宿直草卷三 第一 卒都婆の子産む事
宿直草 卷三
第一 卒都婆(そとば)の子産む事
中古、狹間(はざま)といふて、能のワキして、世に隱れなき上手あり。これは卒都婆の産みし子なり。
彼(かれ)が父は、津の國富田(とんだ)の西に狹間といふ村、その郷(さと)の名主なり。小田(をだ)を反(か)へし、畑(はた)を打つにも、稼(なりはひ)、乏しくて、尾羽(おは)うちからしたる樣(さま)也。かくてしも、堪(こら)ふべきにもあらざれば、一兩人の下人、妻なんど呼びて、
「良きに家守(も)れ。田顏(たづら)、荒らさずも作れ。我は思ひよる事のあれば、商ひして見ん。」
とて、筑紫(つくし)の方(かた)へ赴むく。
行(ゆき)て形(かた)のごとく振るまへど、敢へてはかばかしき事も、なし。同じ浮世に同じ身なれば、また歸るともさぞあらん、何を宮笥(みやげ)に上(のぼ)るべきにもなければ、堪(こら)へて彼處(かしこ)に年を經(ふ)るに、また、殘りし妻は、明暮れ、待ちかねて、
「馴れも給はぬ田舍わたらひ、其訪れもなき憂さよ。日を重ね行く梶枕(かぢまくら)、浪にや荒き風にしも、身のをき方(かた)もあらうみの、底にや沈み給ふか。」
とて、憂きに辛さを重ねつゝ、げに歎きゆく道の草葉の露よりも、窓打つ雨に袖濡れて、例ならず患(わづら)ひ、程無(ほどな)ふまかりければ、其(その)方樣(かたさま)の人々、野邊に送り、一片(ぺん)の煙(けふり)となし、抔土(はいど)の標(しるし)、卒都婆のみなり。
筑紫にある夫は、露(つゆ)斯(か)くとも知らず、夢ならでは通ふ事もなき古郷(ふるさと)の、錦(にしき)飾る昔も思はれ、岩窟(がんくつ)の袖の空賴(そらだの)めなる雁(かり)に玉章(たまづさ)賴みしも、この時に知られて、たゞゆかしく思ひしに、ある時、古郷の妻、來たれり。
「如何に。」
と云へば、
「さればとよ、風の便りもなかりければ、御行衞、覺束なく、こゝにて焦がれむよりは、尋ねゆくべしと思ひ、便りの舟に道越えて、これまで參り候。」
と云ふ。
「扨は。それか。」
ともとよりも、飽かぬ中中(なかなか)うれしくて、關守もなき月日に、はや、三年となりて、男子一人、儲(まふ)けたり。
かくて、農業、家など預りし下人は、
「此人、下りてより、文の便(たより)もなき事よ。また、果てにし人の事も知り給はじ。厚き恩(をん)の我なれば、道にてまかるとも訪ね行かばや。」
と思ひ、日數を送りて下るに、かの所を尋ね得たり。
主人、見て、
「さてさて。珍しや。如何にして下りしぞや。遂に音づれもせぬ、我なん、怨みん事よ。」
と聞えしかば、下人、聞いて、
「さにては、なし。御行衞も心もとなく、又、馴染み給ふ御袖も、三年以前の其日に、世を早うし給へば、これらの事も知ろしめさじなれば、參りて語り申さんため、遙けき道を下りさふらふ。」
と云ふ。
主人、聞(きき)て、
「不思議のことを申す物かな。妻こそ三年以前の某日、こゝへ下り、今に添ふてある物を。死すとは如何に。」
と有(あり)ければ、下人のいはく、
「慥(たしか)にもまかり給(たまひ)て、空しき骸(から)は灰となしさふらふ。」
と云ふ。主人、聞いて、
「忌々(いまいま)し。問答するに及ばず。今なん逢はすべし。」
とて、調臺(てうだい)へ向ひ、呼ぶに、さらに音、なし。行きて見れば、常なき卒都婆あり。不思義の思ひをなし、持(も)て出(いで)て下人に見するに、泪を流して、
「是こそ、御塚に立てし卒都婆なり。」
と云ふ。妻は、たづぬれども、なし。
「扨は亡魂(ばうこん)よ。」
と悲しみしが、儲(まう)けたる子は育ちて、由(よし)ある藝人となれり。家々(けけ)、奇特(きどく)の思ひをなす。あゝ、博覽の達士(たつし)、これを辨ぜよや。
[やぶちゃん注:「狹間(はざま)といふて、能のワキして、世に隱れなき上手あり」不詳。
「津の國富田(とんだ)」現在の大阪府高槻市富田町一帯。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「狹間といふ村」不詳。先の富田の西は茨木市であるが、そこにもこの地名はない。
「一兩人の下人、妻」下人一人と妻。それで「一兩人」である。
「田顏(たづら)」田圃。
「形(かた)のごとく振るまへど」何の商売かは不明であるが、ともかくもその商いを、世間の定式通りに始めては見たものの。後に「田舍わたらひ」とあるから行商人ではある。
「また歸るともさぞあらん」また帰ったとしても、どうなるかはこれ、概ね、知れたことだ。
「宮笥(みやげ)」「土産」の当て字。
「梶」「浪」「風」「をき」(「置き」に「沖」を掛ける)「あらうみ」(「荒海」に「在ら」を掛ける)「底」「沈み」で総て縁語。
「其(その)方樣(かたさま)の人々」岩波文庫版の高田氏の注には、『奥方様の身内の人々』とある。
「抔土(はいど)」岩波文庫版の高田氏の注には、『正しくは「ほうど」。陵墓のこと』とある。「抔」は「掬う」の意があるから、死者を葬った場所に土を掬ってかけたことからの謂いであろう。
「露(つゆ)」副詞。漢字は原典がそうなっている。妻のはかない命に関わっての確信犯の漢字化。
「古郷(ふるさと)」ルビは原典にはない。ここまでの表記に徴すると、「こきやう」と読んでいる可能性と半々であるが、この部分の和文脈の修辞や調子から「ふるさと」と判じた。
「岩窟(がんくつ)の袖の空賴(そらだの)めなる雁(かり)に玉章(たまづさ)賴みしも」「十八史略」などで知られる、前漢の忠臣で、匈奴へ使者として行き、囚われの身となってしまった蘇武(紀元前一四〇年?~紀元前六〇年)に関する故事に基づく謂い。「玉章」=雁書=手紙のこと。蘇武は匈奴に恭順せず、岩窟に食物も与えられずにうち捨てられたが、雪を齧り、漢の符節(使節であることの印章)の飾りに附いていた毛を食べて生き長らえたという。やがて、蘇武は北海(現在のバイカル湖)の畔りに移され、「牡の羊が乳を出したら帰してやる」と言われた。彼はそこでも、野鼠の穴を掘り、草の実を食っては命を繫いだ。一方、その後の漢の匈奴派兵で窮地に陥り、部下の命と引き換えに投降して匈奴に帰順していた元漢の将軍であった李陵はこの蘇武に逢いに行き、「人生は、朝霧のようにはかなく消える。そんなに自分を苦しめてどうなさるおつもりか」と説得したが、蘇武は拒む。その後、漢の武帝が亡くなって昭帝が即位、匈奴と和親して使節を派遣した。その使者に対して匈奴は、蘇武は既に死んだ旨を告げたが、その時、漢の使者は、つい先ごろ、皇帝が皇城の上林苑で狩を催した際、一羽の雁を射落としたが、その雁の足には書簡が結ばれてあり、それはまさにかの蘇武からのものであったことを述べ(実際には蘇武と一緒の使節の一員で同じく抑留されていた常恵が生存を伝えた)てその虚偽を指弾、ここに漸く、蘇武の帰還が実現した。彼の抑留生活は実に十九年に及び、帰国してみると(紀元前八六年)、母は亡くなっており、愛する妻も既に他家に嫁いでいたという(以上はウィキの「蘇武」その他を参考にした)。ここの「袖」は本書で従前から使われている「人」(ここは土牢に閉じ込められた蘇武)の意。但し、ここで主人公の夫は遠く離れた故郷の愛する妻を思い出しては恋い焦がれたという意味だけのためにこの故事を引いているのであって、妻にせめても手紙を書いたわけでもなんでもなく、字面の修辞技巧が華やかさ過ぎて、却って主人公の男の不甲斐なさがことさらに際立つだけという気が私にはする。荻田、筆辷り過ぎ。
「ゆかしく思ひしに」この語の原義で、「行きたく思っていたところが」の意。
「飽かぬ中中(なかなか)うれしくて」「飽かぬ仲」に「なかなか」(随分・思っていた以上に)を掛ける。
「關守もなき」進行することを妨げ抑えるものもない「月日」=時間なれば、瞬く間に。
「三年」「みとせ」と訓じたい。
「道にてまかるとも」たとえ、尋ね行く途中で身罷ったとしても。下男ながら大変な忠義心である。この作品、主人公の情けなさが、却って、妻と下男の堅実な魂をより際立させるという確信犯のキャラクター設定によって支えられているようにも見える。
「物を」感動の終助詞「ものを」(~であるなあ!)というよりも、下男は訳の分からぬことを言っている(と思っている)男の非常な不服を示す逆接の確定条件(~であるのに!)を示す接続助詞「ものを」ととるべきであろう。
「忌々(いまいま)し」(なんとまあ)縁起の悪い不吉なことを言うか!
「調臺(てうだい)」「帳臺」(歴史的仮名遣は「ちやうだい」)元は寝殿造に於いて御母屋で用いる調度の一つで、一段高い二畳分の台に天井を附け、四方に帳(とばり)を垂らした箱形の座敷。貴人の座所兼寝所とした。ここは田舎の貧家であるから、居間か閨(ねや:と同時に女の居所)を指している。
「常なき」異様な(ことに)。今まで見たこともない。後者がよい。
「不思義」原典のママ。
「達士」それなりにいろいろな物事に熟達した練達の人物。
「これを辨ぜよや」これを理屈で判然とするように出来るというなら説明してもらおうではないか。弁ずることはとても出来まいよ、という反語的言上げである。]
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