ブログ980000アクセス突破記念 女の害について 火野葦平
[やぶちゃん注:底本では以前に電子化した「手」の後に配されてある(なお、前回を以って途中の未電子化部分を総て終り、従来の底本の順列電子化に戻った。底本本文は後、小説「花嫁と瓢箪」と戯曲「妖術者」及び小唄集「河童音頭」のみとなった)。単行本の所収は河童小説集である昭和四九(一九七四)年四月早川書房刊「河童」であるから、戦後の作品と考えてよいであろう。底本の傍点「ヽ」は太字とした。以下、先に簡単な語注を附しておく。
・「ベール・エムロード色」はフランス語“vert émeraude”の音写(正確には「ヴェール・エムロードゥ」)で英語の“emerald green”(エメラルド・グリーン)のことである。
・「春秋の筆法」とは五経の一書「春秋」の文章には孔子の正邪の判断が加えられているところから、「事実を述べるに対してそこに筆記者の価値判断を含ませて書く書き方、特に間接的原因を結果に直接結びつけて厳しく批判する仕方を指す。
・「松王丸の首實驗」浄瑠璃「菅原伝授手習鑑」(延享三(一七四六)年大坂竹本座初演。初代竹田出雲・竹田小出雲・三好松洛・初代並木千柳の合作。平安時代の菅原道真の失脚を中心に道真の周囲の人々の生き様を描く。四段目の切の「寺子屋の段」が特に知られる)の登場人物。梅王丸の弟、桜丸の兄で、藤原時平の舎人(とねり)。菅原道真への報恩のためにその子秀才の身代わりに自分の子の小太郎を差し出す。私は何度か文楽で見ているので意味が分かるが、不明の方はウィキの「菅原伝授手習鑑」などを参照されたい。
・『「ベニスの商人」の宮廷で、皇女の求婚者たちが、金、銀、鉛、三つの箱をえらぶ。髭もじやのモロッコ王は、金の箱に眼がくらんで失敗した。鉛の箱が幸運の使者であつた』ウィリアム・シェイクスピアの喜劇「ヴェニスの商人」(The
Merchant of Venice)のこのシークエンスは高橋葉子(西平葉子)氏のサイト「きいろい★ながれぼしの旅」の『「ヴェニスの商人」のあらすじ』が判り易い。
・「鳶口野郎」相手の河童の口の先が鳶口(伐採した木材を引き寄せたり、消火作業などに用いる長い柄の先に鳶の嘴(くちがし)のような鉄製の鋭い鉤(かぎ)を付けた道具)のように有意に曲がっていることからの卑称かと思われる。
本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが980000アクセスを突破した記念として公開する。【2017年7月18日 藪野直史】]
女の害について
まあ、聞いてくれ。いつか話さうと思つてゐた。君にかくしてもしかたがない。君がきつとやつて來ると思つてゐたが、やつぱり來たね。君が來なかつたら、おれの方で出かけるつもりだつた。噓ではない。あの女のことは、おれ以上に君が關心をもつてゐることは知つてゐたし、……、いや、もう、そんな上品ないひかたをしなくともよい。おれと君とが戀がたきであつたといふことは、はじめから明瞭だつたんだから、こんどの事件については、おれとしても、君に報告せずにはをれないわけなのだ。……まあ、さう、眼のいろかへてせかずに、おれの話を聞いてくれ。
なにも、君を出しぬいたわけぢやない。なるほど、おれはあの女とふたりでしばらく旅をすることはした。しかし、それは駈落ちでも、樂しい旅でもなかつたんだ。樂しいどころか、なんといつたらいいか、じつに、變てこりんな、不思議な、奇妙な、苦しい、馬鹿げた、そして、恐しい旅だつたんだ。見てくれ。おれはこんなに瘦せてしまつたばかりでなく、頭の皿だつて、水氣が減つて、ひびがはいつてゐる。ふさふさした毛も拔けたうへに、白くさへなつてしまつた。甲羅だつて、ほれ、こんなに乾いて、粉がふいたみたいに腐れかかつてゐる。眼もかすんでゐるし、腰の蝶番(てふつがひ)も尋常ぢやない。さつき君が人ちがひぢやないかと眼をみはつたはど、おれは變りはててゐるんだ。みんなあの女とのこんどの旅が原因なんだ。おれがどんな目にあつたかがわかるぢやないか。
そんな疑ひぶかい眼で睨むな。君はおれを信用してないのか。女はどこにゐるかつて? 女はゐるよ。居どころもわかつてゐるよ。いま話すよ。そのまへに、おれと女との變てこな旅の語を、まあ、終ひまで聞いてくれ。おれは、もう、あの女を君にゆづつてもいいくらゐに思つてゐるが、君がおれの話を聞いたら、きつと、そんな女ならもう用はないといふだらう。おれはそれを信じてゐる。
こんどの旅は、おれがいひだしたんぢやないんだ。そりや、白狀してもいいが、あの女と、どこかへ、二人きりで旅したいといふ氣持は、日ごろからあるのはあつたさ。しかし、いつもは、あの女は、いつたいおれにどんな感情をいだいてゐるのか、さつぱり見當もつかない曖昧な態度だつたし、おれがおづおづそんなことを口に出しても、鼻であしらつて、受けつけることなんて、一度もなかつたんだ。君だつてさうだつたんだらう。かくさなくたつていいよ。これまでは戀がたきで睨みあつてゐたが、今日からは友だちなんだ。なぜ、友だちかつて? そりや、最後まで話してしまへば、ひとりで合點の行くことだが、もう、あんな女、二人とも忘れてしまつて、仲よくできると思ふからなんだ。
ところで、こんどの旅は、とつぜん、女の方からいひだしたことなんだ。十日ほど前のことだ。女がやつて來て、いつにないなれなれしさで、
「たのみがあるのよ」
さういふぢやないか。じつは、白狀してもいいが、おれはもううれしさで胸がどきどきして、多分、多少うはづつた聲で、
「どんなこと? どんなことでもするよ」
と、せきこみながら答へたもんだ。
「ほんとに、どんなことでも、聞いて下さる?」
どんなことでも、に力を入れて、じつとおれの眼のなかをのぞく。おれはもう夢中だ。彼女のためなら死んでもいいと、日ごろから思つてゐたんだし、躊躇するわけもない。
「うん、どんなことでも。さあ、いつてみたまへ」
「そんなにいはれると、かへつて困るわ。そんな大變なことぢやないのよ。ちよつと旅をしなくてはならないんだけど、ひとりぢや心細いの。御迷惑かもしれないけれど、いつしよに行つていただきたいのよ」
白狀してもいいが、おれはよろこびで飛びあがつたんだ。なんの迷惑なことがあらうか。願つたりかなつたり、望むところ。しかし、おれはやつぱり男としての自尊心があつたし、あまりこちらの卑屈なこころを見すかされまいと、わざと不承不承のやうに、
「旅? 君と? ちよつと困るなあ」
「ああら、いま、どんなことでもするとおつしやつたくせに。噓つきね。さう、なら、いいわ、そんなに迷惑なのなら……」
君の名前が出さうになつたんで、おれはあわてて、
「いや、迷惑なことはないよ。迷惑なことなんてあるもんか。行くよ、行くよ」と、たわいもなく、降參してしまつた。そして、どこに、どういふ用件で行くのか、とたづねた。
「これを持つてね」と、彼女がおれに示したのは、小さな、さうだね、縱一尺、橫八寸、高さ六寸くらゐの、蓮の葉づくりの綠りいろの小筥だつた。これが問題の小筥だつたんだが、そのときはべつだん深くも氣にとめなかつた。[やぶちゃん注:「綠り」の送り仮名「り」はママ。]
「伯父さんのところへ行かなくてはならないの。伯父さんて、あんた、知らないかしら。臍無沼(へそなしぬま)の宰領(みかじめ)をしてゐるひとだけど。この白鷺川(しらさぎがは)をまつすぐにくだつて、さうね、二百キロはあるから、一日に十五キロ行くとしても、十三、四日はかかる勘定ね。そんな長旅、あたし、ひとりぢや怖(こは)いわ。とてもできない。それで、お願ひしたの。ね、無事向かふへつくまで、あたしを守つて行つて下さるわね」
「よろしいとも。そんなことくらゐ、屁の河童だよ。で、また、こつちへかへつて來るのかい」
「勿論よ」
さうして、おれたちの奇妙な旅がはじまつたといふわけさ。
おれは單に隨伴で、護衞、つまり用心棒といふところだが、白狀してもいいが、それでも樂しくないことはなかつた。惚れた女との二人旅、それに、男女のなかは異なものだから、旅をしてゐる間に、いつか、なにかのきつかけで、思ひをとげることのできる機會が來ないともかぎらない。その期待で、おれはわくわくとこころもをどつてゐた。
荒れた梅雨の名ごりもとつくにすぎたあと、白鷺川は適度の水量で、流れもおだやかだつた。水もすんでゐるし、鮒(ふな)、鮠(はや)、鰻(うなぎ)、えび、みぢんこ、など、食糧にことはかかぬし、水底の旅はまづ快適だつた。食糧採集はおれの役目だ。おれは戀人の兵站部(へいたんぶ)になることがうれしくて、魚とりに得意の手練を發揮した。彼女もほめたり、よろこんでくれたりした。夏の太陽はきらきらと、水面を光らせながら、すこしはあたためるが、底の方はひいやりとしたこころよい肌ざはりで、甲羅も、皿も、嘴も、水かきも、生涯のうちでもつとも健康、かつ快調のやうに思はれた。
ならんでゆく彼女は、いかにも美しい。彼女の豐饒(ほうぜう)で金色の頭髮、瑪瑙(めなう)のやうに靑びかりするつやつやしい皿、ルビーのやうな二つの眼、貝殼のやうな嘴、そんなものにも增して、ながれにしたがつて、濃くなつたり淡くなつたりするベール・エムロード色の甲羅と、そのこまかな網目模樣、きらに、まろやかな兩肩の線、なんともいへぬ腰のあたりのやはらかいふくらみ、それが步行にしたがつて、ゆるやかに振られる惱ましさ。――そんな恐しい眼で、おれを見るな。君はやきもちをやいてゐるのか。とんでもない。そんな彼女の姿態の虛僞といやらしさが、あとですつかりわかつたんだ。話が終るまでは、さまたげないでくれ。……
さて、まづ、出發から、三日ほどは、なんの變つたこともなく過ぎた。おれは胸のをどる期待で、彼女との結合を空想してゐたんだが、大あてはづれで、すこしいらいらして來た。白狀してもいいが、おれはもう我慢がしきれなくなつて、いつそ暴力にうつたへてもと、彼女がおれのかたはらで眠つてゐるときなど、何度か考へたこともあるんだ。だが、氣弱なおれには、それがどうしてもできなかつた。しかし、それは單におれのお人よし、優柔不斷ばかりぢやなかつた。いま考へてみてわかることがある。なにか、彼女はおれにふれさせない或る神祕なもの、といふより、えたいの知れぬ祕密なものを藏してゐたんだ。それがはじめはわからなかつたが、三日目ごろから、すこしづつ明らかになつて來たんだ。
不思議の第一は、彼女の持つてゐた小筥だ。蓮の葉で製造した箱は、たれでも持つてゐるし、すこしも珍しいものではない。その筥も筥自體はきはめてありふれたもので、注目をひくものはなにもないのだが、その小筥を所持してゐる女の態度が、ただごとではないのだつた。
「その筥、僕が持つてあげよう」
おれは何度さういつたかしれない。こちらは惚れた弱味の用心棒で、お伴だから、それくらゐの奉仕は當然だらうぢやないか。か弱い女に荷物を持たせて、(それに、大變重さうだつた。筥自體の重さはしれたものだから、入つてゐるものが思ひやられた)大の男が手ぶらで步く法はない。しかし、おれが何度さういつても、彼女は、いいのよ、いいのよ、と頑固に首をふつて、おれに持たせようとしない。
「そんなにまでして貰はなくともいいのよ」
「でも、重さうだから、持ちたくてしかがないのだから、家來にかつがせたらどうだね」
「いいのよ。これは着くまで、あたしが持つて行く」
あんまり重さうにしてゐるので、つい見かねて、また、持たうといつてしまふのだが、
おれがしつこく(歡心を得たいためとはいへ、こちらはまつたくの親切心からなのに)同じことをくりかへすと、しまひには、彼女はするどい猜疑(さいぎ)のまなざしで、おれを睨むやうにするのだつた。その眼のいろには、あきらかに、持つて逃げるのではないかといふ疑ひの光があつて、さらに、だまさうたつて渡すものかといふ反撥の氣配さへあつて、おれは情なく、また腹だたしくもなるのだつた。
それよりも、
「その小筥、ずゐぶん大切にしてゐるが、どんな大事なものが入つてるんだね?」
さう聞いたときの、彼女のすさまじいばかりの凝視を、わすれることができない。女でもこんな恐しい眼ができるものだらうか。その眼はもはや猜疑といふよりも、一種脅迫のいろさへおびてゐて、おれは恐怖で心臟が凍る思ひにすらなつた。なにが入つてゐるのか、さういふ好奇心はたれでもおこるものだし、こちらも氣輕に聞いたつもりだつたのに、彼女をこんなにもおどろかし、また思ひがけぬすさまじい逆反應をおこさうなどとは、夢想だにしなかつたのだ。
おれがびつくりして、どぎまぎと默つてしまふと、女は、急に、にこにこと不自然な笑顏になつて、
「お願ひだから、二度と、そんなことを聞かないでね」
機嫌をとるやうに、おれの顏をのぞきこんで、媚態(びたい)に似たものを示すのだつた。
おれの好奇心と疑惑とは、彼女への慕情のせつなさと平行し、あるひは交錯しつつ、日とともに高まつた。つまり、いろいろな意味で、彼女はしだいにおれを惱まし、苦しめはじめたのだ。
女の小筥にたいする態度は、どう考へても、尋常とは思はれない。愛着とか愛撫とかいふやうな種類の感情ではなく、もつと別の、極端にいへば、ふとなにか不純なものさへ感じさせる、大事がりやうである。かたときも、自分の手からはなさないのは無論のこと、きたない話だが、大小便の用たしにもちやんとかかへて行くし、おどろいたことには、眠るときには、その筥をしつかりと、葛の紐で自分のからだにくくりつけるのだ。おれは不愉快と情なさで、自分を泥棒と思ふのかと、どなりつけたい衝動をしばしば感じた。しかし、そこが惚れた弱味、彼女の自分への不信にたいして、ひとことも、抗議の言葉をはくことができないのだつた。
ところが、彼女がおれを苦しめたのは、そればかりではない。氣をつけてみると、彼女の行動は、一から十まで、不可解至極といつてよかつた。
彼女は步行の途中でも、いきなり、おれにしがみついて、おれをおどろかせた。おれたちは、水中ばかり步いてゐたのではない。ときには氣ばらしに、岸を步いた。ただ、岸を行くことは多少の危險がともなふので、主としてこころおきない水底をえらんだのだ。おれたち河童は、姿を消すことはできるけれども、それは完全には安全といふわけにいかぬ。そのことは、君もよく知つてゐるとほりだ。人間のなかには河童の習慣を知つてゐる奴がゐるので、油斷はならぬ。仲間がたびたび遭難してゐる。傳説の掟はきびしくて、變更することができない。水かきのある平べたい足音は、よつぽど注意せぬと、地獄耳の人間に聞かれるおそれがあるし、おれたちが步いて行くと川風がかならずおこるし、おれたちの身體から發散する特有なにほひは、なんとしても消しがたい。そこで、この長い道中を、おれたちは主として水底を行つたのだ。
そんなとき、彼女がおれにしがみつくのだ。おれはびつくりする。しかし、白狀してもいいが、はじめはおれはうれしさで、ぞくぞくしたのだ。彼女がおれをどう思つてゐるのか、おれには皆目見當がたたないのだが、理由のいかんにしろ、彼女がおれにしがみつく、つまり、だきつくといふのは、おれに好意がなければ、できないことぢやあるまいか。君だつて、さう思ふだらう。……また、君は睨んでゐるな。早合點せずに聞けよ。……おれはだきつかれて、身ぶるひする思ひがした。ふつくらとゆたかな女の體溫が、おれの心臟までとどく氣がする。女の身體がぴつたりとおれに密着してゐる。しつかりとおれにだきついてゐる。もつとも、そんなときでも彼女は蓮葉の小筥をはなさないのだから、片手がおれの身體を卷いてゐるわけなのだが。
機會の到來がおれを興奮させた。おれの誠意が彼女に通じたのだ。彼女は、しかし、これまでおれへつらく當つて來たことをてれて、唐突な愛情の表現で、おれの求愛にこたへようとしたのだ。おれはさう信じた。たれもゐない水底で、しつかりと女にだきつかれれば、たれだつてさう思はうぢやないか。おれも思つた。おれは身體中の血がたぎつて來た。そして、女の表現にこたへるために、彼女を抱擁し、接吻し、そして、さらにもつとふかい結合をしたいと思つた。
ところが、なんとしたことか。おれが彼女を抱かうとして、滿足の眼を彼女の顏にそそいだ瞬間、おれの心臟はとつぜん冷却した。恐怖に靑ざめてゐる彼女の顏、眼はひきつり、嘴はふるへ、頭髮はぶるぶるとゆらいでゐる。頭髮のみでなく、彼女の身體全體が小きざみにふるへてゐて、おれの身體とうちあつて、がちがちと鳴つてゐるのだ。どこにも愛情の表現などはない。さすがのおれも、助平根性をふりすてざるを得なかつた。
そして、こちらも奇妙に不安な氣特になつて、
「どうしたのかね、どうしたのかね」
と、うはづつた聲で聞いてゐた。
「あそこを見て」
彼女の恐怖におののくまなざしのつきささつてゐる場所に、おれも眼を轉じた。
もりあがつた岩と岩との間に、藻が森林のやうにつづき、そのうへをいくつかの菱の實が黑豆のやうにただよつてゐる。おれたちが行くと、魚たちは退散してしまふので、岩のうへに、一匹の源五郎がゐるほか、魚の姿も見えない。白晝の光があかるく全體をかがやかしてゐる。それだけのありふれた川底の風景にすぎぬ。とりたてて不思議なものも、まして、彼女が恐怖に靑ざめるやうなものは、なにもない。おれは氣あひぬけがしたが、やさしい聲で、
「なんにもありはしないよ」
と、なぐさめるやうにいつた。
「ほんとに、なんにも見えないの?」
「恐しいものなんて、小豆(あづき)粒ほどもないよ」
「ほんとに」彼女はほつとしたやうに、「もう見えない。消えてしまつたわ」
「消えた? さつきはなにかあつたのかね」
「いいのよ。あんたが見なかつたら。……さ、すこし急ぎませう」
かういふことが、たびたびあつた。
それからでも、いきなりしがみつかれると、やつぱり、未練なおれは、もしやと思ふのだが、いつの場合でも、彼女がなにかの幻影におびえてゐるだけで、おれの願望は果されなかつた。
それにしても、彼女はなにを見てゐるのだらうか。いくら眼をこらしても、おれは彼女の見てゐるものを理解することができなかつた。
「あれが見えないの、怖い、怖い」
囈言(うはごと)のやうに、さう叫んで指さしてゐるときでも、おれの眼には平凡な水底の風景しかうつらないのだ。
步いてゐるときだけではなく、彼女は眠つてゐるときでも、なにかにおびやかされ、魘(うな)される。恐しい夢を見てゐるやうに、呻き聲を發し、眼をひきつらせ、七轉八倒する。しきりに、なにごとか口走るが、その意味は、どうしても聞きとれない。いまにも死ぬかと思はれるやうなときがあつて、おれがゆりおこすと、きよとんと意識づき、はつとしたやうに、蓮葉の筥をだきしめる。おれの顏を疑ひぶかさうにながめ、ふいに、につこり媚態を示す。
なんの亡靈に惱まされてゐるのか? もとより、おれにわからう筈もない。しかし、彼女の祕密が、ともかく、狂氣じみた守りやうで、肌身はなさぬ蓮葉の筥にあることは、もはや疑ふ餘地はないと思つた。
「臍無沼に行つても、伯父さんがゐるかどうかわからない。でも、行かなくてはならないの。租先からの動かしがたい戒律が、あたしにさういふ宿命をつくつてゐるの。この重い運命に耐へなければならないわ。あたしはもし伯父さんがゐなくても、その絶望と、もう一度たたかつてみるつもりなのよ」
彼女の言葉の眞の意味はなんであらうか。深刻すぎて、おれにわかる筈もないのだが、その崇高な女の決意は、すこぶるおれを感動させた。その女の悲しさは、彼女をきらに美しく見せ、おれの慕情をいやがうへにも燃えたたせた。さうして、同時に、すべての彼女の精紳と肉體の祕密をあかす鍵が、蓮葉の筥にあることも確信するとともに、おれはもうその筥になにが入つてゐるかを知りたくてたまらなくなつて來た。出發以來の彼女のすべての行動が、ことごとく小筥につながつてゐるにちがひないことを、どうして疑ふことができよう。
おれは、やがて、狡猾(かうくわつ)のこころで、女の祕密をのぞく機會を待つた。同時に、祕密にむすびつけられてゐる彼女のすべての行爲が、さらに魅惑的となつて、彼女の美しさをいちだんと增した。いまや、おれ自身の精神と肉體とのどんな感度も、反應も、もはや彼女ときりはなしては(といふことは、春秋の筆法ではないが、小筥ときりはなしては)考へられなくなり、意味をなさなくなつたのだ。
なにが入つてゐるかと聞いてさへ、氣色を損じるのだから、彼女の口から語らせることの不可能はいふまでもない。とすれば、自分で中をのぞく以外に、手段はないわけだ。ところが、彼女が肉體の一部のやうに、常住、筥をはなさぬので、目的達成の困難ははかり知れぬものがあつた。――それにしても、彼女がほとんど死守してゐるこの玉手箱には、いつたい、なにが入つてゐるのだらうか? わからねばわからぬはど、考へてみたいが人情だ。おれはいろいろと考へめぐらした。その想像は樂しかつた。戀人の美しさと魅力の根源となつてゐるものをつきとめる。彼女の幻影の正體を知る。これ以上、惚れた者としての滿足のないことば、君にもわからう。松王丸の首實驗のやうな野暮なものである筈はない。パンドラの匣(はこ)に似てゐるか? サンタ・クロスの靴下か? それとも、人間の尻子玉(しりこだま)か? うかつに斷定できぬ。「ベニスの商人」の宮廷で、皇女の求婚者たちが、金、銀、鉛、三つの箱をえらぶ。髭もじやのモロッコ王は、金の箱に眼がくらんで失敗した。鉛の箱が幸運の使者であつた。いまは、自分の戀人の筥は一つしかない。迷ふところはない。機會を待つだけだ。……おれはそのときのことを考へ、顏はほてり、動悸はうち、苦しく、樂しく、さうして、いつか、せつなく、なにかにむかつて祈つてゐた。
「やつと、半分來たわね。あなたのおかげよ。ひとりでなら、とても、一日も步けやしなかつたわ。お禮いふわ」
「そんな水くさいことはいはないで貰ひたいな。あなたを守るのは、僕の義務なんだ。どこまででも、あなたのお伴をして行くよ」
「ほんとに、あなた、親切だわ」
ふつと、彼女が淚ぐんだやうな氣がした。旅のつかれで、強氣の彼女もいくらか氣弱になつてゐたのであらうか。
感傷は生理の狀態に關係ぶかいもののやうに思はれる。
「僕は幸福だと思つてゐるのだよ」と、おれはいくらか圖に乘つて、「あなたのお役に立てたこと、生涯の滿足だ。僕は僕だけのありたけのまごころと、……それから、……愛情とを」この愛情といふ言葉がなかなか出なかつた。出てしまふと、一瀉千里(いつしやせんり)、「あなただけにさきげて來たんだ。これまでだつて、さうだつたし、これからだつて變らない。金輪際(こんりんざい)、僕の心はかはらない。あなたが僕をどう思つてゐたつて、そんなことはどうだつていいんだ。そりや、僕はあなたから愛されたいと思ふ。しかし、そんなことを強要しようとは思はないし、たとへ輕蔑されても本望なんだ。愛は惜しみなく奪ふのではなくて、與ふなんだ。僕は、そりや、一度でも、あなたの抱擁を得られたなら……」
このとき、彼女はおれをひしと抱いた。幸福で、おれは眼まひを感じた。いま、このままの姿勢で、消えてなくなるならなくなれ。そんなに、きらきら眼を光らすな。いちいち、うるさい男だ。彼女はなにもおれの愛情をうけ入れたわけぢやなかつたんだ。やつぱり、あれだつたんだ。いい氣になつたおれは、彼女の唇を盜まうとしたんだが、なんだ、やつぱり彼女はまた幻影におびえてゐたんだ。おれなんか見てゐやしない。そのときは森のなかにゐたが、あらぬ天の一角を凝視して、ふるへてゐる。
おれはがつかりして、手をはなした。
つひに、宿望の筥をかいま見るときがおとづれた。
半分來た旅路ののこり半分を、また半分ほどすぎた或る夕方のこと、おれたちは、すこし流れの早くなつた川岸にゐた。そこは人跡まれなふかい溪谷で、西側はきりたつた崖壁が屛風をつらねたやうにつづいてゐる場所だつたので、全く人間に顧慮する要がなかつた。水中の旅もたのしいが、幽邃(ゆうすゐ)の地上の行程も、またすてがたい。人間への危險がなければ、畢調な水底よりも、どちらかといふと、地上の方がよい。おれたらは、その二日ほどは、陸上が多く、猿が崖のうへを群れとんでゐるその深い溪谷の曲り角に來て、ひとやすみしたのであつた。
さすがに彼女の面輪(おもわ)にはつかれが見えてゐた。こころもち、頰がくぼみ、ふさふさした髮がみだれて、太陽や水の光線にしたがつて、濃淡のあやを敏感にうつしだすべール・エムロードいろの甲羅のほそい網目模樣も、どこかにゆるみが來、その何枚かはよごれ乾いてゐた。また、いつどこで打つたのか、眉や膝や股にかすり傷ができ、鮑(あはび)の裏のやうに光つてゐた瀟洒(せうしや)な嘴も、いろがあせて見えるうへに、缺けてゐるところがあつた。しかし、美しいものは、どんな變化もまた別の美しさに見えるものだ。それとも、惚れた眼には、あばたもえくぼといふあれか。おれはさういふ彼女へさらに慕情が高まるばかりで、岩鼻にちよこんと腰をおろし、猫背になつた姿勢で、もの思はしげなうつろな眼を、とき折白い飛沫をたてる流れへじっと投げてゐる女のすがたを、ほれぼれとながめてゐた。
夕やけ雲からさそひだされた、たそがれの光りが、崖の間をぬひ、そのなかに蝙蝠(こうもり)がとびかひはじめたとき、彼女がふいと立ちあがつた。
「ちよつと」
その表情と言葉とは、放をつづけてゐて馴れてゐた。彼女は便意をもよほしたのだ。大小はわからないが、淑女であるから、おれの眼のとどかぬところへ行くのは論をまたぬ。
「どうぞ」
いつものとほりさういつたが、いつもでないことが起つた。
「これ、ここに置いとくわ。腕がつかれて、もう持つて用たしができさうもないの。張り番しててね」
なにを思つたのか、彼女はこれまで肌身をはなきなかつた蓮葉の小筥を、いままで腰をおろしてゐた岩のうへに、そつと置いた。
「大丈夫だよ」
おれは内心しめたと、胸をどきどきさせながら、なにげない樣子で答へた。
「お願ひするわ」と行きかけたが、何步もゆかぬうち、ひきかへして來て、
「あなた、これ、見ないでね」
と、おれを睨むやうにした。
「見るもんか。君の禁止令には、もう最初から服從してるぢやないか」
「きつとよ」
彼女のやさしい眼は、まるでくるりと眼玉をいれかへたやうに邪慳(じやけん)に變り、猜疑と脅迫のつめたい光が、ぞつとするするどさで、おれの顏をつきさした。もし見でもしたら承知せぬ、どんなことになるかわからないぞ――その眼はたしかにさう語つてゐた。にもかかはらず、愚かなおれは、そのときになつても、まだ、その眼すら美しいなどと考へてゐたのだ。
「見やしないよ。安心して行きたまへ」
おれは、こんな筥問題でないといふやうにいつた。[やぶちゃん注:「筥問題でない」はママ。「筥、問題ではない」。]
彼女はふりかへりふりかへり、蔦(つた)のはひのぼつてゐる岩壁のかげに消えた。
この機を逸してよからうか。おれはもうほとんど逆上狀態といつてもよかつた。冒險への志向はひとを勇者にするが、盲目にもする。おれは自分の裏ぎりを彼女へ發見された場合、どんなことになるのか、明確な算定はすこしもできてゐなかつた。しかし、もうおれの恣意(しい)は計畫をこえてゐた。同時に、この祕密を知ることによつて、女の根源のものを、愛情のかたちに還元し得る。ああ、むづかしいいひかたはすまい。白狀してしまつていい。おれは祕密を知ることによつて、女の心を自分にひきつける方策を確立し得ると思つたのだ。そして、……ええ、これも白狀してしまへ。……もし發見されたとしても、女が自分へ危害を加へるどころか、祕密をにぎられた弱味で、かへつて急速に自分になびく結果になるのではないか。さういふ蟲のよい計算ができてゐたのだ。
それにしても、宿望たる小筥をひらく機會にめぐりあつたことで、おれは興奮でふるへた。すばやく、おれは綠の小筥に手をかけた。手もふるへた。
ところが、まんまと失敗したのだ。手をかけるのと、かへつて來る足音がきこえるのとが同時で、おれははつと手をひいた。素知らぬ顏になつて、膝をだき、はるか高い崖のうへを走る猿の群を見た。
「あなた!」
はげしくするどい氷のやうな聲に、おれはぎくつとふりむいた。怒りにみちた眼がおれをまつすぐに見くだしてゐた。
「なんだい」
「あんなに見てはいけないといつたのに、見なさつたわね」
「冗談いふなよ。見るもんか。おれはそんな噓つきぢやないよ」
「それでも、あたしが筥の角を、この岩の條目(すぢめ)にあはせて行つたのに、動いてゐるわ」
おれは返事ができなかつた。彼女の筥への執着と、綿密な警戒心にあきれるばかりで、ただ、見ない、見ない、とくり返すほかなかつた。仔細に筥を點檢してゐた彼女も、やつと、中を見られてゐないことを知つた模樣で、安心した顏つきになると、
「ごらんになつてはゐないやうね。疑つてすまなかつたわ。ごめんなさい」
と、機嫌をとるやうに、握手をもとめて來た。
しかし、おれは、もう、意地になつてゐた。狂氣じみた好奇と、奇妙な復讐めいた觀念にとらはれてゐた。そして、その翌日のたそがれどき、同じやうな場所で、同じやうな狀態がおとずれたとき、たうとう筥のなかを見てしまつたのだ。
例によつて見るなと念をおして、排泄(はいせつ)のため去つたあと、ふるへる手つきで、必死の氣組でおしひらいたその蓮葉の小筥なかには、なんと、なんにも入つてはゐなかつた。正眞正銘のからつぽだつた。[やぶちゃん注:「小筥なかには」はママ。「小筥のなかには」の脱字であろう。]
どうだ。はじめに、おれのいつたことがわかつただらう。なんとつまらぬ女ぢやないか。深刻さうに見えたばかりで、なんにもありはしなかつたんだ。おれは白けはてて、いつペんに女への關心がさめてしまつたのだ。君だつて、さうだらう。こんな女は問題にするにたらんぢやないか。君も忘れてしまつた方がいいよ。
お、なにをする? なにを亂暴するんだ。あいた! おい、やめろ! なにをするんだ。わけをいへ。……なに? ――貴様はこんな話をして、おれを女から遠ざけて、自分が獨占するつもりだらう、つて? 筥を見てから、いつそう女が好きになつたんだらう、つて? ちがふよ。らがふよ。なにを誤解してるんだ。……あいた、亂暴はやめろ。そんな無茶な。話せば、わかる。……話してもわからぬ? 畜生、たうとう看破されたか。案外、貴樣は頭のいい奴だ。おう、白狀してもいい。あの女はおれのものだ。貴樣なんかにとられてたまるもんか……くそ、力の強い奴だ。よし、來い。相手になつてやる。……ええい、うぬ、これでもくらへ!……畜生、……あいた、やりやがつたな。この鳶口野郎奴! うぬ!……
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