昔から楠と決まっているとある(ブログによれば仁安三(一一六八)年に平清盛が厳島神社を造営したその翌年にこの大鳥居の初代が造営されたとあるから、現在までは八百四十八年になる)。そこではその理由について『クスノキは昔から造船材料として使われたくらい水に強いので、脚が海に沈んでも大丈夫なようにクスノキを選んだのではない』かと推測されておられる。楠なんだ。やわな萩や躑躅なんぞではないぞ? 何だろう? この不審の萩材連投は?

「安永八年」一七七九年。徳川家治の治世。本書は寛政七(一七九五)年自序であるが、安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る津村の見聞奇譚をとり纏めたものであるから、「此度」は腑に落ちる。厳島神社公式サイト年譜にも確かに安永五年に大鳥居が落雷により炎上したとある。但し、「五百年來」とするが、初代の鳥居の建立の仁安四年から安永八年までは六百十年もある。]

譚海 卷之二 仙臺宮城野萩の事

○奧州仙臺宮城野の萩は、皆喬木にて火入(ひいれ)灰吹(はひふき)の具に造(つくり)たるものあり、往來の人萩の下をかよひゆくに、花しだりたれて袖を染(そめ)なす事、萩の花ずりといへる事僞(いつはり)ならずと人のいひし。予近き頃松島にあそびてみやぎのを通りたるに、八月の末にして花すでに散(ちり)たりといへり。原町(はらのまち)といふ高き所より野をみつゝ行(ゆく)に、さのみ萩はらおほからず。はるかなる所なれば近く分(わけ)よりてみたらんには、さる事ありやしらず。但し又かく人のいへるは、今よりはるかに昔の事にや、奧州見聞の事はあこやの松といふものに記したれば、こゝに贅(ぜい)せず。

[やぶちゃん注:前の不審な京三十三間堂梁木の事奥州と萩絡みで連関するだけでなく、「往來の人萩の下をかよひゆくに、花しだりたれて袖を染なす事、萩の花ずりといへる事僞ならず」というトンデモ記述でも似ている。但し、こちらは津村の実見体験であることを明記して記す点では、短いものの、「譚海」の中では一種の特異点とは言える。

「仙臺宮城野萩」「仙臺宮城野」は「源氏物語」にも既に詠まれた平安の昔からの歌枕で、細道」芭蕉(リンク先は私が二〇一四年に行った「奥の細道」全行程のシンクロニティ・プロジェクトの一篇)。陸奥国分寺が所在した原野で「宮木野」とも書き、「宮城野原」とも称した。陸奥国分寺は現在の真言宗護国山医王院国分寺の前身であるが、本寺は室町時代に衰微、後に伊達政宗によって再興されたものの、明治の廃仏毀釈で一坊を残して廃絶、それが現存の宮城県仙台市若林区木下にある国分寺名義となって残る。(グーグル・マップ・データ)で、以上から地形的には若林区の北に接する現在の宮城野区の仙台市街の中心にある榴ケ岡(つつじがおか)辺りから東及び南に広がる平野部で、この国分寺周辺域までの内陸平原一帯が原「宮城野」原であると考えてよいであろう。ここで言う「宮城野」の「萩」は通常のマメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza である。「宮城野萩」という和名を持ち、宮城県の県花にも指定されている萩の一種、ハギ属ミヤギノハギ Lespedeza thunbergii なる種が存在するが、本種は宮城県に多く自生はするものの、近代になって歌枕の宮城野の萩にちなんで命名されたものであるから、本種に比定することは出来ない。特に本邦に自生するハギ類で我々が普通に「萩」と呼んでいるものはハギ属ヤマハギ亜属(模式種ヤマハギLespedeza bicolor。芽生えの第一節の葉がハギ亜属では互生し、ヤマハギ亜属では対生する違いがある)のものである旨の記載がウィキの「ハギにはある。

「火入」煙草盆の中に組み込んで置く煙草の火種入れの容器。中に灰を入れ置いて火を熾(おこ)した切炭を中央に埋めておく。香炉の小振りな物や向付を見立てで使用したのが始まりと思われ、普通、火種を入れることから陶磁器製であり、萩の木で出来たそれというのはちょっと変わっていると私は思う。

「灰吹」やはり煙草盆の中に組み込んで置くもので、煙草を煙管で吸い終えた後、煙管の火皿部分に残った灰を打ち落とし入れるための筒状の容器。これも普通に見るそれは油抜きをした白竹或いは青竹製である。

「八月の末にして花すでに散たり」萩の開花時期は新暦の七月前後から九月前後までで、旧暦の八月末では遅いと新暦十月上旬頃になってしまい、ちょっと遅い。

「原町」「はらのまち」は現存する地名呼称とウィキの「原町(仙台市)の記載からかく読んでおいた。現在の宮城県仙台市宮城野区原町(はらのまち)を中心とした古い広域地名。現在の町域は(グーグル・マップ・データ)。以下、当該ウィキより引く。『かつて仙台市東部の広い範囲の町名に「原町」の名が冠されていた』。『仙台の東部、宮城野区の中心部に当たる町で、古くから多くの人が往き来していた。また、現在の宮城野区役所所在地の表記は「宮城野区五輪(ごりん)」であるが、この五輪は、かつて原町に含まれてい』て、昭和三(一九二八)年四月までは『宮城郡原町だった。その後、原町小田原、原町南目、原町苦竹の地名で広範囲において称されており、その面積は現在の青葉区と若林区の一部と宮城野区西部を占めていた』。『石巻街道の、仙台を出て最初にあった「原町宿(はらのまちじゅく)」が起源となっている。江戸時代には、塩竃湊から、舟入掘、七北田川、舟曳堀を経て苦竹まできた船荷が、牛車で原町宿の米蔵まで運ばれていた。以上のことから、原町は仙台の東のターミナルであった。のち、鉄道が開通してその地位を失ったものの、仙台の市街地拡大によって街の東端としての地位を得』ている、とある。

「あこやの松」底本の竹内氏の注に『津村淙庵の奥州紀行記』で現在、『写本が岩瀬文庫に残っている。二巻』とある。書名のそれは「阿古耶の松」で、現在の山形市東部にある千歳山(標高四百七十一メートル)にあったとされる阿古耶姫の伝説に出る松の名。「山形市観光協会」公式サイト内のあこやの松(千歳山)の解説によれば、『阿古耶姫は、信夫群司の中納言藤原豊充の娘と伝え、千歳山の古松の精と契を結んだが、その古松は名取川の橋材として伐されてしまったので、姫は嘆き悲しみ、仏門に入り、山の頂上に松を植えて弔ったのが、後に阿古耶の松と称されたという』とある。

「贅せず」必要以上の言葉は添えない。]

2017/07/19

譚海 卷之二 京三十三間堂梁木の事

○京都三十三間堂の梁は、六十六間通りたるものにて萩の樹なるよし、羽州秋田郡勝平山より出(いづ)といふ銘きりつけてありといへり。

[やぶちゃん注:「京三十三間堂」現在の京都府京都市東山区三十三間堂廻町にあるそれは、正式名称を蓮華王院本堂と称し、近世以降は現在の東山区妙法院前側町にある天台宗南叡山妙法院の境外仏堂となり、同院が現在も所有管理をしている。ここに記されているような三十三間堂の梁の素材・記銘についてはネット上では全く確認出来ない

「六十六間」これは「三十三間堂の一間(けん:これは距離単位の「間(けん)」ではなく、柱と柱の間を「一間(けん)」と呼ぶ建築用語)が通常距離単位の二間(けん)分に当たる」という説明から出た厳密な意味に於いては誤認識に基づく記載である。ウィキの「三十三によれば、『三十三間堂の名称は、本堂が間面記法』(けんめんきほう:奈良期から南北朝に用いられた建築の平面・規模・形式を表現する方法。中世前期までの建築は母屋と廂(ひさし)によって構成され、母屋の間口(梁行)柱間を「何間」と表わし、奥行(梁間)は通常は柱間二間であったから省略されて母屋に「何面」の廂が附いているかで表記された)『で「三十三間四面」となることに由来する。これは桁行三十三間』『の周囲四面に一間の庇(廂)を巡らせたという意味である。つまり柱間が』三十三『あるのは本堂の内陣』(母屋)であって、『建物外部から見る柱間は』三十五である。現在は正面に七間の向拝(こうはい/ごはい:仏堂や社殿で屋根の中央が前方に張り出した部分の称)を付けているるが、これは慶安二(一六四九)年から四年頃に増築されたものである。『ここで言う「間」(けん)は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語である』。しかも『三十三間堂の柱間寸法は一定ではなく』、『その柱間も』、現在、『柱間として使われる京間・中京間・田舎間のどれにも該当しない』ものである。「三十三間堂の一間(柱間)は今日の二間(十二尺)に相当する」として堂の全長を「33×2×1.818で約120メートル」と『説明されることがあるが、これは柱間長についても、柱間数についても誤りである』(但し、『実際の外縁小口間の長さ』は約百二十一メートルで、殆んど一致する)』とある。

「萩」マメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza であるが、不審。木本類ではあるが、凡そ梁に使える木ではない。伊原恵司氏の論文「古建築に用いられた木の種類と使用位置について」(PDF)を見る限り、ヒノキ・ヒバが圧倒的で次にツガ・マツ・ケヤキ・スギ・クリ等が並び、これらが素材の殆んどである。私の好きな人形浄瑠璃に「卅三間堂棟由來(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)」(文政八(一八二五)年初演)があるが、あれはまさに白河法皇の病気の原因を取り除くために三十三間堂の棟木に柳の大木を用いることになるという設定であるが、これは実際の伝承をインスパイアしたもので、ウィキの「三十三によれば、『後白河上皇は長年頭痛に悩まされていた。熊野参詣の折にその旨を祈願すると、熊野権現から「洛陽因幡堂の薬師如来に祈れ」とお告げがあった。そこで因幡堂に参詣すると、上皇の夢に僧が現れ』、『「上皇の前世は熊野の蓮華坊という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし、その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げた。上皇が岩田川(現在の富田川)を調べさせるとお告げの通りであったので、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木を梁に使ったところ、上皇の頭痛は治ったという。「蓮華王院」という名前は前世の蓮華坊の名から取ったものであるという。この伝承により「頭痛封じの寺」として崇敬を受けるようになり、「頭痛山平癒寺」と俗称された』とあるのだが、この芝居、見ながら、不思議に思ったことがある。柳の木は柔らか過ぎてとても梁には使えんだろうという不審であった。ここでまたしても不審が増えてしまった。何方か、私のこの波状的不審を解いては戴けまいか?

「秋田郡勝平山」現在の秋田県秋田市勝平(かつひら)地区。周辺(グーグル・マップ・データ)。ここに記された内容が事実なら、ネット上の検索に掛かってきてよさそうなものだが、ここから三十三間堂の梁材が供給されたという事実は出てこない。識者の御教授を乞う。]

柴田宵曲 續妖異博物館 「龍の變り種」(その2)~「龍の變り種」了

 

 盧君暢といふ人が野に出て二疋の白犬を見た。田圃道を元氣に駈け𢌞つてゐるが、その犬の腰が甚だ長い。盧もその點に不審を懷き、馬をとゞめてぢつと見てゐると、俄かに二疋とも飛び上つて、その邊にあつた沼の中に飛び込んだ。沼の水は一時に湧き上り、水烟の中から朦朧として白龍の昇天するのが見えた。雲氣はあたりに充ち滿ち、風聲雷擊交々起るといふ物凄い光景になつたので、盧は大いに恐れ、馬に鞭打つて急ぎ歸つたが、何里か來るうちに、衣服は悉く濡れ通つてしまつた。はじめて二犬の龍なるを悟ると、これは「宜室志」にある。

[やぶちゃん注:「太平廣記」の「龍六」に「宣室志」を出典として載せる「盧君暢」を示す。

   *

故東都留守判官祠部郎中范陽盧君暢爲白衣時、僑居漢上。嘗一日、獨驅郊野、見二白犬腰甚長、而其臆豐、飄然若墜、俱馳走田間。盧訝其異於常犬。因立馬以望。俄而其犬俱跳入於一湫中、已而湫浪汎騰、旋有二白龍自湫中起、雲氣噎空、風雷大震。盧懼甚、鞭馬而歸。未及行數里、衣盡沾濕。方悟二犬乃龍也。

   *]

 

 支那に多いのは蟄龍(ちつりやう)の話であるが、蟄龍に至つては眞に端倪すべからざるもので、どこに潛んでゐるかわからない。「龍」(芥川龍之介)の中で、猿澤の池のほとりに「三月三日この池より龍昇らんずるなり」といふ札を立てた得業惠印が瘤の中から龍が昇天する話を、しかつめらしく説くところがあるが、この話は明かに「大唐奇事」に出てゐる。洛陽の豪家の子供が、眉のほとりに肉塊が出來て、いくら療治してもなほらぬ。洛城の一布衣、自ら終南山人と稱する男がこの肉塊を見て、先づ恭しく神を祭り、壺の中から一丸藥を取り出して碎いてつけたところ、暫時にして肉塊が破れ、小さな蛇が中から出て來た。はじめは五寸ぐらゐの長さであつたが、忽ちのうちに一丈ばかりになつた。山人が一擊叱咤すると、雲霧俄かに起り、蛇はその雲に乘じて昇天しようとする。山人忻然としてこれに跨がり、去つて行く所を知らずといふのである。この話などは奇拔な蟄龍譚の中に在つて、最も奇拔なものであるに相違ない。

[やぶちゃん注:「蟄龍(ちつりやう)」地中に潜んでいる竜。後は専ら「活躍する機会を得ないで、世に隠れている英雄」の譬えとして用いられることが殆んどである。

「端倪すべからざるもの」「端倪(たん げい)」は「荘子」「大宗師篇」を初出とする語で「端」は「糸口」、「倪」は「末端」の意で「事象の始めと終わり」の意であるが、後に中唐の韓愈の文「送高閑上人序」(高閑上人を送る序)で「故旭之書、變動猶鬼神、不可端倪、以此終其身而名後世」(故に旭の書、變動、猶ほ鬼神の端倪すべからざるがごとし。此(ここ)を以つて其の身を終ふれども後世に名あり:「旭」はこの前で述べている草書の達人)という文々から「推しはかること」の意となった。ここは後者で「その最初から最後まで或いはその総体を安易に推し量ることは出来ない・人智の推測が及ぶものではない・計り知れない」といった意。

『「龍」(芥川龍之介)』「龍(りゆう)」は大正八(一九一九)年五月発行の『中央公論』初出。「青空文庫」のこちらで全文(但し、新字新仮名)が読める。この作品全体は「宇治拾遺物語」の「卷第十」の「藏人得業猿沢池龍事」(蔵人(くらうど)得業(とくごふ)、猿沢池の龍(りよう)の事)を素材とするが、原拠では龍は昇天しない。

「得業惠印が瘤の中から龍が昇天する話を、しかつめらしく説くところ」「惠印」は「ゑいん」と読む。これは悪戯で恵印が立てた札を見て呆気(あっけ)とられた婆さんが、「此池に龍などが居りませうかいな」と、何食わぬ顔をして様子を見に来た恵印に問うたシークエンスに出る落ち着き払った恵印ののたまうところの台詞である。岩波旧全集から引く。

   *

「昔、唐(から)のある學者が眉の上に瘤が出來て、痒うてたまらなんだ事があるが、或日一天俄に搔き曇つて、雷雨車軸を流すが如く降り注いだと見てあれば、たちまちその瘤がふつつと裂けて、中から一匹の黑龍が雲を捲いて一文字に昇天したと云ふ話もござる。瘤の中にさへ龍が居たなら、ましてこれほどの池の底には、何十匹となく蛟龍毒蛇がつて居ようも知れぬ道理じや。」

   *

 以上の「大唐奇事」のそれは「太平廣記」に同書からとして「異人二」に「王守一」として出る。

   *

唐貞觀初、洛城有一布衣、自稱終南山人、姓王名守一、常負一大壺賣藥。人有求買之不得者、病必死、或急趁無疾人授與之者。其人旬日後必染沈痼也。柳信者、世居洛陽、家累千金、唯有一子。既冠後、忽於眉頭上生一肉塊。歷使療之、不能除去、及聞此布衣、遂躬自禱請、既至其家、乃出其子以示之。布衣先焚香、命酒脯、猶若祭祝、後方於壺中探一丸藥、嚼傅肉塊。復請具樽爼。須臾間、肉塊破、有小蛇一條突出在地、約長五寸、五色爛然、漸漸長及一丈已來。其布衣乃盡飲其酒、叱蛇一聲、其蛇騰起、雲霧昏暗。布衣忻然乘蛇而去、不知所在。

   *]

 

「聊齋志異」にある蟄龍は書樓の中であつた。陰雨晦冥の際、螢のやうな小さな光りある物が現れて几に登つたが、その過ぎる跡は皆黑くなる。漸くにして書卷の上に達すると、その卷もまた焦げるので、これは龍であらうと思ひ、捧げて門外に出で、暫く立つてゐたところ、少しも動かなくなつた。龍に對しいさゝか禮を失したかと思ひ返して、もう一度書卷を几に置き、自分は衣冠を改め、長揖してこれを送る態度を執つた。今度は軒下に到り、首を上げ身を伸べ、書卷を離れて橫飛びに飛んだ。その時嗤(わら)ふやうな聲がしたと思つたが、縷の如き一道の光りを放ち、數步外へ行つて首を囘らした時は、已に甕の如き頭となり、恐るべき大きな龍の身を示して居つた。お定まりの霹靂一聲で天外に去つた後、書樓に戾つて調べて見るのに、それまでは書笥中に身を潛めてゐたものの如くであつた。或時は額の瘤、或時は書笥の中、竟に窮まるところを知らぬのが、龍の神變自在なる所以であらう。

[やぶちゃん注:「書樓」書斎を兼ねた多層階状の書庫。

「書笥」「しよし」。後の柴田天馬氏の訳で判る通り、本箱・本棚のこと。

 以上は「聊齋志異」の「卷四」の「蟄龍」。まず原文を示す。

   *

於陵曲銀臺公、讀書樓上、陰雨晦冥、見一小物、有光如熒、蠕蠕登几、過處則黑、如蚰跡、漸盤卷上、卷亦焦、意爲龍、乃捧送之。至門外、持立良久、蠖曲不少動、公曰、「將無謂我不恭。」。執卷返、乃置案上、冠帶長揖而後送之。方至簷下、但見昂首乍伸、離卷橫飛、其聲嗤然、光一道如縷。數步外、囘首向公、則頭大於甕、身數十圍矣。又一折反、霹靂震驚、騰霄而去。回視所行處、蓋曲曲自書笥中出焉。

   *

 柴田天馬氏の訳(昭和五一(一九七六)年改版八版角川文庫刊)で以下に示す。

   *

 

 蟄竜(ちつりゅう)

 

 暗い雨の日だった。銀台(つうせいし)の於陸曲(おりくしょく)公が、楼上で書を読んでいると、螢のような光のある小さな物が、うじうじ机に登って来た。その通った処は、蚰(なめくじ)の跡のように黒くなり、だんだん巻(ほん)の上に来て、とぐろを巻くと、巻も、やほり焦げるのだった。公は竜だと思ったので、巻を捧げて門外に送って行き、巻を持って、しばらく立っていたが、曲がったままで少しも動かなかった。公は、

 「我(わし)のしかたが、恭しくないと思うのではないかな」

 と言って、巻(ほん)を持って引き返し、もとのように机の上に置いて、衣冠束帯に身を正し、長揖(おじぎ)をしてから送って行った。そして軒下まで来ると、首をあげてからだを伸ばし、巻を離れて飛びあがった。しっ、という音がして、一道(ひとすじ)の光が糸すじのようであったが、数歩を離れ、公に向かって、ふりかえった時には、頭(かしら)は甕(かめ)よりも大きく、からだは数十囲であった。そして向きなおるとともに、霹靂(いかずち)が大地をふるわせ、空へ登って行ってしまった。小さい物の歩いた処を見ると、書笥(ほんばこ)の中から出て来たのであった。

   *

「銀台」は内外の上奏書を受けて処理する役所である通政司或いはその長官通政使の俗称。]「於陸曲(おりくしょく)公」原文との相違が激しく、何だかおかしいと感じたので、所持する平凡社の「中国古典文学大系」(第四十巻)版の訳を見たところ、冒頭で『於陵(山東省)の銀台にいた曲(きょく)公』と訳されてある。これはそれで腑に落ちる。「蚰」平凡社版は『みみず』(蚯蚓)とするが、「蚰」は中文サイトを見ても「蛞蝓」とするので天馬訳を採る。「長揖」平凡社版には『ちょうゆう』とルビし、割注で『拱手(きょうしゅ)した腕を上から下へおろす礼』とある。「数十囲」平凡社版は『十抱(かか)え』とする。中国特有の誇張表現と考えれば、平凡社版の方が判りはよい。しかし、仮に日本人体尺の両腕幅である「比呂(尋)」(=百五十一・五センチメートル)としても、十五メートル強となる。昇龍としてはもう充分過ぎるほど、ぶっとい。]

 

「夜譚隨錄」にあるのは、李高魚といふ人が枕碧山房の壁に掛けた古い劍である。例によつて大雷雨の日、一尺餘りの黑い物が、細い線を引いて動くあとを、紅い線のやうなものが逐つて行く。何とも知れぬ二つの線が窓から入つて來て、室内を飛び步くうちに壁に近付いて劍の鞘の中に入つてしまつた。戞々(かつかつ)といふ音がして、狹い鞘の中を動き𢌞るのに、少しも閊へる樣子がない。やゝ暫くして今度は鞘を飛び出し、蜿蜒として軒端まで行つた途端、迅雷が家屋を震はせ、紅い光りが四邊に漲るやうに感ぜられた。その時は黑い線も紅い線も、已に所在を失して居つたが、窓の下を見ると數片の鱗が落ちてゐる。穿山甲(せんざんかふ)の鱗に似たものであつた。劍の刃には蟲の巣のやうな小さな孔が無數に出來て居り、鞘もまた同樣であつた。或人は龍の變化したものだと云つたが、霹靂一擊以外、龍らしいものは姿を見せてゐない。古劍は恐らく贋物になつたことと思はれる。

[やぶちゃん注:「蜿蜒」(ゑんえん)は原義は蛇などがうねりながら行くさま。そこからうねうねとどこまでも続くさまの意となった。

「穿山甲」哺乳綱ローラシア獣上目センザンコウ目センザンコウ科 Manidae のセンザンコウ類(インドから東南アジアにかけて四種と、アフリカに四種の計八種が現存種)であるが、中国だと、南部に棲息するセンザンコウ属ミミセンザンコウ Manis pentadactyla であろう。本種は中文名でまさに「中華穿山甲」と称する。

「古劍は恐らく贋物になつたことと思はれる」ここは柴田宵曲の鋭い指摘である。

 以上は「夜譚隨錄」(既出既注の清代の志怪小説)の「龍化」。

   *

李高魚枕碧山房、壁掛古劍。一日大雨雷、瞥見一黑物、長尺餘、細如線、後一紅線逐之、自窗凌空而入、繞室飛行、俄延壁上、穿入劍鞘中。即聞戛戛作聲、旋出旋入、無所阻礙。良久、忽又飛出、蜿蜒空際、甫及檐、霹靂一聲、屋宇震動、紅光燭天、不及察二物所至、唯見窗下落鱗數片、酷似穿山甲。取劍視之、鋒刃盡穿小孔、密如蟲蛀、鞘亦如之。或曰、「此龍之變化。」。想當然耳。

   *]

 

 日本の龍には遺憾ながらあまり奇拔な話は見當らぬ。建部綾足(あやたり)が「折々草」に書いた龍石の話の如き、奇といふ點では支那の諸譚に遠く及ばぬに拘らず、妙に無氣味な點で日本に於ては異彩を放つに足るかと思ふ。

 

 高取の城下に人を訪ねることがあつて、夏の夜の明けぬうちに家を出た。三里ばかりの道であるから、夜が明けるまでには著くつもりで、もう五丁ばかりといふところに到つた時、漸く東の方が白んで來た。この邊で一休みといふことになつたが、草ばかり茂つてゐて適當な石がない。二尺ばかりの石を見出して道の眞中に運び、手拭を敷いて腰をおろしたのはよかつたが、不思議な事に何となくふはふはして、座蒲團でも積み重ねたやうな氣がする。それも氣のせゐかと煙草などをくゆらし、朝日が出たのを見て步き出したが、何分暑くて堪らず、淸水に顏を洗つたりしながら、持つてゐる手拭に異樣な臭氣のあるのに氣が付いた。いくら洗つても臭氣は更に落ちぬので、新しい手拭を惜し氣もなく棄ててしまひ、それからは道にも迷はずに辿り著いた。先方の家で食事をしてゐるのを朝飯かと思へば、今日は晝飯が遲くなつたのだと云ふ。自分達は例の石に腰をおろして煙草を吹かしただけなのに、何でそんなに時間がたつたのかわからぬ。狐に化されたのではないかといふ話になつて、石の事を云ひ出したら、それは惡いものにお逢ひなすつた、あれは何の害もしないけれど、龍が化けてゐるといふので龍石といふ、妙な臭ひがするのはそのためで、あの石に觸れた者は病氣になるといふ話だが、あなたは何ともないか、と聞かれた。さう云はれると熱があるやうである。幸ひ先方の家は醫者であつたから、藥を煎じて貰つて飮み、駕籠を雇つて貰つて歸ることにした。主人は更に注意して、歸りに氣を付けて御覽、その石は必ずありますまい、と云つたが、成程どこにも見當らなかつた。あたりに石一つないところなので、人が取りのけたにしても目に入らなければならぬ。愈々怪しい事になつて來た。連れてゐた下男は休んだ時も石に觸れなかつた爲、遂に何事もなかつたが、腰かけた男の方は翌月までわづらつて、漸く快方に向つた。これに懲りた男は、山へ往つた時など、得體の知れぬ石に腰かけるものではないと、子供等に教へてゐたさうである。

[やぶちゃん注:「鈍色」「にびいろ」。濃い灰鼠色。

「折々草」は既出既注。

「あれは何の害もしないけれど」と言いながら、「あの石に觸れた者は病氣になるといふ話だが、あなたは何ともないか、と聞」くのは如何にもおかしい。以下に原典を示したが、柴田は「其化物は何に侍るともしらねど」(その化け物の正体は、一体何ものでありますのかということも存じませねど)を訳し間違えているとしか思われない。

 以上は同書の「夏の部」の「龍石をいふ條」。岩波新古典文学大系本を参考に、恣意的に正字化して示す。繰り返し記号や踊り字の一部を変更或いは正字化した。歴史的仮名遣の誤りはママ。カタカナで示された原典の読みのみを附した。

   *

 

    龍石をいふ條

 

 大和の國上品寺(ジヤウホンジ)[やぶちゃん注:現在の奈良県橿原市上品寺町(じょうぼんじちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]とふ里にいきてあそび侍るに、此主(アルジ)物がたりしき。

 主のいとこは、同じ國高取(タカトリ)[やぶちゃん注:現在の奈良県高市(たかいち)郡高取町(たかとりちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。当時は植村氏二万五千石の高取藩の居城高取城があった。]といふ城下(キモト)に土佐(トサ)といふ所に侍り[やぶちゃん注:底本の高田衛氏の注にその高取城城下の『大手口に城下土佐町村があった』とある。現在、高取町内には「上土佐(かみとさ)」「下土佐」の地名が残る(上土佐はここで、「下土佐」はその西北隣りのここ(グーグル・マップ・データ))なお、高取城は町域からは三キロメートルほど南東の離れた山上にある。]。久しくおとづれざりしかばいかむとおもひて、みな月望(モチ)計(バカリ)[やぶちゃん注:七月十五日頃。]、いとあつき比なれば、寅の時[やぶちゃん注:午前四時頃。]に出て往(イキ)ける。道は三里(ミサト)ばかりなれば、明むとするころは參りつくべしとおもひて行に、そこへは今五丁(イツトコロ)[やぶちゃん注:五百五十メートル弱。]ばかりにて、やうやう東(ヒンガシ)のそらしらみたるに、「いととくも[やぶちゃん注:たいそう早く。]來たりぬ。少しやすらはゞや」とおもへど、此わたりは皆野らにて、芝生(シバフ)の露いと深く、ひた居(ヲリ)にをりかねたれば、と見かう見するに、草の中によき石の侍るを見出て、いきて腰かけむとおもへど、蚋(ブト)などや多からむに、こゝへもて來むとて、手を打かけて引に、みしよりはいとかろらかに侍る。大きさは二尺(フタサカ)斗にて、鈍色せる石也。こを道の眞(マ)中にすゑて、淸らを好(コノ)む癖の侍るに、手拭(タナゴヒ)のいと新らしくてもたるを其上に打しき、さて腰(コシ)かけたれば、此石たはむさまにて、衾(フスマ)などを疊み上て其上にをる計におぼえたる。くしき事とはおもへど、心からにや侍りけむと[やぶちゃん注:単なる気のせいに過ぎぬのであろうと。]、事もなくをりて、火打袋(ウチブクロ)をとうでゝ[やぶちゃん注:後でも出てくるが、「取り出して」の意のようである。]火をきり出し、下部(シモベ)にもたばこたうべさせなどし、稻どもの心よげに靑み立たるを打見遣りて、しばし有間(アルアヒダ)に、朝日のいとあかくさしのぼる。いざあゆまむとて立て、道二丁(フタトコロ)[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]斗行に、汗のしとゞに流れて唯あつくおぼえけり。淸水に立よりてかほなどあらひ侍るに、何となくくさき香(カ)のたへがたうしけるを、何ぞとおもへば、かのたなどひにいたくしみたる

 何に似たるかをりぞとおもふに、蛇(オロチ)の香にて、そがうへにえもいはずくさき香のそひたるなり。「こはけしからぬ事かな。かの石のうへにかれ[やぶちゃん注:蛇を指す。]がをり侍りけむ名殘(ナゴリ)也。さるにても洗(アラ)ひ落(オト)さむ」とおもひて淸水に打ひぢて[やぶちゃん注:「漬ぢて」浸(ひた)して。]洗へども、中々にさらず。水に入りては猶くさき香のつのりて、頭(カシラ)にもとほるべくおぼゆるに、たなどひは捨て遣りける。さて手もからだもものゝうつりたる[やぶちゃん注:これは先の臭さだけではなく、何かの「もの」=物の怪のまがまがしい気(かざ)ようなものが体に染みつく、憑依したような感じで、の意。]、たへがたければ、はやくいきて湯あみせむといそぎて、いとこのがり[やぶちゃん注:「許(がり)」は 接尾語で人を表わす名詞又は代名詞に付いて「~の所へ」「~の許(もと)に」の意を添える。「處在(かあり)」が転じたものと言われる。]いきつけば、みなまどひ[やぶちゃん注:「圓居」で車座になって座ること。歴史的仮名遣としては「まどゐ」が正しい。]して、朝食にかあらむ、物たうべてはべるが、主のいはく、「久しくみえ給はざりし。かゝるあつき時に、あかつきかけては來(キ)給はで、かく日のさかりには何しに出おはしたり」と聞ゆ。

 此男きゝて、「寅の時に出て、唯いまふもとにて夜の明てさぶらへ。主(ヌシ)たちも今朝食參るならずや」といへば、家の内の人皆笑らひて、「いづこにか午睡(ヒルイ)してねおびれ給へるならむ。空は未(ヒツジ)の頭(カシラ)[やぶちゃん注:午後一時頃。早朝の出立から実に九時間も経過していた。]にてさむらへ。けふは晝いひのおそくて、唯今たうぶる也」といふに、少しあやしく成りて空をみれば、日ざしも實にしかり。またあつき事も朝のほどならず。下部をみれば、これも唯あやしくおもへる顏にて、「道には何も程すごすばかりの事はしたまはず。火をきりてたばこ二吸(フタスヒ)斗(バカリ)して侍るのみ也」と申すに、主どもが、「それはかの[やぶちゃん注:底本の高田氏の注に『不詳。「かの」という妖異か。または例のものの意か』とある。考えてみると、強力或いは凶悪な霊や物の怪はその名を口にすることを忌むから、それが単なる指示語であるのは寧ろ自然な気が私にはする。]にて侍らむ。山のふもとにはよからぬ狐(キツ)の折々さるわざして侍ることの有に」といへば、「いな、狐ともおぼえず。かうかうなむ侍る事のありて、其香のいまださらず侍るにいたくなやめり。ゆあみせばや」といへば、主(アルジ)打おどろきて、「それはあしきめにあひたまへり。かの石は龍石[やぶちゃん注:底本注に不詳とする。]とて、此わたりにはかまへて[やぶちゃん注:待ち構えて。]侍り。其化物は何に侍るともしらねど、必ず蛇(オロチ)の香のし侍るをもて、所の者は龍(リヤウ)の化(バケ)て侍る也とて、それをば龍石とは申す也。是に觸(フレ)たる人は、疫病(エタシヤミ)[やぶちゃん注:伝染性の病気。]して命にも及(オヨブ)者多し。御心はいかに侍る」といふに、たちまちに身のほとぼり來て[やぶちゃん注:熱を帯びてきて。]、頭(カシラ)もいたく、いと苦しく成しほどに、いとこは藥師(クスシ)なりければ、「こゝろえて侍り」とて、よき藥(クスリ)を俄(ニハカ)に煮させ、又からだに香のとまりたる[やぶちゃん注:附着浸透しているの。]をば、洗(アラ)ふ藥をもてのごはせなどしけり。「此家にかく病臥(ヤミフシ)てあらむもいかに侍れば、かへりて妻子(メコ)どもに見とらせむ[やぶちゃん注:看病させようと思う。]」とて、某日の夕つかた、堅間[やぶちゃん注:底本では『かたま』とルビし、注で『竹で編んだかご』とする。]にのりてうめきながらかへるべくす。

 又主(アルジ)のいはく、「かのやすみ給ふ所にて見させよ。必ず其石は侍るまじきに」ときこゆるに、下部(シモベ)ども心得て、「かの石は道の眞中にとうでゝ侍りける」とて、行かゝりてみれども更になし。人のとりのけしにやとてをちこちみれども、もとより石ひとつなき所なれば有べきにもあらず。「さては化(バケ)たる成けり。おのれは下部だけに、地(ツチ)にをりて侍れば、石にはふれざりける」とて、福(サイハヒ)えたるつらつきしてかへりにけり。

 かの男は、八月(ハヅキ)斗(バカリ)までいたくわづらひて、やうやうにおこたりはてぬ[やぶちゃん注:病気の勢いが弱まって良くなった。古語の「怠る」自体に、その意味がある。]と。さて後は子共らにも誰(タレ)にも、「山にいきては心得なく石にな腰かけそ」と教へ侍りきと聞えし。

   *]

 

 龍石の正體は結局わからぬが、あたりに何もないところに、この石だけあるのが怪しい上に、鈍色で思つたより輕いといふのも怪しい種の一つである。腥臭(せいしう)が腰かけた人にこびり付いて、いくら洗つても落ちぬのは無氣味なことおびたゞしい。夜が明けてから道に迷つた覺えもなく、どうして數時間も費したか、龍に化されるのは狐狸よりも氣味が惡いことになつて來る。綾足は大和でこの話を聞いたといふのであるが、水にも雨にも關せず、野中に在つて人を惑はす龍は、支那にも類がないかも知れぬ。

 

宿直草卷四 第七 七人の子の中も女に心許すまじき事

 

  第七 七人の子の中も女に心許すまじき事

 

 耳馴れたる話に、ある人、娘を持つ。家に白犬あり。

 娘に小便(せうべん)やる度(たび)に、かの白犬を呼びて、

「掃除せよ。此娘は己(をのれ)が妻ぞ。」

など戲(たは)れければ、犬も尾を振りて來たる。

 かくて、娘、長(ひとゝな)りて、言立(ことた)つべき比(ころ)、媒酌(なかだち)すべき人、一間所(ひとまところ)にて、緣(よすが)定むべき談合などすれば、此犬、見て、其人の歸るを待ちて、咬(か)みつく。

 餘(よ)の人とても、緣(えん)の事、言ふをば、かくの如く、咬みければ、

「由無(よしな)し。」

とてうち捨て、娘の嫁(か)すべきやうなし。

 殊に起き臥しともに、娘を思ひ入(いれ)たる體(てい)、凄(すさ)まじくぞ見えし。

 親、悲しく思ひ、相人(さうにん)を呼び、卜(うら)を賴みければ、

「此犬、思ひ入れしなり。殺すとも、又、執心、止む事なし。はかなきは、母、あひたてなくも、『汝が妻ぞ』など云ひしを、畜生ながら、聞止(ききとゞ)めけるにや。一度(たび)は語らはせでは叶(かな)ふまじ。方見(うたてく)こそ。」

と云ふ。

 親、聞き、涕(なみだ)流し、

「さては。力無し。」

と娘に語れば、敢へて歎く色もなし。

「我に似たる畜生にこそ。」

と、途離(とばな)れたる山に家を作り、犬、諸共(もろとも)に遣(つか)はしけり。

 しかるべき因果なめれ、さぞな、添ひ臥(ぶ)しも異(い)な物にあらなん、あたら、よすがの狹筵(さむしろ)も、私語(さゝめごと)もあるべきか、聞くも氣の毒、如何にことふたならであるべきや、橫行(わうぎやう)の者と竪行(しゆぎやう)の袖の語らひ、これなん、耳に鼻かみ、竹に木を接(つ)ぐ例(ためし)ならまし。

 かゝる馴染みも薄からで、狐・狸・雉子・兎樣(やう)の物、獲(と)り歸れば、女(をんな)は市(いち)に持(も)て出(いで)、代(しろ)なしつゝも日を送れり。宿世(すぐせ)の約束、淺ましく侍る。

 ある時、山伏有(あり)て、此山を過(よぎ)る。並べし軒(のき)も見えなくに、その姿優しき女、もの待つ風情(ふぜい)に見えたり。猶、過(すぎ)がてに立寄(たちよ)り、

「如何におことは誰が問ふてこの山には住(すみ)給ふ。」

と云ふ。女、

「我にも夫(をつと)の候(さふら)ひて。」

と云ふ。

 山伏、つくづく聞(きき)て、

『花ならば手折(たをり)、雪ならば捏(つく)ねんに。』

と、一二(ひとふた)云ふ言葉(ことのは)の露も、我(わが)戀草(こひぐさ)に置き餘り、搔き亂したる浮き草の、心の水に誘ひ行(ゆく)、情(なさけ)の渕(ふち)も淺からで、深き契りも結(むす)びたく思ひければ、

「さて。其(その)語らひ給ふは、何處(いづこ)にて、如何なる人ぞ。」

と尋(たづぬ)れば、云はでもと思ふ顏(がほ)に、

「恥づかしながら、犬に契りて侍る。」

と云ふ。

「さては。さうか。」

と、さらぬ體(てい)にて立ち出(いで)、

『この女、犬に添はすべきやうこそ、なけれ。』

と、ある所に待ち居(ゐ)しに、例の犬、見えたり。

『さらばこれなるべし、殺さん。』

と思ひ、峒(ほら)に隱れて待居(まちゐ)る。

 犬、更に知らず。

 謀(はか)りすまして、たゞ一刀(ひとかたな)に打ち殺し、骸(から)は土に埋(うづ)め、日を經て、彼處(かしこ)に又、訪(とふ)らふ。

 女、例(れい)ならず欺く。

 空(そら)知らずして、

「何を悲しび給ふぞ。」

と云ふ。

「さればとよ、これこれなり。たゞ假初(かりそめ)に立ち出(いで)て、今日(けふ)、七日になり侍り。行衞(ゆくゑ)思はれ候ぞや。」

と、淚とともに語る。

「さては。さやうに候か。猶、行く身より、殘りし御身の、如何(いかゞ)なり給はん。愛(いと)をしくこそ。」

と云ふ。

「さてしも、悔(くや)む甲斐もなし。我、未だ定まりし妻もなし。來たり給はゞ、誘ひ行かん。」

と云ふ。

 女も賴りなき身なれば、その心にまかせて、長く添ひ侍り。

 年の矢も數(かず)經(た)ち行けば、子を七人まで儲(まふ)けたり。

 山伏、ある夜、語らく、

「御身が添ひし白犬は、かく語らひたきまゝに、我、殺し侍る。」

と語る。

 心の下紐(したひも)うち解(と)けしは、はかなくぞ、侍る。

 女、つらつら、これを恨み、遂に山伏を殺せり、となり。

 故にこそ、女には心許さぬと語れり。

 振り分髮(わけがみ)を比べ來(こ)し、幼な馴染みを忘れぬは、殊勝(すせう)にこそ侍れ。「三瀨(みつせ)の川に瀨蹈(せぶ)みして、手を取りて渡すは、初めて逢ふ男(おのこ)なり」と世話(せわ)にも云ひ習(なら)はせり。

 また、咲く花はうつろひて、昔に及ぶばぬ色香なれば、散り失せしを惜しむ業(わざ)、いとあらまほし。まさなき枝を手折(たをり)つゝ、色に鳴海(なるみ)の秋風までも、心多(おほ)ふ插(かざ)ず人は、袖時雨(しぐ)るゝ業(わざ)なりけらし。

 さればとて、後に添ふを、かくの如く殺す、良きにはあらず。添ふからは、傅(かしづ)くべきなり。世の尻輕(しりがる)なる女に聞かせてしがな。由無き方(かた)に心通(こころかよ)ふ。稀に知れずして、たまたま命あるも、猶、古めかしの調度(でうど)なんど、あち荷(に)なひ、こち運び、いとゞ卯月(うつき)の一日に、恥に近江(あふみ)の筑摩祭(つくままつ)りに、被(かづ)ける鍋(なべ)の、數(かず)、幾つならん。

 

[やぶちゃん注:前話とは犬で連関している。私は前の大鐘に閉じ込められる中に犬のいたのが妙にリアルで印象的であったから、本篇のこのアイテムの連関性は私にとっては決して軽いものではなかった。また、私にはこの山伏は殺されて当然、真相を七人の子を得た後に聴かされて恨み骨髄となって夫の山伏を殺した女には激しく同情し、何より、この白犬こそ哀れと感ずる人種であるから、例の通り、見当違いの辛気臭い説教を故実をべたべた貼り付けてぐだぐだと記す筆者に対しては、何時ものこと乍ら、やはり強い不快感を感ずる。

「耳馴れたる話」話者(筆者)が、この一種異様な〈異類婚姻譚を主調にした山伏による殺生譚プラス謀略による略奪婚姻譚プラス前夫白犬殺しの仇討(あだうち)譚〉を巷間の噂としてはよく知られた話として提示している点に注意したい。こうした一見異様としか思われない異類婚姻譚が、近世初期に於いては既に一定のステイタスと人気を持ち、必ずしも忌まわしく異常な話とは認識されておらず、ある程度、心情的には許容された綺譚性を持っていたことを示す証左と考えられる。

「娘に小便(せうべん)やる度(たび)に、かの白犬を呼びて」「掃除せよ。此娘は己(をのれ)が妻ぞ」「など戲(たは)れければ、犬も尾を振りて來たる」ここには女性器を露わにして排尿させられる幼女の映像とそれに「尾を振」って駈けて来(き)、その娘の尿(すばり)の後を嗅いで砂をかける牡の子犬という映像に、ある種の猟奇的な仄めかしを含んだ性的象徴関係が感じられる。

「長(ひとゝな)りて」成人して。

「言立(ことた)つ」これは「言葉に出して誓う」(或いは「事立つ」で「平常とは全く異なった行為、今までやったことのないことをする」の意)という、神仏への生涯の一大事としての祈誓の原義から派生したものであろう、「女が添うべき夫を定める」ことを指す。

「相人(さうにん)」人相を見る占い師。観相家。

「はかなきは」何の甲斐にもならぬ、無益なこと(この場合は逆に悪しきことを生み出すこと)には。或いは、思慮分別が不全で、如何にも愚かであったことには。前者は事態そのものの持つカタストロフへの評言であるが、後者で採る場合には、軽率な戯れ言を繰り返して犬に刷り込みをしてしまった母への批判が強く滲むことになる。前振りから見ても後者のニュアンスである。

「あひたてなくも」岩波文庫版で高田氏は『無分別にも』と注しておられる。

「方見(うたてく)こそ」「いや、もう、忌まわしいことじゃ!」。畜生に魅入られたことへの忌避感情が示されてある。「方見」及びルビは原典のママであるが、何故、この文字列で「うたてし」と読むのか、そのような意味になるのかは探り得なかったが、或いは「方見」は「かたみ」で「片身」、不完全であることから、不満・不快であるの意となったものか、或いは「奸(かだ)み」の当て字で「心が致命的にねじけていること」から尋常でない状況を批判的に示すのかも知れぬなどと思いはした。識者の御教授を乞うものである。

「我に似たる畜生にこそ」と娘が「敢へて歎く色もな」く、ぽつりと言ったところが、妙に心に残る。何故、彼女はこの犬のことを「如何にもまさしく私にそっくりな獣だわ」と述懐したのであろう? 寧ろ、この謎めいた台詞こそが、エンディングで七人の子をもうけた後の夫の山伏を殺害するに至る彼女の持つ「因果」に基づく「執心」或いは「怨恨」の伏線なのではあるまいか? 孰れにせよ、本怪談のキモは実はこの娘の奇怪な台詞にこそあると私は思う。

「途離(とばな)れたる」人里離れた。

「さぞな、添ひ臥(ぶ)しも異(い)な物にあらなん、あたら、よすがの狹筵(さむしろ)も、私語(さゝめごと)もあるべきか、聞くも氣の毒」バレ句を読むような荻田の厭らしさを感じさせるイヤな箇所で、真面目に注する気にもなれない。「よすが」は「縁・因・便」で「寄す處(か)」が元で古くはかく清音。第一義は「生きるためのに頼りとなることや対象」で、そこから「夫・妻・子」など意があるので、ここは「生きるよすが」と「夫」を掛ける。「私語(さゝめごと)」閨(ねや:「狹筵(さむしろ)」は寝床)での夫婦の秘かな睦言(むつごと)。

「如何にことふたならであるべきや」反語。「ことふたならであるべきや」については岩波文庫版で高田氏は注で『こんな事が二度とあるであろうか』と訳しておられる。

「橫行(わうぎやう)の者」四足で横になって歩く獣。

「竪行(しゆぎやう)の袖」直立二足歩行をする人間。

「語らひ」夫婦としての関係を持つこと。以下の後の山伏の問いの「語らひ給ふ」や、彼の真相告白の「かく語らひたき」の「語らふ」はその動詞。

「耳に鼻かみ」「耳で鼻をかむ」は出来ない。「竹に木を接(つ)ぐ」と同じく、全く機能や性質の異なるものを繫ぎ合わせることが出来ないことの譬え。

「宿世(すぐせ)の約束」前世の因縁。異類との異様な婚姻生活とその異常な形態も総て仏教的には輪廻に於ける因果応報の思想に吸収されてしまい、何でも閉じられたそのけったいな思想の系の中では腑に落ちるものとして説明され、腑に落ちてしまうのである。逆に言えば、腑に落ちるはずであるところに「淺ましく侍る」と思わず感懐を述べてしまうところにこそ、真の人間性は表われるとも言えるのである。

「並べし軒(のき)も見えなくに」まさに山深いところにぽつんと建つ、あり得ない場所に不思議に現われる異様な一軒屋なのである。修験の山伏なればこそここを通ったのである。しかもそこに「その姿優しき女、もの待つ風情(ふぜい)に見えたり」とあれば、「猶、過(すぎ)がてに立寄」ってしまうのは泉鏡花の「高野聖」を待つまでもなかったのである。

「おこと」相手を敬っていう二人称代名詞。貴女(あなた)。

「誰が問ふて」誰を待って。

「捏(つく)ねん」「つくぬ」は「手で捏(こ)ねて丸める」の意。女を言葉巧みに丸め込んで我が物にするというような厭なニュアンスであり、それが確信犯であることは以下の「一二(ひとふた)云ふ言葉(ことのは)の露も、我(わが)戀草(こひぐさ)に置き餘り、搔き亂したる浮き草の、心の水に誘ひ行(ゆく)、情(なさけ)の渕(ふち)も淺からで、深き契りも結(むす)びたく思」ふという、荻田によって粉飾された(故に厭らしくも)おぞましい表現によく示されてある。こうした荻田の表現過飾がますます山伏に対する生理的嫌悪感を読者に惹起させるのであるが、ここまで過剰になると、或いはそれはそれこそ荻田の確信犯(読者に対して山伏へのシンパシーを絶対無化する)なのかも知れぬとも実は思われてくるほどに五月蠅いのである。

「云はでもと思ふ顏(がほ)」如何にも言いにくそうな困りきった顏、の謂いでとる。

「峒(ほら)」山の斜面にある洞穴。

「例(れい)ならず」尋常でないほどに取り乱して。

「空(そら)知らずして」そしらぬ風をして。

「假初(かりそめ)に」ちょっと。

「心の下紐(したひも)うち解(と)けしは」「下紐」は実際の女の下帯を掛けて、夫白犬を殺害した男に身を許したことをも示す、厭なバレ句の掛詞である。

「故にこそ、女には心許さぬと語れり」「語れり」は「(世間では)言うのである」の意。おいおい!? 急にそこに行くカイ?! 荻田!

「振り分髮(わけがみ)を比べ來(こ)し、幼な馴染みを忘れぬは、殊勝(すせう)にこそ侍れ」「伊勢物語」第二十三段のかの「筒井筒」及びそこに出る、

 比べこし振り分け髪も肩過ぎぬ君ならずして誰(た)れか上(あ)ぐべき

の和歌に基づく。

「三瀨(みつせ)の川」三途の川。既出既注

「瀨蹈(せぶ)み」三途の川の深さを測ったり,先に死んだ者が後から来る亡者のために三途の川で渡り易いところへと導くことを「三途の瀬踏み」と称した。

「世話(せわ)」諺。「三瀨の川に瀨蹈みして、手を取りて渡すは、初めて逢ふ男(おのこ)なり」は「女性が亡くなって三途の川を越える際には、初めて契った男性に背負われて行く」という俗信があったが、これは中世以降に成立した諺であるようだ。それを考証した田村正彦氏の論文「渡す男と待つ女――古代における三途の川の信仰について――」(PDF)を参照されたい。

にも云ひ習(なら)はせり。

「まさなき枝を手折(たをり)つゝ、色に鳴海(なるみ)の秋風までも、心多(おほ)ふ插(かざ)ず人は、袖時雨(しぐ)るゝ業(わざ)なりけらし」修辞粉飾によって私にはよく意味がとれない。「まさなき」はすでに見苦しくなってしまった枝(老いた女)で、「色に鳴海(なるみ)の秋風」は秋風にすっかり褪せた色になる(「鳴海」はそれを尾張国歌枕の鳴海潟で掛けた)、変じてしまった病葉(わくらば:同前の象徴)を未練たらたらに(「までも」)、髪に挿し続けようというような過剰な「色」好みの男は、それを聴いた或いは知った人(袖)の限りない絶望の涙を誘うこととなり、それがその人(女)の袖をすっかり濡らしてしまう(「時雨るゝ」)という浅ましい結果(「業」)を招くこととなるもののようである、の謂いか。大方の御叱正を俟つ。

「添ふからは、傅(かしづ)くべきなり。世の尻輕(しりがる)なる女に聞かせてしがな」この後の謂いを見ても、或いは筆者荻田安静は良縁に恵まれなかったのか、女性関係で痛い目に遇っていたのも知れないなどと私は思うのである。本「宿直草」には、ある種の、筆者の根の深い女性嫌悪感情(上田秋成の複数の怪談でも同じものを私は強く覚えるのだが)を私は感ずることがある

「由無き方(かた)に心通(こころかよ)ふ」夫がありながら、無益なチャラ男に惹かれて不倫をなしてしまう。

「稀に知れずして、たまたま命あるも」不倫が知られることもなく、命存えて、不倫を続ける者もあるが(そうした尻軽女は頭に乗って)と後に続くか。

「猶、古めかしの調度(でうど)なんど、あち荷(に)なひ、こち運び」間男と駆け落ちする様か。

「いとゞ」以上の叙述と以下の続きから考えると、「ただでさえそのようなけしからんおぞましい不倫なのにさらに、そうでなくてさえのニュアンスか。何となく、修辞粉飾以前に、荻田が感情的になってうまく表現が落ち着いていないように見えるのは、私の偏見か?

「卯月(うつき)の一日に、恥に近江(あふみ)の筑摩祭(つくままつ)りに、被(かづ)ける鍋(なべ)の、數(かず)、幾つならん」現在の滋賀県米原市朝妻筑摩(あさづまつくま)にある筑摩神社((グーグル・マップ・データ))で行われる奇祭で、通称「鍋冠祭(なべかぶりまつり)」と呼ばれる例祭に基づく謂い。古くは陰暦四月一日に行われた祭で、ウィキの「筑摩神社によれば、『社伝によれば、桓武天皇の時代』(八世紀)以来、実に千二百年の『伝統がある』とされる。『当社の祭神が全て食物に関係のある神』(穀物神で女神とされる御食津神(みけつのかみ:後に稲荷神と同一化する)を主祭神に大歳神(おおとしのかみ:稲の稔りの神で女神)・倉稲魂神(うかのみたまのかみ:恐らくは御食津神と同一神か同族神)・大市姫神(おおいちひめのかみ:農耕神))の三柱を配祀する)『であり、神前に供物とともに近江鍋と呼ばれる土鍋を贖物したことから、このような祭が生まれたと考えられている』。『過去には鍋冠りは少女ではなく』、『妙齢の女性の役目だった。鍋冠りの女性はそれまでに付き合った男の数だけ鍋釜を冠るという不文律があり』(「大辞泉」には御輿(みこし)に従う女性が秘かに関係を持った男性の数だけ鍋を被ったとある)「伊勢物語」の第百二十段にも、

   *

むかし、男、女のまだ世經ずとおぼえたるが、人の御もとに忍びてもの聞こえてのち、ほど經て、

  近江(あふみ)なる筑摩(つくま)の祭(まつり)とくせなむ

    つれなき人の鍋(なべ)の數(かず)見む

   *

と記されるほど、『有名なルールだった。江戸時代中期に、わざと少ない数の鍋をかぶった女性に神罰が下り、かぶっていた鍋を落とされ』て『笑いものにされ、お宮の池に飛び込み自殺してしまうという事件が起きた。事件の顛末を聞いた藩主の井伊氏が鍋冠りを禁止したが、嘆願の結果』、七~八歳の『幼児による行列ならば、と許可され』たという。現行の五月八日に行われている『春の大祭では、御旅所から神社までの』約一キロメートルを総勢二百人が『ねり歩く。その行列の中に狩衣姿の数え年』八歳前後の少女八人が作り物の『鍋を被って加わることから「鍋冠祭」とも呼ばれ、日本三大奇祭の一つとされることがある』とある(下線やぶちゃん)。]

2017/07/18

ブログ980000アクセス突破記念 女の害について 火野葦平

 

[やぶちゃん注:底本では以前に電子化した「手」の後に配されてある(なお、前回を以って途中の未電子化部分を総て終り、従来の底本の順列電子化に戻った。底本本文は後、小説「花嫁と瓢箪」と戯曲「妖術者」及び小唄集「河童音頭」のみとなった)。単行本の所収は河童小説集である昭和四九(一九七四)年四月早川書房刊「河童」であるから、戦後の作品と考えてよいであろう。底本の傍点「ヽ」は太字とした。以下、先に簡単な語注を附しておく。

 

・「ベール・エムロード色」はフランス語“vert émeraude”の音写(正確には「ヴェール・エムロードゥ」)で英語の“emerald green”(エメラルド・グリーン)のことである。

・「春秋の筆法」とは五経の一書「春秋」の文章には孔子の正邪の判断が加えられているところから、「事実を述べるに対してそこに筆記者の価値判断を含ませて書く書き方、特に間接的原因を結果に直接結びつけて厳しく批判する仕方を指す。

・「松王丸の首實驗」浄瑠璃「菅原伝授手習鑑」(延享三(一七四六)年大坂竹本座初演。初代竹田出雲・竹田小出雲・三好松洛・初代並木千柳の合作。平安時代の菅原道真の失脚を中心に道真の周囲の人々の生き様を描く。四段目の切の「寺子屋の段」が特に知られる)の登場人物。梅王丸の弟、桜丸の兄で、藤原時平の舎人(とねり)。菅原道真への報恩のためにその子秀才の身代わりに自分の子の小太郎を差し出す。私は何度か文楽で見ているので意味が分かるが、不明の方はウィキの「菅原伝授手習鑑」などを参照されたい。

・『「ベニスの商人」の宮廷で、皇女の求婚者たちが、金、銀、鉛、三つの箱をえらぶ。髭もじやのモロッコ王は、金の箱に眼がくらんで失敗した。鉛の箱が幸運の使者であつた』ウィリアム・シェイクスピアの喜劇「ヴェニスの商人」(The Merchant of Venice)のこのシークエンスは高橋葉子(西平葉子)氏のサイト「きいろいながれぼしの旅」の『「ヴェニスの商人」のあらすじ』が判り易い。

・「鳶口野郎」相手の河童の口の先が鳶口(伐採した木材を引き寄せたり、消火作業などに用いる長い柄の先に鳶の嘴(くちがし)のような鉄製の鋭い鉤(かぎ)を付けた道具)のように有意に曲がっていることからの卑称かと思われる。

 

 本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが980000アクセスを突破した記念として公開する。【2017年7月18日 藪野直史】]

 

 

 女の害について

 

 

 まあ、聞いてくれ。いつか話さうと思つてゐた。君にかくしてもしかたがない。君がきつとやつて來ると思つてゐたが、やつぱり來たね。君が來なかつたら、おれの方で出かけるつもりだつた。噓ではない。あの女のことは、おれ以上に君が關心をもつてゐることは知つてゐたし、……、いや、もう、そんな上品ないひかたをしなくともよい。おれと君とが戀がたきであつたといふことは、はじめから明瞭だつたんだから、こんどの事件については、おれとしても、君に報告せずにはをれないわけなのだ。……まあ、さう、眼のいろかへてせかずに、おれの話を聞いてくれ。

 なにも、君を出しぬいたわけぢやない。なるほど、おれはあの女とふたりでしばらく旅をすることはした。しかし、それは駈落ちでも、樂しい旅でもなかつたんだ。樂しいどころか、なんといつたらいいか、じつに、變てこりんな、不思議な、奇妙な、苦しい、馬鹿げた、そして、恐しい旅だつたんだ。見てくれ。おれはこんなに瘦せてしまつたばかりでなく、頭の皿だつて、水氣が減つて、ひびがはいつてゐる。ふさふさした毛も拔けたうへに、白くさへなつてしまつた。甲羅だつて、ほれ、こんなに乾いて、粉がふいたみたいに腐れかかつてゐる。眼もかすんでゐるし、腰の蝶番(てふつがひ)も尋常ぢやない。さつき君が人ちがひぢやないかと眼をみはつたはど、おれは變りはててゐるんだ。みんなあの女とのこんどの旅が原因なんだ。おれがどんな目にあつたかがわかるぢやないか。

 そんな疑ひぶかい眼で睨むな。君はおれを信用してないのか。女はどこにゐるかつて? 女はゐるよ。居どころもわかつてゐるよ。いま話すよ。そのまへに、おれと女との變てこな旅の語を、まあ、終ひまで聞いてくれ。おれは、もう、あの女を君にゆづつてもいいくらゐに思つてゐるが、君がおれの話を聞いたら、きつと、そんな女ならもう用はないといふだらう。おれはそれを信じてゐる。

 こんどの旅は、おれがいひだしたんぢやないんだ。そりや、白狀してもいいが、あの女と、どこかへ、二人きりで旅したいといふ氣持は、日ごろからあるのはあつたさ。しかし、いつもは、あの女は、いつたいおれにどんな感情をいだいてゐるのか、さつぱり見當もつかない曖昧な態度だつたし、おれがおづおづそんなことを口に出しても、鼻であしらつて、受けつけることなんて、一度もなかつたんだ。君だつてさうだつたんだらう。かくさなくたつていいよ。これまでは戀がたきで睨みあつてゐたが、今日からは友だちなんだ。なぜ、友だちかつて? そりや、最後まで話してしまへば、ひとりで合點の行くことだが、もう、あんな女、二人とも忘れてしまつて、仲よくできると思ふからなんだ。

 ところで、こんどの旅は、とつぜん、女の方からいひだしたことなんだ。十日ほど前のことだ。女がやつて來て、いつにないなれなれしさで、

「たのみがあるのよ」

 さういふぢやないか。じつは、白狀してもいいが、おれはもううれしさで胸がどきどきして、多分、多少うはづつた聲で、

「どんなこと? どんなことでもするよ」

 と、せきこみながら答へたもんだ。

「ほんとに、どんなことでも、聞いて下さる?」

 どんなことでも、に力を入れて、じつとおれの眼のなかをのぞく。おれはもう夢中だ。彼女のためなら死んでもいいと、日ごろから思つてゐたんだし、躊躇するわけもない。

「うん、どんなことでも。さあ、いつてみたまへ」

「そんなにいはれると、かへつて困るわ。そんな大變なことぢやないのよ。ちよつと旅をしなくてはならないんだけど、ひとりぢや心細いの。御迷惑かもしれないけれど、いつしよに行つていただきたいのよ」

 白狀してもいいが、おれはよろこびで飛びあがつたんだ。なんの迷惑なことがあらうか。願つたりかなつたり、望むところ。しかし、おれはやつぱり男としての自尊心があつたし、あまりこちらの卑屈なこころを見すかされまいと、わざと不承不承のやうに、

「旅? 君と? ちよつと困るなあ」

「ああら、いま、どんなことでもするとおつしやつたくせに。噓つきね。さう、なら、いいわ、そんなに迷惑なのなら……」

 君の名前が出さうになつたんで、おれはあわてて、

「いや、迷惑なことはないよ。迷惑なことなんてあるもんか。行くよ、行くよ」と、たわいもなく、降參してしまつた。そして、どこに、どういふ用件で行くのか、とたづねた。

「これを持つてね」と、彼女がおれに示したのは、小さな、さうだね、縱一尺、橫八寸、高さ六寸くらゐの、蓮の葉づくりの綠りいろの小筥だつた。これが問題の小筥だつたんだが、そのときはべつだん深くも氣にとめなかつた。[やぶちゃん注:「綠り」の送り仮名「り」はママ。]

「伯父さんのところへ行かなくてはならないの。伯父さんて、あんた、知らないかしら。臍無沼(へそなしぬま)の宰領(みかじめ)をしてゐるひとだけど。この白鷺川(しらさぎがは)をまつすぐにくだつて、さうね、二百キロはあるから、一日に十五キロ行くとしても、十三、四日はかかる勘定ね。そんな長旅、あたし、ひとりぢや怖(こは)いわ。とてもできない。それで、お願ひしたの。ね、無事向かふへつくまで、あたしを守つて行つて下さるわね」

「よろしいとも。そんなことくらゐ、屁の河童だよ。で、また、こつちへかへつて來るのかい」

「勿論よ」

 さうして、おれたちの奇妙な旅がはじまつたといふわけさ。

 おれは單に隨伴で、護衞、つまり用心棒といふところだが、白狀してもいいが、それでも樂しくないことはなかつた。惚れた女との二人旅、それに、男女のなかは異なものだから、旅をしてゐる間に、いつか、なにかのきつかけで、思ひをとげることのできる機會が來ないともかぎらない。その期待で、おれはわくわくとこころもをどつてゐた。

 荒れた梅雨の名ごりもとつくにすぎたあと、白鷺川は適度の水量で、流れもおだやかだつた。水もすんでゐるし、鮒(ふな)、鮠(はや)、鰻(うなぎ)、えび、みぢんこ、など、食糧にことはかかぬし、水底の旅はまづ快適だつた。食糧採集はおれの役目だ。おれは戀人の兵站部(へいたんぶ)になることがうれしくて、魚とりに得意の手練を發揮した。彼女もほめたり、よろこんでくれたりした。夏の太陽はきらきらと、水面を光らせながら、すこしはあたためるが、底の方はひいやりとしたこころよい肌ざはりで、甲羅も、皿も、嘴も、水かきも、生涯のうちでもつとも健康、かつ快調のやうに思はれた。

 ならんでゆく彼女は、いかにも美しい。彼女の豐饒(ほうぜう)で金色の頭髮、瑪瑙(めなう)のやうに靑びかりするつやつやしい皿、ルビーのやうな二つの眼、貝殼のやうな嘴、そんなものにも增して、ながれにしたがつて、濃くなつたり淡くなつたりするベール・エムロード色の甲羅と、そのこまかな網目模樣、きらに、まろやかな兩肩の線、なんともいへぬ腰のあたりのやはらかいふくらみ、それが步行にしたがつて、ゆるやかに振られる惱ましさ。――そんな恐しい眼で、おれを見るな。君はやきもちをやいてゐるのか。とんでもない。そんな彼女の姿態の虛僞といやらしさが、あとですつかりわかつたんだ。話が終るまでは、さまたげないでくれ。……

 さて、まづ、出發から、三日ほどは、なんの變つたこともなく過ぎた。おれは胸のをどる期待で、彼女との結合を空想してゐたんだが、大あてはづれで、すこしいらいらして來た。白狀してもいいが、おれはもう我慢がしきれなくなつて、いつそ暴力にうつたへてもと、彼女がおれのかたはらで眠つてゐるときなど、何度か考へたこともあるんだ。だが、氣弱なおれには、それがどうしてもできなかつた。しかし、それは單におれのお人よし、優柔不斷ばかりぢやなかつた。いま考へてみてわかることがある。なにか、彼女はおれにふれさせない或る神祕なもの、といふより、えたいの知れぬ祕密なものを藏してゐたんだ。それがはじめはわからなかつたが、三日目ごろから、すこしづつ明らかになつて來たんだ。

 不思議の第一は、彼女の持つてゐた小筥だ。蓮の葉で製造した箱は、たれでも持つてゐるし、すこしも珍しいものではない。その筥も筥自體はきはめてありふれたもので、注目をひくものはなにもないのだが、その小筥を所持してゐる女の態度が、ただごとではないのだつた。

「その筥、僕が持つてあげよう」

 おれは何度さういつたかしれない。こちらは惚れた弱味の用心棒で、お伴だから、それくらゐの奉仕は當然だらうぢやないか。か弱い女に荷物を持たせて、(それに、大變重さうだつた。筥自體の重さはしれたものだから、入つてゐるものが思ひやられた)大の男が手ぶらで步く法はない。しかし、おれが何度さういつても、彼女は、いいのよ、いいのよ、と頑固に首をふつて、おれに持たせようとしない。

「そんなにまでして貰はなくともいいのよ」

「でも、重さうだから、持ちたくてしかがないのだから、家來にかつがせたらどうだね」

「いいのよ。これは着くまで、あたしが持つて行く」

 あんまり重さうにしてゐるので、つい見かねて、また、持たうといつてしまふのだが、

おれがしつこく(歡心を得たいためとはいへ、こちらはまつたくの親切心からなのに)同じことをくりかへすと、しまひには、彼女はするどい猜疑(さいぎ)のまなざしで、おれを睨むやうにするのだつた。その眼のいろには、あきらかに、持つて逃げるのではないかといふ疑ひの光があつて、さらに、だまさうたつて渡すものかといふ反撥の氣配さへあつて、おれは情なく、また腹だたしくもなるのだつた。

 それよりも、

「その小筥、ずゐぶん大切にしてゐるが、どんな大事なものが入つてるんだね?」

 さう聞いたときの、彼女のすさまじいばかりの凝視を、わすれることができない。女でもこんな恐しい眼ができるものだらうか。その眼はもはや猜疑といふよりも、一種脅迫のいろさへおびてゐて、おれは恐怖で心臟が凍る思ひにすらなつた。なにが入つてゐるのか、さういふ好奇心はたれでもおこるものだし、こちらも氣輕に聞いたつもりだつたのに、彼女をこんなにもおどろかし、また思ひがけぬすさまじい逆反應をおこさうなどとは、夢想だにしなかつたのだ。

 おれがびつくりして、どぎまぎと默つてしまふと、女は、急に、にこにこと不自然な笑顏になつて、

「お願ひだから、二度と、そんなことを聞かないでね」

 機嫌をとるやうに、おれの顏をのぞきこんで、媚態(びたい)に似たものを示すのだつた。

 

 

 

 おれの好奇心と疑惑とは、彼女への慕情のせつなさと平行し、あるひは交錯しつつ、日とともに高まつた。つまり、いろいろな意味で、彼女はしだいにおれを惱まし、苦しめはじめたのだ。

 女の小筥にたいする態度は、どう考へても、尋常とは思はれない。愛着とか愛撫とかいふやうな種類の感情ではなく、もつと別の、極端にいへば、ふとなにか不純なものさへ感じさせる、大事がりやうである。かたときも、自分の手からはなさないのは無論のこと、きたない話だが、大小便の用たしにもちやんとかかへて行くし、おどろいたことには、眠るときには、その筥をしつかりと、葛の紐で自分のからだにくくりつけるのだ。おれは不愉快と情なさで、自分を泥棒と思ふのかと、どなりつけたい衝動をしばしば感じた。しかし、そこが惚れた弱味、彼女の自分への不信にたいして、ひとことも、抗議の言葉をはくことができないのだつた。

 ところが、彼女がおれを苦しめたのは、そればかりではない。氣をつけてみると、彼女の行動は、一から十まで、不可解至極といつてよかつた。

 彼女は步行の途中でも、いきなり、おれにしがみついて、おれをおどろかせた。おれたちは、水中ばかり步いてゐたのではない。ときには氣ばらしに、岸を步いた。ただ、岸を行くことは多少の危險がともなふので、主としてこころおきない水底をえらんだのだ。おれたち河童は、姿を消すことはできるけれども、それは完全には安全といふわけにいかぬ。そのことは、君もよく知つてゐるとほりだ。人間のなかには河童の習慣を知つてゐる奴がゐるので、油斷はならぬ。仲間がたびたび遭難してゐる。傳説の掟はきびしくて、變更することができない。水かきのある平べたい足音は、よつぽど注意せぬと、地獄耳の人間に聞かれるおそれがあるし、おれたちが步いて行くと川風がかならずおこるし、おれたちの身體から發散する特有なにほひは、なんとしても消しがたい。そこで、この長い道中を、おれたちは主として水底を行つたのだ。

 そんなとき、彼女がおれにしがみつくのだ。おれはびつくりする。しかし、白狀してもいいが、はじめはおれはうれしさで、ぞくぞくしたのだ。彼女がおれをどう思つてゐるのか、おれには皆目見當がたたないのだが、理由のいかんにしろ、彼女がおれにしがみつく、つまり、だきつくといふのは、おれに好意がなければ、できないことぢやあるまいか。君だつて、さう思ふだらう。……また、君は睨んでゐるな。早合點せずに聞けよ。……おれはだきつかれて、身ぶるひする思ひがした。ふつくらとゆたかな女の體溫が、おれの心臟までとどく氣がする。女の身體がぴつたりとおれに密着してゐる。しつかりとおれにだきついてゐる。もつとも、そんなときでも彼女は蓮葉の小筥をはなさないのだから、片手がおれの身體を卷いてゐるわけなのだが。

 機會の到來がおれを興奮させた。おれの誠意が彼女に通じたのだ。彼女は、しかし、これまでおれへつらく當つて來たことをてれて、唐突な愛情の表現で、おれの求愛にこたへようとしたのだ。おれはさう信じた。たれもゐない水底で、しつかりと女にだきつかれれば、たれだつてさう思はうぢやないか。おれも思つた。おれは身體中の血がたぎつて來た。そして、女の表現にこたへるために、彼女を抱擁し、接吻し、そして、さらにもつとふかい結合をしたいと思つた。

 ところが、なんとしたことか。おれが彼女を抱かうとして、滿足の眼を彼女の顏にそそいだ瞬間、おれの心臟はとつぜん冷却した。恐怖に靑ざめてゐる彼女の顏、眼はひきつり、嘴はふるへ、頭髮はぶるぶるとゆらいでゐる。頭髮のみでなく、彼女の身體全體が小きざみにふるへてゐて、おれの身體とうちあつて、がちがちと鳴つてゐるのだ。どこにも愛情の表現などはない。さすがのおれも、助平根性をふりすてざるを得なかつた。

 そして、こちらも奇妙に不安な氣特になつて、

「どうしたのかね、どうしたのかね」

 と、うはづつた聲で聞いてゐた。

「あそこを見て」

 彼女の恐怖におののくまなざしのつきささつてゐる場所に、おれも眼を轉じた。

 もりあがつた岩と岩との間に、藻が森林のやうにつづき、そのうへをいくつかの菱の實が黑豆のやうにただよつてゐる。おれたちが行くと、魚たちは退散してしまふので、岩のうへに、一匹の源五郎がゐるほか、魚の姿も見えない。白晝の光があかるく全體をかがやかしてゐる。それだけのありふれた川底の風景にすぎぬ。とりたてて不思議なものも、まして、彼女が恐怖に靑ざめるやうなものは、なにもない。おれは氣あひぬけがしたが、やさしい聲で、

「なんにもありはしないよ」

 と、なぐさめるやうにいつた。

「ほんとに、なんにも見えないの?」

「恐しいものなんて、小豆(あづき)粒ほどもないよ」

「ほんとに」彼女はほつとしたやうに、「もう見えない。消えてしまつたわ」

「消えた? さつきはなにかあつたのかね」

「いいのよ。あんたが見なかつたら。……さ、すこし急ぎませう」

 かういふことが、たびたびあつた。

 それからでも、いきなりしがみつかれると、やつぱり、未練なおれは、もしやと思ふのだが、いつの場合でも、彼女がなにかの幻影におびえてゐるだけで、おれの願望は果されなかつた。

 それにしても、彼女はなにを見てゐるのだらうか。いくら眼をこらしても、おれは彼女の見てゐるものを理解することができなかつた。

「あれが見えないの、怖い、怖い」

 囈言(うはごと)のやうに、さう叫んで指さしてゐるときでも、おれの眼には平凡な水底の風景しかうつらないのだ。

 步いてゐるときだけではなく、彼女は眠つてゐるときでも、なにかにおびやかされ、魘(うな)される。恐しい夢を見てゐるやうに、呻き聲を發し、眼をひきつらせ、七轉八倒する。しきりに、なにごとか口走るが、その意味は、どうしても聞きとれない。いまにも死ぬかと思はれるやうなときがあつて、おれがゆりおこすと、きよとんと意識づき、はつとしたやうに、蓮葉の筥をだきしめる。おれの顏を疑ひぶかさうにながめ、ふいに、につこり媚態を示す。

 なんの亡靈に惱まされてゐるのか? もとより、おれにわからう筈もない。しかし、彼女の祕密が、ともかく、狂氣じみた守りやうで、肌身はなさぬ蓮葉の筥にあることは、もはや疑ふ餘地はないと思つた。

 

 

 

 「臍無沼に行つても、伯父さんがゐるかどうかわからない。でも、行かなくてはならないの。租先からの動かしがたい戒律が、あたしにさういふ宿命をつくつてゐるの。この重い運命に耐へなければならないわ。あたしはもし伯父さんがゐなくても、その絶望と、もう一度たたかつてみるつもりなのよ」

 彼女の言葉の眞の意味はなんであらうか。深刻すぎて、おれにわかる筈もないのだが、その崇高な女の決意は、すこぶるおれを感動させた。その女の悲しさは、彼女をきらに美しく見せ、おれの慕情をいやがうへにも燃えたたせた。さうして、同時に、すべての彼女の精紳と肉體の祕密をあかす鍵が、蓮葉の筥にあることも確信するとともに、おれはもうその筥になにが入つてゐるかを知りたくてたまらなくなつて來た。出發以來の彼女のすべての行動が、ことごとく小筥につながつてゐるにちがひないことを、どうして疑ふことができよう。

 おれは、やがて、狡猾(かうくわつ)のこころで、女の祕密をのぞく機會を待つた。同時に、祕密にむすびつけられてゐる彼女のすべての行爲が、さらに魅惑的となつて、彼女の美しさをいちだんと增した。いまや、おれ自身の精神と肉體とのどんな感度も、反應も、もはや彼女ときりはなしては(といふことは、春秋の筆法ではないが、小筥ときりはなしては)考へられなくなり、意味をなさなくなつたのだ。

 なにが入つてゐるかと聞いてさへ、氣色を損じるのだから、彼女の口から語らせることの不可能はいふまでもない。とすれば、自分で中をのぞく以外に、手段はないわけだ。ところが、彼女が肉體の一部のやうに、常住、筥をはなさぬので、目的達成の困難ははかり知れぬものがあつた。――それにしても、彼女がほとんど死守してゐるこの玉手箱には、いつたい、なにが入つてゐるのだらうか? わからねばわからぬはど、考へてみたいが人情だ。おれはいろいろと考へめぐらした。その想像は樂しかつた。戀人の美しさと魅力の根源となつてゐるものをつきとめる。彼女の幻影の正體を知る。これ以上、惚れた者としての滿足のないことば、君にもわからう。松王丸の首實驗のやうな野暮なものである筈はない。パンドラの匣(はこ)に似てゐるか? サンタ・クロスの靴下か? それとも、人間の尻子玉(しりこだま)か? うかつに斷定できぬ。「ベニスの商人」の宮廷で、皇女の求婚者たちが、金、銀、鉛、三つの箱をえらぶ。髭もじやのモロッコ王は、金の箱に眼がくらんで失敗した。鉛の箱が幸運の使者であつた。いまは、自分の戀人の筥は一つしかない。迷ふところはない。機會を待つだけだ。……おれはそのときのことを考へ、顏はほてり、動悸はうち、苦しく、樂しく、さうして、いつか、せつなく、なにかにむかつて祈つてゐた。

「やつと、半分來たわね。あなたのおかげよ。ひとりでなら、とても、一日も步けやしなかつたわ。お禮いふわ」

「そんな水くさいことはいはないで貰ひたいな。あなたを守るのは、僕の義務なんだ。どこまででも、あなたのお伴をして行くよ」

「ほんとに、あなた、親切だわ」

 ふつと、彼女が淚ぐんだやうな氣がした。旅のつかれで、強氣の彼女もいくらか氣弱になつてゐたのであらうか。

 感傷は生理の狀態に關係ぶかいもののやうに思はれる。

「僕は幸福だと思つてゐるのだよ」と、おれはいくらか圖に乘つて、「あなたのお役に立てたこと、生涯の滿足だ。僕は僕だけのありたけのまごころと、……それから、……愛情とを」この愛情といふ言葉がなかなか出なかつた。出てしまふと、一瀉千里(いつしやせんり)、「あなただけにさきげて來たんだ。これまでだつて、さうだつたし、これからだつて變らない。金輪際(こんりんざい)、僕の心はかはらない。あなたが僕をどう思つてゐたつて、そんなことはどうだつていいんだ。そりや、僕はあなたから愛されたいと思ふ。しかし、そんなことを強要しようとは思はないし、たとへ輕蔑されても本望なんだ。愛は惜しみなく奪ふのではなくて、與ふなんだ。僕は、そりや、一度でも、あなたの抱擁を得られたなら……」

 このとき、彼女はおれをひしと抱いた。幸福で、おれは眼まひを感じた。いま、このままの姿勢で、消えてなくなるならなくなれ。そんなに、きらきら眼を光らすな。いちいち、うるさい男だ。彼女はなにもおれの愛情をうけ入れたわけぢやなかつたんだ。やつぱり、あれだつたんだ。いい氣になつたおれは、彼女の唇を盜まうとしたんだが、なんだ、やつぱり彼女はまた幻影におびえてゐたんだ。おれなんか見てゐやしない。そのときは森のなかにゐたが、あらぬ天の一角を凝視して、ふるへてゐる。

 おれはがつかりして、手をはなした。

 

 

 

 つひに、宿望の筥をかいま見るときがおとづれた。

 半分來た旅路ののこり半分を、また半分ほどすぎた或る夕方のこと、おれたちは、すこし流れの早くなつた川岸にゐた。そこは人跡まれなふかい溪谷で、西側はきりたつた崖壁が屛風をつらねたやうにつづいてゐる場所だつたので、全く人間に顧慮する要がなかつた。水中の旅もたのしいが、幽邃(ゆうすゐ)の地上の行程も、またすてがたい。人間への危險がなければ、畢調な水底よりも、どちらかといふと、地上の方がよい。おれたらは、その二日ほどは、陸上が多く、猿が崖のうへを群れとんでゐるその深い溪谷の曲り角に來て、ひとやすみしたのであつた。

 さすがに彼女の面輪(おもわ)にはつかれが見えてゐた。こころもち、頰がくぼみ、ふさふさした髮がみだれて、太陽や水の光線にしたがつて、濃淡のあやを敏感にうつしだすべール・エムロードいろの甲羅のほそい網目模樣も、どこかにゆるみが來、その何枚かはよごれ乾いてゐた。また、いつどこで打つたのか、眉や膝や股にかすり傷ができ、鮑(あはび)の裏のやうに光つてゐた瀟洒(せうしや)な嘴も、いろがあせて見えるうへに、缺けてゐるところがあつた。しかし、美しいものは、どんな變化もまた別の美しさに見えるものだ。それとも、惚れた眼には、あばたもえくぼといふあれか。おれはさういふ彼女へさらに慕情が高まるばかりで、岩鼻にちよこんと腰をおろし、猫背になつた姿勢で、もの思はしげなうつろな眼を、とき折白い飛沫をたてる流れへじっと投げてゐる女のすがたを、ほれぼれとながめてゐた。

 夕やけ雲からさそひだされた、たそがれの光りが、崖の間をぬひ、そのなかに蝙蝠(こうもり)がとびかひはじめたとき、彼女がふいと立ちあがつた。

「ちよつと」

その表情と言葉とは、放をつづけてゐて馴れてゐた。彼女は便意をもよほしたのだ。大小はわからないが、淑女であるから、おれの眼のとどかぬところへ行くのは論をまたぬ。

「どうぞ」

 いつものとほりさういつたが、いつもでないことが起つた。

「これ、ここに置いとくわ。腕がつかれて、もう持つて用たしができさうもないの。張り番しててね」

 なにを思つたのか、彼女はこれまで肌身をはなきなかつた蓮葉の小筥を、いままで腰をおろしてゐた岩のうへに、そつと置いた。

「大丈夫だよ」

 おれは内心しめたと、胸をどきどきさせながら、なにげない樣子で答へた。

「お願ひするわ」と行きかけたが、何步もゆかぬうち、ひきかへして來て、

「あなた、これ、見ないでね」

 と、おれを睨むやうにした。

「見るもんか。君の禁止令には、もう最初から服從してるぢやないか」

「きつとよ」

彼女のやさしい眼は、まるでくるりと眼玉をいれかへたやうに邪慳(じやけん)に變り、猜疑と脅迫のつめたい光が、ぞつとするするどさで、おれの顏をつきさした。もし見でもしたら承知せぬ、どんなことになるかわからないぞ――その眼はたしかにさう語つてゐた。にもかかはらず、愚かなおれは、そのときになつても、まだ、その眼すら美しいなどと考へてゐたのだ。

「見やしないよ。安心して行きたまへ」

おれは、こんな筥問題でないといふやうにいつた。[やぶちゃん注:「筥問題でない」はママ。「筥、問題ではない」。]

 彼女はふりかへりふりかへり、蔦(つた)のはひのぼつてゐる岩壁のかげに消えた。

 この機を逸してよからうか。おれはもうほとんど逆上狀態といつてもよかつた。冒險への志向はひとを勇者にするが、盲目にもする。おれは自分の裏ぎりを彼女へ發見された場合、どんなことになるのか、明確な算定はすこしもできてゐなかつた。しかし、もうおれの恣意(しい)は計畫をこえてゐた。同時に、この祕密を知ることによつて、女の根源のものを、愛情のかたちに還元し得る。ああ、むづかしいいひかたはすまい。白狀してしまつていい。おれは祕密を知ることによつて、女の心を自分にひきつける方策を確立し得ると思つたのだ。そして、……ええ、これも白狀してしまへ。……もし發見されたとしても、女が自分へ危害を加へるどころか、祕密をにぎられた弱味で、かへつて急速に自分になびく結果になるのではないか。さういふ蟲のよい計算ができてゐたのだ。

 それにしても、宿望たる小筥をひらく機會にめぐりあつたことで、おれは興奮でふるへた。すばやく、おれは綠の小筥に手をかけた。手もふるへた。

 ところが、まんまと失敗したのだ。手をかけるのと、かへつて來る足音がきこえるのとが同時で、おれははつと手をひいた。素知らぬ顏になつて、膝をだき、はるか高い崖のうへを走る猿の群を見た。

「あなた!」

 はげしくするどい氷のやうな聲に、おれはぎくつとふりむいた。怒りにみちた眼がおれをまつすぐに見くだしてゐた。

「なんだい」

「あんなに見てはいけないといつたのに、見なさつたわね」

「冗談いふなよ。見るもんか。おれはそんな噓つきぢやないよ」

「それでも、あたしが筥の角を、この岩の條目(すぢめ)にあはせて行つたのに、動いてゐるわ」

 おれは返事ができなかつた。彼女の筥への執着と、綿密な警戒心にあきれるばかりで、ただ、見ない、見ない、とくり返すほかなかつた。仔細に筥を點檢してゐた彼女も、やつと、中を見られてゐないことを知つた模樣で、安心した顏つきになると、

「ごらんになつてはゐないやうね。疑つてすまなかつたわ。ごめんなさい」

 と、機嫌をとるやうに、握手をもとめて來た。

 しかし、おれは、もう、意地になつてゐた。狂氣じみた好奇と、奇妙な復讐めいた觀念にとらはれてゐた。そして、その翌日のたそがれどき、同じやうな場所で、同じやうな狀態がおとずれたとき、たうとう筥のなかを見てしまつたのだ。

例によつて見るなと念をおして、排泄(はいせつ)のため去つたあと、ふるへる手つきで、必死の氣組でおしひらいたその蓮葉の小筥なかには、なんと、なんにも入つてはゐなかつた。正眞正銘のからつぽだつた。[やぶちゃん注:「小筥なかには」はママ。「小筥のなかには」の脱字であろう。]

 

 

 

 どうだ。はじめに、おれのいつたことがわかつただらう。なんとつまらぬ女ぢやないか。深刻さうに見えたばかりで、なんにもありはしなかつたんだ。おれは白けはてて、いつペんに女への關心がさめてしまつたのだ。君だつて、さうだらう。こんな女は問題にするにたらんぢやないか。君も忘れてしまつた方がいいよ。

 お、なにをする? なにを亂暴するんだ。あいた! おい、やめろ! なにをするんだ。わけをいへ。……なに? ――貴様はこんな話をして、おれを女から遠ざけて、自分が獨占するつもりだらう、つて? 筥を見てから、いつそう女が好きになつたんだらう、つて? ちがふよ。らがふよ。なにを誤解してるんだ。……あいた、亂暴はやめろ。そんな無茶な。話せば、わかる。……話してもわからぬ? 畜生、たうとう看破されたか。案外、貴樣は頭のいい奴だ。おう、白狀してもいい。あの女はおれのものだ。貴樣なんかにとられてたまるもんか……くそ、力の強い奴だ。よし、來い。相手になつてやる。……ええい、うぬ、これでもくらへ!……畜生、……あいた、やりやがつたな。この鳶口野郎奴! うぬ!……

柴田宵曲 續妖異博物館 「龍の變り種」(その1)

 

 龍の變り種

 

 山道を歩いてゐて妙な石を拾つた人がある。雞卵ほどの大きさで、靑や赤の斑が甚だ美しい。持ち歸つて五六年も箱に入れて置いたが、子供が持ち出して遊んだことから遂に見失つてしまつた。數日後の晝間、風雨晦冥になって、庭前の木を垂れる雨水が、あだかも瀧のやうに見える。皆珍しがつて眺めてゐるうちに風雨がやみ、木の下に忽然としてこの石が現れた。石は已に破れて卵の殼のやうになつてゐたので、人々ははじめてこの石が龍の卵であつたことを知つた(原化記)。

[やぶちゃん注:「原化記」は「太平廣記」に載るものが残存する総てである。以上は「龍七」の「斑石」である。

   *

京邑有一士子、因山行、拾得一石子。靑赤斑斕、大如雞子。甚異之。置巾箱中五六年。因與嬰兒弄、遂失之。數日、晝忽風雨暝晦、庭前樹下、降水不絶如瀑布狀。人咸異其故。風雨息、樹下忽見此石已破、中如雞卵出殼焉。乃知爲龍子也。

   *]

 

 これも山中の話であるが、華山に遊んだ人が盛夏の事で暑くて堪らず、溪川のほとりに休んでゐると、大きさ掌ぐらゐの葉が一枚流れて來た。眞赤な色をして如何にも美しいので、拾つて懷ろに入れてゐると、何だか妙に重くなつたやうに感ぜられる。氣味が惡くなつて取り出して見たら、葉の表面に鱗のやうなものがあつて、むづむづ動いてゐる。びつくりしてこれを林の中に棄て、同行者にその話をしたところ、それはきつと龍に相違ない、早く歸らうと云ふ。忽ち白い烟が林中にひろがり、遂に谷一杯になつて、一同が山を下るより早く大風雨が襲つて來た(酉陽雜俎)。

[やぶちゃん注:「華山」現在の陝西省華陰市にある中国五名山(東岳泰山(他の四つは山東省泰安市泰山区)・南岳衡山(湖南省衡陽市南嶽区)・中岳嵩山(河南省鄭州市登封市)・北岳恒山(山西省大同市渾源県)の一つ。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「酉陽雜俎」の「卷十五 諾皋記下」の以下。

   *

有史秀才者、元和中、曾與道流遊華山。時暑、環憩一小溪。忽有一葉、大如掌、紅潤可愛、隨流而下。史獨接得、置懷中。坐食頃、覺懷中漸重。潛起觀之、覺葉上鱗起、栗栗而動、史驚懼、棄林中、遽白衆曰、「此必龍也、可速去矣。」。須臾、林中白煙生、彌於一谷。史下山未半、風雷大至。

   *]

 

 この二つの話は龍が昇天に先立つて、意外なものに化けてゐた例であるが、靑赤斑爛たる雞卵大の石は一見して異樣なものを感ぜしめる。掌大の紅葉が溪を流れて來る間は、たゞ人目を惹く程度だつたのが、先づ懷中に在つて重くなり、次いで鱗をむづむづ動かし、林中に棄てられるに及んで、白姻濠々と林中に立ちこめて來る。この徐々漸々と進む工合が甚だ龍らしい。無氣味ながら美しい話として掌大の紅葉を推さざるを得ぬ。

 

 朱梁の尹皓が華州に居つた時分、若干の兵を連れて巡警に出た途中、荒地の中で石のやうな卵のやうなものを拾つた。「原化記」の記事と似たものであるが、この方は色が靑黑く、光滑愛すべしとなつてゐる。左右の者に命じてこれを拾はせ、二三十里行つたところで佛寺に一宿した。その夜は恭しく本尊の前に安置して寢たところ、夜半に大雷雨となり、すさまじい大雨の中に雷が落ち、寺は燒けてしまつたが、佛像は無事であつた。院外の柳樹數百株が悉く根こぎになつたといふのだから、風雨の烈しかつたことは想像出來る。皓の拾つたのは龍卵であつたので、妄りにこれを拾つて携帶したことが、彿寺を燒く災厄を齎したらしい。雷雨去つた後は龍卵も行方不明になつてゐた(玉堂閑話)。

[やぶちゃん注:「朱梁」既注であるが、再掲しておくと、後梁(こうりょう)のこと。五代の最初の王朝で、唐末の混乱期に唐の朝廷を掌握した軍閥の首魁朱全忠が九〇七年に唐の昭宣帝から禅譲されて建国した。

「尹皓」「インコウ」と読んでおく。

「華州」前段の陝西省の「華山」附近の広域地名。

以上は「玉堂閑話」の「尹皓」(「太平廣記」に引く)。以下に示す。

   *

朱梁尹皓鎮華州、夏將半、出城巡警、時蒲、雍各有兵戈相持故也。因下馬、於荒地中得一物如石、又如卵、其色靑黑、光滑可愛、命左右收之。又行三二十里、見村院佛堂、遂置於像前。其夜雷霆大震、猛雨如注。天火燒佛堂、而不損佛像、蓋龍卵也。院外柳樹數百株、皆倒植之、其卵已失。

   *]

 

 釣りの好きな人が川の寫眞を見て、この川にはきつと鮎がゐると云つた話があるが、唐時代には水を一見しただけで、そこに龍が栖んでゐるかどうかわかるといふ人があつた。この人が龍を持つて歸るといふ評判があつた時、華州刺史であつた李納は、虛妄だと云つて信じない。その龍といふのを見せて貰ふと、瓶の中に泳いでゐるのは二尾の鰍魚であつた。納は怒つたやうな顏をして、どうして龍だとわかるか、と詰め寄ると、相手は平然として、これを證明するのはむづかしい事ではありません、小さな穴を掘つて水を入れて下さい、と云つた。云はれるまゝに穴を掘つて、水中に魚を放つたところ、二尾が相逐うて泳ぎ𢌞り、尾が穴の緣に觸れる每に、四隅は次第に崩れ、水もずんずん殖えて、忽ち何尺もある闊(ひろ)い穴になつた。その人李納に向ひ、如何でせう、これ以上穴が大きくなつては、私の手に合はなくなります、と云ふが早いか、魚を捕へてもとの瓶に入れてしまつた。納大いに奇とし、多くの錢帛を贈る。鰍魚は無事都に持ち歸ることが出來たと「中朝故事」に見えてゐる。この話はまだ龍にならぬ狀態であるが、もし李納がいつまでも強情を張つて、魚の泳ぐに任せてゐたら、恐らく天地晦冥になつて風雨到り、龍は華州に於て昇天し去つたことであらう。

[やぶちゃん注:「鰍魚」「シウギヨ」或いは「どぢやう」と当て読みしておく。本邦では「鰍」は条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux(華州の位置から同種の純淡水産の河川型)を指すのであるが、これは国字であって、中国ではあくまで「鰍」はかの泥鰌(条鰭綱骨鰾上目コイ目ドジョウ科ドジョウ属ドジョウ Misgurnus anguillicaudatus)のみを意味するからである。

「中朝故事」は五代南唐の尉遲偓(いちあく)の撰した随筆。以上はその「卷下」の冒頭にある以下。但し、中文サイトの二種を見たが、「李納」ではなく「李訥」(りとつ)である。

   *

古有豢龍氏、長安有豢龍戸、觀水卽知龍色目、有無悉知之。懿皇朝、龍戸上言、「龍池中走失兩條。」。往關東尋訪數十日、東都魏王池中見之、取而歸闕。經華州、時李訥爲華州刺史。訥父名建杓、向與白居易相善。訥爲人正直、聞得龍來、大以爲虛妄、命就公府視之。則於一小瓶子中、倒於盆、乃二細鰍魚也。訥怒目曰、「何以爲驗。」。其人對曰、「驗非難也。」。請於地中鑿一穴、闊一尺、已而注水其間、收鰍投水内。魚到水中、相趁旋轉、尾觸穴四隅、隨觸而陷、水亦暴漲。逡巡、穴已闊數尺。其人諮訥云、「恐穴更廣、卽難制也。」。遂搦入瓶中。訥方奇之、厚贈錢帛、攜歸輦下。

   *]

 

 龍が水中に潛むことを考へれば、雲を得る以前に於て魚の形を取るのも、一應尤もなやうな氣がするが、魚族に關する話はいろいろある。韋顏子の壻が井戸替への際に捕へたといつて、一尾の鯉を齎らした。長さ五尺餘りあつて、鱗が金色に光るのみならず、その眼光は人を射る如くであつた。これが雨龍であつたといふし、汾水のほとりに住む老婆の獲た緋鯉も顏色自ら普通の魚と異なつてゐた。老婆これを憐れみ、小さな池を掘つて放して置くと、一月ばかりたつた後、その池から雲霧が立ちのぼる。緋鯉は騰躍逡巡の體であつたが、遂に風雲に乘じ汾水の中に入る。その際空中より落した珠が靈藥で、後に老婆の子の難病を治するといふ話が「瀟湘錄」にある。嘗て「病牀讀書日記」(正岡子規)を讀み、「昨夜の夢に緋鯉の半ば龍に化したるを見て恐ろしと思ふ」とあるのを不思議に思つたが、鯉と龍とに密接な關係のあることを知らぬためであつた。

[やぶちゃん注:「韋顏子の壻」「韋顏子」は柴田の誤読(或いは「韋顏の子」の脱字)と思われる。以下の原文通り(後掲)、「韋顏」なる官人の娘の婿(むこ)の意である。

「汾水」汾河。山西省を南北に流れる大河で渭河に次ぐ黄河第二の支流。ここを流れている川(グーグル・マップ・データ)。

「病牀讀書日記」正岡子規の晩年の公開日記。明治三三(一九〇〇)年七月のクレジットを持つが、内容は前年のものであろう。その十一月十一日のクレジットを持つ記載の冒頭に出る。私は所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認出来る。

「鯉と龍とに密接な關係のある」柴田は明治三十年生まれで、恐らくはごく少年期に子規のそれを読んだものの、未だその頃は登龍門の故事(治水伝説の夏の聖王禹(う)が山西省の黄河上流にある竜門山を切り開いて出来た急流の瀧「龍門」を登ることが出来た鯉は龍となるという伝説)を知らなかったというのである。博覧強記の宵曲の言としてはちょっと意外である。

 以上の前者「韋顏」の話の出典を柴田は落しているが、これは「太平廣記」の「龍六」に「劇談錄」(唐の康駢撰の志怪小説集)を出典として載せる「崔道樞」(さいどうすう)である。私は中国語が読めないので、後半の展開はよく判らぬが、以下に見る通り、結構、長いものである。

   *

唐中書舍人韋顏、子婿崔道樞舉進士者屢屢。一年春下第、歸寧漢上所居。因井渫、得鯉魚一頭長五尺、鱗鬣金色、其目光射人。衆視異於常魚。令僕者投於江中。道樞與表兄韋氏、密備鼎俎、烹而食之。經信宿、韋得疾暴卒。有碧衣使人引至府舍、廨宇頗甚嚴肅。既入門、見廳事有女子戴金翠冠、著紫繡衣、據案而坐。左右侍者皆黃衫巾櫛、如宮内之飾。有一吏人從後執簿領出。及軒陛間、付雙環靑衣、置於繡衣案上。吏引韋生東廡曹署、理殺魚之狀。韋引過。道樞云、「非某之罪。」。吏曰、「此雨龍也、若潛伏於江海湫湄、雖爲人所食、卽從而可辨矣。但昨者得之於井中、崔氏與君又非愚昧、殺而食之、但難獲免。然君且還、試與崔君廣爲佛道功德、庶幾稍減其過。自茲浹旬、當復相召。」。韋忽然而寤、且以所説、話於親屬、命道樞具述其事。道樞雖懷憂迫、亦未深信。才及旬餘、韋生果歿。韋乃道樞之姑子也。數日後、寄魂於母云、「已因殺魚獲罪、所至之地、卽水府、非久當受重譴。可急修黃道齋、尚冀得寬刑辭。表弟之過亦成矣、今夕當自知其事。」。韋母泣告道樞。及暝、昏然而寢、復見碧衣人引至公署、俱是韋氏之所述。俄有吏執黑紙丹文書字、立道樞於屛側、疾趨而入。俄見繡衣舉筆而書訖、吏接之而出、令道樞覽之。其初云、「崔道樞官至三品、壽至八十。」。後有判云、「所害雨龍、事關天府。原之不可、案罪急追。所有官爵、並皆削除。年亦減一半。」。時道樞冬季、其母方修崇福力、才及春首、抱疾數日而終。時崔妻拿咸在京師、韋顏備述其事。舊傳夔及牛渚磯是水府、未詳道樞所至何許。

   *

また、後者(汾水の河畔の老婆の逸話)は「瀟湘錄」の「汾水老姥」である。以下に示す。

   *

汾水邊有一老姥、獲一赬鯉、顏色異常、不與眾魚同、既攜歸、老姥憐惜、且奇之、鑿一小池、汲水養之。經月餘後、忽見雲霧興起、其赬鯉騰躍、逡巡之間、乃漸升霄漢、其水池卽竭、至夜、又復來如故。人見之者甚驚訝、以爲妖怪、老姥恐爲禍、頗追悔焉、遂親至小池邊禱祝曰、「我本惜爾命、容爾生、反欲禍我耶。」。言才絶、其赬鯉躍起、雲從風至、卽入汾水、唯空中遺下一珠、如彈丸、光晶射人、其老姥得之、眾人不敢取。後五年、老姥長子患風、病漸篤、醫莫能療、老姥甚傷、忽意取是珠、以召良醫、其珠忽化爲一丸丹、老姥曰、「此赬鯉遺我、以救我子、答我之惠也。」。遂與子服之、其病尋愈。

   *]

 

 鯉には限らぬ、魚の話は他にもある。「錄異記」には古井戸の中に長さ六七寸の魚が住んで居り、これが上の方に浮むと、必ず井の水が湧き返る。この井戸には龍がゐると傳へられて居つた。饒州の柳翁は常に小舟に乘つて鄱陽江に釣り、水族の事、山川の事に關しては知らざるものなしといふ人であつたが、嘗て江の南岸の一箇所を指し、今日はこゝに小龍が居る、だから魚が澤山集まつてゐるのだと教へた。人々はこれを信じなかつたけれど、網を入れた結果は果して大漁であつた。獲物を大桶に放つて見ると、中に一二尺ばかりの鱓魚があり、兩眼明かに長い鬚を動かしてゐる。鱓にはいろいろな意味があるやうだが、こゝは魚の一種類と見て置けばよからう。この魚が桶の中を泳ぎ𢌞ると、他の魚はこれに隨從するやうに見える。舟を北岸に著けた頃には、もうどこへ行つたかわからなかつたと「稽神錄」に出てゐる。これが柳翁のいはゆる小龍だつたのであらう。

[やぶちゃん注:「天祐年間」唐の最後の昭宗の治世に用いられた元号。「天佑」とも書く。九〇四年~九〇七年であるが、ウィキの「天祐(唐)」によれば、唐の滅亡後も河東・鳳翔・淮南地方では『天祐を使用し続け、石碑碑文に「天祐二十年」の用例がある。また前蜀、南漢、呉、呉越では唐滅亡後も天祐の年号を使用している』とある。

「饒州」(じょうしゅう:現代仮名遣)は現在の江西省上饒(じょうじょう)市鄱陽(はよう)県一帯に相当する。ここ(グーグル・マップ・データ)。「鄱陽江」鄱陽の西部は広大な鄱陽湖となっている。そこの入り江或いは鄱陽の市街地に流れ込む往時の長江の支流の名か。

「鱓」国字では海産のウツボ(条鰭綱ウナギ目ウツボ亜目ウツボ科 Muraenidae)であるが、これは中国で好んで食べられ、多く棲息する条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目タウナギ目タウナギ科タウナギ属タウナギ Monopterus  albus のことである(後掲するある訳者の訳文でも「タウナギ」としてある)。柴田は「こゝは魚の一種類と見て置けばよからう」などとお茶を濁しているが、先の「鰍魚」も丸投げで、どうも彼は魚類同定の興味にはあまり食指が動かぬらしい

 「錄異記」のそれは「卷五」に載る以下の短文。

   *

成都書臺坊武侯宅南乘煙觀古井中、有魚長六七寸、往往游於井上、水必騰涌。相傳、井有龍。

   *

 「稽神錄」のそれは「第四卷」に載る「柳翁」。

   *

天祐中、饒州有柳翁、常乘小舟釣鄱陽江中、不知其居處妻子、亦不見其飮食。凡水族之類與山川之深遠者、無不週知之、凡鄱陽人漁釣者、咸諮訪而後行。呂師造爲刺史、修城掘濠、至城北則雨止、役則晴、或問柳翁、翁曰、「此下龍穴也、震動其土則龍不安而出穴、龍出則雨矣。掘之不已、必得其穴、則霖雨方將爲患矣。」。既深數丈、果得大木、長數丈、交加構疊之、累之數十重、其下霧氣衝人、不可入、而其木上皆腥涎縈之、刻削平正、非人力所致。自是果霖雨爲患。呂氏諸子將網魚於鄱陽江、召問柳翁、翁指南岸一處、「今日惟此處有魚、然有一小龍在焉。」。諸子不信、網之、果大獲。舟中以瓦盆貯之、中有一鱓魚長一二尺、雙目精明、有二長鬚、繞盆而行、羣皆翼從之。將至北岸、遂失所在。柳翁竟不知所終。

   *

こちらに訳が載る(メイン・ページが判らないので訳者を紹介出来ない)。引用させて戴く(注記記号を省略した)。

   *

 天祐年間、饒州に柳翁がおり、つねに小舟に乗り、鄱陽江で釣していたが、その住居と妻子を知らず、飲食するところも見なかった。水族の類と山川の深遠なところも、すべて知っていた。およそ鄱陽の人で漁や釣りするものは、みなかれに尋ねてからいった。呂師造は刺史となり、城を修理し、濠を掘鑿したが、城の北にゆけば雨がふり、工事が終われば晴れた。あるひとが柳翁に尋ねると、翁は言った。「この下は龍穴で、その土を震わして動かせば龍は不安となって穴を出、龍が出れば雨が降るのです。掘ってやまなければ、きっとその穴にたどり着きますが、霖雨が禍をなしましょう。」深さ数丈になると、ほんとうに大木が見つかったが、長さは数丈、たがいに重なり合い、数十重に累積し、その下は霧気が人を衝き、入れなかった。そしてその上の木にはすべて腥い涎が纏いついていた、彫刻はきちんとしており、人力によって致されたものでなかった。それからほんとうに霖雨が禍をなした。呂氏の子供たちが鄱陽江で魚を網でとろうとし、柳翁を召して尋ねると、翁は南岸の一か処を指し、言った。「今日はこちらにだけ魚がいますが、一匹の小さな龍がいます。」子供たちは信じず、網すると、ほんとうにたくさん捕らえた。舟の中で瓦盆に貯えたが、中に一匹の鱓魚(タウナギ)がおり、長さは一二尺、両目は澄明で、二つの長い鬚があり、盆を巡ってゆくと、魚たちはみな従った。北岸に着こうとすると、所在を失った。柳翁は最後はどこで死んだか分からなかった。

   *

訳者は「龍穴」に『山の気脈の結ぶところをいう。墓穴を作るのによい』、「瓦盆」に『陶瓦製の口の広い容器』と注しておられる。]

宿直草卷四 第六 所を考へ殺生すべき事

 

  第六 所を考へ殺生すべき事

 

Kikainakane

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のものをそのまま示した。龍図の文様というか造形が、極めて奇怪な人面様で、これは極めて特異と言える(私は実際にこんなものは見たことがない)。]

 

 また、時めく人あり。その家、富みて祿(ろく)滿ち、その身、貴(たと)ふして官位めでたく、力量ありて、常に狩を樂しむ。鐵砲は三十目、五十目ずはえなり。

 此人、大和(やまと)の國にして、或夜、南京の方(かた)へ行き、三笠山の南、香山(かうぜん)の麓に向かふ。若黨・草履取(とり)・犬引、主從四人なり。

 かの山にて何がなと求(あさ)るに、大きなる吊り鐘、行くべき道に見えたり。凡そ、人力にて鑄(い)たるとは見えず、はうりやうもなき大きなる物なり。この鐘、つゐ來たりて、四人の上に被(かづ)かる。

 さて、聲ありて云ふやう、

「また、重ねても來たらんや。是非を答へよ。」

と罵(のゝ)しる。

 四人と犬と中に籠(こ)めて、さらに出ださず。怖ろしさ、云ふばかりなし。

 此人、大剛(たいかう)の人、勢(いきほ)ひ、濶乎(くはつこ)たる勇士たれども、さらに働くべき樣(やう)もなし。

「さらば許し給へ、重ねては來るまじ。」

と云ふに、かの鐘もなく、もとの山路となる。

 春日明神の示(しめし)にてもあらんか。

 

[やぶちゃん注:「春日明神の示」が梵鐘というのは、神仏習合の蜜月時代が懐かしい。

「また」以前から指摘しているように、本「宿直草」の各篇はその殆んどが確信犯で次にはっきりと連関する形の、連続した直話の夜伽怪奇談話(ばなし)として記されている。この「また」も、本篇は殺生絡みで前話と直に繋がるところを明記するために、かく言ったものであろう。

「鐵砲は三十目、五十目ずはえなり」「ずはえ」の右部分に底本では丸括弧でママ注記が附されてある。確かに意味が解らぬ。「ずはえ」は「すはえ」で「ずわえ」「すばえ」とも表記し、漢字では「楚・楉・杪」などと書くが、これは「木の枝や幹から真っ直ぐに伸び出た若く細い小枝」が原義で、それ使用した「刑罰に用いる笞(むち)・楚(しもと)」の意であるが、鉄砲とは関係がない。「目」は弾丸(鉛製)の重量単位で「匁(もんめ)」(一匁は三・七五グラム)と同じであるから、「三十目」は百十二・五グラム、「五十目」は百八十七・五グラムで、前者で火繩銃自体の口径は二十六・五ミリ、後者は三十三ミリメートル前後か。そもそもが三十匁以上のものは大鉄砲(大筒)の部類である。

「南京」旧平城京。

「三笠山の南、香山(かうぜん)の麓」旧平城京である以上、「三笠山」は三蓋山、則ち、若草山の別名で、「香山(かうぜん)の麓」というのは現在の奈良県橿原市高畑町(若草山の南南西に当たる)ある新薬師寺((グーグル・マップ・データ))の別称香山薬師寺を想起させる。しかも話柄の最後には「春日明神の示(しめし)」とあるのであるから、ここはその新薬師寺の北東にある春日大社を含む丘陵域がロケーションと考えてよい。

「何がな」「がな」は願望を現わす終助詞。「何ぞ、鳥獣の獲物が欲しいものよ。」。

「はうりやうもなき」「方量も無き」であろう。際限もないほど。「重さや大きさを推定することも出来ぬほどに途轍もない」の謂いで採る。

「つゐ來たりて」「つゐ」は接頭語「つい」の表記の誤りと読む。間髪を入れず。

四人の上に被(かづ)かる。

 さて、聲ありて云ふやう、

「また、重ねても來たらんや。是非を答へよ。」

と罵(のゝ)しる。

「濶乎(くはつこ)」「濶」は「人の度量が大きい」の謂いであるから、「確固・確乎」と同義で、しっかりしていて容易に動かされないさまの意。

「働くべき樣もなし」(真っ暗な無限に重い巨大な鐘の中に封じられてしまったために)何の対処のしようも、これ、ない。]

宿直草卷四 第五 殺生して神罸當たる事

 

  第五 殺生して神罸當たる事

 

 ある侍、夜に入(いり)て厠(かはや)に行く。

 飛石の上に、大なる法師あり。

「此處にあるべき樣(やう)、これこそなけれ。」

と、脇差振り上げ、肩先、一刀(かたな)、斬り、眞正中(まつたゞなか)、二刀(かたな)、刺す。この者、搔き消して、見えず。

 さて、歸らんとするに、身、重(おも)ふして歸り得ず。漸々(やうやう)、脇差を杖にして歸るに、手を負ふたる心地す。

 不思議に思ふに、妻、見て驚き、

「こは。そも、何事ぞ。肩、一刀、正中(たゞなか)二ケ所、手を負ひ給ふ。」

と、淚、流す。これに仰天して見るに、紅(くれなゐ)、身を帶(おび)たり。

 色々、治すれども、叶(かな)はず、遂に逝(まか)りぬ。

 我には、其の舅(しうと)、話せり。

 女子はあれども、男子無(な)ふして跡もたゝず。

 後家も大坂に牢居(らうきよ)せり。

 後に、又、さる人の語りしは、

「其人こそ天照大神(あまてるおほんかみ)の禁(いま)しめ給ふ地にて、殺生(せつしやう)せし罸なり。」

と云へり。

 今の壯士(さうじ)、畏れざるべきや。領地に求(あさ)り、知行に狩(かり)て、網を張り、釣を垂れ、鵙(もず)を落とし、山雀(やまがら)を獲(と)るも、衆魚(しゆぎよ)放生池(はうじやうち)の汀(みぎは)、殺生禁斷の塲(には)に侵(おか)すべからず。用捨あるべき事にや。その上(かみ)、士峯(じほう)の御狩のとき、瞋猪(いかりゐ)を止(とゞ)めし袖も、遂に山の神の咎(とが)めに遭ひて非法の死をせしをや。

 

[やぶちゃん注:本話は特異的で、作者荻田安静が怪異によって命を落とした亡き当の主人公の、その妻の父から直接に採取した実録物である。しかし、具体的な実名や場所が一切記されていない点で都市伝説、作り話の域を出ない。

「跡もたゝず」後継を立てることが出来ず、家は断絶した。

「牢居」この「牢」は「淋しい・心細い」の意の形容。独りで侘び住まいしていること。

「天照大神(あまてるおほんかみ)の禁(いま)しめ給ふ地にて、殺生(せつしやう)せし罸なり」当時の各地の寺社(神仏習合時代であるからこう言うのが正しく、その殺生戒思想自体が多分に仏教の影響下にある)の境内には殺生禁断の神域や放生(ほうじょう)のための海浜・湖沼池水を持っていた。現在でも天照大御神を祭神とすると伝える神祠周辺で殺生を禁ずる区域は各地に残っている。

「鵙」スズメ目スズメ亜目モズ科モズ属モズ Lanius bucephalus。食用としたようだが、苦く腥いとされる(個人サイト「便り」の「料理」に拠る)。

「山雀」スズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属ヤマガラParus varius。前記リンク先によれば、『奥州会津近郊の山中では秋にヤマガラを獲って肉を干し、冬の保存食とした』とあり、また、『飛騨地方ではヤマガラの黒焼きは赤痢や下痢の妙薬』という薬食(くすりぐ)いとしての記載もある。

「塲(には)」「には」は「何か特別な目的のために特殊な儀式が行われる所、則ち、神事や公事(くじ)の行われる区域」を指す語でもあった。神下ろしをし、神の御告げを聞く斎場を「さには」と称した。

「士峯(じほう)の御狩のとき、瞋猪(いかりゐ)を止(とゞ)めし袖も、遂に山の神の咎(とが)めに遭ひて非法の死をせしをや」「士峯(じほう)」は富士山。「御狩」はさすればまず、源頼朝が建久四(一一九三)年五月に多くの御家人を集めて富士の裾野付近で行った壮大な「富士の巻狩り」が浮かぶ(創作性が強い「曽我物語」には巻狩の三日目の夕刻、手負いの大猪が頼朝に向かって突進してきたところを頼朝の側近新田忠常がそれに飛び乗って刀を突き立てこれを退治したとする武勇伝が載りはする)が、頼朝の死は「吾妻鏡」が欠落しているためにその死因にかなり不審な点はあるものの(但し、私は単なる脳卒中を疑っている)、「非法の死」とは逆立ちしても言えないと私は思う。とすると、ここは、父頼朝に倣って富士の巻狩を好んで挙行した嫡男源頼家ではあるまいか? 彼は建仁三(一二〇三)年九月二日に北條時政の謀略によって発生した比企能員の変によって将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉されてしまい、翌元久元年七月十八日(ユリウス暦一二〇四年八月十四日)に満二十一の若さで謀殺されている(公的には病死とされた)。摂政関白藤原忠通の子慈円の「愚管抄」(第六)に殺害当日の日付を附して記された内容によれば、『修禪寺ニテ又賴家入道ヲバ指(さし)コロシテケリ。トミニエトリツメザリケレバ、頸ニ緒ヲツケ、フグリヲ取リナドシテコロシテケリト聞エキ』とあり、これは文字通り、悲惨な「非法の死」と言える。]

2017/07/17

宿直草卷四 第四 狼に喰はるゝ者ゝ事

 

  第四 狼に喰はるゝ者ゝ事

 

Ookaminikuwarerusyoujyo

 

[やぶちゃん注:底本の挿絵を亡くなった少女のために清拭、前後左右の枠も除去した。]

 

 京より有馬へ通る道に、牧(まき)と云ふ所、芝といふ村あり。

 元和(げんわ)五年の冬、牧の里より、十二になる姉と、九になる妹(いもと)を、芝の紺屋(こんや)へ染物、取りに遣る。

 行きて、かの蘇芳染(すはうぞ)めの木綿の、いとゞ赤きを小桶(こおけ)に入(いれ)、姉が頂(いたゞ)きて歸る。見るから、肉叢(しゝむら)の如し。頃しも、師走の下の弦(ゆみはり)、霙(みぞれ)痛ふ降(ふり)て、風も激しかれば、田長(たをさ)も宿に手を拭(ふ)き、遠方人(をちかたひと)も憩(いこ)ひけるにや。常は櫛の齒挽(ひ)きて人通ふ路(みち)に、其日は途絶えて侍るに、狼、出て、妹には構はず、かの染物持ちたる姉に跳びつきて道を遣らず。泣けど叫べど、助くる者なし。

 其うち、妹、家に歸り、

「姉はべゞがゐて通さぬ。」

といふ【べゞとは牧唱(ぼくしやう)に小牛(こうし)を云ふなり。】。親、聞(きき)て、

「なになに。狼ならん。」

と飛んで行く。

 人々も跡より行きしに、案のごとく、狼、娘を喰らふ。

「やれ。」

とて、走り寄るにぞ、そろそろと狼は逃げぬ。驚きたる躰(てい)もなく、南の山、指して行く。え取(とる)も止(とゞ)めず。

 親は、それにも構はず、娘にとりつき嘆けども、最早、脇の下より、腸(はらわた)引き出(だ)して喰らへり。

 物も云はず、瞬(またゝ)き、暫(しば)しゝて、遂に空しくなる。

 

[やぶちゃん注:これは怪談ではなく、リアルに凄惨な実録物である。――最後の一行、何か、ひどく哀しい。十一の少女の黙ったままに哀しげな末期の瞬きをするその顔の――クロース・アップが――見える――

「京より有馬へ通る道に、牧(まき)と云ふ所、芝といふ村」「京より有馬へ通る道」といういう言い方から考えると、「牧」は現在の大阪府豊能(とよの)郡豊能町(ちょう)牧(まき)附近か((グーグル・マップ・データ))。但し、「芝村」或いは「芝」という地名は同地区周辺には現認出来ない。ここら一帯はグーグル・マップの航空写真で見ても、山間部で確かに狼が出没してもおかしくはない。

「元和五年の冬」「師走の下の弦(ゆみはり)」「元和五年」の「師走」は既に一六二〇年である(旧暦十二月一日がグレゴリオ暦一六二〇年一月五日)。「下の弦」は旧暦二十三日以降で、元和五年師走の二十三日は一六二〇年二月十四日である。当月は大の月であり、話柄中には大晦日直近の描写はないから、元和五年十二月二十三日から二十八日(グレゴリオ暦二月十九日)ぐらいまでの閉区間を本話の時制と比定することが出来る。これだけをとっても非常なリアリティがあるのである。これはなお、当時は徳川秀忠の治世である。

「蘇芳染(すはうぞ)め」マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科ジャケイツイバラ連ジャケツイバラ属スオウ Caesalpinia sappan の心材や莢から赤色染料(ブラジリン)が精製される。本種はインド・マレー原産で本邦には植生しないが、顔料として奈良時代頃には渡来しており、独立した染料として使用されていた。ここで荻田は「見るから」に「肉叢(しゝむら)の如し」と血に塗れた肉の塊りのようであると描出しているが、これは「今昔物語集」の「巻第二十七」の「仁壽殿臺代御灯油取物來語第十」(仁壽殿(じんじうでん)の臺代(たいしろ)の御燈油(おほんとなぶら)を取りに物の來たる語(こと))[やぶちゃん注:「臺代」は「對代」で渡殿(わたどの)のこと。]では、

   *

[やぶちゃん注:前略。]物は南樣(みなみざま)に走り去(い)ぬ。辨[やぶちゃん注:醍醐天皇に物の怪の退治を命ぜられた主人公源公忠(きんただ)の官職名。]は返りて、殿上にて火を燈(とも)して足[やぶちゃん注:自分の足。この前のシーンで公忠は物の怪を蹴り上げている。]を見れば、大指(おほおよび)の爪(つめ)、𡙇(か)けて、血付きたり。夜暛(よあ)けて、蹴(くゑ)つる所を行きて見ければ、朱枋(すはう)色なる血、多く泛(こぼ)れて、南殿(なでん)の塗籠(ぬりごめ)の方樣(かたざま)に、其の血、流れたり。塗籠を開て見ければ、血のみ多く泛れて、他の物は無かりけり。[やぶちゃん注:後略。]

   *

と、毒々しい凝固しかけた物の怪の血の色の形容として現われている。

「頂(いたゞ)きて」頭の上に載せて。頭上運搬は本邦では専ら女子の荷の運搬法として、古墳時代から各地で行われている。

「田長(たをさ)」田の主。田夫(でんぷ)。百姓。

「遠方人(をちかたひと)」この「遠方」は視覚的に有意な距離を持った「向うの」の謂いであろう。少し離れた田畑や行く道の先の方にも全く人影が見えないのである。

「櫛の齒挽(ひ)きて」櫛の歯は一つ一つを細かく丹念に、ごく小さな鋸(のこ)で挽きいて作ったことから、物事や対象が絶え間なく連続することを意味する。

人通ふ路(みち)に、其日は途絶えて侍るに、狼、出て、妹には構はず、かの染物持ちたる姉に跳びつきて道を遣らず。泣けど叫べど助くる者なし。

「姉はべゞがゐて通さぬ」「べゞとは牧唱(ぼくしやう)に小牛(こうし)を云ふなり」「べゞ」「日本国語大辞典」の「べべ」に本意項目の③で『子牛』として雑俳の例文を掲げ、方言の項でも『牛の子。子牛』とし、淡路島・島根・広島・山口・福岡・長崎・五島列島・壱岐・熊本・天草の採集地を挙げる。「牧唱」は牧人(まきびと:牛飼い・牧畜業者)や農夫が普段の会話で使う呼称。妹は満で八つばかりで狼を知らないのである。

「え取(とる)も止(とゞ)めず」その悠然と山へ帰ってゆく狼を捕えることさえも出来なかった。

「それにも構はず」「それ」は襲った狼を手もなく山へ帰してしまったことを指すが、ここは寧ろ襲った狼「どころではなく」のニュアンスである。]

宿直草卷四 第三 送り狼といふ事

 

  第三 送り狼といふ事

 

 狼の性(しやう)は、道(みち)を送りて人の氣を費(つゐ)やして喰らふ、と。さてこそ「送り狼」といふ事、有(あり)。

 また、昔よりの話に、ある男、隣りの里に密婦(かくしつま)有(あり)て遠き通ひ路(ぢ)を行く。もとよりも賤(いや)しきわざを賤(しず)の男(お)の、志津(しづ)が刀(かたな)も帶(おば)ばこそ、戀の重荷に棒を突き、忘れ草ならば刈(かり)てもと、鎌を腰に差し、月明かき夜に忍びしに、道端(みちしば)に、狼、居(お)れり。

 かの男、構はずも行くに、此狼、哭(な)くやうには聞ゆれども、さして、聲も出ず。口、開きて、迷惑なる有樣(ありさま)なり。

 男、見て、

「此奴(きやつ)は喉(のど)に物立てたり。」

と見て、聞くべきにはあらねども、

「來よ。拔いてやらん。」

と云ふに、斟酌もなく來る。

 肩、脱ぎ、手、差し入るに、物あり。取り出し見れば、五、六歳ばかりの兒(ちご)の足の骨なり。

「重ねては、よく嚙みて喰らへ。」

とて、通る。

 それよりして、恩を思ひて、此男、通ふごとに、宵に行き、曉(あかつき)歸るに、一夜も缺(か)けず、三年、送(おくり)しと也。

 この話ゆへに「送り狼」と云ふか。

 畜生とても其恩を知れり。天晴(あつはれ)、このたはれ男(お)には、一疋當千(いつひきたうせん)のよき供(とも)ならずや。

 但し、一拍子(しやうし)違(ちが)はゞ、只、一口の不忠もあらんか。

 舟、能(よ)く人を遣(や)り、舟、また、人を殺す。至(いたつ)て益(ゑき)あるものは至りて損ある歟(か)。

 

[やぶちゃん注:「送り狼」ニホンオオカミ(食肉(ネコ)目 Carnivora イヌ科 Canidaeイヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミ Canis lupus hodophilaxの絶滅した今に至っても、「好意を装って害心を抱く悪者や、特に女性に対して欲情目的でそうした行為を働いたり、ストーカー行為を働く男を「送り狼」と呼ぶが、これは「道(みち)を送りて人の氣を費(つゐ)やして喰らふ」(人を執拗に追尾し、その精根を尽き果てさせたところで遂に襲って喰らう)と狼の習性に基づいて措定された山犬・野犬・狼の妖怪的生態行動或いは妖怪そのものを指す。但し、そこでは本話に現われるような、持ちつ持たれつの相互の親和的関係性も見られる、必ずしも禍々しいだけの凶悪な妖怪的存在ではない。ウィキの「送り犬」から引く。『送り犬(おくりいぬ)は、日本の妖怪の一種。東北地方から九州に至るまで』、『各地で送り犬の話は存在するが、地域によっては犬ではなく狼であったり、その行動に若干の違いがある。単に山犬(やまいぬ)、狼(おおかみ)とも呼ばれる』。『夜中に山道を歩くと後ろからぴたりとついてくる犬が送り犬である。もし何かの拍子で転んでしまうとたちまち食い殺されてしまうが、転んでも「どっこいしょ」と座ったように見せかけたり、「しんどいわ」と』、溜め息交じりに言い、完全に座り転んでしまうのではなく、『少し休憩をとる振りをすれば襲いかかってこない。ここまでは各地とも共通だが、犬が体当たりをして突き倒そうとする、転んでしまうと』、『どこからともなく』、『犬の群れが現れ襲いかかってくる等』、『地域によって犬の行動には違いがある』。『また、無事に山道を抜けた後の話がある地域もある。例えば、もし無事に山道を抜けることが出来たら「さよなら」とか「お見送りありがとう」と一言声をかけてやると』、『犬は後を追ってくることがなくなるという話や、家に帰ったらまず足を洗い』、『帰路の無事を感謝して』、『何か一品』を『送り犬に捧げてやると』、『送り犬は帰っていく』、『という話がある』。小山眞夫著「小県郡民譚集」(昭和八(一九三三)年郷土研究社刊)には『以下のような話がある。長野県の塩田(現・上田市)に住む女が、出産のために夫のもとを離れて実家に戻る途中、山道で産気づき、その場で子供を産み落とした。夜になって何匹もの送り犬が集まり、女は恐れつつ「食うなら食ってくれ」と言ったが、送り犬は襲いかかるどころか、山中の狼から母子を守っていた。やがて送り犬の』一『匹が、夫を引っぱって来た。夫は妻と子に再会し、送り犬に赤飯を振舞ったという長野の南佐久郡小海町では、山犬は送り犬と迎え犬に分けられ、送り犬はこの塩田の事例のように人を守るが、迎え犬は人を襲うといわれる』。『関東地方から近畿地方にかけての地域と高知県には送り狼(おくりおおかみ)が伝わる。送り犬同様、夜の山道や峠道を行く人の後をついてくるとして恐れられる妖怪であり、転んだ人を食い殺すなどといわれるが、正しく対処すると』、『逆に周囲からその人を守ってくれるともいう。『本朝食鑑』によれば、送り狼に歯向かわずに命乞いをすれば、山中の獣の害から守ってくれるとある。『和漢三才図会』の「狼」の項には、送り狼は夜道を行く人の頭上を何度も跳び越すもので、やはり恐れずに』、『歯向かわなければ』、『害はないが、恐れて転倒した人間には喰らいつくとある。また、火縄の匂いがすると逃げて行くので、山野を行く者は常に火縄を携行するともある』、『他にも、声をかけたり、落ち着いて煙草をふかしたりすると』、『襲われずに家まで送り届けてくれ、お礼に好物の食べ物や草履の片方などをあげると、満足して帰って行くともいう』。『伊豆半島や埼玉県戸田市には、送り犬の仲間とされる送り鼬(おくりいたち)の伝承がある。同様に夜道を歩く人を追って来る妖怪で、草履を投げつけてやると、それを咥えて帰って行くという』。『なお、ニホンオオカミは人間を監視するため』、『ついて来る習性があったとされる。妖怪探訪家・村上健司も、送り狼は実際にはニホンオオカミそのものを指しており、怪異を起こしたり人を守ったりといった妖怪としての伝承は、ニホンオオカミの行動や習性を人間が都合の良いように解釈したに過ぎないとの仮説をたてている』とある(下線やぶちゃん)。

「もとよりも賤(いや)しきわざを賤(しず)の男(お)の」恐らくは「伊勢物語」の第四十一段の「昔、女はらから二人ありけり」の「さるいやしきわざもならはざりければ」(「ならはざり」=「しず」)の表現を読者に想起させておいて、さらに修辞にちまちまと凝った部分である。

――もとより、賤しい生計(たつき)をせずにいる相応の身分の男(おのこ)というものは、腰には、かの「志津」(同音「賤」の畳み掛けの遊び)の銘刀(志津三郎兼氏:「正宗十哲」の一人とされる鎌倉時代の名刀工。本国は大和で、後に美濃(現岐阜県海津郡南濃町)の志津村に移って美濃伝を学んだ後、相模に移って名匠五郎入道正宗の弟子となった)などを差していてこそ「男」であろうが(「志津(しづ)が刀(かたな)も帶(おば)ばこそ」)、この男は元来が(「もとよりも」)卑賤な男であったがために、差すべき刀も持っておらず、「戀の重荷」の夜の通い路の用心には、ただ「棒を突」いて、恋の苦しみを忘れさせる(ということは恋情に素直でないということである)という「忘れ草」なんぞというものがあったら、それこそそれを「刈」りとってやろうぞと、自衛の刀の代わりに賤(しず)の野夫(やぶ)の持てる農具の「鎌を腰に差し」て行くのである。――

というのである。衒学的で迂遠な言い回しに酔っている風流人を気取った荻田の悪癖のよく現われている部分と言える。因みに「戀の重荷」と出るから、好き者の萩田のこと、世阿弥の執心男の謡曲「戀重荷」の詞章でも洒落て引いてあるかと調べてみたが、それらしい形跡はなく、ちょっと拍子抜け。

「道端(みちしば)」「みちしば」は「道芝」で道端の芝草・路傍の草であるから、敷衍して道端でおかしくはない。しかし、荻田が敢えてこの熟語に「みちしば」とルビしたのは、「みちしば」の別な意味、「道案内」「恋の手引き」を掛けたかったからであると見た

「迷惑なる有樣(ありさま)なり」如何にも具合が悪そうな、苦しげな様子なのである。

「物立てたり」何かを刺さしてしまったのだ。

「聞くべきにはあらねども」「獣であるから、事実そうかであるどうかを訊いて確認することは出来ないけれども」。或いは、「狼が何か咽喉に刺さって苦しんでいることを認知し、その訴えを理解し、それをまともに受け入れてやったという訳ではないけれども」の謂い。

「斟酌もなく」警戒して躊躇(ためら)う様子もなく。

「取り出し見れば、五、六歳ばかりの兒(ちご)の足の骨なり」と次の台詞は、この掌篇の優れた核心のキモである。これが獣骨だったのではホラーにならぬことは言うまでもない。

「重ねては、よく嚙みて喰らへ」「これから人を喰う時は、いいか? よく嚙んで骨を砕いてから嚥み下せ!」。

「天晴(あつはれ)」清音は原典のママ。

「たはれ男(お)」「戲れ男」。動詞「戲(たは)る」の連用形の名詞化したもの。広義には戯れること・悪戯・遊び」の謂いであるが、特に「異性と遊ぶこと」や広く「遊蕩」の意を持つから、ここは「色男・好き者」の謂い。

「一疋當千(いつひきたうせん)」たった一つの存在の力が、通常のその単位の千倍の力にも匹敵する意で、非常に大きな力や実力・勇気のあることを指す。「一騎当千」の方が一般的で語呂もよいが、敢えてこちらを用いた(実際に「一匹」「一人」などともする)のは相手が「狼」だからで、そうした意味では「疋」の字を選んだ荻田は配慮が利いているとは言える。]

2017/07/16

柴田宵曲 續妖異博物館 「龍に乘る」

 

 

 

 龍に乘る

 

「今昔物語」に陸奧國で鷹の子を取るのを業としてゐる男の話がある。鷹の方でも年々育てようとする子を皆取られてしまふので、大海に臨んだ屛風のやうな巖の遙か下の方に生えてゐる木の梢に巣をかけた。男は方々搜し𢌞つて、漸く巣の在るところを見付けたけれど、所詮人間の到り得べき場所ではない。失望して家に歸り、生活の途の絶えたことを歎いてゐると、鄰りの家の男がかういふ智慧を貸してくれた。この巖の上に何かしつかりした木を打ち立て、長い繩を結び付け、その繩の末に大きな籠を付けて、巣のところまで下ればいゝ、といふのである。計量はその通り實行され、鷹取りは自分が籠に入つて、鷹の巣のところに達することが出來た。先づ目的物を籠に入れて引上げて貰ひ、その次に上るつもりでゐたところ、籠はもう下りて來ない。繩を持つた滯りの男は、鷹の子を手に入れてしまふと、再び籠を下ろすことをせずに、自分だけどんどん家に歸つてしまつたのである。

 

 かういふ惡事は古來多くの話の中で、共同作業者によつて屢々繰返されてゐる。取り殘された鷹取りは、觀念して死を待つより仕方がなかつた。人間はこの期に臨んで深い自責の念を起す。この男も長年鷹の子を取り、それを育てた擧句、今度はその鷹に鳥を捕らせる。年來の罪業が身の上に報いを與へたことを思ひ、一心不亂に觀世音菩薩を念じ、この世はこれで終るとも、後世は必ず淨土に迎へ給へと祈つた。然るに觀世音菩薩の姿は見えず、大海の中から大蛇が現れて、切立てたやうな巖をするすると昇つて來た。こゝで大蛇に呑まれるくらゐなら、海に落ちて死んだ方がいゝと決心した男は、刀を拔いて大蛇の頭に突き立てる。大蛇は驚きながらも昇ることをやめなかつたので、男の身體は自然に絶壁の上に出た。氣が付いた時には大蛇はどこへ行つたか、影も形も見えなかつた。男は觀世音菩薩の冥助とよろこび、空腹の足を引き摺つて家に歸る。鄰りの男から海に落ちて死んだと聞いて、物忌(ものいみ)の札を立てて門を閉してゐた妻子は、男の無事な姿を見て淚を流してよろこんだ。

 

 鷹取りは平生深い佛心があつたわけでもないが、毎月十八日だけは精進して觀音經を讀むことを怠らなかつた。死ぬべき命を助かつて歸つた後、間もなく十八日になつたので、觀音經を讀誦するつもりで經筥(きやうばこ)をあけて見ると、經の軸に刀が立つてゐる。それは紛れもない、死を決して大蛇の頭に突き立てた自分の刀であるから、あの大蛇は全く觀世普菩薩の化身であつたと知り、直ちに髻(もとどり)を切つて法師となつた、といふのがこの結末である。

[やぶちゃん注:以上は「法華驗記」を典拠としつつ、オリジナルにインスパイアしてある「今昔物語集」の「卷第十六」の「陸奧國鷹取男依觀音助存命語第六」(陸奧國(みちのおくのくに)の鷹取の男(をのこ)觀音の助けに依りて命を存する語(こと)第六)である。

   *

 今は昔、陸奧國に住みける男、年來(としごろ)、鷹の子を下(おろ)して、要(えう)にする人に與へて、其の直(あたひ)を得て、世を渡りけり。

 鷹の樔(す)を食(く)ひたる所を見置きて、年來、下けるに、母鷹、此の事を侘びけるにや有りけむ、本(もと)の所に巣を食はずして、人の可通(かよ)ふべき樣も無き所を求めて、樔を食ひて卵(かひご)を生みつ。巖(いはほ)の屛風を立てたる樣なる崎(さき)に、下は大海(だいかい)の底ひも不知(しら)ぬ荒磯(あらいそ)にて有り。其れに、遙に下(さが)りて、生ひたる木の大海に差し覆(おほ)ひたる末(すゑ)に生みてけり。實(まこと)に、人可寄付(よりつくべ)き樣(やう)無き所なるべし。

 此の鷹取の男、鷹の子を可下(おろすべ)き時に成りにければ、例(れい)巣食ふ所を行きて見るに、何しにかは有らむずる[やぶちゃん注:反語。]、今年は樔食ひたる跡も無し。男、此れを見て、歎き悲しむで、外(ほか)を走り求むるに、更に無ければ、

「母の鷹の死にけるにや。亦、外に樔を食ひたるにや。」

と思ひて、日來(ひごろ)を經て[やぶちゃん注:毎日毎日。]、山々峰々を求め行(あ)りくに、遂に此樔の所を幽(かすか)に見付けて、喜び乍ら寄りて見るに、更に人の可通(かよ)ふべき所に非ず。上より可下(くだるべ)きに、手を立てたる樣なる巖の喬(そば)[やぶちゃん注:断崖絶壁。]也。下より可登(のぼるべ)きに、底(そこ)ゐも知らぬ大海の荒磯也。鷹の樔を見付けたりと云へども、更に力不及(およば)ずして、家に返りて、世を渡らむ事の絶えぬるを歎く。

 而るに、鄰(となり)に有る男に此の事を語る。

「我れ、常に鷹の子を取りて、國の人に與へて、其の直を得て、年の内に貯へとしては年來を經つるに、今年、既に鷹の巣を然々(しかしか)の所に生みたるに依りて、鷹の子を取る術(ずつ)絶えぬ。」

と歎くに、鄰の男の云く、

「人の構へば[やぶちゃん注:人間が何か工夫をすれば。]、自然(おのづか)ら取り得る事も有りなむ。」

と云ひて、彼の樔の所に、二人相ひ具して行きぬ。

 其の所を見て教ふる樣、

「巖の上に大なる楴(はしだて)[やぶちゃん注:「梯」。杭。]を打ち立てて、其の楴に百餘尋(ひろ)[やぶちゃん注:人体尺。一尋(比呂)は両腕を広げた長さで百五十一・五センチメートルであるから、百五十二メートル超以上。]の繩を結ひ付て、其の繩の末に大なる籠(こ)を付けて、其の籠に乘りて、樔の所に下(お)りて可取(とるべ)き也。」

と。

 鷹取の男、此れを聞きて、喜びて家に返て、籠(こ)・繩・楴(はしだて)を調へ儲(まう)けて、二人相ひ具して、樔の所に行きぬ。支度の如く楴を打ち立てて、繩を付けて、籠を結び付けて、鷹取、其の籠に乘りて、鄰の男、繩を取りて、漸(やうや)く下ろす。遙かに樔の所に至りぬ。鷹取、籠より下りて、樔の傍(かたはら)に居(ゐ)て、先づ鷹の子を取りて、翼を結びて、籠に入れて、先づ、上げつ。我れは留まりて、亦、下りむ度(たび)昇らむと爲(す)る間(あひだ)、鄰の男、籠を引き上げて鷹の子を取りて、亦、籠を不下(おろさず)して、鷹取を棄てて家に返りぬ。鷹取が家に行きて、妻子に語りて云く、

「汝が夫(をうと)は、籠に乘せて然々(しかし)か下ろしつる程に、繩切れて、海の中に落ちて死ぬ。」

と。妻子、此れを聞きて、泣き悲しむ事、限り無し。

 鷹取は樔の傍に居て、籠を待ちて昇らむとして、

「今や下ろす、下ろす。」

と待つに、籠を不下(おろさず)して日來(ひごろ)を經ぬ。狹(せば)くして少し窪める巖に居(ゐ)て、塵(ちり)許(ばか)りも身を動かさば、遙かに海に落ち入りなむとす。然れば、只、死なむ事を待ちて有るに、年來、此く罪を造ると云へども、毎月十八日に、精進にして、觀音品(くわんおむぼむ)を讀み奉りけり。爰(ここ)に思はく、

「我れ、年來、飛び翔(か)ける鷹の子を取りて、足に緒(を)を付けて繋ぎ居(す)へて、不放(はなた)ずして鳥を捕らしむ。此の罪に依りて現報を得て、忽ちに死なむとす。願くは大悲觀音、年來、恃(たの)み奉るに依りて、此の世は、今は、此くて止みぬ、後生(ごしやう)に三途(さむづ)[やぶちゃん注:ここは広義の三悪道たる地獄道・餓鬼道・畜生道。しかし、この鷹取りはちゃっかりしていて、その対世界の三善道(天上道・人間(じんかん)道・修羅道)どころか輪廻を解脱して極楽浄土へ往生させてくれと言っている。]に墮ちずして、必ず、淨土に迎へ給へ。」

と念ずる程に、大なる毒蛇(どくじや)、眼は鋺(かなまり)の如くにして、舌甞(したなめず)りをして大海(だいかい)より出でて、巖の喬(そば)より昇り來て、鷹取を呑まむとす。

 鷹取の思はく、

「我れ、蛇(じや)の爲に被呑(のま)れむよりは、海に落ち入りて死なむ。」

と思ひて、刀を拔きて、蛇(じや)の我に懸かる頭(かしら)に突き立つ。

 蛇(じや)、驚きて昇るに、鷹取、蛇に乘りて、自然(おのづか)ら岸(きし)[やぶちゃん注:断崖。]の上に昇りぬ。其の後(のち)、蛇(じや)、搔き消つ樣に失せぬ。爰(ここ)に知りぬ。

「觀音の蛇じや)と變じて、我れを助け給ふ也けり。」

と知りて、泣々(なくな)く禮拜(らいはい)して、家に返る。

 日來、物食はずして、餓へ羸(つか)れて、漸(やうや)く步みて家に返りて、門(かど)を見れば、今日、七日(なぬか)に當りて、物忌(ものいみ)の札を立てて門(かど)閉ぢたり。門を叩き、開けて入りたれば、妻子、淚を流して、先づ、返り來たれる事を喜ぶ。其の後、具(つぶ)さに事の有樣を語る。

 而る間、十八日に成りて、沐浴精進にして、觀音品を讀み奉らむが爲に、經筥(きやうばこ)を開(ひら)きて見るに、經の軸に、刀、立てり。我が彼(か)の樔にして蛇の頭(かしら)に打ち立てし刀也。

「觀音品の蛇(じや)と成りて、我れを助け給ひける。」

と思ふに、貴(たふと)く悲き事、限り無し。

 忽ちに道心を發して、髻(もとどり)を切りて法師と成りにけり。

 其の後(のち)、彌(いよい)よ勤め行ひて、永く惡心を斷つ。

 遠く、近き人、皆、此の事を聞きて、不貴(たふとば)ずと云ふ事、無し。但し、鄰の男、何(いか)に恥かりけむ。[やぶちゃん注:鷹取は。]其れを恨み惡(にく)む事、無かりけり。

 觀音の靈驗の不思議、此(かく)なむ御(おはし)ましける。世の人、此れを聞きて、專(もはら)に心を至して念じ可奉(たてまつる)べし、となむ語り傳へたるとや。

   *]

 

 この鷹取りの話によく似てゐるのが、元時代の「湛園靜語」にある。廬山の南、大江に臨んだ絶壁の中途に、藤蔓のからんだ古木があり、その上に蜂の巣が四つあつた。奧の大きさから云つて蜜の分量も大體想像出來るが、場所が場所なので誰も手が出ない。たまたま二人の樵夫が相談して、利益は山分けといふことにして蜂の巣取りにかゝつた。一人が腰に繩を付け、二三十丈も下つて蜜を取る。他の一人が繩を持つて、引上げては下ろし、引き上げては下ろししてゐたが、蜜も取り盡したと思はれる時分に、上の男は繩を切つてどこへか行つてしまつた、すべて「今昔物語」と同じ筋書である。

[やぶちゃん注:「湛園靜語」(たんえんせいご(現代仮名遣))は元の白珽(はくてい 一二四八年~?)の著。]

 

 取り殘された樵夫は不信心だつたと見えて、別に紳備に祈念を凝らしたりしてはゐない。巣に餘つてゐる蜜をすゝつて飢ゑを凌ぎながら、一路の活を求めて石の裂け目を攀ぢて行くうちに、一つの穴を見出した。深い穴の奧には蛟(みづち)か蟒(うはばみ)のやうなものが蟠(わだかま)つてゐるらしく、非常に腥(なまぎさ)い。時に大きな眼を開くと、暗い中に爛々と輝いた。樵夫は恐ろしくて堪らぬけれども、逃げる路もなし、穴の中は暖いので、出たり入つたりしてゐる。或日雷鳴が聞えると同時に、穴の中の物が俄かに動き出した。二度目の雷鳴が耳を驚かした時は、もう穴から拔け出さうとしてゐる。樵夫は運を天に任せて、巨大な物の上に攀ぢ上つたが、空中を一二里も行つたかと思ふと、忽ち地上に振り落された。倂し死にもせず、大した怪我もなかつた。――前半は洞中に蟄して動かず、後半は懸命に縋(すが)り付いてゐる形だから、その正體ははつきりせぬが、どうも尋常の蟒らしくない。雷鳴に乘じ、雲に駕して天外に飛び去る龍だらうと思はれる。

[やぶちゃん注:「一二里」以下に見る通り、原典もそうなっている。元代の一里は現在の五百五十二・九六メートルしかないから、

 これは「湛園靜語」の以下。せいぜい一キロ百メートルちょっとの短い距離である。短いと言っても、龍の身に貼り付いて、しかも空中をこの距離は私でも勘弁ではある。次段の半日は想定外である。

   *

廬山之陽、顚崖千尺、下臨大江、崖之半懸絡古木藤蔓、有蜂室其上、如五石甕者四、過而利之者、下睨無策。俄有二樵謀取之、得其利、可以共濟。於是一人縋巨木而下、約二三十丈達、得蜜無算。一人於其顚、引繩上下之。蜜且盡、則上之人欲專其利、繩而去、不顧。一人在下叫號久之、知不免、采餘蜜並其滓食之、因不饑。蹣跚石罅、得一穴、頗深暗、顧見一物、如蛟蟒蟄其中、腥穢不可近。又久之、忽開兩目如鉦、光焰爍人、然亦不動。其人怖甚、而無地可遁避、且其中氣燠可禦寒、因出沒焉、待盡而已。忽一日、雷聲作、其物蜿然而起、雷再作、則挺身由穴而出。其人自念等死爾、不若附之而去、萬一獲免。遂攀鱗而躍、約一二里頃、竟爲此物所掉著地、得不死。後訴於官、捕專利者、杖殺之。廣信朱復之説。

   *

因みに、中国の伝奇や志怪小説でしばしば不満に思うのは、現世での報恩返報に非常に拘る中国人であるはずなのに、この話のように主人公を裏切った人物(この場合、もう一人の木樵り)に対する後日談が語られないケースにしばしば遭遇することである。恰も、前半の話の導入設定をすっかり忘れてしまったかのような塩梅のものをかなり見かけるのである。或いは、書写を繰り返すうちについ漏れてしまったか、或いは実は後半を全く別人が書き加えたかとも疑われることがよくあるのである。]

 

 支那にはかういつた話がまだいくつもあるらしい。「太平廣記」に見えた韋氏の話も趙齊嵩の話も嶮しい路を馬で進むに當り、誤つて谷底に落ちる。數百丈乃至千餘仞(じん)の絶壁であるから、同行者は救ふべからずとして立ち去つてしまふが、本人は枯葉の積つた上か何かに落ちて、命に別條はない。韋氏の方は木の葉に雪を裹(つつ)んで食べたりして、一箇月もその谷底にながらへてゐると、傍の嚴穴の奧に一點の燈の如きもののあつたのが、漸く大きくなつて二つになり、遂に五六丈もある龍が姿を現し、遂に天をさして昇り去つた。その時は懼(おそ)れて見てゐるだけであつたが、暫くしてもう一つの龍が現れる さうになつた時、意を決してこれに跨がつた。龍は半日ばかり空を翔つた後、次第に低空飛行となり、海岸に近い草木などが目に入つて來たので、水に投ずる覺悟で龍から離れると、一旦絶息してまた蘇る。齊嵩の方は谷底に落ちた翌日、已に雷鳴があつて、石窟の中から雲氣が渦卷き起り、鱗甲煥然として雙角四足を具へた龍が現れる。これに跨がつて南海に到り、低空飛行の磯を窺つて身を投じ、蘆葦の間に墮ちて命を全うするあたり、韋氏と相似た成行きである。この二つの話はいづれも奇禍によつて谷底に落ちるので、鷹の子や蜂蜜を取る前日譚もなし、觀世音の御利益を知る後日譚もない。特に韋氏が女性であるのは、この種の話の中に在つて頗る異彩を放つてゐる。

[やぶちゃん注:「趙齊嵩」「ちょうせいすう」(現代仮名遣)と読んでおく。

「數百丈乃至千餘仞(じん)」話柄設定(後掲する原典参照)を唐代とする。唐代の一丈は三・一一メートルであるから、大真面目に換算すると、千八百メートル程度となり、「仞」は先に掲げた人体尺の「尋(比呂)」と同義であるから、機械的換算では千五百十五メートル越えというトンデモ落差となる。まあ、中国お得意の誇張表現だから気にすることはあるまい。

「五六丈」十六~十九メートル弱。

 最初の話は「太平廣記」の「卷第四百二十一 龍四」にある「韋氏」。「原化記」を出典としてある。

   *

京兆韋氏、名家女也、適武昌孟氏。唐大曆末、孟與妻弟韋生同選、韋生授揚子縣尉、孟授閬州錄事參軍、分路之官。韋氏從夫入蜀、路不通車輿、韋氏乘馬、從夫至駱谷口中、忽然馬驚、墜於岸下數百丈。視之杳黑、人無入路。孟生悲號、一家慟哭、無如之何。遂設祭服喪捨去。韋氏至下、墜約數丈枯葉之上、體無所損、初似悶絶、少頃而蘇。經一日、饑甚、遂取木葉裹雪而食。傍視有一岩罅、不知深淺。仰視墜處、如大井焉。分當死矣。忽於岩谷中、見光一點如燈、後更漸大、乃有二焉。漸近、是龍目也。韋懼甚、負石壁而立。此龍漸出、可長五六丈。至穴邊、騰孔而出。頃又見雙眼、復是一龍欲出。韋氏自度必死、寧爲龍所害。候龍將出、遂抱龍跨之。龍亦不顧、直躍穴外、遂騰於空。韋氏不敢下顧、任龍所之。如半日許、意疑已過萬里。試開眼下視、此龍漸低。又見江海及草木。其去地度四五丈、恐負入江、遂放身自墜、落於深草之上。良久乃蘇。韋氏不食、已經三四日矣、氣力漸憊。徐徐而行、遇一漁翁、驚非其人。韋氏問此何所、漁翁曰、「此揚子縣。」。韋氏私喜、曰、「去縣幾里。」。翁曰、「二十里。」。韋氏具述其由、兼饑渇。漁翁傷異之、舟中有茶粥、飮食之。韋氏問曰、「此縣韋少府上未到。」。翁曰、「不知到未。」。韋氏曰、「某卽韋少府之妹也。倘爲載去、至縣當厚相報。」。漁翁與載至縣門。韋少府已上數日矣。韋氏至門、遣報孟家十三姊。韋生不信、曰、「十三姊隨孟郎入蜀、那忽來此。」。韋氏令具説此由、韋生雖驚、亦未深信。出見之、其姊號哭、話其迍厄、顏色痿瘁、殆不可言。乃舍之將息、尋亦平復。韋生終有所疑。後數日、蜀中凶問果至、韋生意乃豁然、方更悲喜。追酬漁父二十千、遣人送姊入蜀。孟氏悲喜無極。後數十年、韋氏表弟裴綱、貞元中、猶爲洪州高安尉。自説其事。

   *

 後の話は「太平廣記」の同じく「龍四」の「趙齊嵩」。「博異志」を出典とする。

   *

貞元十二年、趙齊嵩選授成都縣尉、收拾行李兼及僕從、負劄以行、欲以赴任。然棧道甚險而狹、常以馬鞭拂小樹枝、遂被鞭梢繳樹、猝不可、馬又不住、遂墜馬。枝柔葉軟、不能碍輓、直至谷底、而無所損。視上直千餘仞。旁無他路、分死而已。所從僕輩無計、遂聞於官而歸。趙子進退無路、墜之翌日、忽聞雷聲殷殷、乃知天欲雨。須臾、石窟中雲氣相旋而出。俄而隨雲有巨赤斑蛇。麄合拱。鱗甲煥然。擺頭而雙角出、蜿身而四足生。奮迅鬐鬣、搖動首尾。乃知龍也。趙生自念曰、「我住亦死、乘龍出亦死、寧出而死。」。攀龍尾而附其身、龍乘雲直上、不知幾千仞、趙盡死而攀之。既而至中天、施體而行。趙生方得跨之、必死於泉矣。南視見雲水一色。乃南海也。生又歎曰。「今日不塟於山。卒於泉矣。」。而龍將到海、飛行漸低。去海一二百步、捨龍而投諸地。海岸素有蘆葦、雖墮而靡有所損。半日、乃行路逢人、問之、曰、「淸遠縣也。」。然至於縣、且無伴從憑據、人不之信、不得繾綣。迤𨓦以至長安。月餘日。達舍。家始作三七齋、僧徒大集。忽見趙生至、皆驚恐奔曰、「魂來歸。」。趙生當門而坐、妻孥輩亦恐其有復生。云、「請於日行、看有影否。」。趙生怒其家人之詐恐、不肯於日行。踈親曰。若不肯日中行、必是鬼也。」。見趙生言、猶云、「乃鬼語耳。」。良久、自叙其事、方大喜。行於危險、乘騎者可以爲戒也。

   *

「貞元十二年」は唐の徳宗の治世で西暦七九六年。]

 

 以上の話より時代が下つて「輟耕錄」の中にも「誤墮龍窟」といふのがある。或商人が難船して小さな嶋に吹き寄せられ、辛うじて岸に匍ひ上つたが、深夜の眞暗な中で穴に落ち込んでしまつた。いくらもがいても攀ぢ登れるやうな、なまやさしい穴ではない。そのうちに夜が明けたらしく、薄明りの中に無數の大蛇の蟠つてゐるのが目に入つた。はじめは恐怖に堪へなかつたけれど、彼等は商人を呑まうともせぬ。いさゝか安心すると共に、今度は俄かに腹が減つて來た。蛇は時々石壁の間にある小石を舐める外、絶えて飮食をせぬので、自分もその眞似をして小石を口に含むと不思議に飢渇を忘れる。そのうちに一日雷鳴が聞えたら、大蛇ははじめて身を動かし、穴から外へ出ようとする。これは單なる大蛇でない、神龍であるとわかつたから、その尾に縋つて地上に出で、船を搜して家に還ることが出來た。穴の中で口に含んだ小石を何十か持ち歸り、都の人に見せた結果、皆貴重な寶石と鑑定された。話としては最も單純であるが、雷鳴を聞いて龍が上騰せんとし、その機を逸せずに龍窟を脱するところは、大體前の話と步調を一にしてゐる。

[やぶちゃん注:以上は「輟耕錄」の「卷二十四」にある「誤墮龍窟」。

   *

徐彦璋云、商人某、海船失風、飄至山島、匍匐登岸、深夜昏黑、偶墜入穴、其穴險峻、不可攀緣。比明、穴中微有光、見大蛇無數、蟠結在内。始甚懼、久、稍與之狎、蛇亦無吞噬意。所苦饑渴不可當。但見蛇時時砥石壁間小石、絶不飮咽。於是商人亦漫爾取小石之、頓忘饑渇、一日、聞雷聲隱隱、蛇始伸展、相繼騰升、才知其爲神龍、遂挽蛇尾得出、附舟還家、攜所小石數十至京城、示識者、皆鴉鶻等寶石也、乃信神龍之窟多異珍焉。自此貨之、致富。璋親見商人、道其始末如此。

   *

宿直草卷四 第二 年經し猫は化くる事

 

  第二 年經(としへ)し猫は化くる事

 

 其(その)以前、大坂の町奉行に嶋田の何某(なにがし)なん云ふ人、内(うち)は東(あづま)に居給へば、大坂には婢女(はした)もなく、情(なさけ)によるの添ひ臥(ぶし)も、願はくは、男ならで見ん、扈從(こせう)・茶堂(さだう)なれば、常(つね)の間(ま)、寢間(ねま)までも、伽(とぎ)とて、出入する者、多し。

 或る夜、池田勾當(こうとう)といふ琵琶法師の訪(とふら)ひて、遊びも長き糸竹の、夜(よ)を籠(こ)めて侍るに、巡る盃とりどりに、數(かず)汲む霞(かすみ)程經(ほどへ)ぬれば、これらも暇(いとま)給はりて、次の間に臥すに、暫(しば)しして、勾當の連れし十二、三の小盲(こめくら)、

「扈從衆(こせうしゆ)。」

と聲して、氣疎(けうと)く、起こす。

 痛(いた)ふ寢て誰も起きあへず。

 越前殿、

「何事ぞ。」

と宣(のたま)へば、

「只今、襖、障子、三重(みへ)開(あ)けて、口(くち)の間(ま)より、此(この)間へ入(い)る者あり、見給へ。」

と云ふ。

「やれ。」

とて、人々、起きて、燭(しよく)振りて見るに、者、無し。

 たゞ、手馴れし猫の、尾振りてあれども、宵より居(ゐ)まじきものにあらざれば、それに氣は付かず。

「いかい、寢言云(ねごとい)ひかな。」

と云ふ。

「確かに參りました。」

と云ふ。

「まだ言ふは。」

とて、頭、張り散らかし、

「生面倒(なまめんどう)な、眠(ねむ)きに。」

とて叱りければ、その分(ぶん)にして止みぬ。

 ある時、越前殿、晝の寢覺めに、植込(うへご)みの方(かた)を見給ふに、かの猫、四つ、五つばかりの兒(ちご)の、帷子(かたびら)銜(くは)へ來(き)、それを着て立ちたり。とかくすと思ふうち、美しき姫(ひめ)に成りたり。

「さては小盲めが咎(とが)めしも、此(この)ものめにこそ。無理にてはなかりし。」

と得心(とくしん)し給ふに、高塀(たかへい)を飛(とび)越して外へ出(いで)ぬ。やがて歸るを待ち、木綿袋に入(いれ)、人に云ひ付け、天滿橋(てんまばし)に流し給ふ。人々、故(ゆへ)は知らず、

「良く鼠捕りし描にてさふらひしを。」

と、惜しみければ、右の事、語り給ひしと也。

 『千歳(せんざい)の狐は美女と成り、百年の鼠は相卜(さうぼく)す』と經文に見えたり。年經し猫は「猫また」とも成るべし。猫も猫による歟(か)。

 我家(わがいへ)に猫あり。鼠をも虎毛(とらげ)猫の捕りもせで、竈(かまど)の前に蟠(わだかま)つて無精(ぶせう)から、竈(へつゐ)の中の灰毛に呼ばれ、

「よしさら、無精者よ。」

と侮(あなど)れば、手白手白(てじてじ)と飛(とび)囘(まは)り、肴(さかな)を三毛(みけ)の盜み喰らひ、己(をの)が毛の斑(ぶち)に打(う)たれても、まだらまだらとまな板に向かひ、磨(みが)けど爪は無患子(むくろじ)か。黑猫の生れつきとて、白(しら)みもあへず蹲(つくば)ふは、細き眼(まなこ)に長髯(ながひげ)の、面倒にも侍る。また、形(かた)のごとく化粧(けはひ)ては、妻戸のもとに轉(ころ)び寢(ね)を、鼠鳴(ねずな)きの細々と、

「姫(ひめ)よ、乙(をと)よ。」

と呼ばれても、身をあらはねば、あか猫の、

「にやん。」

と鳴いたるむぐつけさ。頸玉(くびたま)のたまさかに、人を待つ夜の伽ともならず、炬燵(こたつ)を狹ばめて足を舐(ねぶ)り、あたら、また寢(ね)の夢を覺ますぞ、賞(ほ)めたけれども、うとましき。

 かの半蔀(はしとみ)の翠簾(みす)ひく綱(つな)の、繫(つな)がる緣(えん)となりし袖は、げに、媒(なかだち)とも賴みつらん。あせらかせど、側(そば)へず、立居につけて、腰の拔けたる世を唐猫(からねこ)の風情(ふぜい)して、果ては、三味(しやみ)の皮(かは)になりて、何の咎(とが)にか、ばちは當たると、哀れなるもあめり。

 

[やぶちゃん注:「其(その)以前」本書は前話をほぼ確実に受け、概ね、何らかの連関性を意識的につけながら続いているところから、この「其」は前の「ねこまたといふ事」を受けた連続した「ねこまた」の夜伽話(第一話の冒頭の話者の謂いを参照のこと)という体裁をとっていると読む。しかもこの話柄内自体に夜伽衆が登場することからも、これは確信犯の物謂いであると私は読む。

「大坂の町奉行に嶋田の何某(なにがし)なん云ふ人」岩波文庫版で高田氏は、『家康家臣嶋田清左衛門か』とされる。「大坂町奉行」や呼称の「越前殿」から見てモデルは明らかに彼である。左衛門は通称で、本名は島田直時(元亀元(一五七〇)年~寛永五(一六二八)年)である。ウィキの「島田直時」より引く。『安土桃山時代から江戸時代初期にかけての旗本』で『大坂町奉行(初代西町奉行)を務めた。島田重次の三男』として『父の領していた三河国矢作城にて生まれ、父と同じく徳川家康に仕えた。小田原征伐に出陣し、九戸一揆では陸奥国岩出沢へ、文禄・慶長の役の際にも名護屋城まで付き従っている。関ヶ原の戦いでは父重次が預かっていた足軽五十名を率いて奮戦したことを評され』、慶長七(一六〇二)年には『鉄炮足軽三十名を預けられることになる』。『その後は父や兄弟たちと同じく代官として甲斐国内での活動が見られる。直時は日向正成(半兵衛)とともに代官頭大久保長安に代わり、徳川忠長領であった甲斐へ赴任する。編纂物においては島田・日向両名は大久保長安と同様に「国奉行」として支配にあたったとされるが、残存する文書からもこれは確認されている』。『大坂の陣に従』い、その後の元和二(一六一六)年、『父重次の足軽五十名を正式に引き継い』でいる。三年後の元和五年、『河内国交野郡森に領を得て、大坂町奉行(初代西町奉行)に任ぜられた』。寛永二(一六二五)年には従五位下越前守を叙任されている(ここでの呼称が正確な共時性を持つと考えるならば(実際にはそういう可能性はあまり高くない)この話はそれ以降とはなる)。さらに、寛永四(一六二八)年には『堺奉行も兼ねるなど、順調に出世を重ね、活躍を見せていた』が、翌寛永五(一六二八)年八月十日、江戸城内で起こった老中井上正就に対する刃傷事件に責任を感じ、二ヶ月後の十月七日に自刃してしまった。『これは直時の娘を老中井上正就の嫡子正利に嫁がせるという縁談話を春日局などによる圧力によって反故にされ』『た仲人豊島信満による、正就の殺害事件であ』ったという。本書は延宝五(一六七七)年の成立であるから、彼の死後からは四十九年後である。いや……或いは……この「猫また」の祟りででも……あったのかも……知れぬ…………

「内(うち)」妻。

「東(あづま)」江戸。

「婢女(はした)もなく」お側に仕える者にはまるっきり女っ気がなかったのである。読者の興味を怪談とは違った変な色気で以って無駄に引き延ばすやり方で、私は気に入らない。

「よるの」「情けに寄る」と「夜の添ひ臥(ぶし)」の糞掛詞。

「願はくは、男ならで見ん」嶋田何某にはあまり男色の嗜好はなかったらしい。

「扈從(こせう)」御小姓。武将の身辺に親しく仕え、諸々の雑用を担当した職。概ね、若年の者が就き、平時には秘書役をも勤めたが、戦時や火急の際には身を捨てて主君を守ることが主命であることから、一定水準以上の知識・作法・武芸を求められ、成長すると、主君の側近にスライドして行く者も多かった。また、主君とは若年時からの付き合いであるため、男色関係を伴うことも多かった。

「茶堂(さだう)」茶坊主。武将の身辺に付き添い、特に茶の湯の手配や給仕・来訪者の案内接待を初めとした家中のほぼあらゆる雑用に従事した職。帯刀せず、剃髪していたことから「坊主」と呼ばれたが、僧ではなく、武士階級に属する。やはり男色の対象ともなった。

「勾當(こうとう)」既出既注

「糸竹」前後の詞の韻律構成から、ここは音読みの「シチク」ではなく「いとたけ」と読んでいる。狭義には「糸」は琴・三味線などの弦楽器、「竹」は笛・笙(しょう)などの管楽器で、和楽器、管弦の意であるが、ここは広義の音曲の意。言わずもがなであるが、前の夜伽の「遊び」が「長」く続く形容としての「いと」「長け」の糞掛詞ともなっている。

「霞(かすみ)」したたかに酌み交わす酒を神仙のネクターである「霞」に掛け、さらに酔いで眼がかすむ「程」に酒宴が「程經(ほどへ)ぬれば」、深夜に及んだというのであろう。ホラーの日常的前振りはなるべく簡潔に、ゴテゴテさせないのが優れた怪談の必須条件である。ここはグタグタした、しかも怪談とは無縁な思わせぶりの叙述が如何にも目障りである。

「痛(いた)ふ寢て誰も起きあへず」皆、酔っ払ってすっかり寝込んでしまっていて、起きないのである。全員、失格。聴きつけたのが奥の間の「越前殿」であるのは寧ろ滑稽でさえある。

「口(くち)の間(ま)」入口の間。なお、この、怖れて声を挙げたのが、視覚障碍者の少年であることに注意されたい。後の「無理にてはなかりし」注を参照されたい

「やれ」感動詞。相手に対して呼び掛けたり、注意を促したりする際に発する。「おい!」「それっ!」。

「居(ゐ)まじきものにあらざれば」ここにもともと居なかったものではなかったので。夕刻から始まった夜伽の宴会に初めからこの猫はいたから不審に思われなかったというのである。

「いかい」中近世の口語。「嚴(いか)い」(形容詞「いかし」のイ音便)でここは皮肉を込めた「ご大層な」の意。

「確かに參りました」江戸前期で既にして現代語と全く同じ口語が使用されていたことがこの直接話法で判る。

「張り散らかし」したたかに何度も叩いて。

「生面倒(なまめんどう)な」「ええぇい! クソ面倒なガキじゃ!」。「なま」は名詞に付いて「十分でない・いいかげんなものであること・未熟で程度の劣ったものであること」を表わす。

「その分(ぶん)にして」その程度にあしらって。

「小盲め」「め」は人や動物を卑称する接尾語「奴(め)」。後の「ものめ」の「め」も同じい。

「無理にてはなかりし」勾当の連れていた弟子の視覚障碍者の少年が、目が見えぬにも拘わらず、異様に怖れたのも無理はないことだったのだ、と気づいたのである。いや、少年は(少年なれば酒もそうは過ごしていなかったであろうし)目が見えぬからこそ、他の感覚が研ぎ澄まされており、妖気を敏感に感じとっていたのである。

「天滿橋(てんまばし)」大阪府大阪市の大川に架かる(北区から中央区へ)の天満橋。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「故(ゆへ)は知らず」嶋田某がそうした理由が判らなかったから。

「『千歳(せんざい)の狐は美女と成り、百年の鼠は相卜(さうぼく)す』と經文に見えたり」こんなことが書かれている仏教経典は私は知らない。岩波文庫版で高田氏も「相卜す」の注で『不詳。うらないをする、の意か』とされておられる以上、高田氏もこんな経文は御存じないものと私は読む。但し、前の「千歳(せんざい)の狐は美女と成り」というのは、恐らく晋の郭璞(かくはく)の撰になる博物誌「玄中記」(散逸してしまい、後の佚文が「太平廣記」等に引かれて一部が残るのみ)に之狐爲淫婦、爲神巫」(千の狐、淫婦と爲(な)り、神巫と爲る)或いは別本では「狐五十能變化爲婦人、百爲美女」(狐、五十歳にして能く變化(へんげ)して婦人と爲り、百歳にして美女と爲る)とあり、また「千歳卽與天通爲天狐」(千歳、卽ち、天と通じて天狐と爲(な)す:狐は千年の年を生き永らえると、天の気と通じて「天狐」という妖狐となる)と記されているのや、明の謝肇淛(しゃちょうせい)撰の「五雜俎」の「卷九 物部一」に出る、「狐千歳始與天通、不爲魅矣」(狐、千歳せば、始めて天と通じ、魅(び)を爲さず:狐は千歳を超すと天の気と通じ、最早、人を化かしたり蠱惑したりしなくなる)とも書かれている(後者は「其魅人者、多取人精氣以成。然則其不魅婦人、何也。曰、狐、陰類也、得陽乃成。故雖牡狐、必托之女。以惑男子也。然不爲大害、故北方之人習之。南方猴多爲魅、如金華家貓、畜三年以上、輒能迷人、不獨狐也。」(下線やぶちゃん)と続いており、千歳を過ぎて天に通じた狐というものは、その前の千年間、美女などに変じて人間の男から精気を吸い取った結果としてそうなると述べている)のを捩ったもののようには思われる。

年經し猫は「猫また」とも成るべし。猫も猫による歟(か)。

「我家(わがいへ)に猫あり」以下、荻田の怪談とは無縁の、いらぬ評言、というより、何だかなの風流「猫毛色尽くし」である。あんまりやる気にならんが、一応は注しておく。

「虎毛(とらげ)」「とら」に鼠を「捕ら」ぬを掛ける。

「竈(へつゐ)の中の灰毛」「かまど」と「へつひ」(歴史的仮名遣はこれが正しい)は同じ。韻律を遊ぶために換えただけ。「へっつい」だから「灰」が縁語となり、猫の毛色の「灰毛」を引き出す。

「よしさら」「ままよ! 本当に全く以って!」。

「手白手白(てじてじ)と」岩波文庫版の高田氏の注に、『ちょこまかと。なお』、『前足の毛の白い猫を「手白」といい、これをかけた語』とある。

「肴(さかな)を三毛(みけ)」魚を「見」つ「け」に毛色の「三毛」を掛ける。

「毛の斑(ぶち)」毛色に「打(ぶ)つ」を掛けて、下の「打(う)たれ」を引き出す(というかただの屋上屋の駄洒落に過ぎぬ。

「まだらまだらと」毛色の「斑(まだら)」に、未練たらしく、魚を料理した俎板の臭いのする前に居座って「だらだらと」と「向か」っている、という情景を掛ける。

「磨(みが)けど爪は無患子(むくろじ)か」岩波文庫版で高田氏は「無患子」にのみ注して、『ムクロジ科の落葉喬木。種子を追い羽根』(羽子板)の例の黒い『球に用いる。「黒」をかけた用語』とされておられる。ムクロジ目ムクロジ科ムクロジ属ムクロジ Sapindus mukorossi。数珠の球にも用いる。ネット上の語源説として「無患子」は「患ひ無き子」の意であって本種子を用いる羽子板やその羽根が無病息災のお守りとされたことによるとまことしやかに書かれてはあるが、私は微妙にこの説には載れない気がしている。閑話休題。『「黒」にかけた』は猫の黒毛・黒猫のことを指すわけだが、しかし、これではこの全体の意味(掛けた意味)がすっきりと私には採れないのである。猫がその爪を磨いたとて、それは所詮、猫でしかなく、虎にはなれぬ、ただの黒猫とでも言いたいのか? 識者の御教授を乞う。

「白(しら)みもあへず」「黑猫の生れつきとて」で毛が白くなることもなく、の意であるが、やはりただのそれではない。実はここ、岩波文庫版では本文が『虱(しらみ)もあへず』とあるのである。「白(しら)み」に猫につきものの白い「虱」を掛けてあるわけである。

「鼠鳴(ねずな)き」鼠の鳴くような声を出すこと及びその声で猫所縁ではあるが、現在でも我々が猫や犬や鳥などを呼び招くのに出す「チョッチョッ」は「鼠鳴き」なのであり、ここでは鼠を喰らう猫を呼ぶのに「鼠鳴き」するというところを、まずは面白がっているのであろう。そうして実はさらに「鼠鳴き」には「女のもとに忍んで来た男などが女の家の家人らに知られぬように合図として発するところの「鼠の鳴き真似」をも言う語なのである。それが以下の処女の娘乙姫の「姫(ひめ)よ、乙(をと)よ。」と呼応するわけである。

「姫(ひめ)よ、乙(をと)よ」或いは江戸時代の猫の名前は「ひめ」「おと」(歴史的仮名遣はこちらが正しい)が一般的だったのかも知れない、などと私はこの台詞から妄想してしまった。

「身をあらはねば、あか猫の」「身を現はね」(ちっとも懐いて寄ってきて姿を現すこともない)「赤」毛の「猫」が表で、それに「身を洗はねば」、汚い「垢」だらけの「猫」の意を掛ける。

「むぐつけさ」濁音は原典のママ。原義は対象の実相や本性・心が判らず、不安な気持ちから生まれる「気味が悪い・恐ろしい」であるが、ここはそこから派生した「無骨である・むさくるしい・無風流だ」の意。ここまでで「毛色尽くし」は終り。

「頸玉(くびたま)」「首玉」。「くびったま」。犬・猫などの首に附ける首輪。

「たまさかに」「偶さか・適さか」で、ここは「滅多なことでは」。

「あたら」「可惜」と漢字を当て字したりする副詞。元々は「立派なものが相応に扱われていないのを惜しむ」の意で、基本、価値のあるものを失うことが惜しまれるさまを意味し、「残念なことに・惜しいことに・勿体なくも」などと訳される。ここで勿体ない対象は楽しい「夢」である。

「また寢(ね)」「又寝・復寝」。一度目を覚まして再び寝ること。ここは「転寝(うたたね)」の意であろう。

「賞(ほ)めたけれども、うとましき」飼っている猫ではあるから可愛くないことはなく、時には褒めてやりたく思うこともあるけれども、やっぱり、その総体の行動や動作は概ね不快を感じるのである、というのである。飼い主の勝手な謂いで総体、不快である。

「かの半蔀(はしとみ)の翠簾(みす)ひく綱(つな)の、繫(つな)がる緣(えん)となりし袖は、げに、媒(なかだち)とも賴みつらん」「源氏物語」の「若菜上」の柏木と女三宮の出逢いのシークエンスを言っている。光源氏が女三宮(十三か十四歳)を正式に妻として迎えた翌年(光四十歳)の三月、光の私邸六条院で蹴鞠が催され、柏木は女三宮の部屋辺りにいたが、偶然、彼女の飼っている唐猫が御簾を端から走り出た拍子に御簾が高く捲き上げられてしまい、柏木は彼女を垣間見強く惹かれてしまい、その夜、恋文を出してしまうのである(禁断の契りは次の「若菜下」で、この時の出逢いからは数年後)。その場面のみを引く。

   *

 御几帳どもしどけなく引きやりつつ、人氣近く世づきてぞ見ゆるに、唐猫のいと小さくをかしげなるを、すこし大きなる猫追ひ續きて、にはかに御簾のつまより走り出づるに、人びとおびえ騷ぎて、そよそよと身じろきさまよふけはひども、衣の音なひ、耳かしかましき心地す。

 猫は、まだよく人にもなつかぬにや、綱いと長く付きたりけるを、物にひきかけまつはれにけるを、逃げむとひこしろふ[やぶちゃん注:引っ張る。]ほどに、御簾の側いとあらはに引き開けられたるを、とみにひき直す人もなし。この柱のもとにありつる人びとも、心あわたたしげにて、もの懼ぢしたるけはひどもなり。

 几帳の際、すこし入りたるほどに、袿姿(うつきすがた)にて立ちたまへる人あり。階(はし)より西の二の間の東の側なれば、まぎれどころもなく、あらはに見入れらる。

 紅梅にやあらむ、濃き薄き、すぎすぎに、あまた重なりたるけぢめ[やぶちゃん注:重ね着をしたその色の違い・変化。]、はなやかに、草子のつまのやうに見えて、櫻の織物の細長なるべし。御髮のすそまでけざやかに見ゆるは、糸をよりかけたるやうになびきて、裾のふさやかにそがれたる、いとうつくしげにて、七、八寸ばかりぞ餘りたまへる。御衣(おほんぞ)の裾がちに、いと細くささやかにて、姿つき、髮のかかりたまへる側目(そばめ)、言ひ知らず、あてにらうたげなり。夕影なれば、さやかならず、奧暗き心地するも、いと飽かず、口惜し。

 鞠に身を投ぐる若君達(わかきんだち)の、花の散るを惜しみもあへぬけしきどもを見るとて、人びと、あらはをふともえ見つけぬなるべし。猫のいたく鳴けば、見返りたまへる面もち、もてなしなど、いとおいらかにて、若くうつくしの人やと、ふと見えたり。

   *

但し、本文からも判るように、ここは「半蔀(はじとみ)」(蔀戸(しとみど:格子を組んで間に板を挟んだ戸。日光・風雨を完全に遮るための建具。普通は長押(なげし)から釣り、水平に撥ね上げて開き、鉤型の釣り金物で固定する)を上下二枚に分けて上半分を外側に撥ね上げて垂木から吊るようにしたもの)ではない。これでは猫は出られない。

「あせらかせど、側(そば)へず」岩波文庫版の高田氏の注に、『いじっても戯れ遊ばず、の意』とある。

「腰の拔けたる世を唐猫(からねこ)の風情(ふぜい)して」「世(よ)を」は「樣(やう)なるを」を掛けるか。猫の柔軟な肢体での立ち居は「腰が抜けたる樣」には見える。「唐猫」が難物であるが、これは中国から来た「唐猫」(事実、猫は中国から伝来する仏典の鼠害を防ぐために中国から帰化したものとされる。また、先に出た「源氏物語」の仲立ちとなるのも「唐猫」であった)に、「離(か)」る、人間に心から馴れ親しむことない感じのする猫から、「疎遠になる・心が離れる」の意を引き出し、そのまさに「猫また」的な現実離れした妖しい雰囲気から「世を離(か)」る、「時空間を隔てて離れる・遠ざかる・退き去る」で、異界の生物のような異様な「風情」、雰囲気を「して」いるという謂いか。或いはここも「源氏物語」の先の周辺部分と何か関係があるのか?(私はさる理由のあって「源氏物語」のあの辺りはちゃんと読んでいない)大方の御叱正を俟つ。

「ばちは當たる」三味線の「撥」と「罰」を掛ける。]

 

2017/07/15

柴田宵曲 續妖異博物館 「木馬」

 

 木馬

 

 トロイの木馬は少し古過ぎる。あの木馬は巨大な點で人を驚かしたかも知れぬが、腹中に人が潛んで、城を陷れる謀略用に供せられたものだから、話としての妙味は寧ろ少い。「アラビアン・ナイト」の中には空を飛ぶ黑檀の馬が出て來る。ペルシャ王に獻ぜられたこの馬は、昇降の裝置が出來てゐるので、昇る裝置だけ教へられた王子は、暫く空を飛び續ける外はなかつたが、そのうちに漸く下る裝置を見出して、或王宮の屋根に下りる。話はその後二三曲折があつた末、王子が姫と同乘して故國に飛び戾るといふ大團圓になる。不思議な木馬に伴ふ謀計は無論あるけれど、トロイの木馬のやうな大がかりなものでないだけに、話の興味もあれば、童話的な親しみもあるわけである。

[やぶちゃん注:「トロイの木馬は少し古過ぎる」木馬の奇策戦法についてはトロイアの木馬を参照されたい。小アジアのトロイア(現在のトルコ北西部のダーダネルス海峡以南にあったとされる。私は行ったことがあり、遺跡の入り口には木馬の複製が建てられてあった)に対してミュケーナイを中心とするアカイア人の遠征軍が行ったギリシア神話上の戦争トロイア戦争については、紀元前一二五〇年頃にトロイアで大規模なモデルとなった戦争があったとする説もあれば、全くの絵空事であるという説もあるという(ウィキの「トロイア戦争」による)。

『「アラビアン・ナイト」の中には空を飛ぶ黑檀の馬が出て來る』梗概は、ウィキの「千夜一夜物語のあらすじ」にある黒檀の馬奇談(第414夜 - 第432夜)の項を参照されたい。]

 

 空を飛ぶ木馬は支那にもあつた。話は極めて簡單なもので、或童子が歸りがけに馬を請うた時、戲れに木馬を作つて與へた。童子は困ると思ひの外、私は泰山府君の子です、この馬は有難く頂戴いたします、と一禮して、ひらりと跨がると同時に、木馬は忽ち天空に騰り去つたと「太平廣記」にある。あまり簡單過ぎて「アラビアン・ナイト」に對抗することは出來ぬが、頭も尻尾もなしにいきなり飛び去るところに、木馬奇譚らしい面白味がないでもない。

[やぶちゃん注:「騰り」「のぼり」或いは「かけあがり」と訓じているか。

「頭も尻尾もなしに」別に与えた木馬が頭も尻尾もない馬だったのではない。話の頭も尻尾もよく判らぬうちに忽ちに終わる短章だからである。以下の通り、原典は字数にしてたった四十六字である。

 以上は「太平廣記」の「妖怪二」に載る「後魏書」にあったとする「段暉」。

   *

段暉、字長祚、有一童子辭歸、從暉請馬。暉戲作木馬與之、童子謂暉曰、「吾泰山府君子、謝子厚贈。」。言終、乘木馬、騰空而去。

   *]

 

 宋の紹興元年、兵亂を避けて江南に居つた人々が、だんだん故郷へ歸らうとする中に、山陽地方の士人が二人あつた。准揚を通過して北門外に宿を取らうとしたが、宿の主人は丁寧に謝絶した。長い兵亂の後で家も穢くなつて居り、盜賊どもが徘徊するので甚だ物騷である、こゝから十里ばかり先に呂といふ家があるから、そこへ行つてお泊りになつたらよからう、僕や馬を添へてお送りさせる、といふのである。呂といふのは前から知つてゐる家なので、二人は主人の云ふ通りにした。主人は別れを告げるに當り、日が暮れたから馬にお召し下さい、と云ひ、歸りにもまた寄つて貰ひたい、と云つた。僕二人、馬二頭の道中は何事もなかつたが、呂氏の家ではいろいろ物騷な噂のある折から、二人が夜を冒して來たのを怪しむ樣子であつた。そこで前の宿の話によつてこゝまで辿り着いた事情を説明し、馬から下り立たうとすると、馬も人も全然動かない。燈に照らして見た結果、人と思つたのは二本の太い竹、馬と思つたのは二脚の腰掛けであることがわかつた。支那では竹を切つて人の身代りにすることがよくあるが、腰掛けの馬はあまり聞かぬやうである。役目を果した木と竹は、その場で燒かれてしまつたけれど、何も怪しい事は起らなかつた。五六箇月たつて北門外へ行つて見たら、その家は空家で、主人らしい姿も見えなかつた(異聞總錄)。

[やぶちゃん注:「紹興元年」底本は「紹與」であるが、中国の「宋」を名乗った国の元号にこんなものはない。以下の原文によって誤字と断じ、特異的に訂した。南宋時代に高宗の治世で用いられた元号で元年は一一三一年。この五年前の一一二六年、北宋は靖康(せいこう)の変(北宋が女真族(後の満州族の前身)を支配層に戴く金(きん)に敗れて華北を失って北宋が滅亡した事件。靖康は北宋の最後の当時の年号)によって宋は一旦、滅び、戦闘こそ収束したものの、国内は著しく混乱していた。

「山陽」現在の西安の南東にある陝西省商洛市山陽県か。(グーグル・マップ・データ)。

「淮揚」淮陽か。であれば、現在の江蘇省淮安市淮陰区西部附近。(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「異聞總錄」の「卷之四」に出る以下。

   *

紹興十年、兩淮兵革甫定、避地南渡者、稍複還郷。山陽二士子歸理故業、道經淮揚、舍於北門外、日已暮矣、主人慰諭綢繆、云、「吾主張此邸、惟恐客寓不久、然於二君之前、不敢不以誠白、是間殊不潔淨、又有盜、不可宿也。距此十里呂氏莊、寬雅幽肅、且有御寇之備、願往投之、當以僕馬相送。」。士子見其忠告、且素熟呂莊、頷之而去、主人殷勤惜別、仍囑囘途見過、遣兩健僕控馬、其行甚穩。夜未半抵莊、莊乾出迎、云此地多鬼物、何爲夜行、士子具道所以、方解鞍、僕馬屹立不動、亟躍下、取火視之、但見大枯竹兩竿、木橙兩條而已、卽碎而焚之、後亦無他。歷數月再到其處、北門寂然、無所謂主人也。

   *

この話は岡本綺堂の「中国怪奇小説集」にも「竹人、木馬」として訳が載る。青空文庫」で読める。]

 

 この話の山は愈々目的地に達して氣が付いたら、人も馬も武人腰掛けに變つてゐたといふ一點に在る。物騷な夜道をとぼとぼと行く腰掛けの馬は、百鬼夜行の圖に漏れた愛すべき化物でなければならぬ。

 

 「廣異記」の高勵が桑の木の下に立つて、人の家の麥打ちを見てゐるところへ、東の方から馬を飛ばして來る男があつた。高勵の前に來て再拜し、お願ひでございます、馬の足をなほしていただきたう存じます、と云ふ。わしは馬醫者ではないから、馬の療治などは出來ないと答へたら、その男は笑つて、いえ、そんなむづかしい事ではありません、たゞ膠(にかわ)で付けていたゞけばよろしいのです、と云ふのである。高勵には先方の云ふことがよくわからぬので默つてゐると、男ははじめて自分の事を説明した。實は私は人ではありません、この馬も木馬なのです、あなたが膠で付けてさへ下されば、この木馬でずつと先まで行けるのです――。高はまだ十分腑に落ちなかったけれど、云はれるまゝに膠を持つて來て、火にかけて溶かしてやつた。男の話によれば馬の病氣は前足に在るといふことなので、その箇所に膠を付けてやり、膠を煮た鍋を片付けてもう一度出て來たら、馬は見違へるやうに元氣になつて、いづれへか走り去つた。

 

 膠を高に乞うた男は、自ら人に非ずと云つた。「太平廣記」はこの話を鬼の部に入れてゐるから、いづれその邊に所屬するのであらう。倂し前足を痛めた木馬に跨がつて、どこからどこへ行かうとしたのか、高を見かけて膠を乞うたのは全くの偶然か、それとも何か因緣があつたのか、さういふ點に關しては「廣異記」は何も書いてない。通りがかりにこんな事を賴まれただけで、別に後腐れがなかつたのは、高に取つては幸ひであつた。

[やぶちゃん注:以上は「太平廣記」の「鬼二十三」に「廣異記」を出典として「高勵」で載るもの。

   *

高勵者。崔士光之丈人也。夏日、在其庄前桑下、看人家打麥。見一人從東走馬來、至勵再拜、云。請治馬足。勵云。我非馬醫、焉得療馬。其人笑云。但爲膠黏即得。勵初不解其言、其人乃告曰。我非人、是鬼耳。此馬是木馬。君但洋膠黏之。便濟行程。勵乃取膠煮爛、出至馬所、以見變是木馬。病在前足。因爲黏之。送膠還舍、及出、見人已在馬邊。馬甚駿。還謝勵訖。便上馬而去。

   *]

宿直草卷四 第一 ねこまたといふ事

 

宿直草 卷四

  第一 ねこまたといふ事

 

Nekomata[やぶちゃん注:挿絵は底本のものを相当に念を入れて清拭、上下左右の枠も除去した。] 

 

 攝州萩谷(はぎたに)に安田の某(なにがし)、「のたまち」と云ふ狩(かり)を好めり。猪、深山(みやま)より里田(さとた)に出(いで)て、夜(よる)のうち、求食(あさり)、曉(あかつき)、山に歸る。水湧く所にて轉(ころ)び打つ。其跡、著(しる)かれば、其所(そのところ)を晝の内、よく見置きて待(まつ)に、又、彼處(かしこ)に來たる、弓・鐵砲にて獲るを、「のたまち」と云ふ。

 かの人、夜(よ)に入(いり)て彼處に待つに、月、やうやう更(ふけ)て、ものゝ聲、幽(かす)かに聞ゆ。耳を欹(そばた)てゝ聞くに、我(わが)母、我が名を呼びて、來(く)る。

「さてさて、訝(いぶか)し。如何なる用のあれば、廿四町の坂道を獨り來給ふ。不思議也。或るは下部(しもべ)或るは隣人(となりど)こそ來(こ)さめ。定めて母にてはあらじ。一矢(いちや)射(い)べき物を。」

と待つに、聲色(こはいろ)、いよいよ紛(まが)ふ所もなし。

「さては又、化けたるものにてもあるまじきか。」

と進退(しんだい)わづらひしが、

「よし、母ならば、こゝへ來(く)る事、自(みづか)ら誤り給へり。不孝の咎(とが)も畏ろしけれど、再び、人にも逢はゞこそ。誤りなきを腹切りて、死出の山路にことはらん。」

と、雁股(かりまた)引き絞り、暫(しば)し固めて放つ矢に、誤(あやま)たず、當たる。

 また、引返し、叫びつゝ歸る聲、いよいよ、母也。

 あるもあられず、夜も明けて其處(そこ)ら見るに、矢は射通して、跡(あと)にあり。血、零(こぼ)れて、道、長し。

 したひて見るに、我が里へ續き、我(わが)屋敷、母の隱居の門口まで引けり。

「さればこそ。」

と思ひ、胸うち騷ぎて内へ入(いる)に、母は無小大(なにとなく)在(いま)せり。

「さては。」

と、嬉しく思ひしに、血は猶、簀搔(すがき)の下に傳(つた)へり。

 母に樣子語りて、簀子(すのこ)の下、尋(たづぬ)るに、母、常々、祕藏せし虎毛(とらげ)の猫、死(し)し居(ゐ)たり、となり。

 是、猫またか。

 「父母(ふぼ)在(います)時は、遠(とをく)遊ばざれ、遊ぶ事、必ず、方(みち)あり」と云へり。實(まこと)の母ならば、この人、如何に面(おも)なからん。事の急なるには、徒裸足(かちはだし)にも來べきをや。猫なりしは、此人の仕合(しあはせ)なり。心あらん人、聞(きゝ)咎めずやあらん。

[やぶちゃん注:本話の現存する最も古いプロトタイプが、「今昔物語集」の「卷第二十七」に載る「獵師母成鬼擬噉子語第二十二」(獵師の母、鬼と成りて子を噉(くら)はむと擬(す)る語(こと) 第二十三)であることは、まず疑いようがない。それは既に私の「諸國百物語卷之三 十八 伊賀の國名張にて狸老母にばけし事」の注で電子化しであるので参照されたいが、湯浅佳子氏の論文「『曾呂里物語』の類話」では「今昔物語集」のそれを濫觴として、「曾呂里物語」の巻二の二「老女を猟師が射たる事」や巻三の五「ねこまたの事」が書かれたとする。前者はリンクさせた「諸國百物語」とよく似ているが、後者の「ねこまたの事」は本「宿直草」版「ねこまたの話」と題名だけでなく、中身も恐ろしいまでに酷似し(ここでの「母」はそちらでは「妻」になっているものの、全体の結構のみでなく、細部の猟法「ぬたまち」や物の怪の正体を「年へたる猫」とする点でも完全に一致する)、最早、偶然の一致は考えられない今は失われたこれらに先行する中間の原型が存在したか、或いは「曽呂利物語」を「宿直草」が剽窃したかの孰れかである。

「攝州萩谷(はぎたに)」現在の大阪府高槻市萩谷。ここ(グーグル・マップ・データ)。大阪府の公式サイト内のこちらで、昨年(二〇一六年八月七日午後六時)頃にここにある高槻市萩谷総合公園内でツキノワグマが目撃されたとあり、同ページには『サルやイノシシ等の野生鳥獣の出没にご注意ください!』ともある。今も猪、現役!

「のたまち」本文でも語られてあるが、岩波文庫版で高田氏は『狩猟法の一つ。動物が夜行して水を飲みに歩く道をあらかじめ探り、待ち伏せして射止める猟法』と親切に注されておられる。「のた」は「日本国語大辞典」によれば、「沼田(ぬた)」の変化した語とし、方言として『山間の湿地で猪が体にどろを塗りつけ場所』とし、採集地を大阪府南河内郡及び奈良県吉野郡とする但し、私は嘗てマタギに関心を持って、彼らの猟法や猪猟の実際を調べたことがあるが、その時、猪が寝転がってのたくっては泥を身体に塗りつける場所をまさに「ノタ場」或いは「ヌタ場」と呼称すること、そこを「マチ場」(待ち場)としてやってくる猪を捕獲する猪猟をすることを知っていた。その猟法のドキュメント番組もよく記憶しており、実際に今も鮮やかにその「ノタ場」が動画として目に浮かびさえするのである。従って私はこの「のたまち」という語を見た瞬間、本文の後の説明も高田氏の注も不要であったのである。なお、この泥を身体につける行為はダニなどの寄生虫の除去目的などとまことしやかに説明されているが、その程度で落ちるダニではない。実際のところはよくわかっていないらしいが、ダニ予防なんぞよりは、一種のテリトリーを示すためのマーキングの方が判りが良い気はする(実際には泥浴びや土や砂を浴びる行為は鳥類や哺乳類でしばしば見られるものの、その多くはその行為の理由がよく分っていないのである)。私がわざわざこんなことを注したのは高田氏は注で「動物」とされているが、実際には猪狩りの呼称として専ら使われていたことをはっきりさせたいからである。

「廿四町」二キロ六百十九メートル。

「不孝の咎(とが)も畏ろしけれど、再び、人にも逢はゞこそ。誤りなきを腹切りて、死出の山路にことはらん。」ちょっと意味がとりにくいが、この「こそ」は「こそ」已然形の逆接用法の部分が省略された形であって、以下の意味として私は採る。「これが実際の母だったとして、それを射殺してしまった場合、その母殺しという最悪の不孝によって受ける神仏からの罰は無論、畏るべきものではあるけれども、それは、そうした結果となってしまった後に、誰でもよい、誰か人に逢い、それを語らねばならなくなった時のこと、そのまま、おめおめとこの世に生き永らえてゆかねばならなくなった場合のこと、である。しかしながら、それは、ないのだ。何故なら、少なくとも、こうした状況下にあって、そうした変化の物であることを推定し、矢を以って射殺すべきとした私の判断には誤りはなかったことを自ら堅く信じ、それを心に確かに持った状態で潔く腹を切って死に、その後、冥界に赴いたならば、そこでの断罪の際、私の確かな主張としてそのことを理を尽くして説明しようぞ!」の謂いとして、である。なお「誤りなきを」を「間違いなく母であることが判明した場合は」(腹を切って……)の謂いと採ることも出来なくはないが、主人公は「誤りなき」という語を自身の各個たる認識として使っているニュアンスを私は強く感じるので、その意では採らない。大方の御叱正を俟つ。

「雁股(かりまた)」先が股(やや外に開いたU字型)の形に開き、その内側に刃のある狩猟用の鏃(やじり)。通常では飛ぶ鳥や走っている獣の足を射切るのに用いる。

「暫(しば)し固めて」射撃を安定させるための「溜(た)め」を入れて。本文や挿絵で判る通り、夜ではあるが、月が(挿絵では満月である)出ているから夜目で視認は出来たのである。

「あるもあられず」「居(を)るに居られず」に同じい。とてものことに凝っとしていられない思いで。

「無小大(なにとなく)」本来は漢文で、「小大の無し」、対象の量や度合いの大小に拘わらず(~する・すべき)であるが、ここは、大きな変わりは勿論なく、小さな、しかし気になる違いさえもなく普通に、の意。

「簀搔(すがき)」ここは、竹や葦の簀(すんこ)で張った床(ゆか)のこと。

「簀子(すのこ)の下」床下。

「祕藏せし」可愛がっていた。

「猫また」猫又。いろいろなところで注しているが、ここでは先般、電子化注を終えた「想山著聞奇集 卷の五」の「猫俣、老婆に化居たる事」をリンクさせておくので、そちらの注を参照されたい。

「父母(ふぼ)在(います)時は、遠(とをく)遊ばざれ、遊ぶ事、必ず、方(みち)あり」「論語」の「里仁篇」の一節。

   *

子曰、「父母在。不遠遊。遊必有方。」。

(子、曰く、父母(ふぼ)在(いま)せば、遠く遊ばず。遊ぶに必ず方(はう)有り。)

「在」は「存命している間」の意、「遠遊」は遠出(とおで)、「方」は「一定の方角・位置」でここは父母にその行先を明確に伝えておくこと、おかねばならないということを指している。ここでの荻田の説教臭さは話柄の最後に複雑な条件を添えて怪異を減衰させてしまっている。私は当初、「のたまち」は夜間の危ない、しかも獣を射殺す殺生であるから、恐らく、この安田某は母に出先を言っていないと考えたが、ここで安田が「実の母かも知れない」と躊躇し、また、どうしても緊急のことが生じたならば、下僕や隣人に来させるはずである、と思ったりしたのは、実は「のたまち」の場所をかなり正確に母に伝えていたものと解釈しないと成り立たぬのである。即ち、ここで安田某は孔子の言に従っていると考えねばなるまい。とすれば、却ってこの「論語」の引用は、安田はその点では最低の孝信は持ってはいた、しかし、と続くと解釈出来る。即ち、本当に火急の出来事が出来(しゅったい)して、「實(まこと)の母」がやってきたのだった「ならば」、母を射てしまった「この人」には「如何に面(おも)なからん」、どうして人の子としての面目があるというのか?! いや! ない! 鬼畜そのものである! と非難しているのである。しかし、これは如何にもくどくどしくて退屈以外の何ものでもない。荻田は純粋な怪奇談では我慢出来ず、どうしても儒教的な説教に繋げないと気が済まなかった。即ち、最初に最後の一文「心あらん人、聞(きゝ)咎めずやあらん」ありき、なのである。だからつまらんのである。私は断然、「是、猫またか。」で終わらせるべきであったと考える人種である。

「事の急なるには、徒裸足(かちはだし)にも來べきをや」こんなことは言わずもがなのことだ。こんなことを書くから、絵師はサービスして絵の中の猫またの変じた贋母を裸足で描いてしまっているではないか! こういう風に挿絵が本文に無批判に従属してしまうのは、如何にもヤラセ臭く、私は嫌いである。しかし絵師もただ言われた通りには従わない。左上にはちゃっかり、どでかい猪が描いてある。ここはこの絵師に乾杯!!!

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 鼠婦(とびむし)


Tobimusi

とびむし   𧉅 鼠姑

       鼠粘 負蟠

鼠婦

       鼠負 地雞

       蜲𧑓 地虱

チユイ プウ 地雞 濕生蟲

 

綱目鼠婦多在下湿處甕噐底及土坎中形似衣魚稍大

灰色多足大者長三四分背有橫文蹙起鼠多在坎中背

粘負之故有諸名

△按鼠婦大二三分形似鰕而灰白色多足黒眼兩鬚長

又形似蚤無翅而能飛跳故俗稱飛蟲

治胞肉瘡【俗云目波知古又云物毛良比】使鼠婦血則蟲赤脹瘡隨

 

 

とびむし   𧉅〔(いゐ)〕 鼠姑

       鼠粘      負蟠〔(ふはん)〕

鼠婦

       鼠負      地雞〔(ちけい)〕

       蜲𧑓〔(いしよ)〕地虱〔(ちしつ)〕

チユイ プウ 地雞      濕生蟲

 

「綱目」、鼠婦は多く下湿の處、甕噐〔(ようき)〕の底及び土坎〔(どかん)〕の中に在り。形、衣魚(しみ)に似て、稍〔(やや)〕大、灰色、多き足。大なる者、長さ三、四分。背に橫文有り。蹙(ちゞ)み起(た)つ。鼠、多く坎中〔(かんちゆう)に〕在り、背、粘〔(ねん)〕にして之れを負ふ。故に諸名有り。

△按ずるに、鼠婦、大いさ二、三分。形、鰕(えび)に似て、灰白色。多き足。黒眼。兩の鬚〔(ひげ)〕、長く、又、形、蚤に似、翅〔(はね)〕、無し。能く飛〔び〕跳〔ねり〕。故に俗、「飛蟲(とびむし)」と稱す。

胞肉瘡(めばちこ)を治す【俗に云ふ、「目波知古〔(めばちこ)〕」、又、云ふ、「物毛良比〔(ものもらひ)〕」。】鼠婦を〔して〕其の血を〔(す)〕はして、則ち、蟲、赤く脹れ、瘡、隨ひて愈ゆ。

 

[やぶちゃん注:この概ねの叙述は、

節足動物門六脚上綱 Hexapoda 内顎綱 Entognatha 粘管(トビムシ)目 Collembola のトビムシ類

の特徴とよく合致している。普通に我々の生活圏内に棲息するのであるが、小さい(殆んどの種は二~三ミリを標準に五ミリメートル以下)ためにあまり馴染みないかも知れぬ(よく観察すれば、驚くほど身近に沢山いるのだが)ので、ウィキの「トビムシ目」から引いておく。まず、本種群は昆虫ではない。『内顎綱は昆虫に近縁でより原始的なグループで』、他にコムシ目コムシ目 Dipluraとカマアシムシ目 Protura が『含まれ、昆虫とあわせて六脚類を』成す。『特徴的な跳躍器でよく飛び跳ねるものが多いので、この名がある。森林土壌中では』一平方メートル当たり『数万個体と極めて高い密度に達する』。『基本的な構造には昆虫と共通する点が多いが、跳躍器や粘管などの独特の器官をもち、触角に筋肉があるなど特異な特徴を備えている』。『様々な形のものがあり、例外は多いが、一般には一対の長い触角を持ち、体は細長く、胸部』の三節には各一対で計三対の足を有する。『これらの点は、昆虫の標準的な構造である。特殊な点としては、通常の昆虫では腹部に』十一『の体節があるのに対して、トビムシでは』六『節のみしかない。また』、『腹部下面にはこの目の旧名の元になった腹管(粘管)という管状の器官がある。これは体内の浸透圧を調整する機能を持つといわれている。また、腹部』の第四節には二股(ふたまた:二叉(にさ))になった『棒状の器官がある。この器官は叉状器(または跳躍器)と呼ばれ、普段は腹部下面に寄せられ、腹面にある保持器によって引っかけられている。捕食者などに遭遇した際にはこの叉状器が筋肉の収縮により後方へと勢いよく振り出され、大きく跳躍して逃げることができる』。世界では三千種以上が記載されており、本邦では全十四科百三属約三百六十種が『報告されている。分類は形態的特長によって行われている』(以下、科別の特徴が記されるが、省略する)。トビムシ類は『変態せず、脱皮を繰り返して成長する。成熟後も脱皮を繰り返す』。『基本的には交接は行わず、雄は土の表面に精包を置き、雌がそれを拾い上げることで受精が行われる』。一部にはが触角を使用しての触角を摑み、後脚を用いて、直接、精包を受け渡す種もあり、さらには『また、交尾を経ないで繁殖する単為生殖を行う種が知られており、深層性の生活を行うものに多くみられる』とある。『乾燥に弱く、水湿地や土壌などに生息する。特に土壌中に生息するものが多く、土壌中の個体数はササラダニ』(節足動物門鋏角亜門クモ綱ダニ目隠気門(ササラダニ)亜目 Oribatida に属するダニの総称。ダニ類ではあるが、土壌中で腐植を餌としており、体は固く、昆虫の甲虫類のような姿をしている。地上で最も数が多い節足動物の一つで、体長は大きいものでも二ミリメートルまでで、小型の種では〇・五ミリメートル以下のものもいる)『と並んで節足動物では最も数が多いものである。まれに畑地などに大発生し、辺り一面を埋め尽くして人を驚かす種がある。ほかに、海岸・洞穴・アリの巣に住むものもある』。『北アメリカにはある種のシロアリの兵アリの頭の上に住み、兵アリが働きアリから餌をもらう時』、それを脇から掠め取って『食べるトビムシが知られている』。『食性は多くの種が雑食で、落ち葉や腐植を中心に食べるものが多く、真菌の菌糸や胞子・バクテリア・藻類・花粉・線虫なども摂食することが報告されている』(以上、下線やぶちゃん)。『ある種のトビムシは、雪解けの時期に大発生をするものがあり、ユキノミと呼ばれる。場合によっては数メートルにわたって雪の表面が真っ黒になり、窪みにたまったトビムシはスプーンですくえるほどになる』。『トビムシ目は森林林床などの堆積腐植層において、有機物の分解過程の重要な構成要素となっている。土壌分解系において有機物を摂食するが、実際には、一緒に摂食している微生物(主に真菌)を経由して主要なエネルギーを得ている二次分解者にあたる。排泄された糞粒を培地にして再び微生物が繁殖するため、微生物はトビムシ(やササラダニ)により摂食されても容易に現存量は減少せず、むしろトビムシにより土壌分解系の回転が促進される。このプロセスを通じて植物遺体の砕片化と無機化が進行する』とある。

 気になるのは、最後に書かれた処方で、これは上の下線部から、トビムシ類に吸血性の寄生性の種がいないと思われることから、明らかに吸血性のダニ類であってトビムシではないと断言出来る。「鼠婦」などという名や、盛んに鼠に附着しているとする点から、これは、ネズミに寄生し、しかもヒトにも寄生して吸血するダニ目オオサシダニ科イエダニ Ornithonyssus bacoti との混同した認識が中国の本草草書以来、ずっと続いていたものと考えられる。なお、イエダニは各種の線虫・病原菌・リケッチア・ウイルスなどのベクターであり、中には死に到る感染症も含まれる極めて危険な種であるから、この吸血処方(そもそもが「ものもらい」(後述)は吸血させても治らぬわい!)非常に危険がアブナい

・「地雞」の異名がダブっている表示されているのはママ。

・「甕噐〔(ようき)〕」瓶(かめ)。

・「土坎〔(どかん)〕」地面の穴。

・「衣魚(しみ)」項目として既出既注

・「長さ三、四分」全長九ミリから一センチ二ミリ。これは現在知られるトビムシ類の中では稀な大きな種であるが、これ以上小さな同類の種群は当時の技術では確認し難かったこと、それらの形態の類似性(実はトビムシの形態は種によってかなり異なるようである)を観察出来なかったことから、それより小さなトビムシ類を同一の種類であるとは認識出来なかったと考えれば、別段おかしくなく、納得も出来る。

・「橫文」体節のことをかく言っている。

・「蹙(ちゞ)み起(た)つ」体を縮ませ(たように見せ)て跳躍する。上記の下線部を参照のこと。

・「鼠、多く坎中〔(かんちゆう)に〕在り、背、粘〔(ねん)〕にして之れを負ふ」先に指摘した通り、これはトビムシ類ではなく、イエダニ Ornithonyssus bacoti を誤認し、しかも混同したものと考える。この全く異なった二つの生物種を混同誤認してしまったからこそ「故に諸名有り」なのではないか? 大方の御叱正を俟つ。

・「二、三分」六~九ミリメートル。下は現行のトビムシ類の標準全長の上限に近い。

・「鰕(えび)に似」実際に小さなエビに似ていると私も思う。

・「飛〔び〕跳〔ねり〕」「飛跳(ひてう)す」と音読みしているかも知れぬ。

・「胞肉瘡(めばちこ)」「目波知古〔(めばちこ)〕」「物毛良比〔(ものもらひ)〕」所謂、「ものもらい」、瞼(まぶた)に発生する小さな腫れ物、麦粒腫のこと。眼瞼の脂腺や汗腺に細菌が感染して起こる急性化膿性炎症。]

2017/07/14

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 䗪(おめむし)〔ワラジムシ〕


Omemusi

おめむし   地鼈 土鼈

       虵蜱 蚵

【音祖】

       簸箕蟲 過街

ツヲヽ    【和名於女無之】

 

綱目䗪生川澤及沙中人家墻壁下濕處其形扁如鼈有

甲不能飛少有臭氣又狀似鼠婦大者寸餘小兒多捕以

負物爲戯此蟲逢申日則過街故名過街又與燈蛾相牝

牡矣䗪【鹹寒有毒】爲折傷接骨秘藥【方出本綱附方】

△按字彙䗪【一名鼠婦】和名抄䗪【一名𧉅】共爲鼠婦者誤也

 

 

おめむし   地鼈〔(ちべつ)〕   土鼈

       虵蜱〔(しやひ)〕   蚵〔(かひ)〕

【音、祖〔(シヤ)〕。】

       簸箕蟲〔(はきちゆう)〕 過街

ツヲヲ    【和名、於女無之。】

 

「綱目」、䗪は川・澤及び沙中・人家墻壁の下〔の〕濕處に生ず。其の形、扁に〔して〕鼈のごとし。甲、有りて、飛ぶ能はず。少し臭(くさ)き氣(かざ)有り。又、狀、鼠婦に似て、大なる者、寸餘。小兒、多〔く〕、捕(とら)へて、物を負ふを以つて戯〔(たはぶ)〕れと爲す。此の蟲、申の日に逢へば、則ち、街を過ぐ。故に「過街」と名づく。又、燈蛾と相ひ牝牡〔(ひんぼ)〕す。䗪【鹹、寒。毒有り。】、折傷(うちみ)・接骨(ほねつぎ)の秘藥と爲す【方、「本綱」の「附方」に出づ。】。

△按ずるに、「字彙」に、『䗪【一名、鼠婦。】』。「和名抄」、『䗪は【一名、𧉅〔(いゐ)〕】』〔として〕共に「鼠婦」と爲すは誤りなり。

 

[やぶちゃん注:幾つかの問題点があるが、結論を言うと、本文で扁平であるとすること挿絵に描かれた個体群の確かに扁平に見える体部と有意に長い触角、及び、「鼠婦」(本書の事項が「鼠婦」で「とびむし」と和訓している)なるものに似ているとしつつも、本文にはどこにも刺激を加えると丸くなるという叙述が出現しないことから、ここはまず、第一同定候補として、

節足動物門 Arthropoda 甲殻亜門 Crustacea 軟甲(エビ)綱Malacostraca 真軟甲亜綱 Eumalacostraca フクロエビ上目 Peracarida 等脚(ワラジムシ)目Isopoda ワラジムシ亜目 Oniscidea Ligiamorpha 下目 Armadilloidea 上科ワラジムシ科 Porcellionidae Porcellio属ワラジムシ Porcellio scaber

を挙げるべきと考える。以下、ウィキの「ワラジムシ」を全面引用すると、『ワラジムシ(草鞋虫、鼠姑、蟠)は』ワラジムシ科 Porcellionidae『に属する動物の一種のこと、あるいはワラジムシ亜目のかなりの種を総称する呼び名である』が、狭義の種としてのワラジムシ Porcellio scaber は体長十二ミリメートル程で、『人家周辺の石の下や草の間の地面に普通に見られる。体は灰色がかった褐色、上から見ると楕円形で、ダンゴムシとは異なり』、『前後が狭まる。また、背中はなだらかに盛り上がるだけで、やや扁平な動物である』。『体は頭部と胸部、腹部に分かれ、頭部からはやや発達した第』二『触角が伸びる。胸部は体の八割ほどを占め』、七『対の体節と付属肢が確認できる。腹部は幅狭く、末端には尾肢が一対、短い角のように突き出る』。『ヨーロッパ原産で、世界各地に広がり、日本では本州中部以北および沖縄に見つかっている。近似種も多い』。以下、「広義のワラジムシ」の項、『広義のワラジムシは、この属や科だけでなく、ワラジムシ亜目ほぼすべてを含んで』呼称されていると考えねばならない。同亜目は科としてフナムシ科 Ligiidae・ナガワラジムシ科 Trichoniscidae・ヒゲナガワラジムシ科 Olibrinidae・ウミベワラジムシ科 Scypacidae・ヒメワラジムシ科 Philosciidae・ホンワラジムシ科 Oniscidae・ハヤシワラジムシ)科 Trachelipidae・ワラジムシ科 Porcellionidae・オカダンゴムシ科 Armadillidiidae・ハマダンゴムシ科 Tyloidae・コシビロダンゴムシ科 Armadillidae を立てるが、この中には、現行では我々が一般には「ワラジムシ」とは呼ばないフナムシ科に海岸でよく見る「舟虫」(フナムシ類)が含まれ、また、最後のオカダンゴムシ科 Armadillidiidae・ハマダンゴムシ科 Tyloidae・コシビロダンゴムシ科 Armadillidae の三科には、所謂、現行で我々が「団子虫」(ダンゴムシ)と呼んでいるあの種群が含まれている。ウィキはここで『それ以外のものはすべて「ワラジムシ」の呼称で呼ばれている。むしろワラジムシ相(動物相の一部としての)と言えば、ダンゴムシなども当然含まれているものとして扱われることが多い』と述べている通り、実は我々のうちの多くは、狭義の「草鞋虫」(ワラジムシ類)と狭義の「団子虫」(ダンゴムシ類)をかなり高い確率で一緒くたにして、同じ種とさえ考えている可能性が高い(ワラジムシをダンゴムシの子どもと考えている者、ワラジムシを盛んに突いて「このダンゴムシ、団子にならねえ」という成人を私はしばしば見かけた。なお、私はこの混同は実は本著者である寺島良安も免れていないのではないかと考えている。ワラジムシは現在、世界で約千五百種が知られ、本邦でも百種ほどが『知られていると言うが、実際には』四百『種あるかもとも言われている』。一九八〇『年代くらいまでほとんど手つかずであった研究が現在は進行しており、多くの新種が確認されつつある』とある。

 ただ、本書を大観してみても実は我々に馴染み深い、かの「団子虫」は記載がない(次の「鼠婦(とびむし)」は図はそれらしいが、本文によく飛ぶとある点で決定的に違う)。さすれば、先に私が太字下線で示した通り、ここには、

ワラジムシ亜目のオカダンゴムシ科 Armadillidiidae オカダンゴムシ属オカダンゴムシ Armadillidium vulgare 及びハナダカダンゴムシ Armadillidium nasatum

及び、海岸線の特に砂浜に見られる、やや大型の、

ハマダンゴムシ科 Tylidae ハマダンゴムシ属ハマダンゴムシ Tylos Granulatus

と、森林の土壌を好む、やや小型の、

コシビロダンゴムシ科 Armadillidae コシビロダンゴムシ属 Sphaerillo のコシビロダンゴムシ類(本属は参照したウィキの「ダンゴムシ」によれば、『研究がほとんど進んでおらず、どれだけ種類があるのかさえよくわかっていない。コシビロダンゴムシよりは分類研究が進んでいるワラジムシでも、新種が次々に出ている現状から推しても、コシビロダンゴムシにもかなりの種数が存在する可能性が』高いとある)

をも同定候補として加えければならぬように思われるのである。なお、同ウィキによれば、『オカダンゴムシが多分』、『ヨーロッパ原産の帰化動物であるのに対して、これらは土着種である』とある。このオカダンゴムシの帰化時期が何時なのか判らぬが、或いは、江戸時代(本書は江戸中期の正徳二(一七一二)年自序)には侵入していなかったとするならば、特徴的な反応をする「団子虫」が書かれていないは腑に落ちる。丸くなる習性は博物学者なら絶対に記載せずにはおかぬからである。因みに、ウィキの「オカダンゴムシ」によれば、『オカダンゴムシは、元々、日本には生息していなかったが、明治時代に船の積荷に乗ってやってきたという説が有力である。日本にはもともと、コシビロダンゴムシという土着のダンゴムシがいたが、コシビロダンゴムシはオカダンゴムシより乾燥に弱く、森林でしか生きられないため、人家周辺はオカダンゴムシが広まっていった』と記されているのである(太字下線はやぶちゃん)。

 なお、「日本国語大辞典」では「おめむし」の項があり、はっきりと『「わらじむし」(草鞋虫)の異名』と記してある。そして、語源としては「大言海」の『オメムシ(怖虫)の義。席を叩けば怖れて止まるためにこの名がつけられた』という説、「名言通」の『ノミムシの転』の二つが示されてある。

・「䗪【音、祖〔(シヤ)〕。】」「祖」の音(読み)は東洋文庫版に従った。「䗪」は音「シヤ」で、「祖」は現行では「ソ」しか一般に知られていないが、「廣漢和辭典」によれば、中国の固有県名を現わす際の特殊なケースで「シヤ」の音がある。但し、実はこの「䗪」にこそ大きな問題があるのである。何故なら、この字は現行の中文や漢方では、かのゴキブリ類(節足動物門 Arthropoda昆虫綱 Insectaゴキブリ目 Blattodea)を指すからである。中文漢方サイトを探った限りでは、Corydiidae Eupolyphaga Eupolyphaga sinensis(「シナゴキブリと和名する本邦の記載があるが、「シナ」は最早、現行ではまずいだろう)か、或いはオオゴキブリ亜目 Blaberoidea ムカシゴキブリ科 Polyphagidae の種のように読める。そして、ゴキブリという観点から、ここに出る異名「地鼈」「土鼈」「虵蜱」(蛇の婢(はしため)の謂いか?)「簸箕蟲」(「簸箕」は竹製の箕(みの))「過街」という文字列を眺めていると、何だか、これらは「草鞋虫」なんかじゃない、クチクラ層の結構堅くて、それなりに大きなゴキブリ(事実、上に示した二種類はそんな感じ)に見えてこないだろうか? 大方の御叱正を俟つ。

・「地鼈」「土鼈」「鼈のごとし」「鼈」は亀のスッポンのこと。

・「墻壁」土壁。土塀。

・「鼠婦」前に述べた通り、次項で出るので、そこで同定したいが、「鼠婦(ソフ)」は漢方ではまさにArmadilloidea 上科ワラジムシ科 Porcellionidae のダンゴムシ類を指すのであるが、次項では和名を「とびむし」(飛虫)とし、実際に跳躍するとあることから、これは節足動物門六脚上綱 Hexapoda 内顎綱 Entognatha トビムシ目 Collembola のトビムシ類に比定するのが穏当のように思われ、実に悩ましいのである。

・「大なる者、寸餘」この大きさはゴキブリではない。

『此の蟲、申の日に逢へば、則ち、街を過ぐ。故に「過街」と名づく』「本草綱目」の「䗪」に「時珍曰、按、陸農師云、『逢申日則過街、故名過街。』とあるが、陰陽五行説に基づく、生態とは無関係な妄言である。

・「燈蛾と相ひ牝牡〔(ひんぼ)〕す」「本草綱目」の「䗪」の「釋名」に、時珍の言として「與燈蛾相牝牡」と出るが、灯火に寄ってくる蛾(ガ)の類と雄雌の関係にあるというトンデモ説である。

・『方、「本綱」の「附方」に出づ』「本草綱目」の「䗪」の「附方」に、

   *

下瘀血湯、治婦腹痛有乾血。

用 蟲二十枚【熬、去足】、桃仁二十枚、大黃二兩、爲末、煉蜜杵和、分爲四丸。每以一丸、酒一升、煮取八合、溫服、當下血也。【張仲景方】

木舌腫強、塞口、不治殺人。 蟲【炙】五枚、食鹽半兩、爲末。水二盞、煎十沸、時時熱含吐涎。瘥乃止。重舌塞痛、地鱉蟲和生薄荷研汁、帛包捻舌下腫處。一名地蜱蟲也。【鮑氏方】

腹痛夜啼、蟲【炙】、芍藥、芎、各二錢。爲末。每用一字、乳汁調下。【「聖惠方」】

折傷接骨、楊拱「摘要方」、用土鱉焙存性、爲末。每服二、三錢、接骨神效。一方、生者擂汁酒服。「袖珍方」、用蚵【卽土鱉】六錢【隔、醋淬七次】、爲末。每服二錢、溫酒調下。病在上食後、病在下食前、神效。董炳「集驗方」、用土鱉【陰乾】一個麝香少許爲末。每傳秘方、慎之。又可代杖。

   *

とある。

・「字彙」明代の一六一五年に梅膺祚(ばいようそ)によって編纂された漢字字典。全十四巻に三万三千百七十九字を収める。ウィキの「によれば、『現在の画数順に』二百十四の『部首を並べる形は、『字彙』によって初めて行われた。『字彙』は部首の配列順及びその部首に属する漢字の配列順をすべて画数順とした画期的な字書である。本書の出現によって字書による漢字の検索は以前に比べて極めて容易になった。この方式はその後、『正字通』『康熙字典』に受け継がれ、現在の日本の漢和辞典の大半はこの方式を元にして漢字を配列している』とある。

・「𧉅〔(いゐ)〕」現行の辞書類でもこれを前の「鼠婦」とともにワラジムシ(草鞋虫)やダンゴムシ(団子虫)の類の別名としており、良安はこれを敢然と誤りだと言っているのである。]

2017/07/13

宿直草卷三 第十五 鼠、人を喰ふ事 / 卷三~了

 

  第十五 鼠、人を喰(く)ふ事

 

 津の國多田の庄の者、心地あしくて臥すに、大(おほい)なる鼠、來(き)て、足の裏を嚙(か)ぶる。追(をへ)ども逃(にげ)ずして終(つひ)に打ち殺す。又、餘(よ)の鼠、來て、喰らふ。これも殺すに、殺せども殺せども、來り來りて、さらに鼠、盡きず。

 後(のち)は、猫を多く置けども、十(とを)や十五こそ猫も獲らめ、日に三十、四十、五十程なれば、如何ともしがたし。

 番して守れども來(き)、松板(まついた)にて圍みぬれど、板喰らい拔いて來る。後には、鼠、數(かず)增して食らひければ、此者、遂に、まかれり。例(ためし)、稀れにこそ侍れ。

 ある席(むしろ)にて語れば、

「それは癩氣(らいき)ありて、鼠の付きてこそさふらはめ。凡そ思ふに、鼠にはあらで病(やまひ)なり。大坂龍城の年、船場(せんば)南の御堂(みだう)の門前に乞食(こつじき)あり。かなしき身さへ佗しきに、あまさへ、癩氣なり。ある夜、鼬(いたち)ほどなる鼠、足の腓(こぶら)を、したゝかに喰らふ。それより、ひたもの、多く來(く)る。手木(てぎ)を拵へ、殺せども、白(しら)まず。一夜に二、三十殺されても、猶、來る。寺家(じけ)の人々も不憫(ふびん)の者にして、六尺に、四尺に、松板をもて番屋ほどのことして勞(いたは)れど、この板も喰い拔きて來(く)る。さらばとて、屋敷のうち、あのもこのもに所を替(か)ゆれ共、その甲斐もなくなく、喰らひ殺せり。」

と云へり。

 數のまかり樣(やう)こそあるに、かゝる有樣、大方(おほかた)の因果なり。

 知らず、誰(た)が身の上に如何なる災いに遭ふべきを。たゞ、一(いつ)の煙の種(たね)なりし身の、永(なが)らへなんほどばかり、物狂(ものぐる)ほしきなけれ。

 

[やぶちゃん注:「津の國多田」岩波文庫版の高田氏の注では、『現在の兵庫県川西市多田院のあたり』とする。(グーグル・マップ・データ)。

「癩」現在はハンセン病と呼称せねばならない。抗酸菌(マイコバクテリウム属Mycobacteriumに属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種であるらい菌(Mycobacterium leprae)の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、洋の東西を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見の中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法らい予防法が廃止されてもそれは終わっていない)。歴史的に差別感を強く示す「癩病」という呼称の使用は解消されるべきと私は考えるが、何故か菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。ハンセン菌でよい(但し、私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように言葉狩りをしても意識の変革なしに差別はなくならない)。ここはその「癩」病の「氣」(かざ:気配)を鼠が恐ろしく敏感に嗅ぎつけて襲来するのに違いないと言っている。即ち、それは鼠が襲おうと思ってやってくるのではなく、そうした「癩」の「病」いが原因なのだと、判ったようなことを言っているのである。

「船場(せんば)」現在の大阪府大阪市中央区西側に残る地域名。河川と人工の堀川に囲まれていた四角形の地域で、範囲は東端が東横堀川、西端が西横堀川(埋立られて現存せず)、南端が長堀川(同前)、北端が土佐堀川で限られた東西一キロメートル、南北二キロメートルの区画に相当する。江戸時大坂の町人文化の中心となったところで、現在に至るまで大坂の商業中心地区である。附近(グーグル・マップ・データ)。

「南の御堂(みだう)の門前」現在の御堂筋にある南御堂(東本願寺難波別院)。(グーグル・マップ・データ)。ここの東からその南一帯が船場。

「腓(こぶら)」腓(こむら)。

「ひたもの」既注。副詞で「一途に・只管(ひたすら)・矢鱈(やたら)と」の意。

「手木(てぎ)」短い棒。

「白(しら)まず」一向に鼠襲来の勢いが収まらない。

「番屋ほどのことして」鼠を防禦用の柵や、撃退するために見張りするための番屋ほどの仮小屋まで作って。

「屋敷のうち、あのもこのもに所を替(か)ゆれ共」かく言っているところから見て、恐らくは南御堂東本願寺の、この地区に住まう信者らが日を変えてはこのハンセン病の乞食を預って、屋敷や長屋の内に避難させていたことが読み取れる。

「そ甲斐もなくなく」「なく」のダブりはママ(原典では踊り字「〱」)。私はまず見かけたことはないが、一種の強調形か。

「數のまかり樣(やう)こそあるに」襲ってくるさま、その鼠の数の異様な多さが、これ、尋常ではなく、自然の偶発的大発生や鼠の生態や習性では説明出来ないからこそ。これはまさに「大方(おほかた)の因果な」のだ、というのである。荻田の言わんとする実に忌まわしい(間違えては困るが、荻田が、である)ところが見えた。彼も所詮、ハンセン病を業病としてしか捉えていないのである。私は寧ろ、このハンセン病に罹患した乞食を何とか鼠の害から救おうと努力した人々をこそ忘れない。

「たゞ、一(いつ)の煙の種(たね)なりし身の、永(なが)らへなんほどばかり、物狂(ものぐる)ほしきなけれ」どうも気に入らないね、荻田よ、あんたは長生きも望まず、長生きもしなかったのかね? あんたがここで確信犯で下敷きにした(「鳥部山の烟」「物ぐるほし」)「徒然草」を書いたあの兼好はどれだけ長生きしたかよう知っておろうほどに(満六十九か六十七ほど)。]

譚海 卷之二 奥州二本松人家杉引割ける中に人形ある事

○奧州二本松に所住の百姓某なるものの門前に、榎の木一もとあり。五六百年のものにて十圍(かかへ)に及べり。此百姓徴祿に成(なり)、此樹を伐(きり)たふし用に遣はんとす。杣人(そまびと)をやとひて伐らせける時、怪敷(あやしき)事ども有ければ杣人はいなみけれど、主人しひてたのみければ、終にきりたふし引(ひき)わりて見るに、片へらは朽(くち)て用にたゝず、片へらは生氣ありてその中に人の立(たち)たるかたちあり、さながら生(いき)たる如く、文理(もんり)鮮明にして鬢髮手足の掌のすぢまで分明に有(あり)ければ、主人もおそれて用に遣はず、家に祕しをさめて今に所持せり、正しく見たる人の物語也。

[やぶちゃん注:「奥州二本松」現在の福島県中通りの北に位置する二本松市。市の最西端に安達太良山(あだたらやま)が、中央部を鈎型に阿武隈川が縦断する。(グーグル・マップ・データ)。

「人形」「ひとがた」。木目にある染みのシミュラクラ。

「五六百年」本書刊行(寛政七(一七九五)年自序)時から機械的に換算すると、建久六(一一九五)年~永仁三(一二九五)年で、前は鎌倉幕府第一代将軍源頼朝が征夷大になり鎌倉幕府を開いたとされる年から二年後で、後ろは第八代将軍久明親王で執権は第九代北条貞時の頃となる。

「十圍」人体尺の両腕幅に相当する「比呂」(一比呂は百五十一・五センチメートル)で換算すると十五メートル十五センチ。

「片へら」「傍片(かたへら)」は対で一つとなっている対象物の一方。片方。かたっぺら。]

譚海 卷之二 同國相馬文内事

○又同國藤ケ谷(ふじがや)村といふ所に、相馬文内といふ郷士あり。平の將門の子孫にて、相馬家へも親類にて往來す。その家に所持の幕、つなぎ馬の紋なるものは將門より傳來せるもの也。公儀よりも指上(さしあげ)候樣に命ありし處、一石にても御知行頂戴仕候はば差上申べく候、此より外に家の系譜無ㇾ之(これなき)候よし申立(まうしたて)、その事止(やみ)たりとぞ。此幕土用干せし折節、地頭そのそばを馬上にて通(とほり)たるに落馬せしとぞ。

[やぶちゃん注:「同國藤ケ谷村」同じくまたまた前話の続き。現在の千葉県柏市藤ケ谷か。(グーグル・マップ・データ)。

「相馬文内」不詳ながら、「ぶんない」と読んでおく。但し、柏市公式サイト内の将門伝説と相馬氏によれば、現在の柏市を含んだ中世の旧相馬郡を支配した相馬氏は、将門の子孫であるという伝承は良く知られているとある。相馬氏は下総国北西部(現在の千葉県北西部)及びその後に陸奥国南東部(現在の浜通り夜ノ森以北)を領した豪族で、始祖は桓武平氏良文流千葉氏庶流であった相馬師常。鎌倉初期の名武将千葉常胤の次男で父から相馬郡相馬御厨(みくり:現在の千葉県北西部の松戸から我孫子にかけての一帯)を相続したことに始まる。

「つなぎ馬の紋」杭に繫いだ馬を紋所として形象化したもの。相殿に将門を祀る東京都千代田区九段北にある神社築土(つくど)神社の公式サイト内の(6)将門の繋ぎ馬(つなぎうま)を参照されたい。将門が使用したという「繋ぎ馬」を描いた陣幕の画像もある。]

譚海 卷之二 同國宿運寺古錢土中より掘出せし事幷小金原三度栗の事

 

○同國宿運寺といふ村の堤をこぼちたる時、古錢七貫文程出たり、皆古代の錢也、是も同じ比の事也。又同國こがねがはらに三たび栗と云(いふ)樹あり、豐年に二三度みのる、實は小き栗なり、風味甚(はなはだ)美也とぞ。

[やぶちゃん注:「同國」前の下總國利根川水中に住居せし男の事を受ける。

「宿運寺」不詳。情報が少な過ぎて、比定候補も出せない。但し、後注「こがねはら」を参照のこと。

「七貫文」本書の成立は江戸後期(寛政七(一七九五)年自序)で、当時、例えば少し後に出る万延小判一両は十貫文で、ネットの信頼出来る換算サイトで現在の六万六千円相当でるから、四万六千二百円相当となるが、使用出来そうもない古代銭なので、実換算価値は半分以下か。或いは江戸の好事の蒐集家はもっとずっとずっと高額で買い取ったかも知れぬ。

「是も同じ比の事也」やはり前話を受けるから、安永年間(一七七二年から一七八〇年まで)。第十代将軍徳川家治の治世。

「こがねはら」現在の千葉県松戸市小金原であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。この記事を並置するからには、前の「宿運寺」なるものもこの近くにあると考えてよいであろう。

「三度栗」天津甘栗で知られるブナ目ブナ科クリ属シナグリ Castanea mollissimaの一品種Castanea mollissima cv.cultivarラテン語:クルティヴァール:品種)らしい。花は五月からずっと咲き続け、新しく伸びた枝先には必ず花を咲かせ、枝が伸びている間はずっと花が見られ、雌花が出れば結実し続ける。通常の栗の木が実を落としてしまった後もずっと栗の実をつけていることなどから、年に三度も実をつけるとされて「三度栗」と呼ばれ、これに関する諸伝説が各地に残る(主に弘法大師伝承絡みが多い)。ウィキの「三度を参照されたい。]

宿直草卷三 第十四 虱の憤り、人を殺せし事

 

  第十四 虱の憤り、人を殺せし事

 

 さる高家(かうけ)の内に、中居(なかゐ)の役(やく)する人、江戸へ詰めけるが、ある時、身、痒かりければ、手やりて見るに半風(しらみ)なり。大きに驚きて、

「まだあるか。」

と尋れども、移りし分際(ぶんざい)なれば、最早、見えず。一寸四方の紙に包み、

「干死(ひじに)になれ。」

とて、臺所の柱に、割目の有しに押し込み、役義勤めて、國へ下る。

 三年過(すぎ)て、又、當番の年、下りて勤む。かの柱にて思ひ出し見るに、例(れい)の紙、包みしまゝに、やはり、あり。やがて取出(とりだ)して見るに、かの虱、紙ほど薄くなりて有(あり)。

「さてさて、腐りもせで居(お)る事よ。」

と見るに、あまさへ、まだ死なず。手を打(うち)て、

「これはこれは。皆々、見給へ。去々年(おとゝし)移りし虱の、今見るに、まだ、死なぬ事よ。珍しきにあらずや。」

と、掌(たなごゝろ)に据へて、あちこち見する内に、かの虱、尻を上げて、いぢいぢとして手の内を喰らふ。

「やれやれ、物喰(ものく)い機嫌か。」

と侮りしが、痒くしたるかりければ、

「いやいや、和御前(わごぜ)に喰はれて何かせん。」

と、外(そと)へ放(はふ)らかしゝが、其喰(く)いし跡、漸々(ぜんぜん)に大きくなり、色々、療治せしが、遂に癒えず、そこより腐りて、死せりとなり。

 これを思ふに、虱は毒にて、身にあれば喰らはれし所、腐りて、なべて死するかと思へば、さは、なし。かの祇園林(ぎをんはやし)の草枕、村雨(むらさめ)そほる起き臥しに、濡れみ濡れずみ破(やれ)衣(ぎぬ)に、湧くか移るか、さらに半風(しらみ)の數へがたきも、つらき命の生き過(すぎ)て、面桶(めんつ)の曲げて世を渡り、割御器(われごき)の我あり顏のこもじも有けり。たゞこの人よ、三年(みとせ)過てふころしもあへぬ、其怨念のなすところか。蚤の息も天へ昇らば、小さき物と侮どるべからず。一思ひに死なば、かほど恨みはあらざらまし。

 總(すべ)て此(この)話のみか、派手な小歌に破(やぶ)れ菅笠(すげがさ)、さらに着もせず捨てもせぬ、曲(くね)り心の生煮へ人は、万(よろづ)につけて、をとましくこそ。

 

[やぶちゃん注:これは「古今著聞集」の「卷第二十 魚蟲禽獸」に載る「或る京上りの田舍人に白蟲仇を報ずる事」の焼き直しに過ぎない。以下に新潮日本古典集成版を参考に恣意的に正字化して示す。

   *

或る田舍人、京上りして侍りけるが、やどにて天道(てんたう)ぼこり[やぶちゃん注:日向ぼっこ。]してゐたりけるに、くびの程のかゆかりけるをさぐりたれば、大きなる白蟲(しらみ)の食つきたりけるなり。それを何となくて[やぶちゃん注:これといった理由もなくして。]、腰刀を拔きて、柱をすこしけづりかけて、其中にへしこめて、はたらかぬやうにをしおほひてけり。さて、このぬし、田舍へ下りぬ。

 次の年、のぼりて、また、このやどにとどまりぬ。ありし折りの柱を見て、

「さてもこの中にへしいれし白蟲、いかがなりぬらん。」

と、おぼつかなくて[やぶちゃん注:気になって。]、けづりかけたる所を、ひきあけて見れば、白蟲の、み[やぶちゃん注:肉身。]もなくて、やせがれて、いまだあり。死にたるかと見れば、猶、はたらきけり。ふしぎにおぼえて、おのがかひな[やぶちゃん注:腕。]に置きて見れば、やをらづつはたらきて、かひなにくひつきぬ。いとかゆくおぼしけれども、いまだ生きたるがむざんさに[やぶちゃん注:不憫さ故に。]、

「事のやう見ん。」

とて、猶、くはせをりけるほどに、しだいにくひて、身あかみける折り、はらひすててけり。そのはひたる跡、あさましくかゆくて、かきゐたりけるほどに、やがてはれて、いく程もなきおびただしき瘡(かさ)になりにけり。とかく療治すれども、かなはず。つひにそれをわづらひて死ににけり。白蟲は下﨟(げらふ)などは、なべてみな持ちたれども、いつかはそのくひたるあと、かゝる事ある[やぶちゃん注:きっぱりとした反語である。]。これは去年よりへしつめられてすぐしたる思ひ通りて、かく侍りけるにや。あからさまにも、あどなき事[やぶちゃん注:子ども染みた悪戯。]をば、すまじき事なり。

   *

「虱」ここは昆虫綱咀顎目シラミ亜目 Anoplura に属するもののうち、ヒト寄生性のヒトジラミ科ヒトジラミ属ヒトジラミ(Pediculus humanus:アタマジラミ Pediculus humanus humanus とコロモジラミ Pediculus humanus corporis の二亜種。但し、両者を独立種とする説もある)及び、陰部に特異的に寄生するシラミ亜目ケジラミ科ケジラミ属ケジラミ Phthirus pubis の二種の孰れかである。主人公が最初に自分の体のどこから採取したかが書かれていないので同定は不能であるが、たまたま体に移ったという表現が繰り返され、他の寄生個体が全く見られないところからは、ケジラミの可能性はかなり低くなるように思う。また、人から離れた場合はヒトジラミで一週間程度、ケジラミはもっと短くて二日未満しか生きられないヒト寄生の依存度の高い寄生虫で、三年というのは絶対にあり得ない。また、最後にこの武士は咬み痕が腐って死んだとあり、荻田は「虱は毒」と断じつつも、「なべて死するかと思へば、さは、なし」とも言い添えてあるのであるが、ヒトジラミは発疹チフスの病原体(真正細菌プロテオバクテリア門αプロテオバクテリア綱リケッチア科リケッチア属発疹チフスリケッチア Rickettsia prowazekii)のベクターであり、本疾患は重症化すると、死に到る。特に高齢者の場合は死亡率が格段に高いので、強ち、これを絵空事とは言えない。なお、「古今著聞集」の原話の虱は首筋とあるから、明らかにヒトジラミであり、その症状も発疹チフスとよく一致しているように思われる。

「高家(かうけ)」広義には「由緒正しい家・名門」であるが、江戸幕府の職名でもあり、その場合、老中支配に属して主として儀式・典礼を掌り、伊勢・日光への代拝の他、特に京都への御使い・勅使接待などの朝廷との間の諸礼に当った家柄を指す。これは世襲で、足利氏以来の名家である吉良・武田・畠山などの諸氏が任ぜられた。ここは後者でとっておく。

「中居(なかゐ)の役」岩波文庫版の高田氏の注には、『屋敷の奥向きの取次ぎなどをする役』とある。

「半風(しらみ)」半風子(はんぷうし)とも称し、シラミの別名。「虱」を「風」の半分と見たところに由来する。

「移りし分際なれば」たまたまこの一個体が彼の体に移ってきたばかりのことであったので、繁殖もせず、外には見えなかった、というのである。

「やれやれ、物喰(ものく)い機嫌か。」「いやはや、そんな木乃伊のようなざまで拙者を嚙み喰わんとするかのう。」。

「痒くしたるかりければ」「痒くしたるべかりければ」の脱字か。この時、彼奴(きゃつ)が肌に噛み付いて痒くさせたらしいことに気がついたので。

「祇園林(ぎをんはやし)の草枕、村雨(むらさめ)そほる起き臥しに、濡れみ濡れずみ破(やれ)衣(ぎぬ)に」岩波文庫版の高田氏の注には、『遊女熊野が平宗盛に止められて何年も老母の待つ古郷に帰れず、都に滞在した話をさす。謡曲『熊野』による』とある。老婆心ながら、「熊野」は「ゆや」と読む。作者未詳。平宗盛の愛妾熊野が遠江国にいる病母のことを案じて暇を乞うも許されず、清水寺への花見の供をさせられるが、そこでにわかに降り出した村雨に桜花が散るのを見て熊野が「いかにせん都の春も惜しけれど馴れし東の花や散るらむ」という歌を詠じたのを、宗盛が哀れに思って帰郷を許すという筋立てである。小原隆夫氏のサイト内の宝生流謡曲「熊野」の詞章を参照されるとよく判る。柱に虱を意味もなく理不尽に封じ込めた武士の行為をそれに対称化したものであるが、どうも取って附けた何だかな風流という気が私にはする

「數へがたき」たった一匹であることを指すか。

「面桶(めんつ)」岩波文庫版の高田氏の注には、『檜の薄板を曲げて作った楕円形の食器。「曲げ」ということばを引き出す語』とある。

「割御器(われごき)」割れた木製食器のことか。これも「我」を引き出す語として使われている。

「我あり顏」こうしてこの世に我も立派に生きているという貧しい民草のことか。

「こもじ」岩波文庫版で高田氏は、『不詳。割れ目をふさぐ木の薄皮をいうか』とされておられるが、それでは序詞的な「割御器」がまた生き返ってしまうことになり、私は採れない。私はこれは女房詞の「こ文字」(「こ」で始まる語の伏字的言い換え)で「乞食」の謂いではあるまいかと考えている(「日本国語大辞典」にその意味が出る)。それなら、「我あり顔の」乞食で腑に落ちるからである

「三年(みとせ)過てふころしもあへぬ」ここは原典のままに表記したが、実は底本では、

 

 三年過てふ頃しもあへぬ

 

となっており、それに対して、同じ高田氏編の岩波文庫版本文では、

 

 三年過てふ殺しもあへぬ

 

となっている。私はここはその両意をここは掛けているのではないかと思っている。則ち、「あへぬ」は「敢へぬ」ですっかり殺し切ることもせずの謂いで、『三年もの、とんでもない長い時間が過ぎたという「頃」になって、何とまあ、「殺し」きることもせずに柱に封じこめおいた』(ものを憐れにも思うことなく、庭へ投げたという残酷な仕打ち)の謂いと採るものである。大方の御叱正を俟つ。

「派手な小歌に破(やぶ)れ菅笠(すげがさ)、さらに着もせず捨てもせぬ、曲(くね)り心の生煮へ人」これも何か、江戸初期に始まった巷の流行歌である端唄(はうた)の一節をもとにしているようには思われる。ともかくも、たかが虱とはいえ、生きとし生けるものとしては同類であるものに対し、かくも生かすわけでも殺すわけでもない、殺生の覚悟もさらさらなく、どっちつかずの曖昧な態度に基づく、いやさ、遊び心で以って、その虱を柱に封じ込めるという行動をとった「生煮へ人」である武士、その行為はまさに武士という品格に反するところの、正反対の厭らしい姿が同居をした、とんでもない奴であったということを言いたいのであろうと私は読む。ここも大方の御叱正を俟つ。

「をとましく」「うとましく」で、厭な感じの意。]

柴田宵曲 續妖異博物館 「金の龜」

 

 金の龜

 

 玄宗皇帝の時に或方士が一疋の龜を獻じた。直徑一寸ぐらゐの小さなものであるが、總身から金色の光りを放つてゐる。方士の言によると、この龜は何も食はぬが、枕の笥(はこ)にでも入れて置けば、大蛇の毒を避けることが出來るといふ話であつた。たまたま帝の寵を受けた臣下の一人が、何かの連累の罪を問はれて、南方に流竄(るざん)されることになり、帝としては赦してやりたく思はれたが、國家の法を枉(ま)げるわけに往かぬので、ふとこの龜のことを思ひ出して、びそかにこれを與へられた。聞けば南方には大蛇が多いさうな、これを常に身邊近く置いたらよからう、といふことで、その男は有難く頂戴して出發した。

[やぶちゃん注:「枕の笥(はこ)」常に寝台の枕元に置いて枕を収納する箱のことと解釈しておく。]

 

 象郡の或村に著いた時、彼の泊つた宿屋には一人の旅客もなく、ひつそり閑としづまり返つてゐた。その夜は晝のやうにいゝ月夜であつたに拘らず、雨風の聲が遠くに聞え、それがだんだん近付いて來る模樣なので、例の龜を出して階上に置いた。やゝ暫くして龜は首を伸ばし、冠の紐ぐらゐの氣を吐いたが、その氣は三四尺の高さに上り、徐々に散じて行つた。龜は一たび氣を吐いた後、安らかに休んで居り、風雨の聲も聞えなくなつた。この人は室内に在つて、これだけの事實を見たに過ぎなかつたが、夜が明けると驛の役人達がやつて來て意外な話を知らせた。昨日役人達がこの人を迎へに出る途中、あやまつて一疋の報冤蛇(はうえんだ)を殺した。今夜は必ず祟りを受けると覺悟して、附近の人々は三十里、五十里の遠方まで避難したが、役人達はさう遠くには行かず、近くにある山の中の岩穴に隱れて夜の明けるのを待つた。こゝにゐながら何事もなかつたのは、全く神助によるもので、人力の及ぶところでない、といふのである。やがて往來の人が相次いで到著する。その人達の話によると、來る道に大蛇が十數疋も糜爛(びらん)したやうになつて死んでゐる。これ以來報冤蛇の話は全く耳にしなくなつたが、どうして多くの蛇が一時に斃(たふ)れたか、その消息を知る者は一人もなかつた。一年ほどたつて南方流竄の臣も赦されて歸り、金の龜を皇帝に返上する際、彼は感泣して、自分の生命のみならず、南方一帶の人間が災害から救はれたのは、第一に聖德、第二に神龜の力による旨を奏上した(録異記)。

[やぶちゃん注:「象郡」(ぞうぐん)は秦及び漢代にかけて現在のベトナム北部から中部に置かれた郡であるが、この話柄内時制にあっても既に旧郡名で、ここは恐らくベトナム国境を越えたベトナム北部附近を指しているように思われる。中部(現在のベトナムのゲアン省)はこの頃、徳州となり、さらに驩(かん)州と改められた。六二八年には驩州都督府が置かれているが、ここは後に現在のハノイの安南都護府の管轄となっている。

「報冤蛇(はうえんだ)」「太平廣記」の「蛇一」に「報冤蛇」として「朝野僉載(ちょうやせんさい)」(既注)からの引用として『嶺南有報冤蛇、人觸之、卽三五里隨身卽至。若打殺一蛇、則百蛇相集。將蜈蚣自防、乃免』とある。岡本綺堂の「中国怪奇小説集」の「報寃蛇」によれば、「二尺ばかりの青い蛇」とあって大蛇ではない。しかし、その晩泊まった宿屋の亭主から、それに手出し(そこでは杖で撃っただけ)をしただけで、その毒気が人体に転移し、しかもその蛇本体が「百里の遠くまでも追って来て、かならず其の人の心(むね)を噬(か)」むと言われて恐懼する。旅人が「懼れて救いを求めると、主人は承知して、龕(がん)のなかに供えてある竹筒を取り出し、押し頂いて彼に授け」、「構わないから唯ただこれを枕もとにお置きなさい。夜通し燈火(あかり)をつけて、寝た振りをして待っていて、物音がきこえたらこの筒をお明けなさい」と忠告した。「その通りにして待っていると、果たして夜半に家根瓦のあいだで物音がきこえて、やがて何物か几(つくえ)の上に堕ちて来た。竹筒のなかでもそれに応(こた)えるように、がさがさいう音がきこえた。そこで、筒をひらくと、一尺ばかりの蜈蚣(むかで)が這い出して、旅人のからだを三度廻って、また直ぐに几の上に復(かえ)って、暫くして筒のなかに戻った。それと同時に、旅人は俄かに体力のすこやかになったのを覚えた」。「夜が明けて見ると、きのうの昼間に見た青い蛇がそこに斃(たお)れていた。旅人は主人の話の嘘でないことを初めてさとっ」たとある。岡本の同書「支那怪奇小説集」は所持するが、時間を節約するため、以上は「青空文庫を加工させて貰った。なお、この蛇、大きさと色からは実在する蛇がモデルではあろうが、中文サイトでも積極的に実際の種に比定する叙述は見当たらないようである。

「三十里、五十里」唐代の一里は五百五十九・八メートルしかないから、十七キロメートル弱から二十九キロメートル相当となる。

 以上は五代の蜀の道士杜光庭(八五〇年~九三三年)の撰になる志怪集「錄異記」の「卷五」に載る以下。

   *

明皇帝、嘗有方士獻一小龜、徑寸而金色可愛。云、「此龜神明而不食、可置之枕笥之中、辟巨蛇之毒。」。上常貯巾箱中、忽有小黃門、恩渥方深而爲骨肉所累、將竄南徽、不欲屈法免之、密授此龜。敕之曰、「南荒多巨蟒、常以龜置於側、可以無苦闔者。」。拜受而懷之。洎達象郡之屬邑、里市綰舍、悄然無一人。投宿于旅館、飮膳芻、豢燈燭、供具一無所闕。是夜、月明如晝、而有風雨之聲。其勢漸近、因出此龜、置於階上。良久、神龜伸頸吐氣、其大如艇直上、高三四尺、徐徐散去。已而龜遊息如常、向之風雨聲亦已絶矣。及明、驛吏稍稍而至、羅拜庭下、曰、「昨知天使將至、合備迎奉、適綠行旅、誤殺一蛇。衆知報冤、蛇必此夕爲害。側近居人、皆出三五十里外、避其毒氣。某等不敢遠去、止在近山巖穴之中、伏而待旦。今則天使無恙、乃神明所祐、非人力所及也。」。久之、行人漸至云、當道有巨蛇十數、皆已糜爛。自此無復報冤之物、人莫測其由。逾年、黃門應召歸長安、復以金龜進上、泣而謝曰、「不獨臣性命、賴此生全。南方之人、永祛毒類、所全人命、不知紀極、實聖德所及、神龜之力也。」。

   *

なお、宵曲の梗概はよく抑えてあるが、原文との比較対象のために、やはり岡本綺堂の「中国支那)怪奇小説集」の「青空文庫」版の「異亀」の載る頁をリンクさせておく。なお、岡本のそれは戦前の昭和一一(一九三六)年の刊で、本書より遙かに先行する。]

 

 これに似た金の龜の話は同じ唐時代にもう一つある。史論が將軍になつた時、妻女の室に當つて不思議な光のあるのに氣が付いた。それから夫婦一緒に室内を隈なく搜して見たが、何も見當らぬ。或日妻女が早く起きて、化粧箱の蓋を取つたら、中に錢ぐらゐの大きさの金色の龜がゐて五色の氣を吐き、その氣は見る見るうちに室内に滿ち渡つた。これは方士が玄宗皇帝に獻じ、皇帝から南方流鼠の臣に賜はつて、南方の報冤蛇を掃蕩した龜の同類らしい。鏡ぐらゐの大きさで金色の光りを放つところ、五色の氣を吐くところ、一々比較對照するまでもあるまいと思ふ。史論が將軍になつた時に出現したのだから、吉兆瑞相であることは疑ひを容れぬが、この龜の吐いた氣は室内に滿ち渡つただけで、一夜にして報冤蛇を斃し盡すやうな奇蹟は演ぜられてゐない。その家常にこれを養ふといふ外、何の記載もないのが物足らぬ。

[やぶちゃん注:「史論」不詳。但し、出典である「酉陽難狙」の、別な「卷二」の「玉格」の話にも登場している。

「五色」道家思想の根本にある陰陽五行思想では「五色」は緑(東)・赤(南)・黄(中央)・白(西)・黒(北)が五色として配される。

「その家常に」「その家、常に」。以下に見る通り、原文は「後常養之」。

 以上の出典を宵曲は記していないが、次段で語る「酉陽難狙」の「卷十五 諾皋記下」に出る以下である。しばしば宵曲はこうした不親切をする。現行、彼は書誌学者と片書きされるが、これはその名にし負うていない残念なことである。

   *

史論作將軍時、忽覺妻所居房中有光、異之。因與妻遍索房中、且無所見。一日、妻早妝開奩、奩中忽有五色龜、大如錢、吐五色氣、彌滿一室。後常養之。

   *]

 

「酉陽雜俎」によれば、寧晉縣の沙河の北に大きな棠梨の樹があり、百姓が常に祈禱するところになつて居つたが、或時何千といふ群蛇が東南より來つて、沙河の北岸及び南岸に集結した。これを見た三疋の龜がその周圍を繰り繞り步くと、蛇は悉く死んでしまつた。その蛇の腹には矢で射られたやうな疵があつたさうである。前の象郡の話と云ひ、またこの沙河の話と云ひ、龜と蛇との間には何か宿敵のやうな因緣があつて、一溜りもなく斃されるのであらうか。この龜は何色をしてゐたかわからぬが、やはり直徑一寸ぐらゐの小さなものであつた。

[やぶちゃん注:「寧晉縣」現在、河北省邢台(けいだい)市寧晋県。(グーグル・マップ・データ)。「沙河」の地名は確認出来なかった。

「棠梨」(とうり)は、本邦で「ずみ」(「酸実・桷)とも呼ぶ林檎の近縁種、バラ目バラ科ナシ亜科リンゴ属ズミ Malus toringo に一応、同定はしておく。

 以上は「卷十 物異」の以下。原典は時制が記されている。建中四年は七八三年で唐の徳宗の治世である。

   *

龜、建中四年、趙州寧晉縣沙河北、有大棠梨樹。百姓常祈禱、忽有群蛇數十、自東南來、渡北岸、集棠梨樹下爲二積、留南岸者爲一積。俄見三龜徑寸、繞行積傍、積蛇盡死。乃各登其積、視蛇腹各有瘡、若矢所中。刺史康日知圖甘棠奉三龜來獻。

   *]

 

 報冤蛇などといふ厄介なものの居らぬ日本には、不思議な金の龜も棲息せぬのかも知れぬ。「めでたき風景」(小出楢重)の中の「龜の隨筆」を讀むと、小出氏の家は大阪堺筋の藥屋で、膏藥天水香の龜の看板が屋根の上に飾られてゐたさうである。それは殆ど一坪を要する木彫りの大龜で、用材は楠であつたが、この龜が「地車の唐獅子の如く、眼をむいて波の上にどつしりと坐り、口を開いて往來をにらんでゐる」相貌は、近所の子供達の魂を脅かしたものらしい。この龜には奇蹟があつて、嶋の内燒けといふ大火の火の手が、鄰家まで來て急に風向きが變つたのは、天水香の龜が水を噴いた爲だといふことになつてゐる。その後堺筋の樣子が一變したので、龜も屋根の上にゐられなくなり、下町の心光寺に預けられた。或年心光寺の本堂が炎上した際も、この龜は庫裡に在つて燒失を免れた。奇蹟は二度繰り返されたといふべきであらう。

[やぶちゃん注:「めでたき風景」昭和五(一九三〇)年創元社刊の小出の随筆集。

「小出楢重」(こいでならしげ 明治二〇(一八八七)年~昭和六(一九三一)年)は洋画家。彼は大阪府大阪市南区長堀橋筋一丁目(現在の中央区東心斎橋)の一子相伝の膏薬「天水香」の製造販売を家業とする家の長男として生まれ、所謂、典型的な大阪の「ぼんち」(お坊ちゃま)であった。

「龜の隨筆」青空文庫の「風景」で全文が読める。

「心光寺」大阪府大阪市天王寺区下寺町にある浄土宗心光寺。心斎橋筋の南東直近である。(グーグル・マップ・データ)。]

 

 生きた金の龜に對し、木彫りの大龜を擔ぎ出したのでは釣合ひが取れぬやうだが、吾々の手には然るべき持ち駒がない。日本でうつかり金龜子などと書くと、コガネムシと間違へられる虞れがあるから、しばらく天水香の看板に名代を勤めさせることにする。金の龜は氣を吐いて報冤蛇を斃し、木の龜は水を噴いて火を斥ける。「和漢新撰蒙求」の材料にならぬこともなからう。天水香の大龜は今存否を知らぬけれど、「めでたき風景」の插畫の中にこの龜があり、水を噴いて火焰をしづめるところまで畫いてあるから、たとひ本物は亡びても、永くその面影を偲ぶことが出來る。

[やぶちゃん注:「和漢新撰蒙求」(わかんしんせんもうぎゅう:現代仮名遣)これは恐らく架空の書物で、夏目漱石の「吾輩は猫である」の「六」で迷亭が仮想書として示す「新撰蒙求」を捩ったものであろう。因みに「蒙求」は無論、知られた中国の初学者向け教科書で、本邦でも平安時代以降、長期に亙って使用された。そもそもが同小説のこのシーンには仕掛けがあり、臍曲がりの頑固者の「漱石」というペン・ネームの濫觴である「漱石枕流」の故事は、実にこの「蒙求」に記されているのである。

「天水香の大龜は今存否を知らぬけれど」「めでたき風景」の「龜の隨筆」の末尾には、心光寺回禄の際にも焼けずに残った話の後に、

   *

 近ごろその亀も、いよいよ朽ちはてようとしつつある時、たまたま大朝(だいちょう)の鍋平朝臣(なべひらあそん)、一日、私に宣(のたも)うよう、あの亀はどうした、おしいもんや、一つそれを市民博物館へ寄附したらどうやとの事で、私も直に賛成した。そして、亀は漸(ようや)くこの養老院において、万年の齢(よわい)を保とうというのである。

   *

(青空文庫版より引用)とあるが、大阪市民博物館なるものは存在せず、あったとしても果たしてそこに寄贈されたかも確認出来ず、「膏薬 天水香 亀 看板」のグーグル画像検索を掛けてもそれらしいものは出ない(因みに、これで掛けると、驚くべきことに頭に出るのは何故か私の芥川龍之介の「江南游記」の画像ではないカイ!? 何じゃあ? こりゃ?!)。現存しないと考えた方がよかろう。]

2017/07/12

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 姑䗐(コクゾウムシ)


Kokuzou

よなむし  強

      【和名與奈無之

    與奈者米也

       俗云虛空藏

こくうぞう

 

爾雅集注云米穀中蠹小黒蟲也

△按俗呼米稱菩薩隨呼此蟲曰虛空藏其形小似蚤而

 赤黒色長喙兩髭六足跛行甚疾

一種大四五分形似蠶蛹而白色頭黒但不如姑之多

耳並未舂米夏月濕熟所化生者也經年者生細白子

米爲空虛

 

 

よなむし  強〔(きようよう)〕

こくうぞう

【和名、與奈無之。「與奈」は「米」なり。俗に「虛空藏」と云ふ。】

 

「爾雅集注〔(じがしつちゆう)〕」に云く、『米穀の中の蠹〔(きくひむし)〕。小さく黒き蟲なり。』〔と。〕

△按ずるに、俗に米を呼びて「菩薩」と稱〔(とな)〕ふ。隨ひて此の蟲を呼びて「虛空藏」と曰ふ。其の形、小さく、蚤(のみ)に似て、赤黒色。長き喙〔(はし)〕、兩の髭。六足。跛〔(はひ)〕行(あり)きて、甚だ疾(はや)し。

一種、大いさ、四、五分。形ち、蠶〔(かひこ)〕の蛹〔(さなぎ)〕に似而白色。頭、黒。但し、〔(よなむし)〕の多きがごとくならざるのみ。並〔びに〕、未だ舂〔(つ)〕かざる米、夏月〔の〕濕熟〔に〕化生せ〔し〕所の者なり。年を經〔(ふ)〕る者、細白〔(さいはく)の〕子を生じて、米、空虛(うと)と爲〔(な)〕る。

 

[やぶちゃん注:本種は所謂、「穀象虫」、即ち、本邦に棲息する種としては鞘翅(コウチュウ(甲虫))目 Coleoptera 多食(カブトムシ)亜目 Polyphaga ゾウムシ上科 Curculionoidea オサゾウムシ科 Dryophthoridae オサゾウムシ亜科 hynchophorinae コクゾウムシ族 Sitophilini コクゾウムシ属コクゾウムシ Sitophilus zeamais 及びココクゾウムシ Sitophilus oryzae の二種が代表(良安が最後に一種として掲げるのは後者か。名前の通り、やや小型(二~二・八ミリメートル)である。但し、「細白の子」とは単にコクゾウムシの幼虫を指しているようにも読める。化生説を信ずるものは幼虫と成虫の区別が出来ず、全くの別の生き物と考えるのがごくごく当然の常識だから、ここはその誤認も視野に入れておかないといけない)。参照したウィキの「コクゾウムシを全面的に引いておく。『世界各地に生息するイネ科穀物の有名な害虫で、和名もそれを表したものである』(このウィキの和名漢字表記は「穀象虫」で「象」は長い口刎による命名とほぼ確定的に思うのだが、ウィキは何故かそこを記していないのは大いに不満である)。『また、日本では縄文時代後期の土器圧痕からの検出例があるなど穀物栽培の開始と同時に見られるとして』、『稲作とともに渡来したとするのが定説であったが、これを覆すとされる発見がなされている』(これは二〇一一年に種子島の遺跡から出土した縄文土器片から一万五千年前のコクゾウムシ類の圧痕が発見されたことを指す。一万五千年前は縄文時代の推定開始年代である)。『主食である稲(米)を食い荒らす事から「米食い虫」の異名が付けられている』。体長は二・一~三・五ミリメートルと『ゾウムシ上科の中では小さい部類に入る。体は赤褐色や暗褐色で、やや細長い。背面には細かく密な点刻がある。発達した強固な後翅をもち、飛行能力も優れている。体も小さく、穀物の貯蔵庫などに容易に侵入する』。『口吻で穀物に穴をあけて産卵し、孵化した幼虫は穀物を食い荒らす。気温が』摂氏十八度『以下であると活動が休止』、二十三度『以上になると活発に活動する』。一『匹のメスが一生に産む卵は』二百『個以上とされる』(ネット上の別記載では産卵数は約三百八十個、コクゾウムシの寿命は約三~七ヶ月とある)。『米びつに紛れ込んだ場合、成虫は黒色なので気がつきやすいが、幼虫は白色なので気づきにくい』。但し、『どちらも水に浮くので慎重に米研ぎをすれば気づくことがある。もし万が一気づかずに炊いてしまったり、食べてしまっても害はない』(私の家では一度だけかなり湧いて以下にある処置を施して排除はしたが、米の味は糞や体液及び死骸に発生したものなどによって極端に悪くなることは覚悟した方がよい。私は一口食って後は食べられず、凡そ二キロ分ぐらいを総て廃棄した)。『赤褐色のコクゾウムシは、農家の間では越冬コクゾウムシ(冬を越している)、暗褐色はその年に孵化したものと言われている。(確証は低いが』、『大体の農家はそのように判別していることが多い) また、光に反応するため、米に虫が湧いたという状態になった場合は、ムシロに米を広げてコクゾウムシを排除する方法をとっている』。

・「虛空藏」虚空蔵菩薩。知恵を支配するという。古くは地蔵菩薩と対で信仰されたが、現行の菩薩信仰では最早、メジャーではない。

・「爾雅集注」中国最古の類語辞典・語釈辞典である「爾雅」(著者不詳・紀元前 二〇〇年頃成立)を南北朝の梁(五〇二年~五五七年)の沈璇(しんせん)が注した「爾雅沈璇集注」。

・『俗に米を呼びて「菩薩」と稱〔(とな)〕ふ』確かに人の命の糧(かて)となる尊いものの意から「米」の別名として古語辞典にも載るが、これは近世語である。良安は「穀象」という語を示してないけれども、「※」=「菩薩」から、コクゾウムシ類を「虚空蔵」と呼ぶに至るまでは、また、一手間も二手間もかかるだろう(人間にとって決していい現象ではないからである)。それが出来上がったとして、さて、偶然、その虫が象の鼻のような突起を持っていたから、「穀象」の語がさらに手間をかけて生じたのだ、とは私には到底思えないのである。

 さても、和歌を引くのが大好きな良安先生に倣って、ここは私の偏愛する俳句を最後に示して終りとしよう。

 

 穀象の群を天より見るごとく

 

 穀象を九天高く手の上に

 

 數百と數ふ穀象くらがりへ

 

 穀象に大小ありてああ急ぐ

 

 穀象の逃ぐる板の間むずがゆし

 

 穀象の一匹だにもふりむかず

 

 穀象と生れしものを見つつ愛す

 

   *

西東三鬼句集「夜の桃」(昭和二三(一九四八)年三洋社刊)より。句自体は昭和二二(一九四七)年のパートに含まれる。特に私は「穀象の群を天より見るごとく」「穀象の一匹だにもふりむかず」の二句を称揚するものである。引用は私のやぶちゃん正字化版西東三鬼句集《西東三鬼全四句集『旗』・『夜の桃』・『今日』・『變身』(全)+「『變身』以後」(全)+やぶちゃん選拾遺抄Ⅰ~Ⅲ》から。]

宿直草卷三 第十三 男を喰ふ女の事

 

     第十三 男を喰(く)ふ女の事

 

Harawatawokuuonnna

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のものをそのまま出した。]

 

 有馬左衞門佐殿の内、高屋七之丞といふ人の語りしは、

「日光山御普請を勤めて、江戸を指して歸るに、下野(しもつけ)の内、何の村といふ、字(あざな)も知(しら)ず、日光御普請につき、旅の者に宿貸すためと見えて、新家(しんけ)五十軒ばかりありし所に宿とりたり。

 亭主も二十四、五、女房もはたちばかり、下人も子もなくてあり。隨分、馳走する。夜に入りて臥(ふす)に、我は座敷構(ざしきがまへ)なる所、若黨、中間七人は次の間に寢たり。夫婦は納戸(なんど)に臥す。𢌞(まは)りては遠けれども、隔だてし程は壁一つなり。

 夜半ばかりの事なるに、屋根の榑板(くれいた)、大竹割るやうに鳴る。

 何事かと、枕欹(そばだ)てゝ聞(きく)に、亭主、呻(うめ)き出(いで)たり。

 不思議に思ひ、此方(こなた)より聲を合はせて、

『何事ぞ。』

と云へど、返事、さらに、なし。其うちに亭主が聲、漸々(ぜんぜん)に消ゆるがごとく後下(あとさが)りになる。

 良からぬ事かなと思ひ、下人ども起して、手燭を立(た)て、納戸押し開(あ)けて見るに、女房、亭主が腹の上に馬乘りに上がりて、臍(ほぞ)の下を破り、細腸(ほそわた)とり出して、喰らふ。興醒めて覺ゆる。

 先(まづ)、後難(こうなん)も如何(いかゞ)とて、

『隣り合壁(がつへき)、起(おこ)せ。』

とて、下人に云ひつけしに、皆、目を摺(す)りて來(きた)る。

『こは、何事ぞ。』

と云へど、敢へて怖るゝ氣色(けしき)もなく、我(われ)いぶかともせず、ひたと腸(はらわた)取りて喰らふに、はや、亭主は空しくなる。大方(おほかた)、鬼のわざと見えし。

 隣の人々、數寄りて、

『先(まづ)、鬼なれ人なれ、遁(のが)しては惡しからん。あの者、捕り給(たまは)れ。』

と云ふ。

『さらば。』

とて、嗜(たしな)みの早繩(はやなは)にて自(みづから)捕りて、下人に云ひ付(つけ)て縛(いまし)め置くに、逃(にげ)たき覺悟もなく、悲しき躰(てい)も見えず。只、しろしろとしたる樣(さま)、昨日より見たる宿の女房にして、化け物とも見えず。合點ゆかぬ事、云ふに絶へたり。

 とかくする内、一門も寄り、所の代官も來(き)て、囚人(めしうど)、渡してければ、我は、やがて立つ。夜半ばかりより辰の一天(いつてん)まで、鬼とも人とも知れなくて過(すぐ)る。

 再び、其國へは行かずなれば、その事、聞くこともなく侍る。こゝは、その他所(よそ)となり、それは今の昔になれり。例(ためし)、稀(まれ)に見侍る。」

と語れり。

 

[やぶちゃん注:「有馬左衞門佐殿」日向国(現在の宮崎県)北部と現在の宮崎市北部を領有した延岡藩の江戸前中期の藩主有馬氏三代(直純・康純・清純)は歴代「左衞門佐」を名乗っている。「宿直草」は延宝五(一六七七)年成立であるから、寛永一八(一六四一)年に父直純の死去により家督を継いだ、嫡男康純(慶長一八(一六一三)年~元禄五(一六九二)年)の可能性が高い。

「高屋七之丞」不詳。

「くれいた」当初は不審であった。何故なら辞書を調べると、「くれいた」は「榑板」であって「榑縁」(くれえん)とも呼び、縁板を縁框(えんがまち)に対して平行に張った縁側のことを指すとあったからで、ここは「屋根」とあるからそれではあり得ず、意味がとれないと躓いたからである。しかし、さらに榑板を検索してみたところが、「榑葺(くれぶき)屋根」の民家なるものがあることを知り、これを指していることが判明した。「飛騨民俗村」公式サイト榑葺き民家は」から引く。

   《引用開始》

 飛騨の古い民家というと、合掌造りが有名ですが、飛騨地方の中央部にあたる古川・国府盆地から高山盆地、南にかけての農家や町屋は、「榑(クレ)」と呼ばれる板を葺き、石を置いた切妻造りの建物がほとんどを占めました。現代のような製材工具がない時代に、木の特質を利用した木を裂くという技術で対応したのです。むろん瓦もありましたが、農山村では手の出るものではありませんでした。

 榑の材料はネズ、サクラ、カラマツ、ナラ、クリを用いました。中でもクリ材が一番耐久力が強いそうです。クリは水に強く腐りにくいため、屋根を葺くのに適しています。現在、飛騨の里ではクリ材で榑葺きしています。[やぶちゃん注:中略。]

 丸太を割り、木の目にそって同じ厚みと長さのクレ材を作り出す一連の作業を「クレヘギ」と呼んでいます。木の目を読み、マンリキという道具でほぼ均等の厚さに一枚一枚裂いていくクレヘギは、長年の経験と技術が必要です。

   《引用終了》

以下、飛騨では昭和三〇年代以降、『火事に強いトタン葺きに取って代わられ、現在』、『榑葺きの建物は』全くなくなってしまい、『そのため、各地にいたクレヘギ職人はほとんどいなくな』と記されてある。リンク先では素材の「榑板」や「榑葺き民家」の写真が見られる。必見!

「隣り合壁(がつへき)」向こう三軒両隣といった感じであろう。

「こは、何事ぞ」集まってきた夫婦の隣人らが妻に向けて吐きかけた台詞。

「敢へて怖るゝ氣色(けしき)もなく、我(われ)いぶかともせず」妻の不思議に異様な様態(反応)の描写。「敢へて怖るゝ氣色(けしき)もなく」凄惨さとその猟奇に対して周りの人間か強い敵意を持っていることが判るはずなのにそれを「一向に怖れる気配も見せず」であろう。後の「我いぶかともせず」はちょっと聴かぬ語であるが、「我訝(われいぶか)とも」しないということか。岩波文庫版では高田氏が『自分が何をしているかに気づく様子もなく、の意か』と注しておられる。これで採る。

「數寄りて」「あまたよりて」と訓じたい。

「嗜(たしな)み」普段から得意な武芸として修練を積んでいること。

「早繩(はやなは)」敵対者を捕らえて繩などで縛り括る捕縛術。捕繩(ほじょう)術。

「しろしろとしたる樣(さま)」岩波文庫版の高田氏の注には『平然と何もなかったような様子』とある。

「一門」宿屋の夫婦の親族縁者。

「囚人(めしうど)」捕縛された妻のこと。原典は「めしうど」で底本は「召人」であるが、岩波版の表記を採った。

「辰の一天(いつてん)」「一天」は「一點」に同じい。午前七時頃。

「こゝは、その他所(よそ)となり、それは今の昔になれり」この場所はすでにもう別な人の住まうところとなり、この奇談も今となっては昔の忘れ去られそうな話とはなり申した。荻田の通人ぶった、いらぬ無常観(時空間の無常迅速の転変)の鼻につく粉飾部である。

「例(ためし)、稀(まれ)に見侍る」「このようにまずあり得ない異常な、しかし事実であった稀有の事件を、拙者、目の当たりに見申して御座った。」。]

宿直草卷三 第十二 幽靈、讀經に浮かびし事

 

   第十二 幽靈、讀經に浮かびし事

 

 慶安(きやうあん)の比か、津の國内瀬(ないせ)といふ所に、百姓の妻、果てけるに、其七日めに、又、他(よ)の妻、呼べり。例(ためし)少なくぞ侍る。

「まだき淚に袖漬(ひ)ぢて、跡(あと)弔(とふら)ひこそせめ。」

などゝて、巷(ちまた)、

「目安〱もなし。」

と謗(そし)る。

 案のごとく、後の妻、來ると、其まゝ、物の怪(け)づきて、夜(よ)も日も物狂(ぐる)ほし。

 女の父母(ちゝはゝ)、

「さやうの所にながらふベきなし。歸れ。」

と云へど、深く思ひ入(いり)て、此女、歸るべき覺悟はなし。

 夜晝としもなく、始(はじめ)の妻、來たりて、組(く)んづ轉(ころ)んづする。

 人目には獨り狂ふやうなれ共、かの妻の目には、ありありと見えたり。

 笑止(せうし)ぶりに思ふ人、二月堂の牛王(ごわう)を貸しければ、其間は來たらず。

 貸したる家に行(ゆき)、

「いかで牛王を貸したるぞ。」

と怨む。この人、大に驚(おどろき)てこれを取り返す。

 然るに今の妻、心強くは云へど、氣もうかとなりて、見るさへあさましかりければ、親しき人、其男に異見するは、

「死(しし)て七日めに、今の妻を呼び、跡もしかじか弔ひ給はず。御身の誤りにあらずや。」

と云ふ。男、

「げに尤(もつとも)なり。」

と、急ぎ我(わが)寺に行き、樣子語りければ、

「さらば、跡弔はん。」

とて、淨土眞宗なりしが、觀無量壽經を讀みて、念佛𢌞向す。

 まことに佛力(ぶつりき)不思議にして、猛火(めうくは)轉じて、淸凉風(しやうれうふう)となりしにや、其夜より幽靈、來たらず。妻も本性(ほんしやう)になれり。

 爭はれぬ事にあらずや。また、急がしさうに後の妻呼びたるも新しき事なり。はた、怨みざるべきか。

 

[やぶちゃん注:「慶安(きやうあん)」通常は「けいあん」。一六四八年から一六五一年まで概ね徳川家光の治世であるが、家光は慶安四年四月二十日(一六五一年六月八日)に没し、家光嫡男家綱が同年八月十八日(十月二日)、第四代将軍宣下を受けて就任(満十歳)、翌慶安五年九月十八日(一六五二年十月二十日)に承応(じょうおう)に改元されている。

「津の國内瀬(ないせ)」清音は底本のママ。旧大阪府三島郡玉櫛(たまくし)村大字内瀬で、現在の大阪府茨木市内瀬(ないぜ)。話柄内時制ならば当時は板倉重宗の領地。中央付近(グーグル・マップ・データ)。

「目安〱もなし」見た目も見苦しい。

「物の怪(け)づきて」物の怪が憑りついたような感じになって。但し、この「づき」は「憑き」ではなく、動詞「付く」から生じた接尾語「づく」(名詞或いはそれに準ずる語に付いて動詞を作り、「そのような状態になる・そういう様子が強くなる」の意を添える)であるので注意されたい。

「組(く)んづ轉(ころ)んづ」現在の「取っ組み合ったり離れたりして激しく争うさま」を言う連語「組んず解(ほぐ)れつ」(「組みず」は「組みつ」の音変化)と同じ。

「笑止(せうし)ぶり」この場合の「笑止」は「気の毒なこと・さま」の謂いで、同情に値するような様子・事情・有様の意。

「二月堂の牛王(ごわう)」牛王札は既注であるが再掲しておく。奈良東大寺二月堂で出される厄除けの護符牛王宝印(ごおうほういん)のこと。紙面に社寺名を冠して「~牛王宝印」と書き、その字面に本尊などの種子梵字を押し、神仏を勧請(かんじょう)したものであることを表わしたもの。現在の二月堂のそれはらしい(ネット上の個人の写真にリンク)。

「氣もうかとなりて」気が抜けて朦朧とした感じで正気を失ったような状態になってしまって。「うか」は気持ちが落ち着かないさまを意味する副詞「うかうか」から造語した名詞ととる。

「觀無量壽經」浄土教諸宗が拠り所とする浄土三部経の一つ。劉宋の畺良耶舎(きょうりょうやしゃ)が漢訳した。全一巻。内容はインドのマガダ(摩掲陀)国の王ビンビサーラ(頻婆娑羅(びんばしゃら))の夫人バイデーヒ(韋提希(いだいけ))が、自分の子アジャータシャトル(阿闍世(あじゃせ))の悪逆に苦しめられて救いを求めた際、仏陀が神通力を以って十方の浄土を示し、阿弥陀仏とその浄土を説いたとする極めて劇的な内容を持つ。

「急がしさうに」岩波文庫版の高田氏の注に『妻の死後、ただちに、即座に、の意』とある。

「新しき事」この場合は、旧来の節操に全く以って反した行為という指弾的形容である。]

2017/07/11

宿直草卷三 第十一 幽靈、僞りし男を睨殺す事

 

  第十一 幽靈、僞りし男を睨(にらみ)殺す事

 

 津の國茨木(いばらき)に、木綿(もめん)を商ひて、年(とし)に二度づゝ越前へ下る人あり。

 其問屋(といや)にやさしき婢(はしたもの)有(あり)しを、年を重ねて愛せしが、なべて男の誑(たら)す癖かは、常しみじみと語るは、

「我、未だ定まりし妻もなし。遂には貰ひ行(ゆき)て、長くも添ひ果てね。」

など、まことしやかに戲(たは)れけり。

 下女(ぎぢよ)も、末賴もしく思ひければ、いとゞもてはやしつゝ語る。はかなくぞ侍る。男も時分なれば、また、津の國に歸る。

 かくて茨木には、家もあり妻もありて、其年もかい暮れて、正保(しやうほ)の春も三つは重ねし。

 睦月(むつき)に若(わか)ゆく明日(あした)を壽(ことぶき)て、白馬(あをむま)の節(せち)の明(あ)けの日、友どちを呼びて、方引(はうびき)などかゝづらふ夜(よ)、夜食、似あはしく調(とゝの)へ、田樂(でんがく)刺し並べ、火鉢に寄り居て、座したるまゝに炙(あぶ)るに、時ならぬ蛙(かはづ)、火のもとに下る。

「さても今、この虫の來たるべきにあらず。」

とて、不思議の思ひをなすに、初春の事なれば、何(いづ)れも祝言(いはひこと)にてまぎらかす。其座に輕はづみの病ひ無し有(あり)て云ふやう、

「そちが身體(しんだい)かへる相(さう)ぞ。」

と秀句と心得、後先(あとさき)も無ふ云ふ。おかしきにまかせ、滿座、どつと笑ふ。又、苦(にが)み返りて、

「あは。」

と思ふ人もありけり。いづれ、亭主は不興氣(ふきようげ)にして、火箸を燒(やき)すまし、蛙(かはづ)の眞甲(まつこう)に當てければ、手足、びりびりとなりて、死す。

「無用の人、交(まじ)り召されて、よき態(なり)かな。」

とて、取りて捨(す)てけり。

 扨、正月も過ぎ、如月(きさらぎ)中(ちう)の旬(じゆん)にもなり、越路(こしぢ)の雪も斑消(むらぎ)えて、道も通ひ易(やす)ければ、また、思ひ立(たち)て越前へ下る。問屋(といや)の夫婦、

「御下り、めでたし。」

など云ひて馳走するに、名染(なじみ)し下女は見えず。外(ほか)へ出(いで)けるにこそと、人やりならず戀しきながらに臥す。

 しかるに秋田の者にて、商ひ友だち、

「申べきやうもなき、御力落(おちからおと)し。」

と云ふ。茨木の者、聞きて、

「何事ぞ。」

と云ふ。

「いや、これの下女が事よ。」

と。

「扨は。まかり候か。」

と云へば、

「まだき知り給はぬや。」

と云ふ。

「さても便(びん)なや。」

と云ふに、翌(あ)くる日、宿(やど)の内、語りて云ふやう、

「正月八日の宵、茶を立てさせて云やう、

『もはや、茨木の人も、やがて如月(きさらぎ)の比、下(くだ)り給ふべきぞ。待遠(まちどを)に思ひそ。』

なんど興ずれば、

『さこそ思へ。』

とて打笑ひしが、少しまどろむと見るほどに、

『かなしや。』

とて、倒(たを)る。其樣、蛙(かはづ)など蹈み殺せるがごとく、手足伸してびりびりと震ひて、つゐまかり候。病みもせず、あまり殘り多かりければ、いろいろとせしかども、長く果てゝ、速中風(そくちうぶ)といふものにかと申(まうし)合ひしが、髮剃りて沐浴せしに、頂上(ちやうじやう)に燒鐵(やきがね)當たりし樣(やう)の痕(あと)有(あり)。一入(ひとしほ)、惜しみ可愛(かは)ゆくさふらへ。それ樣(さま)も、なづさふ者なれば、不憫(ふびん)に思しさふらはん。」

と語る。

 『扨は例の蛙(かはづ)は、彼(かれ)が魂(たましゐ)なり』と、慘(むご)く哀れなる事、腸(はらわた)を斷つ。銀(しろがね)十錢、寺へ送り、用整へて、茨木へ歸る。

 その菊月に心地惡しうして臥(ふす)。

 彼(か)の者の家は、表は町、裏は畑(はたけ)にて賊を防ぐ塀もなく、風をとゞむる袖垣もなし。眞屋四阿屋(まやあづまや)のありさまに飄々(ひようひよう)たるあばら屋なり。裏に窓有て、引くべき戸もなく、網代(あじろ)組みたる如く、割り竹やりすごして、とかくしつらひ、薄紙にて貼り綴(つゞ)りたる障子なり。

 ある夜、かの窓の障子に、光りの影、うつらふ。

 男、事ありげに、脇差取(とり)て、かの窓にむかふ。側に臥(ふし)たる妻も、男の氣色(けしき)たゞならざれば、伴(とも)に起(おき)て、壁の破(や)れ間(ま)より見るに、二十(はたち)ばかりの女、白き裝束(さうぞく)に亂れ髮にて、苦しげに立ち、鐵漿(かね)黑き口より、息吐くたびに、火炎、出でたり。此光りにぞ窓もうつらふて見えし。

 初(はじめ)の程は畑(はたけ)の中に有しが、漸々(ぜんぜん)に近づき、やうやう二間ほどになりて、我(わが)男の方(かた)を睨みつけてありしかば、怖ろしさ云ふばかりなし。男の側に寄り、

「あれ何者ぞ。」

と云へど、男、返事もせず。たゞ嘆息(ためいき)ばかりになりて、つゐ俯(うつ)ぶしに倒る。

 隣りなど起こして、呼び生(い)け、藥など與ふれど、その甲斐なく、むなしくなる。

 あゝ、睨み殺されしなり。

 妻は越前の事は露(つゆ)ばかりも知らず。後に友だちの語りしにぞ、思ひ合はせしなり。

 如何に愚かの女なりとも、口のよき男、賢顏(かしこがほ)に誑(たら)すべからず。正直に思ひ入る一念、さりとは、恐ろし。繫念無量劫(けねんむりやうこう)、いかゞ贖(あがな)はんや。

 惣(さう)じて、其身は覺えねども、心の行くところに、形、現(あら)はれ、其處(そこ)にて受けし害(がい)の、又、此方(こなた)の本(ほん)の身に覺ゆる事、まゝあり。聞かずや如何に、賀茂の祭りに車爭(あらそ)ふ事ありて、異人(ことひと)を憎しと思(おんぼ)し初(そ)め、後妻嫉(うはなりねた)みの事侍りしに、餘所(よそ)にて焚(た)ける護摩(ごま)の煙(けふり)、花の袂に通ひけんも、其おほん身には知ろし召さずとかや。

 『形に常(つね)の主(あるじ)なく、魂(たましゐ)に常の家(いへ)なし』と、仁王(にんわう)なりし經(きやう)に侍る。命根(めいこん)斷(たゝ)ぬうちなりとも、魂(たましゐ)、ゆかば、暫時の形(かたち)は、欲(ほつ)する思(おもひ)より求めてまし。身は越前に有(あり)ながら、魂(たましゐ)は蛙(かはづ)となる。さらば蛙(かはづ)よと思へど、越前の身に疵(きず)ありて、死(しゝ)たり。此話にぞ知られ侍る。

 あゝ、この袖に限らず、なべての女に螽(いなご)の黑燒嚥(の)ませてしがな。貴船(きぶね)の道も露(つゆ)さだかに置き得(え)、寺の鐘の湯とならずもあらなん。猶、辻に聞く女夫諍(めおといさか)ひよ、痴話(ぢわ)か眞實(しんじつ)か、聞きにくきはあらじ。

 

[やぶちゃん注:「津の國茨木(いばらき)」現在の大阪府茨木市。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「いとゞもてはやしつゝ語る」岩波文庫版の高田氏の注では、この「語る」について、『「契る」と同意』とある。

「正保(しやうほ)の春も三つは重ねし」正保は一六四五年から一六四八年まで。正保元年は寛永二十一年十二月十六日(グレゴリオ暦一六四五年一月十三日)に改元されており、事実上の正保元年は十五日しかない。ここは「春も三つは重ねし」とあるから、陰暦上も感覚からも正保二年から数えて三年で、話柄内の主たる時制は正保四年一月から同年九月頃と考えてよい。細かな月や日付までリアルに示されるのは、本書の中ではかなりの特異点である。徳川家光の治世。

「白馬(あをむま)の節(せち)の明(あ)けの日」正保四年一月八日(グレゴリオ暦二月十二日)。ここに出る白馬(あおうま)の節会(せちえ)は、この節会は重要な宮中行事の一つで、旧暦一月七日、天皇が豊楽院(後に紫宸殿)に出御、邪気を祓うとされた用意された白馬を庭に牽き出して群臣らと宴を催した。ウィキの「白馬の節会」によれば、『白馬節会の由来は、この白馬節会が始まった当初、中国の故事に従い、ほかの馬よりも青みをおびた黒馬(「アオ」と呼ばれる)が行事で使用されていたが、醍醐天皇のころになると白馬または葦毛の馬が行事に使用されるようになり、読み方のみ』、『そのまま受け継がれたため』に『「白馬(あおうま)」となったとされる』とある。民間の生活節季とは無縁なものであり、ここもたまたまその日の翌日に当たったと言っているに過ぎず、この節会自体と話柄の関連性はないと思われる。ただ、「白馬の節会」の挙行によって現人神たる天皇による邪気払いが行われたのを受けてから、やおら、その翌日に、民草の商人(あきんど)として新年の公的な仲間内の宴会を開く権利が与えられたという認識はあるのかも知れぬ。荻田は少なくともそのようなものとして叙述しているのであろう。そんなことはどうでもいいことだ。この日付と時刻が、後の越前での下女の奇怪な変事と完全にシンクロしていることが大切なのだ。

「方引」「寶引」が一般的。所謂、正月に行われた現在の「福引き」の一種。室町時代から江戸時代にかけて正月に行われたもので、形態としては数本の細い繩を束ねておき、その中の孰れかに橙(だいだい)の果実或いは金銭などが結い附けてあって、それを引き当てた者を勝ちとしたもの。平凡社「世界大百科事典」によると、この原型は天平二(七三〇)年に聖武天皇が正月の酒宴を開催した際、諸臣に以上のような形式で、中に仁・義・礼・智・信の一文字を記した短冊をセットしておき、それを抜かせて引き当てた者それぞれに絁(あしぎぬ:「悪(あ)し絹」の意。太い糸で織った粗末な絹布。太絹)・糸・真綿・布・常布を下賜した余興に由来するとされる。本話よりも後のことになるが、元禄年間(一六八八年~一七〇四年)には繩の先に品物を結わえて引かせ、それを引き当てた者に賞品として与える遊戯が試みられるようになり、寛延・宝暦年間(一七四八年~一七六四年)になると、「辻宝引き」と称して街頭で百本の細繩を用意し、その内の数十本に玩具を結びつけ、「さござい、さござい」と囃しながら、子どもらを客にして引かせる大道商人が現われたとある。大人向けでは金銭を出す賭博も現れたらしいが、幕府によって禁止されている。

「病ひ無し」岩波文庫版の高田氏の注に『思い悩むことなどが無いために病気をしないおうな』阿呆、とある。

「そちが身體(しんだい)かへる相(さう)ぞ。」主人公の対して「おまはんの身代が蛙(かわず)、かえる、変わる、ちゅう、予兆やで!」と「秀句」=洒落れて言ったのである。「心得」はなかなか上手い洒落と思うてからに、の意。しかし「変わる」のは悪い方かも知れず、だから筆者は「後先(あとさき)も無ふ」軽々しく言い放って(言上げして)しまったと言い添え、「おかしきにまかせ」て「滿座」は概ね、確かに「どつと笑」ったのだが、中には不吉な方のそれを強く感じて、「苦(にが)み返りて」(すっかり苦虫をかみつぶしたように不快そうな顔をしては、「あは」(驚きを示す感動詞。「あちゃあ!」「なんてまあ!」)「と思ふ人もあ」ったのである。如何にも視聴覚的で映像的なリアルな描写である。実は「亭主」もこの〈抜け作〉の不用意な〈言上げ〉に凶兆を敏感に感じてしまい(それは正しかったのだが)、だからこそ「不興氣(ふきようげ)に」なって、遂には逃がしてやればよい蛙を、無惨にも熱した火箸を以って焼き殺してしまうのである。

「無用の人、交(まじ)り召されて、よき態(なり)かな。」「この時節、この新春の言祝ぎの祝いの席に、ここに来るべきでない無用のものが、交って呼ばれたなさった、さればこそ、それ相応のお仕置きをした、いい様(ざま)で昇天しよったがな。」。

「如月(きさらぎ)中(ちう)の旬(じゆん)」正保四年二月は小の月で、同十五日はグレゴリオ暦で三月二十一日

「(ほか)へ出(いで)けるにこそ」ここの下女を辞めて他へ移ってしまったものか? と思っているのであろう。「たまたま、今は用字で外に出ているだろうか?」という意味ではあるまい。彼女だけでなく問屋夫婦の贔屓でもある商人が来た(到着時機も恐らくは分っていた)のであるから、外出の用を問う実に夫婦が下女に命ずる筈はまずなく、そもそも下女が、この季節の、この有意に遅い時間(この馳走は夜と読める)に外向きの用件で出かけるということ自体があり得ない。問屋夫婦がこんな接待をしながら、しかも何も言わないのは、何か重大な問題があってお払い箱にしたか、結婚して出たかぐらいしか私でも思い浮かばず、そのどちらの場合も問屋夫婦が下女と彼のただならぬ仲を知っている以上、口には出しにくいことだからであり、彼からも、だとするならば、聴くことが憚られるからである。

「人やりならず」ここは「自ずと」(自発)の意であろう。

「さても便(びん)なや」「さても! なんと!……ああっ! 不憫なことやなぁ!」。

「待遠(まちどを)に思ひそ」「そ」が不審。禁止の終助詞の単独使用(これはしばしば行われる)で、「待ち遠しい待ち遠しいと思い詰めてはいけないよ、あまりに思い詰め過ぎると、気疲れして体によくないし、そもそもが、後、一月ばかり、あっという間だからね。」の謂いでとっておく。これなら、後の「興ず」る(ちょっとからかった)という表現ともしっくりくるからである。

「其樣、蛙(かはづ)など蹈み殺せるがごとく、手足伸してびりびりと震ひて、つゐまかり候。病みもせず、あまり殘り多かりければ、いろいろとせしかども、長く果てゝ、速中風(そくちうぶ)といふものにかと申(まうし)合ひし」ここも逐語的に訳そうとすると、どうも不自然になる難しい台詞である。「つゐ」は「つひ」で発症から短かい期間で亡くなったと読め、それは後の「病みもせず」が「長患いもせずに」というニュアンスと親和的である。或いはこれは「それまで、この下女が病気らしい病気をしたことがないとても健康であった」ということを言っているのかも知れぬ。「あまり殘り多かりければ、いろいろとせしかども」というのは激しい全身痙攣を伴う発作から直ぐに臨終となったのではなく、短い期間ではあったが、医者や薬で手厚く看護を尽くしてやったことを言っているととるなら、それほど時間的な不審はない。しかし問題は最後の「あまりに長く果てゝ」で、これはこのままでは訳せない。私は勝手に「あまりに長くは果て」(ちっとも生き長らえることがなくあっという間に亡くなってしまったので)、或いは「あまりに(長くにはあらで)短くして果てて」の意で解釈している。私の解釈に致命的な誤りがある場合は、御指摘戴きたい。

「速中風(そくちうぶ)」岩波文庫版の高田氏の注に『脳溢血』とある。

「それ樣(さま)」貴方様(あなたさま)。

「なづさふ」馴れ親しむ。懐(なつ)く。

「菊月」旧暦九月(長月)の異名。」正保四年九月は大の月で、同朔日はグレゴリオ暦九月二十八日、同晦日三十日はグレゴリオ暦十月二十七日である。

「眞屋四阿屋(まやあづまや)」「眞屋」は「両下」とも書き、「ま」は接頭語で「や」は「建物」の意で、棟の前後二方へ軒を葺き下ろした切妻造りのこと。後の「四阿屋」は単なる当て字で本来の「東国風の鄙びた家」の意であろう。岩波文庫版の高田氏の注には、『東国風の、屋根を前後二方にふきおろして作った粗末な家屋』とある。ちょっと意想外なのは、この家もあって妻もいるとしたチャラ男(お)の住まいが、大坂商人でありながら、かなり激しいあばら家らしいことである。私は少なくともそう感じた。そう感じることによって、実はこのチャラ男をどうしても完全に憎めないことを告白しておく。

「やりすごして」岩波文庫版の高田氏の注に『交叉させて』とある。

「とかくしつらひ」不十分な状態であれこれと応急的に設け。

「鐵漿(かね)」お歯黒。

「二間」三メートル六十四センチ弱。

「男の側に寄り」「あれ何者ぞ」主語と話者は主人公の妻。

「つゐ俯(うつ)ぶしに倒る」「隣りなど起こして、呼び生(い)け、藥など與ふれど、その甲斐なく、むなしくなる」「睨み殺されしなり」これは女(及びその魂の変じた蛙)の死に方とミミクリーを成りし、その死に到る様態も相似的である。蛙に火箸を押しつけた際の主人公の視線は蛙の目を睨んでいた。この共通した強い親和性は一種の共感呪術的構造を持っていることを示す。因みに、西洋の黒魔術やブードゥー教の呪いでは蛙は憑代のような呪具動物としてかなりメジャーであり、生きたまま目蓋を縫い合わされたりして使用される。

「繫念無量劫(けねんむりやうこう)」岩波文庫版の高田氏の注に『仏語。一つの事に執着した一念は、限りない罪業にひとしい、の意』とある。

「賀茂の祭りに車爭(あらそ)ふ事ありて、異人(ことひと)を憎しと思(おんぼ)し初(そ)め、後妻嫉(うはなりねた)みの事侍りしに、餘所(よそ)にて焚(た)ける護摩(ごま)の煙(けふり)、花の袂に通ひけんも、其おほん身には知ろし召さずとかや」言わずもがな、私の偏愛する「源氏物語」の「葵」の帖の葵上に六条御息所の生霊が憑依するシークエンス及びそこに続く、それを知らずにいる当の御息所が、体から悪霊退散に用いる護摩の臭いがしてくるという圧巻の場面である。

「『形に常(つね)の主(あるじ)なく、魂(たましゐ)に常の家(いへ)なし』と、仁王(にんわう)なりし經(きやう)に侍る」「仁王經」(にんのうきょう)は大乗仏典の一つとされ、「仁王般若經」とも称する。内容は仏教に於ける国王の在り方について述べたもので、ウィキの「仁王によれば、『釈尊が舎衛国の波斯匿王との問答形式によって説かれた教典で、六波羅蜜のうちの般若波羅蜜を受持し講説することで、災難を滅除し国家が安泰となる現存するもの般若経典としては異質の内容を含んでいる』は二種で、一つは鳩摩羅什(くまらじゅう 三四四年~四一三年)訳になるとされる「仁王般若波羅蜜経」で、今一つは唐の不空訳のそれであるが、これらは現在、孰れも偽経と考えられている。しかし、本邦では『古くから伝わり、『仁王般若波羅蜜経』は、『法華経』・『金光明経(金光明最勝王経)』とともに護国三部経のひとつに数えられ、鎮護国家のために仁王経を講ずる法会(仁王会=におうえ)や不動明王を中心とした仁王五方曼荼羅(仁王経曼荼羅ともいう)を本尊として修される仁王経法が行われた』。『仁王会は宮中や国分寺などの大寺で』百もの『高座を設けて行われ、主に奈良時代から平安時代にかけて盛行し、「百座会」とも称され』、『地方の武士や僧侶が地域・村落の鎮守のために仁王講も行われるなど、諸国に広まった。中世』(十一『世紀以降)に入ると天災や虫害・疫病や飢饉を攘災するための公共的性格とともに息災延命・安穏福寿・子孫繁栄などを祈願する民間儀礼の要素が強い仁王会・仁王講も増加することになる。鎌倉時代に入ると、鎌倉幕府の寺社興行政策の遂行の影響を受けて、当初は国家や荘園の仁王会・仁王講における負担に対して抵抗の姿勢を見せていた地頭などの御家人層が地域の寺社を舞台とした仁王講の積極的な担い手となった。日蓮の『立正安国論』の中においても「百座百講の儀」という文言を用いて仁王会・仁王講の流行が批判の対象とされている。一方、国家における一代一度大仁王会は両統迭立の混乱もあり、後深草天皇の時を最後に中絶するが、この頃には各地で開かれた仁王会・仁王講が公共的呪術儀礼としての役目を代替することとなっていた』とある。但し、本記載は荻田が実際の「仁王經」に拠ったものではなく、また、これを読んだ当時の庶民も意想外に腑に落ちた記載であったのではないかと私は思う。何故ならば、例えば、室町時代に成立して以後、本邦に於いて永く庶民の国語辞典的役割を成すこととなった節用集の一つである寛永一九(一六四二)年本「運歩色葉集」の「いろは歌」の解説中に(下線太字やぶちゃん)、

   *

色ハ匂卜散ヌルヲ花ハ色々ニ咲トモ程モナク散ヲ盛者必衰世間ノ無常ニ譬タリ万ツ皆假染ノ宿アタナル事夢幻ノ如シ誰カ常ニアルへキ故ニ我代誰ソ常ナラン仁王經云神ハ無常ノ主形ハ無常ノ家云々主ハ形ヲ家トス形神共ニアタニシテ光ノ露ニ宿レルカ露モ落宿レル光モ失カ如シ迷ノ境界ヲ有爲ノ奥山ニ喩也譬ハ道ニ迷タル者酒ニ醉タル者奥山ノ遙ナルニ入可出方モ不知登ㇾ峰下ㇾ谷如シ自無始本覺眞如都ヲ出テ無明ノ酒ニ醉智恵ノ眼盲テ難逢佛教モ信セス苦悟佛道ニ歸スレハ有爲ノ奥山今日越テ淺キ夢不ㇾ見醉モセス也

   *

と出る辺りを踏まえているのではなかろうか?

「螽(いなご)の黑燒」岩波文庫版の高田氏の注に『疳の虫の妙薬とされた』とある。ここはその効能を嫉妬心抑制作用と言い換えたのであり、それによって女の嫉妬心がなくなったならば、「貴船(きぶね)の道も露(つゆ)さだかに置き得(え)」(丑の刻参りで知られた京の貴船神社への夜の参道には呪うために女は来なくなるから、そこの草葉に置かれる夜露は朝まで散ることもなく)、「寺の鐘の湯とならずもあらなん」(清姫が安珍を追って道成寺に蛇体となって行き、火炎を吐いて鐘を溶かして鉄の沸き立つ湯(液体)とすることもなくなるであろうに)というのである。説教が波状的に衒学的且つ辛気臭くなって、折角の本篇メインのホラー性が殺がれてしまっている。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 衣魚(シミ)


Simi

しみ  白魚  蟬魚

    蛃魚  壁魚

衣魚 蠹

    【和名之美】

イヽイニイ

 

本綱此蟲蠹衣帛書畫始則青色老則有白粉觸于手則

落碎之如銀可打紙箋其形稍似魚其尾亦分二岐故得

魚名俗傳衣魚入道經中食神仙字則身有五色人得吞

之可致神仙唐張易之之子乃多書神仙字碎剪置瓶中

取衣魚投之冀其蠹食而不能得遂致心疾書此解俗説

之惑 【拾遺愚草】をのづから打ち置く文の月日へて明くればしみのすみかとぞなる定家

 

 

 

しみ  白魚         蟬魚

    蛃魚〔(へいぎよ)〕  壁魚

衣魚 蠹〔(と)〕

    【和名、之美。】

イイイニイ

 

「本綱」〔に〕、『此の蟲、衣帛〔(いはく)〕・書畫を蠹〔(むしく)〕ふ。始めは、則ち、青色、老するときは、則ち、白粉有り、手に觸るれば、則ち、落つ。之を碎くに銀のごとく、紙箋に打つべし。其の形、稍〔(すこし)〕く魚に似たり。其の尾、亦、二岐に分つ。故に魚の名を得たり。俗に傳ふ、「衣魚、道經〔(だうきやう)〕中に入りて神仙の字を食へば、則ち、身に五色有り。人、之を吞むことを得〔ば〕、神仙を致すべし。」〔と〕。唐〔の〕張易之が子、乃〔(すなは)〕ち、多き神仙の字を書して、碎剪〔(さいせん)〕して瓶の中に置〔き〕、衣魚を取りて、之れに投ず。其の蠹〔魚を〕食ふを冀(こひねが)ふに、得ること能はず、遂に心疾〔(しんしつ)〕を致す。此れを書して俗説の惑(まど)ひを解す。』〔と〕。

 【「拾遺愚草」】

 をのづから打ち置く文の月日へて

    明くればしみのすみかとぞなる

                  定家

 

[やぶちゃん注:節足動物門 Arthropoda 昆虫綱 Insecta シミ目 Thysanura のシミ類で、シミ科 Lepismatidae・ムカシシミ科 Lepidotrichidae・メナシシミ科 NicoletiidaeMaindroniidae 科に分かれる。ウィキの「シミ目」によれば、本邦で現在よく見かける種は、

シミ科ヤマトシミ属ヤマトシミ Ctenolepisma villosa(やや褐色を呈し、日本在来の室内種)

同属セスジシミ Ctenolepisma lineata(茶褐色で光沢に乏しく、背に縦線模様を持つ)

及びセイヨウシミ属セイヨウシミ Lepisma saccharina(銀白色を呈する。移入種であるが、近年はこちらの方が優勢)

とある。確かに私の書庫でたまに見かけるものは最後の種ばかりである。シミ類は『卵から孵化した幼虫は成虫とほぼ同じ形で、蛹などの段階を経ずに、そのまま脱皮を繰り返し成虫となる』無変態(これ自体が既にして昆虫類では原始的)で、『脱皮によって変化するのは大きさだけで、形態の変化はほとんど見られない。しかも、成虫になっても絶えず成長し続けるので、一生』、『脱皮し続け』、小さいながら、意想外に昆虫類では寿命は長く、七~八年は生きるとされる。形態は『やや偏平で、細長い涙滴形をしている。頭には長い触角が伸びている。胸部から腹部にかけては、滑らかにつながっている。腹部には各体節に』一対の腹毛があるが、『これは腹部体節の付属肢の痕跡と考えられており』、これも『この類の原始的特徴と見られる。腹部の末端には一対の尾毛と、一本の尾糸という細長い突起がある』。

 因みに、古くから書物を有意に食害するとされたが、実際には顕在的な食害は認められないのが事実で、それは冤罪の部類と言ってよく、シミの食い痕とされるものの多くは、木質部や紙にトンネルを掘り、或いは標本類をバラバラになるまで著しく食害するところの、多食亜目ナガシンクイ上科シバンムシ科 Anobiidae に属する「死番虫」類が真犯人である。

 なお、本訓読では今までは原則してこなかった「本草綱目」の「蟲之三」の「衣魚」の引用としての『 』を附した但し、最後の箇所は良安によって手が加えられており、正確な引用となっていないので注意されたい(後注参照)。

・「蛃魚〔(へいぎよ)〕」「蛃」は本シミ類を現わすためのみに用いられる。

・「蠹〔(と)〕」「本草綱目」を見ると「蠹魚」で「魚」の脱字であることが判る。既に何度も注してきたように、「蠹」単独では通常、第一義としては現行の昆虫学で言うところの昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidae に属する「木喰虫」を指す。但し第二義としてシミ類をも指すが、先行して何度も第一義の「蠹」が出てきていて読者に「キクイムシ」類として刷り込まれてしまっている以上、ここは魚を入れた方がよい。

・「白粉」シミ類は体表面に鱗粉が一面に並んでいるが、これは鱗翅目の蛾や蝶の鱗粉と同じものである。但し、シミ類は昆虫類でも数少ない翅を持たない無翅類で(旧無翅亜綱)、これは翅が進化する以前の形態を留めている証左と考えられ、シミは原始的な種群と言ってよい。

・「之を碎くに銀のごとく、紙箋に打つべし」かつて、月に一度は神田の古書店巡りをしたものだが、そこでは、しばしば、この銀斑の痕にお目にかかったものである。

・「道經〔(だうきやう)〕」老荘の思想書や、それと関わりを持つ道教の経典類。

・「五色」シミ類は一般に負の走光性を持つが、実際に銀白色を呈するセイヨウシミなどは光りが当ると、虹に似たグラデーションを示すことがある。なお、道家思想の根本にある陰陽五行思想では「五色」は緑(東)・赤(南)・黄(中央)・白(西)・黒(北)が五色として配される。

・「張易之」(六七五年頃~七〇五年)唐の則天武后の寵臣であったが、武后が死の床にあった頃、武后を退位させて中宗を復位させる反武后派の張柬之(かんし)らのクーデターが発生、殺されてその首は洛陽の天津橋で晒された。東洋文庫版の注には『美少年で音技に詳し』かったとするから、その子も美少年であったに違いない。

・「碎剪〔(さいせん)〕」切り砕いて細片にすること。

・「心疾〔(しんしつ)〕」心臓疾患。父の張易之は三〇歳で亡くなっている。クーデターではこの子も殺されている可能性がすこぶる高いから、だとすると、この子は十代前半としか考えられず、そんな若年で仙人になろうと思ったこともさることながら(但し、仙人修行は稚児クラスから始めないと到達は難しかろうとは思うから変とは言えぬ)、えらい若死にしたということになり、先天性の心疾患か心臓畸形が疑われるか? しかし、以下に示す通り、この「張易之の子」話は良安が別なところから引いてきたもの(次注参照)を挿入した疑いが濃厚である。

・『俗に傳ふ、「衣魚、道經〔(だうきやう)〕中に入りて神仙の字を食へば、則ち、身に五色有り。人、之を吞むことを得〔ば〕、神仙を致すべし。」〔と〕。唐〔の〕張易之が子、乃〔(すなは)〕ち、多き神仙の字を書して、碎剪〔(さいせん)〕して瓶の中に置〔き〕、衣魚を取りて、之れに投ず。其の蠹〔魚を〕食ふを冀(こひねが)ふに、得ること能はず、遂に心疾〔(しんしつ)〕を致す。此れを書して俗説の惑(まど)ひを解す』の部分に該当すると思われる「本草綱目」のそれは、「衣魚」の「集解」の、

   *

頌曰、今處處有之、衣中乃少、而書卷中甚多。身白有濃粉、以手觸之則落。段成式云、補闕張周封見壁上瓜子化爲壁魚、因知「列子」『朽瓜化魚』之言不虛也。俗傳壁魚入道經中瓶中、取壁魚投之、冀其蠹食而不能得、遂致心疾。書此以解俗説之惑。

   *

であるが、この内容を見ると、「張易之の子」の話は出てこない。そこで調べてみると、この「張易之の子」は「太平廣記」の「嗤鄙四」にある「北夢瑣言」を出典とする「張氏子」と同一の話(しかも前段の「五色」のシミの話もきっちり載る形で)であることが判明した。以下に示す。

   *

唐張禓有五子。文蔚、彝。憲、濟美、仁龜、皆有名第、至宰輔丞郎。一子忘其名。少年聞説、壁魚入道經函中、因蠹蝕神仙字、身有五色、人能取壁魚吞之、以致神仙而上昇。張子感之、乃書神仙字、碎剪寘於瓶中、捉壁魚以投之、冀其蠹蝕、亦欲吞之、遂成心疾。每一發、竟月不食、言詞麤穢、都無所避。其家扃閉而守之、候其愈、既如常。而倍食一月食料、須品味而飫之。久方卒、是知心靈物也、一傷神氣、善猶不可、況爲惡乎。卽劉闢吞人、張子吞神仙、善惡不同、其傷一也。

   *

・「拾遺愚草」藤原定家自撰の私家集で正編三巻と続編「拾遺愚草員外」一巻からなり、約 三千八百三十首を載せる。建保四(一二一六)年に草案が成り、後に数回に亙って増補された。定家の代表作の殆んどを収録してあり、「新古今和歌集」時代の私家集中、最も注目されるものである(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

・「をのづから打ち置く文の月日へて明くればしみのすみかとぞなる」「拾遺愚草」の「卷上 十題百首」中の一首であるが、表記だけでなく、誤りが二箇所、認められる(異同を太字下線で示した)

 

 自(のづか)ら 打ち置く文(ふみ) 月日(つきひ)經(へ)て

    明(あ)くれば紙魚(しみ)の 棲家(すみか)とぞ見(み)る

漢字変換は私が恣意的に行った。]

2017/07/10

僕は

君が僕の人生に興味がないように、僕も君に興味は実は、まるっきし、ない。「それだけのことだ」と君もほくそ笑むがよかろう。それで「僕等の憂鬱」は相互理解なしに完成するのだ。

宿直草卷三 第十 幽靈の方人の事

 

  第十 幽靈の方人(かたうど)の事

 

[やぶちゃん注:最初に注しておく。「方人(かたうど)」とは味方となる人の意。]

 

 關(せき)の東(ひがし)に幽靈の方人して命を失ふものあり。

 餘所(よそ)の國にも時花(はや)るにや、いたづらなる男ありて、召し使ふ女に、何時しか色深くなれり。妻(つま)もまた、生妬(なまねた)き生れつきなりければ、背(そ)むき背(ぞ)むきになる否(いな)せもせぬ中(なか)、生憎(あやにく)思へども、猶、夜に增(ま)し日に增して、止まず。あまさへ、薄き袂に秋風の身にしむ怨み淺からず、提子(ひさげ)の水の湧きかへり、戀(こひ)られし事も有物(あるもの)を、うつろひやすき花色の、かさねの衣(きぬ)の下(した)こがれ、つくべきかたも荒磯(あらいそ)の、浪に流るゝ捨小舟(すてをぶね)、かはく間もなき身を知る雨の、降りみ降らずみ定めなき、人のつらさの積もりきて、妻は例(れい)ならず煩ひけり。

 色々に療治すれども、風寒暑濕(ふうかんしよしつ)の外(ほか)なれば、神丹(しんたん)・伽陀(かだ)の醫術もなし。夫(をつと)もさすが濡れにし袖の、今こそはあれ昔の契り、哀れにや思ひけん。枕に寄りて口説(くど)きけるは、

「病の品も變りきて、もはや、ながらへ給ふべきにもあらず。思ひ置く事のあらば、云ひ置き給へかし。」

と云ふ。

 妻、苦しげなる聲に、問へばこそ云ふ風情して、

「人はあくまで辛(つら)くとも、如何(いか)で情(なさけ)を忘るべき。岩間(いはま)の貝の甲斐もなく、片思ひなる緣(よすが)ながら、年ごろ馴れし御袖に、別れゆくこそいと悲しけれ。よし、それとても陸奧(みちのく)の、忍ぶに餘る怨みをば、生きて物思はんよりも、消えてうれしき命にてこそさふらへ。さるにてもはかなきは、かくとも知らぬ睦言(むつごと)に、ともに遠山(ゑざん)の雪を見んと、餘所(よそ)には知らぬ豫言(かねごと)を、小夜(さよ)の枕に交(かは)せしも、皆、僞りの世なりしを、誠(まこと)と恃(たの)むあだ心、さこそおかしく思すらめと、去(い)にしことを罪深くも悔(くや)み侍り。然るを、今も眞顏(まことがほ)に『思ひ置く事云ひ置け』なんどのたまひて、嬉しき淚の幸ひに、僞り給ふ御心。たらさるゝこの身より、そなたのためにいと罪深(つみふか)く見え給へり。如何なれば情(つれ)なくも、かほど憎まれ參らせしと、我身恨みて侍るなり。申(まうし)置く事、何かあらん。我が僞りより、人の誠(まこと)の恃まれずよと、思へば、淚さへ。」

と云ひて、また、引き被(かづ)きてぞ臥す。

 男、聞(きき)て、

「尤(もつとも)なり。梓弓(あづさゆみ)の引(ひく)方(かた)に心を亂し、其處(そこ)の契りは離(か)れ離れに、今咲く花の香(か)を留(と)めて、色も人目に餘(あま)りしを、限りなふ口惜しく、又、そなたの恨み恥づかしうして、ことはるに言葉もなし。今思ひ當たりて懲り果てたれば、向後(ゆくゑ)なりともたしなむべきなり。かほどに云ふとても、年ごろ誤まりし我なれば、今の約束も、誠(まこと)とは思ひ給ふまじ。遠くは三世(みよ)の佛、近くは日の本(もと)の神かけて、云ひ置く事を育てん。此誓文(せいもん)に心をはらし、日來(ひごろ)の怨みも解け給ひ、心やすく黃泉路(よみぢ)をも越え給へ。遺言(ゆいげん)なりとも守らん。」

と聞えしかば、妻、眞實(しんじつ)のほど打(うち)聞きて、

「さては、さやうに思しめすぞや。今までの恨みも解けてこそ候へ。思ひ殘す事、別(べち)のことにてもさふらはず。我、むなしくなるならば、似合はしきを語らひ給へ。露(つゆ)さらそれに恨みなし。何(いか)なれば、我、吝心(やぶさかごゝろ)の深くして、わが身ながら、かく思ふとまで恥(はぢ)がはしけれど、今、目(め)を懸け給ふ者に、早く暇(いとま)を給ひさふらはゞ、三瀨(みつせ)の川の水を掬(むす)び、死出(しで)の山の月を見るにも、心の闇も晴れなまし。今は、うれしや。」

とまかりしが、めざましきまで生妬(なまねた)し。

 僧を請じて葬(はうふ)り、塚、つきて、閼伽(あか)を汲(くみ)けり。

 去者日疎(さるひとはひゞにうとし)と書けり。案のごとく、彼(かの)夫(おつと)、他(よ)の妻も迎へず、又、畏(おそ)ろしき誓文も立てしかば、妾(てかけ)の蓆(むしろ)も蹈まず、堪(こら)へ濟まして有しが、つらつら淋しくやありけん、燃へ杭(ぐひ)の火の點(つ)き易き例(ためし)、うしろめたくも轉(ころ)び寢に、昔の袖の移り香(が)の、さすが已(や)まれずもなり行(ゆき)て、また、淺からぬ中(なか)となる。やすく立てたる誓文の、末(すゑ)思はるゝわざなりけらし。

 あまさへ今は閏(ねや)を一つにして、本妻のごとし。言立(ことだ)つ祝ひなどして、場(ば)晴れて夫婦となる。緣(ゆかり)・友達(ともどち)なんど否(いな)めば、其者、仇(あた)に思ひければ、後(のち)は異見する人もなく、いよいよ恣(ほしいまゝ)に振舞ふ。これより、初めの女房、幽靈になりて、

「塚、動き、墓、騷がしき。」

など云ひて、暮(くる)れば、里の子、恐れ合ひけり。げに、草葉の蔭とやら云ふ所の恨み、さもこそと、いたはし。

 其比、その村近き所に、茶を啜(すゝり)て集まりし者、とりどり、この話をする。一人がいはく、

「何ぞの事かあらん。僞りにこそ。」

と云ふ。座中、色めいて、

「しからば、行きて見よ。」

と云ふ。

「德もなき事に何かせん。」

とあれば、座中の者、

「行たらんには、人々して、そちを、每日、ふるまはん。又、得行かずば、我々を振舞へ。」

と、はや、賭德(かけどく)になる。

「尤(もつとも)。」

と同心す。

「その塚の上に、これを證(しるし)に立てよ。」

とて、竹に挾める札(ふだ)を渡す。

 やがて受け取り、墓に行、墳(つか)に立つれども、石金(いしかね)のごとくして、立たず。力を出だすに、其(その)甲斐なし。

 かゝる所へ白き裝束(しやうぞく)に、長髢(ながかもじ)の者、來たれり。

「何者ぞ。」

と云へば、

「我は其里の其れが妻也。夫に怨み有(あり)て思ひ死(じに)に死にたり。然るに、御身、こゝに來て札立(たて)給ふとも、我、合點せずは、引拔きて捨(すて)ん。札立てたくは、我(わが)賴む事も聞給へ。然らば、札、立(たて)させ申べき。」

と云ふ。

 男、聞きて、人の云ふは僞りならず、哀れなる事よ、と思ひ、

「さて賴むとあるは、如何樣(いかやう)なる事ぞ。」

と云へば、

「さればとよ、我が元の家(いへ)に、今、住(すみ)侍る女の、やるかたもなく憎ふ候へども、門に寺々の札の貼(を)してさふらへば、内に入(いり)て怨みをえ遂げず。これをまくり給はらば、おびたゞしき恩(をん)たるべし。」

と云ふ。

「やすき事なり。まくりて參らせん。」

と云ふに、女は、かき消(け)ちて、失せぬ。

 さて、證(しるし)の札を立つるに、何(なに)の子細も無ふ立ちたり。

 翌(あく)る日、人々、行き見るに、證(しるし)有(あり)ければ、捷(かけ)に負けて、振舞ふて囘(まは)す。

 かく、その振舞ひ、この料理(れうり)とて、かの門の札、まくる事を打(うち)忘れしに、ある夜、かの男の門(かど)を叩く。男、起きて、

「誰(た)ぞ。」

と云へば、墓にて逢ひし女、

「さてさて、御身は聞えぬ事かな。かゝる手柄は誰(た)がさする事ぞや。今宵(こよひ)か行夜(ゆくよ)かとて、度々(たびたび)來りて見れども、未だまくり給はず。さてさて、恨み入(いり)候。今、行きてまくり給へ。さなくは御身を怨みん。」

と、其(その)形、鬼のごとくになる。

 否むべきやうなかりければ、やがて行きつつ、門に貼りたる午王札(ごわうふだ)どもまくり捨(すて)て、大野(おほの)に火を付たる心地して、さらぬ體(てい)にて臥すに、又、宿にありし女房、咎(とが)めて云ふやう、

「今は何方(いづく)へ行き給ひしや。」

と。男、やす大事の事なれば、深く裹(つゝ)み、

「さる事ありて。」

と云ふに、なべて女の癖かは、何處(どこ)にもはやる悋氣(りんき)して、

「さる事とばかりは聞えず。聲を聞けば、若き女と連れ出(いで)て、今まで居給ふ不思議さよ。是非、聞かさせ給へ。もし、我(われ)聞かぬ事ならば、よしや、暇(いとま)を給へ。後に捨られ參らせて、あだにもならば、如何(いかゞ)せん。」

など託(かこ)ちければ、今ははや、云はねばならぬやうになりけり。

 さて、件(くだん)の樣子、裹まずも語りければ、女、聞きて、大きに驚き、

「いたはしや、今なん、其處(そこ)には如何なる憂き事かあらん。」

と云ふ。

「あなかしこ、人に洩らすな。」

と云ふにぞ、心得て止みぬ。

 さて、翌(あく)る日の取沙汰を聞けば、其里のその人の妻こそ、初めの妻の幽靈の來て、喉(のど)を絞(し)めて殺せりといふ。

『扨はそうか、我、手傳ひして殺したる事よ。あは、無慙や。』

と思へども、二人の心に濟まして、人、更に知らざりしに、此事、現はれん端(はし)にや、日暮し、此者、ひよつと、女夫諍(めをといさか)ひし出(いだ)す。扱(あつか)ひ草の繁(しげ)きにも、中(なか)を直らず。男、腹を据へ兼て、油德利(あぶらどくり)下げさせて、此(この)女房を去る。

 女、腹立(たて)て、

「何がな、男の憎さげを云はん。」

と、此事を思ひ出し、かの喉絞められし女の親の方へ告ぐる。三年過(すぎ)たる事なれども、なじかは堪(こら)ふべき、親、大きに腹を立(たて)て、公儀へことはる。

 對決迄もなく、かの男、落ちたり。

 やがて掟目(をきめ)に遭ふ。

――此者幽靈の方人(かたうど)なる故斯くの如く行なふもの也――

と、札に立(たて)たり、となん。

 また、聞く人の鑑(かゞみ)ならずや。

 夫婦(ふうふ)中良(なかよ)きを「琴瑟(きんしつ)の調(てう)」と「毛詩」には譽(ほ)め、夫婦不和なるをば、「易」には「反目(へんぼく)」と嫌へり。恥(はぢ)、巷(ちまた)に出(いで)、譽(ほまれ)、世に高きも、夫婦の中の善惡(ぜんあく)にあり。あゝ、保呂亂(ほろみだ)すべからず。昔の二神(ふたはしら)、天(あま)の浮橋(うきはし)にして、みとのまぐばいし給ひてよりこそ、妹背山(いもせやま)の高き例(ためし)にも立ちたれ。二人の中(なか)、背(そむ)き背(ぞむ)ぎになりては、子孫までも恥を殘す。匹夫匹婦(ひつふひつふ)も、夫(それ)、義を違(たが)ふべからず。況(いはんや)、その餘りをや。

 

[やぶちゃん注:本書では特異的に長い作品である。罪状札の箇所にダッシュを用いた。

「時花(はや)るにや」「はや」は「時花」二字へのルビ。流行る。

「いたづらなる男」ここは近世語で好色な男の意。

「生妬(なまねた)き」嫉妬深い。

「背(そ)むき背(ぞ)むきに」岩波文庫版の高田氏の注に『夫婦の仲がこじれるさま』とある。

「否(いな)せもせぬ中(なか)」「中」は本篇では概ね「仲」の意で用いている。岩波文庫版の高田氏の注に『いやおうなしの仲』とあるが、ここは前の形容の屋上屋であろうから、夫婦仲が決定的に最悪の状態となることを言っている。

「夜に增(ま)し日に增して、止まず」物理的現象としては夫の下女との情交を指すのであるが、ここはそれに夫婦間の相克感情の悪化のそれを重層する。

「提子(ひさげ)の水の湧きかへり」岩波文庫版の高田氏の注には、『提子は湯や酒を入れる小型の金属製の器。そ』れに入れた火にかけているわけでもないのに湯や酒が激しく沸騰する、『湧くというのは、女の嫉妬の甚だしいたとえ』であるとある。

「戀(こひ)られし事も有物(あるもの)を」互いに恋し恋われた昔もあったのに。

「こがれ」嫉妬に焼け「焦がれ」に「漕がれ」を掛けて、以下の「つく」(嫉妬が「盡く」に「着く」と「舟が着岸する」の意を掛ける)・「かた」(「方」に「潟」を掛ける)・「荒磯」・(「あら」(ばこそ)を掛ける)・「浪」・「流る」「捨小舟」・「かはく」(の「かは(川)」)が全て縁語。

「風寒暑濕(ふうかんしよしつ)の外(ほか)」外因性疾患でないもの。

「神丹(しんたん)」神仙の玄妙な秘薬。効果があるとされる高価な薬物の譬え。

「伽陀(かだ)の醫術」岩波文庫版の高田氏の注には、『華厳経等にある仏教の不死薬』とあるが、私は「醫術」とあるからには寧ろ、「三國志演義」などで知られる中国後漢末の薬学や鍼灸に非凡な才能を持ったとされる伝説的医師華佗(?~二〇八年)で、名医の譬えと読んだ。

「岩間(いはま)の貝の甲斐もなく、片思ひなる緣(よすが)ながら」「岩間」は「言は」を掛けて「言っても詮ないこと乍ら」の意を掛ける。磯の岩の間の貝は「甲斐」の序詞であるが、同時に張りついた鮑(あわび)を指し、それが「片思ひ」を引き出すハイブリッドな序詞となっている。

「かくとも知らぬ」こうした結末を迎えるということをつゆ知らずにかつてあなたを素直に信じ愛していた折りの。

「餘所(よそ)には知らぬ」閨房での睦言であるから誰も知らぬ。

「豫言(かねごと)」秘密の約束。この辺りは白居易の「長恨歌」が下敷きであろう。

「たらさるゝ」岩波文庫版の高田氏の注に『甘い言葉にあざむかれる』とある。現在の「調子のいいことを言って騙す・垂らし込む・誑(たぶら)かす」の意の「誑(たら)す・垂らす」に受身の助動詞「る」が付いた形である。

「梓弓(あづさゆみ)の引(ひく)方(かた)に心を亂し」「梓弓の」は「引(ひく)」の枕詞。自身の欲情に引かれるままに心を乱して、つい、下女と関係を持ってしまい。

「其處(そこ)」二人称。そこもと。話者である妻を指す。

「今咲く花の香(か)を留(と)めて」若い下女の肉体にすっかり惹かれ溺れてしまって。

「色も人目に餘(あま)りしを」そうした不道徳な噂も周囲の知れ、目に余ることと皆に思われしまったことは。こういう、家庭内不倫がかなり知れ渡っていた状況にあったことは、妻の死後に男がこの下女を正式に後妻として迎えた際に、「緣(ゆかり)」(親類縁者)や「友達(ともどち)なんど否(いな)」んだものが有意にいたことがその証拠であると考えている。

「ことはる」ここは「理(こと)わる」(歴史的仮名遣)で、「説明する・説き明かす・弁解する・言い訳する」の謂いであろう。後の「公儀にことはる」も同じで「公儀に上申書で縷々説明して訴え出る」。

「たしなむ」慎む。

「三世(みよ)の佛」三世仏。過去仏(阿弥陀如来)・現在仏(釈迦如来)・未来仏(弥勒菩薩)。

「育てん」自らを教導しよう。

「似合はしきを語らひ給へ」また、あなたさまにまことに相応しいお方とお結ばれ下さいませ。ここには絶対的に嫉妬した相手である下女は埒外であることを確認せねばならない。だからこそ、後の「何(いか)なれば、我、吝心(やぶさかごゝろ)」(未練)「の深くして、わが身ながら、かく思ふとまで恥(はぢ)がはしけれど、今、目(め)を懸け給ふ者に、早く暇(いとま)を給ひさふらはゞ」という絶対条件が示されるのであり、その禁忌が破られるからこそ、不可逆的カタストロフが招来されてしまうのである。

「三瀨(みつせ)の川」亡者が冥途に向かう途中で渡渉せねばならぬとされる「三途の川」の別称。渡る瀬は緩急異なる三箇所があって、各人の生前に成した善悪の行為によって渡る場所が異なるとされる。

「水を掬(むす)び」水を左右の手で掬って遊ぶ。岩波では『結び』であるが、ここは「掬」でなくてはだめである。

「めざましきまで生妬(なまねた)し」最期の最後までまっこと、気に障る、厭な感じの恨みがましさである。筆者の評言。私はしかしそこまでの不快感を持つような嫉妬心とは思わぬ。

「閼伽(あか)」仏に供える神聖な水。

「去者日疎(さるひとはひゞにうとし)」「古詩十九首」の「其一四」(五言古詩)の冒頭に基づく諺。同詩の冒頭二句は「去者日以疎 來者日以親」(去る者は 日々に以つて疎(うと)く 來(きた)る者は 日々に以つて親しむ)。

「畏(おそ)ろしき誓文」底本あは平仮名、岩波文庫版は『恐ろしき』とするが、ここは神仏への起請文であるからこそ「畏れ」なのであると私は考え、かく漢字化した。

「妾(てかけ)の蓆(むしろ)」岩波文庫版の高田氏の注によれば、『愛人を置いてある』別な『家』とする。

「つらつら」ここは「よっぽど」の謂いであろう。

「燃へ杭(ぐひ)の火の點(つ)き易き」所謂、「焼(や)け木杭(ぼっくい)に火がつく」のこと。「焼け木杭」は「燃えさしの切り株或いは焼けた杭」のことで、「ぼっくい」は「棒杭(ぼうくい)」の音変化。一度、焼けて炭化した木材は再び火がつき易いことから、過去に関係のあった者同士が再び元の関係に戻ることを指すが、恋愛・情愛関係に於いて本格的に再燃した場合について専ら使われる。

「言立(ことだ)つ祝ひ」「言立て」とは「宣言・誓約」のことであるから、婚約で、当時の結納の儀を指すか。

「そち」岩波文庫版の高田氏の注には、『馳走。その者の好物をふるまうこと』とある。目下の者を呼ぶ二人称ととらないのは助詞の「を」のせいか。

「賭德(かけどく)」賭け事。「どく」は「禄(ろく)」の転とも、名詞に付いて、その状態や趣きを帯びる意の動詞を作る接尾語「づく」の転ともされる。

「長髢(ながかもじ)」岩波文庫版の高田氏の注は『結わず長く垂らした髪形』とある。

「其里の其れが妻也」実際の村名と人名を意識的に筆者が伏せたもの。

「まくり」は「捲る」で、引き剝(はが)す。

「捷(かけ)」「捷」の原義は「分捕(ぶんど)る/分捕り」「勝つ/勝ち・勝ち戦さ」の意があるので、「賭け」のそれを当て訓したものであろう。

「行夜(ゆくよ)」明日の夜。

「午王札(ごわうふだ)」牛王宝印(ごおうほういん)。社寺から出される厄除けの護符。紙面に社寺名を冠して「~牛王宝印」と書き、その字面に本尊などの種子梵字を押し、神仏を勧請(かんじょう)したものであることを表わしたもの。最も広く用いられたのは熊野三山(本宮・新宮・那智)の熊野牛王で(私は三種とも今これを書いている書斎に掛けてある)、他に奈良東大寺二月堂・石清水八幡宮や豊前彦山・加賀白山などからも出されている。版刻のものが殆んどであるが、大和金峯山のものは筆書きである。家に張ったり、携帯したりして護符として用いられたが。中世以降はこの裏面に起請文を書いて神仏に誓う形式が非常に盛行した。現存する最古の牛王宝印は,鎌倉時代の文永年間(一二六四年~一二七五年)の起請文に用いられた那智山のものである(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「やす大事」不詳。岩波文庫版では本文のこの「やす」の右にママ注記がある。「やす」をないものとして読んで問題なく意味は通ずる。

「もし、我(われ)聞かぬ事ならば」万一、妾(わらわ)にお聞かせ下さらぬ、聴かせも出来ぬ不埒なることだと言われるのであらば。

「よしや」「縱(よし)や」は副詞(副詞「よし」に詠嘆の間投助詞「や」の付いたもので、「ままよ!」の意。

「あだにもならば」「あだに」は形容動詞「徒なり」が相応しい。実質を伴わないさま・無駄な様子・何の甲斐のないことを意味する。ここは二人の夫婦関係が致命的に絶たれてしまうことになったならば、の意。

「此事、現はれん端(はし)にや」「端」は端緒。きっかけ。但し、陰気を持った幽霊の殺人に加担したということは、因果応報を受けること必定であるから、そうした報いの始まりの謂いも含んでいよう。

「ひよつと」ちょっとしたはずみで。ひょいと。

「扱(あつか)ひ草」夫婦喧嘩の仲裁をすう人。「草」は民草でそこから「繁(しげ)き」(そうした仲裁人が大勢いた)を縁語で出した。善意の人々が有意にいたのに、元の鞘に収まらず、三行半に及び、結果として処罰された点はやはり、前の注の因果応報を強く感じさせるものである。

「油德利(あぶらどくり)下げさせて」油徳利(あぶらとっくり)は民具で、灯明(とうみょう)などに用いる油の購入用や保存用の容器。通常は陶磁器製。これ一つが離婚時の財産分与というのは如何にも淋しいが、これが当時の常識だったのであろうか。

「憎さげ」「憎體」(にくてい/にくたい)は憎らしいさま。

「落ちたり」白状して罪を認めた。

「掟目(をきめ)」奉行所の仕置き。冒頭で「幽靈の方人して命を失ふものあり」と出るからには、結局は命を落とすこととなった処刑が加えられたことを意味している。しかし、仮に江戸時代の初期の設定の江戸が舞台だとしても、幽霊が犯人だ奉行所が認定することはあり得ないし、実行犯ではない(但し、従犯でも江戸時代の判例は大抵は現在の共同正犯と同等で、主犯と同じ程度か、それなりに重い処断が下されはした。この場合、前妻の霊が家屋に侵入するための手引を自己の意志で完遂した点では立派な共同正犯ではある。また、霊が後妻を殺すであろうことを知っていた以上は未必の故意も成立する。しかしなぁ……)から、所謂、死罪に相当する処断であったとは思われない。軽級の身体刑の「重敲き」(百敲き)辺りで(普通は命を落とすことはない)、傷の予後が極めて悪く、死に至ったものか? 罪状を記した札を立てたとあるから「晒し」にはなったものと思われ、晒し刑では民衆が石を投げたりしたから、そうした傷が感染症などを併発したものかも知れぬ。

『「琴瑟(きんしつ)の調(てう)」と「毛詩」には譽(ほ)め』「琴瑟相(あい)和す」は「詩経」の「小雅」にある「常棣」(じょうてい)の中の「妻子好合 如鼓瑟琴」に基づく。琴(きん:中国古代の弦楽器。長さ約百二十センチメートルで弦は七本。琴柱(ことじ)はない。上代に本邦に渡来したとされるが、現在は衰滅した)と瑟(しつ:中国古代の弦楽器の一つで現在の琴に似、普通は二十五弦で、本邦には奈良時代に伝来した)との音がよく合うという比喩に基づく。

『「易」には「反目(へんぼく)」』「易經」の「乾下巽上(けんかそんしょう) 小畜卦(しょうちくけ)」の象辞に「夫妻反目、不能正室也。」(「夫妻反目す」とは、「室を正すこと能はざるなり。)とある。

「保呂亂(ほろみだ)す」岩波文庫版の高田氏の注に、『取り乱す。鷹が両翼の下の羽毛である保呂羽』『を乱す意から』とある。この「ほろ」は一説に武者の背負う「母衣(ほろ)」ともされる。この「母衣」は鎧の背に装着する幅広の布で、流れ矢を防ぐ実戦用の防具として、また、旗指物(はたさしもの)の一種としても用いられた。平安時代には単に背に垂らし、時に下端を腰に結んだりしたが、後には竹籠を入れた袋状のものに変化した。私には後者「母衣」説の方が腑に落ちる。

「昔の二神(ふたはしら)」伊耶那岐(いさなき)命と伊耶那美(いさなみ)命。

「天(あま)の浮橋(うきはし)」高天原と地上との間に架かっていたという橋で、ここに立った二神は天の沼矛(ぬぼこ)を海に突き立てて攪拌、その先端から滴った雫から大八島が生み出される(男根と精液のシンボライズである)。

「みとのまぐばい」表記は原典のママを示した。「古事記」では「美斗能麻具波比」で通常は「みとのまぐはひ」と読む。「み」は尊称で、「と」は「陰部」、「まぐはひ」は「目合(まぐは)ふ」で「目を見合す」、正常位での男女の性行為を指す。

「妹背山(いもせやま)」川などを隔てて向かい合う二つの山を夫婦兄妹(言わずもがな、伊耶那岐と伊耶那美は夫婦であると同時に実の兄と妹でもある)に擬えて呼ぶ語であるが、ここはそれを還元的に用いている。

「背(そむ)き背(ぞむ)ぎ」原典の表記のママ(正確には後半は踊り字「〲」であるから、後方は単に「ぞむき」かも知れぬ。]

2017/07/09

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(5) 神々の争い

 

 國玉の大橋の上で猿橋の話をすると災があり、又猿橋で國玉の事をつても同樣であつたと云ふ言傳へは、斯うして見ると謠の戒めの話と裏表を爲して居ることが判る。この二つの橋は共に甲州街道の上に在つて旅人によく知られて居た。さうして猿橋の方にもやはり橋の西詰に、諸國の猿曳が尊信する、俗に猿の神樣などゝ呼ぶ小社があつた。昔の神樣は多くは所謂地方神であつて、土地の者からは完全なる信仰を受けられても、遠國の旅客などには自由な批評が出來た爲であるか、往々にして甲地乙地何方の神が有難いと言ふやうな沙汰があつた。尚其上に此種の神々は當節の大神とは違つて、人間とよく似た感情又は弱點をも有つて居られた。況や失禮ながら其が御婦人であつたとすると、他方の女神の噂などを聽きたまふ時の不愉快は、中々謠を聞いて思出される位の徴弱なもので無かつた筈である。薩摩の池田湖は山川港に近い火山湖で、僅かな丘陵を以て内外の海と隔てられ風景の最も美しい靜かな水であるが、此湖の附近に於て海の話をすれば忽ち暴風雨が起ると傳へられて居たことが三國名勝圖會に見え、阿波の海部川の水源なる王餘魚瀧(かれひのたき)一名轟の瀧に於ては、紀州の那智瀧と此瀧とを比べ又は瀧の高さを測らんとすることを、神が最も忌み嫌ひたまふと云ふこと、燈下錄と云ふ書の卷十に見えて居る。斯う云ふことは昔から人のついしさうな事で、しかもごく僅かばかり劣つた方の神樣に取つては、甚だ面白くないことに相異ない。富士と淺間の煙競べと云ふことは今の俗曲の中にもあるが、古代の關東平野では、夙くより筑波と富士との對抗談があつたと見えて、常陸風土記には其に因んだ祖神巡國(おやがみくにめぐり)の話を載せ、勿論自國の筑波山の方が優れたやうに書いて居る。羽後に行くと鳥海山が富士と高さを爭つたと云ふ昔話がある。烏海はどうしても富士には敵はぬと聞いて口惜しさの餘りに山の頂上だけ大海へ飛んだ。それが今の飛島であると云ふ。前に引用した『趣味の傳説』には加賀の白山が富士と高さを爭ひ、二山の頂きに樋を渡して水を通して見ると、白山の方が少し低かつたので、白山方の者が急いで草鞋を脱いで樋の下に宛てがつて平らにした故に、今でも登山者は必ず片方の草鞋を山で脱いで來るのだと云ひ、三河の本宮山と石卷山は相對して一分も高さが違はぬ故に永久に爭つて居り、二つの山に登る者石を携へて行けば草臥れず、小石一つでも持降れば罰が當り參詣が徒爾となると云ふなどは、何れもよく似た山の爭である。此外越中舊事記に依れば婦負郡舟倉山の權現は能登の石動山の權現ともと御夫婦であつたが、嫉妬から鬪諍が起つて十月十二日の祭の日こは今でも礫を打ちたまふ故に、二つの山の間の地には小石が至つて少ないなどゝ云ふさうである。昨年秋の院展に川端龍子君の手腕を示した二荒山緣起の畫なども、やはり亦此山と上州の赤城山との丈競(たけくらべ)古傳を理想化したもので、是たどは最も著しい例であつて、今でも赤城明神の氏子たちは日光には參られない。舊幕時代には牛込邊の旗本御家人たちの赤城樣の氏子であつた者は、公命に依つて日光の役人になつた場合、氏神に參詣して其仔細を申し、自分だけ一時氏子を離れて集土(つくど)八幡又は市谷八幡の氏子となり、在役中の加護を願つたと云ふことが、十方菴の遊歷雜記五篇の中に見えて居る。

[やぶちゃん注:「國玉の大橋の上で猿橋の話をすると災があり、又猿橋で國玉の事をつても同樣であつたと云ふ言傳へ」本「橋姫」の冒頭を参照。

「猿橋の方にもやはり橋の西詰に、諸國の猿曳が尊信する、俗に猿の神樣などゝ呼ぶ小社があつた」「猿曳」「さるひき」。猿回しのこと。不詳。検索やグーグル・ストリートを試みたが、少なくとも現在はそこには存在しないのではなかろうか。

「池田湖」鹿児島県の薩摩半島南東部内陸の鹿児島県指宿市にある直径約三・五、周囲約十五キロメートルのほぼ円形を成す純淡水カルデラ湖で九州最大の湖。湖面標高六十六、最深部は二百三十三メートルあるため、最深部は海抜マイナス百六十七メートルでなる。湖底には直径約八百メートルで湖底からの高さが約百五十メートルもある火山を有する。参照したウィキの「池田湖」によれば、『古くは開聞の御池または神の御池と呼ばれており』、『龍神伝説がある』 とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「三國名勝圖會」前段で既出既注

「阿波の海部川の水源なる王餘魚瀧(かれひのたき)一名轟の瀧」「海部川」は「かいふがわ」と読み、徳島県海部郡海陽町(かいようちょう)を流れる。この瀧は現在の海陽町平井字王余魚谷(かれいだに)にあり(ここ(グーグル・マップ・データ))、落差は十一メートルで、この滝の上流にはまた大小様々な滝が連続して存在し、総称して「轟九十九滝」と呼ぶそうである。個人ブログawa-otoko’s blogの「轟の滝」がよく書かれてあり、それによれば、現在の轟神社摂社とされる本滝神社の御神体「轟ノ滝」は以前は「鰈(かれい)明神」と呼ばれ、以下の話が伝承されているとして、ここで柳田が引く伝承を含めて記されてある。

   《引用開始》

・平井村にある轟瀧は鰈の瀧とも呼ばれ、此瀧壺である深い深い淵の中には大きな鰈が住んでいると言い伝えられている。(「粟の落穂」)

・樵夫(きこり)は、山上で切った材木を毎日此瀧に流し落として里へ出すのを恒としているが、数日を経ても沢山の材木残らず瀧壺にくくまれたままで川下へ流れ出ない事がある。材木が流れ出ない時は瀧壺の沼を加禮伊(かれい)明神で、瀧祭という神事を営むと忽ち数多の材木は流れ出ると云われている。(「阿波名所圖繪」)

・この加禮伊明神の御神火というものは、年毎に二三度、渓水に添うて川を下り、海に出ると紀州に渡り、日を経てお帰りになるという事である。谷筋、海浜の人達は「御神火のお渡り」と言って、丸い形の御神火を拝みに出る者も多いということである。この御神火は「鈴が峯の神火」であるとも言われている。(「粟の落穂」)

・「轟の滝の近くで紀州熊野の那智の滝の話をすることは禁物であり、那智の滝とどちらが大きいだろうとか、またはこの滝の高さを測って見ようとしたりすると、必ず神のたたりがあった。」(「燈下録」)

   《引用終了》

ブログ主は以上から、紀州熊野那智大社と海部鰈明神には何らかの繋がりがあったのではないかと推察され、『轟神社は深い山中に鎮座しているにもかかわらず「海運向上、航海の神」として祀られてい』ることから、『鰈明神の御神火は神を乗せて行き来する舟の灯り、または神事の灯りであったのではない』考察が附されてある。興味深い。なお、この「かれひ」であるが、海の神を祀るからといって滝壺に住んでいるというそれは海産のカレイ(硬骨魚綱カレイ目カレイ科 Pleuronectidae)であるはずはない訳で、たまたま昨日見ていたTV番組で、岡山ではヤマメ(サケ目サケ科サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種 ヤマメ(サクラマス)Oncorhynchus masou masou を「ヒラメ」と呼ぶことを知ったので、ここはその相似性から勝手に私は腑に落ちていた。なお、何故そう呼ぶかは、Q&Aサイトの回答によれば、渓流釣りの本に他の川魚と比較して体長の割りに広くて平たい感じがするからであろうと書かれてあったとあり、これも腑に落ちた。即ち、私の推測では、「山女魚」は平たい目であるから「平目」と呼び、それが海産魚の「鮃(ひらめ)」と混同され、それがまた形態の酷似する「鰈(かれい)」と誤認されるようになったのではないかという推理である。但し、「かれひ」或いは「かれい」は古語としては多様な意味と語源を孕んでいるから、もともとの原義は全く別な意味である可能性が高いようにも思われる。滝壺に棲息する「かれい」という魚(或いは仮想生物或いは神霊)の伝承は後代に縁起附けするために附加されたもののように私には見受けられるからである。

「燈下錄」文化年間(一八〇四年~一八一八年)に元木維然(蘆州)が書いた阿波の風物誌。

「常陸風土記には其に因んだ祖神巡國(おやがみくにめぐり)の話を載せ、勿論自國の筑波山の方が優れたやうに書いて居る」「常陸風土記」は奈良初期の和銅六(七一三)年(年)に元明天皇の詔によって編纂が開始され、養老五(七二一)年に成立した常陸国(現在の茨城県の大部分)の地誌。訓読原文も所持するものの、読むには注が必要と思われるので、個人サイト「神話の森」内の「訳・常陸国風土記」の『三、筑波郡 「握り飯、筑波の国」』を読まれるのがよかろうと存ずる。

「飛島」(とびしま)は山形県酒田市に属する酒田港から北西三十九キロメートル沖合にある山形唯一の有人島。グーグル・マップ・データのこちらで鳥海山との位置を確かめられたい。ウィキの「飛島」によれば、『島の名称の由来には、鳥海山の山頂が噴火によって吹き飛んで島になったという伝説に基づくとする考えもあるが、古地図には海獣の名前を冠した「トド島」「トンド島」と表記する例もあり、決め難い』とある。

「趣味の傳説」本「橋姫」の冒頭を参照。本書国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来るが、ここに記されてあるのは別々な記載で、「加賀の白山が富士と高さを爭ひ、二山の頂きに樋を渡して水を通して見ると、白山の方が少し低かつたので、白山方の者が急いで草鞋を脱いで樋の下に宛てがつて平らにした故に、今でも登山者は必ず片方の草鞋を山で脱いで來るのだと云ひ」の方は「第二四 怨みは草鞋丈の厚さ」で、「三河の本宮山と石卷山は相對して一分も高さが違はぬ故に永久に爭つて居り、二つの山に登る者石を携へて行けば草臥れず、小石一つでも持降れば罰が當り參詣が徒爾となると云ふ」の方は「第一一 山と山との爭」でである。

「越中舊事記」天保年間(一八三〇年から一八四四年)に書かれた越中地誌。

「婦負郡舟倉山の權現」以下の話は国立国会図書館デジタルコレクションのの画像の「舟倉村」で視認出来るが、この「婦負郡」は誤りで旧「新川郡」が正しい。リンク先を確認されたい。恐らくは現在の富山市舟倉周辺と思われる。(グーグル・マップ・データ)。

「昨年秋の院展に川端龍子君の手腕を示した二荒山緣起の畫」本「橋姫」は大正七(一九一八)年一月号『女學雜誌』初出である。川端龍子はこの前年に「二荒山緣起」を発表している。同作に就いての当時の評言(文学博士松本亦太郎筆)が(PDF)で読める。如何なる絵かは私は知らぬ。

「赤城明神」群馬県の赤城山を祀る神社。ウィキの「赤城神社によれば、『群馬県内には「赤城神社」という名前の神社が』百十八『社、日本全国では』三百三十四『社あったとされる。関東一円に広がり、山岳信仰により自然的に祀られたものと、江戸時代に分祀されたものがある。その中でも著名なものが、東京都新宿区赤城元町の赤城神社である』とあり、新宿にあ赤城神社ウィキ見ると(場所は(グーグル・マップ・データ))、『明治維新までは赤城大明神や赤城明神社と呼ばれ』、鎌倉時代の正安二(一三〇〇)年に上野国赤城山の麓から牛込に移住した大胡彦太郎重治によって牛込早稲田にあった田島村に創建されたと伝わり、寛正元(一四六〇)年には江戸城を築城した太田道灌によって牛込台に移されたとある。その後、弘治元(一五五五)年、『現在地に移される。江戸時代には徳川幕府によって江戸大社の一つとされ、牛込の鎮守として信仰を集めた』(下線やぶちゃん。以下同じ)。「江戸名所図会」では『「赤城明神社」として紹介され』、牛込の鎮守と記されてある。

「集土(つくど)八幡」現在の東京都新宿区筑土八幡町にある筑土八幡神社。(グーグル・マップ・データ)。新宿区赤城元町の赤城神社の東方直近。

「市谷八幡」東京都新宿区市谷八幡町にある市谷亀岡(いちがやかめがおか)八幡宮。赤城神社の北一キロ強。

「十方菴の遊歷雜記五篇の中に見えて居る」既注であるが、再掲しておくと、小石川の隠居僧十方庵(じっぽうあん)敬順が文化年間(一八〇四年~一八一八年)に著わした江戸市中の見聞録。以下の話は同書の「第五篇」の「卷之中」の二十三番目にある「牛込赤城大明神開扉神禮」に出る。国立国会図書館デジタルコレクションの「江戸叢書」の当該部分画像のここから次の頁にかけてで視認出来る。]

2017/07/08

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(4) 橋姫と謡曲

 

 それから今度は謠をうたつては惡いと云ふ言傳へをあらまし説明しよう。是も亦各地方に同じ例の多い事で、九州では薩州山川港の竹の神社の下の道、大隅重富の國境白銀坂等に於て、謠を謠へば必ず天狗倒しなどの不思議があつたことは三國名勝圖會に見え、越後五泉町の八幡社の池の側では、謠を謠へば女の幽靈が出ると溫故之栞第七號に見えて居る。又駿州靜岡の舊城内杜若長屋と云ふ長屋では、昔から杜若の謠を嚴禁して居たことが津村淙庵の譚海卷十二に見えて居るが、是は何故に特に杜若だけが惡いのか詳しいことは分らぬ。併し他の場合には理由の明白なるものもあるのである。例へぱ近頃出來た名古屋市史の風俗編に、尾張の熱田で揚貴姫の謠を決してうたはなかつたのは、以前此境内を蓬萊宮と稱し、唐の揚貴姫の墳があると云ふ妙な話があつた爲で、新撰陸奧風土記卷四に、磐城伊具郡尾山村の東光院と云ふ古い寺で、寺僧が道成寺の謠を聞くことを避けて居たのは、かの日高川で清姫が蛇になつて追掛けたと云ふ安珍僧都が、實は此寺第三世の住職であつた爲であると言つて居る。信濃の善光寺へ越中の方から參る上路越(あげろこゑ)の山道で、山姥の謠を吟ずることは禁物と、笈埃隨筆卷七に書いてある理由などは、恐くはくだくだしく之を述べる必要も無いであらう。然らば立戾つて前の甲州國玉の逢橋の上で、通行人が「葵の上」を謠ふと暗くなつて道を失ふと裏見寒話にあり、近代になつては「野宮」がいかぬと云ふことになつたのは抑如何。是は謠と云ふものを知らぬ若い人たちでも、源氏物語を讀んだことのある方にはすぐに推察が能ることである。つまり「葵の上」は女の嫉妬を描いた一曲であつて、紫式部の物語の中で最も嫉深い婦人、六條の御息所と云ふ人と賀茂の祭の日に衝突して、其恨の爲に取殺されたのが葵の上である。「野宮」と云ふのも所謂源氏物の謠の一つで、右の六條の御息所の靈をシテとする後日譚を趣向したものであるから、結局は女と女との爭ひを主題にした謠曲を、この橋の女神が好まれなかつたのである。「三輪」を謠へば再び道が明るくなると云ふ仔細はまだ分らぬが、古代史で有名た三輪の神樣が人間の娘と夫婦の語ひをたされ、苧環(おだまき)の絲を引いて神の驗の杉木の上に御姿を示されたと云ふ話を作つたもので、其末の方には「又常闇(とこやみ)の雲晴れて云々」或は「其關の戸の夜も明け云々」などゝ云ふ文句がある。併し何れにしても橋姫の信仰なるものは、謠曲などの出來た時代よりもずつと古くからあるは勿論、源氏の時代よりも更に又前からあつたことは、現に其物語の中に橋姫と云ふ一卷のあるのを見てもわかるので、此には只どうして後世に、そんな話を憎む好むと云ふ話が語らるゝに至つたかを、考へて見ればよいのである。

[やぶちゃん注:「薩州山川港の竹の神社」現在の鹿児島県指宿市山川(やまがわ)福元にある竹山神社のことと思われる。鹿児島県神社庁公式サイト内の同神社の頁によると、創建は天和三(一六八二)年で、『岩石奇峯二山を神体としている』とした後に、『一説に谷山烏帽子嶽大権現大天狗ともいう。縁起によれば、隣に連なっている鳶之口峰との間は天狗の住みかで、頂上に神灯が見えたり、太鼓・笛・法螺の音が鳴り響き渡ったり、岩石が大きな音をたてて崩れ落ちたりする様々な霊怪が伝えられている』とあるからである。場所はこちら(グーグル・マップ・データ)。なお、ずっと北の指宿市山川新生町の町中にも同名の神社があるが、これはこちらの分社か。

「大隅重富の國境白銀坂」文庫版全集では白銀に『しろがね』とルビを振るが、これは現在の鹿児島県姶良市脇元から鹿児島市牟礼岡まで伸びる石畳の坂道白銀坂(しらかねざか)のことである。ウィキの「白銀坂」によれば、『坂のある山並みは古代から近世における薩摩国と大隅国の国境であり、戦国時代には島津貴久や島津義弘といった武将たちがこの坂に陣を構えていた』。『江戸時代に入ると、白銀坂は鹿児島の主要街道である「大口筋(薩摩街道)」上の難所として、多くの人々に知られるようになった。 坂の全長は約』四キロメートルであったが、現在はその内の約二・七キロメートルが残っている、坂の高低差は三百メートル以上もあって、『中腹には「七曲り」といわれる急勾配の箇所もあり、急な坂道部分には石畳が敷くのとは対照的に、尾根上の平坦部分には石段を部分的に設けるのが坂の特徴である』とある。如何にも天狗好みの坂ではないか。この中央付近(グーグル・マップ・データ)と思われる。

「天狗倒し」深山に於いて突然凄まじい原因不明の大音響が起こるが、行って見ても何らの形跡もない怪奇現象を指す。天狗の仕業とされた。

「三國名勝圖會」江戸後期、薩摩藩第十代藩主島津斉興(なりおき)の命によって編纂された領内地誌。天保一四(一八四三)年完成。書名の「三國」は薩摩国・大隅国と日向国の一部を含むことによる。特に神社仏閣についてはその由緒・建物の配置図・外観の挿絵まで詳細に記載されており、各地の名所風景を描いた挿絵も多い。全六十巻(以上はウィキの「三国名勝図会」に拠った)。

「越後五泉町の八幡社」旧新潟県中蒲原郡五泉町(ごせんまち)は現在は五泉市内。同所で最も知られる八幡社は宮町にある五泉八幡宮(グーグル・マップ・データ)であるが、ここか?。

「溫故之栞」(おんこのしおり:現代仮名遣)は新潟の温故談話会の発行した地方民俗雑誌『越後志料温故之栞』。明治二三(一八九〇)年二月から明治二十六年一月まで三十六号を刊行している。

「駿州靜岡の舊城内杜若長屋と云ふ長屋では、昔から杜若の謠を嚴禁して居たことが津村淙庵の譚海卷十二に見えて居る」「杜若」は「かきつばた」(文庫版全集ルビ)。以下。

   *

駿河城内に、杜若といふ御長屋あり。爰にて杜若の謠をうたへば、かならずあやしき事あり。よつて駿河御番の衆には、杜若の謠は御法度のよし、御條目の一つに仰渡さるゝこと也。

   *

因みに、謡曲「杜若」は作者不詳(世阿弥や金春禅竹作説あり)。旅僧が三河の八橋 に行きかかると、杜若の精が現れて「伊勢物語」の話をし、在原業平の歌の功徳で成仏したことなどを語るもの。その判り易い梗概は「スーちゃんの妖怪通信」の島根県松江市の伝承「杜若の謡」が判り易いが、そこに書かれた妖怪「小豆研ぎ」との関連も面白い。そこにも記されている通り、この松江の怪奇伝承は小泉八雲が記している。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (一八)』を参照されたい。

「揚貴姫」後の部分とともにママ。文庫版は両方とも普通に『楊貴妃』となっている。謡曲「楊貴妃」は金春禅竹作で、玄宗皇帝の命を受けた方士が亡き楊貴妃の霊を仙界の蓬萊宮に尋ね当てて貴妃の霊がかつての玄宗との愛などを語る、白居易の「長恨歌」をもととした唐物。

「新撰陸奧風土記」保田光則(やすだみつのり 寛政九(一七九七)年~明治三(一八七〇)年):陸奥仙台藩士で国学者。和漢の学に優れ、藩校養賢堂和学指南役及び藩主の歌道師範役を兼ねた)著。万延元(一八六〇)年刊。

「磐城伊具郡尾山村の東光院」現在の宮城県角田市尾山(ここ(グーグル・マップ・データ))にあった修験寺。現存しない。宮城県角田市観光情報ポータルサイト「ココカクダ」の「東光院跡」によれば、『東光院は本山派京都聖護院の大先達として、仙台の良覚院、丸森木沼の宗吽院とともに祈祷所として大きな役割を果し、伊具・名取・宇多も』三『郡を霞場(祈祷の縄張り的地域)として』、慶長一三(一六〇八)年に『伊達政宗に与えられた』。『東光院には安達ヶ原の鬼退治の伝説、安珍清姫の道成寺物語がある』とある。この「かの日高川で清姫が蛇になつて追掛けたと云ふ安珍僧都が、實は此寺第三世の住職であつた」とする話は、調べてみると、現行の安珍清姫伝承とは異なる不審な展開のように思われる(何より「僧都」「三世」とあってはこの物語の安珍は死んでいないとしか読めぬ)。場所が少し離れるが(角田市尾山から西北西十一キロメートルほど。(グーグル・マップ・データ))、宮城県白石市不澄ケ池にある真言宗延命寺には「安珍地蔵尊(ころり地蔵尊)」なるものがあり、その寺にある解説板に、本寺の伝承についての言及が以下のようにある(杜のイーグルス氏のブログのこちらにある画像を視認した)。

   *

修行僧安珍については、各地に種々の伝承が残っている。伊具郡尾山村(現在の角田市尾山)東光院の寺伝によると、東光院第三世安珍が二十七歳の折、紀州熊野山三山への修行行脚の途中、紀州真砂庄司(しょうじ)の佐夜姫(清姫)に恋慕されるが、修行のためとそれを拒む。

 佐夜姫は安珍恋しさのあまり、日高川に身を投じ、その霊魂が妖怪となり、後々までもたたりをなしたという。

(伊具郡尾山風土記書上) 

 歌舞伎「道成寺物語」では、安珍が道成寺の釣鐘に身を隠すが、大蛇と化した清姫に鐘もろとも巻き付かれ、その煩悩の火によって焼死したという。さらに一説に、この僧安珍は白石生まれと伝えられ、その悲報を伝え聞き、供養のために造立したのがこの地蔵尊といわれ、いつのころからか「ころり地蔵尊」と呼ばれ参詣されるようになったという。

   *

「道成寺の謠」私は道成寺伝承のフリークで、サイトに「道成寺鐘中 Doujyou-ji Chroniclという特設サイトを持っている。謡曲の「道成寺」はこちら

「信濃の善光寺へ越中の方から參る上路越(あげろこゑ)の山道で、山姥の謠を吟ずることは禁物と、笈埃隨筆卷七に書いてある」「笈埃隨筆」(きゅうあいずいひつ)は江戸中期の旅行家百井塘雨(ももいとうう ?~寛政六(一七九四)年)の作。所持する吉川弘文館随筆大成版を参考に、恣意的に漢字を正字化して示す。

   *

     ○山姥

 越後より信州善光寺へ參詣するに、上道下道あげろ越とて、三筋の大難所ありて、多くの谷峯を越ゆる也。或は葛を以て橋となせる川など有て、なかなか容易に至り難き道なれば、本道を十度參らんよりは、此道を步行にて、一度參詣するを功德勝れたりとす。則あけろと云。糸魚川より五里上の村中に一つの林あり。昔山姥の住家なりとて、古松は兩枝相さゝへ鳥居の形に似たり。此邊にて山姥の謠を吟ずる事を堅く禁止すといふ。【案ずるに、上道下道あけろの三道とは不審。上道則上路ならんか。尋ぬべし。此謠曲も善光寺へ參る道すがら山姥に逢しといへりとぞ。】

   *

筆者百井も不審に思っているように、「上道下道あげろ越とて、三筋の大難所」と言いつつ、「本道を十度參らんよりは、此道を步行にて、一度參詣するを功德勝れたり」とある以上は、「上道」・「下道」・「あげろ越」という別個な三通りの参道があるのではなく、「上道」は「則」ち「上路」(あげろ)なのであり、その上り下りのある、途中の峠を「あげろ越」と称する難道の参道が「本道」以外に今一本あると言っているのだと私は思う。ここに出る謡曲「山姥」は、世阿弥作と推定されるもので、京で「山姥の山廻り」という曲舞(くせまい)を美事に演したことから「百ま(「萬」或いは「魔」)山姥」と呼ばれた遊女が従者を連れて善光寺参りを志し、越中越後の国境にある境川から上路山を越えんとするも、山中で急に日が暮れてしまって困り果てていると、そこに年嵩の女が現われ、一夜の宿を貸してくれる。女は自ら山姥であることを明かし、遊女のまさにかの曲舞を今宵の月の上がった夜半に舞うてくれることを乞うて消える(この中入の前後にもう少し展開がある)夜更けに舞いを奏でると、山姥が異形の姿を現し、己が深山幽谷での妖魔としての境涯を語り、しかも仏法の深遠な理りを説いて、まことの「山廻り」のありさまを表わして舞いつつ、姿を消すというストーリーである。

『前の甲州國玉の逢橋の上で、通行人が「葵の上」を謠ふと暗くなつて道を失ふと裏見寒話にあり』本橋姫」冒頭の私の注を参照。謡曲「葵の上」はシテを六条御息所の生霊とする「源氏物語」の「葵」に基づく怨霊物で世阿弥以前の作。

「野宮」謡曲「野宮」。「ののみや」と読む。金春禅竹作ともされる。旅僧が嵯峨野の野宮の旧跡を訪れ,一人の女と会い、光源氏がこの野宮に六条御息所を訪問したことなどを語って鳥居の陰に消える。夜となって弔いをする僧の前に車に乗った御息所の霊が現われ、正妻葵上との車争いのことなどを語って、嘗ての恋の喜びと悲しみを舞うもの。

「抑如何」「そもいかん」。

「能る」「かなふる」か。文庫版全集では平仮名で『できる』となっている。

『「三輪」を謠へば再び道が明るくなる』やはり橋姫」冒頭を参照。謡曲「三輪」は作者不明。シテは三輪明神の神霊。大和の三輪に住む玄賓(げんぴん)僧都のもとに一人の女が来、衣を一枚恵んで欲しいと願う。僧都が与えてその棲家を聞くと、三輪山の杉の辺りと言って消える。僧都が三輪山を訪ねると、神木の杉に先に女に与えた衣が掛かっており、その裾に神託の和歌が託してあった。やがて、巫女の姿を借りた神霊が烏帽子・狩衣の男の衣装で現われて三輪明神に纏わる上古の伝説を物語るという趣向。

「苧環(おだまき)」紡いだ麻糸を巻いて中空の玉にしたもの。

『其末の方には「又常闇(とこやみ)の雲晴れて云々」或は「其關の戸の夜も明け云々」などゝ云ふ文句がある』。謡曲「三輪」のエンデイングは以下。

   *

神樂

シテ 〽天の岩戸を引き立てて

地  〽神は跡なく入り給へば 常闇(とこやみ)の世と早なりぬ

シテ 〽八百萬(やおよろず)の神達 岩戸の前にてこれを歎き 神樂を奏(そお)して舞ひ給へば

地  〽天照太神(てんしよおだいじん) 其時に岩戸を 少し開き給へば

地  〽また常闇の雲晴れて 日月(じつげつ)光り輝(かかや)けば 人の面(おもて)白々(しろじろ)と見ゆる

シテ 〽面白やと 神の御聲(みこえ)の

地  〽妙(たえ)なる始めの 物語

地  〽思へば伊勢と三輪の神 思へば伊勢と三輪の神 一體 分身(ふんしん)の御事(おんこと) 今さら何(なに)と岩倉(いはくら)や その關の戸の夜(よ)も明け かく有難き夢の告げ 覺(さ)むるや名殘(なごり)なるらん 覺むるや名殘なるらん

   *

「橋姫と云ふ一卷」「源氏物語」(五十四帖)の内の第四十五帖。第三部の一部である「宇治十帖」の第一帖で主人公薫は十九から二十一歳。世の無常を感じて出家を志す薫が宇治の八の宮(光源氏の異母弟)を訪ねる。三年の後に再訪した薫は、彼の二人の姫君(大君(おおいきみ)と中君(なかのきみ))を見て心動かされ、出家を決意した八の宮は彼に二人の娘を託すが、その夜、薫は弁(べん)の乳母(めのと)から柏木臨終のさまを聴き、自分の出生の秘密を知って暗澹たる思いとなるといった展開の帖である。]

2017/07/07

宿直草卷三 第九 伊賀の池に虵すむ事

 

  第九 伊賀の池に虵(じや)すむ事

 

Igahebibake

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。今回は敢えて全く清拭していない。これは底本ではすこぶるマシな方。如何に汚損がひどいかお判り戴けることと思う。]

 

 伊賀の國何(いづ)れの郡(こほり)か、大きなる池ありて、大虵(だいじや)棲む。山、深ふして、道、狹(せば)く、谷、凄(すさ)まじうして、人倫、絶へたり。

 しかるに當時(そのかみ)の事とや、其國の大守の内に、高知(かうち)給りて、何がしの人、度々(たびたび)高名隱れなきあり。ある時、ふと思ひ立て行く。池、近くなりて、下人に云ひつくるは、

「をのれらは、こゝに居て、日の暮(くる)るまで待(まつ)べし。」

とて、其身一人、行く。

 澤(さは)遠(とを)ふしてめぐるに、草臥(くたびれ)たり。

 かくて、半分過(すぎ)もゆくに、「ぞ」と、怖くして、身震(みぶる)ひす。

「一代覺えぬ珍しき事かな。」

と思ふに、廿(はたち)あまりの女房、向ふより來たる。

「これぞ大虵よ。」

と、上(うへ)にはつくろふ事もなく、心に用心して行くに、かの女、行(ゆき)違ふ時、會尺(ゑしやく)して、口の内に聲ありて、笑ふ。この人もすれ違ふて通りしが、何の子細もなし。

「生臭(なまぐさ)き事、いふにたえたり。大虵も化(ば)くるものなり。」

と語られしと也。

 さる人に、此物語り、し侍りしに、

「もちと、その人には、かろし。八尾(やお)八頭(やかしら)の大虵(おろち)を、十握(とつか)の劍(けん)に殺し給ふ尊(みこと)もあれど、彼(かれ)は姫を得給ふ德あり。これは、なし。あまさへ、孝を盡くすべき親と、祿を得て忠に償(つぐ)なふ主(しゆ)もあれば、身を全(また)く持つこそ本意(ほい)ならめ。何の德ありて、あやしの所へ行かんや。『小勇(せうゆう)は血氣の勇(よう)なり。大勇は禮義の勇なり。』と張敬夫(ちやうけいふ)も云ひし。口惜しくこそ。」

と云へり。

 また、其心入も知りがたし。定めて深き寄邊(よるべ)もあめり。かの袖の名字は、よしや云はずとも。

 

[やぶちゃん注:「其國の大守の内に、高知(かうち)給りて」その国の領主の覚えの異様にめでたい人物という意味であろうか。

「一代覺えぬ」生まれてこの方、感じたことのない。

「上(うへ)にはつくろふ事もなく」表面上は素知らぬ振りで、普通通りの表情のまま、身構えもせず。

「もちと、その人には、かろし」「なんともまあ、いささか、その人物は、軽率じゃ。」。

「尊(みこと)」言わずもがな、八岐大蛇を退治した素戔嗚命。

「姫」櫛名田姫。

「張敬夫(ちやうけいふ)」(一一三三年~一一八〇年)は南宋の儒者。大儒朱熹とは友人であった。「小勇(せうゆう)は血氣の勇(よう)なり。大勇は禮義の勇なり」は「孟子」の朱熹注の中に張敬夫の言葉として「小勇者、血氣之怒也。大勇者、理義之怒也。血氣之怒不可有、理義之怒不可無。知此、則可以見性情之正而識天理人欲之分矣。」(小勇は、血気の怒りなり。大勇は、理義の怒りなり。血気の怒りは有るべからず、理義の怒りは無きこと有るべからず。此れを知れば、則ち以つて、性情の正を見、天理人欲の分(ぶん)を識るべし)と引かれるのに基づく謂いであろう。

「また、其心入も知りがたし。定めて深き寄邊(よるべ)もあめり。かの袖の名字は、よしや云はずとも」荻田はこの主人公を辛辣に指弾する前の人物とは違って、少し善意に彼を解釈しようとしている。「確かに、この御仁が命を失いかねないこの暴挙を、どのような強い思いによって成したものかは知ることは出来ない。恐らくは我々の推し量ることの出来ない、何か深い理由や動機があったのではないかと思われる。かの御仁の苗字は、たとえ、ここでは言わぬことにしておくにしても。」。]

柴田宵曲 續妖異博物館 「茶碗の中」 附 小泉八雲「茶碗の中」原文+田部隆次譯

 

 茶碗の中

 

[やぶちゃん注:本文にも出る通り、愛する小泉八雲が“ In a Cup of Tea ”(「茶碗の中」)に英文翻案した、私の偏愛するところの、正体不明の妖しい者たちがわけも分らずに波状的に出現してくる異様に截ち切れたような(少なくとも八雲のそれはそうであり、そこがまた私はすこぶる附きで好きなのである)怪奇である。従って、注には特に力を入れた。]

 

 天和四年正月四日と明かに年月日が書いてある。中川佐渡守が年禮に出た時、その供に堀田小三郞といふ人が居つた。本鄕の白山の茶店に休息し、そこで召し連れた關內といふ者が水を飮むと、茶碗の中に美しい若衆の顏がうつつた。その水は地に打ち明け、新しい水を汲んだところ、やはり同じやうな顏が見える。仕方がないので今度は飮んでしまつたが、その晩關內の部屋に一人の若衆が訪れた。晝間はじめて御意を得申した、式部平内と申す者でござる、と云ふ。關內はびつくりして、私に於ては全然おぼえがない、そなたは表の門をどうして通つて來られたか、不審である、よもや人間ではあるまい、と云ふなり拔き打ちに斬り付けた。逃げ出すのを追駈けて鄰家の境まで行つたが、途に若衆を見失つてしまつた。家中の人々が出て來て、關內の話を聞いたけれど、誰にもどういふわけだかわからなかつた。然るにその翌晩また關內をたづねて來た者があり、誰かと問へば、式部平內の使ひ松岡平藏、岡村平六、土橋文藏と申す者である、折角思ひを寄せて來たものを、いたはるほどの事はなくとも、手を負はせるとは何事であるか、平內は疵養生のため湯治に參つたが、十六日には歸るであらう、その時恨みを酬いるから、と云ふ。關內は心得たりと脇差を拔いて斬り付けると、鄰りの境まで逃げて行き、壁に飛び上つたと見る間に消え失せた。その後は遂に何も來なかつた。

[やぶちゃん注:「天和四年正月四日」グレゴリオ暦一六八四年二月十九日。第五代将軍徳川綱吉の治世であるが、善政としての「天和の治」は終りを告げ、この年以降、綱吉は大老を置かずに側用人牧野成貞や柳沢吉保らを重用し、老中らを遠ざけるようになった。なお、この年は二月二十一日(グレゴリオ暦四月五日)に貞享に改元している。

「中川佐渡守」豊後岡藩第四代藩主中川久恒(寛永一八(一六四一)年~元禄八(一六九五)年)であるが、ウィキの「中川久恒」によれば、この事件があったとされる二年前の天和二年には、『生来』、『病弱だったため』、『弟たちによって藩政が代行されている』とある。

「本鄕の白山」現在の東京都文京区白山(はくさん)。江戸幕府によって開園された小石川御薬園(おやくえん)、現在の小石川植物園を含む一帯。寺院が多い。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「堀田小三郞」一般に「ほったこさぶろう」(現代仮名遣)と読まれているようである。この人物名は小泉八雲の“ In a Cup of Tea には登場しない。以下、人名の表記や読みはウィキの「茶碗の中」及び平川祐弘編小泉八雲「怪談・奇談」の解説などを参照した。

「關內」ネットでは平然と「かんない」の読みを振るものが多く見られるが、原典は「せきない」で、小泉八雲の表記も“Sekinai”である

「式部平內」一般に「しきぶへいない」と読まれている。小泉八雲も“ In a Cup of Tea “ Shikibu Heinai ”とする。

「松岡平藏」小泉八雲の“ In a Cup of Tea では“ Matsuoka Bungo ”で、各種の和訳では「文吾」を当てるものが多い。

「岡村平六」“ In a Cup of Tea “ Okamura Heiroku ”

「土橋文藏」原典には「つちばし」と濁音でルビが振られてある。“ In a Cup of Tea “ Tsuchibashi Bungo” と変わっている。訳では「土橋文吾」を当てるものが多い。

 次の段に出る通り、これは「新著聞集」の「卷五」の「奇怪篇 第十」の「茶店(さてん)の水椀(すいわん)若年(じやくねん)の面(をもて)を現(げん)ず」である。吉川弘文館随筆大成版を加工データとしつつ、オリジナルに漢字を増やし(一つは原典の歴史的仮名遣が誤っているのを隠すためもある)、一部に読みも添えた。その際、サイト「富山大学学術情報リポジトリ」内の「ヘルン文庫」の小泉八雲旧蔵本である本「新著聞集」の原本PDF版(カラー)を参考視認した。また、読み易さを考え、句読点と記号及び改行をオリジナルに変更・追加しておいた。

   *

    茶店の水椀若年の靣を現ず

 天和四年正月四日に、中川佐渡守殿(さどのかみとの)、年禮におはせし供(とも)に、堀田(ほつた)小三郞といふ人、參り、本鄕の白山の茶店(ちやだな)に立(たち)より休らひしに、召仕(めしつかひ)の關內(せきない)といふ者、水を飮(のみ)けるが、茶碗の中に、最(いと)麗(うるは)しき若年の顏、うつりしかば、いぶせ思ひ、水を捨てて、又、汲(くむ)に、顏の見えしかば、是非なく飮(のみ)てし。

 其夜、關內が部屋へ若衆(わかしう)來り、

「晝は初(はじめ)て逢(あひ)參らせつ。式部平內といふ者也。」

關內、驚き、

「全く、我は覺え侍らず。扨(さて)、表の門をば、何として通り來れるぞや。」

『不審(いぶかし)きも物なり。人にはあらじ。』と思ひ、拔き打ちに切りければ、逃出(にげいで)たりしを、嚴しく追(をひ)驅(か)くるに、隣の境(さかひ)まで行(ゆき)て見失ひし。

 人々、出合(いであ)ひ、其由を問ひ、

「心得がたし。」

とて、扨、やみぬ。

 翌晩、

「關內に逢はん。」

とて、人、來る。

「誰(たれ)。」

と問(とへ)ば、

「式部平內が使ひ松岡平藏・岡村平六・土橋(つちばし)文藏といふ者なり。思ひ寄りて參りしものを、勞(いたは)るまでこそなくとも、手を負(をは)せるは、如何(いかゞ)ぞや。疵(きず)の養生(やうじやう)に湯治(たうぢ)したり。來(きた)る十六日には歸りなん。其時、恨(うらみ)をなすべし。」

といふを見れば、中々、荒けなき形(かた)なり。關內、

「心得たり。」

とて、脇指を拔き斬りかゝれば、逃げて、隣の壁(かべ)に飛(とび)上がりて、失(うせ)侍りし。後、又も來(きた)らず。

   *

「荒けなし」の「なし」は「無し」ではなく「甚だし」の意の接尾語で、意味は「ひどく荒々しい・乱暴である」の意である。] 

 

「新著聞集」に出てゐるこの話は、小泉八雲が「茶碗の中」といふ題で紹介した。勿論原話通りではない。八雲一流の想像でいろいろ補つたところもある。最初茶碗の中に現れた美しい顏から云つても、二度目に來た三人の言葉に「思ひよりて參りしもの」とあることから云つても、當然衆道に結び付かなければならぬのに、八雲の說明はこれを缺いてゐるため、何だか靴を隔てて痒きを搔く憾みがある。もう一つはかういふ顏が幻に現れる以上、關內の方からその若衆に思ひを寄せるのが當然で、茶碗の水に現れた若衆が關內をたづねて來るのは、順序が逆のやうに思はれる。吾々はこゝでこの話を種に使つたらしい野呂松(のろま)狂言の「水鏡」を擧げなければならぬ。

[やぶちゃん注:「衆道に結び付かなければならぬのに、八雲の說明はこれを缺いてゐるため、何だか靴を隔てて痒きを搔く憾みがある」宵曲は後の方でも、原話の「新著聞集」も含めて「畫龍點晴」(がりょうてんせい)を欠くなどと暗示的に述べて、小泉八雲の脚色に異様に不満たらたらなのであるが、私はそうした理由不明の怪異の出来(しゅったい)の持つ、突き放された感じにこそ、真正怪談の凄さがあると感ずる人種である。亡魂の恨みの内実や、怪異出来の真の動機・原因が論理的(仏教的な因果論であっても)に明らかにされてしまった瞬間、怪談は――速やかに――怖くなくなる――のである。怪異を丸ごとわけの判らぬものとして体感する時にのみ、真の怪談の怖さは、発揮される。宵曲が、かく文句を言うその顔に、私は、男色でニンマリする大人のえげつないほくそ笑みしか、見えないのである。そうしてまた、そのような若衆道を、あからさまに示すような筋立てにしてしまった時、本話は、永久に少年少女の読む怪談集から外されしまい、大人の隠微な怪談集でしか読めない、完全封印作品となってしまったに違いなく、私が少年期、この話から受けた半端ない恐怖の衝撃も、あり得なくなったに違いない、と断ずるものである。

 ではまず、満を持して、小泉八雲の明治三二(一九〇二)年刊の“ Kottō: Being Japanese Curios, with Sundry Cobwebs (「骨董――ぞわぞわとした蜘蛛の巣に塗れた日本の骨董品」)の中の“ In a Cup of Tea の原文を示す。冒頭の作者の附言が、これまた、ゴシック・ロマン風に。まっこと、お洒落である。“Internet Archives”こちらで原典画像を視認した。原注の欄外注は[ ]で当該段落末に配した。

   * 

 

In a Cup of Tea 

 

HAVE you ever attempted to mount some old tower stairway, spiring up through darkness, and in the heart of that darkness found yourself at the cobwebbed edge of nothing?  Or have you followed some coast path, cut along the face of a cliff, only to discover yourself, at a turn, on the jagged verge of a break ?  The emotional worth of such experience ― from a literary point of view ― is proved by the force of the sensations aroused, and by the vividness with which they are remembered.

   Now there have been curiously preserved, in old Japanese story-books, certain fragments of fiction that produce an almost similar emotional experience. . .  Perhaps the writer was lazy;  perhaps he had a quarrel with the publisher; perhaps he was suddenly called away from his little table, and never came back; perhaps death stopped the writing-brush in the very middle of a sentence.

   But no mortal man can ever tell us exactly why these things were left unfinished. . . .  I select a typical example.

          * *
            *

   On the fourth day of the first month of the third Tenwa,― that is to say, about two hundred and twenty years ago, ― the lord Nakagawa Sado, while on his way to make a New Year's visit, halted with his train at a tea-house in Hakusan, in the Hongō district of Yedo.While the party were resting there, one of the lord's attendants, ― a wakatō 1 named Sekinai,― feeling very thirsty,filled for himself a large water-cup with tea. He was raising the cup to his lips when he suddenly perceived, in the transparent yellow infusion, the image or reflection of a face that was not his own. Startled,he looked around, but could see no one near him. The face in the tea appeared, from the coiffure, to be the face of a young samurai :it was strangely distinct, and very handsome, delicate as the face of a girl. And it seemed the reflection of a living face for the eyes and the lips were moving.Bewildered by this mysterious apparition,Sekinai threw away the tea, and carefully examined the cup. It proved to be a very cheap water-cup, with no artistic devices of any sort. He found and filled another cup and again the face appeared in the tea. He then ordered fresh tea, and refilled the cup; and once more the strange face appeared, ― this time with a mocking smile. But Sekinai did not allow himself to be frightened. “Whoever you are,”he muttered,“you shall delude me no further!”― then he swallowed the tea, face and all, and went his way, wondering whether he had swallowed a ghost.

[1The armed attendant of a samurai was thus called. The relation of the wakatō to the samurai was that of squire to knight.]

   Late in the evening of the same day, while on watch in the palace of the lord Nakagawa, Sekinai was surprised by the soundless coming of a stranger into the apartment. This stranger,a richly dressed young samurai, seated himself directly in front of Sekinai, and, saluting the wakatō with a slight bow, observed: ―

   “I am Shikibu Heinai ― met you to-day for the first time. . . .  You do not seem to recognize me.”

   He spoke in a very low, but penetrating voice. And Sekinai was astonished to find before him the same sinister, handsome face of which he had seen, and swallowed, the apparition in a cup of tea. It was smiling now, as the phantom had smiled;  but the steady gaze of the eyes, above the smiling lips, was at once a challenge and an insult. 

   “No, I do not recognize you,”returned Sekinai, angry but cool; ― “and perhaps you will now be good enough to inform me how you obtained admission to this house ?”

   [In feudal times the residence of a lord was strictly guarded at all hours; and no one could enter unannounced, except through some unpardonable negligence on the part of the armed watch.]

   “Ah, you do not recognize me !”exclaimed the visitor, in a tone of irony, drawing a little nearer as he spoke. “No, you do not recognize me! Yet you took upon yourself this morning to do me a deadly injury ! . . .”

   Sekinai instantly seized the tantō1 at his girdle, and made a fierce thrust at the throat of the man. But the blade seemed to touch no substance. Simultaneously and soundlessly the intruder leaped sideward to the chamber-wall, and through it! .  .  .  The wall showed no trace of his exit. He had traversed it only as the light of a candle passes through lantern-paper.

[1The shorter of the two swords varried by samurai, the longer swoed was called katana.]

   When Sekinai made report of the incident, his recital astonished and puzzled the retainers.No stranger had been seen either to enter or to leave the palace at the hour of the occurrence; and no one in the service of the lord Nakagawa had ever heard of the name “Shikibu Heinai.”

  On the following night Sekinai was off duty, and remained at home with his parents. At a rather late hour he was informed that some strangers had called at the house, and desired to speak with him for a moment. Taking his sword, he went to the entrance, and there found three armed men, ― apparently retainers, ― waiting in front of the door-step. The three bowed respectfully to Sekinai; and one of them said :―

   “Our names are Matsuoka Bungo, Tsuchibashi Bungō, and Okamura Heiroku.We are retainers of the noble Shikibu Heinai. When our master last night deigned to pay you a visit, you struck him with a sword. He was much hurt, and has been obliged to go to the hot springs, where his wound is now being treated. But on the sixteenth day of the coming month he will return; and he will then fitly repay you for the injury done him. . . ."

   Without waiting to hear more, Sekinai leaped out, sword in hand, and slashed right and left, at the strangers.  But the three men sprang to the wall of the
adjoining building, and flitted up the wall like shadows,  and  . .

             *
           * *

   Here the old narrative breaks off; the rest of the story existed only in some brain that has been dust for a century.

   I am able to imagine several possible endings; but none of them would satisfy an Occidental imagination.  I prefer to let the reader attempt to decide
for himself the probable consequence of swallowing a Soul.

   *

 次に、田部(たなべ)隆次氏の訳を電子化する。原本は古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」(昭和二五(一九五〇)年新潮文庫刊)のものでこちらPDF化されたものを視認した。太字は底本では傍点「ヽ」。

   *

    茶碗の中

 讀者はどこか古い塔の階段を上つて、眞黑の中をまつたて[やぶちゃん注:「眞縱」の意か。]に上つて行つて、さてその眞黑の眞中に、蜘蛛の巢のかかつた處が終りで外には何もないことを見出したことがありませんか。或は絕壁に沿うて切り開いてある海ぞひの道をたどつて行つて、結局一つ曲るとすぐごつごつした斷崖になつて居ることを見出したことはありませんか。かういふ經驗の感情的價値は――文學上から見れば――その時起された感覺の强さと、その感覺の記憶の鮮かさによつてきまる。

 ところで日本の古い話し本に、今云つた事と殆んど同じ感情的經驗を起させる小の斷片が、不思議にも殘つて居る。……多分、作者は不精だつたのであらう、或は出版書肆と喧嘩したのであらう、いや事によれば作者はその小さな机から不意に呼ばれて、かへつて來なかつたのであらう、或は又その文章の丁度眞中で死の神が筆を止めさせたのであらう。とにかく何故この話が結末をつけないで、そのままになつて居るのか、誰にも分らない。……私は一つ代表的なのを選ぶ。

           * *
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 天和四年一月一日[やぶちゃん注:ママ。上記の通り、英文原文では天和三年となっていて「新著聞集」の原典クレジットを変えてある。小泉八雲が改変した理由は不詳。或いは、前に注した改元との絡みで、八雲は天和四年はないと誤認したからかも知れぬ。]――卽ち今から二百二十年前――中川佐渡守が年始の𢌞禮に出かけて、江戶本鄕、――白山の茶店に一行とともに立寄つた。一同休んで居る間に、家來の一人――關內と云ふ若黨が餘りに渇きを覺えたので、自分で大きな茶碗に茶を汲んだ。飮まうとする時、不意にその透明な黃色の茶のうちに、自分のでない顏の映つて居るのを認めた。びつくりしてあたりを見𢌞したが誰もゐない。茶の中に映じた顏は髮恰好から見ると若い侍の顏らしかつた、不思議にはつきりして、中々の好男子で、女の顏のやうにやさしかつた。それからそれが生きて居る人の顏である證據には眼や唇は動いてゐた。この不思議なものが現れたのに當惑して、關内は茶を捨てて仔細に茶碗を改めて見た。それは何の模樣もない安物の茶碗であつた。關内は別の茶碗を取つてまた茶を汲んだ、[やぶちゃん注:読点はママ。]また顏が映つた。關內は新しい茶を命じて茶碗に入れると、――今度は嘲りの微笑をたたへて――もう一度、不思議な顏が現れた。しかし關內は驚かなかつた。『何者だか知らないが、もうそんなものに迷はされはしない』とつぶやきながら――彼は顏も何も一吞みに茶を飮んで出かけた。自分ではなんだか幽靈を一つ吞み込んだやうな氣もしないでもなかつた。

 同じ日の夕方おそく佐渡守の邸内で當番をして居る時、その部屋へ見知らぬ人が、音もさせずに入つて來たので、關內は驚いた。この見知ちぬ人は立派な身裝[やぶちゃん注:「みなり」。]の侍であつたが、關内の眞正面に坐つて、この若黨は輕く一禮をして、云つた。

『式部平內でござる――今日始めてお會ひ申した……貴殿は某を見覺えならぬやうでござるな』

 甚だ低いが、銳い聲で云つた。關內は茶碗の中で見て、呑み込んでしまつた氣味の惡い、美しい顏、――例の妖怪を今眼の前に見て驚いた。あの怪異が微笑した通り、この顏も微笑して居る、しかし微笑して居る唇の上の眼の不動の凝視は挑戰であり、同時に又侮辱でもあつた。

『いや見覺え申さぬ』 關內は怒つて、しかし冷やかに答へた、――『それにしても、どうしてこの邸へ御入りになつたかお聞かせを願ひたい』

〔封建時代には、諸侯の屋敷は夜晝ともに嚴重にまもられてゐた、[やぶちゃん注:読点はママ。]それで、警護の武士の方に赦すべからざる怠慢でもない以上、無案內で入る事はできなかつた〕

『あゝ、某に見覺えなしと仰せられるのですな』その客は皮肉な調子で、少し近よりながら、叫んだ。『いや。某を見覺えがないとは聞えぬ。今朝某に非道な害を御加へになつたではござらぬか……』

 關內は帶の短刀を取つてその男の喉を烈しくついた。しかし少しも手答がない。同時に音もさせずその闖入者は壁の方へ橫に飛んで、そこをぬけて行つた。……壁には退出の何の跡をも殘さなかつた。丁度蠟燭の光が行燈の紙を透るやうにそこを通り過ぎた。 

 關內がこの事件を報告した時、その話は侍達を驚かし、又當惑させた。その時刻には邸內では入つたものも出たものも見られなかつた、それから佐渡守に仕へて居るもので『式部平內』の名を聞いて居るものもなかつた。 

 その翌晩、關內は非番であつたので、兩親とともに家にゐた。餘程おそくなつてから、暫時の面談をもとめる來客のある事を、取次がれた。刀を取つて玄關に出た、[やぶちゃん注:読点はママ。]そこには三人の武裝した人々――明かに侍達――が式臺の前に立つてゐた。三人は恭しく關內に敬禮してから、そのうちの一人が云つた。

『某等は松岡文吾、土橋久藏、岡村平六と申す式部平內殿の侍でござる。主人が昨夜御訪問いたした節、貴殿は刀で主人をお打ちになつた。怪我が重いから疵の養生に湯治に行かねばならぬ。しかし來月十六日にはお歸りになる、その時にはこの恨みを必ず晴らし申す……』

 それ以上聞くまでもなく、關內は刀をとつてとび出し、客を目がけて前後左右に斬りまくつた。しかし三人は隣りの建物の壁の方へとび、影のやうにその上へ飛び去つて、それから……

           * *
             *

 ここで古い物語は切れて居る、話のあとは何人かの頭の中に存在してゐたのだが、それは百年このかた塵に歸して居る。

 私は色々それらしい結末を想像することができるが、西洋の讀者の想像に滿足を與へるやうなのは一つもない。魂を飮んだあとの、もつともらしい結果は、自分で考へて見られるままに任せて置く。


              (田部隆次譯)

          
In a Cup of Tea( Kotto. 

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「野呂松(のろま)狂言」江戸前期の人形浄瑠璃の道化人形の遣い手野呂松勘兵衛(のろまつ かんべえ 生没年不詳)なる人形遣が、頭が平たくて顔の青黒い「のろま人形」なるキャラクターを使って演じて評判になったという滑稽な新作(改作)狂言。寛文から延宝(一六六一年~一六八一年)頃、上方では「そろま」、江戸では「のろま」と呼ばれた道化人形の上演記録が確認されてはいるが、この野呂松勘兵衛も江戸の和泉太夫座や土佐座という人形座に出演していた道化人形遣の一人であろうと推測されている。菊岡沾凉の随筆「近代世事談」(享保一八(一七三三)年刊)では「野郎松勘兵衛」という者を「のろま人形」の創始者としているが、資料的には貞享頃(一六八四年~一六八七年)の人形遣い「のろま治兵衛」によって「のろま人形」が有名になったと言われている(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「水鏡」不詳。ネット検索でも掛かってこない。] 

 

 野呂松狂言の主人公は浪人者で、東海道を上る途中、美しい若衆を見かけ、あとを慕つて來るうちに、茶屋の一段が出て來る。それも若衆の飮んだ茶碗をすゝがずに水を一杯くれと所望するので、これなら若衆の顏が茶碗に現れても不思議はない。浪人は祇園の二軒茶屋ではじめて言葉を交し、明日は出立するといふので、夜明けに大津で待ち受けたが、遂に逢ふことが出來ず、五十三次を江戶まで戾つて來た。「新著聞集」と「男色大鑑」とを搗き交ぜた形である。失望の餘り病氣になつたところへ、知り合ひの者がやつて來て、委細の話を聞いた末、その若衆は自分のところに逗留中であると云ふ。これからの滑稽は野呂松狂言には肝要なところであらうが、話の本文には格別の關係はない。ただ最後に若衆が化け猫となり、浪人と立𢌞りをする一段は畫龍點晴といふべきもので、最初の式部平內を鄰家の境で見失ひ、翌晩の三人もその邊で壁に飛び上つて消えるあたり、どうしても妖怪でなければ納まりの付かぬ話である。八雲は「茶碗の中」の書き出しに、塔の階段を上つて行つて、眞黑な中で蜘蛛の巢以外に何もないところが終りになつてゐることや、海沿ひに切り開かれた道が斷崖に盡きることなどを擧げ、日本の古い書物にはそれに似た氣持を起させる斷片があると云ひ、作者は無性であつたか、出版書肆と喧嘩したか、不意に誰かに呼ばれて机を離れたまゝ戾らなかつたか、或は文章の眞中で死の神が筆を止めさせたかであらうと云つてゐる。ぷつりと切れたやうな「新著聞集」の記載に滿足して居らぬことは明かである。八雲に野呂松狂言を見せたにしても、化け猫の結末ではやはり滿足しなかつたかも知れぬ。たゞいさゝか物足らぬ話の筋を補つた一つの空想として、こゝに附け加へるまでである。

[やぶちゃん注:「男色大鑑」(なんしょくおおかがみ:現代仮名遣)は井原西鶴による浮世草子。貞享四(一六八七)年四月刊。全八巻・各巻五章・計四十章。詳しくは参照したウィキの「男色大鑑」などを読まれたいが、その「概略」の項には「男色大鑑 本朝若風俗」正式書名で、前半四巻二十章は、『主に武家社会における衆道を取り上げており、総じて非職業的男色の世界』を後半の四巻二十章は『町人社会に属する職業的な歌舞伎若衆を取り上げている』とある。「男色大鑑」では『武家社会と町人社会という二つの社会において、習俗として公認されていた男色が総合的に描かれている。武家社会は戦国の余風として男色をたしなみ、しかも武士道における義理を男色のモラルとし、衆道(若衆道)と称するに至った。歌舞伎界においては、元禄期まで若女方(わかおんながた)・若衆方など、若くて美貌の歌舞伎若衆は、早朝から夕刻までは舞台を勤め、夜は茶屋で客の求めに応じて男色の相手をするのがしきたりであった。なお男色における弟分である「若衆」は』、十八、九歳で『元服して前髪を剃り落とすまでで、それ以後に月代頭さかやきあたま(野郎頭)になってからは兄分である「念者」』(ねんじゃ)『になるのが、武家社会・町人社会を通じての一般的なルールであった』とある。

「無性」「ぶしやう」。「無精」。] 

 

「茶碗の中」に似た話が支那になかつたかどうか、吾々の見た範圍に於ては「酉陽雜俎」中の一話があるに過ぎぬ。江淮に士人の住ひがあり、その子の二十歲餘りになるのが病臥してゐた時、父親が茶を飮まうとして、茶碗の中から泡が盛り上るのを見た。透き通つた泡の上に、一寸ばかりの人が立つて居り、子細に視るとその衣服から容貌に至るまで、病中の子にそつくりである。忽ちその泡が碎けて何も見えなくなり、茶碗ももとの通りであつたが、今までになかつた小さな疵が出來たといふのである。「新著聞集」のやうに錯綜した話ではない。茶碗の泡の中に我が子の幻を認めるといふに過ぎぬけれど、對比すれば若干の共通性を見出し得るやうな氣がする。

[やぶちゃん注:以上は「酉陽雜俎」の「卷十」の「物異」の中の「瓷碗」(じわん)である。

   *

江淮有士人莊居、其子年二十餘、常病魔。其父一日飮茗、甌中忽起如漚、高出甌外、瑩凈若琉璃。中有一人、長一寸、立於漚、高出甌外。細視之、衣服狀貌、乃其子也。食頃、爆破、一無所見、茶碗如舊、但有微璺耳。數日、其子遂著神、譯神言、斷人休咎不差謬。

   *

但し、宵曲は、ケリのつかない話と見せかけるために、最後の一文を訳していない

「数日後のこと、その病臥(別な伝本では或いは「夜魘(うな)されること」とあるようだ)していた子は、そのまま神霊が憑りついて、神の言葉を語るようになり、人々の吉凶を断ずるに正確で、そのお告げには少しの誤りも違いもなかった。」

と終わっているのである。――ずるいぜ、柴田さんよ!――

甲子夜話卷之四 16 享保の頃は士風の強きを育せし事

4-16 享保の頃は士風の強きを育せし事

享保の頃の重職は、士風の手強きを育てらるる心あつきことゝ見へたり。左近へ御役人の某が建言せしとき、今日は御用ありとて坐を起んとせられしかば、その御役人、左近の裾をひかへ、申上候事も御用に候と申ければ、左近起れずして其事を聞終れり。その後その同寮に左近逢れて、某はよくぞ我等を押へて存寄申盡され候とて、感賞せられしとなり。松平能登守【乘堅】加判のときか、參政のときか、蓮池通りを行しとき、西城の通御ありて御門を打たるに心付れず、御門までかゝられしに、固めに立ける同心恐怖して、留めもせずありしかば、番所に居し同心、聲を厲しくして、能登殿でも通すことはならずと呼ける。その後營中にて、能登守其組の御先手頭に逢はんとありしかば、頭も恐れながら謁しけるに、此頃蓮池番所にありし同心、心掛よろし、褒置申べしとありしとなり。

■やぶちゃんの呟き

「育せし」「育て」標題は「いく」、本文は「そだて」。

「重職」幕府の大老や老中など。老職に同じい。

「左近」既出既注の松平左近将監松平乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)。肥前唐津藩第三代藩藩主・志摩鳥羽藩藩主・伊勢亀山藩藩主・山城淀藩藩主・下総佐倉藩初代藩主で老中。享保八(一七二三)年に老中となり、以後、足掛け二十年余りに亙って享保の改革を推進した辣腕。

「起ん」「たたん」。

「逢れて」「あはれて」。

「某」「なにがし」。

「存寄申盡され」「ぞんじよりまうしつくされ」。

「松平能登守【乘堅】加判のときか、參政のときか」「乘賢」が正しい。美濃国岩村藩第二代藩主で老中であった松平能登守乗賢(のりかた 元禄六(一六九三)年~延享三(一七四六)年)。「加判」は老中、「參政」はその下の若年寄のことで、乗賢は享保八(一七二三)年三月に奏者番から若年寄に昇進、その十二年後の享保二〇(一七三五)年五月に西丸老中に昇進、延享二(一七四五)年には本丸老中となったが、翌年、没している。

「蓮池通り」本丸とその西側に広がる西丸(現在の皇居)を隔てる蓮池濠の西丸側の通り。

「西城の通御」西日本の大名の参内か。

「御門」どの門か私には不詳。若年寄時代ならば、位置的に見て西丸裏門か。

「立ける」「たちける」。

「留め」「とめ」。

「居し」「をりし」。

「厲しく」「はげしく」。

「呼ける」「よばひける」と訓じておく。

「御先手頭」「おさきてがしら」。複数あった先手組(さきてぐみ:江戸幕府軍制の一つ。若年寄配下で、将軍家外出時や諸門の警備その他、江戸城下の治安維持全般を業務とした)の組頭。ウィキの「先手組」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、時代によって『組数に変動があり、一例として弓組約十組と筒組(鉄砲組)約二十組の計三十組で、各組には組頭一騎、与力が十騎、同心が三十から五十人程配置され』たという。『同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられた』とある。

「褒置申べし」「ほめおきまうすべし」。

譚海 卷之二 下總國利根川水中に住居せし男の事

 

○下線國利根川水中に住居する人有(あり)。その所布施より大寶と云(いふ)際(きは)にて、時々見かくる事あり。其人、魚などを取てくひつゝ五六十日づつほどは都(すべ)て水居すといへり。餘り飢(うゑ)たる比(ころ)と覺(おぼゆ)る時は、水泊(すいはく)の舟に近付(ちはづき)てひそかに食物をこひ、餐餘(さんよ)のものなどもらふ事有。往來の船頭正しく見たる事にて、魅魅(びき)のたぐひにもあらず人間也。陸には住居する樣子にもあらざりしとぞ、安永の初めの事也。其後何方(いづかた)へ行(ゆき)たりけん在所をしらずといへり。

[やぶちゃん注:前話は妖怪変化(へんげ)としての「川太郎」、河童であったが、ここに出るのは、完全な「人間そっくり」の「水棲人間」であって、外見上の河童らしさは全くない。しかし、あくまで水中に棲み、時に相応の距離を遊泳して江戸に行き、五十日か六十日ほどは江戸の川の中に居住するという、ある意味、非常に特異な記載である。魚を獲るが、それはあくまで自己の食い物としてであり、それを売るわけでもなく、また、必ずしも魚摑みの達人というのではもないようで、時には餓えて舟泊まりしている人の食い物の残飯などを乞うて貰い食いをするのである。こうした叙述からは厳密には「両生類」的人間と言うべきか。或いは、何らかの下肢に奇形や疾患があって陸上歩行が困難な障碍者なのかも知れぬ。ともかくもリアル(ある時から忽然と姿を見せなくなったという辺りが寧ろ嘘っぽくない)に不思議な話ではないか。

「布施」千葉県柏市布施(ふせ)であろう。(グーグル・マップ・データ)。江戸時代の利根川の鮮魚の水運輸送のルートとして栄えた地であり、関東三弁天(江ノ島・上野不忍)の一つとして古くから知られる布施弁天(真言宗紅竜山東海寺の通称)もあるから、水棲人間とは所縁があろう。

「大寶」不詳。以下は私の勝手な推理であるが、前に「布施」という地名を示してある以上、そこから極端に離れた場所の利根川本流流域外の地名とは私にはまず考えられない(それを問題にしないなら、鬼怒川流域の、昔は大宝沼があった茨城県下妻市大宝((グーグル・マップ・データ))がある)。ここは寧ろ、彼(水棲人間一個体)のテリトリーを布施を基点とした利根川本流の狭い範囲であると考えるならば(生物学的な個体の狭義の日常的常住テリトリーを考える時はその方が自然である)、これは実はごく布施に近い場所なのではあるまいか? そこで地図を精査して見ると、布施の西方のごく近くの利根川流域に柏市大室(おおむろ)を見出せたのである((グーグル・マップ・データ))。一つ、津村が「大室」を「大宝」と読み違えた可能性を考え、しかも上記のような理由から私はここを比定候補としたい

「安永」一七七二年から一七八〇年まで。第十代将軍徳川家治の治世。本「譚海」は寛政七(一七九五)年自序。]

2017/07/06

柴田宵曲 續妖異博物館 「打出の小槌」

 

 

 打出の小槌

 

 

 

 日本に行はれる打出の小槌は、「支諾皐」に見えた新羅國の話が出典であらう。山上の月夜に紅衣の小兒が集まつて遊ぶうちに、お前は何が欲しいかと云ひ、酒が欲しいと答へると、一つの金錐を以て石を擊つ。樽に入つた酒をはじめ、酒を飮むのに必要なものが直ちに出る。おれは何か食ひたいと云へば、また錐で石を擊つて山海の珍味を出す。暫く飮食した後、どこかへ行つてしまつた。金錐が石の割れ目に插してあるのを見て持ち歸り、欲しいものを片端から打ち出して大變な金持になつた、といふのである。日本ではキリの場合に錐の字を用ゐるので、ちょつと感じが出ないが、張良が壯士を雇つて博浪沙に投ぜしめた鐡椎の類である。「御伽厚化粧」がこの話を取り入れた時も、標題は「福德擊出椎」となつてゐるが、本文には金槌と書いてある。

 

[やぶちゃん注:

 

 以上は「酉陽雜俎」の「續集卷一 支諾皋上」の冒頭に出る話であるが、宵曲はイントロダクションをカットしてしまっているために話がよく判らなくなってしまった感がある。この話の主人公は新羅国の最高の貴族階級の男の祖先であった、旁(ぼうい)という人物である。大事にしていた、たった一本の穀物の穂を加えて飛んで行ってしまった鳥を追っては山中に向かった。そこで夜半に目撃するのが、以上のシークエンス(以下の下線太字で示した箇所)なのである。その赤い衣を着た小児が別の小児に訊ねるのを岩の窪みから眺め、その魔法の錐をが手に入れるのである。

 

   *

 

新羅國有第一貴族金哥。其遠祖名旁、有弟一人、甚有家財。其兄旁因分居、乞衣食、國人有與其隙地一畝、乃求蠶穀種於弟、弟蒸而與之、不知也。至蠶時、有一蠶生焉、目長寸餘、居旬大如牛、食數樹葉不足。其弟知之、伺間殺其蠶。經日、四方百里蠶飛集其家。國人謂之巨蠶、意其蠶之王也。四鄰共繰之、不供。穀唯一莖植焉、其穗長尺餘。旁常守之、忽爲鳥所折銜去。旁逐之上、山五六里、鳥入一石罅、日沒徑黑、旁因止石側。至夜半、月明、見群小兒赤衣共戲。一小兒云、「爾要何物。」。一曰、「要酒。」。小兒露一金錐子、擊石、酒及樽悉具。一曰、「要食」。又擊之、餠餌羹炙羅於石上。良久、飲食而散、以金錐插於石罅。旁大喜、取其錐而還。所欲隨擊而辦、因是富侔國力。常以珠璣贍其弟、弟方始悔其前所欺蠶穀事、仍謂旁「試以蠶穀欺我、我或如兄得金錐也。」。旁知其愚、諭之不及、乃如其言。弟蠶之、止得一蠶如常蠶、穀種之復一莖植焉。將熟、亦爲鳥所銜。其弟大悦、隨之入山。至鳥入處、遇群鬼、怒曰、「是竊予金錐者。」。乃執之、謂口、「爾欲爲我築糠三版乎。欲爾鼻長一丈乎。」。其弟請築糠三版。三日饑困、不成、求哀於鬼、乃拔其鼻、鼻如象而歸。國人怪而聚觀之、慚恚而卒。其後子孫戲擊錐求狼糞、因雷震、錐失所在。

 

   *

 

この話を、南方熊楠は「鳥を食うて王になった話」と「一寸法師と打出の小槌」で採り上げ、「鬼の瘤取の物語の根本らしい、と古人は論じた」と述べ、その呪具としての打出の小槌はインド由来ではないか、としている。しかし、この話、展開の後半は「打出の小槌」よりも、「瘤取り爺さん」とよく似ているように私には思われてならない。

 

「金錐」金で出来た玄能。

 

「張良が壯士を雇つて博浪沙に投ぜしめた錢椎」張良は始皇帝を暗殺するために怪力の壮士倉海公を雇い、博浪沙の砂中に鉄製の大きなハンマーを埋めさせておき、行幸の列が目の前に来た際、彼にそれを投げさせた。馬車は木端微塵に粉砕されたが、それはダミーで始皇帝は載っていなかったというエピソードに出る、恐ろしく重い巨大な金槌(かなづち)のことである。

 

「御伽厚化粧」「福德擊出椎」同書の掉尾にある。国立国会図書館デジタルコレクションのから画像で視認出来る。]

 

 

 

 打出の小槌の事は京傳が種々の文獻を渉獵して「骨董集」に擧げてゐる。後には大黑樣に附きもののやうになつてしまつたけれど、狂言では蓬萊の嶋なり鬼ガ嶋なりに住む鬼の寶物の中にあり、一寸法師なども鬼が逃げ去つた後、この小槌を自分の物にしたのだから、古くは鬼に所屬してゐたのかも知れぬ。笑話とも童話ともつかぬ「こめくら」の話――或人が打出の小槌を獲て、人の尚ぶところは食住である、先づ米庫を打ち出さうとし、頻りに米庫米庫と唱へて打つたところ、二三尺ぐらゐの小盲(こめくら)が陸續と現れるのに困惑し、小槌を棄てて逃げ去つたといふ話は、「甲子夜話」續篇に出てゐるが、その人の手に入る前の所藏者は誰であつたか書いてない。

 

[やぶちゃん注:山東京伝の「骨董集」のそれは、「中の卷」にある「打出小槌、猿蟹合戰」の前半部。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。【 】は原典の割注。一部の読みは省略した。

 

   *

 

「異制庭訓」に、祖父祖母之物語(おほぢおばのものがたり)とあるは、むかしむかしぢゞとばゞとありけりといふ發語(ほつご)をとりて、名目(みやうもく)にしたるものなるべければ、童(わらべ)の昔ばなしはいとふるきことなり。おのれ二十四五年前(さき)、童話(むかしばなし)の出所(しゆつしよ)をたづねてかきとゞめたるもの。童話考(どうわかう)と名づけて一册あり。いまだ考の足ざる所あれば、年ひさしくひめおきぬ。さて隱笠(かくれがさ)隱蓑は、古歌にもあまたよみたれども、打出の小槌の事をしるしたるものすくなし。しかれども「平家物語」祇園女御の段に、「是(これ)ぞ誠の鬼とおぼゆる、手にもちたるものは、きこゆる打出の小づちなるべし。云々(しかじか)」【「盛衰記」卷之廿六にも、打出の小槌の事見えたり。是と同談。】と見えたれば、古くいひ傳へたる事なるべし。又康賴の「寶物集」卷之一に云、「されば人の寶には、打出の小槌といふ物こそ能(よき)寶にて侍りけれ。廣野(ひろきの)に出(いで)て、居(ゐ)よからん家(いへ)や、面白からん妻(つま)男(をのこ)や、遣能(つかひよ)からん從者(ずさ)、馬牛(うまうし)、食物(くひもの)、衣物(きるもの)なんど、心に任(まかせ)て打出(うちいだ)してあらんこそ、【中略】能(よく)侍(はべる)べけれと云に、又人傍(そば)より指出(さしいで)て云樣は、打出の小槌は目出度寶にて有(あれ)ども、口惜事(くちをしき)は、物を打出して樂(たのし)くて居たる程に、鐘の聲をだに聞つれば、打出したる物、皆こそこそと失(うせ)る事の侍るなり。されば目出度(めでたく)て居たるとは思へども、左樣の時は廣き野中に只獨(ひとり)裸にて居たらんこそ、淺增(あさまし)かるべけれ。【中略】昔より隱蓑の少將と申す物語も、有增敷(あらまじき)事を作(つくり)て侍るとこそ承はれ云々(しかじか)」と見えたり。是則(これるなはち)「酉陽雜俎續集」の、旁色[やぶちゃん注:「旁」の誤読であろう。]が得たる金椎子(かねのつち)と、和漢相似(あひに)たる談(はなし)なり。【「狹衣」に、かくれみのゝ中納言やおはすらんといふことあり。「寶物集」に、かくれみのゝ少將の物語といふ事あれば、かくれみのといへる物語ふるくありしなるべし。今傳はらず。】

 

   *

 

「甲子夜話」続篇は所持するが、目次を縦覧した限りでは、今は見出せなかった。発見次第、追記する。【2018年8月9日追記:これは「甲子夜話続篇」の巻頭にある「打出の小槌」であることが判った。】

 

 

 

 延享四年十二月晦日、伊福部宿禰勝世といふ人の家で、元日の用意の物を取り出すために、手燭を秉(と)つて土藏に往來することが屢々であつたが、夜更けになつて土藏の前に一つの槌が置いてあるのを發見した。然も人が持つて來て置いたやうに、ちやんと正面に据ゑてある。今まで自分のうちにこんな物のなかつたことは慥かであるから、母家にゐた人々にも見せたが、普通に大工などの使ふやうな槌ではない。強ひて云へば春の初めの事とて、子供の玩具にでも拵へたものであらうか。桐の木で作つた槌で、大きさは橫六七寸に周圍三四寸、柄は短く上下に通つてゐて、上に出た方は少ししかなく、下に出た方は銀杏の葉のやうにひろがつて居り、穴を穿つて紅の總(ふさ)が付けてある。全體は黑塗りで、ところどころに金銀の箔が貼つてあつたが、今拵へたばかりと見えて箔が落着かず、ひらひらして見える。伊福部氏の居宅の近所は土民ばかり集まつてゐる村里で、こんな玩具を拵へる人がありさうにも思はれぬ。この評判が世上に聞えて、わざわざ見物に來る人が澤山あつたくらゐだから、もし一二里四方の間にこれを作つた者がゐたならば、必ず知れさうなものであつたが、遂に出所不明に了つた。中には狐の仕業だらうなどといふ人もある。とにかく年のはじめであるし、福神の授けられた打出の小槌といふものであらうと、方々から人が祝ひに來るので、勝世も大いによろこび、毎日酒肴を出してもてなしたのみならず、後には一社の神に祭り、土藏の内に固く封じ込めたと云つて、所望する者があつても見せなくなつた。けれどもこの小槌を得た後、伊福部家に吉事らしいことは何もなく、却つて嫡子の中務といふ者が亡くなつたと「雪窓夜話抄」に見えてゐる。

 

[やぶちゃん注:「延享四年十二月晦日」グレゴリオ暦で一七四八年一月二十九日。

 

 以上は同書の「卷三」にある「伊福部氏槌を得る事」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから視認出来る。]

 

 

 

 打出の小槌は古來人間の懷(いだ)いた夢の一つである。一寸法師などもこの小槌を手に入れると、第一に自分の丈を大きくなれと打ち出し、次いで飯を打ち出し、然る後金銀を打ち出して都に上つてゐる。百事如意といふわけであるが、さういふ幸福を打ち出した話もあまりない。伊福部氏の話は最も好適な例で、はじめに子供の玩具と思つたとあるのを見ても、大した寶物でなかつたことはわかる。勿論願ひのまゝのものが打ち出せたわけでもない。恐らく出入りの者が主人をよろこばせるために、こんな細工をしたのであらうが、あまり評判が高くなつたので、つい名乘り出る機會を失つたものと思はれる。この評判は主人の心理にも影響して、遂に一社の神に祭り、土藏に固く封じ込めて、容易に見せなくなつた。目に見えぬ幸福を希(ねが)つて、目に見えぬ不幸の到來に氣が付かなかつたのである。かういふ風に考へれば、一の短篇を形成することになりさうであるが、さう面倒に扱ふ必要もあるまい。吾々は昔噺の打出の小槌を、此較的近い江戸時代に見出したので滿足する。

柴田宵曲 續妖異博物館 「巖窟の寶」

 

 巖窟の寶

 

 アラビアン・ナイトのアリ・ババは、偶然の機會に盜賊が盜んで來た品物を隱す窟の所在を知り、重い岩の扉を開く呪文をおぼえてしまふ。無形の合鍵を拾つたやうなものである。アリ・ババは盜賊等が立ち去つた後、その呪文を唱へて扉を開き、持てるだけの金貨の袋を驢馬に積んで歸る。彼は忽ちにして驚くべき富豪になつた。前から金持であつた兄のカシムは、弟の幸福を羨み、「開け胡麻」の呪文を教はつて出かけたが、金銀寶石に目がくらんで呪文を忘れたため、どうしても窟から出ることが出來ず、遂に盜賊に殺されるのである。

[やぶちゃん注:「アラビアン・ナイト」のアリ・ババの話は、先行する「診療綺譚」などでさんざん注してきたので、そちらを参照されたい。]

 

 アリ・ババも貧乏で毎日森へ行つて薪を採るのを仕事にしてゐたが、「輟耕錄」の趙生の生活もほぼ同じであつた。アリ・ババは森の中で木を伐りつゝある際、一隊の人馬が來るのを見て木の上に遁れ、盜賊の頭が岩の扉を開くのを目擊するのだが、趙生も木を伐る溪のほとりで眞白な大蛇を見、斧も何も投げ棄てて家に歸る。女房は趙生からその話を聞くと、さういふ白蛇は何か寶物の變化したものかも知れません、と妙な事を云ひ出し、夫をすゝめてその山中まで一緒に出かけて行く。白蛇はまだもとのところに居つたが、夫婦が來たのを見て、そのまゝ上流に遡り、巖穴の中に入つてしまつた。巖穴の中に石があり、それに歳月姓名などが刻んである。九つの穴の中央に金甲があり、あとの八つの穴に無數の金銀があつたのを攫み出し、前の通り蓋をして歸つて來た。

 

 超生の持ち辟つた金銀はどれほどあつたかわからぬが、彼の生活は俄かにゆたかになり、もう薪を探りに行かないで濟むやうになつた。この生活の變化は第一に鄰人の疑ふところとなり、その姉の夫で嘗て役人をしてゐた者に告げられた。趙生は敢て隱さず、白金の五錠を贈つたけれど、役人は慾張つてゐて、そんなことでは承知しない。趙生も仕方なしに大きな家を構へ、九穴の富を散じて盛に賄賂を用ゐたから、甚しく追窮されずに濟んだ。例の金甲は特に派遣された役人に獻じ、珍藏されてゐたところ、或風雨の夕、どこかへ消ええてなくなつた。鍵などもそのまゝで、中身だけなくなつてゐたさうである。趙生には子なく、終に巨室に老ゆとある。

[やぶちゃん注:以上は元末の一三六六年に書かれた陶宗儀の随筆「輟耕錄」の「卷七」にある以下。は引用元の中文サイトの脱字らしき部分。

   *

黃巢地藏趙生者、宋宗室子也。家苦貧、居閩之深山、業薪以自給。一日、伐木溪滸、所見一巨蛇、章質盡白、昂首吐舌、若將噬己。生棄斧斤奔避、得脱。妻問故、具以言。因竊念曰、「白鼠白蛇、豈寶物變幻邪。」。卽拉夫同往。蛇尚宿留未去、見其夫婦來、囘首逆流而上。尾之、行數百步、則入一岩穴中、就啓之、得石。石陰刻押字與月姓名、乃黃巢手瘞。治爲九穴、中穴置金甲、餘八穴金銀無算。生掊取畸零、仍舊掩蓋。自是家用日饒、不復事薪。鄰家疑其爲盜、告其姊之夫嘗爲吏者。吏詢之嚴、不敢隱、隨饋白金五錠。吏貪求無厭、訟之官、生不獲已。主一巨室、悉以九穴奉巨室、廣行賄賂。有司莫能問、迨帥府特委福州路一官往廉之。巨室私獻金甲、因囘申云。具問本根所以、實不會掘發寶藏。其事遂絶。路官得金甲、珍襲甚、至任滿他適、其妻徙置下。一夕、聞繞榻風雨聲、頃刻而止。頗怪之、夫婦共取視、鑰如故。啓籠、乃無有也。生無子、夫婦終老巨室。嗟夫、天地間物苟非我有、是雖得之亦終失也。巢之亂唐天下、剽掠寶貨、歷三四百年、至于我朝、而爲編氓所得。氓固得之、不能保之、而卒歸於富家。其路官者、得金甲、自以爲子孫百世計、一旦作神物化去。是皆可爲貪婪妄求者勸。

   *]

 

 最初趙生が白蛇を見て逃げ歸つた時、その妻は何によつて寶物の變化したものと斷じ、夫と共に見屆けに行つたか、この點がはつきりわからない。日本にも錢掛松の話をはじめ、錢に對する執念が蛇になる事はあるが、特に白蛇と現じて貧者に幸福を與へる例は見當らぬやうである。他人が俄かに幸福になつたのを羨み、同じ手段で富を得ようとしても、さうは問屋が卸さぬことは、舌切雀、花咲爺その他の童話がこれを示してゐる。アリ・ババや趙生の得たものが天與の福であるならば、易々と他人の手に渡る筈がない。

[やぶちゃん注:「錢掛松」サイト「日本伝承大鑑」(「日本伝承大鑑」制作委員会製作)内の「銭掛松(ぜにかけまつ)」(三重県津市高野尾町(ここ(グーグル・マップ・データ))の伝承)に以下のようにある。文中の「伊勢別街道」は「いせべつかいどう」と読む(但し、江戸時代にはこの街道は「いせみち」「参宮道」「山田道」などと記されてあり、「伊勢別街道」の名が使われるようになったのは明治一〇(一八七七)年以降と思われるという記載がネット上の別な記載にあった)。

    *

 東海道の関の宿から分かれて津で伊勢街道と合流するのが、伊勢別街道である。その旧街道沿いにあるのが銭掛松と呼ばれた松を祀るお堂である。お堂の中にはかつての松の古木が納められており、境内には今でも何代目かの松が植えられている。

 伊勢街道はその名の通り、伊勢神宮参拝のための主要街道である。そして銭掛松もその伊勢参拝にまつわる伝承が元になっている。

 西国に住む男が伊勢参にこの地までやって来た。しかし路銀がわずかであるために、そばの茶店の主人に伊勢神宮まであとどれぐらいか尋ねた。すると主人はまだ半月ほど掛かると答えた。それを聞いてこれ以上の旅は無理と諦めた男は、松の木に銭を掛けて、ここから神宮に遙拝すると帰路についてしまった。

 喜んだのは茶店の主人である。嘘をついてまんまと銭をせしめることが出来たばかりに、男の掛けていった銭の束を盗もうと近寄った。すると突然銭の束は白蛇に変わり、主人の方を睨みつけて威嚇するではないか。肝を冷やした主人は結局銭を盗むことも出来ず、そればかりかそれ以降客足は遠のいてとうとう茶店も潰れてしまったという。

 一方、帰国した男は、実際に伊勢神宮へ行った者からその場所が神宮から目と鼻の先であったことを聞かされ、翌年再び参拝を決意する。そして例の場所へ来てみると、松の木には自分が掛けた銭の束がそのまま残されていた。男はそれを取ると、改めて神宮に納めたのである。その話はいつしか参拝客の噂となり、その松に銭を掛けて道中の安全を祈願する風習が広まったという。

 この伝説にはいくつかのパターンがあり、隠岐に流された小野篁の妻が夫の赦免を祈願して伊勢神宮に参るという話も流布しているが、いずれも伊勢神宮参拝途中で諦めかけた者が銭を松の木に掛け、それを盗もうとした者がその罰を受けるという展開となっている。

   *]

 

 天明三年刊「諸越の吉野」にある「樵夫白蛇を迫つて兜の瑞を見たる事」は明かに「輟耕錄」の話を日本に移したものである。時代は天文年中、場所は吉野の里で、彌五郎といふ樵夫が山奧へ薪を取りに行き、白蛇を見て歸つてから妻に話す事、妻に白蛇は寶の精であると云はれて翌日見に行く事、七つの岩穴の中央に黃金の兜が輝き、左右の穴に金銀が滿ちてゐた事、彌五郎が俄かに有福になつたのを怪しんで庄屋が取り調べる事、すべて原話の通りで、飜案といふほどの働きはない。庄屋が彌五郎に口止めして共に山中に赴き、庄屋は兜を取り、彌五郎夫婦は金銀を持ち歸る。翌日もう一度慾張つて出かけたら、穴は皆崩壞して金銀は跡形もなかつたといふあたり、作者の工夫かと思はれる。作者の素姓はわからぬらしいが、「諸越の吉野」といふ書名は、支那の舞臺を日本の吉野に轉じたこの話から來てゐるのかも知れぬ。原本でもこれを最後に置いてある。

[やぶちゃん注:『天明三年刊「諸越の吉野』「近古奇談諸越の吉野」。「天明三年」は一七八三年。それ以外は不明。私は所持しないので原文を示せない。]

 

 巖窟ではないけれども「稽神錄」にある次の話なども、こゝに擧げて置いた方がいゝかも知れぬ。建安の村人で小舟に乘つて谿中を往來し、薪を採つて生活してゐる者があつた。或時舟を繫いで岸に登り、例の如く薪を取つてゐると、山の上に銀が何故か落ちてゐるのが目に入つた。少し登るに從ひ數十枚拾ひ得たので、更に注意したところ、山腹の大樹の下に高さ五六尺の大甕があり、その中に錢が一杯入つて居つた。甕が少し傾いた爲に、銀がこぼれ落ちたものらしい。そこで石を持つて來て甕を支へるやうにし、さし當り五百枚ほど懷ろに入れて歸つたが、今度は家人を全部引き連れて出かけた、[やぶちゃん注:読点はママ。]然るに見おぼえのある大樹の下に、肝腎の甕が見當らぬ。村人落膽してその邊を排徊すること數日に及び、容易にあきらめられなかつた。夢に何人か現れて、あの錢には持ち主がある、甕が傾きかけたので、お前に五百枚だけ與へたのだ、あまり慾張らぬがいゝ、と諭された。

[やぶちゃん注:以上は「稽神錄」の「第五卷」にある以下。

   *

建安有村人、乘小舟、往來建溪中、賣薪爲業。嘗泊舟登岸、將伐薪、忽見山上有數百錢流下、稍上尋之、累獲數十、未及山半、有大樹下一甕、高五六尺、錢滿其中、而甕小欹、故錢流出。於是推而正之、以石支之、納衣襟得五百而歸。盡率其家人復往盡取、既至、得舊路、見大樹、而亡其甕。村人徘徊數日不能去、夜夢人告之曰、「此錢有主、向爲甕欹、以五百僱而正之、不可再得也。

   *]

 

 建安の村人は五百枚の銀で滿足しなければならなかつたわけであるが、これは畢竟それだけしか福分がなかつたものであらう。同じ「稽神錄」にある話で、徐仲寶の家の南に大きな枯木があり、その下を掃く下男が砂の中から錢を百餘枚見付け出した。その話を聞いた仲寶も自分で搜しに行つて、數百枚を拾ひ得た。更に飽きずに掃除をしてゐたら、數年間に積り積つて數十萬に達したといふから大したものである。仲寶はよほど福分に惠まれた人と見えて、後に揚都に移り住んでからも、地中より一道の白氣が立ちのぼり、それが強い勢ひで斜に飛び去らうとするのを見た。白氣の中に何者かゐるやうなので、その妻が手で攫(つか)んで見たら、玉で作つた珠で驚くべき精妙な細工物であつた。仲寶の福分はそれでもまだ盡きず、後に樂平の令となつた時は、廚(くりや)の側の鼠穴を掘り下げたところ、數尺の下から一羽の白雀が飛び出した。白雀は庭の木にとまつたので、その下を掘つて百萬錢を得た。かうなると彼の赴くところ、必ず福が隨ふわけで、正に掘れども盡きざる概がある。白雀が錢の精とすれば、最初の鼠穴から錢が出さうなものであつたが、庭の木にとまつて錢の所在を知らせたのは曲折があると云はなければならぬ。尤も彼の掘り當てたのは常に錢ばかりで、玉の燥の外に寶らしいものはないけれど、それも福分の限界とすれば致し方はあるまい。青錢と雖も數十萬、百萬に達したら、それで世上の寶を購ふに足るであらう。あまり慾張るものではない。

[やぶちゃん注:「白雀」文字通り真っ白な雀。特定の種を指すものではないようである。

「概」「おもむき」。

 以上もやはり「稽神錄」の同じ「第五卷」にある以下。

   *

徐仲寶者、長沙人、所居道南、有大枯樹、合數大抱。有僕夫、灑掃其下、沙中獲錢百餘、以告仲寶。仲寶自往、亦獲數百。自爾、每需錢卽往掃其下、必有所得、如是積年、凡得數十萬。仲寶後至揚都、選授舒城令。暇日與家人共坐、地中忽有白氣甚勁烈、斜飛向外而去、中若有物。其妻以手攫之、得一玉蛺蝶、製作精妙、人莫能測。後爲樂平令、家人復於廁廚鼠穴中得錢甚多。仲寶卽率人掘之、深數尺、有一白雀飛出、止於庭樹。其下獲錢至百萬錢、盡、白雀乃去、不知所之。

   *]

 

 スペインのグラナダで水汲みを業としてゐる男が、病氣のムーア人を世話してやつたところ、愈々この世を去るに臨んで、小さな白檀(びやくだん)の箱をくれた。箱の中にはアラビア文字の卷物と短い蠟燭の燃えさしが入つてゐるだけで、如何なるものともわからなかつたが、或アラビア人に讀んで貰ふと、この蠟燭を焚いてこの祈禱の文句を讀む時は、如何なる鐡の蓋でも自然に開くのだといふ。水汲み男はそのアラビア人を誘つてアルハムブラ宮殿の地下室に乘り込み、石の扉を開いて多くの金貨と寶石とを手に入れた。事は一切祕密に行はれ、女房にも他人に話してはならぬと固く戒めて置いたが、女房が急に身分不相應な贅澤をはじめた事から、裁判官に呼び出され、自白せざるを得ないことになつた。慾の皮の突張つた裁判官は警察官と相談して、水汲み男とアラビア人との案内の下にアルハムブラの古宮殿に向ふ。水汲み男が俄かに富を得たことを密告して、彼を不幸に陷れた理髮師も隨行した。先夜の通り蠟燭と祈禱の魔力で、重い石の扉は一種の音響を立てて撥ね返つた。經驗のある二人は平氣で地下に入つたけれど、裁判官等にはその勇氣が出ない。倂し二人が金貨と寶石の壺を擔いで戾り、まだ大きな金櫃に寶石が一杯入つてゐると聞いて、急に勇氣を振ひ起し、もう一度地下へ行くのは御免だと云ひ張る二人を殘して、恐る恐る三人だけで七層の石階を下りて行つた。これを見すましたアラビア人は直ちに魔法の蠟燭を吹き消す。石の扉は例の音響と共に閉され、裁判官以下の三人はそのまゝ地下に封じ込められてしまふのである。アラビア人は蠟燭の燃え殘りを谿に投げ棄て、寶石や金貨を山分けにした上、アラビア人はアフリカのテチユアンに、水汲み男はポルトガルのカリレシアに歸ることにした。

[やぶちゃん注:「テチユアン」モロッコ北部にある町テトゥアン(ベルベル語;Tiṭṭawin/英語:TetouanTittawin)。(グーグル・マップ・データ)。私は十八年ほど前に行ったはずなのだが、暑さにやられてあまり覚えていない。ウィキの「テトゥアンによれば、紀元前三世紀には町があったと考えられており、『ローマ人やフェニキア人のつかった品々がタムダの遺跡から出土している。ベルベル人の国マウレタニアに属する町であったが、ローマに征服され』、『属州マウレタニア・ティンギタナの一部となった』。モロッコに十二世紀末から十五世紀末にかけて存在していたイスラーム国家『マリーン朝の王が現在のテトゥアンの町を築いたのは』一三〇五年頃のことで、一四〇〇年頃には『カスティーリャ王国により海賊行為への反撃として破壊された』。十五世紀末には、キリスト教国によるイベリア半島の再征服活動であるレコンキスタ(特に一四九二年のグラナダ陥落)によって『イベリア半島を追われた難民が押し寄せてテトゥアンを再建した。彼らはまず城壁を築き、その内部を家々で埋めた。スペインではテトゥアンは海賊(バルバリア海賊)で悪名高』い。ここには十三世紀のイスラムのアルアマール王によって建設されたアルハンブラ宮殿が出るので、それ以降の話となる。

「カリレシア」不詳。古代ローマの属州ガラエキア(英語:Gallaecia:現在のスペイン西部とポルトガル北部の地域)のあったポルトガルの旧地名か? そこだとすれば、現在のポルトガル北西部の都市ブラガ(Braga)附近である。]

 

 この話は「魔宮殿見物記」(吉田博)といふ書物に出てゐる。書中の傳説は多くワシントン・アービングの「テールス・オブ・ゼ・アルハムブラ」に據つたとあるから、多分その中の一篇であらう。嘗て田部隆次氏がラヂオでこの話をされたのを聽いたおぼえもある。

[やぶちゃん注:「魔宮殿見物記」明治四三(一九一〇)年博文館刊。著者吉田博(明治九(一八七六)年~昭和二五(一九五〇)年)は洋画家・版画家。当該話は国立国会図書館デジタルコレクションの画像の同書のから視認出来る(コマ112から136まで)。

「ワシントン・アービング」ワシントン・アーヴィング(Washington Irving 一七八三年~一八五九年)はアメリカ合衆国の作家で、「テールス・オブ・ゼ・アルハムブラ」(Tales of the Alhambra)は彼の一八三二年刊の小説集。

「田部隆次」(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)は英文学者。富山県生まれ。東京帝国大学英文科でラフカディオ・ハーンに学び、後に彼(小泉八雲)の研究と翻訳で知られる。富山高等学校(現在の富山大学)にハーンの蔵書を寄贈して「ヘルン文庫」を作った。私も彼の小泉八雲の作品の訳文を幾つか電子化している。]

 

 アルハムブラ古宮殿の話には多分にアリ・ババの匂ひがする。魔法の蠟燭と祈禱によつて扉の開くところ、俄かに得た富によつて人の疑惑を招くところ、他の幸福を羨んだ者が封じ込められるところ、皆アリ・ババの後塵を拜するものである。慾張りの役人が登場するあたりは、「輟耕錄」の趙生とも共通するが、これは寧ろ偶然の一致かも知れぬ。

宿直草卷三 第八 湖に入、武具を得し事

 

  第八 湖(みづうみ)に入(いり)、武具を得し事

 

 江州にてある里侍(さとさむらひ)、長(たけ)二間ばかりの虵(じや)を切り、巷(ちまた)、擧(こぞり)て虵切(じやきり)と呼ぶ。

 この人の住(すみ)所は琵琶の湖(うみ)の東なり。其浦に虵あり、常に湖の底に棲むなど云ひ觸れり。

 しかるに、何者のわざにや、かの侍の門に、

――此浦の虵御退治(ごたいぢ)しかるべし――

と札(ふだ)に書きて貼(を)す。侍、見て、

「筆まめなる事。」

とて引き捲りて捨(すて)けり。又、次の夜も、

――是非殺し給へ――

とて貼(を)す。これも取りて捨(す)つるに、後には捨てても捨てゝも、札六、七枚、八、九枚も貼(を)して、あまさへ、雜言惡口(ざうごんあつこう)す。輕忽(きやうこつ)なる事、云ふばかりなし。

 侍見て、

「今は、有るにし無きにし、殺さでは叶はぬ。」

と思ひ、我も是非なく札を立てたり。

――我 不幸に虵を殺す 人 賴まぬに蛇切と呼ぶ 嬉しきにもあらず 又 手柄と思はねば 自讚したる事もなし しかるに 此浦に蛇ある由(よし)にて 我を指圖し給ふ 頗る難義なれども 又 一人に選ばるゝも 且つは面目なり これ 止む事 得難(えがた)し 下官(やつがれ) いかでか辭せんや 幸ひ 來月幾日(いくか) 庚寅(かのえとら)にして吉日也 巳の刻に退治可申候 その浦へ御寄りあるべく候也――

と書けり。

 諸(もろ)人、見て、

「札の面(おもて)、聞えたり。無理なる所望にこそ。」

と云ひ合へり。

 かくて、其日になるに、侍も幕引かせ、彼處(かしこ)に行けば、見物も群(むれ)連れて來(きた)る。

 時に臨めば、侍、酒、飽くまで酌(くみ)て、裸かになり、下帶(したおび)に脇差指(さし)て、千尋(ちひろ)の底に入(い)る。あはや、と見るに、上(あが)らず。暫時(しばし)して、浮かめり。

 息を、とくと繼ぎて、

「扨々。虵やあると、右往左往(あふさきるさ)見るに、元無きか。あれど、出(いで)ぬ歟(か)。虵と思ふものもなし。然共(しかれども)、こゝなる岸(きし)の下に、廣さ三間四方ばかりの洞(うつろ)あり。この峒(ほら)に水の動くにうつろふて、光りもの、見えたり。さてこそと思ひ、やがて、側(そば)に寄り、二刀(かたな)三刀刺すに、敢へて働きもせず。如何樣(いかさま)、合點(がてん)行かぬものなり。今一度行きて、取りて帰るべし。」

と云ひ、長き繩(なは)を取り寄せ、其端(はし)を下帶に付け、又、入ると見えしが、やがて上(あが)り、

「引(ひき)上げよ。」

と云ふ。

 人々、寄りてこれを引くに、具足・甲(かぶと)着たる者、引上げたり。其時、見物、一度にどつと賞(ほ)むる聲、止まず。

 さて、よく見れば、鎧武者(よろひむしや)の入水(じゆすい)したると見えて、筋骨(すぢぼね)の差別(しやべつ)もなく凝(こり)たる體(てい)にして、兜・具足・太刀・差し添(ぞ)へも、金作(こがねづくり)なり。餘(よ)の物、錆腐(さびくさ)れども、金(こがね)は全(また)ふして、此侍、德を得たり。

「保元(ほうげん)・壽永か、あるは建武・延元(えんがん)の比(ころ)の、然(しか)るべき大將にや。」

と云へり。見物の者も、

「天晴(あつぱれ)、虵を殺せる勇士かな。」

と賞めて歸りしと。

 

[やぶちゃん注:前話とは蛇絡みで軽く連関。札書きの部分は恣意的にダッシュを用いた。

「里侍(さとさむらひ)」主家を離れた浪人の田舎住まいの武士の謂いか。

「二間」三メートル六十四センチ弱。本邦産の蛇類では三メートルを有意に越るの個体はまず見られない。但し、三メートルほどの死んでくたっとしたものを熨せば、これくらいにはなろう。

「虵(じや)」漢字も読みも原典に従った。

「輕忽(きやうこつ)」「軽骨」とも書く。ここは人を侮って軽蔑することを指す。

「有るにし無きにし」岩波文庫版の高田氏の注に、『どちらにしても』とある。

「下官(やつがれ)」「僕」とも書き、「奴吾(やつこあれ)」の転で古くは「やつかれ」と清音であった。一人称で、自分自身を遜って言う語。上代では男女ともに用いたが、近世には男性がやや改まった場で自己卑称として用いた。「下官」はかつて武士が公家の衛士(えじ)であったことを意識した用字か。

「來月幾日(いくか)」実際には日が書かれていたものを伏せた。

「巳の刻」午前十時頃。

「札の面(おもて)、聞えたり。無理なる所望にこそ。」「お侍さまが札に書かれたその趣旨はよう判る。無理難題を所望したものじゃ。」と同情したのである。

と云ひ合へり。

「侍も幕引かせ」見世物ではなく、侍は大真面目な命を賭けた厳粛な儀式として行のである。

「右往左往(あふさきるさ)」岩波文庫版の高田氏の注に、『「おうさくるさ」に同じ。行ったり来たりする様』とある。ここは現行の慌てふためくの意はないあちこちと湖底を探ったことを指すフラットな用語である。

「元無きか」伝承にはあれども、もともとこの浦にはそのような悪しき大蛇なんどはいないのかも知れぬ。

「三間」五メートル四十六センチメートル弱。

「洞(うつろ)」「峒(ほら)」水底洞窟。

「繩(なは)」底本は「鎖縄」とするが、原典はただ「なは」であるのでかくした。岩波文庫版も単に『縄』である。確かに相当な重量のものをこの後にサルベージするのだから、金属製の鎖である方がしっくりくることはくる。

を取り寄せ、其端(はし)を下帶に付け、又、入ると見えしが、やがて上(あが)り、

「引(ひき)上げよ。」

「筋骨(すぢぼね)の差別(しやべつ)もなく凝(こり)たる體(てい)にして」遺体が木乃伊(ミイラ)のようになって、肉や骨が縮んである程度、凝集していたことを表現したものであろう。

「保元(ほうげん)・壽永」保元は一一五六年から一一五八年で保元の乱(保元元(一一五六)年七月に皇位継承問題や摂関家内紛によって朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂して武力行使に至った政変)辺りを、寿永は一一八二年から一一八三年で寿永二年の木曾義仲入京から平家の都落ち及び翌年の義仲の宇治川の戦いでの敗走自害辺りを想起したものであろう。

「建武・延元(えんがん)」建武(南朝方では西暦一三三四年一月末から一三三六年二月まで、北朝方では同じ基点から一三三八年八月まで)・延元(南朝方の元号で一三三六年から一三三九年まで。北朝は概ね暦応年中)で、鎌倉幕府滅亡翌年からの南北朝動乱を想起したもの。]

毛利梅園「梅園介譜」 蝦蛄 / シャコ


Syako

「漳州府志(しやうしふふし)」及び「開元遺事」・「草木子」に載す。

   蝦蛄【「シヤコ」。「シヤクヱビ」俗に「シヤクナゲ」とも云ふ。「ヤマメ」。】

     壬辰(みづのえたつ)蠟月廿三日、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」のこの画像からトリミングした(右側にアミ(と称するもの)の一部、下部に「クルマエビ」の一部と「青蝦」のキャプションがあるが、これらは本図(本種)とは無関係である)。これは本邦のシャコの博物画としては超弩級に優れていると私は思う(特に尾部の描写)。翻刻では恣意的に句点と送り仮名を補った。

節足動物門 Arthropoda 甲殻亜門 Crustacea 軟甲綱 Malacostraca トゲエビ亜綱 Hoplocarida口脚目 Stomatopoda シャコ上科 Squilloidea シャコ科 Squillidae シャコ属 Oratosquilla シャコOratosquilla oratoria

である。異名は梅園の挙げた他にも、「シャク」「シャッパ」「ゼニヨミ」「ガサエビ」などがある(「ヤマメ」というのは聴いたことがないが、推測するにこれは「山蠆(やまめ)」で、こちらは、蜻蛉の幼虫のヤゴの異名であり、だとするなら、何となく腑に落ちる)。私は甲殻類では、生態観察するのも、食べるのも、特異的(私は実はエビ・カニはそれほど食指は動かないのである)に好きな種の一つである。

「漳州府志」(しょうしゅうふし)原型は明代の文人で福建省漳州府龍渓県(現在の福建省竜海市)出身の張燮(ちょうしょう 一五七四年~一六四〇年)が著したものであるが、その後、各時代に改稿され、ここのそれは清乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌を指すものと思われる。同書の「介之屬」に『蝦姑【如蜈蚣而大。能食蝦、謂之蝦姑。】』とある。

「開元遺事」「開元天寶遺事」のこと。盛唐の栄華を伝える遺聞を集めた書で、王仁裕撰。後唐の荘宗の時、秦州節度判官となった彼が長安に於いて民間の故事を採集、百五十九条に纏めたものとする。但し、同書を中文サイトで縦覧したが、記載は見当たらなかった。

「草木子」(そうぼくし)は元末明初の学者葉子奇の随筆。元代の諸制度や元末明初の事件風聞、北宋期の儒者邵雍(しょうよう)の自然思想に基づく天文・地理・生物などに関する記録などを載せる。同書の「卷之四下」に『蝦姑。狀若蜈蚣。管蝦。』と出る。

「壬辰蠟月」「廿三日」「壬辰」は天保三年で、「蠟月」は陰暦十二月の異称であるから、これは西暦では一八三三年の一月十日(同年旧暦十二月朔日)以降となる。シャコは食材としては仲春から夏であるが、寿命は概ね三年であり、生後二年目で成熟する。]

ブログ「鬼火~日々の迷走」開設十二周年+ブログ970000アクセス突破記念 火野葦平 酒の害について

 

Nakamurajiheikappa

 

[やぶちゃん注:本篇は実際には底本の「河童曼荼羅」では、既に公開した梅林宴」紋」の間にある。これは私のある誤った馬鹿げた認識から電子化を後回しにしていたに過ぎない。

 なお、これまでの本底本では、各小説の前に各方面の火野の知り合いであった作家・画家・文化人の河童の挿絵が挿入されているのであるが、その殆んどがパブリック・ドメインではなかったため、それを画像化していなかったが、今回は中村地平で(挿絵には「地」のサインがあり、絵の下には底本では『中村地平 畫』とキャプションがあるが、編集権侵害をしないように除去した)。彼は著作権満了であるので(以下の没年参照)、今回は添えた。

 中村地平(ちへい 明治四一(一九〇八)年~昭和三八(一九六三)年)は宮崎県出身の小説家で銀行家(宮崎相互銀行(現在の宮崎太陽銀行)社長)。本名、中村治兵衛。台湾総督府立台北高等学校卒業後、東京帝国大学文学部美術史科に入学、入学試験の会場で太宰治と知り合った。学生時代の昭和七(一九三二)年に「熱帯柳の種子」を発表、やがて井伏鱒二に師事して太宰治・小山祐士とともに井伏門下の三羽烏と称せられたが、後に『日本浪曼派』運営の齟齬その他で太宰とは絶交した。大学卒業後は『都新聞』(現在の東京新聞)に入社、昭和一二(一九三七)年に発表した「土竜どんもぽっくり」は芥川賞候補にノミネートされ、翌年にも「南方郵信」で芥川賞候補となり、所謂、南方文学の旗手として注目された。戦後は『日向日日新聞』(現在の宮崎日日新聞社)編集総務や西部図書株式会社の設立に関わり、宮崎県立図書館長を勤めたりもしたが、晩年は父の跡を継いで、宮崎相互銀行社長に就任した。彼には民話集「河童の遠征」(昭和一九(一九四四)年翼賛出版協會「新民話叢書」刊)がある(以上はウィキの「中村地平に拠った)。

 本小説の発表は冒頭のメチル云々から見ても、戦後の作であり、ネット上の書誌データを見る限りでは昭和二一(一九四九)年四月以前の作である。

 本電子化は私のブログ「鬼火~日々の迷走」の開設十二周年記念及び2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログがブログ970000アクセス突破記念(気が付いたら、昨日、一日で5000越えのアクセスをされていた)として公開した。【2017年7月6日 藪野直史】]

 

 酒の害について

 

 かすかな風が芒(すすき)の穗を光らせる。沼からつづいてゐる窪地は土堤(どて)のかげになつてゐて、道路からは見えない。そこで五匹の河童が酒宴をひらいてゐた。もうだいぶん早くからはじめてゐるらしく、酒量によつて差はあるが、ほろ醉ひ、なま醉ひ、微醺(びくん)、べろべろ、くにやくにやとその形がみだれてゐた。このごろの人間世界の酒はうすくなつたり、ひどいのになるとメチルがあつて死におとし入れたりするといふことで、人間の墮落がそんな面にもよくあらはれてゐたが、河童の世界ではそんな心配はなかつた。長年月の醱酵(はつこう)を必要とする猿酒はさうたやすく手に入らぬが、茄子と胡瓜とを原料にし、これに尻子玉(しりこだま)の精分をそそぎこむ草酒は時折は口にすることができるので、河童たちは交歡にこと缺くことはなかつた。尤もいつでも誰でも入手できるといふのではない。やはりその製造の祕訣を知つてゐる者があつて、口傳と手練でこれを傳へてゐるのだから、その專門家のところへは多量の交換物資、主として川魚を必要とした。だから川魚の捕獲の下手な者、不精な者は草酒にありつけない。だから河童たちがのべつに宴會をしてゐるといふわけのものでもなかつた。

 さて、ここにゐる五匹の河童はその飮みぶりといひ、現さといか、仲間でも名だたるもののやうに思はれた。くにやくにやは額に傷をしてゐる大河童、べろべろは大あぐらをかいた肥大(ひだい)河童、後席はひよろ高い瘦せ河童、なま醉ひはちんちくりんの小河童、ほろ醉ひは眼のほそい鼻孔の大きな老河童、それだけ聲色もちがひ、身ぶり手まねには癖があり、どうやらひとかどの者たちのごとく見うけられる。

 秋の陽ざしはやはらかくこのたのしげな酒宴のうへにそそぎ、蜻蛉(とんぼ)がときどき芒の穗にとまる以外に、この場をみだすものもない。しかしながらこの酒宴の一見たのしげな外見のなかに、どこかただならぬ空氣、なにやらただよふ殺氣、陰險さ、警戒心、さういふものが感じられて、飛んで來る蜻蛉はあわてて逃げてゆく模樣だつた。何故なら河童の喧嘩の飛ばちりを食つて非業の最後をとげた者が少くないからである。半分にわられた瓢の盃がぐるぐるまはる。かたはらのまんまんと幾つかの石桶のなかにたたへられてゐる綠色の酒は時間とともに減つてゆく。山盛りにされた魚がかたはしから骨になる。

「なんとも大した御馳走で恐縮です」

 ちんちくりんの小河童が舌鼓をうちながら、石の上へ腰をおろしてゐる老河童に聲をかける。

「いやこんなに存分にいだいたことは初めてです。盆と正月とが一緒に來たやうです」

 瘦せ河童がさういへば、

「わたしはとんと川魚取りが下手で、このところ好きな草酒にも緣が切れてゐたのに、こんな大盤ふるまひにあづかるとは、これで百年も長生きした氣がします」

「人間のやうに惡辣な奴は河童には居らんから、いくら飮んでも命に別條はない。ああ、ええ氣持ぢや。河童音頭でも歌はうかい」

「いや、そんなに皆さんがよろこんでくれれば、わたしもおよびした甲斐がある。さあさあ、今日はとことんまでやつて下さい。まだまだこれくらゐのことでは飮んだうちには入らない。……さあ、注がう」

 どうやら今日の宴會は鼻孔の大きな老河童の招待のやうだつた。老河童はしきりにもてなしながら、ときどきぢろりと四匹の河童たらの顏色をうかがび、なにやら陰險な目つきで妙なうなづきかたをしてゐた。

 河童たちはぐにやぐにやしたり、ゆらゆらしたりするが、頭だけはいつもまつすぐにしてゐた。頭を斜にして皿をかたむけては大切な水が流れ出る。皿の水は河童の生命であるから、うつかり流すことはできない。ちやうど首だけが垂直に天からつりさげられてゐるやうに、身輕がどんなにくづれみだれても、傾斜しないのである。

 老河童はすこしあせつて來た。

「さあ、どんどんおあがり」

 立ちあがつて、酒をついでまはる。

「遠慮なしにいただきます」

「あなたもどうぞ」

「やい、盛りが惡いぞ」

「もつたいない。こぼすな」

 それぞれに醉態がはげしくなり、言葉づかひも亂暴になつて來た。

 老河童はもつともちんちくりんの小河童に注目してゐた。身體は小さいが、この小河童が仲間のあひだで尊敬され、この小河童のいふことなら、厄介なつむじ曲りである他の三匹もきくことを知つてゐるからである。小河童の醉ひかげんをはかることが老河童の目的で、つねに小河童への注意をおこたらなかつた。

 陽ざしが芒の影をすこしづつ西から東へ移動させる。頃あひよしと觀察した。

 老河童は石のうへに立つと、

「さて皆さん」とあらたまつた聲をかけた。

 八つの醉眼が彼の方にむけられた。

「ところで、酒の味はいかがですか」

「たいへん結構」

「世界一です」

「いまごろなにいふか。わかりきつたこといふな」

「話はやめて歌へ」

「皆さんがさういつて下さるので、わたしも安堵しました。實はこれだけの酒をあつめるのは容易なことではなかつた。部下の者を總動員して川魚狩りをし、沼の酒屋には大車輪で製造をさせた。胡瓜や茄子はいくらでも手にはいるが、當節尻子玉の精分はなかなか拂底して居る。これも金に糸目をつけず取りよせさせた。幸ひ大洪水で土左衞門が大量にできた。天われに惠みをたれ給うたのです。他の證文はみんなことわつて、本日の宴會のための草酒をこしらへたのですよ。どうです、すばらしいでせう」

「すばらしいことです」

「そんなにまでとは思ひませんでした」

「恩に着せるな」

「講釋はやめとけ」

「恩に着せるといふわけでもないのぢやが、まづ大體わたしの苦心も買つてはもらひたいですな。これだけわたしが熱意を傾けて、皆さんに奉仕した氣持を知つてもらへればいいのです」

「わかりました」

「御厚意は忘れませんよ」

「てへ、苦心がきいてあきれら」

「それでどうぢやちゆうのか」

「日ごろ皆さんがそれぞれ立派な意見を持つて居ること、力を持つて居ること、仕事のできること、大いに尊敬してゐます。皆さんはこの口無沼(くちなしぬま)の誇りといつてもいいくらゐです」

「そんなことはありませんよ」

「それは買ひかぶりです」

「おだてるねえ」

「皮肉をぬかしやがる」

「けつしておだてでも皮肉でもない。わたしは事實を申すだけです。皆さんが立派であるやうに、この沼全體が立派であるとうれしいのぢやが、さうでないのがいきさか殘念です。長老として非才のわたしを、皆さんが立てて下さることが、わたしは心苦しいくらゐです。それはいくらか皆さんと意見の相違もあり、そのことを心外にも存じて居りましたが、かうして打ちとけて酒をくみかはす日の來ましたことを、なによりうれしく存じて居る。前に何度もおまねきしたのに來てくれなかつたので、わたしもいささか氣に入らなかつたが、いや昔のことはもうどうでもよい。今日こんなにして來て下さつたのだから、もう皆さんはわたしの友達です。すつかり十年の知己(ちき)になりました。かうしてわたしの獻立(こんだて)に皆さんが滿足して下さつた以上は、わたしと深いつながりができました。そして皆さんがわたしの招待に感謝してくれる氣持がよくわかりました。つまり皆さんがわたしのいふことをきいて下さることがわかつたのです」

「どういふことですか」

「いふことをきく? 例のことですか」

「變てこなこといふな」

「なんでもいつてみやがれ」

「わたしはこの口無沼の發展のために、皆さんがわたしの意見に賛成して下さることを望むのです。われわれの故郷である口無沼の發展を、皆さんが反對だと思ひません。否、人いちばいこの沼の發展を望んでゐるにちがひないと思つてゐます」

「それは望んでゐます」

「わかりきつたことですよ」

「へん、また初めやがつたな」

「陰謀屋」

                                                   

「陰謀とは心外です。この口無沼の發展のために、橫暴、傲慢、惡逆、出たらめ、けちんぼ、鼻無沼の奴原(やつばら)を征伐することが絶對に必要です。でなかつたら、あべこべに鼻無沼の方からやられる。奴等は虎視耽々(こしたんたん)として、われわれの沼を狙つて居る。わたしは常にこのことを主張し、未然にこれを防ぎたいと皆さんにはかるが、皆さんは賛成されない。他の連中はいつでもわたしの號令ひとつで動くといふのに、皆さんだけが反對された。わたしには皆さんの考へがわからない。皆さんには愛沼心がない。なるほど、皆さんのいふやうに爭ひを強ひておこすことはまちがひです。しかし默つて居れば相手からやられるとわかつてゐるのに、沈默してゐるのに、それは思慮といふものではない。怯儒(けふだ)、卑怯、腰拔け、さうではありませんか」

「すこし意見がちがひます」

「もうあなたの持論はききあきました」

「なに、腰拔け? もう一ぺんいつてみろ」

「ぬかしやがつたな。たたき殺すぞ」

「今日はわたしの苦心の御馳走で、皆さんは大いに滿腹された。わたしの饗應は氣まぐれではない。皆さんと胸襟をひらき、友だちとなり、共同の目的のために共同の行動をやりたいと思つたのです。まだ飮み足りないのですか。さあ、どんどん飮んで下さい。皆さんの酒豪はわかつてゐますから、そのつもりで用意してあります。大いに飮み、胸襟をひらいて下さい。きつとわたしの意見の正しさがわかり、賛成するやうになりませう。……さ、どんどんあけなさつて……」

「酒は頂戴します。しかし意見に賛成はいたしません。何度おつしやつても同じです。あなたのいふことは表面はたいへん立派です。しかしあなたの本心がどこにあるかは、つとにわれわれの看破するところです。あなたはこの沼の幸福と發展などにはなにも興味はないのです。仲間のことなどなにも考へてゐない。自分一個の利慾、エゴイズム、陰謀です。あなたが自分の商賣のことで、鼻無沼といきさつのできてゐること、そんなことはわたしたちはすべて存じてゐるのです。あなたは自分一個の利益のために、沼全體の仲間を不幸におとし入れようとたくらんでゐるのです。あなたのその惡心をわれわれが知つてゐるので、あなたはわたしたちが煙たくてならなかつた。わたしたちが反對したら、仲間もあなたのいふことをきかない。そこであなたはわたしたちを籠絡(ろうらく)しようと考へた。酒好きのわたしたちに鱈腹酒をのませて、それを恩に着せてわたしたらを説伏しようとなさつた。わたしたちはよばれたときから、あなたの下心を知つてゐました。いくら酒をのましても、わたしたちの意見はらつとも變りません。饗應で手なづけようとしても駄目です」

 老河童は眼をほそめ、不機嫌さうに大きな鼻孔を鳴らした。相當に醉つてゐる癖に、はつきりと自分の意見をいふ小河童をいまいましげに見た。が俄に相好をくづし、わざとらしい作り笑かをたたへて、瓢の盃をとりあげた。

「いや、むつかしい話はやめにしませう。酒の席に鹿爪らしい強談義はふさはしくない。さあ、どんどん飮みませう。わたしとしたことが座興をこはしてしまつて。……わたしも酩酊(めいてい)したとみえますな。どうも酒といふ奴はものごとを狂はせます。さ、注ぎませう。やつぱり噂にきいた飮み手ばかり、いやはや見事なものですな」

「頂戴いたします」

「徹底するまでやります」

「ふん、ざま見やがれ」

「なんぼでも持つて來い」

 失敗した老河童の心に新な惡心がわいた。憎惡に燃えた老河童はこの四匹の河童たちの命を奪はうと決心した。もう仲間につけようといふ意圖は完全に抛棄(はうき)したのである。命を奪ふといつても直に手を下すのはまづい。またそれは到底できない相談である。そこでどんどん酒をすすめ醉ひつぶさうと考へた。酒をすすめることに疑念の生ずる餘地はない。いかに酒豪とはいへ、體力には限度がある。いつかはつぶれるにちがひない。さすれば自然に身體が橫になり、頭の皿の水が流れ出して、無意識のうちに命を失つてしまふ。それは自業自得で、自分に罪はかぶせられない。こんな巧妙な殺人法はない。にたりとほくそ笑んだ老河童は、まるで口のなかにおしこむやうにして、酒をすすめだした。河童たちは何の警戒心もなくがぶがぶと飮み、ぐにやぐにや、でれでれ、ふらふらと身體を振りはじめた。老河童はぎらりと眼を光らせ、その效果をたしかめるやうに、陰險なまなざしで、不愉快な河童たちの醉態に注目してゐた。

 空にわたる風がたそがれの色をさそひだし、陽(ひ)のかげはしだいに長く土堤のうへにたなびいた。にもかかはらず、河童の饗宴ははてもない。老河童はすこし焦(じ)れて來た。小首をひねつた。こんなことがあるだらうか。期待はまつたくはづれたのである。小河童、大河童、瘦せ河童、肥え河童、醉ひぷりはそれぞれちがひながら、共通してゐることが一つあつた。それはどんなに身體をくづしても、けつして頭の位置を變へないことである。皿の水の流れ出ないやうに頭をまつすぐにしたまま、あたかも中天から首だけを吊り下げてゐるに異らない。酒のために精神を錯亂させようと考へてゐたのに、かへつていよいよその精神はみがかれて、その智慧が河童を支へてゐるもののやうだつた。瘦せ河童が眠りはじめた。しめたと老河童は思はず片唾をのんだ。しかし眠つた河童は木の幹にもたれ、頭の皿はまつすぐだつた。早く醉はせようとつとめた老河童は返酬(へんしう)の酒に、思はず自分も度をすごしてゐた。そして眠氣をもよほし、いつか、窪地に長く橫たはつてゐた。傾いた頭の皿から、水が流れ出た。なほも酒豪河童の饗宴は芒のかげの消えるのも知らずつづけられた。

 

宿直草卷三 第七 蛇の分食といふ人の事

 

    第七 蛇(じや)の分食(わけ)といふ人の事

 

 ある人の語るは、

「元和(げんわ)八年の秋、紀陽(きのくに)和歌山へ行(ゆき)て、著(しる)き人の許(もと)に話しゐるに、齡(よはひ)五、八斗(ばかり)の男、己(をの)が業(わざ)に、簀子(あじか)に魚(うを)入れて荷ひ賣りする者、有(あり)。また、頭(かうべ)、滑乎(くはつこ)として髮一筋も生(おひ)ず、たゞ藥鑵(やくはん)のごとし。異名(いみやう)を呼んで、

『「蛇(じや)のわけ」の來たりたり。』

と云ふ。さて、商ひして彼の者は去る。

 其(その)跡(あと)にて、

『子細こそあらめ。』

と云へば、亭主、ほくそ笑(ゑみ)て語る。

『彼(かれ)は、もと古郷(ふるさと)は山家(さんか)の者也。年、六(むつ)になる長月の比、伯父、寵愛して、

「山雀(やまがら)取(とり)やらんぞ。」

とて、囮(おとり)を持ちて山に率(ゐ)て行(ゆく)に、果して、數多く取(とる)。伯父、彼に云ふやう、

「此(この)小鳥籠を持(も)て、あの池に行き、餌器(ゑげ)に、水、入れよ。」

とて遣(や)る。やゝ待てども、歸らず。聲して呼ぶに、更に答へず。不審に思ひ、汀(みぎは)に行きてこれを尋(たづぬ)る。籠と草履(ざうり)はありながら、主(ぬし)は、更に見えず。彼方此方(かなたこなた)見るに、向ふの湫(いけ)の澤水(さはみづ)、溶々(ようよう)として、草(くさ)、茸々(じやうじやう)たるに、松の木一本、添ふてあり。彼(か)の面(も)を見れば、太さ、四、五尺ばかりの蟒蛇(もうじや)、口舐(くちな)めずりして、居たり。

「扨は。彼奴(きやつ)こそ仇(かたき)なれ。」

と、急ぎ、我屋に返り、弓矢取るも遲しと、また、かの所へ行くに、蛇(じや)は、そのまゝあり。

 やがて弓引き絞り放つに、誤(あや)またずして、しかも當たり所よくして、さらに働きもせず有ければ、脇差を拔き、腹の膨(ふく)れしところ、堅(たて)さま、三尺斗(ばかり)裂きてみるに、わが甥、ゐたり。さて、氣つけ飮まして率て歸る。

 後、何の障(さは)りもなく息災になれり。

 かの者に問へば、

「呑まれし時は闇(くらがり)に居るやうにて、何の苦もなし。其後(のち)、頭(かうべ)へ、滴(しづく)、二、三度かゝると覺(おぼえ)しが、熱ふして、遍身(へんしん)、碎(くだ)くるかと苦しかりし。」

と云ふ。

 それ故にこそ髮も生へず、すべりとなりてあるらめ。』

 げに、この人よ、初元結(はつもとゆひ)もそゝけなく、小櫛(をぐし)の齒の恨みもなからん。猶、法師にも手まさぐらるゝ毛垂(けた)れも、此(この)袖には捨てらるゝありさま、なれも先折れたる心地こそせめ。かの天王寺山は名にこそ負へれ、ものに似ておかしきは此頭(あたま)にぞ侍る。」。

 

[やぶちゃん注:「蛇(じや)の分食(わけ)」大蛇の食い扶持となりかかった者の謂いか。

「元和(げんわ)八年」一六二二年。ここまで、元和年間の出来事とするものがかなり多い。

「五、八斗(ばかり)」四十歳前後。但し、これは彼がつんつるてんの金柑頭である印象からなのであって、語りが全部事実であるとするならば、実際にはもっと若いのかも知れぬ。

「簀子(あじか)」竹・藁・葦などを編んで作った籠・笊の類い。

「滑乎(くはつこ)として」完全につるんとして。

「山雀(やまがら)」スズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属ヤマガラ Parus varius本種の飼育は古く平安時代から行われており、学習能力も高いことから、江戸時代には芸を仕込ませることが流行り、盛んに愛玩された。私も幼い頃(昭和三六(一九六一)年前後)、当時、住んでいた練馬の、近くの神社の境内の縁日で御神籤(おみくじ)を引くそれを実際に見た記憶があるが、ウィキの「ヤマガラ」によれば、あの『おみくじ芸自体は戦後になってから流行し発展してきた』とあるが、『鳥獣保護法制定による捕獲の禁止、自然保護運動の高まり、別の愛玩鳥の流通などにより、これらの芸は次第に姿を消してゆき』、一九九〇『年頃には完全に姿を消した。このような芸をさせるために種が特定され飼育されてきた歴史は日本のヤマガラ以外、世界に類例を見ない』とある。

「湫(いけ)」狭義には、湿気が多く、水草などが生えている低湿地帯。浅い池や沼や溝。国字としては同義で、古くは「くて」と読んだ。但し、次で「溶々(ようよう)」、即ち、「水が豊かに流れるさま」で形容されているから、普通の相応の規模の水の流れのある池と考えてよい。

「茸々(じやうじやう)」草が盛んに茂っているさま。

「太さ、四、五尺」これは直径だろうから(胴回りでは蟒蛇とするにはちょっとしょぼ過ぎる)、現存の本邦種(アオダイショウなど)の同じ体躯比から見ると全長は十八メートルから二十二メートルを越えるほどになり、恐るべき蟒蛇クラスではある。あり得ない長さではあっても、六歳の子をゆうゆうと丸吞みするにはこの大きさでないと、寧ろ、おかしいと言える。例えば「想山著聞奇集 卷の參 大蛇の事」と比較されるとよかろう。そこでも「頭(かうべ)へ、滴(しづく)、二、三度かゝると覺(おぼえ)しが、熱ふして、遍身(へんしん)、碎(くだ)くるかと苦しかりし」と本話で語られるような、その蛇毒或いはその強力な胃の酸性消化液を総身に浴びたことによって、頭髪が抜けて禿となったとか、全身が赤剝けになったといった相似的現象が語られている。

「すべりと」岩波文庫版の高田氏の注には『すべすべに』とある。

「げに、この人よ」「いや! なんともはや! この人は!」。

「初元結(はつもとゆひ)」元服の際に初めて髪を結ぶこと。江戸時代の児童の頭は、庶民の場合には調髪の手間を省くために、丸坊主か、芥子坊主などように髪のごく一部を残したものが多かった。江戸前期の庶民の男子の元服は十五歳ぐらいか。

「そゝけなく」動詞「そそく」は「髪や纏まっている草など、揃っていたものが乱れる・ほつれる」の意であるから、ここは、元服の儀で髪を結ぶことも叶わず、いや、髪が乱れたり、ほつれたりするのを気にかける必要もなく、であって、これは次の「小櫛(をぐし)の齒の恨みもなからん」(髪がないから、櫛も使う場面が生涯無く、櫛の歯が傷んだり、欠けたりすることを気に病むこともなくてよいであろうよ)や、「法師にも手まさぐらるゝ毛垂(けた)れも、此(この)袖には捨てらるゝありさま」(坊主頭の僧侶でさえ生えてきてしまう短い毛を剃るためには必需品とせねばならぬところの「毛垂れ」(小さな剃刀。但し、この「けたれ」という語は女房詞であって、特に女性が眉毛を剃るのに用いる小型のそれを指し、徹底して〈この無毛の男を絶対的に現実の人間集団全体から差別している〉ことが判る)でさえもこの「袖」=人には何の使い道もないことから、永遠に捨て去られてしまうという有様なのだ、という謂いと合わせ、如何にもダメ押しの「禿」に対する嘲笑的畳みかけなのである。そうでなくても、最近起った、豊田真由子とかいうオゾましい女性衆議院議員のあの忌まわしくエゲツない罵詈雑言の生の声を思い出したりしてしまい、特異的に「宿直草」の中で生理的に如何にも〈イヤな感じ〉のする場面なのである。

「なれも先折れたる心地こそせめ」意味がとりにくい部分であるが、これは聴き手である「ある人」に対して以上を語っている「亭主」が総纏めとして言っている言葉として考えられるから、「なれ」は対等(或いはそれ以下)に相手に対する二人称で、聴き手である目の前の彼に「あんた」「お前さん」と呼びかけたものと考えてよい。さすれば、このいやらしい永遠禿への皮肉のダメ押しのどんジリであるからには、「髪の毛が仰山あっていろいろと悩まねばならぬお前さんも流石に、この髪のない果報者には既にして完敗(「先折れ」)であろうよ」とまたしてもトンデモない皮肉を言っているのではなかろうか? 或いは、髪の毛の毛先が枝毛となる「先折れ」という語と掛けているのかも知れないなどとも考えた。しかし全く以って自信はない。大方の御叱正を俟つ。

「天王寺山」岩波文庫版の高田氏の注に、『ことわざ。天王寺山鉾の祭りの日に、田舎者が薬缶と間違えて、奉行のキンカ頭(禿頭)にかぶりついた笑話(『浮世物語』二―五)があった』とある。「浮世物語」は寛文四(一六六四)年頃に刊行された浅井了意作の仮名草子(本「宿直草」は延宝五(一六七七)年刊)。平凡社「世界大百科事典」によれば、飄太郎という道楽息子が、博奕・傾城狂いをして無一文となり、徒(かち)若党・浪人となるも、遂には出家し、浮世房と名乗り、京・大坂を見物、数々の失敗を繰り返した後、ある大名に「咄(はなし)の衆」として仕え、世を諷誡したり、滑稽に託して諫めたりし、最後には仙人になろうと天に昇ろうとして軒から落ち、何処に行ったか判らなくなってしまったという筋であるとある。このシークエンスは同作の「卷二 五 天王寺まうでの事 附(つけたり) 山椒み噎(むせ)たる事」で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから視認出来る、短い笑い話である。

「名にこそ負へれ」「こそ」已然形の逆接用法で、面白おかしいあり得ない笑い話としての「天王寺山」は「禿」譚の真骨頂の作り物語として名にし負うものではあるけれども。

「ものに似ておかしきは此頭(あたま)にぞ侍る」「その『天王寺詣で』の作り物の話に似ていながら、確かな現実の話として面白く、しかもつるんつるんの本物の金柑頭が事実あるという、こ『「蛇(じや)の分食(わけ)』男の存在こそが、本命中の本命のお笑いの真骨頂というもので御座ろうぞ!」と言いたいのではなかろうか? 最後の最後までシツコい〈実にイヤな感じ〉の話である。そもそもがこの亭主、語りの冒頭で「ほくそ笑(ゑみ)て語」り始めた時から、なんとなく僕にはイヤーな予感がしてたんだわ……

2017/07/05

毛利梅園「梅園魚譜」 松魚(カツオ)+鰹魚烏帽子(カツオノエボシ)


Katuo_katuonoebosi

 

     【海魚類】

「東醫寳鑑」出

 
松魚(カツヲ)

 

【寳鑑曰性平味甘無毒。

 味極珍肉肥色赤而

 鮮明如松節故爲松

 魚生東北海云々】

〔【「寳鑑」に曰く、『性、平。味、甘。毒、無し。味、極めて珍にして、肉、肥え、色赤くして鮮明。松節のごとし。故に松魚と爲す。東北海に生ずと云々。』】〕

「常陸国志」出

 
鰹魚(カツヲ)【或曰】肥滿魚

「古事記」及「萬葉集」出

 
堅魚(カツヲ)

順「和名抄」曰

 
鰹魚【加豆乎(カツヲ)式文用堅魚二字】

〔【加豆乎(かつを) 「式文」、堅魚の二字を用ふ。】〕

「雜字簿」

 
鉛錘魚【カツホ「東醫寳鑑」の松魚に充《(あつる)》は非也。】

        保四【巳】四月

        廿有七日眞寫

 

 

○松魚は「本草」に載せず、「東醫宝鑑」に始めて出る。

切割《(きりわり)》て蒸し、なま干《(ぼし)》なるを、生干※(なまりぶし)と云。

[やぶちゃん字注:「※」=「魚」+「節」。]

干乾《(ほしかはか)》したるを土佐州及び鎌倉・熊野より

多く出《(いだ)す》。鰹節、土州より出るを上品と爲《(な)す》。相州

小田原、又、伊勢より出るを鰹の鹽醢(しほから)と云《ひ》、

名産と爲す【今、土佐より煮取を出すナマリブシを製したる跡の煮こゞりを醢とす。】

○乾鰹 五六月間土人採松魚

用鹽水蒸乾爲脯味勝生者

倭俗呼鰹節無毒能調和百

古事記萬葉集及淡海公作所令

順「和名抄」等書作堅魚後世合

爲一字用鰹字堅魚非生松

魚日本上古無食生松魚只無爲

脯而其堅如石故作堅魚以徒

然草之説可證鎌倉松魚昔

下民無食後世況貴人皆多

食珍調年四月朔日定初松

魚最賞玩

〔○乾鰹(かつをぶし) 五、六月の間、土人、松魚を採り、鹽水を用ひ、蒸し、乾し、脯《(ほじし)》と爲す。味、生者《(なまもの)》に勝れり。倭俗、鰹節と呼ぶ。毒、無く、能く百味を調和す。「古事記」「萬葉集」及び淡海公の作る所の令《りやう》、順《(したごふ)》の「和名抄」等の書、堅魚に作る。後世、合《(がつ)》して一字と爲し、鰹の字を用ふ。堅魚は生の松魚に非ず。日本上古、生松魚を食ふこと無し。只、脯《(ほじし)》と爲す。而して其の堅きこと、石のごとし。故に堅魚に作れり。「徒然草」の説を以つて證とすべし。鎌倉の松魚、昔、下民も食ふこと無し。後世、況や貴人をや、皆、多く食ひ、珍調す。年に四月朔日を初松魚と定め、最も賞玩す。〕

 

 

鰹魚烏帽子

[やぶちゃん注:頭の「鰹」の字は実際には「土」が「虫」となっている。]

  【ヱボシウヲ】

烏帽子魚 堅魚、多く集る時、

魚に先たつて、遊行《(ゆぎやう)》すと云。乾《(ほし)》たる者、

之を得《た》り、故に其まゝ記す。

 

 

 

乙未八月廿九日

眞寫 

 

[やぶちゃん注:「梅園魚品圖正 卷一」より。掲げた画像は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園魚品図正」の保護期間満了画像の当該頁(周囲をトリミングした)と、私が視認して活字に起こした(キャプションは右下の「松魚」(キャプション含む)から左上の「鰹魚烏帽子」の後の「松魚」の記載へ行き、次にその前の「鰹魚烏帽子」のキャプションへ、最後に右上の「鰹魚烏帽子」のクレジットの順に活字化した)。割注は【 】で示し、書名は「 」で囲った。読み易さを配慮して、漢文体の部分は白文で活字化した後に句読点や記号及び読みの一部を加えた書き下し文を〔 〕でオリジナルに追加した。読漢字の読みの一部や送り仮名を推定して《( )》や《 》で加えた。和漢混交の甚だしい一部は白文をやめて訓読(私の推定)したものをそのまま示した箇所もある(左上部分の最初の条など)。字配は原則、無視した。基本的に原本の一行字数と一致させたが、訓読した箇所では、そうなっていない箇所もある。

 本図は「松魚(カツヲ)」が、

脊索動物門Chordata 脊椎動物亜門Vertebrata 条鰭綱Actinopterygii スズキ目Perciformesサバ科Scombridae マグロ族Thunnini カツオ属Katsuwonus カツオKatsuwonus pelamis

で、その上部に描かれたものは、呼称・形状及び触手の様態から見て、

刺胞動物門Cnidaria ヒドロ虫綱Hydrozoa クダクラゲ目Siphonophora 嚢泳亜目Cystonectae カツオノエボシ科Physaliidae カツオノエボシ Physalia カツオノエボシ Physalia physalis

の完全乾燥品かとも思われるのであるが、やや疑問が残る。それは、触手が如何にも実際の烏帽子(この泳鐘体(浮袋)の形状はあまりにも揉(もみ)烏帽子に似過ぎている)の緒とこれまたそっくりに描かれている点、群体性で器官的分化の特化しているカツオノエボシは乾燥すると青いプラスチック・ケースのようにはなるものの、触手体の長い部分は、乾燥してもこのように綺麗に真っ直ぐな二本の直状形状を呈することはまずないのではないかと思われるからである。

 寧ろ、この名筆の毛利の筆致に少しも立体感が感じられない泳鐘体部分は、まさに事実、立体感がない堅い扁平なものなのであり、取って附けたような緒のような二本の触手様のものは実際の触手ではなく、人工的に青く染めた植物性の紐のような偽物を毛利に持って来た誰かがまさに取って附けたのではないかと疑われるのである。その場合、捏造加工素材として格好のものとなるのは、本物のカツオノエボシ Physalia physalis の泳鐘体ではなく、生体自体のそれが、同じく青みを帯び、しかも堅い板状を呈して、まさしく揉烏帽子そっくりな、しかし、カツオノエボシとは全くの別種である

ヒドロ虫綱花クラゲ目Anthomedusae 盤泳亜目Disconectae ギンカクラゲ科Porpitidae カツオノカンムリ属 Velella カツオノカンムリ Velella velella

であると私は思うのである(但し、カツオノカンムリにはごく短い触手しかない)。私としてはそうした人為的捏造疑惑を完全払拭出来ない限りは、敢えてこれもこの「鰹魚烏帽子」の今一つの同定候補として示さねば気が済まないのである。

 なお、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「堅魚(かつを)」も参照されたい。

「東醫寳鑑」(とういほうかん:朝鮮語音写:トンイボガム)は許浚の著になる李氏朝鮮時代の医書。二十三編二十五巻。一六一三年刊。出版されるや、朝鮮第一の医書として高い評価を得るとともに中国・日本を含めて広く流布した。日本では官版医書として徳川吉宗の命で享保九(一七二四)年に日本版が刊行されており、寛政一一(一七九九)年にも再版本が刊行されている。中国では清代の乾隆帝の一七六三年に乾隆版が、光緒帝の一八九〇年には日本から版木が輸出されて日本再版本を元とした復刻本が出ている(以上はウィキの「東医宝鑑」に拠った)。

「常陸国志」著者・成立年代不詳の地誌「常陸國志草」(ひたちこくしそう)のことか。

「順」既出既注の字書「和名類聚抄」の作者源順(みなもとのしたごう)。「和名類聚抄」の「卷第十九 鱗介部」には、

   *

鰹魚 「唐韻」云く、鰹【音、堅。「漢語抄」に云く、加豆乎。式文、堅魚の二字を用ゆ。】は、大鮦也。大を鮦と曰ひ、小を【音、奪。】と曰ふ。野王[やぶちゃん注:南梁から陳にかけての学者顧野王(こやおう 五一九年~五八一年)のことか。]、按ずるに、鮦【イ音、同。】は蠡魚(れいぎよ)なり【蠡魚、下の文に見えたり。今、按ずるに可の堅魚と爲すは、之の義、未だ詳らかならず。】。

   *

とある。「唐韻」は、唐代に孫愐(そんめん)によって編纂された「切韻」(隋の文帝の六〇一年の序がある、陸法言によって作られた韻書。唐の科挙の作詩のために広く読まれた。初版では百九十三韻の韻目が立てられてあった)の修訂本。七五一年に成ったとされるが、七三三年という説もある。参照した当該ウィキによれば、『早くに散佚し』、『現在に伝わらないが、宋代に』「唐韻」を『更に修訂した』「大宋重修広韻」が『編まれている』。『清の卞永誉』(べんえいよ)の「式古堂書畫彙考」に『引く』中唐末期の『元和年間』(八〇六年八月~八二〇年十二月)の「唐韻」の『写本の序文と各巻韻数の記載によると、全』五『巻、韻目は』百九十五『韻であったとされる。この数は王仁昫』(おうじんく)の「刊謬補缺切韻」に『等しいが、韻の配列や内容まで等しかったかどうかはわからない』。『蒋斧旧蔵本』の「唐韻」『残巻(去声の一部と入声が残る)が現存するが、韻の数が卞永誉の言うところとは』、『かなり異なっており、元の孫愐本からどの程度の改訂を経ているのかは』、『よくわからない。ほかに敦煌残巻』『も残る』。「説文解字」の『大徐本に引く反切は』「唐韻」に依っており、かの「康熙字典」が、「唐韻」の『反切として引いているものも』、「説文解字」大徐本の『反切である』とある。……しかし……以上の文章、正直、よう、判らんわ。

「式文」平安期の法令集「弘仁式」「貞観式」「延喜式」などの法文。

「雜字簿」「雜字簿」は中国から伝わった漢字俗字単語集で、ここのそれは嘉永三(一八五〇)年に書写された「譯官雜字簿」(やっかんざつじぼ)か。

「保四【巳】四月廿有七日」天保四年癸巳(みずととみ)。グレゴリオ暦一八三三年六月十四日。

「本草」「本草綱目」。確かに、同書にはそれらしいものは載らない。

「土佐州」土佐国。これで「とさのくに」と訓じているかも知れぬ。後の「土州」(どしゅう)も同じ。

「鰹の鹽醢(しほから)」所謂、現在もある魚の内臓を主体とした塩辛「酒盗」であるが、ここに書いてある通りだとすると、現在のそれとは製法が異なるが、実際には身を漬け込んだそれもあるので不審ではない。

「醢」「しほから」と訓じておくが、「ししびしほ」と読んでいる可能性も排除は出来ぬ。

「脯《(ほじし)》」干物。

「淡海公」藤原不比等(斉明天皇五(六五九)年~養老四(七二〇)年)の諡号(おくりな)。

『「徒然草」の説を以つて證とすべし。鎌倉の松魚、昔、下民も食ふこと無し』鎌倉末期に成立した卜部兼好の「徒然草」のよく知られた第百十九段を指す。

   *

 鎌倉の海に、鰹といふ魚は、かの境(さかひ)には、雙(さう)なきものにて、このごろ、もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、

「この魚(うを)、己(おのれ)らが若かりし世までは、はかばかしき人(ひと)の前へ出づる事、侍らざりき。頭(かしら)は、下部(しもべ)も食はず、切りて捨(す)て侍りしものなり。」

と申しき。

 か樣(やう)のものも、世の末(すゑ)になれば、上樣(かみざま)[やぶちゃん注:上流階級の食卓。]までも入(い)りたつ[やぶちゃん注:美味い食材として入り込む。]わざにこそ侍るなり。

   *

「況や貴人をや」この部分の訓読には自信がない。「貴人」のカタカナの送り仮名は「ウ」に見える。或いは「ニシテ」の約物か。しかし「況」への返り点がある。

「珍調」珍重に同じい。

「烏帽子魚 堅魚、多く集る時、魚に先たつて、遊行《(ゆぎやう)》すと云」本州の太平洋沿岸に鰹が到来する時期、たまたま同じ海流に乗ってくることから、鰹の豊漁の予兆とされた。激しい刺胞毒を持つが故に実際には漁師は怖れ、忌み嫌ったはずであるが、そうした有毒性や特異な泳鐘体の形状が、あたかも鰹を先導し守る、鰹の霊性をシンボライズする式帽たる「烏帽子」にも見えたのであろう。この名は一般には三浦半島や伊豆半島で起った呼称と考えられている。

「乾《(ほし)》たる者、之を得《た》り」梅園先生、本当にそれがカツオノエボシだとしたら、気をつけないといけませんよ! すっかり乾燥させたものであっても、刺胞の物理的機能は湿気を帯びれば、正常に作動し、毒成分も、干したからといって、消滅しないからです! 何? 『お前の言っている「鰹の冠」の方だったら平気だろう?』ですって?! だめだめ! カツオノカンムリも触手は短いですが、やはり強く、同じく危険なんですって!

「乙未八月廿九日」天保六年の八月二十九日は閏七月があったため、グレゴリオ暦では一八三五年十月二十日となる。]

2017/07/04

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 螢


Hotaru

 

ほたる    夜光  熠燿

       卽炤  夜炤

【音熒】  景天  救火

       
㨿火  挾火

ヨン     宵燭  丹鳥

本綱螢有三種其小査飛腹下光明乃茅根所化也呂

氏月令所謂腐草化爲螢者是也

長如蛆蠋尾後有光無翼不飛乃竹根所化也【一名蠲】明堂

月令所謂腐草化爲蠲者是也

水螢居水中皆感濕熱氣遂變化成形

螢能辟邪明目蓋取其照幽夜明之義耳

螢火丸【一名冠將丸又名武威丸】用螢火鬼箭羽蒺黎【各一兩】雄黃雌黃

【各二兩】羖羊角【煅存性一兩半】礬石【火燒二兩】鐵鍾柄入鐵處【燒焦一兩半】俱

爲粉末以雞子黃丹雄雞冠一具和搗千下丸如杏仁作三

角絳囊盛五丸帶於左臂上從軍繫腰中辟五兵白刃居

家掛戸上甚辟盜賊也又能治疾病惡氣百鬼虎狼蛇虺

蜂蠆諸毒昔漢冠軍將軍武威太守劉子南從道士尹公

受得此方曾試之有效驗

  堀川百首

     五月雨に草の庵は朽つれとも螢と成そ嬉しかりける 匡房

△按螢【和名保太流】大抵大三四分黑色而兩額有赤點有臭

氣其尻銀色處夜出光裹紙亦光徹外用麥碎如

銀砂也江州石山寺溪谷【名試乃谷】螢多而長倍于常因呼

其處名螢谷北至勢多橋【二町許】南至供江瀬【二十五町】其間

群飛高十丈許、如火熖或數百爲塊從毎芒種後五日

至夏至後五日【凡十五日】爲盛無風雨不甚晴夜愈多矣但

北限橋東限川甞不有之又過時節則全無之其螢下

到山州宇治川【約三里許】夏至小暑之間爲盛然不如石山

之多此西限宇治橋不下也俱爲一異也茅根腐草

所化者常也此地特茅草不多俗以爲源頼政之亡魂

亦可笑焉此時也螢見遊興群集天下所知也

蠲【豆知保太留】俗云土螢也田圃溝邊有之無翅不能飛而光

ほたる    夜光  熠燿〔(しふえう)〕

       卽炤〔(そくせう)〕  夜炤

【音、熒。】景天  救火
       
㨿火〔(きよくわ)〕  挾火

ヨン     宵燭  丹鳥

「本綱」、螢、三種、有り。其の小にして、査[やぶちゃん注:「宵(よひ)」の誤り。]、飛び、腹の下に光明あり。乃ち、茅根〔(かやのね)〕の化す所なり。呂〔(りよ)〕氏の「月令〔(がつりやう)〕」に所謂〔いはゆ〕る、「腐草、化して、螢と爲る」とは是れなり。

長さ、蛆〔(うじ)〕・蠋〔(けむし)〕のごとく、尾の後〔(しり)〕へに、光、有り。翼、無くして飛ばず。乃〔(すなは)〕ち、竹根の化する所なり【一名、蠲〔(けん)〕】。明堂の「月令」に所謂る、「腐草、化して蠲と爲る」とは是れなり。

水螢は水中に居〔(を)り〕。皆、濕熱の氣に感じて、遂に變化して形を成す。

螢は能く邪を辟〔(さ)〕け、目を明にす。蓋し、其〔の〕照幽夜明の義、取るのみ。

螢火丸【一名、冠將丸。又、武威丸と名づく。】 螢火・鬼箭羽〔(きせんう)〕・蒺黎〔(いつれい)〕【各一兩。】、雄黃・雌黄【各二兩。】、羖羊角〔(こようかく)〕【煅(ひいれ)して性〔(しやう)〕を存〔(のこ)すもの〕一兩半。】礬石〔(ばんせき)〕【火燒〔きせしもの〕二兩。】、鐵鍾〔(てつしよう)〕の柄〔(え)〕の鐵の入る處【燒〔き〕焦〔せしもの〕一兩半。】俱に粉末と爲し、以つて、雞子・黃丹・雄雞〔おんどり〕の冠(とさか)、一具を用〔ひて〕、和し、搗くこと千下〔(せんど)〕、丸〔(ぐわん)〕にして杏仁(きやうにん)のごとく〔し〕、三角の絳囊(もみぶくろ)を作りて五丸を盛り、左臂の上に帶〔(お)び〕て、軍〔(いくさ)〕に從ふに、腰の中に繫ぐ。五兵・白刃を辟く。居家〔(きよか)〕、戸の上に掛ければ、甚だ、盜賊を辟くなり。又、能く、疾病・惡氣・百鬼、虎・狼・蛇・虺〔(まむし)〕・蜂・蠆〔(さそり)〕の諸毒を治す。昔、漢の冠軍將軍武威太守劉子南、道士尹〔(いん)〕公より此の方〔(はう)〕を受得し、曾て之れを試みるに、效驗有り。

  「堀川百首」

     五月雨に草の庵は朽つれども螢と成るぞ嬉しかりける 匡房〔(まさふさ)〕

△按ずるに、螢【和名、保太流。】は大抵、大いさ、三、四分〔(ぶ)〕、黑色にして兩の額に赤點有り、臭(くさ)き氣(かざ)有り。其の尻、銀色の處、夜〔(よ)〕る、光を出す。紙に裹〔(つゝみ)〕ても亦、光り、外に徹〔(とほ)〕る。麥〔(むぎわら)〕を用ひて揉み碎けば、銀砂のごときなり。江州石山寺〔(いしやまでら)〕の溪谷(たに)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]【試(こゝろみ)の谷と名づく。】、螢、多くして、長さ、常の倍なり。因りて其處を呼びて螢谷と名づく。北は勢多橋に至る【二町許り。】。南は供江瀬〔(くがうのせ)〕に至る【二十五町。】其の間、群(むらが)り飛ぶこと、高さ十丈許り、火〔の〕熖(ほのを)のごとく、或いは、數百、塊(かたまり)を爲し、毎(まい)芒種の後(のち)五日より、夏至の後五日に至るまで【凡そ十五日。】、盛りと爲す。風雨無くして甚だ晴れざる夜、愈々多し。但し、北は橋を限り、東は川を限りて、甞て、之れ、有らず。又、時節を過ぐるときは、則ち、全く、之れ、無し。其の螢、下〔りて〕山州宇治川に到りて【約三里許り。】、夏至・小暑の間、盛りと爲〔す〕。然れども石山の多〔き〕には如〔(し)〕かず。此れも西は宇治橋を限りて下(さが)らざるなり。俱に一異と爲すなり。茅根〔(かやのね)〕・腐草の化する所は常なり。此の地は特に茅草〔(かやぐさ)〕の多からず、俗に以つて、源の頼政の亡魂と爲〔(す)〕るも亦、笑ふべし。此の時や、螢見の遊興、群集〔(ぐんじゆ)〕にして、天下の知る所なり。

蠲〔(けん)〕 【豆知保太留〔つちぼたる)〕。】俗に云ふ、「土螢」なり。田圃溝邊に之れ有り。翅、無く、飛ぶ能は〔ざれども〕光る。 

 

[やぶちゃん注:鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コメツキムシ下目ホタル上科ホタル科 Lampyridae のホタル類。本邦には約四十種ものホタル類が棲息するが、特に知られているのはホタル亜科 Luciolinae Luciola(ルキオラ)属ゲンジボタル Luciola cruciata・ヘイケボタル Luciola lateralis・ヒメボタル Luciola parvula(本種はは翅が退化して飛翔出来ない)の他、マドボタル亜科 Lampyrinae のマドボタル属 Pyrocoelia のマドボタル類である。ウィキの「ホタル」によれば、この最後のマドボタル属 Pyrocoelia の『和名はオスの胸部に窓のような』二『つの透明部があることに由来する。メスは翅が退化していて、蛹がそのまま歩き出したような外見をしている。幼虫は陸生で、主に小型のカタツムリ類を捕食し、他の陸生のホタル幼虫に比べ』夜に特に『活発に光りながら』、『草や低木にもよじ登るので、よく目立つ。成虫はよく光る』種の他に、『痕跡的な発光しかしないものもある』(下線やぶちゃん)とあり、実は最後に出る「土螢」は本邦では、ホタル類の幼虫、特にこのマドボタルの幼虫を指すことが多いらしい。下線部から見て、寺島の言っている「土螢」はこのマドボタルの可能性が高いと考えてよい(この最後の部分は実はウィキの「ヒカリキノコバエ」に拠った。このヒカリキノコバエ(有翅昆虫亜綱新翅下綱内翅上目ハエ目長角亜目ケバエ下目キノコバエ上科キノコバエ科ヒカリキノコバエ(光茸蠅)属 Arachnocampa の幼虫は青白い光を発することから「土蛍(ツチボタル)」という通称で知られているのであるが、ご覧の通り、その成虫はホタルではなくてハエであり、しかも本邦には本種は棲息せず、オーストラリアやニュージーランドなどの洞窟にのみ分布するので注意されたい)。

・「査」本文で示した通り、「宵(よひ)」の誤り。「本草綱目」の「蟲部」(化生部)の「螢火」の「集解」の後半には、

   *

時珍曰、「螢有三種。一種小而飛、腹下光明、乃茅根所化也。呂氏「月令」所謂「腐草蛆」、明堂「月令」所謂、「腐草化爲蠲」者是也。其名宵行、茅竹之氣、遂變化成形爾。一種水螢、居水中、唐李子卿、「水螢賦何爲而居泉」、是也。入藥用飛螢。

   *

とある(下線太字やぶちゃん)。

・「茅根〔(かやのね)〕の化す所なり」後の「腐草、化して、螢と爲る」「竹根の化する所」などとともに中国の本草書が一様に化生類としてしまった元凶の濫觴である。

『呂氏の「月令」』秦の呂不韋の編になる百科全書的史論書「呂氏春秋」(成立年は未詳であるが、その大部分は戦国時代末期の史料に基づくと想定されている)の中の「月令(がつりょう)」。「月令」とは古漢籍に於いて月毎(ごと)の自然現象・古式行事・儀式及び種々の農事指針などを記したものを指す一般名詞である。

 

・「腐草、化して、螢と爲る」東洋文庫版(訳)の注には、これについて『現行の『呂氏春秋』は「腐草化爲蚈」である。漢の高誘の注に、「此書舊本作腐革化為蛍。蚈衍蛍字」とある』とある。しかし、この「蚈」の字は原義が「蛍」であり、次に「ヤスデ」(多足亜門ヤスデ上綱倍脚(ヤスデ)綱 Diplopoda )の意とあり、現代の中文サイトでもちゃんと「蛍」の意としている

・「蠲〔(けん)〕」実はこれこそヤスデ類を指す漢語である。

・『明堂の「月令」に所謂る、「腐草、化して蠲と爲る」とは是れなり』東洋文庫版(訳)の注には、これについて『明堂の「月令」とは『礼記』の月令のことであろう。現行の『礼記』は「腐草化為蛍」である。清の段玉裁の『説文解字注』に、「明堂月令曰腐草化為蠲」に注して、「許(『説文解字』)所拠者古文古説」とある』とある。しかし、考えてみると、腐った草は蛍よりぞわぞわしたかのヤスデ類の方が私はしっくりくるとは言っておこう。

・「水螢」これは以下の「濕熱の氣に感じて、遂に變化して形を成す」とあることから、大陸でホタル類の幼虫を広汎に指す語と考えてよかろう。しかし、とすれば、中国の本草学者は変態を観察しており、突如、全く異なったもの(カヤの根っこや腐った雑草)が化生して蛍になったとは思っていなかったことが判る。こうした段階を踏んだ完全変態を、しかし、狭義の意味での中国博物学に於ける「化生」としていいもんなのかなあ? 時珍先生に伺ってみたくなったわい。

・「照幽夜明の義」幽(かすかにして暗い状態)を照らし、夜にあって明るい光りを放つという蛍という生物の生態現象。

・「螢火丸」(けいかがん)はホタルを主製剤とした薬剤名。

・「螢火」先に示した「本草綱目」項目名で判る通り、ホタルのこと。ここは成虫個体(或いは幼虫も含まれるか)を乾燥させた生薬名と思われる。

・「鬼箭羽〔(きせんう)〕」本邦のニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属ニシキギ Euonymus alatus の茎についている翼状の付属物や、それを含めた枝の部分漢方での生薬名。月経不順・消炎・鎮痛・鎮静に用いられる。

・「蒺黎〔(いつれい)〕」ハマビシ目ハマビシ科ハマビシ属ハマビシ Tribulus terrestris。本邦では温暖な地方の砂浜に生える海浜植物であるが、乾燥地帯では内陸にも植生する。現在のハーブとして健康食品などに入れられており、果実を乾燥したものは「疾黎子(しつりし)」という生薬名で利尿・消炎作用を効能としている。

・「一兩」以前に注したが、明代のそれは三十七・八グラム。

・「雄黃」鶏冠石。毒性が強いことで知られる三酸化二砒素(As2O3 :英名 Arsenic trioxide)を含む。

・「雌黃」現行では前の「雄黃」と同一物であるが、前者が赤みを強い帯びたもの、こちらは黄味の強いものを指すのかも知れぬ。

・「羖羊角〔(こようかく)〕」東洋文庫版の割注には『黒ひつじの角か』とあるが、調べてみると、確かに中文医学のサイトではそうした記載もあるのではあるが、実はこれはマメ目マメ科ジャケツイバラ亜科サイカチ属サイカチ Gleditsia japonica 或いはその枝の棘を指す語でもあるようであり、それは漢方では「皂角刺」と称して腫れ物やリウマチに効くとされる、とウィキの「サイカチ」にはあった。

・「煅(ひいれ)して性を存〔(のこ)すもの〕」東洋文庫版の割注訳には『性質が損なわれぬように煆(ひいれ)したもの』とある。「煅」は「薬石を火に入れて焼く」の意、「煆」は強い熱を加えるという意ではあるが、私の持つ原典では明らかに「煅」であることは断わっておく。

・「礬石〔(ばんせき)〕」明礬石(みょうばんせき)。カリウムとアルミニウムの含水硫酸塩鉱物。ここは「火燒」きしたものとあるから、「焼きミョウバン」(カリミョウバンの無水物)で現在も食品添加物として使用される。

・「鐵鍾〔(てつしよう)〕の柄〔(え)〕の鐵の入る處」よく分らないが、鉄製の鐘を吊り下げるための木製の支えで、その鐘の鉄製の突起が嵌められてあった箇所の木片ということであろうか? 識者の御教授を乞う。

・「雞子」(けいし)は鶏卵のこと。

・「黃丹」これは鉛丹(えんたん)で四酸化三鉛(Pb3O4)を主成分とする赤色の無機顔料であるが、鉛を多量に含むため、有毒である。

・「雄雞〔おんどり〕の冠(とさか)」「とさか」は原典のルビなのだが、これって実は「雄雞冠」でナデシコ目ヒユ科ケイトウ属ケイトウ Celosia argentea のことじゃないかなあ? と私は疑っている。干した花は漢方としてあり、アルカロイドやトリテルペノイドを含み、止血作用があるようではある。

・「一具」「螢火」からここまでの以上総て。

・「千下〔(せんど)〕」中国語の「下」には回数の「度」の意味があることから、かく当て訓した。

・「丸〔(ぐわん)〕にして」丸薬にして。

・「杏仁(きやうにん)」杏(あんず)の種。

・「三角の絳囊(もみぶくろ)」ケーキや菓子作りのデコレーションに用いる三角形のハトロン紙や布を巻き上げたコルネ(フランス語:cornet:「小さな角笛」の意)のようなものか。

・「五丸」その丸薬五粒。

・「五兵」中国に於ける戦闘用の五大武器。幾つかの説があるが、東洋文庫版の割注に従うなら、弓矢(ほこ:長い棒で、刃はなく、木或いは竹を束ねて作られたもの)・(ほこ:金属製の穂先を槍同様に柄と水平に取り付けたもの)・(ほこ:穂先を柄の先端に垂直に取り付け、前後に刃を備えたもの)・(げき:「矛」と「戈」の機能を併せ持ったもので両方に枝が出た三つ叉(また)のもので、漢代に於いて既に鉄製であった)。

・「漢の冠軍將軍武威太守劉子南」「冠軍將軍」「武威太守」は肩書き。「太平廣記」の「神仙十四」の「劉子南」に「神仙感遇傳」なるものを出典として、まさに以下のようにある。

   *

劉子南者、乃漢冠軍將軍武威太守也。從道士尹公、受務成子螢火丸、辟疾病疫氣、百鬼虎狼、虺蛇蜂蠆諸毒、及五兵白刃、賊盜凶害。用雄黃雌黃。各二兩。螢火鬼箭蒺各一兩。鐵槌柄燒令焦黑。鍜竈中灰羖羊角各一分半。研如粉麵。以鷄子黃並丹雄雞冠血。丸如杏仁大者。以三角絳囊盛五丸、常帶左臂上、從軍者繫腰中、居家懸戸上、辟盜賊諸毒物。子南合而佩之。永平十二年、於武威邑界遇虜、大戰敗績。餘衆奔潰。獨為寇所圍。矢下如雨、未至子南馬數尺、矢輒墮地、終不能中傷。虜以爲神人也、乃解圍而去。子南以教其子及兄弟為軍者、皆未嘗被傷、喜得其驗、傳世寶之。漢末、靑牛道士封君達得之、以傳安定皇甫隆、隆授魏武帝、乃稍傳於人間。一名冠軍丸。亦名武威丸、今載在「千金翼」中。

   *

・「堀川百首」平安後期の百首歌。「堀河院百首」他の呼称がある。康和四(一一〇二)年から翌年頃にかえて詠まれた複数の歌人の和歌を纏めて長治元(一一〇四)年頃に堀河天皇に献詠したものか。源俊頼・藤原基俊ら当時の歌人十四名の百首歌を収めている(やや異なった人選のものも伝わる)。

・「五月雨に草の庵は朽つれども螢と成るぞ嬉しかりける」平安後期の公卿で博覧強記の学者・歌人として知られた大江匡房(長久二(一〇四一)年~天永二(一一一一)年)の「堀川百首」中の一首(第四六六番)。この歌を良安が引いたのは、この歌自体が「礼記」の「月令」を下敷きにしたものだからである。

・「三、四分」一センチ弱から一・二センチメートル。ちょっと標準より小さめの数値である。

・「臭(くさ)き氣(かざ)有り」種によって異なるが、多くのホタルは強い圧迫を加えると体の特定の場所から粘液質の体液を出し、この物質は時間が経つと堅くなって、非常に不快な臭いを発し、これは自己防御反応と考えられている。私は生憎、その匂いを嗅いだことがないのだが、ネット上では厭な匂いとする記載が多い。

・「江州石山寺」現在の滋賀県大津市石山寺にある真言宗石光山石山寺。(グーグル・マップ・データ)。

・「溪谷(たに)【試(こゝろみ)の谷と名づく。】」「螢谷」石山寺の北北西五百メートルほどの位置(瀬田川右岸)に現在、滋賀県大津市螢谷という地名及び同名の公園がある。

・「長さ、常の倍なり」井上誠氏の論文「千丈川におけるホタル生息状況について」(PDFでネット上からダウン・ロード可能)を見るに、これはゲンジボタル Luciola cruciate である。

・「北は勢多橋に至る【二町許り。】」「二町」は二百十八メートル。現在の大津市螢谷の町域の北の端からは百七十九メートルで瀬田の唐橋西詰に至る。

・「南は供江瀬〔(くがうのせ)〕に至る【二十五町。】」「二十五町」は約二・七キロメートル。これは「供御瀨(くごのせ)」のことで、現在の滋賀県大津市田上黒津(たなかみくろづ)町付近にあった浅瀬のこと。ここには天皇や将軍の食膳に供するために「田上の網代(あじろ)」が設けられて氷魚(ひうお:鮎の稚魚)を漁ったことからこの名が生まれたと伝えられている。現在の黒津地区と石山寺の距離はここに示された距離と完全に一致する。

・「十丈」三十メートル強。ホタルの飛翔可能高度はより飛ぶことの出来るでも十メートル程度で、これはかなりの誇張表現である。

・「芒種」(ぼうしゅ)は二十四節気の第九で旧暦四月後半から五月前半に当たる。現在の六月六日頃。芒(のぎ:イネ科植物の果実を包む穎(えい:籾殻にある棘状の突起)のこと)のある穀物の種を蒔く頃の意。

・「夏至」芒種の次の節気で旧暦の五月の内。現在の六月二十一日頃。

・「山州」山城国。

・「小暑」夏至の次の節気で旧暦の五月後半から六月前半。現在の七月七日頃。梅雨明けが近づき、暑さが本格的になる意。

・「宇治橋」京都府宇治市宇治里尻の宇治川(瀬田川下流の京都府内になってからの呼称)に架橋するそれ。(グーグル・マップ・データ)。

・「源の頼政の亡魂と爲〔(す)〕る」概ね平家によって排された源氏の一党の中で中央政権で命脈を保ちながら、治承四(一一八)年に後白河天皇の皇子以仁王と結んで、平家討伐の挙兵を計画、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えるも、平家の追討を受けて宇治平等院の戦いで敗れ自害した源三位頼政(長治元(一一〇四)年~治承四(一一八〇)年)。ウィキの「ゲンジボタル」には、『平家打倒の夢破れ、無念の最期を遂げた源頼政の思いが夜空に高く飛び舞う蛍に喩えられた』とあり、『平家に敗れた源頼政が亡霊になり蛍となって戦うと言う伝説があり、「源氏蛍」の名前もここに由来している』とほぼ断定的に言いつつ、その後で、『また、腹部が発光する(光る)ことを、「源氏物語」の主役光源氏にかけたことが由来という説もあり、こちらの場合は清和源氏とは関係はない』。『より小型の別種のホタルが、最終的に源平合戦に勝利した清和源氏と対比する意味で「ヘイケボタル」と名づけられたという説もある』と記す。なお、頼政の家集には、

 いざやその螢の數は知らねども玉江の蘆の見えぬ葉ぞなき

という大治四(一一二九)年の吟が残り、先の井上氏の論文では或いはこの一首は石山寺のゲンジボタルを詠んだものではないかとされておられる。化生説を馬鹿の一つ覚えで繰り返す良安の「笑止」なんぞより、遙かに私には腑に落ち、共感したことを述べて終りとしよう。]

宿直草卷三 第六 獵人、名も知れぬものを獲る事

 

  第六 獵人(かりうど)、名も知れぬものを獲る事

 

 

Namosirenumono[やぶちゃん注:挿絵は底本のものを、清拭、上下左右の枠も除去した。] 

 

 紀州日高郡(ひだかごほり)の獵師(れうし)、たゞ獨り、山へ行(ゆき)、鹿笛(しゝぶえ)かけてゐたるに、向ふの薄原(すゝきはら)、かさかさとして、葎(むぐら)二つに分かり、ものゝ步(あり)く體(てい)なり。鹿(しゝ)なるはと思ひ、をりをり、鹿笛かくるに、このものも、笛に隨ひて來(きた)る。

 茅萱(ちかや)分け、鐵砲、差し出(だ)して待(まつ)に、その亙(わた)り、七、八間ばかり。やがて、覗きて見るに、面の幅三尺ばかりに見え、口を開くにその徑(わた)りも三尺ばかり、紅(くれなゐ)の舌、廣く長(なが)ふして、背(せい)の高さは僅か一尺四、五寸には過(すぎ)ず。大蛇(だいじや)の向(むか)ふさまに來ると心得、手前遲くば、彼奴(きやつ)に呑まれんと、鐵砲差し出し、躊躇(ためら)はず放つに、過(あやま)たず、當たる。やがて谷へ轉(こ)けしが、其(その)形(なり)、思ひの外に短かし。

 扨は蛇にてもなし、行きて見るに極めしに、何とやら、怖ろしかりければ、止みて歸る。

 さて、翌(あ)くる日、友を誘ひて行くに、果して、死(しに)ゐたり。何とも見分け難し。大きなる蟇蛙(ひきがへる)のごとし。身に鱗(いろこ)ありて、二尺四、五寸の尾あり。腹は段を切(きり)て蛇のごとし。辨(わきま)へ難(がた)ふして名を付(つ)くる人、なし。蟇(ひき)といふものか、但(ただし)、蟹(かに)に似て小物(ちいさきもの)と注(ちゆ)せり。蟇(ひき)にてもなきか。身も皮も敢へて役に立つべきものにもなし。鱗(うろこ)の大(おほき)さ、尺ばかり、今に取置(とりお)きたるを見たりと云ふ人、語れり。

[やぶちゃん注:未確認生物譚。但し、これは幾つかの細部表現に疑問はあるものの、最大公約的に同定候補を探るなら、まず老成個体の大山椒魚(両生綱有尾目サンショウウオ亜目オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属オオサンショウウオ Andrias japonicus)に落ち着くと思う。なお、話者は「身も皮も敢へて役に立つべきものにもなし」と述べているが、私の高校教師時代の先輩は、小学生の頃、家でよく大山椒魚を調理して食べたと語っておられた(同種は昭和二六(一九五一)年に種として国の天然記念物に、翌年には特別天然記念物に指定されており、彼は私より五つしか上でなかったから、明らかに違法である。彼の出身地は現在も同種の繁殖地として知られる(先輩のために地名は伏せる)山深い場所であった)。大鍋に生きたまま投じて茹でると、まさに山椒のような強烈な匂いがするが、皮を剝いだその身ははなはだ美味であったとのことである。私の別な先輩教師には雷鳥の子を焼き鳥にして食べたが、実に美味かったと語られた、とんでもない御仁(既に故人)もいる。なお、本種は日本固有種で本来の分布域は岐阜県以西の本州・四国及び九州の一部であるから、旧紀伊国、現在の和歌山県の旧日高地方(旧郡域は現存する日高郡に加えて奈良県県境までの山間部も含まれる)に棲息していてもおかしくない。なお、ウィキの「オオサンショウウオ」には、『和歌山県の個体群は過去に人為移入された個体に由来していると考えられている』(下線やぶちゃん)とあるが、もし、本話の生物がオオサンショウウオであるとし、本「宿直草」の話が実話或いは基本的には同地区での実話に基づくもので、この生物がオオサンショウウオであったとするならば、このウィキにある人為移入なるものが江戸時代前期に行われていた可能性は極めて低くなり、或いは日高地方には、古く、現存する個体群とは別の、滅んでしまった自然分布の同種の個体群が存在した証しともなるかも知れぬ

「鹿笛(しゝぶえ)」猟師が鹿を誘うために用いる鹿の鳴声に似た音を出す笛。現行のものであるが、You Tube こちらで聴ける。他にもこれを使った実際の猟銃による本邦での鹿猟の動画がかなり多くあるが、生々しいものが多いのであまりお勧め出来ない。

「七、八間」十三メートル弱から十四メートル半の間合い。

「面」「つら」と訓じておく。

「徑(わた)り」口径。

「紅(くれなゐ)の舌」オオサンショウウオの舌は幾つかの画像を見る限りでは、クリーム色が標準のようだが、やや淡いピンクを呈するものもあるようだ。「紅」ではない。

「一尺四、五寸」四十三~四十五・四五センチメートル。

「其(その)形(なり)、思ひの外に短かし」この謂いは、実はこの前の描写印象が錯覚や過大認識であったことを深く疑わせる内容であることの証左となる。従って、以上のスケールの数値や舌の色などを以って、これはオオサンショウウオでないとは言えないという点に注意されたい。

「行きて見るに極めしに」以下との繋がりがやや悪いので、ここは「行きて見極めんとせしに」の意でとる。

「鱗(いろこ)」後の「うろこ」のルビの相違はママ。「いろこ」は「うろこ」の古形で何らおかしくはない。但し、言わずもがな、オオサンショウウオには鱗はないので困った叙述ではある。最終注を参照。

「二尺四、五寸」七十三~七十五センチメートル半越えオオサンショウウオの自然個体の標準全長は凡そ五十~七十センチメートルである。但し、この長さは尾とする。幾つかの写真を見るに、オオサンショウウオの下肢から上の上半身は尾の一・五から二倍はある。すると全長は一メートル一〇センチから一メートル五十センチの範囲内となる。因みに、飼育個体では最大全長が一メートル五十センチメートルに達した個体があるが、野生個体では全長が一メートルに達することは極めて稀れとされる。しかし、よく考えてみると、この話者は何故、尾の長さだけを言って全長を示さないのか? 実は、この死亡個体は鉄砲に撃たれた結果、本体の形状をちゃんと残していなかったのではないか? だから死骸の損壊していない残った部分をのみ見てそれが尾のように見えたから、この数値のみを記しているのではなかろうか? とすれば、オオサンショウウオであっても何ら、おかしくはないと私は思うのである。

「腹は段を切(きり)て蛇のごとし」これはオオサンショウウオの腹部形状とは一致しない。

「蟇(ひき)」岩波文庫版の高田氏の注では、『普通はひきがえる』(両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus)『ただしここでいう「蟇」が何をさすか、不詳』としておられる。これは逆にオオサンショウウオを見知らぬ人の謂いとしては私には腑に落ちるものである。頭部が残っていたとすれば、オオサンショウウオのそれは巨大な蟇蛙に似ているからである。

「蟹(かに)に似て小物(ちいさきもの)と注(ちゆ)せり」「ちゆ」は原典のママ。「蟹」というのは頗る不審である。今までの形態叙述とは著しく齟齬するように思われるからである。さらにこの部分から、荻田はこの話を何かに書かれたもの(注が附されているとあることから明白)から写したことも判明する。そうしてそういう記載は、これが少なくとも荻田による完全な創作ではない、一応、実録物(とされる)からの引用という体裁を採っているということも考えてよい。とすれば、取り敢えずは実在する生物を考えてよいわけで、総合的に見ても最も同定し易い実在生物はやはりオオサンショウウオなのである。

「鱗(うろこ)の大(おほき)さ、尺ばかり、今に取置(とりお)きたるを見たり」これは或いは、オオサンショウウオと大蛇の話がごっちゃになっている可能性をも射程に入れる必要があるのかも知れぬ。]

宿直草卷三 第五 山姫の事

 

  第五 山姫(やまびめ)の事

 

 ある牢人(らうにん)のいはく、

「備前岡山にありし時、山家(さんか)へ行(ゆき)て遊ぶ。其處(そこ)なる人の語りしは、

『殺生のために、ある時、太山(みやま)へ分け入(いり)しに、年のほど、廿(はたち)ばかりの女房、眉目(まみ)麗(みやびやか)にして世に類(たぐ)ふべきもなし、色珍しき小袖に、黑髮の尋常(よのつね)に艷(にほ)やかなるありさま、またあるべき人とも見えず。斯(か)かる生計(たつき)もしらぬ山中に、覺束なくも思ひければ、鐵砲取り直し、眞正中(まつたゞなか)を擊つに、右の手に是(これ)を取り、深見草(ふかみぐさ)の唇(くちびる)に尓乎(にこ)と笑(ゑ)めるありさま、猶、凄(すさま)じくぞ有(あり)ける。

 さて、二つ玉にて藥(くすり)籠(こ)み、手前速く放(はな)つに、これも左の手につい取りて、さらぬ體(てい)に笑ふ。この時に、はや、手は盡くしぬ。如何(いかゞ)あらんと恐ろしく、急ぎて歸るに、追(をつ)かけもせず、歸りしなり。

 その後(のち)、年長(とした)けたる人に語りしに、

『それは山姫(やまびめ)と云ふものならん。氣に入れば、寶など呉るゝと云ひ觸れり。』

と語る。

 よしや、寶は貰(もらは)ずもあらなん。」。

 

[やぶちゃん注:「山姫」一般的なそれは私の谷の響 一の卷 三 山婦の冒頭注を参照されたいが、確かに色の白い美女として出現するものの、その多くは圧倒的に人の血を吸血したり、人を食ったりするおぞましい妖怪である。本話と強い親和性を感ずるものとしては、私は「想山著聞奇集 卷の參」にある「狩人異女に逢たる事」を挙げたい(場所は御嶽山の麓)。未読の方は是非、読まれたい。また、同じく私の「柴田宵曲 妖異博物館 山中の異女」の本文と私の注もすこぶる参考となろうとは存ずるので、お読みになられたい。また、本話の面白さは、妙齢の美女が何も語らず(先の「想山著聞奇集」の方のそれは、これ、すこぶるよく語り、殺生を諫めて狩人が出家させる動機を作り、の「卷の四 西應房、彌陀如來の來迎を拜して往生をなす事」の西応房はその元狩人であり、彼実に来迎を迎えて極楽往生したとする実録の附すのである。この山姫(のような山中の異女)さまさまなのである!)、撃った二度の鉄砲の弾丸を、右左の手でひょいと握り執ってしまうというX-MENのクイックシルバー(Quicksilver)の原形みたようなところである。

「牢人(らうにん)」浪人に同じい。

「太山(みやま)」一般名詞。大山(たいざん)、大きな山で深山の意。

「覺束なく思ひければ」疑わしく不審に思ったので。

「深見草(ふかみぐさ)」ここは牡丹の異名。この妖女、よっぽど美しかったのであろう。

 

「尓乎(にこ)」底本は『爾乎』であるが、原典の表記(「爾」の異体字)で示した。

「よしや、寶は貰(もらは)ずもあらなん。」話者である浪人の感懐ととる。そんな鉄砲の弾を握り執ってしまうような何をどうされるか判らぬ妖怪からは、一時は好かれたとしても「たとえ、仮にも、迂闊に宝なんぞはゆめゆめ貰わぬがよかろうと思うた。」というのである。私は妙に納得した。]

2017/07/03

宿直草卷三 第四 狸の腹つゞみも僞りならぬ事

 

  第四 狸の腹つゞみも僞りならぬ事

 

Tanukiharatudumi

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。]

 

 筑前の人の語りしは、

「我國に深き山あり。獵のみして世を渡る者あり。彼(かれ)が山入(やまいり)するには、先(まづ)、背中に大きなる板連尺(いたれんじやく)つけて負ひ、板の裏に、小さき鍋、葛(くづ)・蕨(わらび)の粉(こな)、鹽、杓子(ひしやく)、小杓(こひさご)などを取り揃へ、鐵砲持ちて山へ入(いり)、稼ぎ、科長鳥(しながとり)なんど射殺しては、皮を剝ぎ、背の板に張り、自然と干して行く。

 又、獲れば、初めのを收め、今の皮を張り着(つ)く。夜は木の陰、巖(いはほ)の洞(ほら)にふし、谷水・瀧の流れを汲み、鍋に入れ、木々の枯枝を折(おり)くべつゝ、葛・蕨の粉なんど練りて、己(をの)が餉(かれいひ)に調(とゝの)へ、鹽を舐めて、嘉肴(かこう)とし、寄邊(よるべ)定めず、日をそへて、三日、四日に歸るもあり、皮、あくまで求めざれば、山、又、山に巡(めぐ)りつゝ、十日ばかりも過(すぐ)すもありて、年々、罪もますらおのわざ、宿世(すくせ)思はれ、あさましき事なり。

 此者の語りしは、

『ある時、人跡(じんせき)絶えたる山にして、苔を敷き、寢(ね)の莚(むしろ)の上、木の根枕の寢覺(ねざめ)せし夜、音よき太鼓、かすかに聞ゆ。

「珍しきかな。此あしびきの山中に、かゝる事こそ不思議なれ。」

と、耳澄まして聞くに、いよいよ近(ちか)ふして、我(わが)臥したりし麓(ふもと)にて、打つ。殊更、上手の手がれの、五(いつ)から程あはせ、曲(きよく)ばちなど打つが如し。面白き事、云ふに堪(た)へたり。つらつら聞くに、一時(いつとき)ばかり打(うち)て元の方(かた)へ去る。名殘惜(なごりお)しき技(わざ)なりけり。』

となん。

 世に狸の腹鼓(はらつゞみ)と云ひ觸(ふ)れり。これもそれか。」。

 

[やぶちゃん注:「板連尺(いたれんじやく)」「いた」は推定の読み。「連尺」は「連索」とも書き、籠・箱・荷などを背負う際に肩に当たる部分を幅広く編んでつくった荷縄繩や、さらに背負う量を増やしたり、全体の二を安定させるためにそれに附けた、板及び棒を組み合わせた「背負子(しょいこ)」のことで、この場合は挿絵で一目瞭然、畳の非常に大きなものであるが、鳥獣の皮を剝いでそれを張りつけて干すには確かにこれぐらい広くないとだめだろうと私は妙に納得した。

「小杓(こひさご)」通常、この熟語も「ひしゃく」と読むが、前に出てしまっているいるのでここは「小」さな「瓢(ひさご)」で小さな瓢簞で作った水や酒を入れるそれを指していよう。

「科長鳥(しながとり)」「息長鳥」とも書き、この場合は主人公の生業(なりわい)や鉄砲の所持、皮を剝いで干すというそれから、「鳥」ではなく(鷄(にわとり)・水鳥の「かいつぶり」の別称・水鳥全体の総称・「みさご」の古名・尾の長い鳥の総称など(「日本国語大辞典」に拠る)としてもあるが)、まずはここは猪の異名である。この語源ははっきりはしないものの、万葉以来、「しながとり」が枕詞として地名としての「名(いな)」(古墳時代の大和王権の時代に現在の大阪府吹田市から兵庫県尼崎市までの北摂地方に県(あがた)名としてあった)に掛かったこと、仏教伝来以来、獣肉食やその殺生を強く嫌ったことから猪を「鳥」として呼んで誤魔化したものではないかと私は推測する

「罪もますらおのわざ」「ますらお」(歴史的仮名遣は「ますらを」が正しい)は勇猛果敢な「丈夫・益荒男」に生計(たつき)として殺生を重ねるが故に「罪も增す」「業(わざ)」に掛ける。

「宿世(すくせ)」前世からの因縁。それゆえに、かくも殺生をせずんば現世では生きられぬと定まっているこの猟師。これは仏教の因果思想の根本的絶対不変の宿命観である。

「あしびきの」「山」の枕詞。

「手がれ」「手足(てだ)り」「手足(てだ)れ」の訛りであろう。ある仕儀に於ける腕利き・熟練の者の意。

「五(いつ)から程あはせ」五拍子を基本とした打ち方をし、ということか。或いは近世の邦楽に多く用いられる五音音階の都節(みやこぶし)音階(洋楽のミ・ファ・ラ・シ・ドの五つの音から成るもので「陰旋法」とほぼ同義である)の調べを持っているということか。

「曲(きよく)ばち」「曲撥(きよくばち)」。ここは太鼓の撥を巧みに使った曲芸的演奏を指す。]

宿直草卷三 第三 狸藥の事

 

     第三 狸藥(たぬきくすり)の事

 

 打身(うちみ)の藥に狸藥といふあり。藥味(やくみ)、狸を入るゝにもなし。狸の教へし故にその名に呼べり。

 ある侍の奧(おく)、夜に入(いり)、雪隱(せつゐん)に行くに、毛のある柔らかなる手にて、局所に寄するもの有り。靜まりかへり驚かぬに、後の時も違ふ事なし。

 夫にかくと語るに、

「定(さだめ)て狐なんどの業(わざ)にや、心得給へ。」

と云ふ。

「さらば。」

とて、重ねて行くに、化粧箱(けはいばこ)に祕めし、守り刀(がたな)の優しきを執り出(いだ)し、襲(かさね)の衣(きぬ)の下に隱して、柄に手かけ、拔き寛(くつろ)げて待つに、露(つゆ)これを知らで、又、手を差し出(いだ)す。

 やがて、拂ひ斬(ぎ)りに薙(な)ぐに、狸の前足、節(ふし)かけて斬りたり。

「さればこそ、これらならんと思ひしぞかし。」

と。

 夫婦、語りて其手を取りて置くに、次の夜、妻戸(つまど)を叩(たゝ)くもの、有り。

「誰(た)そ。」

と咎(とが)むれば、

「いや、苦しからぬ。昨夜(ゆふべ)、手を失なひし狸にて侍らふ。はかなくも、無用の事致し、今更、迷惑にさふらふ。御立腹(はらだち)はさる事なれど、ひたすら、免(ゆる)し給ひて、その手、これへ下され候へかしと、詫び事に參り候。」

と云ふ。

 侍、聞(きき)て、

「やおれ。畜生の分(ぶん)に、女(をんな)なりとて、人を侮(あなど)る。如何(いか)で手を返さん。よし、また、返すとも、一度切れ離れし手の何の役にか立たん。とく歸れ。深き咎になければ、命は助くるぞ。」

と云ふ。狸、聞いて、

「幾重(いくへ)にも御詫び事申(まうす)べし。又、手さへ下され候へば、良き藥も以ちて接(つ)ぎ侍る。」

と云ふ。

「さらば。その藥、教へたらば、取らせん。」

と云ふ。

「やすき事なり。」

と、

「其草、此の木などにて、斯樣(かやう)に合(あ)はする。」

と語りて、狸は手貰ひて歸れり。

 その方(はう)、今にあり。驗(しるし)、まゝ有(あり)て、めでたき藥にて侍る。

 

[やぶちゃん注:これは、概ね腕を斬られて謝りに来る変化(へんげ)を河童とし、それを返す見返りとして神妙な薬方を教えて貰うという「河童の妙薬」譚として知られるものの化け狸版であるが、以下に見る通り、実はこの河童の専売特許のような河童譚は元は、まさにこの話が濫觴で、河童ではなく、狸こそが本家本元であるとも言われているらしいウィキの「河童の妙薬によれば、『河童が人間や馬に悪戯をし、その人間、もしくは馬の持ち主に懲らしめられ、詫びの印として』『河童が持つといわれる』霊妙な『薬を渡すというもので』『東北、関東、四国など各地に同様の伝説が残されて』いる。『河童の妙薬の伝説に多くみられる』梗概は、『河童が悪戯を懲らしめられる際に手を切り落とされ、後にその手を返してもらいに現れ、手を繋ぐ良い薬があるといって、手を返してもらう代わりにその薬を渡したり、調薬の方法を教えたりする』というもので、『薬の種類には、骨接ぎ』・打ち身・火傷に『効く薬などがある』。『河童は相撲が好きで、怪我が多いためにこうした薬を持っていると考えられ、水の妖怪である河童が金属を嫌う性質から、刃物による切創』(金創(かなきず))『に効果が高いなどともいわれる』。『茨城県小美玉市与沢にある手接神社も、こうした伝説上の河童を祀ったものであり、伝説にちなんで手の負傷や病気に利益があるといわれ、手の治療を願う者は手の形をした絵馬を奉納する風習がある』。『また、隣町の同県行方市玉造には、この河童が悪戯の際に手を斬り落とされたといわれる川の橋に「手奪橋」の名が残されている』。『日本各地の郷土地誌によれば、かつては伝説にちなむ薬が家伝薬として実際に販売されていた。代表的なものとして、茨城県那珂郡大宮町(現・常陸大宮市)の万能家伝薬「岩瀬万応薬」』、『新潟市の猫山宮尾病院の湿布薬「猫山アイス」』『等がある。後にはこうした家伝薬の販売はすべて廃れているが、これは薬事法が改正された』結果として販売が出来なくなったり、『明治時代に入って医学が漢方医学から西洋医学へ移行し、薬の販売が売薬本舗から』近代的な製薬業者へと『移行したためと考えられている』。『悪戯の詫びの際に、河童が薬ではなく』、『骨接ぎの方法を教えるという伝説もあ』る。そうして、『変わった類例として、岡山県の郷土史家・岡長平の著書『岡山太平記』に「狸伝膏(ばけものこう)」という話がある。河童ではなくタヌキが人間に悪戯をし、河童の伝説同様に腕を切り落とされ、その腕を返してもらうかわりに骨接ぎの薬を渡すという伝説である』。また、『延宝時代の怪談集『宿直草』にも「たぬき薬の事」と題し、同様に悪戯をしたタヌキが、切り落とされた手と引き換えに妙薬の製法を教える話がある。河童の妙薬の話は』、実は『この『宿直草』の時代よりも後に民間に登場しているため、「たぬき薬の事」が改変されて河童の伝説が生まれたとも考えられている』(下線やぶちゃん)。

「藥味(やくみ)、狸を入るゝにもなし」薬の成分の中に狸の身体等の一部が含まれているという訳ではない。

「奧(おく)」奥方。

「雪隱(せつゐん)」厠(かわや)。便所。「河童の妙薬」譚の常套設定である。

「局所」女性の陰部。民話類では「お尻」とソフトになる。

「靜まりかへり驚かぬに、後の時も違ふ事なし」侍の妻なれば、冷静に対処し一切慌てることもなく驚きもしなかったが、その次に雪隠(せっちん)に入ったところが、このスケベな何者かは、騒がぬのに味をしめたものか、同じことを繰り返した。

「心得給へ」よくよく注意なされよ。

「化粧箱(けはいばこ)」化粧道具や小物を入れたもの。武家のものでも、本格的なものは嫁入り道具として、相当にがたいが大きく、装備される道具類も多岐多数に及んだ。これはそれ化粧箱を雪隠に持って行ったのではなく、武家の女の嗜み・節操として化粧箱に潜ませて常置していた「守り刀」を特にそこから取り出して、の謂いであろう。

「優しき」細身で小さなもの。小刀(さすが)である。一般には本来は実用目的ではなく、邪気を払うためのお守りであるが、相応の実用的武器としての機能は十二分に持っていた。

「襲(かさね)の衣(きぬ)」ここは単に重ねて着た長着のこと。

「拔き寛(くつろ)げて」鯉口を切って即座に抜いて使用出来るようにして。

「節(ふし)かけて斬りたり」「節缺けて」か、「節」に「かけて」か、私には不詳。前者ならば、前脚の掌(人間でいう手首から先)の手首の関節部分が欠けた状態で斬られたものとなろうし、後者ならが、より大きく、橈骨を含む手首の関節部分も含んだ部分ということになろう。関節部を含んで体側側の骨をも斬るにはかなりの強い押し切るような力が必要であるから、前者か。

「さればこそ、これらならんと思ひしぞかし。」夫が推定して言った通り、狐狸の類いの腕であったことからの夫婦合点の台詞。

「誰(た)そ。」と以下のように対応したのは、無論、夫の侍である。

「いや、苦しからぬ。」岩波文庫版の高田氏の注では、『差支えのない者です、の意』とある。「決して怪しい者にては御座いませぬ。」の謂いであろうが、考えて見れば、雪隠で女性の陰部を三度までも触ろうとして、掌を斬られた化け狸野郎は充分に「怪しいもの」であるから、こう訳した方がより滑稽で面白かろうとは思う。

「今更、迷惑にさふらふ」「今さらながら、御迷惑をおかけ致しまして誠に失礼致しました」という謂い。

「やおれ」感動詞。相手に呼びかける際に発する語。「やい! おのれ!」、「おい! 貴様!」。

「分(ぶん)に」分際で。

「如何(いか)で手を返さん」反語。「返すとも、一度切れ離れし手の何の役にか立たん」も同じ。

「其草、此の木」無論、実際には具体的な草木名が挙げられた。その明記を避けた意図的伏字である。

「その方(はう)」その処方。

「驗(しるし)、まゝ有(あり)」後で「めでたき藥」と称揚しているから、この「まま」は傷の種類や具合によっては非常に効果を発揮するぐらいの表現と読む。]

宿直草卷三 第二 古狸を射る事

 

  第二 古狸(ふるたぬき)を射る事

 

Ubume

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。清拭した。]

 

 さる人のいはく、

「慶長七、八年の比か、半弓を習ひし師の方(かた)へ行(ゆく)に、

『ゆふべの手柄(てがら)、これ、見給へ。』

とて、古き狸を見す。

『何處(いづく)にて射給ふ。』

と云ふに、

『子細ありて。』

とばかりに已(や)みぬ。

 二、三年過(すぎ)て、兄弟子、語りて云ふやう、

『其時の狸は、師と某(それがし)と、たゞ二人して射たり。東寺あたりにある僧、人の娘に馴れ染めて、忍び忍びに通ひしが、淺からぬ妹背(いもせ)の山の、不覺の色香、いや增して、あまさへ、たゞならぬ身となる。人目の關(せき)もいぶせく、洩れてや他(よそ)にしらなみの、立つ名も如何にと思ふうち、はや、月も滿ち、殊に難産にして、孕みしまゝに、死(しに)たり。

 空しき身は西の墓にて、空(そら)たつ煙(けぶり)と消え行けど、恨みはさこそ殘るらめ、その夜より、産女(うぶめ)となりて、僧の臥所(ふしど)、藪の中、竹にとりつきて泣く。

 是より僧、迷惑の思ひをなし、色々と弔(とふら)へども、更に已む事なし。岩に口ある世の例(ため)し、人、次第に知りて、名も四方(よも)に高し。

 寺出(いづ)べき程に恥けるに、ある人、僧に語(かた)らく、

「定(さだめ)て狐狸(きつねたぬき)やうのものゝ、化けて來ぬる事もあるべし。其心をも得給へ。」

と云ふ。

 さらばとて、わが師を賴むに、

「定めて迷ひのものなるべし。先(まづ)、行(ゆき)て見申(まうす)べき。」

とて、多き弟子の中にも、我を連れて、かの僧房の窓を塞(ふさ)ぎ、左右に矢狹間(やざま)切りて待つに、幽(かす)かにものゝ聲す。僧、

「あれにて候。」

と云ふ。やうやう近づくに、生まれ子(ご)の泣くがごとし。夜更け、人しづまれば、聲も澄み渡りて、あぢきなくぞ侍る。

 半弓に弦(つる)塡(は)め、矢を取り添へて、狹間近く寄る。

 師のいはく、

「物いふべき樣(やう)なし。膝(ひざ)にて膝突くべし。其時、矢を放(はな)せよ。」

と、約束して待つに、次第に近づきて、窓先(まどさき)へ來(きた)る。

 狹間よりこれを見るに、黑髮をさばき、白きものを着たり。腰より下は見えず。竹にとりつきゐたる體(てい)、猶、泣く聲の、物あはれなる。紛(まが)ひもなき迷ひの物なりしかども、

「心弱くて叶(かな)はじ。」

と、弓、引き絞り、相圖違(たが)へず放つ矢に、手應(てごた)へして、倒(たふ)れたり。

「扨は、姿、有(ある)べし。」

と、燭(しよく)を振りて見るに、古き狸、二筋(ふたすぢ)の矢、枷(かせ)になりて有(あり)しを、そのままゝ、叩き殺せしなり。

「此事、隱し呉れよ。」

とありしかば、口の外に洩らさずありしが、その惡戲法師(いたづらはうし)も、去年(こぞ)の秋、果てたりしかば、今は話すなり。』

と語りし。」

と云へり。

 

[やぶちゃん注:「慶長七、八年」一六〇一年末から一六〇四年年初。正に江戸時代に始まり、徳川家康の治世の前後である。家康の征夷大将軍拝命は慶長八(一六〇三)年二月十二日である。

「半弓」和弓の長さによる分類名。六尺三寸(約一メートル九十一センチ)が標準とされ、七尺三寸(約二メートル二十一センチ)よりも短いものの、「半弓」だからといって実際に半分の長さなわけではないので注意された。使用する矢長も約七十二センチ(大弓(本弓)のそれは約一メートルであった)。ここでも描写される通り、もともと座位でも射ることが可能なものとして開発されたものであるが、ここで実際に使用されたそれは射出場所から見て、或いは標準よりさらに小さなものではあったかも知れない。

「たゞならぬ身となる」妊娠してしまった。

「人目の關(せき)」関所のように人を容易に通さない意から、「人目が憚られて思うままに出来ぬこと」を謂う。

「いぶせく」煩わしく。

「しらなみ」女犯(にょぼん)が「知ら」れてしまうことの懼れに「白浪」を掛けて以下の(噂が)「立つ」の縁語とする。

「産女(うぶめ)」ことの顛末と、出現したその様姿様態(挿絵の下半身で簑のように見えるのは、実は異常出産によって出血した血だらけの下半身の、妖怪「産女」の絵図に極めて頻繁に見られる描出法である)から見ても、確かに妊産婦の霊が妖怪化したそれと見える。妖怪としてのそれについては、私の『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(3) 産女(うぶめ)』の私の注を参照されたい。

「迷惑の思ひ」岩波文庫版の高田氏の注では、『ここでは途方にくれて、の意』とある。

「岩に口ある世の例(ため)し」物言わぬ非生物であるはずの岩でさえ時には口を現わして言葉を喋るとは、世間の噂に戸は立てられぬの謂いと思われる。

「次第に知りて、名も四方(よも)に高し」といってもそうした「産女」の妖怪がかの僧の所に出るという噂であって、その背景としての女犯し、しかも妊娠させ、その女が子とともに死んだ真相までは含まれていない。但し、京雀の口の端のその一端には、そうした憶測(事実なのではあるが)があったことは容易に推測される。さればこそこの僧は「寺出(いづ)べき程に恥」たのでもある。しかし、言えることが一つある。狸は産女と変じて僧の前に出、二人の弓取りにもそう見え、聴こえたという事実である。少なくとも、この狸だけは僧のおぞましい女犯を知っていたのである

「ある人、僧に語(かた)らく」以下の謂いから、この人物はこの破戒僧の親しい善意の友人であり、しかも凡そこの友の僧が女犯を犯している事実はゆめゆめ知らぬのである。だからこそ、かくも忠告するのであると読むべきである。

「其心をも得給へ」恐ろしいものとして鬱々と悩むのではなく、そうした下らぬ狐狸の化けたものに過ぎぬのだという認識を持たれよ、それが心身のためにもよく、それならば、やりよう(退治のしよう)もあるというもので御座ろう、と励ましているのである。

「さらばとて、わが師を賴む」今も破魔矢で知られるように、弓術は「源氏物語」の「夕顔」でも出る通り、その弦(つる)を鳴らす「鳴弦・弦打(つるう)ち」によってさえ悪霊や妖怪変化を遠ざける呪具であり、優れた弓術者が同時に妖魔を調伏する呪術者として登場する話は枚挙に暇がない。

「矢狹間(やざま)」通常は砦や城の塀及び櫓(やぐら)或いは軍船の胴壁部などに設けた、内部から矢を射るために空けた穴を指す。挿絵のそれはかなりデカく、まるで普通の窓のようではあるが、通常の室内にこのような遮蔽物や格子なしの空隙は存在しないから、実際に数箇所の壁を切り空けたか、火灯窓や櫺(れんじ)窓の障子や格子などを切り外して設けたものであろう。

「あぢきなく」「あぢきなし」は「無遠慮だ・道に外れている・乱暴だ・努力の甲斐がない・無意味でつまらない・面白くない」などの意味でちょっとピンとこないが、岩波文庫版の高田氏の注では、『胸がしめつけられるように不気味なこと』とある。果たしてそのような意義を「あぢきなし」から普通に引き出せるか否かは別として、この訳はすこぶる腑に落ちるものではある。

「膝(ひざ)にて膝突くべし」これは師が自身も含めて互いに言葉を発することを禁じた上で、「私が矢にて射るべき間合いをはかり、それという時に私が膝で床をトンと突くから、あやまたず、それを合図と心得て、矢を放て。」と命じているのである。

「心弱くて叶(かな)はじ」兄弟子は変化(へんげ)のものの見かけにビビりかけたのでる。自身で自身の臆病を心内に於いて強く叱咤した言葉である。

「姿」化け物の本性としての実体。

「二筋(ふたすぢ)の矢、枷(かせ)になりて有(あり)し」前の部分や挿絵には話者の弓の師は描かれていないが、実際には師も同じように狙っており、自身が弟子に合図を送ると同時に師も矢を放ったのである。だから矢は二筋であり、それらが狸の身体を地に、動かぬようにV字型に交わって射とめていたのであろう。]

宿直草卷三 第一 卒都婆の子産む事

 

宿直草 卷三

 

 

  第一 卒都婆(そとば)の子産む事

 

 中古、狹間(はざま)といふて、能のワキして、世に隱れなき上手あり。これは卒都婆の産みし子なり。

 彼(かれ)が父は、津の國富田(とんだ)の西に狹間といふ村、その郷(さと)の名主なり。小田(をだ)を反(か)へし、畑(はた)を打つにも、稼(なりはひ)、乏しくて、尾羽(おは)うちからしたる樣(さま)也。かくてしも、堪(こら)ふべきにもあらざれば、一兩人の下人、妻なんど呼びて、

「良きに家守(も)れ。田顏(たづら)、荒らさずも作れ。我は思ひよる事のあれば、商ひして見ん。」

とて、筑紫(つくし)の方(かた)へ赴むく。

 行(ゆき)て形(かた)のごとく振るまへど、敢へてはかばかしき事も、なし。同じ浮世に同じ身なれば、また歸るともさぞあらん、何を宮笥(みやげ)に上(のぼ)るべきにもなければ、堪(こら)へて彼處(かしこ)に年を經(ふ)るに、また、殘りし妻は、明暮れ、待ちかねて、

「馴れも給はぬ田舍わたらひ、其訪れもなき憂さよ。日を重ね行く梶枕(かぢまくら)、浪にや荒き風にしも、身のをき方(かた)もあらうみの、底にや沈み給ふか。」

とて、憂きに辛さを重ねつゝ、げに歎きゆく道の草葉の露よりも、窓打つ雨に袖濡れて、例ならず患(わづら)ひ、程無(ほどな)ふまかりければ、其(その)方樣(かたさま)の人々、野邊に送り、一片(ぺん)の煙(けふり)となし、抔土(はいど)の標(しるし)、卒都婆のみなり。

 筑紫にある夫は、露(つゆ)斯(か)くとも知らず、夢ならでは通ふ事もなき古郷(ふるさと)の、錦(にしき)飾る昔も思はれ、岩窟(がんくつ)の袖の空賴(そらだの)めなる雁(かり)に玉章(たまづさ)賴みしも、この時に知られて、たゞゆかしく思ひしに、ある時、古郷の妻、來たれり。

「如何に。」

と云へば、

「さればとよ、風の便りもなかりければ、御行衞、覺束なく、こゝにて焦がれむよりは、尋ねゆくべしと思ひ、便りの舟に道越えて、これまで參り候。」

と云ふ。

「扨は。それか。」

ともとよりも、飽かぬ中中(なかなか)うれしくて、關守もなき月日に、はや、三年となりて、男子一人、儲(まふ)けたり。

 かくて、農業、家など預りし下人は、

「此人、下りてより、文の便(たより)もなき事よ。また、果てにし人の事も知り給はじ。厚き恩(をん)の我なれば、道にてまかるとも訪ね行かばや。」

と思ひ、日數を送りて下るに、かの所を尋ね得たり。

 主人、見て、

「さてさて。珍しや。如何にして下りしぞや。遂に音づれもせぬ、我なん、怨みん事よ。」

と聞えしかば、下人、聞いて、

「さにては、なし。御行衞も心もとなく、又、馴染み給ふ御袖も、三年以前の其日に、世を早うし給へば、これらの事も知ろしめさじなれば、參りて語り申さんため、遙けき道を下りさふらふ。」

と云ふ。

 主人、聞(きき)て、

「不思議のことを申す物かな。妻こそ三年以前の某日、こゝへ下り、今に添ふてある物を。死すとは如何に。」

と有(あり)ければ、下人のいはく、

「慥(たしか)にもまかり給(たまひ)て、空しき骸(から)は灰となしさふらふ。」

と云ふ。主人、聞いて、

「忌々(いまいま)し。問答するに及ばず。今なん逢はすべし。」

とて、調臺(てうだい)へ向ひ、呼ぶに、さらに音、なし。行きて見れば、常なき卒都婆あり。不思義の思ひをなし、持(も)て出(いで)て下人に見するに、泪を流して、

「是こそ、御塚に立てし卒都婆なり。」

と云ふ。妻は、たづぬれども、なし。

「扨は亡魂(ばうこん)よ。」

と悲しみしが、儲(まう)けたる子は育ちて、由(よし)ある藝人となれり。家々(けけ)、奇特(きどく)の思ひをなす。あゝ、博覽の達士(たつし)、これを辨ぜよや。

 

[やぶちゃん注:「狹間(はざま)といふて、能のワキして、世に隱れなき上手あり」不詳。

「津の國富田(とんだ)」現在の大阪府高槻市富田町一帯。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「狹間といふ村」不詳。先の富田の西は茨木市であるが、そこにもこの地名はない。

「一兩人の下人、妻」下人一人と妻。それで「一兩人」である。

「田顏(たづら)」田圃。

「形(かた)のごとく振るまへど」何の商売かは不明であるが、ともかくもその商いを、世間の定式通りに始めては見たものの。後に「田舍わたらひ」とあるから行商人ではある。

「また歸るともさぞあらん」また帰ったとしても、どうなるかはこれ、概ね、知れたことだ。

「宮笥(みやげ)」「土産」の当て字。

「梶」「浪」「風」「をき」(「置き」に「沖」を掛ける)「あらうみ」(「荒海」に「在ら」を掛ける)「底」「沈み」で総て縁語。

「其(その)方樣(かたさま)の人々」岩波文庫版の高田氏の注には、『奥方様の身内の人々』とある。

「抔土(はいど)」岩波文庫版の高田氏の注には、『正しくは「ほうど」。陵墓のこと』とある。「抔」は「掬う」の意があるから、死者を葬った場所に土を掬ってかけたことからの謂いであろう。

「露(つゆ)」副詞。漢字は原典がそうなっている。妻のはかない命に関わっての確信犯の漢字化。

「古郷(ふるさと)」ルビは原典にはない。ここまでの表記に徴すると、「こきやう」と読んでいる可能性と半々であるが、この部分の和文脈の修辞や調子から「ふるさと」と判じた。

「岩窟(がんくつ)の袖の空賴(そらだの)めなる雁(かり)に玉章(たまづさ)賴みしも」「十八史略」などで知られる、前漢の忠臣で、匈奴へ使者として行き、囚われの身となってしまった蘇武(紀元前一四〇年?~紀元前六〇年)に関する故事に基づく謂い。「玉章」=雁書=手紙のこと。蘇武は匈奴に恭順せず、岩窟に食物も与えられずにうち捨てられたが、雪を齧り、漢の符節(使節であることの印章)の飾りに附いていた毛を食べて生き長らえたという。やがて、蘇武は北海(現在のバイカル湖)の畔りに移され、「牡の羊が乳を出したら帰してやる」と言われた。彼はそこでも、野鼠の穴を掘り、草の実を食っては命を繫いだ。一方、その後の漢の匈奴派兵で窮地に陥り、部下の命と引き換えに投降して匈奴に帰順していた元漢の将軍であった李陵はこの蘇武に逢いに行き、「人生は、朝霧のようにはかなく消える。そんなに自分を苦しめてどうなさるおつもりか」と説得したが、蘇武は拒む。その後、漢の武帝が亡くなって昭帝が即位、匈奴と和親して使節を派遣した。その使者に対して匈奴は、蘇武は既に死んだ旨を告げたが、その時、漢の使者は、つい先ごろ、皇帝が皇城の上林苑で狩を催した際、一羽の雁を射落としたが、その雁の足には書簡が結ばれてあり、それはまさにかの蘇武からのものであったことを述べ(実際には蘇武と一緒の使節の一員で同じく抑留されていた常恵が生存を伝えた)てその虚偽を指弾、ここに漸く、蘇武の帰還が実現した。彼の抑留生活は実に十九年に及び、帰国してみると(紀元前八六年)、母は亡くなっており、愛する妻も既に他家に嫁いでいたという(以上はウィキの「蘇武その他を参考にした)。ここの「袖」は本書で従前から使われている「人」(ここは土牢に閉じ込められた蘇武)の意。但し、ここで主人公の夫は遠く離れた故郷の愛する妻を思い出しては恋い焦がれたという意味だけのためにこの故事を引いているのであって、妻にせめても手紙を書いたわけでもなんでもなく、字面の修辞技巧が華やかさ過ぎて、却って主人公の男の不甲斐なさがことさらに際立つだけという気が私にはする。荻田、筆辷り過ぎ。

「ゆかしく思ひしに」この語の原義で、「行きたく思っていたところが」の意。

「飽かぬ中中(なかなか)うれしくて」「飽かぬ仲」に「なかなか」(随分・思っていた以上に)を掛ける。

 

「關守もなき」進行することを妨げ抑えるものもない「月日」=時間なれば、瞬く間に。

「三年」「みとせ」と訓じたい。

「道にてまかるとも」たとえ、尋ね行く途中で身罷ったとしても。下男ながら大変な忠義心である。この作品、主人公の情けなさが、却って、妻と下男の堅実な魂をより際立させるという確信犯のキャラクター設定によって支えられているようにも見える。

「物を」感動の終助詞「ものを」(~であるなあ!)というよりも、下男は訳の分からぬことを言っている(と思っている)男の非常な不服を示す逆接の確定条件(~であるのに!)を示す接続助詞「ものを」ととるべきであろう。

「忌々(いまいま)し」(なんとまあ)縁起の悪い不吉なことを言うか!

「調臺(てうだい)」「帳臺」(歴史的仮名遣は「ちやうだい」)元は寝殿造に於いて御母屋で用いる調度の一つで、一段高い二畳分の台に天井を附け、四方に帳(とばり)を垂らした箱形の座敷。貴人の座所兼寝所とした。ここは田舎の貧家であるから、居間か閨(ねや:と同時に女の居所)を指している。

「常なき」異様な(ことに)。今まで見たこともない。後者がよい。

「不思義」原典のママ。

「達士」それなりにいろいろな物事に熟達した練達の人物。

「これを辨ぜよや」これを理屈で判然とするように出来るというなら説明してもらおうではないか。弁ずることはとても出来まいよ、という反語的言上げである。]

 

2017/07/02

宿直草卷二 第十二 不孝なる者、舌を拔かるゝ事 /宿直草卷二~了

 

  第十二 不孝なる者、舌を拔かるゝ事 

 

 元和(げんわ)二年の事よ。洛陽大宮通六条に、後家なるもの、男子(なんし)一人を育(はごく)みて、杖柱(つえはしら)とも、賴む。

 しかも、借屋(かりや)の憂き住居、八(やつ)の木もあらざれば、九重(こゝのへ)近きも鄙(ひな)びつゝ、芦(あし)の穗さへも入(いれ)ぬ衣(きぬ)は、愛宕颪(あたごおろし)の風寒(さむ)み、いとゞ貧(まど)しくして、渡りかねたる世こそ憂きに、又、この子、あくまで、不孝なり。

 何事も母の命を背(そむ)き、あまさへ、雜言(ざうごん)を吐く。見る人、聞く袖、皆、憎みて、

「向後(ゆくゑ)、良かるまじ。」

と云ふ。

 案のごとく、此者、十七の夏、我が屋(や)に晝寢せり。母は隣(となり)へ茶を飮みに出づる。未(ひつじ)の頭(かしら)ばかりに、

「あゝ、悲し。」

と云ふ。向ふ隣(どなり)の人々、

「何事ぞ。」

と慌(あは)つるに、母も、ふためきて歸る。

 さて、かの倅(せがれ)を見るに、舌、一尺ばかり引き出して、命、空しくなる。其まま、引き起こしなんどするに、臭(くさ)き事、はかりなし。

 人々、不思議の思ひをなす。

 其わざ、業(ごう)のなす所にして、人力(にんりき)とは見えず。見たる人、慥(たしか)に語れり。

 犬馬(けんば)に至るまで、よく養ふに、敬せずして惡口をなす。良き舌の拔きものなり。勝母(せうほ)の閭(さと)を過(よぎ)らぬ曾子(そし)は、「淮南子(ゑなんじ)」といふ書(ふみ)に、尊(たと)き例(ためし)にも引きけるとかや。聞かん人、愼まずんば、名は後人(こうじん)の唇上(しんじやう)に遊ばん。 

 

[やぶちゃん注:「元和二年」一六一六年。

「洛陽」京都。

「大宮通六条」中央付近(グーグル・マップ・データ)。

「八(やつ)の木」「木」の字に「八」の字を転倒して加える言葉遊び。「米」のこと。

「芦(あし)の穗」蘆(あし)は葦(よし)とも呼び、現行の和名は後者で、単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク(暖竹)亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis であるが、その穂綿(棉というほどもない)は綿の粗悪な代用品として用いられた。

「聞く袖」既出通り、「聞く人」の意。

「向後」これから先。現実の今後の未来に加えて後世(ごぜ)も含まれる。その本来なら後世の不孝の報いとして、地獄で抜かれるはずの舌が、この世で抜かれてしまい、冥界の処罰が前倒しされて現報されたのである。

「未(ひつじ)の頭(かしら)」午後一時頃。

「ふためきて」ばたばたと音を立てて慌てて。

「舌、一尺ばかり引き出して、命、空しくなる」「臭(くさ)き事、はかりなし」実際の疾患としては考えにくい。ひどく生臭いのは舌だけでなく、内臓も引き裂かれているからであろうとは推測される。

「犬馬(けんば)に至るまで、よく養ふに、敬せずして惡口をなす」犬や馬のような畜生のようなものであっても、非常に心を入れて飼育してやっているのに、逆らって言うことをきかなかったり、嚙みついたりするように、残念ながら、人の中には、慈しみ育んでくれた父母・師匠・君主に対してさえ、尊敬の念をこれっぽちも持たず、却って罵詈雑言を吐くような不届きの輩(やから)がきっとあるものである。

「良き舌の拔きものなり」(そういう人非人はこのようにあの世ではなく)この世で舌を抜かれるに、至極、相応しい良きもの(ぴったりした例)なのである。

「勝母(せうほ)の閭(さと)を過(よぎ)らぬ曾子(そし)」孔子の弟子曾子は「そうし」と読むのが普通。彼は孔子からその孝道の厚きを買われ、孔子の言説の中の「孝」の概要、天子・諸侯・郷大夫・士・庶人の各個の孝の在り方を細説し、孝道の用を説いた「孝経(こうきょう)」を著わした(事実上の編纂は曾子の弟子か)とされる。前漢の武帝の頃に淮南王劉安(紀元前一七九年~紀元前一二二年)が学者を集めて編纂させた、道家思想を主としてそれに儒家・法家・陰陽家の思想を交えた「雑家」に分類される思想書「淮南子」(えなんじ:本邦に伝来したのが「日本書紀」以前であるため、当時、一般的であった呉音で「ゑ」と読むのが現在でも一般化されている)の「説山訓」の中に「曾子立孝、不過勝母之閭。」(曾子、孝を立つ。勝母の閭(りよ)を過(よ)ぎず)と出る。「曾子は何よりも孝を重んじた。そのためたまたま旅の途次、行かんとする道の向うに『勝母(しょうぼ)』」という名の村があったが、これを避けて通らなかった。」という故事を指す。]

宿直草卷二 第十一 小宰相の局幽靈の事

  第十一 小宰相(こざいしやう)の局(つぼね)幽靈の事 

 

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[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。小宰相のために清拭し、上下左右の枠を除去した。見開きの別々な二枚の絵であるが、接合してみたところが、上手く合わない。畳の縁(へり)の太さを見ても一致せず、そもそもがこの二枚は一枚を単純に切り分けたものではないと想像される。そのため、少し中央を空けておいた。なお、以下の本文は入れ子構造が激しいため、特異的に核心のストーリー部分の前後を一行空けとし、点線も活用した。] 

 

 わが家(いへ)へ出入する座頭の語りしは、

「わが『平家』傳受せし師匠は、攝州尼が崎に星山勾當(ほしやまこうたう)と云ふ人なり。第九の卷を習ふとき、

『此(この)「小宰相」の局を一句かたりて、耳をうしなひし人あり。かまへて語るとも心せよ。』

と云へり。

 我、聞かまほしく思ひ、

『如何なる事にか。』

と云ふ。師のいはく、

 

……我(わが)むつまじくかたる座頭、名を團都(だんいち)といふ。この人、淸貧なりしかば、なづさふ人を知る邊(べ)に、筑紫(つくし)へ下り、身を稼ぐべきと思ひ、遙けき海原(うなばら)を經て行く。また、聊か知りたる人のあれば、中國に流離(さそら)へ、赤間關(あかまがせき)に、先(まづ)、着きぬ。そこらの人、不愍(ふびん)の者に爲(し)て、しばらく、日を經(ふ)るうちに淨土派の寺ありて、これを寄る邊(べ)とす。

 此寺には、壽永頃、果て給ひし、平家の一門の卒塔婆(そとば)、石塔、御墓(みはか)など、世を經し苔に朽(く)つ。その緣(ゆかり)も、今は絕えてし世なれば、誰(たれ)訪(と)ふ者もなく、露置く千般(ちつら)の草、風に馴(な)るゝ砌(みぎり)の松のみ、昔も問ふかと、物さびたり。

 かくて團都は、客寮(きやくれう)に臥(ふす)に、ある夜、いとゞ物憂き旅の宿(やど)、夢は古鄕(こきやう)に通ひ、さて、寢ざめがちにして、まだき、曉(あけ)には及ばざりしに、扉(とぼそ)を叩く者、有り。

「誰(た)そ。」

と云ふに、女の聲して、

「これはさる御方より使(つかひ)に參り候。『今宵、御つれづれ明かしかねさせおはしませば、願はくは、參り給ひて、御伽(おとぎ)申させ給へかし』と申し參れとの事にて、これまで參り候。ただ來たり給へ。具(ぐ)し申(まうし)たき。」

といふ。座頭、とかくに及ばず、

「參るべし。」

と。

「さらば。」

とて手を引きて行くに、夥しき惣門(そうもん)に入(い)ると覺えしより、石の階(きざはし)、玉の檻(おばしま)と思(おぼ)しくて、いと結構なるべしと思ふ殿作(とのづく)りなり。しばしば行くに、樓(たかどの)に至る。錦(にしき)ならん几帳(きちゃう)も手に觸れ、御簾(みす)ふく風に常ならぬ匂ひもかよへり。侍女(おもとびと)多く並み居(ゐ)る。御座(おまし)近(ちか)ふ參りしに、あてやかなる上﨟(じやうらう)の御聲にて、

「扨も、座頭は嬉しくも參れり。願はくは『平家』を一句、聞かまほし。語れかし。」

と宣(のたま)ふ。

 かしこまりて、

「何(いづ)れか、御望みに御座候。」

と云ふ。

「されば、哀れにもおもしろきは、『小宰相』の句なり。これ、語れかし。」

とありしかば、お受け申しつゝ、四(よつ)の緖(を)をかき鳴らし、甲に上げ、乙に落(おと)して、音勢(をんぜい)いみじく語りければ、一座、鳴りを靜めて、もてはやす。

 語り終はれば、茶菓(ちやくは)なんど給りて、

「さても。呂律(りよりつ)すゞしく、撥音(ばちをと)も妙(たへ)にこそさふらへ。いさゝめ、休みてよ。さても一の谷(たに)より矢嶋(やしま)へ越え給ひし人々は、さなきだに弱り果てにしに、況んや、越前の三位に別れ給ひし小宰相の局は、あさはかなる契り、其思ひ隈(ぐま)、如何(いか)ばかりかあらん。あかぬ中中(なかなか)身もこがれて、入水(じゆすい)し給ふも、理(ことわ)りならずや。また、通盛(みちもり)も此(この)人、二八よりの緣(えにし)なるに、今更、婀娜競(あだくら)べとなりければ、戰かふもうき湊川(みなとがは)にて、今を別れに、こよなふ悲しくや思はん。思ひやるさへ中中に、淚の種(たね)となる物を。」

と宣へば、並みゐる人々、皆、袖を絞る。餘所(よそ)の哀れのいと露けくぞ見えし。

 しばしして、

「今一句、語れ。」

とあり。かしこまりて、

「何を聞(きこ)しめさん。」

と云ふ。上﨟のいはく、

「いや何迄もなし。今の句の限りなふおかしかりければ、押し返して、『小宰相』を語れかし。」

と也。否みもあへず、また、琵琶抱(いだ)きて、語る。

 その句、未だ終はらざるに、長老の聲して、

「如何に。そこにて、誰(たが)聞けば『平家』は語るや。」

と、いらなくも呼ぶ。

 座頭、いぶかしく思ひ、琵琶を止め、邊りを撫でて見るに、上﨟の御座(おまし)に居ますと思ふに、さはなくて、石塔、手に當れり。侍女(おもとびと)などあると探れば、苔深き卒塔婆也。

「こはいかに。」

と思ひ、

「さて。ここは何處(いづく)にや。」

と云へば、長老(ちやうらう)、聞(きき)て、

「內墓(うちはか)なり。其石塔は小宰相なんいふ上達女(かんだちべ)の碑(ひ)なり。」

と云ふ。

 夜もさらに明(あけ)て、四方(よも)も喧(かまびす)し。

 長老の云(いはく)、

「今朝(けさ)、とく起こすに、汝、見えず。琵琶もなし。小夜(さよ)の衣(きぬ)いたづらにして、枕むなしく橫たふ。『さては我なん恨みて出でけるか』と、あらぬ事のみ思はれて、いろいろと尋ねしに、琵琶の音(ね)かすかに聞えしにぞ、此處(こゝ)とは知れり。如何なる事に來りしや。」

と云ふ。

 その時、團都、正氣になり、宵よりの次第、細かに語る。

「扨は。さふか。然(しか)らば今日、汝、外(ほか)へ出づる事、なかれ。出づれば命なからん。『平家』を聞(きき)しは、かの局の幽靈ならん。着心(ぢやくしん)深ふして、百夜(もゝよ)もこれを聞かん。由々しき愼(つゝし)みなり。さりながら、我、汝が身を裹(つゝ)まん。心やすく思へ。」

とて、かの座頭に行水をさせ、降魔呪(がうまのしゆ)、般若(はんにや)の文(もん)など書きて、全身を帶(お)ぶ。また、麁相(そさう)にして、左の耳に文字(もじ)ひとつも書かずして是をおとす。

 さて、敎へて云ふやう、

「行夜(ゆくよ)も來たらん。音、すな。返事、すな。又、驚く事、なかれ。」

と。

 やがて、其日も暮れて、例(れい)の頃、果して、かの女房、呼ぶ。

 返事せず、恐ろしく屈(かゞ)みゐるに、

「不思議や。座頭のおはしまさぬ。」

とて、ひたに探す。

 其(その)手、身に當りければ、今は死するよと悲しきに、經文書きたれば、幽靈の手には覺えねばこそ。しばし尋ねてあぐみしが、かの文字を書かぬ、左の耳を探りて、

「こゝに、座頭の耳、有(あり)。」

とて、かなぐりて行く。

 痛しなんどもおろかなり。

 長老にかくと語れば、

「扨々、左の耳に經文書かざる事よ、今、思ひ出だしたり。いと悔しくこそ。さりながら、かしこくも、命は助かりたり。耳一つ得て、靈の着(ぢやく)は失せてん。今よりは心やすかれ。」

と、のたまふ。

 それよりこそ、此人を、『耳きれ團都』と異名(いみやう)して呼びけり。……

と、話せり。」。 

 

[やぶちゃん注:所謂、小泉八雲の名怪談集“ Kwaidan 中の白眉たる第一話“ The Story of Mimi-Nashi-Hoichi で人口に膾炙する「耳なし芳一」譚の類話である(各種の酷似した類話があるが、そこでの琵琶法師の名は「團一(だんいち)」であったり、「うん一」であったりする)。湯浅佳子氏の論文『「曾呂里物語」の類話』の「曾呂里物語」の巻四の九「耳きれうんいちが事」の類話に、これを引き、堤邦彦氏が「江戸の高僧伝説」(二〇〇八年三弥井書店刊)で『法然の弟子住蓮の法脈にある浄土僧が展開した小宰相局伝承と、壇ノ浦の「耳なし芳一説話」とを合わせ、「小宰相局」の幽霊譚として創作された話とする』と記され、また、広瀬朝光氏は「小泉八雲論 研究と資料」(昭和五一(一九七六)年笠間書院刊)で、「耳なし芳一」の近世期に於ける三系譜の淵源の一つが「曾呂里物語」の「耳きれうんいちが事」であるとし、『それが『雨月物語』「吉備津の釜」から『臥遊奇談』へと継承されたと』している、とある。「曾呂里物語」版の梗概をいつものように湯浅氏の論文から引き、比較参考に供したい。

   《引用開始》

信濃国善光寺の比丘尼寺に、越後国の座頭うん市が出入りしていた。病の後、半年ぶりに寺を訪れ、主の老尼に案内され客殿に宿をとる。そこへ、三十日程前に亡くなった比丘尼の慶淳が訪れ、うん市を無理に寮に連れて行き、部屋に閉じ込める。慶淳は経師に会いに出ていき、夜明けてうん市を閉じ込めている部屋に戻る。三日目の暁に、飢えたうん市は寮の戸を叩いて寺の者を呼び、事情を語り、慶淳の死を知って興ざめた。寺中の人が集まり百万遍の念仏を称えると、慶淳の霊が現れ、うん市の膝を枕に眠ったので、その隙に人々はうん市を逃がす。うん市がある寺の長老に助けを求めると、長老たちは体中に尊勝陀羅尼を書き付ける。そこへ怨霊が来てうん市を探し回り、陀羅尼の書き足りなかった耳をもぎ取って帰った。うん市は逃れ、耳切れうん市と呼ばれ老いるまで越後国にいたということだ。

   《引用終了》

これはまた、やはり「宿直草」とシンクロ出版している「諸國百物語」の「卷之一 八 後妻うちの事付タリ法花經の功力」にも影響を与えているが(リンク先は私の電子化注)、以上の湯浅氏の「曾呂里物語」梗概や私の「諸國百物語」版を読んで戴くとお分かり戴ける通り、それらに比して、本話は遙かに現在の我々の知る「耳なし芳一」譚に近いことが知れる。小泉八雲が原拠としたものは一夕散人(いっせきさんじん)著になる「臥遊奇談」天明二(一七八二)年の第二巻にある「琵琶祕曲泣幽靈」(琵琶の祕曲幽靈を泣かしむ)であるとされ、主人公の名も芳一ではある(ヘルン文庫には「臥遊奇談」が確かに含まれているが、同時に本「宿直草」も含まれている)。しかし、本「宿直草」(延宝五(一六七七)年刊)は、それに先行すること、百五年も前でありながら、全体の結構は、オーソドックスな「耳なし芳一」に酷似している。私は本「宿直草」版は正統なる同譚の本流に属した貴重な一話と考えるものである。

「小宰相(こざいしやう)の局(つぼね)」(嘉応元(一一六四)年?~寿永三年二月十四日(一一八四年三月二十七日))は平通盛(仁平三(一一五三)年?~寿永三(一一八四)年三月二十日:平清盛の異母弟教盛の嫡男。従三位となって越前を知行、「越前三位」と称された。源平の乱では北陸道の鎮圧に当たったが、倶利伽羅合戦でで木曾義仲に敗れて敗走した。以下は後を参照)の妻。刑部卿藤原憲方の娘。ここは非常に上手く纏めてあるウィキの「小宰相」より引きたい。『一ノ谷の戦いでの通盛の死と小宰相が後を追って入水したエピソードは、『平家物語』で一章が割かれ、一ノ谷の戦いでの象徴的な悲話になっている』。『小宰相は上西門院(鳥羽天皇の皇女で後白河天皇の同母姉)の女房で、宮中一の美女とうたわれた。彼女が』十六歳の時(治承三(一一七九)年)頃か)に『法勝寺の花見にお供した際に、これを見た中宮亮・平通盛は彼女に一目ぼれした。その後、和歌や恋文をしきりに贈る』ものの、三年経っても、『小宰相は返事をしなかった』。『これが最後と思い、文を書き使いに渡したが、折悪しく取次の女房がおらず、使いが戻ろうとすると、ちょうど里から帰ってくる小宰相の車に行き合った。使いは文を車に投げ入れて去った。小宰相はとりあえず持ち帰ったが、御所で宮仕えしていた』際、『上西門院の前でこの文を取り落とし、女院はこれを拾って「あまり気が強いのもよくありませんよ」と、みじめな最期を遂げたという小野小町の例を出して、自ら硯を取り寄せて返事を書いてやるようにうながした』。『こうして女院の仲立ちで通盛と小宰相は結ばれた。恋愛の末に結ばれたので、ふたりはたいそう仲睦まじかった。通盛は小宰相の他に政治的な必要で従兄の平宗盛の娘も妻にしていたが、こちらはまだ』十二『歳程度の幼い少女なので手をつけることはなかった』。しかし、『やがて、治承・寿永の乱がはじまり、通盛は各地を転戦するが、平家は源義仲に大敗を喫し』、寿永二(一一八三)年、遂に『都落ちを余儀なくされた。小宰相は通盛とともに海上を流浪』、『平家は讃岐国屋島に本営を置き、やがて摂津国福原に』も進出したものの、寿永三(一一八四)年二月、『範頼・義経は大軍を率いて福原へ迫った』。『合戦を前に、通盛は沖合の船団から妻を呼び寄せ』、『「明日の戦で討ち死にする様な気がする。私がそうなったら、君はどうする」と言った。小宰相は戦はいつものことだから、この言葉が本当だとは思わず、自分が身籠っていることを告げた。通盛はわたしは』「私は三十になるが、どうせなら男子であって欲しい。子は既に幾月になるか? 船上のことなれば心配なことだ」『と大そう喜んだ』。『そこへ平家随一の剛勇で知られた』実『弟の教経がやって来て、怒りながら「ここはこの教経が置かれるほどの危険な戦場ですぞ。そのような心がけではものの役に立ちますまいに」と兄をたしなめた。通盛ももっともなことと思い』、『妻を船へ帰した』。結局、『合戦は平家の大敗に終わり、一門の多くの者が討ち死にし、通盛もまた船へ帰ってこなかった』。『屋島へ向かう平家の船団の中で小宰相は、夫が討たれたとは聞いてはいたが、何かの間違いであろうと、生きて帰ることもあるかもしれないと心細く夫の帰りを待ち続けていた』。『小宰相が乗船している船に通盛の従者の滝口時員がやってきて、通盛が湊川で討死した旨と最後の奮戦の様子を報告した。これを聞いて小宰相は返事もできずに泣き伏し、夜が明けるまで起き上がることもできなかった』。二月十四日のこと、『船団が屋島に到着する夜、小宰相は乳母に「湊川の後、誰も夫と会った人はいませんでした。もう、夫は亡きものと覚悟しました」と言うと福原での夫との最後の対面のことを語り、「子を産んで形見として育てねばならないと思うが、悲しみは増すばかりで、亡き人の恋しさに苦しむよりは海の底へ入ろうと思い定めました。どうか夫と私の菩提を弔っておくれ」と頼んだ』。『乳母は涙を抑えて「子を産んで育て、尼になって生きるべきです」と必死に止めた。小宰相もその場は「身を投げるといって、本当に身を投げる人はいませんよ」と思いとどまったように答えた』。『やがて、乳母がうたた寝すると小宰相は起き上がり、「南無西方極楽世界』……『どうか、別れた夫婦を極楽で会わせてください」と念仏を唱えると海に身を投げた』。『梶取りがこれを見かけて、乳母を起こして、みなで海を探し、ようやく小宰相の体を引き揚げたが、すでに死んでいた。乳母は通盛の鎧を亡骸に着せて、泣く泣く小宰相を海に沈めて葬った。その後、乳母は通盛の弟で僧侶になっていた中納言律師仲快のもとで剃髪出家して、通盛と小宰相の菩提を弔った』。『人々は、夫に先立たれた妻は尼になるのが普通なのに、後を追うとは珍しいことだと感心し』、『「忠臣は二君に仕えず、貞女は二夫にまみえず」と(『史記』の故事をひいて)言い合った』。『『建礼門院右京大夫集』にも上西門院の美人で有名だった女房が通盛の妻となり、夫の死の後を追ったことが「これまでにない契の深さよ」と京都でも評判になったと記されて』ある、とある。

「星山勾當(ほしやまこうたう)」人物は不詳。「勾當」とは中・近世の盲人の自治組織である「当道座」の制度に於ける階級の一つで、「検校」・「別当」の次に位する盲官の名称。これらの上位の位に就任するには多額の費用がかかり、そのために江戸の中後期に於いてはそうした位を得るために彼らは高利貸しに手を染めたりした。因みに、「ブリタニカ国際大百科事典」には、何時の頃とは書かれていないが、この勾当となるのには五百両を要したとある。この視覚障碍者のギルド的組織に於ける階級制度の詳細については、私の「譚海 卷之二 座頭仲間法式の事」の私の注を参照されたい。

「第九の卷」「平家物語」の流布本系の「卷第九」は概ね、「宇治川先陣」「河原合戰」から、「木曾最期」と「樋口被斬(きられ)」と展開、「六箇度軍」と「三草合戰」を経て、一谷(一ノ谷)合戦に入って「坂落」、以後、平家勢の「忠度最期」・「重衡虜(いけどり)」・「敦盛最期」と続いて、巻末に、まさにこの小宰相の入水自殺があって閉じる。物語としても最もクライマックスの連峰と言える部分に当たる。岩波文庫版の高田氏の注では、『平曲では巻九は、音曲上の「秘事」とされ、伝授は大事とされていた』とある。なお、岩波文庫版ではこの「第九の卷を習ふとき」を星山勾当の台詞としている。即ち、星山が、嘗て、その師匠から習った折りに聴いた話とするのであるが、私は従えない。その話者である座頭が、平曲の師匠である星山から、この秘曲を習ったまさにその時、その折りに、星山から打ち明けられた話としてこそ、星山の語りの核心部のリアリズムが、よりダイレクトに強固なると私は思うからである。

「我(わが)むつまじくかたる座頭」星山勾当は親しくしていたのが、まさに、この怪異の体験者主人公であったとするのである。所謂、友達の友達の話的都市伝説などとは、大いに異なる直話構造を持っている点で、この話柄は優れていると言える。

「團都(だんいち)」琵琶法師などが有した名は「いちな」と称し、「一名・市名・都名」などと漢字表記した。これは名前の最後に「一」・「市」・「都」などの字が附したことに由来し、特に鎌倉末期の如一 (にょいち) を始祖とする平曲の流派は、必ず、これを附けたことから「一方(いちかた) 流」と呼ばれた。後には、広く一般の視覚障碍者がこうした名を名乗った。「都」に「イチ」の音はないが、恐らくは「都」の持つ「多く集まる」の意味に、交易の場としての「市」を当てて、かく当て読みしたものではなかろうか。

「なづさふ」馴れ親しむ。

「赤間關」寿永四(一一八五)年の「壇ノ浦の戦い」(三月二十四日(一一八五年四月二十五日)による平家滅亡と安徳天皇入水で知られる山口県下関市の古称。ウィキの「下関市」によれば、「下關」という名称の初見は貞観一一(八六九)年であるが、「赤間(が)關」の名称の初見は元暦二(一一八五)年とある。但し、これを関所の名と捉え、「あかま」(赤間・赤馬)を地名と解するならばさらに『平安時代まで遡ることができる。いずれにしても鎌倉時代に「赤間関」という呼び名が成立し、付属する港湾や関門海峡の長門国側を指す広域地名、更には対岸の豊前国門司関を含めた関門海峡全体の別名としても用いられた』とある(鎌倉幕府による長門探題設置は建治二(一二七六)年)。少し後も述べておくと、『元寇をきっかけに赤間関を防衛するために長門守護は長門探題とされて北条氏一門が任ぜられた。北条氏が滅びると長門の御家人であった厚東氏が長門守護とされるが、南北朝の内乱の中で周防国の在庁官人・御家人であった大内氏が南朝方として周防・長門両国を征服、後に北朝方に離反して室町幕府から両国の守護、更に対岸の豊前国の守護にも任ぜられて赤間関を含めた関門海峡両岸を大内氏が支配する体制が』十六世紀中期まで二百年近くも『続くことになる。大内氏は赤間関に代官を設置して直接管理し、港湾の管理・関銭や帆別銭の徴収・明や朝鮮などの外交使節への応対などにあたった』とある。大内義長が長府の長福寺(功山寺)にて自害して大内氏が滅亡するのは、弘治三(一五五七)年のことである。

「そこらの人、不愍(ふびん)の者に爲(し)て」一応、場所柄、滅んだ平氏への憐憫もあって、且つ、それを語る盲目の琵琶法師としての団都(だんいち)を「憐れんでくれ」の謂いでとっておく。でなくては、ここに有意な時間、滞留する意味を見出せないからである。

「淨土派の寺ありて、これを寄る邊(べ)とす」寺名を出していないが、思うに、モデルとしたのは安徳天皇が葬られた阿弥陀寺ではなかろうか? 山口県下関市阿弥陀寺町にあった真言宗の寺であったが、明治八(一八七五)年に廃仏毀釈によって寺は廃されてしまい、現在は安徳天皇を祀る赤間神宮となっている。この寺は中世までは浄土宗であった。なお、後に形成される「耳なし芳一」譚の舞台もここである。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「千般(ちつら)」読みの方は不詳であるが、「千般」(せんぱん/せんばん)は「種々・さまざま・いろいろ」の意。「ちつら」は「千蔓(ちつら)」で「無数のつる草」の謂いか? 識者の御教授を乞う。

「風に馴(な)るゝ」関門海峡を抜ける強く厳しい海風に耐えることに馴れた松、或いは、その強風に従って逆らわずに靡き馴れた低い松の謂いか。

「砌(みぎり)」ここは「庭」の意。

「客寮(きやくれう)」寺内の修行僧や行脚僧のための宿舎。

「とかくに及ばず」琵琶法師である以上、それを拒んだり、相手が誰かなどと穿鑿するまでもなく。申すまでもなく。

「夥しき」非常に壮大な感じの。

「檻(おばしま)」欄干。手すり。

「思(おぼ)しくて」団都は視覚障碍者であることに注意。手で触れた感触や、音声や周囲から体感される雰囲気から、以下を判じてゆくのである。この辺り以降のシークエンスは、我々も、目を瞑った気持ちで味わう必要がある。

「侍女(おもとびと)」「御許人」。貴人のお傍近くに仕える人。

「四(よつ)の緖(を)」「緒」は楽器の弦。一般に知られ、現代まで続いている琵琶は四弦。

「甲に上げ、乙に落(おと)して」邦楽で、音階音より音を上げることを「かる」と称し、下げること「める」と称し、これを漢字では「上下」以外に「甲乙」と書き、「かるめる」「かりめり」(或いはひっくり返して「めりかり」)などと呼ぶ。

「呂律(りよりつ)」「呂」も「律」も雅楽の音階名。雅楽合奏の際、この呂の音階と律の音階が上手く合わないことを「呂律(りょりつ)」と言っていたものが、訛って「ろれつ」となり、それが我々の音声の発音に広がって比喩されたものが、今我々が使っている「呂律(ろれつ)が回らない」である。

「いさゝめ」通常は「いささめに」の形で使用する副詞。仮初めに。ちょっと。暫く。

「思ひ隈(ぐま)」心中の奥深い部分。或いはそこに隠し秘めた思い。

「あかぬ」「飽かぬ」。二人の思いが互いに対して。

「中中(なかなか)」最初の「中」は互いの「仲」で、「中中」が形容動詞の語幹で、その互いの思いが、はなはだしいことに掛ける。後の「中中に」も同じだが、後者は、ちょっと五月蠅い気がする。

「こがれて」「焦がれて」であるが、「漕がれて」を掛けて「入水」と縁語となる。

「二八」十六歳。前に注した通り、小宰相の方の年齢。当時の通盛は二十六前後か。

「婀娜競(あだくら)べ」岩波文庫版の高田氏の注には、『はかなさを競うこと』とある。

「うき湊川」「憂き」に「浮き」を掛けて「湊川」の縁語となる。湊川は兵庫県神戸市を流れる川。平家の拠点福原に近く、何より、夫通盛がここで戦死した。

「餘所(よそ)の哀れのいと露けくぞ見えし」私には、直前の「並みゐる人々、皆、袖を絞る」の言い換えに過ぎないようにしか見えぬが、或いは、こちらは、事実らしい視覚的情景を前に出して、読者へ映像的喚起を示した上で、改めて聴覚だけで、その哀しみのまことに感じ入った団都の実感を示したものかも知れぬ。

「如何に。そこにて、誰(たが)聞けば『平家』は語るや。」怪談のコペルニクス的転回点の台詞である。それが「いらなくも」、「際立って甚だしい大声で大袈裟にも」であるだけ、読者もビクッとするのである。以下の段落の、あくまで触覚感覚による団都の点検描写も、読者自身にとっても、異界が断絶して現実界へ引き戻される物理的質感をよく伝えて、すこぶる優れている。

「長老」ここでは団都が寄宿している寺の住持の意。

「小宰相なんいふ上達女(かんだちべ)の碑(ひ)なり」現在、小宰相の局の墓と伝えるものが徳島県鳴門市鳴門町土佐泊にある。「鳴門総合情報サイト【鳴との門】」のこちらを参照されたい。墓の画像も地図もある。考えて見れば、彼女の悲劇のエピソードを考えるなら、この赤間関近くにその墓があるというのは、実は、やや解せぬとは言える。

「とく」「疾く」。早くに。

「小夜(さよ)の衣(きぬ)」夜具の衾(ふすま)の美称。

「さては我なん恨みて出でけるか」と何故、この住持は思ったのだろう? つまらないことが気になる、僕の悪いクセ。

「着心(ぢやくしん)」現世への執着心。

「百夜(もゝよ)もこれを聞かん」今回、「橘 伊津姫」なる方が、自身のブログで幾つかの「宿直草」を現代語訳されているのを発見したが(本話はこちら。かなり意訳で一部の原文のくだくだしいところがカットされているものの、全体の雰囲気は悪くない)、そこで、この辺りを、『執着の心があまりにも深く、お前を『向こう』へ連れて行って百夜でも語らせるつもりであるのだろう』と訳しておられ、これは、訳として正しいかどうかは別として、逐語訳でやるよりは、素敵なもののように感じられる。特に住持が団都を救わんとする契機として、よい。次の私の注も参照されたい。

「由々しき愼(つゝし)みなり」「忌忌し・由由し」などと漢字を当てるが、ここの意味はとりにくい。本語は「おそれ多い・憚られる・神聖だ」の原義から派生して、両極性の意味を保持するからである。概ね、「不吉だ・忌まわしい・縁起が悪い」から、常軌を逸して「甚だしい・一通りでない・ひどい・とんでもない」の意を持つかと思えば、そのベクトルが反対に対しても同時に向いて、かなり古くから「素晴らしい・立派だ」の意も有するからである。しかもそれが形容するのが「つゝしみ」(原本表記)であるのが困る。小宰相の霊に対し、ごくごく善意の立場からとるならば、霊となっても夫通盛への至上の愛を忘れぬために、何度でも夜の墓場で「平家物語」の「小宰相」の段を聴き、悲しみと恋慕を新たにし続けようとするのはある意味、亡者とはいえ、夫や自分を死に追い詰めた源氏への怨恨を出さぬ「立派で控えめな仕儀である」と理屈ではとれなくもないが、如何にもそれは無理がある。問題は「つゝしみ」で、これは実は、今の我々の感覚としての善い意味での自己抑制がきいている「慎み」なのではなく、同系列である、「包む」を源とする動詞「愼(つつ)む・障(つつ)む」で「人目を憚る」の謂いなのではなかろうか? 亡者が実に永い間、そうした執心を以って平曲の自身の死を主題とした音曲を、生者と偽って聴くなどということは「とんでもなく忌まわしい人目を憚る現実世界を脅かす行為」である、と断じていると読むのが正しいのではあるまいか? それは結果して、騙されて琵琶を弾く団都の命をも縮める悪事であることは言を俟たぬ。さればこそ、長老(住持)は、そんな命に関わる大変な事態ではあるが、「さりながら、我、汝が身を裹(つゝ)まん」(「裹まん」は「守ってつかわす」という断言の意志表現である)「心やすく思へ」と言い切るのであると私は思う。

「降魔呪(がうまのしゆ)」「降魔」とは、心の中に生じる内なる煩悩魔や、外部から襲ってくる天魔などの正法(しょうぼう)を妨げんとする悪魔を、仏法の力によって打ち倒すこと、悪魔を降伏(ごうぶく)することを指す。そうした呪文、基本的には梵字を用いた真言呪と思われる。

「般若(はんにや)の文(もん)」「般若」は梵語の「智慧」の意の漢音写で、人間が真実の存在に目覚めた際に立ち現われるとする根源的絶対的な叡智。世界の窮極的真理を知ること智恵を指すが、ここは経典の中のそうした強力無敵な絶対の智力を有すると考えられている種々の経文の中の神聖な文句や梵語の種字を指すのであろう。

「麁相(そさう)にして」「粗相して」と同じい。不注意からミスをして。

「行夜(ゆくよ)」今夜。

「ひたに」一途に。そこら中を。

「其(その)手、身に當りければ、今は死するよと悲しきに、經文書きたれば、幽靈の手には覺えねばこそ」こういう描写が本話の上手である。

「かなぐりて」荒々しく取り去って。乱暴に引き千切って。] 

2017/07/01

宿直草卷二 第十 夢に驚て信を得る事

 

  第十 夢に驚(おどろき)て信(しん)を得る事

 

 西六条に、さる法師の語られしは、

「我、前(まへ)、藝州廣島に下りしに、某所の人々、語りて云(いふ)やう、

『何が菩提の種(たね)になるべきも知れぬ事なり。この所に恐ろしき夢を見て、信(まこと)に赴(おもむき)たる人あり。ある夜、わが家(いへ)の破風(はふ)より、その色、黑き鬼、内へ入(いり)て、臥したる所へ來たる。迯(にげ)べきやうなし。追ひ來りて、足の爪先(つまさき)を嚙む。起きんとすれども、起きられず。骨をかぶる齒音、高(たか)ふして、痛き事、堪えがたし。しばらくして、夢、醒めぬ。

「さてこそ、今は現(うつつ)ぞ。」

と思ふに、遍身、汗雫(あせしづ)くして、あたか、湯(ゆ)に入(いる)が如し。やや胸騷(さは)げども、夢なりければ、さのみ驚かざりしに、次の夜の夢、また同じうして、第三夜も、さらに變らず。苦しび身にあまるに、夢のうちに、僧、有り。嬉しく思ひ、

「この苦を、いかゞして、助かり申べきや。」

と云へば、僧のいはく、

「佛法に歸すべし。」

と。男のいはく、

「何れの法に歸すべきや。淨土眞宗を願はんか。」

と云へば、

「おふ。しかるべし。」

とのたまふと覺えて夢も醒めぬ。

「おふ。」

とのたまふ言葉にまかせて、一向宗佛護寺を賴み、それより此方(このかた)、二年餘り、每日、二度の勤行(ごんぎやう)に缺けぬ人あり。』

と語れり。

「さらば、其人、見ん。」

といふに、人々、指(ゆび)ざしして教ゆ。その齡(よはひ)、天命を知る頃なり。しかるべき方便(てだて)か。」。

 

[やぶちゃん注:前話とは夢告と鬼の登場でしかるべく連関している。直接話法の入れ子構造になっているが、エンディングに筆者が登場しないで聴き手の直接話法で断ち切られている(こういう筆者の影が最後に全く出ないで終わるというのはかなり珍しい部類である)。これはこれで額縁を定式通りには拵えない面白い手法であると私は思う。実は次話も同様の結構を持っている。

「かぶる」古語としては「少しずつ物を嚙んで食う・齧(かじ)る」。中部から関西圏では現行でも広く「嚙みつく」「齧(かじ)る」の意を持つ。現行、全国的に使用される物、特に食い物に勢いよくかみつくの意味の「かぶりつく」の語源はこれと考えてよいように思われ(「かぶりつく」の漢字表記は「日本国語大辞典」でも「齧り付く」「嚙り付く」である)、最早、方言でさえないと言える。同辞書は「かぶる」の語源説として「嚙觸(かみふ)る」「頭振(かみふ)る」の二説を挙げる。後者を対象に対して覆い被さるようにした際の肉食動物の摂餌行動由来とするならば「被(かぶ)る」は同源のように私には思われるのだが?

「あたか、湯(ゆ)に入(いる)が如し」原典は無論、読点はないのだが、「あたか湯」で「熱い湯」でもあるまい。「あたか」(恰)のみで「太平記」などに「あたかも」の意での使用例が既に見られる

「一向宗佛護寺」広島県広島市中区寺町にある浄土真宗本願寺派の本願寺広島別院の旧称。旧安芸国の「安芸門徒」と呼ばれる浄土真宗門徒の活動の中心寺院。ウィキの「本願寺広島別院によれば、前身は、長禄三(一四五九)年、安芸武田氏によって現在の武田山山麓(現在の広島県立祇園北高等学校付近)に建立された天台宗龍原山仏護寺である。『この寺院は安芸武田氏の影響下にあり、初代住職正信も安芸武田氏一門であった。建立当時は天台宗の寺院であった。しかし』、第二世住職円誓が本願寺の蓮如に帰依し、明応五(一四九六)年に浄土真宗に改宗している。『その頃の安芸国は戦乱の日々で、安芸武田氏はその波に揉まれ』、天文一〇(一五四一)年(同寺住職は第三世超順)に『安芸武田氏は大内氏と毛利氏に攻められて滅亡してしまう。仏護寺は堂宇を焼失するなど大きく疲弊するが、信仰心篤い毛利元就の庇護を受け、石山合戦では毛利軍の一員として畿内に出兵』もしている。『豊臣秀吉の世になると、毛利輝元は広島城の築城に着手』、『その時の町割によって』天正一八(一五九〇)年、『仏護寺は広島小河内(現広島市西区打越町)に移転した』。慶長五(一六〇〇)年の『関ヶ原の戦いで毛利氏は広島を去るが、その後領主となった福島正則によって』、慶長一四(一六〇九)年に『現在の寺町へと移転させられた』(下線やぶちゃん)。『福島正則の去った』後、『広島は浅野氏の支配となるが、そのまま浅野氏の庇護を受けて明治維新を迎え』ている。明治三五(一九〇二)年に広島別院仏護寺と改称し、その六年後の明治四十一年には現在の「本願寺広島別院」と改称した。昭和二〇(一九四五)年八月六日の原子爆弾投下の際は、爆心地から僅か一キロメートル足らずの距離であった(以下のリンク先の地図を参照のこと)ここは完全な廃墟と化したが、昭和三九(一九六四)年に本堂が再建されたとある。(グーグル・マップ・データ)。

「その齡(よはひ)、天命を知る頃なり」五十歳前後。

「しかるべき方便(てだて)か」「不思議な夢告を受けて信心を致すというのは、怪異(けい)な部分もあるものの、それはそれ、まさに一つの正しき帰依に至る道の正当なる一つの手段とも言えよう。」。疑問の終助詞で終わってはいるが、これまでに連続する因果応報譚型怪談の列群の中にあっては(但し、この場合は直接の話者は筆者ではなく、話題提供者の法師)これは概ね、荻田によっても肯定されているものと考えてよかろう。]

 

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