宿直草卷五 第十 京師に、人、失る事
第十 京師(けいし)に、人、失(うす)る事
所司代多賀某(なにがし)と云ふは、先(さき)ら、目出度き人なり。
この時、京分限(ぶげん)なる町人の子、多く失せたり。十人に一人、歸る者はなし。親、悲しび合ひて、これを訴ふ。
所司代、不思議に思ひ、ある夜、只一人、しかも町人の振り、途子(づし)・小路、巡り給ふに、唐白の音も靜まる小夜更(さよふけ)て、十七、八の女房、袖の移り香、えならぬまでに仄(ほの)めくが、五條の邊り、たゞ獨り行くに遭ふ。
「夜もいたく更(ふけ)しに、何處(いづこ)へか、通り給ふ。」
とあれば、
「三條邊りへ參る。」
と云ふ。
「送り參らすべきか。」
とあれば、
「一(いつ)の情にまことなりや。」
と云ひ、斟酌までに及ばざれば、
『是らこそ妖(あや)しの物なれ。』
と思ひ、女房を先に立(たて)て、手を取り組みて行き給ふ。情に死ねと言の葉の、數もますます重なれば、行くべき三條に着きけり。
「妾(わらは)が住家(すみか)は、これなり。」
と、門、打ち叩きければ、内より同じ樣なる女、二、三人、立ち出(いで)て、
「さてさて、送り給ふ事、かたじけなし。」
と、手を取り、
「まづ入(いり)給へ。」
と云ふ。
「いや。是までなり。」
とあれば、
「先(まづ)。」
と止(と)むる。
『さらば。内見ん。』
と思(おぼ)して、入給ふに、御酒(みき)汲みて、いろいろもてなすにも、猶、寛(くつろ)ぎ給はざるに、例の女房、
「夜も更(ふけ)侍らへば、これにて明かさせ給へ。殊更、道すらも淺からぬまで云ひ交(かは)せしも忘れがたく侍る。たゞ、敷妙(しきたへ)の枕に語らん。傾ふき給へ。」
と、まことしやかに云ふ。
所司代、げに、聊(いさゝ)か兼(か)ねしことの恥づかしきばかりなれば、
「添ひ寢の床(とこ)に、心の底も解(ほど)きたくさふらへども、今宵は歸らでかなはず。まこと御心ざしましまして、御情(なさけ)も變らでおはしまさば、必ず、翌(あす)の夜、參るべし。見捨て給ふな。」
など懇(ねんご)ろに兼ねて、暇(いとま)乞ふて出で給へり。女は、
「然(しか)らば。」
と堅き言(ごと)して許す。
「さては、怪しの所なり。」
とて、雜色(ざうしき)に言ひ付(つけ)、その翌くる日、かの家、闕所(けつしよ)し給ふに、女七、八人、男十人ばかり、召し捕る。
家内に井戸掘りて、人多く殺して、尸(かばね)をこれに隱す。
この事あらはれて後は、人、更に失せず。
役(やく)に備はる人は、其智、目出度くこそ侍れ。
獨り行くは危なくも侍る。
[やぶちゃん注:完全な疑似怪談というか、犯罪掌篇物で、本書の中ではかなり異質な部類の話柄であると思われる。
「所司代多賀某」「多賀」姓で、しかも才気煥発で名所司代として知られた人物となると、室町後期から戦国前期に生きた多賀高忠(応永三二(一四二五)年~文明一八(一四八六)年)である。室町中期の守護大名で幕府侍所頭人兼山城守護などを歴任した京極高数の子。ウィキの「多賀高忠」によれば、主君であった『京極持清は従兄でもあり、その片腕として活躍』、寛正三(一四六二)年に『京都侍所所司代を任ぜられ、土一揆鎮圧と治安維持で名を挙げた』が、文正元(一四六六)年十二月、『持清が延暦寺と衝突して失脚すると共に解任され』てしまう。翌、応仁元(一四六七)年に『応仁の乱が勃発すると持清と』『細川勝元ら東軍に属し、西軍の六角高頼らを圧倒して山城に如意岳城を築いた』。文明元(一四六九)年には『六角氏の本拠である観音寺城を一時制圧して』第八『代将軍足利義政から直々に感状を授けられた』。ところが、『翌年に持清が病死、子の政経を庇護して京極高清、京極政光、六角高頼、多賀清直・宗直父子らの勢力に一時優勢を保つも』、文明四(一四七二)年に『敗走、政経と共に越前へ逃れ』たが、三年後の文明七年に『出雲の国人を擁して再起し、六角高頼らと戦って勝利を納めるが、西軍の土岐成頼と斎藤妙椿、斯波義廉が援軍に付いたことによ』って敗北、『三沢氏ら有力国衆を戦死させて敗退した』。文明九年の『応仁の乱終結後も本拠である近江犬上郡甲良荘下之郷(現在の滋賀県犬上郡甲良町下之郷)には復帰できず、京都での隠棲生活を余儀なくされていた』。しかし、文明十七年四月十五日(一四八五年五月二十八日)、『室町幕府に召されて』二『度目の京都侍所所司代を任ぜられると、幕命を受けて山城国内の土一揆を鎮圧し、京都市中の再建にも尽力したが、翌年に世を去った』。『高忠は武家故実に明るく』、『小笠原持長に弓術を学び、『高忠聞書』を著した。『高忠聞書』は弓術における研究資料、及び当時の故実を知る史料として現在まで重要な役割を果たしている。この他に和歌・連歌にも通じるなど、当時の知識人の』一人であったとあるから、まず彼がモデルと考えてよい(下線やぶちゃん)。この事実から考えるならば、彼が京都所司代であったのは一回目の四年と死の直前の一年となり、話柄内の様子からは、一回目がしっくりくる。その場合、本話は恐らく「宿直草」の中で具体的年代がはっきりと判るものとしては、最古のものということになろう。
「先ら」「ら」は接尾語か。才気の現実に現われたものを指し、弁舌や才知などを指す。
「分限(ぶげん)」金持ち。「ぶげん」は底本のルビであるが、「ぶんげん」とも読む。
「町人の子」「子」とあるが、結末から見ても幼児や少年少女ではない。大枚を持った豪商の十代後半か二十代前半の子女らである。
「途子」原典は「づし」。底本は「辻」(ルビなし)とする(岩波文庫版は収録しない)。「づし」は「圖子」とも書き、「大路と大路を結ぶ小路」或いは「辻」を指す語であるここは後者でとっておく。私は底本の「辻」は結果論的には正しくても、意訳ともいうべき漢字化であって「づし」というルビさえも振っていない点で断固、支持出来ない。
「斟酌までに及ばざれば」遠慮したり、躊躇(ためら)ったりする様子が全く見られなかったので。
「手を取り組みて」手を懐へ入れて軽く組んだようにしたのであろう。懐には小刀(さすが)があるに違いない。因みに、この時代、短刀は町人が護身用に持っていても別に不思議ではなかった。
「情に死ねと言の葉の、數もますます重なれば」不詳。その女の方から多賀に対して、意味ありげな如何にも艶めかしい雰囲気の語りかけが何度もあったということであろうか? 識者の御教授を乞う。
『「先(まづ)。」と止(と)むる』ここは底本では「先(まづ)とゞむる」となっているのであるが、原典を見ると、「先(まづ)ととむる」としか読めず、少なくとも「ゞ」と判読は出来ない。台詞と展開の自然さから私がかく表記化した。
「道すらも」送って戴いた「道すがらも」か「短いわずかな道中の間も」の意。
「傾ふき給へ」既出既注。ここは女の方からのあからさまな「妾(わらわ)と共寝して下さいましな」という誘いである。売春を誘いかけて、金品を奪って後に殺害、井戸に遺体を隠すという犯罪者集団だったのである。
「まことしやかに云ふ」如何にも心底、そう思っているかのように艶めかしく誘いをかけて言う。
「聊(いさゝ)か兼(か)ねしことの恥づかしきばかりなれば」ちょっと(普通の人間ならば)その誘いの言葉に思わずのってしまいそうな、如何にも照れ臭い気がしてくるような誘惑の雰囲気ばかりが波状的に襲ってくるので。多賀自身が、その言葉にふらふらっとのってしましそうな、という意でとることも可能であるが、それでは話柄としては格が落ちて、逆につまらぬ。次の多賀の決然とした措置が曇ってしまうからである。
「然(しか)らば」「きっと、よ!」。
「堅き言(ごと)」堅い約束の言葉を交わして。
「雜色(ざうしき)」この時代設定ならば、狭義には室町幕府下で侍所に属した最下級役人を指すが、ここは実際に本話が書かれた江戸初期の、より拡大した用法で、京の行政・警察・司法の業務を広汎に補佐した半官半民的な役人、最下層の危険な実務執行を担当した連中を念頭においているように感じる。
「闕所(けつしよ)」家屋敷や動産などを没収する処罰であるが、これが実際に書かれた江戸時代に於いては「闕所」は死刑及び追放刑に処せられた者を対象として行われた付加刑であった。ここはしかし、その関係が逆転しており、先に否応なしに怪しい連中がいるからというだけでそこを「闕所」とした上で調べて見たら、かくなる忌まわしい犯罪者集団の巣窟であり、井戸から死体(京の町屋の金持ちの子女らのそれ)がごろごろ出てきたというのである。小さな処罰が先にあって猟奇的な巨悪の犯罪が暴露されたにしろ、乱暴極まりない処理法ではある。]