柴田宵曲 續妖異博物館 「巖窟の寶」
巖窟の寶
アラビアン・ナイトのアリ・ババは、偶然の機會に盜賊が盜んで來た品物を隱す窟の所在を知り、重い岩の扉を開く呪文をおぼえてしまふ。無形の合鍵を拾つたやうなものである。アリ・ババは盜賊等が立ち去つた後、その呪文を唱へて扉を開き、持てるだけの金貨の袋を驢馬に積んで歸る。彼は忽ちにして驚くべき富豪になつた。前から金持であつた兄のカシムは、弟の幸福を羨み、「開け胡麻」の呪文を教はつて出かけたが、金銀寶石に目がくらんで呪文を忘れたため、どうしても窟から出ることが出來ず、遂に盜賊に殺されるのである。
[やぶちゃん注:「アラビアン・ナイト」のアリ・ババの話は、先行する「診療綺譚」などでさんざん注してきたので、そちらを参照されたい。]
アリ・ババも貧乏で毎日森へ行つて薪を採るのを仕事にしてゐたが、「輟耕錄」の趙生の生活もほぼ同じであつた。アリ・ババは森の中で木を伐りつゝある際、一隊の人馬が來るのを見て木の上に遁れ、盜賊の頭が岩の扉を開くのを目擊するのだが、趙生も木を伐る溪のほとりで眞白な大蛇を見、斧も何も投げ棄てて家に歸る。女房は趙生からその話を聞くと、さういふ白蛇は何か寶物の變化したものかも知れません、と妙な事を云ひ出し、夫をすゝめてその山中まで一緒に出かけて行く。白蛇はまだもとのところに居つたが、夫婦が來たのを見て、そのまゝ上流に遡り、巖穴の中に入つてしまつた。巖穴の中に石があり、それに歳月姓名などが刻んである。九つの穴の中央に金甲があり、あとの八つの穴に無數の金銀があつたのを攫み出し、前の通り蓋をして歸つて來た。
超生の持ち辟つた金銀はどれほどあつたかわからぬが、彼の生活は俄かにゆたかになり、もう薪を探りに行かないで濟むやうになつた。この生活の變化は第一に鄰人の疑ふところとなり、その姉の夫で嘗て役人をしてゐた者に告げられた。趙生は敢て隱さず、白金の五錠を贈つたけれど、役人は慾張つてゐて、そんなことでは承知しない。趙生も仕方なしに大きな家を構へ、九穴の富を散じて盛に賄賂を用ゐたから、甚しく追窮されずに濟んだ。例の金甲は特に派遣された役人に獻じ、珍藏されてゐたところ、或風雨の夕、どこかへ消ええてなくなつた。鍵などもそのまゝで、中身だけなくなつてゐたさうである。趙生には子なく、終に巨室に老ゆとある。
[やぶちゃん注:以上は元末の一三六六年に書かれた陶宗儀の随筆「輟耕錄」の「卷七」にある以下。□は引用元の中文サイトの脱字らしき部分。
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黃巢地藏趙生者、宋宗室子也。家苦貧、居閩之深山、業薪以自給。一日、伐木溪滸、所見一巨蛇、章質盡白、昂首吐舌、若將噬己。生棄斧斤奔避、得脱。妻問故、具以言。因竊念曰、「白鼠白蛇、豈寶物變幻邪。」。卽拉夫同往。蛇尚宿留未去、見其夫婦來、囘首逆流而上。尾之、行數百步、則入一岩穴中、就啓之、得石。石陰刻押字與歲月姓名、乃黃巢手瘞。治爲九穴、中穴置金甲、餘八穴金銀無算。生掊取畸零、仍舊掩蓋。自是家用日饒、不復事薪。鄰家疑其爲盜、告其姊之夫嘗爲吏者。吏詢之嚴、不敢隱、隨饋白金五錠。吏貪求無厭、訟之官、生不獲已。主一巨室、悉以九穴奉巨室、廣行賄賂。有司莫能問、迨帥府特委福州路一官往廉之。巨室私獻金甲、因囘申云。具問本根所以、實不會掘發寶藏。其事遂絶。路官得金甲、珍襲甚、至任滿他適、其妻徙置下。一夕、聞繞榻風雨聲、頃刻而止。頗怪之、夫婦共取視、□鑰如故。啓籠、乃無有也。生無子、夫婦終老巨室。嗟夫、天地間物苟非我有、是雖得之亦終失也。巢之亂唐天下、剽掠寶貨、歷三四百年、至于我朝、而爲編氓所得。氓固得之、不能保之、而卒歸於富家。其路官者、得金甲、自以爲子孫百世計、一旦作神物化去。是皆可爲貪婪妄求者勸。
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最初趙生が白蛇を見て逃げ歸つた時、その妻は何によつて寶物の變化したものと斷じ、夫と共に見屆けに行つたか、この點がはつきりわからない。日本にも錢掛松の話をはじめ、錢に對する執念が蛇になる事はあるが、特に白蛇と現じて貧者に幸福を與へる例は見當らぬやうである。他人が俄かに幸福になつたのを羨み、同じ手段で富を得ようとしても、さうは問屋が卸さぬことは、舌切雀、花咲爺その他の童話がこれを示してゐる。アリ・ババや趙生の得たものが天與の福であるならば、易々と他人の手に渡る筈がない。
[やぶちゃん注:「錢掛松」サイト「日本伝承大鑑」(「日本伝承大鑑」制作委員会製作)内の「銭掛松(ぜにかけまつ)」(三重県津市高野尾町(ここ(グーグル・マップ・データ))の伝承)に以下のようにある。文中の「伊勢別街道」は「いせべつかいどう」と読む(但し、江戸時代にはこの街道は「いせみち」「参宮道」「山田道」などと記されてあり、「伊勢別街道」の名が使われるようになったのは明治一〇(一八七七)年以降と思われるという記載がネット上の別な記載にあった)。
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東海道の関の宿から分かれて津で伊勢街道と合流するのが、伊勢別街道である。その旧街道沿いにあるのが銭掛松と呼ばれた松を祀るお堂である。お堂の中にはかつての松の古木が納められており、境内には今でも何代目かの松が植えられている。
伊勢街道はその名の通り、伊勢神宮参拝のための主要街道である。そして銭掛松もその伊勢参拝にまつわる伝承が元になっている。
西国に住む男が伊勢参にこの地までやって来た。しかし路銀がわずかであるために、そばの茶店の主人に伊勢神宮まであとどれぐらいか尋ねた。すると主人はまだ半月ほど掛かると答えた。それを聞いてこれ以上の旅は無理と諦めた男は、松の木に銭を掛けて、ここから神宮に遙拝すると帰路についてしまった。
喜んだのは茶店の主人である。嘘をついてまんまと銭をせしめることが出来たばかりに、男の掛けていった銭の束を盗もうと近寄った。すると突然銭の束は白蛇に変わり、主人の方を睨みつけて威嚇するではないか。肝を冷やした主人は結局銭を盗むことも出来ず、そればかりかそれ以降客足は遠のいてとうとう茶店も潰れてしまったという。
一方、帰国した男は、実際に伊勢神宮へ行った者からその場所が神宮から目と鼻の先であったことを聞かされ、翌年再び参拝を決意する。そして例の場所へ来てみると、松の木には自分が掛けた銭の束がそのまま残されていた。男はそれを取ると、改めて神宮に納めたのである。その話はいつしか参拝客の噂となり、その松に銭を掛けて道中の安全を祈願する風習が広まったという。
この伝説にはいくつかのパターンがあり、隠岐に流された小野篁の妻が夫の赦免を祈願して伊勢神宮に参るという話も流布しているが、いずれも伊勢神宮参拝途中で諦めかけた者が銭を松の木に掛け、それを盗もうとした者がその罰を受けるという展開となっている。
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天明三年刊「諸越の吉野」にある「樵夫白蛇を迫つて兜の瑞を見たる事」は明かに「輟耕錄」の話を日本に移したものである。時代は天文年中、場所は吉野の里で、彌五郎といふ樵夫が山奧へ薪を取りに行き、白蛇を見て歸つてから妻に話す事、妻に白蛇は寶の精であると云はれて翌日見に行く事、七つの岩穴の中央に黃金の兜が輝き、左右の穴に金銀が滿ちてゐた事、彌五郎が俄かに有福になつたのを怪しんで庄屋が取り調べる事、すべて原話の通りで、飜案といふほどの働きはない。庄屋が彌五郎に口止めして共に山中に赴き、庄屋は兜を取り、彌五郎夫婦は金銀を持ち歸る。翌日もう一度慾張つて出かけたら、穴は皆崩壞して金銀は跡形もなかつたといふあたり、作者の工夫かと思はれる。作者の素姓はわからぬらしいが、「諸越の吉野」といふ書名は、支那の舞臺を日本の吉野に轉じたこの話から來てゐるのかも知れぬ。原本でもこれを最後に置いてある。
[やぶちゃん注:『天明三年刊「諸越の吉野』「近古奇談諸越の吉野」。「天明三年」は一七八三年。それ以外は不明。私は所持しないので原文を示せない。]
巖窟ではないけれども「稽神錄」にある次の話なども、こゝに擧げて置いた方がいゝかも知れぬ。建安の村人で小舟に乘つて谿中を往來し、薪を採つて生活してゐる者があつた。或時舟を繫いで岸に登り、例の如く薪を取つてゐると、山の上に銀が何故か落ちてゐるのが目に入つた。少し登るに從ひ數十枚拾ひ得たので、更に注意したところ、山腹の大樹の下に高さ五六尺の大甕があり、その中に錢が一杯入つて居つた。甕が少し傾いた爲に、銀がこぼれ落ちたものらしい。そこで石を持つて來て甕を支へるやうにし、さし當り五百枚ほど懷ろに入れて歸つたが、今度は家人を全部引き連れて出かけた、[やぶちゃん注:読点はママ。]然るに見おぼえのある大樹の下に、肝腎の甕が見當らぬ。村人落膽してその邊を排徊すること數日に及び、容易にあきらめられなかつた。夢に何人か現れて、あの錢には持ち主がある、甕が傾きかけたので、お前に五百枚だけ與へたのだ、あまり慾張らぬがいゝ、と諭された。
[やぶちゃん注:以上は「稽神錄」の「第五卷」にある以下。
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建安有村人、乘小舟、往來建溪中、賣薪爲業。嘗泊舟登岸、將伐薪、忽見山上有數百錢流下、稍上尋之、累獲數十、未及山半、有大樹下一甕、高五六尺、錢滿其中、而甕小欹、故錢流出。於是推而正之、以石支之、納衣襟得五百而歸。盡率其家人復往盡取、既至、得舊路、見大樹、而亡其甕。村人徘徊數日不能去、夜夢人告之曰、「此錢有主、向爲甕欹、以五百僱而正之、不可再得也。
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建安の村人は五百枚の銀で滿足しなければならなかつたわけであるが、これは畢竟それだけしか福分がなかつたものであらう。同じ「稽神錄」にある話で、徐仲寶の家の南に大きな枯木があり、その下を掃く下男が砂の中から錢を百餘枚見付け出した。その話を聞いた仲寶も自分で搜しに行つて、數百枚を拾ひ得た。更に飽きずに掃除をしてゐたら、數年間に積り積つて數十萬に達したといふから大したものである。仲寶はよほど福分に惠まれた人と見えて、後に揚都に移り住んでからも、地中より一道の白氣が立ちのぼり、それが強い勢ひで斜に飛び去らうとするのを見た。白氣の中に何者かゐるやうなので、その妻が手で攫(つか)んで見たら、玉で作つた珠で驚くべき精妙な細工物であつた。仲寶の福分はそれでもまだ盡きず、後に樂平の令となつた時は、廚(くりや)の側の鼠穴を掘り下げたところ、數尺の下から一羽の白雀が飛び出した。白雀は庭の木にとまつたので、その下を掘つて百萬錢を得た。かうなると彼の赴くところ、必ず福が隨ふわけで、正に掘れども盡きざる概がある。白雀が錢の精とすれば、最初の鼠穴から錢が出さうなものであつたが、庭の木にとまつて錢の所在を知らせたのは曲折があると云はなければならぬ。尤も彼の掘り當てたのは常に錢ばかりで、玉の燥の外に寶らしいものはないけれど、それも福分の限界とすれば致し方はあるまい。青錢と雖も數十萬、百萬に達したら、それで世上の寶を購ふに足るであらう。あまり慾張るものではない。
[やぶちゃん注:「白雀」文字通り真っ白な雀。特定の種を指すものではないようである。
「概」「おもむき」。
以上もやはり「稽神錄」の同じ「第五卷」にある以下。
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徐仲寶者、長沙人、所居道南、有大枯樹、合數大抱。有僕夫、灑掃其下、沙中獲錢百餘、以告仲寶。仲寶自往、亦獲數百。自爾、每需錢卽往掃其下、必有所得、如是積年、凡得數十萬。仲寶後至揚都、選授舒城令。暇日與家人共坐、地中忽有白氣甚勁烈、斜飛向外而去、中若有物。其妻以手攫之、得一玉蛺蝶、製作精妙、人莫能測。後爲樂平令、家人復於廁廚鼠穴中得錢甚多。仲寶卽率人掘之、深數尺、有一白雀飛出、止於庭樹。其下獲錢至百萬錢、盡、白雀乃去、不知所之。
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スペインのグラナダで水汲みを業としてゐる男が、病氣のムーア人を世話してやつたところ、愈々この世を去るに臨んで、小さな白檀(びやくだん)の箱をくれた。箱の中にはアラビア文字の卷物と短い蠟燭の燃えさしが入つてゐるだけで、如何なるものともわからなかつたが、或アラビア人に讀んで貰ふと、この蠟燭を焚いてこの祈禱の文句を讀む時は、如何なる鐡の蓋でも自然に開くのだといふ。水汲み男はそのアラビア人を誘つてアルハムブラ宮殿の地下室に乘り込み、石の扉を開いて多くの金貨と寶石とを手に入れた。事は一切祕密に行はれ、女房にも他人に話してはならぬと固く戒めて置いたが、女房が急に身分不相應な贅澤をはじめた事から、裁判官に呼び出され、自白せざるを得ないことになつた。慾の皮の突張つた裁判官は警察官と相談して、水汲み男とアラビア人との案内の下にアルハムブラの古宮殿に向ふ。水汲み男が俄かに富を得たことを密告して、彼を不幸に陷れた理髮師も隨行した。先夜の通り蠟燭と祈禱の魔力で、重い石の扉は一種の音響を立てて撥ね返つた。經驗のある二人は平氣で地下に入つたけれど、裁判官等にはその勇氣が出ない。倂し二人が金貨と寶石の壺を擔いで戾り、まだ大きな金櫃に寶石が一杯入つてゐると聞いて、急に勇氣を振ひ起し、もう一度地下へ行くのは御免だと云ひ張る二人を殘して、恐る恐る三人だけで七層の石階を下りて行つた。これを見すましたアラビア人は直ちに魔法の蠟燭を吹き消す。石の扉は例の音響と共に閉され、裁判官以下の三人はそのまゝ地下に封じ込められてしまふのである。アラビア人は蠟燭の燃え殘りを谿に投げ棄て、寶石や金貨を山分けにした上、アラビア人はアフリカのテチユアンに、水汲み男はポルトガルのカリレシアに歸ることにした。
[やぶちゃん注:「テチユアン」モロッコ北部にある町テトゥアン(ベルベル語;Tiṭṭawin/英語:Tetouan・Tittawin)。ここ(グーグル・マップ・データ)。私は十八年ほど前に行ったはずなのだが、暑さにやられてあまり覚えていない。ウィキの「テトゥアン」によれば、紀元前三世紀には町があったと考えられており、『ローマ人やフェニキア人のつかった品々がタムダの遺跡から出土している。ベルベル人の国マウレタニアに属する町であったが、ローマに征服され』、『属州マウレタニア・ティンギタナの一部となった』。モロッコに十二世紀末から十五世紀末にかけて存在していたイスラーム国家『マリーン朝の王が現在のテトゥアンの町を築いたのは』一三〇五年頃のことで、一四〇〇年頃には『カスティーリャ王国により海賊行為への反撃として破壊された』。十五世紀末には、キリスト教国によるイベリア半島の再征服活動であるレコンキスタ(特に一四九二年のグラナダ陥落)によって『イベリア半島を追われた難民が押し寄せてテトゥアンを再建した。彼らはまず城壁を築き、その内部を家々で埋めた。スペインではテトゥアンは海賊(バルバリア海賊)で悪名高』い。ここには十三世紀のイスラムのアルアマール王によって建設されたアルハンブラ宮殿が出るので、それ以降の話となる。
「カリレシア」不詳。古代ローマの属州ガラエキア(英語:Gallaecia:現在のスペイン西部とポルトガル北部の地域)のあったポルトガルの旧地名か? そこだとすれば、現在のポルトガル北西部の都市ブラガ(Braga)附近である。]
この話は「魔宮殿見物記」(吉田博)といふ書物に出てゐる。書中の傳説は多くワシントン・アービングの「テールス・オブ・ゼ・アルハムブラ」に據つたとあるから、多分その中の一篇であらう。嘗て田部隆次氏がラヂオでこの話をされたのを聽いたおぼえもある。
[やぶちゃん注:「魔宮殿見物記」明治四三(一九一〇)年博文館刊。著者吉田博(明治九(一八七六)年~昭和二五(一九五〇)年)は洋画家・版画家。当該話は国立国会図書館デジタルコレクションの画像の同書のこちらから視認出来る(コマ112から136まで)。
「ワシントン・アービング」ワシントン・アーヴィング(Washington Irving 一七八三年~一八五九年)はアメリカ合衆国の作家で、「テールス・オブ・ゼ・アルハムブラ」(Tales
of the Alhambra)は彼の一八三二年刊の小説集。
「田部隆次」(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)は英文学者。富山県生まれ。東京帝国大学英文科でラフカディオ・ハーンに学び、後に彼(小泉八雲)の研究と翻訳で知られる。富山高等学校(現在の富山大学)にハーンの蔵書を寄贈して「ヘルン文庫」を作った。私も彼の小泉八雲の作品の訳文を幾つか電子化している。]
アルハムブラ古宮殿の話には多分にアリ・ババの匂ひがする。魔法の蠟燭と祈禱によつて扉の開くところ、俄かに得た富によつて人の疑惑を招くところ、他の幸福を羨んだ者が封じ込められるところ、皆アリ・ババの後塵を拜するものである。慾張りの役人が登場するあたりは、「輟耕錄」の趙生とも共通するが、これは寧ろ偶然の一致かも知れぬ。