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2017/07/18

柴田宵曲 續妖異博物館 「龍の變り種」(その1)

 

 龍の變り種

 

 山道を歩いてゐて妙な石を拾つた人がある。雞卵ほどの大きさで、靑や赤の斑が甚だ美しい。持ち歸つて五六年も箱に入れて置いたが、子供が持ち出して遊んだことから遂に見失つてしまつた。數日後の晝間、風雨晦冥になって、庭前の木を垂れる雨水が、あだかも瀧のやうに見える。皆珍しがつて眺めてゐるうちに風雨がやみ、木の下に忽然としてこの石が現れた。石は已に破れて卵の殼のやうになつてゐたので、人々ははじめてこの石が龍の卵であつたことを知つた(原化記)。

[やぶちゃん注:「原化記」は「太平廣記」に載るものが残存する総てである。以上は「龍七」の「斑石」である。

   *

京邑有一士子、因山行、拾得一石子。靑赤斑斕、大如雞子。甚異之。置巾箱中五六年。因與嬰兒弄、遂失之。數日、晝忽風雨暝晦、庭前樹下、降水不絶如瀑布狀。人咸異其故。風雨息、樹下忽見此石已破、中如雞卵出殼焉。乃知爲龍子也。

   *]

 

 これも山中の話であるが、華山に遊んだ人が盛夏の事で暑くて堪らず、溪川のほとりに休んでゐると、大きさ掌ぐらゐの葉が一枚流れて來た。眞赤な色をして如何にも美しいので、拾つて懷ろに入れてゐると、何だか妙に重くなつたやうに感ぜられる。氣味が惡くなつて取り出して見たら、葉の表面に鱗のやうなものがあつて、むづむづ動いてゐる。びつくりしてこれを林の中に棄て、同行者にその話をしたところ、それはきつと龍に相違ない、早く歸らうと云ふ。忽ち白い烟が林中にひろがり、遂に谷一杯になつて、一同が山を下るより早く大風雨が襲つて來た(酉陽雜俎)。

[やぶちゃん注:「華山」現在の陝西省華陰市にある中国五名山(東岳泰山(他の四つは山東省泰安市泰山区)・南岳衡山(湖南省衡陽市南嶽区)・中岳嵩山(河南省鄭州市登封市)・北岳恒山(山西省大同市渾源県)の一つ。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「酉陽雜俎」の「卷十五 諾皋記下」の以下。

   *

有史秀才者、元和中、曾與道流遊華山。時暑、環憩一小溪。忽有一葉、大如掌、紅潤可愛、隨流而下。史獨接得、置懷中。坐食頃、覺懷中漸重。潛起觀之、覺葉上鱗起、栗栗而動、史驚懼、棄林中、遽白衆曰、「此必龍也、可速去矣。」。須臾、林中白煙生、彌於一谷。史下山未半、風雷大至。

   *]

 

 この二つの話は龍が昇天に先立つて、意外なものに化けてゐた例であるが、靑赤斑爛たる雞卵大の石は一見して異樣なものを感ぜしめる。掌大の紅葉が溪を流れて來る間は、たゞ人目を惹く程度だつたのが、先づ懷中に在つて重くなり、次いで鱗をむづむづ動かし、林中に棄てられるに及んで、白姻濠々と林中に立ちこめて來る。この徐々漸々と進む工合が甚だ龍らしい。無氣味ながら美しい話として掌大の紅葉を推さざるを得ぬ。

 

 朱梁の尹皓が華州に居つた時分、若干の兵を連れて巡警に出た途中、荒地の中で石のやうな卵のやうなものを拾つた。「原化記」の記事と似たものであるが、この方は色が靑黑く、光滑愛すべしとなつてゐる。左右の者に命じてこれを拾はせ、二三十里行つたところで佛寺に一宿した。その夜は恭しく本尊の前に安置して寢たところ、夜半に大雷雨となり、すさまじい大雨の中に雷が落ち、寺は燒けてしまつたが、佛像は無事であつた。院外の柳樹數百株が悉く根こぎになつたといふのだから、風雨の烈しかつたことは想像出來る。皓の拾つたのは龍卵であつたので、妄りにこれを拾つて携帶したことが、彿寺を燒く災厄を齎したらしい。雷雨去つた後は龍卵も行方不明になつてゐた(玉堂閑話)。

[やぶちゃん注:「朱梁」既注であるが、再掲しておくと、後梁(こうりょう)のこと。五代の最初の王朝で、唐末の混乱期に唐の朝廷を掌握した軍閥の首魁朱全忠が九〇七年に唐の昭宣帝から禅譲されて建国した。

「尹皓」「インコウ」と読んでおく。

「華州」前段の陝西省の「華山」附近の広域地名。

以上は「玉堂閑話」の「尹皓」(「太平廣記」に引く)。以下に示す。

   *

朱梁尹皓鎮華州、夏將半、出城巡警、時蒲、雍各有兵戈相持故也。因下馬、於荒地中得一物如石、又如卵、其色靑黑、光滑可愛、命左右收之。又行三二十里、見村院佛堂、遂置於像前。其夜雷霆大震、猛雨如注。天火燒佛堂、而不損佛像、蓋龍卵也。院外柳樹數百株、皆倒植之、其卵已失。

   *]

 

 釣りの好きな人が川の寫眞を見て、この川にはきつと鮎がゐると云つた話があるが、唐時代には水を一見しただけで、そこに龍が栖んでゐるかどうかわかるといふ人があつた。この人が龍を持つて歸るといふ評判があつた時、華州刺史であつた李納は、虛妄だと云つて信じない。その龍といふのを見せて貰ふと、瓶の中に泳いでゐるのは二尾の鰍魚であつた。納は怒つたやうな顏をして、どうして龍だとわかるか、と詰め寄ると、相手は平然として、これを證明するのはむづかしい事ではありません、小さな穴を掘つて水を入れて下さい、と云つた。云はれるまゝに穴を掘つて、水中に魚を放つたところ、二尾が相逐うて泳ぎ𢌞り、尾が穴の緣に觸れる每に、四隅は次第に崩れ、水もずんずん殖えて、忽ち何尺もある闊(ひろ)い穴になつた。その人李納に向ひ、如何でせう、これ以上穴が大きくなつては、私の手に合はなくなります、と云ふが早いか、魚を捕へてもとの瓶に入れてしまつた。納大いに奇とし、多くの錢帛を贈る。鰍魚は無事都に持ち歸ることが出來たと「中朝故事」に見えてゐる。この話はまだ龍にならぬ狀態であるが、もし李納がいつまでも強情を張つて、魚の泳ぐに任せてゐたら、恐らく天地晦冥になつて風雨到り、龍は華州に於て昇天し去つたことであらう。

[やぶちゃん注:「鰍魚」「シウギヨ」或いは「どぢやう」と当て読みしておく。本邦では「鰍」は条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux(華州の位置から同種の純淡水産の河川型)を指すのであるが、これは国字であって、中国ではあくまで「鰍」はかの泥鰌(条鰭綱骨鰾上目コイ目ドジョウ科ドジョウ属ドジョウ Misgurnus anguillicaudatus)のみを意味するからである。

「中朝故事」は五代南唐の尉遲偓(いちあく)の撰した随筆。以上はその「卷下」の冒頭にある以下。但し、中文サイトの二種を見たが、「李納」ではなく「李訥」(りとつ)である。

   *

古有豢龍氏、長安有豢龍戸、觀水卽知龍色目、有無悉知之。懿皇朝、龍戸上言、「龍池中走失兩條。」。往關東尋訪數十日、東都魏王池中見之、取而歸闕。經華州、時李訥爲華州刺史。訥父名建杓、向與白居易相善。訥爲人正直、聞得龍來、大以爲虛妄、命就公府視之。則於一小瓶子中、倒於盆、乃二細鰍魚也。訥怒目曰、「何以爲驗。」。其人對曰、「驗非難也。」。請於地中鑿一穴、闊一尺、已而注水其間、收鰍投水内。魚到水中、相趁旋轉、尾觸穴四隅、隨觸而陷、水亦暴漲。逡巡、穴已闊數尺。其人諮訥云、「恐穴更廣、卽難制也。」。遂搦入瓶中。訥方奇之、厚贈錢帛、攜歸輦下。

   *]

 

 龍が水中に潛むことを考へれば、雲を得る以前に於て魚の形を取るのも、一應尤もなやうな氣がするが、魚族に關する話はいろいろある。韋顏子の壻が井戸替への際に捕へたといつて、一尾の鯉を齎らした。長さ五尺餘りあつて、鱗が金色に光るのみならず、その眼光は人を射る如くであつた。これが雨龍であつたといふし、汾水のほとりに住む老婆の獲た緋鯉も顏色自ら普通の魚と異なつてゐた。老婆これを憐れみ、小さな池を掘つて放して置くと、一月ばかりたつた後、その池から雲霧が立ちのぼる。緋鯉は騰躍逡巡の體であつたが、遂に風雲に乘じ汾水の中に入る。その際空中より落した珠が靈藥で、後に老婆の子の難病を治するといふ話が「瀟湘錄」にある。嘗て「病牀讀書日記」(正岡子規)を讀み、「昨夜の夢に緋鯉の半ば龍に化したるを見て恐ろしと思ふ」とあるのを不思議に思つたが、鯉と龍とに密接な關係のあることを知らぬためであつた。

[やぶちゃん注:「韋顏子の壻」「韋顏子」は柴田の誤読(或いは「韋顏の子」の脱字)と思われる。以下の原文通り(後掲)、「韋顏」なる官人の娘の婿(むこ)の意である。

「汾水」汾河。山西省を南北に流れる大河で渭河に次ぐ黄河第二の支流。ここを流れている川(グーグル・マップ・データ)。

「病牀讀書日記」正岡子規の晩年の公開日記。明治三三(一九〇〇)年七月のクレジットを持つが、内容は前年のものであろう。その十一月十一日のクレジットを持つ記載の冒頭に出る。私は所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認出来る。

「鯉と龍とに密接な關係のある」柴田は明治三十年生まれで、恐らくはごく少年期に子規のそれを読んだものの、未だその頃は登龍門の故事(治水伝説の夏の聖王禹(う)が山西省の黄河上流にある竜門山を切り開いて出来た急流の瀧「龍門」を登ることが出来た鯉は龍となるという伝説)を知らなかったというのである。博覧強記の宵曲の言としてはちょっと意外である。

 以上の前者「韋顏」の話の出典を柴田は落しているが、これは「太平廣記」の「龍六」に「劇談錄」(唐の康駢撰の志怪小説集)を出典として載せる「崔道樞」(さいどうすう)である。私は中国語が読めないので、後半の展開はよく判らぬが、以下に見る通り、結構、長いものである。

   *

唐中書舍人韋顏、子婿崔道樞舉進士者屢屢。一年春下第、歸寧漢上所居。因井渫、得鯉魚一頭長五尺、鱗鬣金色、其目光射人。衆視異於常魚。令僕者投於江中。道樞與表兄韋氏、密備鼎俎、烹而食之。經信宿、韋得疾暴卒。有碧衣使人引至府舍、廨宇頗甚嚴肅。既入門、見廳事有女子戴金翠冠、著紫繡衣、據案而坐。左右侍者皆黃衫巾櫛、如宮内之飾。有一吏人從後執簿領出。及軒陛間、付雙環靑衣、置於繡衣案上。吏引韋生東廡曹署、理殺魚之狀。韋引過。道樞云、「非某之罪。」。吏曰、「此雨龍也、若潛伏於江海湫湄、雖爲人所食、卽從而可辨矣。但昨者得之於井中、崔氏與君又非愚昧、殺而食之、但難獲免。然君且還、試與崔君廣爲佛道功德、庶幾稍減其過。自茲浹旬、當復相召。」。韋忽然而寤、且以所説、話於親屬、命道樞具述其事。道樞雖懷憂迫、亦未深信。才及旬餘、韋生果歿。韋乃道樞之姑子也。數日後、寄魂於母云、「已因殺魚獲罪、所至之地、卽水府、非久當受重譴。可急修黃道齋、尚冀得寬刑辭。表弟之過亦成矣、今夕當自知其事。」。韋母泣告道樞。及暝、昏然而寢、復見碧衣人引至公署、俱是韋氏之所述。俄有吏執黑紙丹文書字、立道樞於屛側、疾趨而入。俄見繡衣舉筆而書訖、吏接之而出、令道樞覽之。其初云、「崔道樞官至三品、壽至八十。」。後有判云、「所害雨龍、事關天府。原之不可、案罪急追。所有官爵、並皆削除。年亦減一半。」。時道樞冬季、其母方修崇福力、才及春首、抱疾數日而終。時崔妻拿咸在京師、韋顏備述其事。舊傳夔及牛渚磯是水府、未詳道樞所至何許。

   *

また、後者(汾水の河畔の老婆の逸話)は「瀟湘錄」の「汾水老姥」である。以下に示す。

   *

汾水邊有一老姥、獲一赬鯉、顏色異常、不與眾魚同、既攜歸、老姥憐惜、且奇之、鑿一小池、汲水養之。經月餘後、忽見雲霧興起、其赬鯉騰躍、逡巡之間、乃漸升霄漢、其水池卽竭、至夜、又復來如故。人見之者甚驚訝、以爲妖怪、老姥恐爲禍、頗追悔焉、遂親至小池邊禱祝曰、「我本惜爾命、容爾生、反欲禍我耶。」。言才絶、其赬鯉躍起、雲從風至、卽入汾水、唯空中遺下一珠、如彈丸、光晶射人、其老姥得之、眾人不敢取。後五年、老姥長子患風、病漸篤、醫莫能療、老姥甚傷、忽意取是珠、以召良醫、其珠忽化爲一丸丹、老姥曰、「此赬鯉遺我、以救我子、答我之惠也。」。遂與子服之、其病尋愈。

   *]

 

 鯉には限らぬ、魚の話は他にもある。「錄異記」には古井戸の中に長さ六七寸の魚が住んで居り、これが上の方に浮むと、必ず井の水が湧き返る。この井戸には龍がゐると傳へられて居つた。饒州の柳翁は常に小舟に乘つて鄱陽江に釣り、水族の事、山川の事に關しては知らざるものなしといふ人であつたが、嘗て江の南岸の一箇所を指し、今日はこゝに小龍が居る、だから魚が澤山集まつてゐるのだと教へた。人々はこれを信じなかつたけれど、網を入れた結果は果して大漁であつた。獲物を大桶に放つて見ると、中に一二尺ばかりの鱓魚があり、兩眼明かに長い鬚を動かしてゐる。鱓にはいろいろな意味があるやうだが、こゝは魚の一種類と見て置けばよからう。この魚が桶の中を泳ぎ𢌞ると、他の魚はこれに隨從するやうに見える。舟を北岸に著けた頃には、もうどこへ行つたかわからなかつたと「稽神錄」に出てゐる。これが柳翁のいはゆる小龍だつたのであらう。

[やぶちゃん注:「天祐年間」唐の最後の昭宗の治世に用いられた元号。「天佑」とも書く。九〇四年~九〇七年であるが、ウィキの「天祐(唐)」によれば、唐の滅亡後も河東・鳳翔・淮南地方では『天祐を使用し続け、石碑碑文に「天祐二十年」の用例がある。また前蜀、南漢、呉、呉越では唐滅亡後も天祐の年号を使用している』とある。

「饒州」(じょうしゅう:現代仮名遣)は現在の江西省上饒(じょうじょう)市鄱陽(はよう)県一帯に相当する。ここ(グーグル・マップ・データ)。「鄱陽江」鄱陽の西部は広大な鄱陽湖となっている。そこの入り江或いは鄱陽の市街地に流れ込む往時の長江の支流の名か。

「鱓」国字では海産のウツボ(条鰭綱ウナギ目ウツボ亜目ウツボ科 Muraenidae)であるが、これは中国で好んで食べられ、多く棲息する条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目タウナギ目タウナギ科タウナギ属タウナギ Monopterus  albus のことである(後掲するある訳者の訳文でも「タウナギ」としてある)。柴田は「こゝは魚の一種類と見て置けばよからう」などとお茶を濁しているが、先の「鰍魚」も丸投げで、どうも彼は魚類同定の興味にはあまり食指が動かぬらしい

 「錄異記」のそれは「卷五」に載る以下の短文。

   *

成都書臺坊武侯宅南乘煙觀古井中、有魚長六七寸、往往游於井上、水必騰涌。相傳、井有龍。

   *

 「稽神錄」のそれは「第四卷」に載る「柳翁」。

   *

天祐中、饒州有柳翁、常乘小舟釣鄱陽江中、不知其居處妻子、亦不見其飮食。凡水族之類與山川之深遠者、無不週知之、凡鄱陽人漁釣者、咸諮訪而後行。呂師造爲刺史、修城掘濠、至城北則雨止、役則晴、或問柳翁、翁曰、「此下龍穴也、震動其土則龍不安而出穴、龍出則雨矣。掘之不已、必得其穴、則霖雨方將爲患矣。」。既深數丈、果得大木、長數丈、交加構疊之、累之數十重、其下霧氣衝人、不可入、而其木上皆腥涎縈之、刻削平正、非人力所致。自是果霖雨爲患。呂氏諸子將網魚於鄱陽江、召問柳翁、翁指南岸一處、「今日惟此處有魚、然有一小龍在焉。」。諸子不信、網之、果大獲。舟中以瓦盆貯之、中有一鱓魚長一二尺、雙目精明、有二長鬚、繞盆而行、羣皆翼從之。將至北岸、遂失所在。柳翁竟不知所終。

   *

こちらに訳が載る(メイン・ページが判らないので訳者を紹介出来ない)。引用させて戴く(注記記号を省略した)。

   *

 天祐年間、饒州に柳翁がおり、つねに小舟に乗り、鄱陽江で釣していたが、その住居と妻子を知らず、飲食するところも見なかった。水族の類と山川の深遠なところも、すべて知っていた。およそ鄱陽の人で漁や釣りするものは、みなかれに尋ねてからいった。呂師造は刺史となり、城を修理し、濠を掘鑿したが、城の北にゆけば雨がふり、工事が終われば晴れた。あるひとが柳翁に尋ねると、翁は言った。「この下は龍穴で、その土を震わして動かせば龍は不安となって穴を出、龍が出れば雨が降るのです。掘ってやまなければ、きっとその穴にたどり着きますが、霖雨が禍をなしましょう。」深さ数丈になると、ほんとうに大木が見つかったが、長さは数丈、たがいに重なり合い、数十重に累積し、その下は霧気が人を衝き、入れなかった。そしてその上の木にはすべて腥い涎が纏いついていた、彫刻はきちんとしており、人力によって致されたものでなかった。それからほんとうに霖雨が禍をなした。呂氏の子供たちが鄱陽江で魚を網でとろうとし、柳翁を召して尋ねると、翁は南岸の一か処を指し、言った。「今日はこちらにだけ魚がいますが、一匹の小さな龍がいます。」子供たちは信じず、網すると、ほんとうにたくさん捕らえた。舟の中で瓦盆に貯えたが、中に一匹の鱓魚(タウナギ)がおり、長さは一二尺、両目は澄明で、二つの長い鬚があり、盆を巡ってゆくと、魚たちはみな従った。北岸に着こうとすると、所在を失った。柳翁は最後はどこで死んだか分からなかった。

   *

訳者は「龍穴」に『山の気脈の結ぶところをいう。墓穴を作るのによい』、「瓦盆」に『陶瓦製の口の広い容器』と注しておられる。]

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