宿直草卷三 第十三 男を喰ふ女の事
第十三 男を喰(く)ふ女の事
[やぶちゃん注:挿絵は底本のものをそのまま出した。]
有馬左衞門佐殿の内、高屋七之丞といふ人の語りしは、
「日光山御普請を勤めて、江戸を指して歸るに、下野(しもつけ)の内、何の村といふ、字(あざな)も知(しら)ず、日光御普請につき、旅の者に宿貸すためと見えて、新家(しんけ)五十軒ばかりありし所に宿とりたり。
亭主も二十四、五、女房もはたちばかり、下人も子もなくてあり。隨分、馳走する。夜に入りて臥(ふす)に、我は座敷構(ざしきがまへ)なる所、若黨、中間七人は次の間に寢たり。夫婦は納戸(なんど)に臥す。𢌞(まは)りては遠けれども、隔だてし程は壁一つなり。
夜半ばかりの事なるに、屋根の榑板(くれいた)、大竹割るやうに鳴る。
何事かと、枕欹(そばだ)てゝ聞(きく)に、亭主、呻(うめ)き出(いで)たり。
不思議に思ひ、此方(こなた)より聲を合はせて、
『何事ぞ。』
と云へど、返事、さらに、なし。其うちに亭主が聲、漸々(ぜんぜん)に消ゆるがごとく後下(あとさが)りになる。
良からぬ事かなと思ひ、下人ども起して、手燭を立(た)て、納戸押し開(あ)けて見るに、女房、亭主が腹の上に馬乘りに上がりて、臍(ほぞ)の下を破り、細腸(ほそわた)とり出して、喰らふ。興醒めて覺ゆる。
先(まづ)、後難(こうなん)も如何(いかゞ)とて、
『隣り合壁(がつへき)、起(おこ)せ。』
とて、下人に云ひつけしに、皆、目を摺(す)りて來(きた)る。
『こは、何事ぞ。』
と云へど、敢へて怖るゝ氣色(けしき)もなく、我(われ)いぶかともせず、ひたと腸(はらわた)取りて喰らふに、はや、亭主は空しくなる。大方(おほかた)、鬼のわざと見えし。
隣の人々、數寄りて、
『先(まづ)、鬼なれ人なれ、遁(のが)しては惡しからん。あの者、捕り給(たまは)れ。』
と云ふ。
『さらば。』
とて、嗜(たしな)みの早繩(はやなは)にて自(みづから)捕りて、下人に云ひ付(つけ)て縛(いまし)め置くに、逃(にげ)たき覺悟もなく、悲しき躰(てい)も見えず。只、しろしろとしたる樣(さま)、昨日より見たる宿の女房にして、化け物とも見えず。合點ゆかぬ事、云ふに絶へたり。
とかくする内、一門も寄り、所の代官も來(き)て、囚人(めしうど)、渡してければ、我は、やがて立つ。夜半ばかりより辰の一天(いつてん)まで、鬼とも人とも知れなくて過(すぐ)る。
再び、其國へは行かずなれば、その事、聞くこともなく侍る。こゝは、その他所(よそ)となり、それは今の昔になれり。例(ためし)、稀(まれ)に見侍る。」
と語れり。
[やぶちゃん注:「有馬左衞門佐殿」日向国(現在の宮崎県)北部と現在の宮崎市北部を領有した延岡藩の江戸前中期の藩主有馬氏三代(直純・康純・清純)は歴代「左衞門佐」を名乗っている。「宿直草」は延宝五(一六七七)年成立であるから、寛永一八(一六四一)年に父直純の死去により家督を継いだ、嫡男康純(慶長一八(一六一三)年~元禄五(一六九二)年)の可能性が高い。
「高屋七之丞」不詳。
「くれいた」当初は不審であった。何故なら辞書を調べると、「くれいた」は「榑板」であって「榑縁」(くれえん)とも呼び、縁板を縁框(えんがまち)に対して平行に張った縁側のことを指すとあったからで、ここは「屋根」とあるからそれではあり得ず、意味がとれないと躓いたからである。しかし、さらに榑板を検索してみたところが、「榑葺(くれぶき)屋根」の民家なるものがあることを知り、これを指していることが判明した。「飛騨民俗村」公式サイト内の「榑葺き民家とは」から引く。
《引用開始》
飛騨の古い民家というと、合掌造りが有名ですが、飛騨地方の中央部にあたる古川・国府盆地から高山盆地、南にかけての農家や町屋は、「榑(クレ)」と呼ばれる板を葺き、石を置いた切妻造りの建物がほとんどを占めました。現代のような製材工具がない時代に、木の特質を利用した木を裂くという技術で対応したのです。むろん瓦もありましたが、農山村では手の出るものではありませんでした。
榑の材料はネズ、サクラ、カラマツ、ナラ、クリを用いました。中でもクリ材が一番耐久力が強いそうです。クリは水に強く腐りにくいため、屋根を葺くのに適しています。現在、飛騨の里ではクリ材で榑葺きしています。[やぶちゃん注:中略。]
丸太を割り、木の目にそって同じ厚みと長さのクレ材を作り出す一連の作業を「クレヘギ」と呼んでいます。木の目を読み、マンリキという道具でほぼ均等の厚さに一枚一枚裂いていくクレヘギは、長年の経験と技術が必要です。
《引用終了》
以下、飛騨では昭和三〇年代以降、『火事に強いトタン葺きに取って代わられ、現在』、『榑葺きの建物は』全くなくなってしまい、『そのため、各地にいたクレヘギ職人はほとんどいなくな』と記されてある。リンク先では素材の「榑板」や「榑葺き民家」の写真が見られる。必見!
「隣り合壁(がつへき)」向こう三軒両隣といった感じであろう。
「こは、何事ぞ」集まってきた夫婦の隣人らが妻に向けて吐きかけた台詞。
「敢へて怖るゝ氣色(けしき)もなく、我(われ)いぶかともせず」妻の不思議に異様な様態(反応)の描写。「敢へて怖るゝ氣色(けしき)もなく」凄惨さとその猟奇に対して周りの人間か強い敵意を持っていることが判るはずなのにそれを「一向に怖れる気配も見せず」であろう。後の「我いぶかともせず」はちょっと聴かぬ語であるが、「我訝(われいぶか)とも」しないということか。岩波文庫版では高田氏が『自分が何をしているかに気づく様子もなく、の意か』と注しておられる。これで採る。
「數寄りて」「あまたよりて」と訓じたい。
「嗜(たしな)み」普段から得意な武芸として修練を積んでいること。
「早繩(はやなは)」敵対者を捕らえて繩などで縛り括る捕縛術。捕繩(ほじょう)術。
「しろしろとしたる樣(さま)」岩波文庫版の高田氏の注には『平然と何もなかったような様子』とある。
「一門」宿屋の夫婦の親族縁者。
「囚人(めしうど)」捕縛された妻のこと。原典は「めしうど」で底本は「召人」であるが、岩波版の表記を採った。
「辰の一天(いつてん)」「一天」は「一點」に同じい。午前七時頃。
「こゝは、その他所(よそ)となり、それは今の昔になれり」この場所はすでにもう別な人の住まうところとなり、この奇談も今となっては昔の忘れ去られそうな話とはなり申した。荻田の通人ぶった、いらぬ無常観(時空間の無常迅速の転変)の鼻につく粉飾部である。
「例(ためし)、稀(まれ)に見侍る」「このようにまずあり得ない異常な、しかし事実であった稀有の事件を、拙者、目の当たりに見申して御座った。」。]
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