宿直草卷五 第九 旅僧、狂氣なる者に迷惑する事
第九 旅僧、狂氣なる者に迷惑する事
[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。これが本書の最後の挿絵でもあるので、最後に今一度、汚損度を理解していただくためにも、敢えて一切の清拭をせずに示す。]
旅僧、山路に踏み迷ひ、夜になりて步(あり)く。ある谷間(たにあひ)に小(ちい)さき家ありければ、立ち寄り、
「宿(やど)借りたし。」
と云(いふ)。四十ばかりの男立ち出(いで)て、
「易き事なり。然りながら、馴染みし者の、痛く煩(わづら)ひてさふらへば、今を限りの病(やまひ)の床(とこ)、見るに忍びず思(おぼ)しなん。それとても苦しからず侍らば、いと易き事なり。」
と云ふ。
僧、聞きて、
「此方(こなた)の爲は、よしや、何、其方(そなた)の障(さは)りにだにならずば、貸し給へかし。」
と云ふ。
男、聞きて、
「さては、否むまでなし、入(いり)給へ。」
と許す。
いよいよ嬉しくて侍りしに、女の病、いと重くなり、暫しと賴む甲斐もなく、遂に空しくなりぬ。
男、大きに嘆きしかども、露さら、その詮(せん)なかりければ、僧に向つて云ふやう、
「女の親しき者も、我(わが)所縁(ゆかり)の者も、十町ばかり隔てゝ、山の彼方(あなた)に住(すみ)侍り。我はこの谷に田畑(たはた)持ちし故、軒も並べず、此處に住むなり。今日(けふ)も、我が方樣(かたさま)の者、訪(とふら)ひしかども、『病、ちと良き』とて歸りさふらふ。この事、知らず侍らんなれば、我、行きて彼等に知らせん。願はくは、守(も)り給へ。不祥ながら、賴みたし。」
と云ふ。僧、
「易き事。」
と肯(うけが)ふに、男は外へ出でぬ。
僧、甲斐甲斐(かひがひ)しくは云ひしかども、もと、知らぬ家に主(ぬし)もなく、偶々(たまたま)あるは、死骸なり。あまさへ、黔婁(きんる)が屍(かばね)のごとく、手足も見えて、引被(ひきかづ)けし衣(きぬ)の全(また)く覆はざるに、灯(ともし)幽かの夜(よる)なれば、心細きばかりなり。
かゝる所へ、廿(はたち)ばかりの女房、髮は葎(むぐら)を搔き亂したるが、戸を開(あ)けて入(いり)、うち構はず、屍(かばね)の元に寄り、
「なふなふ。」
と云へど、空しき骸(から)の物云はざれば、
「さては死に給ひたか、あゝ、愛(いと)しや、愛(いと)しや。」
と泣く。
扨は娘にこそと、哀れを催すに、かの者、尸(かばね)を動かし、
「あゝ、おかしや。ちと笑ひ給へば。」
と、
「こそこそ。」
と擽(こそぐ)り、目、吸い、口、吸い、
「けらけら。」
と笑ふ。
嬉しさうなる有樣なり。
「さては人にてはなし。化生(けしやう)の者よ。」
と、
「はた。」
と睨めば、
「あ。怖(こ)は。」
など云ふて、出づ。
出づるかと思へば、また、來て泣く。
泣くか、と思ふに、又、笑ふ。
泣(な)いつ笑ふつせしほどに、立て追へば、
「なふ。怖(こは)や。」
とて、逃てゆく。
「さて。歸りし。」
と見れば、又、門に來(き)、背戸(せど)に𢌞(まは)り、戸障子より覗きなんどして、
「愛(いと)しや、嬉しや。」
と、いと忌(い)ま忌ましく聞えし。
「いかなる鬼の棲み家(か)ぞ。」
と、恐ろしなど云ふばかりなし。
亭主、やがて歸り、僧に向つて云ひけるは、
「もし。我(わが)留守に怪しき者、來たらず候や。」
と云ふ。
僧、吐息(といき)して、右の事、語る。
亭主(あるじ)、
「さればこそ。あれは、我(わが)娘にて候へども、狂氣者(きやうきもの)なるゆへ、山に小屋作りて、追入(おひいれ)候。我、出候へば家に來り、狂ひ申候也。申(まうし)て出(いで)候べきを失念致し、道にて思ひ出し候也。恐ろしく思(おぼ)し候こそ尤(もつとも)に侍れ。」
と云(いふ)。
扨、所縁(ゆかり)し人、集まり、骸(から)をば野邊に送りければ、僧も夜明(よあけ)て出(いで)ぬ。
狂氣を知らでは、恐れし事、尤(もつとも)に侍る。
[やぶちゃん注:疑似怪談。但し、これはもうあからさまに「諸國百物語卷之四 十一 氣ちがいの女をみて幽靈かと思ひし事」の真似である。既に述べた通り、「諸國百物語」は「宿直草」と同年の刊行で、前者が五月、「宿直草」の方が初春の刊行ではあるものの、数ヶ月でこれほど酷似たものを挿入することは考え難い(但し、当時の出版事情からは絶対にあり得ないことではないし、インスパイアを剽窃とする風潮もなかった(「諸國百物語」自体が百話中の二十一話をも先行する「曾呂利物語」からそうしていることは既に注でも述べてきた)からあり得ないことではないけれども、期間が接近し過ぎている)。また、寧ろ、冒頭注で述べた通り、荻田安静の原「宿直草」が俳句の弟子富尾似船(寛永六(一六二九)年~宝永二(一七〇五)年)によって改組され、増補編集がなされた際に、「諸國百物語」の話がインスパイアされて入れ込まれたと考えた方がよいようにさえ思われるのである。実は、かく、順番に電子化注してくると、この「卷五」になってから、あることに気づくのでる。それは、今まであったえらく長々しい筆者の粉飾風流評言が影を潜めてしまい、時には全く存在しないか、ごく短くなっている点である。これは明らかに「卷四」までと筆致が異なる。そういう区別化の観点を別方向から見ると、「宿直草卷五 第三 仁光坊と云ふ火の事」の怪談には不要な長ったらしい修辞長歌を伴った秘密の恋文の全文掲載であるとか、「宿直草卷五 第五 古曾部の里の幽靈の事」の能因(一つは伝)の和歌の完全引用なども「卷四」以前には見られなかったことも妙に気になってくるのである。この「卷五」自体が最も著しく改組変更された巻ではなかったか?
なお、途中の『「こそこそ。」』/「と擽(こそぐ)り、目、吸い、口、吸い」の部分の「と」は原典や底本にはない。しかし、ないと不自然。岩波文庫版本文には「と」があるので、特異的にそれに従って補った。
「馴染みし者」妻。
「此方(こなた)の爲は、よしや、何」当方にとっては仮にも、何の問題も御座いませぬ。
「露さら、その詮(せん)なかりければ」かく亡くなってしまった上は、如何なることも全く以ってさらに致しようがないので。
「十町」一キロ九〇メートル。山家でもあり、往復と簡単な報知合わせて一時間はかかろう。
「我が方樣(かたさま)の者」私の方の親類縁者。
、訪(とふら)ひしかども、『病、ちと良き』とて歸りさふらふ。この事、知らず侍らんなれば、我、行きて彼等に知らせん。願はくは、守(も)り給へ。不祥ながら、賴みたし。」
と云ふ。僧、
「易き事。」
「甲斐甲斐(かひがひ)しくは云ひしかども」僧であるから、死人の守りを心を籠めてこめてなす事を、これ、如何にもまめまめしくなさん、といった感じで肯(うけが)いはしたものの。
「黔婁(きんる)」岩波文庫版の高田氏の注に、『正しくは「けんる」。春秋、斉の高士。諸公が大臣に迎えようとしたが従わず、貧しくして没した。為に』遺体を覆っておく『衾(ふすま)』が短かく、衾の端『から死体がはみ出ていたので、』弔いに来た友『曾西が、斜めにすれば納まると言うと、妻は、それは邪というもので、故人が嫌う所だろしりぞけた』とある。ネットの複数の記載を見ると、曾西はそれを聴いて礼節に従った謂いであるとして彼女に礼をしたとある。出典は今一つ定かでない。識者の御教授を乞う。
「なふなふ」感動詞で人に呼びかけるときに発する語。「もしもし」「これこれ」。「喃喃」などと漢字表記する。
「忌(い)ま忌ましく聞えし」いたく不吉で穢らしい存在や行為と強く感じられた。
「道にて思ひ出し候也」ではあるものの、怪異の時間経過と報知の優先性と物理的距離からみて、彼は気づいた途中から引き返してはいない。]