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« 宿直草卷四 第二 年經し猫は化くる事 | トップページ | 宿直草卷四 第三 送り狼といふ事 »

2017/07/16

柴田宵曲 續妖異博物館 「龍に乘る」

 

 

 

 龍に乘る

 

「今昔物語」に陸奧國で鷹の子を取るのを業としてゐる男の話がある。鷹の方でも年々育てようとする子を皆取られてしまふので、大海に臨んだ屛風のやうな巖の遙か下の方に生えてゐる木の梢に巣をかけた。男は方々搜し𢌞つて、漸く巣の在るところを見付けたけれど、所詮人間の到り得べき場所ではない。失望して家に歸り、生活の途の絶えたことを歎いてゐると、鄰りの家の男がかういふ智慧を貸してくれた。この巖の上に何かしつかりした木を打ち立て、長い繩を結び付け、その繩の末に大きな籠を付けて、巣のところまで下ればいゝ、といふのである。計量はその通り實行され、鷹取りは自分が籠に入つて、鷹の巣のところに達することが出來た。先づ目的物を籠に入れて引上げて貰ひ、その次に上るつもりでゐたところ、籠はもう下りて來ない。繩を持つた滯りの男は、鷹の子を手に入れてしまふと、再び籠を下ろすことをせずに、自分だけどんどん家に歸つてしまつたのである。

 

 かういふ惡事は古來多くの話の中で、共同作業者によつて屢々繰返されてゐる。取り殘された鷹取りは、觀念して死を待つより仕方がなかつた。人間はこの期に臨んで深い自責の念を起す。この男も長年鷹の子を取り、それを育てた擧句、今度はその鷹に鳥を捕らせる。年來の罪業が身の上に報いを與へたことを思ひ、一心不亂に觀世音菩薩を念じ、この世はこれで終るとも、後世は必ず淨土に迎へ給へと祈つた。然るに觀世音菩薩の姿は見えず、大海の中から大蛇が現れて、切立てたやうな巖をするすると昇つて來た。こゝで大蛇に呑まれるくらゐなら、海に落ちて死んだ方がいゝと決心した男は、刀を拔いて大蛇の頭に突き立てる。大蛇は驚きながらも昇ることをやめなかつたので、男の身體は自然に絶壁の上に出た。氣が付いた時には大蛇はどこへ行つたか、影も形も見えなかつた。男は觀世音菩薩の冥助とよろこび、空腹の足を引き摺つて家に歸る。鄰りの男から海に落ちて死んだと聞いて、物忌(ものいみ)の札を立てて門を閉してゐた妻子は、男の無事な姿を見て淚を流してよろこんだ。

 

 鷹取りは平生深い佛心があつたわけでもないが、毎月十八日だけは精進して觀音經を讀むことを怠らなかつた。死ぬべき命を助かつて歸つた後、間もなく十八日になつたので、觀音經を讀誦するつもりで經筥(きやうばこ)をあけて見ると、經の軸に刀が立つてゐる。それは紛れもない、死を決して大蛇の頭に突き立てた自分の刀であるから、あの大蛇は全く觀世普菩薩の化身であつたと知り、直ちに髻(もとどり)を切つて法師となつた、といふのがこの結末である。

[やぶちゃん注:以上は「法華驗記」を典拠としつつ、オリジナルにインスパイアしてある「今昔物語集」の「卷第十六」の「陸奧國鷹取男依觀音助存命語第六」(陸奧國(みちのおくのくに)の鷹取の男(をのこ)觀音の助けに依りて命を存する語(こと)第六)である。

   *

 今は昔、陸奧國に住みける男、年來(としごろ)、鷹の子を下(おろ)して、要(えう)にする人に與へて、其の直(あたひ)を得て、世を渡りけり。

 鷹の樔(す)を食(く)ひたる所を見置きて、年來、下けるに、母鷹、此の事を侘びけるにや有りけむ、本(もと)の所に巣を食はずして、人の可通(かよ)ふべき樣も無き所を求めて、樔を食ひて卵(かひご)を生みつ。巖(いはほ)の屛風を立てたる樣なる崎(さき)に、下は大海(だいかい)の底ひも不知(しら)ぬ荒磯(あらいそ)にて有り。其れに、遙に下(さが)りて、生ひたる木の大海に差し覆(おほ)ひたる末(すゑ)に生みてけり。實(まこと)に、人可寄付(よりつくべ)き樣(やう)無き所なるべし。

 此の鷹取の男、鷹の子を可下(おろすべ)き時に成りにければ、例(れい)巣食ふ所を行きて見るに、何しにかは有らむずる[やぶちゃん注:反語。]、今年は樔食ひたる跡も無し。男、此れを見て、歎き悲しむで、外(ほか)を走り求むるに、更に無ければ、

「母の鷹の死にけるにや。亦、外に樔を食ひたるにや。」

と思ひて、日來(ひごろ)を經て[やぶちゃん注:毎日毎日。]、山々峰々を求め行(あ)りくに、遂に此樔の所を幽(かすか)に見付けて、喜び乍ら寄りて見るに、更に人の可通(かよ)ふべき所に非ず。上より可下(くだるべ)きに、手を立てたる樣なる巖の喬(そば)[やぶちゃん注:断崖絶壁。]也。下より可登(のぼるべ)きに、底(そこ)ゐも知らぬ大海の荒磯也。鷹の樔を見付けたりと云へども、更に力不及(およば)ずして、家に返りて、世を渡らむ事の絶えぬるを歎く。

 而るに、鄰(となり)に有る男に此の事を語る。

「我れ、常に鷹の子を取りて、國の人に與へて、其の直を得て、年の内に貯へとしては年來を經つるに、今年、既に鷹の巣を然々(しかしか)の所に生みたるに依りて、鷹の子を取る術(ずつ)絶えぬ。」

と歎くに、鄰の男の云く、

「人の構へば[やぶちゃん注:人間が何か工夫をすれば。]、自然(おのづか)ら取り得る事も有りなむ。」

と云ひて、彼の樔の所に、二人相ひ具して行きぬ。

 其の所を見て教ふる樣、

「巖の上に大なる楴(はしだて)[やぶちゃん注:「梯」。杭。]を打ち立てて、其の楴に百餘尋(ひろ)[やぶちゃん注:人体尺。一尋(比呂)は両腕を広げた長さで百五十一・五センチメートルであるから、百五十二メートル超以上。]の繩を結ひ付て、其の繩の末に大なる籠(こ)を付けて、其の籠に乘りて、樔の所に下(お)りて可取(とるべ)き也。」

と。

 鷹取の男、此れを聞きて、喜びて家に返て、籠(こ)・繩・楴(はしだて)を調へ儲(まう)けて、二人相ひ具して、樔の所に行きぬ。支度の如く楴を打ち立てて、繩を付けて、籠を結び付けて、鷹取、其の籠に乘りて、鄰の男、繩を取りて、漸(やうや)く下ろす。遙かに樔の所に至りぬ。鷹取、籠より下りて、樔の傍(かたはら)に居(ゐ)て、先づ鷹の子を取りて、翼を結びて、籠に入れて、先づ、上げつ。我れは留まりて、亦、下りむ度(たび)昇らむと爲(す)る間(あひだ)、鄰の男、籠を引き上げて鷹の子を取りて、亦、籠を不下(おろさず)して、鷹取を棄てて家に返りぬ。鷹取が家に行きて、妻子に語りて云く、

「汝が夫(をうと)は、籠に乘せて然々(しかし)か下ろしつる程に、繩切れて、海の中に落ちて死ぬ。」

と。妻子、此れを聞きて、泣き悲しむ事、限り無し。

 鷹取は樔の傍に居て、籠を待ちて昇らむとして、

「今や下ろす、下ろす。」

と待つに、籠を不下(おろさず)して日來(ひごろ)を經ぬ。狹(せば)くして少し窪める巖に居(ゐ)て、塵(ちり)許(ばか)りも身を動かさば、遙かに海に落ち入りなむとす。然れば、只、死なむ事を待ちて有るに、年來、此く罪を造ると云へども、毎月十八日に、精進にして、觀音品(くわんおむぼむ)を讀み奉りけり。爰(ここ)に思はく、

「我れ、年來、飛び翔(か)ける鷹の子を取りて、足に緒(を)を付けて繋ぎ居(す)へて、不放(はなた)ずして鳥を捕らしむ。此の罪に依りて現報を得て、忽ちに死なむとす。願くは大悲觀音、年來、恃(たの)み奉るに依りて、此の世は、今は、此くて止みぬ、後生(ごしやう)に三途(さむづ)[やぶちゃん注:ここは広義の三悪道たる地獄道・餓鬼道・畜生道。しかし、この鷹取りはちゃっかりしていて、その対世界の三善道(天上道・人間(じんかん)道・修羅道)どころか輪廻を解脱して極楽浄土へ往生させてくれと言っている。]に墮ちずして、必ず、淨土に迎へ給へ。」

と念ずる程に、大なる毒蛇(どくじや)、眼は鋺(かなまり)の如くにして、舌甞(したなめず)りをして大海(だいかい)より出でて、巖の喬(そば)より昇り來て、鷹取を呑まむとす。

 鷹取の思はく、

「我れ、蛇(じや)の爲に被呑(のま)れむよりは、海に落ち入りて死なむ。」

と思ひて、刀を拔きて、蛇(じや)の我に懸かる頭(かしら)に突き立つ。

 蛇(じや)、驚きて昇るに、鷹取、蛇に乘りて、自然(おのづか)ら岸(きし)[やぶちゃん注:断崖。]の上に昇りぬ。其の後(のち)、蛇(じや)、搔き消つ樣に失せぬ。爰(ここ)に知りぬ。

「觀音の蛇じや)と變じて、我れを助け給ふ也けり。」

と知りて、泣々(なくな)く禮拜(らいはい)して、家に返る。

 日來、物食はずして、餓へ羸(つか)れて、漸(やうや)く步みて家に返りて、門(かど)を見れば、今日、七日(なぬか)に當りて、物忌(ものいみ)の札を立てて門(かど)閉ぢたり。門を叩き、開けて入りたれば、妻子、淚を流して、先づ、返り來たれる事を喜ぶ。其の後、具(つぶ)さに事の有樣を語る。

 而る間、十八日に成りて、沐浴精進にして、觀音品を讀み奉らむが爲に、經筥(きやうばこ)を開(ひら)きて見るに、經の軸に、刀、立てり。我が彼(か)の樔にして蛇の頭(かしら)に打ち立てし刀也。

「觀音品の蛇(じや)と成りて、我れを助け給ひける。」

と思ふに、貴(たふと)く悲き事、限り無し。

 忽ちに道心を發して、髻(もとどり)を切りて法師と成りにけり。

 其の後(のち)、彌(いよい)よ勤め行ひて、永く惡心を斷つ。

 遠く、近き人、皆、此の事を聞きて、不貴(たふとば)ずと云ふ事、無し。但し、鄰の男、何(いか)に恥かりけむ。[やぶちゃん注:鷹取は。]其れを恨み惡(にく)む事、無かりけり。

 觀音の靈驗の不思議、此(かく)なむ御(おはし)ましける。世の人、此れを聞きて、專(もはら)に心を至して念じ可奉(たてまつる)べし、となむ語り傳へたるとや。

   *]

 

 この鷹取りの話によく似てゐるのが、元時代の「湛園靜語」にある。廬山の南、大江に臨んだ絶壁の中途に、藤蔓のからんだ古木があり、その上に蜂の巣が四つあつた。奧の大きさから云つて蜜の分量も大體想像出來るが、場所が場所なので誰も手が出ない。たまたま二人の樵夫が相談して、利益は山分けといふことにして蜂の巣取りにかゝつた。一人が腰に繩を付け、二三十丈も下つて蜜を取る。他の一人が繩を持つて、引上げては下ろし、引き上げては下ろししてゐたが、蜜も取り盡したと思はれる時分に、上の男は繩を切つてどこへか行つてしまつた、すべて「今昔物語」と同じ筋書である。

[やぶちゃん注:「湛園靜語」(たんえんせいご(現代仮名遣))は元の白珽(はくてい 一二四八年~?)の著。]

 

 取り殘された樵夫は不信心だつたと見えて、別に紳備に祈念を凝らしたりしてはゐない。巣に餘つてゐる蜜をすゝつて飢ゑを凌ぎながら、一路の活を求めて石の裂け目を攀ぢて行くうちに、一つの穴を見出した。深い穴の奧には蛟(みづち)か蟒(うはばみ)のやうなものが蟠(わだかま)つてゐるらしく、非常に腥(なまぎさ)い。時に大きな眼を開くと、暗い中に爛々と輝いた。樵夫は恐ろしくて堪らぬけれども、逃げる路もなし、穴の中は暖いので、出たり入つたりしてゐる。或日雷鳴が聞えると同時に、穴の中の物が俄かに動き出した。二度目の雷鳴が耳を驚かした時は、もう穴から拔け出さうとしてゐる。樵夫は運を天に任せて、巨大な物の上に攀ぢ上つたが、空中を一二里も行つたかと思ふと、忽ち地上に振り落された。倂し死にもせず、大した怪我もなかつた。――前半は洞中に蟄して動かず、後半は懸命に縋(すが)り付いてゐる形だから、その正體ははつきりせぬが、どうも尋常の蟒らしくない。雷鳴に乘じ、雲に駕して天外に飛び去る龍だらうと思はれる。

[やぶちゃん注:「一二里」以下に見る通り、原典もそうなっている。元代の一里は現在の五百五十二・九六メートルしかないから、

 これは「湛園靜語」の以下。せいぜい一キロ百メートルちょっとの短い距離である。短いと言っても、龍の身に貼り付いて、しかも空中をこの距離は私でも勘弁ではある。次段の半日は想定外である。

   *

廬山之陽、顚崖千尺、下臨大江、崖之半懸絡古木藤蔓、有蜂室其上、如五石甕者四、過而利之者、下睨無策。俄有二樵謀取之、得其利、可以共濟。於是一人縋巨木而下、約二三十丈達、得蜜無算。一人於其顚、引繩上下之。蜜且盡、則上之人欲專其利、繩而去、不顧。一人在下叫號久之、知不免、采餘蜜並其滓食之、因不饑。蹣跚石罅、得一穴、頗深暗、顧見一物、如蛟蟒蟄其中、腥穢不可近。又久之、忽開兩目如鉦、光焰爍人、然亦不動。其人怖甚、而無地可遁避、且其中氣燠可禦寒、因出沒焉、待盡而已。忽一日、雷聲作、其物蜿然而起、雷再作、則挺身由穴而出。其人自念等死爾、不若附之而去、萬一獲免。遂攀鱗而躍、約一二里頃、竟爲此物所掉著地、得不死。後訴於官、捕專利者、杖殺之。廣信朱復之説。

   *

因みに、中国の伝奇や志怪小説でしばしば不満に思うのは、現世での報恩返報に非常に拘る中国人であるはずなのに、この話のように主人公を裏切った人物(この場合、もう一人の木樵り)に対する後日談が語られないケースにしばしば遭遇することである。恰も、前半の話の導入設定をすっかり忘れてしまったかのような塩梅のものをかなり見かけるのである。或いは、書写を繰り返すうちについ漏れてしまったか、或いは実は後半を全く別人が書き加えたかとも疑われることがよくあるのである。]

 

 支那にはかういつた話がまだいくつもあるらしい。「太平廣記」に見えた韋氏の話も趙齊嵩の話も嶮しい路を馬で進むに當り、誤つて谷底に落ちる。數百丈乃至千餘仞(じん)の絶壁であるから、同行者は救ふべからずとして立ち去つてしまふが、本人は枯葉の積つた上か何かに落ちて、命に別條はない。韋氏の方は木の葉に雪を裹(つつ)んで食べたりして、一箇月もその谷底にながらへてゐると、傍の嚴穴の奧に一點の燈の如きもののあつたのが、漸く大きくなつて二つになり、遂に五六丈もある龍が姿を現し、遂に天をさして昇り去つた。その時は懼(おそ)れて見てゐるだけであつたが、暫くしてもう一つの龍が現れる さうになつた時、意を決してこれに跨がつた。龍は半日ばかり空を翔つた後、次第に低空飛行となり、海岸に近い草木などが目に入つて來たので、水に投ずる覺悟で龍から離れると、一旦絶息してまた蘇る。齊嵩の方は谷底に落ちた翌日、已に雷鳴があつて、石窟の中から雲氣が渦卷き起り、鱗甲煥然として雙角四足を具へた龍が現れる。これに跨がつて南海に到り、低空飛行の磯を窺つて身を投じ、蘆葦の間に墮ちて命を全うするあたり、韋氏と相似た成行きである。この二つの話はいづれも奇禍によつて谷底に落ちるので、鷹の子や蜂蜜を取る前日譚もなし、觀世音の御利益を知る後日譚もない。特に韋氏が女性であるのは、この種の話の中に在つて頗る異彩を放つてゐる。

[やぶちゃん注:「趙齊嵩」「ちょうせいすう」(現代仮名遣)と読んでおく。

「數百丈乃至千餘仞(じん)」話柄設定(後掲する原典参照)を唐代とする。唐代の一丈は三・一一メートルであるから、大真面目に換算すると、千八百メートル程度となり、「仞」は先に掲げた人体尺の「尋(比呂)」と同義であるから、機械的換算では千五百十五メートル越えというトンデモ落差となる。まあ、中国お得意の誇張表現だから気にすることはあるまい。

「五六丈」十六~十九メートル弱。

 最初の話は「太平廣記」の「卷第四百二十一 龍四」にある「韋氏」。「原化記」を出典としてある。

   *

京兆韋氏、名家女也、適武昌孟氏。唐大曆末、孟與妻弟韋生同選、韋生授揚子縣尉、孟授閬州錄事參軍、分路之官。韋氏從夫入蜀、路不通車輿、韋氏乘馬、從夫至駱谷口中、忽然馬驚、墜於岸下數百丈。視之杳黑、人無入路。孟生悲號、一家慟哭、無如之何。遂設祭服喪捨去。韋氏至下、墜約數丈枯葉之上、體無所損、初似悶絶、少頃而蘇。經一日、饑甚、遂取木葉裹雪而食。傍視有一岩罅、不知深淺。仰視墜處、如大井焉。分當死矣。忽於岩谷中、見光一點如燈、後更漸大、乃有二焉。漸近、是龍目也。韋懼甚、負石壁而立。此龍漸出、可長五六丈。至穴邊、騰孔而出。頃又見雙眼、復是一龍欲出。韋氏自度必死、寧爲龍所害。候龍將出、遂抱龍跨之。龍亦不顧、直躍穴外、遂騰於空。韋氏不敢下顧、任龍所之。如半日許、意疑已過萬里。試開眼下視、此龍漸低。又見江海及草木。其去地度四五丈、恐負入江、遂放身自墜、落於深草之上。良久乃蘇。韋氏不食、已經三四日矣、氣力漸憊。徐徐而行、遇一漁翁、驚非其人。韋氏問此何所、漁翁曰、「此揚子縣。」。韋氏私喜、曰、「去縣幾里。」。翁曰、「二十里。」。韋氏具述其由、兼饑渇。漁翁傷異之、舟中有茶粥、飮食之。韋氏問曰、「此縣韋少府上未到。」。翁曰、「不知到未。」。韋氏曰、「某卽韋少府之妹也。倘爲載去、至縣當厚相報。」。漁翁與載至縣門。韋少府已上數日矣。韋氏至門、遣報孟家十三姊。韋生不信、曰、「十三姊隨孟郎入蜀、那忽來此。」。韋氏令具説此由、韋生雖驚、亦未深信。出見之、其姊號哭、話其迍厄、顏色痿瘁、殆不可言。乃舍之將息、尋亦平復。韋生終有所疑。後數日、蜀中凶問果至、韋生意乃豁然、方更悲喜。追酬漁父二十千、遣人送姊入蜀。孟氏悲喜無極。後數十年、韋氏表弟裴綱、貞元中、猶爲洪州高安尉。自説其事。

   *

 後の話は「太平廣記」の同じく「龍四」の「趙齊嵩」。「博異志」を出典とする。

   *

貞元十二年、趙齊嵩選授成都縣尉、收拾行李兼及僕從、負劄以行、欲以赴任。然棧道甚險而狹、常以馬鞭拂小樹枝、遂被鞭梢繳樹、猝不可、馬又不住、遂墜馬。枝柔葉軟、不能碍輓、直至谷底、而無所損。視上直千餘仞。旁無他路、分死而已。所從僕輩無計、遂聞於官而歸。趙子進退無路、墜之翌日、忽聞雷聲殷殷、乃知天欲雨。須臾、石窟中雲氣相旋而出。俄而隨雲有巨赤斑蛇。麄合拱。鱗甲煥然。擺頭而雙角出、蜿身而四足生。奮迅鬐鬣、搖動首尾。乃知龍也。趙生自念曰、「我住亦死、乘龍出亦死、寧出而死。」。攀龍尾而附其身、龍乘雲直上、不知幾千仞、趙盡死而攀之。既而至中天、施體而行。趙生方得跨之、必死於泉矣。南視見雲水一色。乃南海也。生又歎曰。「今日不塟於山。卒於泉矣。」。而龍將到海、飛行漸低。去海一二百步、捨龍而投諸地。海岸素有蘆葦、雖墮而靡有所損。半日、乃行路逢人、問之、曰、「淸遠縣也。」。然至於縣、且無伴從憑據、人不之信、不得繾綣。迤𨓦以至長安。月餘日。達舍。家始作三七齋、僧徒大集。忽見趙生至、皆驚恐奔曰、「魂來歸。」。趙生當門而坐、妻孥輩亦恐其有復生。云、「請於日行、看有影否。」。趙生怒其家人之詐恐、不肯於日行。踈親曰。若不肯日中行、必是鬼也。」。見趙生言、猶云、「乃鬼語耳。」。良久、自叙其事、方大喜。行於危險、乘騎者可以爲戒也。

   *

「貞元十二年」は唐の徳宗の治世で西暦七九六年。]

 

 以上の話より時代が下つて「輟耕錄」の中にも「誤墮龍窟」といふのがある。或商人が難船して小さな嶋に吹き寄せられ、辛うじて岸に匍ひ上つたが、深夜の眞暗な中で穴に落ち込んでしまつた。いくらもがいても攀ぢ登れるやうな、なまやさしい穴ではない。そのうちに夜が明けたらしく、薄明りの中に無數の大蛇の蟠つてゐるのが目に入つた。はじめは恐怖に堪へなかつたけれど、彼等は商人を呑まうともせぬ。いさゝか安心すると共に、今度は俄かに腹が減つて來た。蛇は時々石壁の間にある小石を舐める外、絶えて飮食をせぬので、自分もその眞似をして小石を口に含むと不思議に飢渇を忘れる。そのうちに一日雷鳴が聞えたら、大蛇ははじめて身を動かし、穴から外へ出ようとする。これは單なる大蛇でない、神龍であるとわかつたから、その尾に縋つて地上に出で、船を搜して家に還ることが出來た。穴の中で口に含んだ小石を何十か持ち歸り、都の人に見せた結果、皆貴重な寶石と鑑定された。話としては最も單純であるが、雷鳴を聞いて龍が上騰せんとし、その機を逸せずに龍窟を脱するところは、大體前の話と步調を一にしてゐる。

[やぶちゃん注:以上は「輟耕錄」の「卷二十四」にある「誤墮龍窟」。

   *

徐彦璋云、商人某、海船失風、飄至山島、匍匐登岸、深夜昏黑、偶墜入穴、其穴險峻、不可攀緣。比明、穴中微有光、見大蛇無數、蟠結在内。始甚懼、久、稍與之狎、蛇亦無吞噬意。所苦饑渴不可當。但見蛇時時砥石壁間小石、絶不飮咽。於是商人亦漫爾取小石之、頓忘饑渇、一日、聞雷聲隱隱、蛇始伸展、相繼騰升、才知其爲神龍、遂挽蛇尾得出、附舟還家、攜所小石數十至京城、示識者、皆鴉鶻等寶石也、乃信神龍之窟多異珍焉。自此貨之、致富。璋親見商人、道其始末如此。

   *

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